奈良県高市郡明日香村 岡寺 2016年4月下旬撮影
①岡寺を創建した義淵を育てたのは天武天皇?天智天皇?
ウィキペディアにこんな記述があります。 『東大寺要録』「義淵伝」、『扶桑略記』等によれば、天武天皇の皇子で27歳で早世した草壁皇子の住んだ岡宮の跡に義淵僧正が創建したとされる。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%AF%BA より引用
(義淵は)『扶桑略記』や『東大寺要録』では、父母が長年観音菩薩に祈願して授かった子で、天武天皇により皇子とともに岡本宮で養育されたという。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E6%B7%B5 より引用 ところが岡寺のhpには次のようにあります。 開祖の義淵僧正とは伝説にみちた人で、生年不明(?~728)。ただ出生には伝説が残されています。 大和国高市郡に子供に恵まれない夫婦がおり、彼等は日々観音様に子が授かるよう祈りを捧げていました。 そんなある日の夜突然子供の泣き声がして、夫婦が表に出てみると柴垣の上に白い布に包まれた赤子がおり、驚き中に連れて入ると馥郁たる香りがたちまちに家の中に満ちました。 その後この夫婦に養育されていましたが、その噂を聞いた天智天皇は観音様の申し子だとしてこの子供を引き取られ、岡宮で草壁皇子(662~689)とともに育てられました。 この子供こそ後の義淵僧正その人である。というのが出生の伝説です。
後に義淵僧正は草壁皇子とともに育ったと言われる岡宮の地を与えられ、龍蓋寺を建立されました。http://www.okadera3307.com/about/ より引用 ウィキペディアでは義淵は天武天皇に育てられたとなっていますが、 岡寺のhpには義淵は草壁皇子とともに天智天皇に育てられたとなっています。 いったいどちらが正しいんでしょうか? ②岡宮と岡本宮は別?また、草壁皇子が住んでいた岡宮とは岡本宮(雷丘のふもとにあり630年舒明天皇が遷宮した。その後656年に斉明天皇が新宮殿をたてた。)とは別の宮なんでしょうか? 岡宮でググってみてもでてきません。(調べたりないのかもですが~) ③即位せず亡くなった皇太子
草壁皇子は662年、大海人皇子(のちの天武天皇)、鸕野讃良皇女(のちの持統天皇)の間に生まれました。 672年、天智天皇が崩御したのち、大海人皇子(天智天皇弟)vs大友皇子(天智天皇皇子)間で皇位継承をめぐる戦争がおきます。(壬申の乱) 結果、大海人皇子が勝利して673年に即位(天武天皇)しました。 681年、天武天皇の皇子・草壁皇子が皇太子となりました。 686年、病を患った天武天皇は「天下の事は大小を問わずことごとく皇后及び皇太子に報告せよ」と勅。 鸕野讃良皇女と草壁皇子が政務を執るようになり、天武天皇は9月に崩御しました。 686年9月、川島皇子が「大津皇子が謀反を企てている」と密告、大津皇子は捕らえられ、自害してはてました。 しかしすぐに草壁皇子が即位することはありませんでした。 そして689年4月、草壁皇子は即位することなく亡くなり、 鸕野讃良が女帝として即位しました。(持統天皇) ④草壁皇子の死因は不明?https://blog.goo.ne.jp/codaisinonazo/e/f9022a8776a57440f009b8ac0b953926上の記事によると、 日本書紀は草壁皇子の薨去を「亡くなった」と記すのみ。 「御病したまう」とか、病気平癒を願って何人得度させたなどの記述はない。 草壁皇子の娘の氷高皇女(元正天皇)が病気になった時、持統天皇は140人を出家させた。 明日香皇女(天智帝の娘/?~700)年)の病気の時にも104人を出家させている。 とあります。 実際に日本書紀の記述がどうなっているのか、知りたいと思いますが、探したりないせいか、見つかりませんでした。 ⑤草壁皇子、死後岡宮御宇天皇と追尊される。
草壁皇子は即位しませんでしたが、死後,淳仁天皇即位後の758年に岡宮御宇天皇という称号が送られました。 たぶん淳仁天皇によって追尊されたのではないかと思います。 淳仁天皇は天武天皇の孫で、舎人親王の子です。 舎人親王の父親は天武天皇、母親は新田部皇女です。 草壁皇子は天武天皇と持統天皇の間に生まれた御子です。 つまり、草壁皇子は淳仁天皇の叔父にあたるわけです。 ⑥淳仁天皇はなぜ叔父の草壁皇子に天皇の称号をおくったのか?同じように天皇にはなりませんでしたが、死後天皇の称号が送られた人物に志貴皇子がいます。 志貴皇子は子の光仁天皇によって春日宮御宇天皇と追尊されたのです。 天皇として即位した天皇が、父親に天皇の称号を送るのはありえそうに思えます。 しかし、淳仁天皇のように父親にではなく叔父に天皇の称号を贈るというのは不自然な感じがします。 私は草壁皇子は暗殺された可能性があると思います。 そして、その暗殺に淳仁天皇の父親・舎人親王が関わっており、 淳仁天皇は即位にあたり草壁皇子の慰霊したいと考え、天皇の称号をおくったのではないかと思ったりします。 草壁皇子が暗殺されていたとすれば草壁皇子は死後怨霊になったと信じられたことでしょう。 そして陰陽道では荒ぶる怨霊は神として祀りあげれば強力な守護神に転じるという信仰がありました。 また、祟らないでほしいという思いから天皇の称号を贈ったとも考えられます。 実際、怨霊を慰霊するために位や地位をおくるということが行われています。 たとえば怨霊で有名な菅原道真は死後の923年に従二位大宰員外師から右大臣に復し、正二位が贈られ、 993年には贈正一位左大臣、同年贈太政大臣が贈られています。 死んでから称号や地位与えられても何にもならんけど。 ⑦淳仁天皇の父・舎人親王は日本書紀を編纂した人物だった。草壁皇子が亡くなった689年、舎人親王(676-735)は13歳です。 13歳では暗殺の首謀者となるには幼すぎる感じもします。 舎人親王の母親・新田部皇女の父親は天智天皇、母親は阿倍内麻呂の娘・橘娘です。 阿倍内麻呂は大化の改新で左大臣となった人物です。 この阿倍内麻呂および阿倍氏が舎人親王を天皇にする目的で草壁皇子を暗殺したんだったりして? で、舎人親王は日本書紀を編纂した人物です。 自分に都合の悪いことなので、草壁皇子が無くなったとだけ、さらっと書いてしまえる立場です。 と、このように書いてはみましたが、「淳仁天皇が叔父の草壁皇子に天皇の称号をおくっているのは不自然」「淳仁天皇の父・舎人親王は日本書紀を編纂した人物なので自分の都合のいいように日本書紀を書くことができた」 という以上の理由はないので、「こんな意見もあるんだ」くらいに考えてくださいw
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①『甚兵衛の小屋』大阪市に8か所ある渡しのひとつ、甚兵衛渡船場。 よかったらこちらも見てね→ 天保山と天保山渡船場 大阪市の渡し(千本松・落合下・落合上) 夕景 『今も現役!大阪の渡し』 なんで「甚兵衛渡船場」というんでしょう? 海遊館に近いから・・・ ジンベエザメ 海遊館・・・・・・なんてことはないですね。 幕末ごろ、尻無川に『甚兵衛の小屋』と呼ばれる茶店があったそうなんです。 この『甚兵衛の小屋』にちなんで甚兵衛渡船場と名前をつけたのでしょう。 ちなみに海遊館が開館したのは1990年ですw。 大阪市のホームページに次のように記されています。 昔、尻無川の堤は紅葉の名所であった。「摂津名所図会大成」に 『大河の支流にして江之子じまの北より西南に流れて、寺島の西を入る後世この河の両堤に黄櫨の木を数千株うえ列ねて実をとりて蝋に製するの益とす されば紅葉の時節にいたりては河の両岸一圓の紅にして川の面に映じて風景斜ならず 騒人墨客うちむれて風流をたのしみ酒宴に興じて常にあらざる賑ひなり 河下に甚兵衛の小屋とて茶店あり年久しき茅屋にして世に名高し』とあり、甚兵衛によって設けられた渡しにある茶店は「蛤小屋」と呼ばれて名物の蜆、蛤を賞味する人が絶えなかったという。 現在も甚兵衛渡船場は健在で、大正区泉尾七丁目と港区福崎一丁目を結び(岸壁間94メートル)、朝のラッシュ時は2隻の船が運航している。平成30年度現在1日平均約1,096人が利用している。https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000011251.html より引用 a | 大河(淀川)の支流で、江之子島(大阪市西区の地名)の北から西南に流れて、寺島(尻無川と木津川の間の中州)の西を入る。 ※現在では中之島西公園の南、大阪市西区江之子島から木津川となってほぼ南に流れ、 東から流れてくる道頓堀川が大阪ドーム(大阪市西区千代崎)の南で合流して尻無川となり、西南に流れている。
| 摂津名所図会大成 | b | 後世、この河の両堤に黄櫨(きはぜ)の木を数千株植え、実をとって蝋(ろう)に製造するようになった。 | 摂津名所図会大成 | c | 紅葉の時節には、河の両岸が紅に染まり、川面に映って半端ない美しさだった。 詩を書く人や、書画などを書く風流な人が群れて風流を楽しみ、酒宴を楽しんで、通常ではない賑わいとなった。 | 摂津名所図会大成 | d | 河下に「甚兵衛の小屋」という茶店があった。長年、茅屋で有名だった。 | 摂津名所図会大成 | e | 甚兵衛によって設けられた茶店は「蛤小屋」と呼ばれて名物の蜆、蛤を賞味する人が絶えなかった。 | |
幕末に刊行された「浪速百景」にも絵が掲載されています。 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E3%81%97%E3%82%8A%E3%81%AA%E3%81%97%E6%BC%86%E3%81%A5%E3%81%A4%E3%81%BF%E7%94%9A%E5%85%B5%E8%A1%9B%E3%81%AE%E5%B0%8F%E5%AE%B6_(%E6%B5%AA%E8%8A%B1%E7%99%BE%E6%99%AF).jpghttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/58/%E3%81%97%E3%82%8A%E3%81%AA%E3%81%97%E6%BC%86%E3%81%A5%E3%81%A4%E3%81%BF%E7%94%9A%E5%85%B5%E8%A1%9B%E3%81%AE%E5%B0%8F%E5%AE%B6_%28%E6%B5%AA%E8%8A%B1%E7%99%BE%E6%99%AF%29.jpg よりお借りしました。 ↓ 現在の甚兵衛渡船場。 昔の面影はまったくないですw。 ②尻無川は下流に行くにしたがって川幅の狭くなる河川尻無川と呼ばれる川は全国各地にあります。 一般的に、下流に行くに従って支流ができて川幅の小さくなる河川のことをいいます。 上流で大雨が降ったりした場合、氾濫をおこすことがあるということです。 人間のお尻のように膨らんだところがあれば、氾濫の危険性は小さくなりますね。 なるほど、それで尻無川というのかな? ③甚兵衛の小屋は色茶屋では?「甚兵衛の小屋」は茶店ということですが、茶店は茶屋とも呼ばれ、休憩所のことを言いました。 紅葉を愛でたあと、茶店で団子を食べて一服したのでしょうか? でもかつては茶屋といえば色茶屋(性風俗の店)のことをさしていたのです。 「甚兵衛の小屋」は色茶屋だったのでは? ④蛤は女陰の隠語蛤は淡水の影響のある内湾の砂泥底に生息するということです。 潮干狩りなどで、砂浜でとるというイメージがあります。 尻無川は川ですが、大阪湾に近いので蛤がとれたんでしょうか。 「甚兵衛の小屋」は「蛤小屋」と呼ばれていたとのことですが、蛤は女陰の隠語としても用いられます。 こんな風に記されたサイトがありました。 「水揚がすんで一本になつた芸妓のことをいふ。又は単に女の局部を蛤ともいふ。半玉を蜆といふが如し。」 https://www.weblio.jp/content/%E8%9B%A4 「隠語大辞典」より引用 一本とは一人前の芸妓のこと、半玉とはまだ一人前になっておらず、玉代(ぎょくだい/花代のこと)も半人分の芸者のことです。 「甚兵衛の小屋」「蛤小屋」と呼ばれていた茶店は色茶屋なのではないかと、ますます思えてきますw。 ⑤松島遊郭があった寺島ちなみに a | 河(淀川)の支流で、江之子島(大阪市西区の地名)の北から西南に流れて、寺島(尻無川と木津川の間の中州)の西を入る。 ※現在では中之島西公園の南、大阪市西区江之子島から木津川となってほぼ南に流れ、 大阪ドーム(大阪市西区千代崎)の南で西に流れを変えて尻無川となっている。 |
と書きましたが、寺島(尻無川と木津川の間の中州)は、現在の大阪市西区千代崎あたりです。 ここにはかつて松島遊郭がありました。 えっ、松島遊郭って本田・九条あたりにあったんじゃないの、といわれるかもしれませんが、もともとは千代崎あたりにあったのです。 ところが大阪大空襲で焼けてしまい、本田・九条付近に場所を移したのです。 ウィキペディアに次のように記されています。 旧広島藩士の有田徳一、新町遊郭の大垣屋、船場淀屋小路の侠客堤仁三郎が、木津川と尻無川に挟まれた寺島の北部への遊廓の開設を願い出て、大阪府知事渡辺昇より1868年(明治元年)2月に振興策として設置が許可された。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B3%B6%E9%81%8A%E5%BB%93より引用 現在、寺島と呼ばれる中州はありませんが、明治元年にはこのあたりに中州があり、尻無川はこのあたりから流れを西に変えて大阪湾にそそいでいたのですね。
兵庫県丹波市氷上町上成松 一ノ宮神社 2018年 4月29日 撮影
こちらのサイトに御祭神はイザナギ、配祀神は誉田別命・菅原道真、創建年不詳とあります。 http://www.hyogo-jinjacho.com/data/6308035.html
そういうわけで、今回はイザナギの話です。
①イザナギが籠った淡路の幽宮
イザナギは妹のイザナミと結婚し、二柱で国産み・神産みを行うのですが、 イザナミはカグツチを出産した際、ほとに火傷をおって死んでしまいます。
イザナギはイザナミを迎えに黄泉の国へ行きますが、腐り、ウジ虫がたかるイザナミの姿を見て怖くなり、元の世界に逃げ帰ります。
イザナギは穢れを浄めるため、筑紫・日向の橘の小戸の阿波岐原(檍原)で禊をしました。 その際、左目から天照大神が、右目から月読命が、鼻からスサノオが生まれました。
イザナギは天照大には高天原を、月読命には夜の食国を、スサノオには大海原を治めよ、と命じました。 しかしスサノオは母のいる「根の堅洲国」へ行きたいといって泣き止みませんでした。
そこでイザナギはスサノオを追放し、自分は淡路の多賀の幽宮に籠りました。
大阪咲州庁舎展望台より明石海峡大橋を望む。向かって右が明石、向かって左が淡路島。手前は神戸空港

堺市庁舎展望ロビーより明石海峡大橋を望む。あんまりいい写真じゃないけど、こっちのほうが淡路島が大きく映ってるのでw
②古事記真福寺本の「淡海」は「淡路」の誤写?
ウィキペディアに次のように記されています。
和銅5年(西暦712年)編纂の『古事記』の写本のうち真福寺本には「故其伊耶那岐大神者坐淡海之多賀也」「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」との記述があり、 これが多賀大社の記録だとする説があるが、『日本書紀』には「構幽宮於淡路之洲」「幽宮を淡路の洲に構りて」とある。 つまり国産み・神産みを終えた伊弉諾尊が、最初に生んだ淡路島の地に幽宮を構えたとある。 そもそも後の近江は淡海ではなく近淡海と書くこともあり、真福寺本の「淡海」は「淡路」の誤写であった可能性が高いと考えられる。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%8A%E3%82%AE より引用
 多賀大社
③イザナギの幽宮跡は淡路島の伊弉諾神宮
淡路島に多賀という地名があり、そこに伊弉諾神宮があります。 伊弉諾神宮のhpには次のように記されています。 神代の昔に伊弉諾大神 が、御子神の天照皇大御神に統合の権限を委ね、淡路の多賀の地に「幽宮(かくりのみや)」を構えて余生を過された神宅の旧跡と伝えられてゐます。 <ここで終焉を迎へた伊弉諾大神は、その宮居の敷地に神陵を築いて祭られました。
https://izanagi-jingu.jp/?page_id=2より引用
淡路島の伊弉諾神宮はイザナギの幽宮跡だったのですね。
伊弉諾神宮はイザナギ・イザナミを祀っていますが、『幽宮御記』によれば祭神は「伊弉諾尊一柱也」とあり、本来はイザナギだけを祀る神社であったようです。
927年の延喜式神名帳では「淡路伊佐奈伎神社 」となっており、日之少宮・淡路島神・多賀明神・津名明神とも呼ばれているそうです。
④古事記最古の写本・真福寺本古事記の原本は現存せず、真福寺系・卜部系の二つの写本が伝えられています。 真福寺本は真福寺(岐阜県羽島市)の僧・賢瑜が応安4年(1371年)に上・中巻を、翌5年に下巻を書写し終え、信瑜がそれの不足を補足して出来上がったとされます。 これがもっとも古い古事記の写本です。 1612年に真福寺の一院・宝生院が名古屋城城下に移転しました。(大須観音/名古屋市中区大須) その際、移転先の地名は、真福寺があった場所の地名・大須に変えられ、絵画・古典籍のほとんどが名古屋城下の大須へうつされました。 その中に古事記もありました。 これがきっかけで真福寺は衰退してしまい、さらに度重なる洪水などもあったのですが、廃寺にはならずに現存しています。 ただし、現在地(岐阜県羽島市桑原町大須)には昭和39年に移転したということです。 それ以前にはどこにあったんでしょうか?調べたりないせいだと思いますがちょっとわかりません。 古事記が完成したとされるのは712年ですから、真福寺本が成立したのはそれから659年も後のことになります。 今ならコピペで簡単に写すことができ、書写ミスもほとんどありません。 しかし昔は人間の目で見て筆で写すわけですから、もちろん写し間違えもあったことでしょう。 また賢瑜が完璧に書写していたとしても、そもそも書写した原本が間違っていたということも考えられます。 ⑤972年、多賀大社は多何神社だった。伊弉諾神宮は多賀明神ともよばれているそうですが、淡海(近江/滋賀県)の多賀大社も多賀明神と呼ばれていますね
御祭神も 伊弉諾神宮と同じイザナギとイザナミです。 なぜ多賀大社は多賀という名前がついたのでしょうか? 972年の延喜式神名帳には多賀大社は「近江国犬上郡 多何神社二座」と記されています。 「多賀」と「多何」で字は異なりますが、日本では同じ言葉に違う漢字をあてて表現することがあります。 例えば奈良の転害門前の地名は手貝町となっています。 ですから多何神社は多賀神社と同一で、単に表記が異なっていただけなのかもしれません。
⑥古事記は100年以上公にされていなかった。
古事記が成立したのはその序から712年とされますが、その存在が知られるようになったのは平安初期です。 弘仁三(812)年の『日本書紀私記』の序で古事記について触れられており、それで古事記の存在が明らかになったのです。 古事記より少し遅れて成立した日本書紀、続日本紀にも古事記の存在については何も記されていませんでした。
古事記は元明天皇に献上されたもので、日本という国のために書かれたというよりは、天皇家のために書かれたものじゃないかという気がします。 天皇家にとって都合のいいものにするため事実とは異なることも記されており、それゆえ公にされていなかったのかも?
⑦古事記は天皇家にとって都合のいいものにするため改竄されている?
とこのように考えてみると、古事記の原本に「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」と記されていた可能性はあると思います。
淡海は近江とも記し、近江にはかつて天智天皇の大津近江宮がありました。
天智天皇をイザナギとみなし、それでイザナギが籠った幽宮を近江の多賀大社としたのだったりして?
近江神宮 近江大津京近くにあり、天智天皇を御祭しています。
⑧神様が琵琶湖をくりぬいて淡路島にした?
子供のころ、淡路島と琵琶湖の形が似ていることがすごく不思議で、神様が琵琶湖を掘ってそのまま瀬戸内海に浮かべたのが淡路島なんじゃないかと考えたりしました。
ネットをぐぐるとこんな情報がでてきました。
太古にポルトガル沖に隕石が落下しその反対にある琵琶湖付近の地殻を押し上げた。 その衝撃で地塊が吹き飛ばされて淡路島になった。地塊が吹き飛んでできた穴に雨がたまって琵琶湖になった。
うーん、申し訳ないですが、これはないと思いますねw。
琵琶湖ほどもある地塊がほとんど砕けることなく吹き飛ぶなんてことあるんでしょうか。 もう少し細かい地塊となって飛び散りそうに思えますが。
また琵琶湖はもともとは400万年~600万年前に現在の三重県伊賀市平田に地殻の断層運動によって発生した湖(構造湖とされます。 この湖が少しづつ北に移動して、今から約100 - 40万年前に琵琶湖になったといわれています。
琵琶湖の位地にとどまっているのは、比良山系がとめているのだとか。 http://agua.jpn.org/pre/pre3.html
箱館山より琵琶湖を望む。
それはともかく、昔の人は子供のころの私のように、琵琶湖をくりぬいて淡路島にした、と考えたのではないでしょうか。
琵琶湖と淡路島は陰陽道の陰陽の関係に相当するように思えます。 それで、淡路島のイザナギの幽宮を琵琶湖のほとりにも作ったのではないかと思えます。
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大阪市港区 海遊館 2019年5月初旬 撮影 海遊館にジンベエのぼりが登場ー。
①5月の節句には幟を立てていた。日本の武家では、男子が誕生すると家紋のついた幟を立てる習慣がありました。 これがだんだんと庶民の間にも広まって五月の節句に幟を立てるようになったそうです。  上の写真は関ケ原戦場跡の写真に、堺祭に登場した堺鉄砲隊の方々を合成したものです。 人物の背後に細長い長方形の形をした布がたてられていますね。 これが幟です。 現在でも鯉のぼりとともにこのような幟がたてられているのを見かけることがあります。 ②幟→吹き流し→鯉のぼりの順で登場した。鯉のぼりには五色の吹き流しがついていますね。 なんで五色なのかというと、陰陽五行説の五行からくるといわれています。 五行説とは万物は、木・火・土・金・水の五つの要素からなるとする考え方のことです。 そして木は青、火は赤、土は黄・金は白、水は黒で表現されます。  ↑ これは浅草寺で撮影した鯉のぼりと吹き流しですが、吹き流しは青・赤・黄・白ときて、黒ではなく緑になっていますがw。 黒だと彩がさえないので黒の代わりに緑を用いたのかもしれませんw。 ウィキペディアには次のような記述があります。 一方、大きな経済力を身につけながらも社会的には低く見られていた商人の家庭では、武士に対抗して豪華な武具の模造品を作らせ、 のぼりの代わりに黄表紙の挿絵などを見ると五色の吹流しを美々しく飾るようになっている。 さらに、吹流しを飾るだけでは芸がないと考えたのか、一部の家庭で「竜門」の故事にちなんで、吹流しに鯉の絵を描くようになった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%BC%E3%82%8A#発生過程 より引用
これ読むと、どうやら「幟→吹き流し→鯉のぼり」の順で登場したようです。
③江戸時代の絵を見ると吹き流しは五色ではなく赤?
しかし、このウィキペディアの記述には納得できない点があります。 「黄表紙の挿絵などを見ると五色の吹流しを美々しく飾るようになっている。 」とありますが、 江戸時代の絵を見ると吹き流しは赤になっているのですw。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Japanese_Festival_in_Honor_of_the_Birth_of_Children.jpgよりお借りしました。 Sketches of Japanese Manners and Customs (1869年) より。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:100_views_edo_063.jpg https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/11/100_views_edo_063.jpg よりお借りしました。
上は歌川広重が描いた五月の節句です。 大きく描かれた鯉のぼりに目がいきますが、その背景に小さく幟や赤い吹き流しが描かれています。
ウィキペディアは「黄表紙の挿絵などを見ると五色の吹流しを美々しく飾るようになっている。 」と記します。 黄表紙とは江戸時代の大人向け絵本のようなものです。江戸時代の漫画といってもいいかもしれません。
黄表紙で画像検索してみるとほとんど黒白です。うっすら色のついたものもいくつかあるようですが。 https://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RivcaVZeZcXxUARRKU3uV7?p=%E9%BB%84%E8%A1%A8%E7%B4%99+&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
ウィキペディアの筆者は白黒で描かれた黄表紙の吹き流しを見て、五色の吹き長しだと早合点してしまったなんてことないですかね? (私のほうが間違っていればすいません!)
④赤い吹き流しは魔除け?
それはともかく、なぜ赤い吹き流しがあげられていたんでしょうか?
旧暦では1月2月3月が春、4月5月6月が夏、7月8月9月が秋、10月11月12月が冬でした。 そして陰陽五行説では、春=木、夏=火、秋=金、冬=水と考えられていました。 季節は4つなので、木火土金水のうち土が余ってしまいますね。 土は季節の交代をスムーズにするものと考えられ、各季節の最後の18~19日間を『土用』として均等に割り振られました。 本来、土用は夏だけではなく、すべての季節にあるのです。
季節 | 月 | 五行 | 色 | 春 | 1月・2月・3月 | 木 | 青 | 夏 | 4月・5月・6月 | 火 | 赤 | 秋 | 7月・8月・9月 | 金 | 白 | 冬 | 10月・11月・12月 | 水 | 黒 |
端午の節句は5月で火性の夏だから赤? そういう考え方もできるかもですが、魔除けで吹き流しを赤にしてるとも考えられますし、どちらかというと魔除け・病気除けで赤説のほうを推したいです。 というのは旧暦5月は梅雨の時期で悪月とされており、五月忌といって婚姻をさけたりする習慣があったからです。 そこで魔除けになる赤い吹き流しをあげて魔を祓おうとしたのではないかと思うわけです。 神社の鳥居も赤いですね。神社の鳥居が赤いのは魔除けの意味があるといわれます。 魏志倭人伝に「朱丹を以って其の身体に塗る、中国の粉を用うるが如し」とあり、古代より赤い塗料を顔や身体に塗るということも行われていたようですが、 これらも魔除けを目的とするものと考えられています。 ⑤病から守ってくれる神・鍾馗上の絵では鍾馗(しょうき)さんを描いた幟もたてられていますね。 ④で5月の節句に上げる吹き流しが赤なのは魔除けの意味からではないかと書きましたが、鍾馗さんも魔除けの神様で、 端午の節句に絵や人形を奉納する習慣があったようです。 また屋根の上に像がおかれているのをよくみかけたりもします。 宇陀松山 薬の館に飾られている鍾馗 鍾馗には次のような話が伝えられています。
唐の6代皇帝玄宗(712~756)が瘧(おこり、マラリア)にかかり、夢を見た。 その夢は、宮廷内でいたずらをする小鬼を大鬼が食べてしまうという夢だった。 夢の中で玄宗が大鬼に名を問うと大鬼は自分の名前は鍾馗であること、 科挙の試験に落第して宮中で自殺したが高祖皇帝(566~635)が手厚く葬ってくれた恩に報いるためにやってきたこと などを語った。 夢から覚めると玄宗の病は回復していた。
玄宗の時代から、邪気除けとして新年に皇帝から賜った鍾馗図を門に貼る風習があったことを示す史料があるようです。 宋(960~1279)代には年末の大儺の際にも鍾馗図を貼る習慣が生じ、17世紀の明代末期から清代初期に端午の節句にも用いられるようになったそうです。
日本の最も古い鍾馗図は平安時代末期作の辟邪絵で、室町時代以降、多くの漢画が残されています。 江戸時代末(19世紀)ごろから関東で鍾馗を五月人形にする習慣が生じたようですが、関西ではあまり見かけないですね。 関西では屋根に置いた鍾馗像をよく見かけます。
昔京都三条の薬屋が立派な鬼瓦を葺いたところ向かいの家の住人が病をわずらい、 「薬屋の鬼瓦にはねかえった悪いものが自宅に入った」として、鬼より強い鍾馗を作らせて魔除けに据えたところ、 病が完治したという話があり、ここから屋根に鍾馗像を置く習慣が生じたと言われます。
端午の節句と鍾馗が結び付けられたのは、悪月・5月には伝染病が流行ることが多かったためではないでしょうか。
⑥江戸時代の鯉のぼりは一匹だけだった。
鯉のぼりは「鯉の滝のぼり」に由来するといわれます。 「鯉の滝のぼり」とは中国の黄河の急流・竜門と呼ばれる滝をのぼりきることができると、その鯉は龍になることができる、という伝説です。
旧暦の5月は新暦では6月、梅雨のシーズンです。 その雨を滝に見立て、滝をのぼろうとする鯉をのぼりとしたのではないかと思います。
鯉のぼりはもともとは関東の習慣で天保9年(1838年)の『東都歳時記』には「鯉幟は東都の風俗」と記されています。
備中国分寺 鯉のぼり
江戸時代の浮世絵を見てみると、鯉のぼりに吹き流しはなく、また複数の鯉のぼりを同じポールにつけるということはせず、一匹だけつけていますね。
この黒い鯉は真鯉で、食用にもなります。
鯉は平安時代ごろに中国から日本に伝わったといわれます。 文化文政(1804~1830年)の頃、現在の新潟県の山間部(主に山古志・小千谷・魚沼の二十村郷)において食用として飼われていた真鯉の中に、 変わった体色のものが出現し、そのような鯉を何代も交配していくうちに緋鯉が出現したといわれます。 こうして鯉は食用のみならず観賞用としても飼育されるようになりました。 この緋鯉をさらに改良して錦鯉がつくられるようになりました。
赤い色をした鯉のぼりは緋鯉なんですね。 広重が浮世絵を描いたころは、まだ緋鯉が普及していなかったとウィキペディアに説明があります。
http://nipponsharemono.net/koinobori-1132
上のサイトによれば、真鯉と緋鯉をあげるようになったのは明治~昭和中期、 真鯉・緋鯉・子鯉の三匹になったのは昭和中期以降、とあります。
近年では川にロープをはってたくさんの鯉のぼりをあげることが増えていますね。
巨大なタマゴ?
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京都市左京区 須賀神社 角豆祭・・・5月第2日曜日 ①牛頭天皇を祀る神社須賀神社は1142年、に鳥羽上皇の后・美福門院(藤原得子/ふじわらのなりこ)が建てた歓喜光院の鎮守として創祀されました。 もともとは現在の平安神宮あたりにあり、岡崎の東天王社(岡崎神社(おかざきじんじゃ))に対して、西天王社(西天皇社)と呼ばれていました。 天王というのは牛頭天王のことだと思います。 牛頭天皇は祇園精舎の守護神で、スサノオと習合されています。 須賀神社の御祭神はスサノオと櫛稲田比売命ですね。 その後鎌倉時代末期・北条高時の反乱時に吉田神楽岡・吉田大元宮西下に移ったようです。 現在地には1924年に移転しました。 ②角豆と隠元の違い角豆祭の角豆(ささげ)とは豆の一種です。 http://noupro.jp/sasage-ingen上のページに角豆(ささげ)と隠元(いんげん)の違いについて説明されています。 角豆は隠元に似ていますが、隠元よりもさやが細長いです。 隠元のように、若いさやを野菜として利用することもでき、乾燥した実は小豆の代わりとして赤飯に用いたりするようです。 隠元は京都宇治にある萬福寺を創建した中国の僧侶が来日の際、日本にもちこんだと言われています。 隠元という名前は、この僧侶の名前が隠元隆琦であるところからつけられました。 隠元が日本にやってきたのは江戸時代の1654年なので、隠元が日本で食べられるようになったのはこれ以降ということになりますね。 いっぽう、角豆が日本に伝わったのは9世紀ごろと考えられています。 角豆のツルにたくさんのさや豆が実るように、氏子地区の子孫繁栄を願うことから角豆祭と呼ばれているということです。 角豆祭の由来などはぐぐったりしてみましたが、わかりませんでした。 ですが、角豆が日本に伝わったのは9世紀ごろと言うことなので、角豆祭は須賀神社が創建された1142年まで遡ることができるかもしれません。 ③近衛天皇(美福門院の子)、子を残さず16歳で崩御須賀神社を創建した美福門院(藤原得子/1117-1160)は藤原長実の娘で、藤原長実の死後の1134年に鳥羽上皇の寵愛を受けるようになりました。 美福門院は鳥羽上皇との間に3女をもうけていますが、皇子は体仁親王だけでした。 1141年、鳥羽上皇は崇徳天皇(父/鳥羽天皇 母/待賢門院・藤原璋子)に退位を迫り、体仁親王が即位しました。(近衛天皇) 美福門院は従兄弟・藤原伊通の娘・呈子を養女とし、さらに関白・藤原忠通の養女として近衛天皇に入内させました。 これは藤原頼長の養女・多子が近衛天皇に入内したことに対抗する目的がありました。 呈子は近衛の子を身ごもったかに見えましたが、残念ながら創造妊娠でした。 その後近衛天皇は16歳で崩御してしまい、子供もありませんでした。 ここで美福門院の血は皇統から絶えてしまったわけです。 ④美福門院、後白河天皇の子・守仁親王を養子としてかわいがる。美福門院は雅仁親王(父/鳥羽天皇、母待賢門院・ 藤原璋子)の子・守仁親王(のちの二条天皇)を養子として、我が子のように後見をしています。 守仁親王も父・雅仁よりも美福門院との関係のほうが親密であったようです。 そして美福門院は本来ならば守仁親王に即位させたかったのですが、将来守仁親王が即位するまでの中継ぎとして、守仁親王の父・雅仁親王が即位しました(後白河天皇)。 後白河はとんでもない遊び人で、父・鳥羽上皇から「天皇の器でない」といわれるような人物であったようですが、実子の守仁親王が美福門院にかわいがられたことで天皇の地位につくことができたわけです。 | | | | 待賢門院(藤原璋子) | | | | | | | | | | | ー | 近衛(16歳で崩御) | | | 白河 | ー | 堀河 | ー | 鳥羽 | | 崇徳(実は白河の子?) | | | | | | | | | < | | | | | | | | 美福門院(藤原得子) | | 後白河 | ー | 二条(美福門院の養子) |
③保元の乱1156年、鳥羽上皇が崩御すると、保元の乱がおきます。 崇徳上皇・藤原頼長らが、朝廷に対してクーデターを起こしたのです。 崇徳は鳥羽の子ということになっていますが、実は鳥羽の祖父・白河の子だといわれています。 鳥羽は美福門院より早く待賢門院(藤原璋子)を后としていましたが、待賢門院は白河とできており、崇徳はその子供だというのです。 鳥羽は崇徳を、叔父にして子、という意味で叔父子と呼んで嫌っていたといわれます。 また鳥羽は崇徳に退位をせまって美福門院との間にできた近衛を即位させたおりにも、崇徳に院政ができないように細工をしており(近衛は崇徳の養=皇太子として即位する予定だったが、近衛は崇徳の皇太弟となっていた。近衛が皇太弟では崇徳は院政ができない)、崇徳はストレスがたまっていたのでしょう。 また藤原頼長は近衛天皇が崩御したさい、美福門院らに「頼長が呪詛して近衛を殺した」と讒言されて失脚していて、頼長も相当腹立たしく思っていた野だと思います。 保元の乱は、朝廷側が勝利しました。  ④平治の乱保元の乱の後、朝廷では信西(藤原 通憲)が権力を持ちました。 信西の妻が後白河の乳母であった関係で、信西は後白河の養父のような存在であったのです。 美福門院は信西と話し合いをして(仏と仏との評定/美福門院も真西も出家していたのでこう呼ばれている。)二条天皇を即位させました。 このことによって、朝廷は二条天皇親政派と後白河上皇院政派に分裂、対抗するようになります。 実の親子が別々の派閥に担ぎ上げられて対立したわけですね。 さらに後白河上皇院政派の中で、信西に不満を持つ派閥が分裂して3つの派閥が形成されます。 a. 二条天皇親政派(信西に不満) b. 後白河上皇院政派で反信西派(信西に不満) c. 後白河上皇院政派で親信西派そして、「b.後白河上皇院政派で反信西派」の藤原信頼は信西を襲撃するため、源義朝と手を結びます。 源義朝は保元の乱の際の恩賞が不満で朝廷に不満をもっていたとされます。 一方、信西は平家と手を結び、平家の武力を利用していました。
1159年12月9日の夜、平清盛が熊野へ行幸している隙をねらい、源義朝・藤原信頼は院御所・三条殿を襲いました。
源義朝らは、後白河上皇らを皇居内へ連れ込み、二条天皇と共に軟禁状態にしました。 信西は襲撃前に逃げていましたが、発見されて斬首されました。
a. 二条天皇親政派(信西に不満)は、反信西という点では藤原信頼と考えが共通していました。 しかし信西がなくなったので、藤原信頼に協力する理由がなく、むしろ二条天皇を人質にとる藤原信頼を敵対視していました。
そして二条天皇親政派(二条天皇の側近)の藤原惟方(これかた)・藤原経宗(つねむね)は平清盛に協力を要請、清盛もこれを受け入れます。
平清盛は、藤原信頼に従うと見せかけて油断させたところで、12月25日の夜、二条天皇を女装させて平清盛の邸宅のある六波羅へと避難させました。
後白河天皇も仁和寺へと脱出することに成功しています。
12月26日、二条天皇は藤原信頼・源義朝らへの追討宣旨を出しました。 平清盛軍は藤原信頼が占拠する内裏(皇居)を襲撃。藤原信頼・源義朝は死亡し、清盛軍が勝利しました。
⑤二条天皇親政派勝利なのに、後白河の皇統がつづく。
清盛軍が勝利したということは、二条天皇親政派が勝利したということです。 dすが皇位継承も二条天皇の系統が続いた・・・・とはなりませんでした。
二条天皇のあと、二条天皇の子である六条天皇が即位します。 しかし、その後は、高倉天皇(後白河天皇の子)→安徳天皇(高倉天皇の子)→後鳥羽天皇(高倉天皇の子)→土御門天皇(後鳥羽天皇の子)→順徳天皇(後鳥羽天皇の子)→仲恭天皇 と後白河天皇の血が続いています。 なんでこうなっちゃったのか?
こう書くとわかります。
二条天皇(父・後白河/母・源懿子)1158年即位 ↓ 六条天皇(父・二条天皇/母・伊岐致遠女)1165年即位 即位年齢 1歳 二条天皇死の間際に六条を強引に即位させ、23歳で崩御。 後白河が院政を行う。 ↓ 高倉天皇(父・後白河天皇/母・平滋子)1168年即位 ↓ 安徳天皇(父・高倉天皇/母・平徳子)1180年即位 ↓ 後鳥羽天皇(父・高倉天皇/母・藤原殖子)1183年即位 ↓ 土御門天皇(父・後鳥羽天皇/母・源在子)1198年即位 ↓ 順徳天皇(父・後鳥羽天皇/母・藤原重子)1210年即位 ↓ 仲恭天皇(父・順徳天皇/母・九条立子)1221年即位 ↓
二条は23歳で崩御したのですが、死の間際に我が子・六条を即位させました。 しかし六条はこのときわずか1歳で親政を行うのはムリ、ということで後白河が院政をおこなったのです。 その後、後白河は平時信の娘・滋子(平清盛の妻・時子の異母妹)との間に高倉をもうけて即位させました。 高倉は平清盛の娘・徳子を妻として安徳をもうけ、安徳は高倉の譲位を受けて即位したというわけです。
後白河は長生き(65歳)したのと、平家の娘を妻にしたのが幸いした?
ともあれ、角豆のツルにたくさんのさや豆が実るように、氏子地区の子孫繁栄を願うことから角豆祭と呼ばれているということですが、 美福門院の子孫が皇統に続かなかったのは皮肉な感じがしますね。

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滋賀県蒲生郡日野町 馬見岡綿向神社 日野祭 5月2日~3日
①猪は綿向大神の神使馬見岡綿向神社の境内に猪の像が。 猪は綿向大神の神使なのだそうです。 その言われは次のとおり。 欽明天皇6年(545年)、蒲生野の豪族・蒲生稲置三麿と山部連羽咋が綿向山麓に狩にやってきましたが 4月(新暦五月)だというのに雪が降り出し吹雪となりました。 雪が止んだのち、ふと見ると大きな猪の足跡がありました。 二人が足跡を追っていくと綿向山山頂にいたり、綿向大神の化身の白髪の老人があらわれて、「この山の頂に祠をたてて祭れ」といいました。 ふたりは言われたとおりに社殿を建てて祭りました。(大嵩神社) ここから猪は綿向大神の神使とされています。 大嵩神社は綿向神社の奥宮で20年ごとに式年遷宮しています。
②摩利支天・護王神社の神使も猪猪を神使としている神社や寺はほかにもあります。 まず摩利支天の神使が猪とされていますね。 あと和気清麻呂を祀る護王神社には狛猪が置かれています。 これは和気清麻呂が流罪となって大隅国に流されていく途中、猪が和気清麿を道鏡が差し向けた刺客から守ってくれたという伝説に基づくものでしょう。 (道鏡が和気清麻呂に刺客を差し向けたというのは史実ではないと思います。) ③鹿の夏毛の斑点は謀反人に降られた塩の喩え?神使とされている動物には、ほかにも、鶏(伊勢神宮・石上神社)・猿(日吉大社)・虎(朝護孫子寺・鞍馬寺)鹿(春日大社)などiいろいろあります。 このうちの鹿については、このブログの中で何度かお話ししていますが、謀反人の比喩だと考えています。 鹿には次のような伝説があります。 雄鹿が雌鹿に「全身に霜が降る夢を見た」と言った。 雌鹿は「霜だと思ったのは塩で、あなたは殺されて全身に塩が振られているのです」と言った。 翌日、雄鹿は漁師に打たれて死んだ。 (日本書紀/トガノの鹿)
昔、謀反の罪で死んだ人は死体に塩を振られることがあり、鹿とは「謀反の罪で殺された人」を比喩的に表現したものではないかとする説があります。 摂津国風土記に同様の話がありますが、こちらでは雄鹿は「全身に雪が振り、背中にススキが生えた」夢をみたとあり 雌鹿は「雪は殺されて塩が振られている、薄は背中に刺さった矢」と答えています。 鹿の夏毛には白い斑点があります。これを霜や雪に喩えたのでしょう。  謀反の罪で死んだ人は死後、怨霊となったことでしょう。 怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、昔の人々は疫病の流行や天災は怨霊の仕業で引き起こされると考えていたのです。 そして陰陽道では荒ぶる神は十分に祀ればご利益を与えてくださる神に転じると考えました。 春日明神の神使・鹿とは、怨霊となった人の霊が慰霊されて神になった、その神の使いなんでしょうね。 とすれば猪もまたもともとは怨霊であった人が、慰霊されて神になった、その神の使いなのではないかと考えられますね。 先日、高台にある柏原八幡宮を参拝し階段を下りてきたところで、ボランティアガイドをされている方からこんな話をお聞きしました。 「柏原八幡宮の本殿には猪の彫刻があります。猪は莫だと考えられていたので・・・」 いや~、「お話し聞いてから参拝したらよかった」と思いました。 もう一度階段駆け上がって本殿の彫刻見てきたかったんですけど、友人が「早く百毫寺へ行こう」といいますし、時間なかったんですよね。 それにしても「猪は莫」。これはありえると思いました。 ④獏はパンダ?
莫とは「夢を食べる」とされる伝説上の動物で、中国の文献には次のように記されています。 貘屏賛・・・鼻はゾウ、目はサイ、尾は牛、脚は虎に似ている。 爾雅 釈獣・・・白豹 説文解字・・・熊に似て黄黒色、蜀中(四川省)に住む。 爾雅 郭璞注・・・熊に似て頭が小さく脚が短く、黒白のまだらで、銅鉄や竹骨を食べる。 説文解字注・・・・今も四川省にいる
獏とパンダは同一視されていたそうです。 説文解字には黄黒色とありますが、虎のようにはっきりした黄色ではなく、淡いクリーム色のことだそうです。 そして説文解字には「今も四川省にいる」爾雅 郭璞注には「竹骨を食べる」とあります。 四川省に住んで竹を食べる黒白まだらの動物といえばパンダ(ジャイアントパンダ)ですね。 ただし、貘屏賛には「獏は鼻はゾウ、目はサイ、尾は牛、脚は虎」とあって、パンダとは全然ちがう動物のようです。 ⑤パンダはなぜ獏と同一視されたのか?
獏は悪い夢を食べてくれるという俗信があります。 つまり獏は陰を陽に転じてくれる聖獣というわけですね。 陰陽の象徴といえば太極図です。 https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AYin_yang.svg https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/17/Yin_yang.svg よりお借りしました。 作者 Gregory Maxwell [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で太極図は白と黒の図で構成され、白は陽、黒は陰をあらわします。 パンダは黒白まだら模様の動物なので、陰陽をあらわす動物、または陰を陽に転じさせる動物だと考えられ、獏と同一視されたのではないでしょうか。 ⑥莫はマレーバク?古代中国にはマレーバクが生息していましたが、絶滅したそうです。 このマレーバク、みごとな白黒モノトーンなんですね! 動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます!マレーバクは「鼻はゾウ、目はサイ、尾は牛、脚は虎に似ている。」に近いですね。 先日テレビで、「想像上の動物獏に似ているから、マレーバクという名前がついた」と言っていましたが、私は逆だと思います。 獏はマレーバクをモデルとして創作された動物、またはマレーバクそのものではないでしょうか。 そう思う理由は見事な黒白モノトーンの毛です。 動画折しました。動画主さん、ありがとうございます。古事記に次のように記されています。 昔、天地がまだ別れず、陰陽も分かれておらず、混沌として卵の中身のように固まっていなかったが、薄暗い中にきざしがあった。 やがて清らかな陽気がたなびいて天となり、重く濁った陰の気が滞って地となった。(天地開闢)マレーバクは子供のころは黒白がまだらになんですが、成長すると白黒にくっきりわかれた柄になります。 この様子はまるで古事記に記された天地開闢のようではありませんか。 夢を食べる獏とはマレーバク、もしくはマレーバクをモデルとして想像されたものであり マレーバクの白黒モノトーンの柄が太極図を思わせるため、「悪い夢(陰)を食べて、よいこと(陽)に転じさせる」と信仰されたのではないかと思います。 マレーバクは木の葉や果実を食べますが、竹をたべるとは聞きません。 爾雅 郭璞注に「熊に似て頭が小さく脚が短く、黒白のまだらで、銅鉄や竹骨を食べる。」とあるのはやっぱりパンダだと思います。 中国でマレーバクが絶滅してしまっため、マレーバク同様白黒模様のパンダが獏だと考えられたではないかと思います。  ⑦茶色(黒っぽい)の猪は陰、雪をかぶった白い猪は陽?猪は鼻が長い点がなんとなくマレーバクに似ていますし、 猪の子供のまだら模様はマレーバクの子供のまだら模様を思わせます。(色はちがいますが) ここで①の伝説を思い出してください。 本来ならば茶色の毛の猪の成獣ですが、伝説では吹雪だったということで雪をかぶって真っ白になっていたのではないでしょうか。 陰陽では白は陽、黒は陰です。 つまり雪をかぶらない茶色(黒っぽい)の猪は陰だが、雪をかぶった白い猪は陽、ということではないでしょうか。 そのあと綿向山山頂に現れた綿向大神も白髪だったとありますが、雪をかぶって真っ白になった猪はこの白髪の神の神使なのでしょう。 十二支の順番は子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥で亥(猪)は十二支の一番最後です。 亥=猪=莫とすれば、十二支の一番最後で「悪夢を食べて、陰を陽に転じる」というのはとても理に適っているように思えます。 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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京都府長岡京市 乙訓寺 2010年4月下旬 撮影 ①乙訓寺は牡丹の寺ではなく松並木の寺だった。乙訓寺の牡丹は昭和15年ごろに奈良県桜井市の長谷寺から献木されたものだそうです。 牡丹寺としての歴史はまだそんなに長くはないんですね。 牡丹の寺として有名になる前は、表門から本堂にかけて松の並木が続いていたそうです。 ②松は聖徳太子のシンボルツリー?松の並木といえば、私は法隆寺の参道を思い出します。 入口から南大門まで100mほど、参道の両脇に緑の松並木が続いているのです。 (なんと、しゃしゃしゃしゃしんがない~!) 法隆寺には参道のほかにも、境内のいたるところ松や檜が植えられています。 落葉樹はあまりありません。 何本か桜と楓の木がありますが、まだ若い木で、最近になって植えられたもののように思われます。 松や檜の1年中青々とした葉は、おそらく永遠の命とか不老不死を象徴するものとして法隆寺に植えられているのだと思います。 法隆寺は聖徳太子が創建したと伝わりますが、乙訓寺もまた聖徳太子が創建したと伝わっています。 松は聖徳太子のシンボルツリーなのかも? ③広隆寺の弥勒菩薩は「待つ」の語呂合わせで赤松で作られた?聖徳太子が秦河勝に授けたという広隆寺の弥勒菩薩像は赤松を刻んで作られています。 広隆寺 弥勒菩薩半跏思惟像 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Maitreya_Koryuji.JPG https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/62/Maitreya_Koryuji.JPG よりお借りしました。 日本語: 小川晴暘 上野直昭English: OGAWA SEIYOU and UENO NAOAKI [Public domain]
弥勒菩薩は56億7000万年後に復活するとされています。 未来に復活するといういことは、弥勒菩薩は永遠の命を持ったみほとけであるといえるかもしれません。 また、松は『待つ』の掛詞になります。 弥勒菩薩は56億7000万年もの長い間、待ち続けているみほとけであるともいえるのではないでしょうか。 赤松で刻まれた仏像は大変めずらしく、赤松で刻まれた仏像は日本では広隆寺の弥勒菩薩像だけだそうです。 そもそも松は松脂が出てたいへん彫刻しにくいということです。 そんな赤松わざわざを使って弥勒菩薩像がつくられたのは、松が永遠の命を象徴するものであり、またその音が「待つ」に通じるからなのかもしれませんね。 ④言い伝えを信じ、しきたりを重んじていた昭和15年ごろの日本人奈良の白毫寺には萩が植えられています。 白毫寺は奈良時代に志貴皇子の邸宅が有った場所であり、笠金村が詠んだ志貴皇子挽歌にちなんで萩が植えられているものと考えられます。 笠金村が詠んだ志貴皇子挽歌とは次のような歌です。 高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
 白毫寺乙訓寺の牡丹もまた、百毫寺の萩のように、何か意味があって長谷寺から献木されたのではないでしょうか。 長谷寺が乙訓寺に牡丹を献木したのは昭和15年ごろです。 このころの日本人は今の日本人よりも、伝説や言い伝えを信じ、またしきたりを重んじる人々が多かったのではないかと思います。 昭和10年ごろ生まれた親戚の叔母さんは、私が子供のころ、「夜笛を吹くと蛇がくる」とか「新しい靴は夜おろしてはいけない」「夜爪を切ると親の死に目にあえない」「死んだ猫をかわいそうだと思ったら、魂を猫につれていかれる」などのような迷信を、真顔でよく言っていましたw。 このような時代に、何の意味もなく長谷寺から乙訓寺に牡丹の献木をしたりするかなあ?  白毫寺
⑤牡丹は猪の隠語猪鍋のことを牡丹鍋といいますね。 猪鍋は猪の肉を牡丹の花のように並べるところから、牡丹鍋と呼ばれるようになったともいわれています。 肉食を禁じる仏教の影響を受け、日本では長い間、肉食が禁止されていました。 しかし、こっそりと肉食は行われ、ごまかすために、動物の肉に植物の名前をつけたといわれます。 つまり、牡丹鍋というのは隠語なんですね~。 猪を牡丹というほか、鹿肉は紅葉、馬肉は桜、鶏肉は柏といわれました。 ⑥神使は怨霊のシンボルだった? 摩利支尊天(建仁寺 塔頭)狛猪猪は摩利支天の、鹿は春日明神の神使いとされます。 また、兎[住吉大社)、猿(日吉大社)、鶏(伊勢神宮)、蛇(大神神社)、牛(天満宮)など、多くの動物は神使として信仰されてきました。 そして、鹿には次のような伝説があります。 雄鹿が雌鹿に「全身に霜が降る夢を見た」と言った。 雌鹿は「霜だと思ったのは塩で、あなたは殺されて全身に塩が振られているのです」と言った。 翌日、雄鹿は漁師に打たれて死んだ。 (日本書紀/トガノの鹿)
 昔、謀反の罪で死んだ人は死体に塩を振られることがあり、鹿とは謀反人を比喩的に表現したものではないかとする説があります。 謀反の罪で死んだ人は死後、怨霊となったことでしょう。 怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、昔の人々は疫病の流行や天災は怨霊の仕業で引き起こされると考えていたのです。 そして陰陽道では荒ぶる神は十分に祀ればご利益を与えてくださる神に転じると考えました。 春日明神の神使・鹿とは、怨霊となった人の霊が慰霊されて神になった、その神の使いなんでしょうね。 とすれば猪もまたもともとは怨霊であった人が、慰霊されて神になった、その神の使いなのではないでしょうか。 そして牡丹は猪肉をあらわすのみならず、神使である猪の隠語でもあったのではないでしょうか? ⑦早良親王、怨霊になる。乙訓寺は長岡京跡からほど近い場所にあります。 長岡京は784年、桓武天皇によって平城京から遷された都です。 平城京から長岡京に遷都した理由は、平城京の仏教勢力から逃れるためであると、小学校のとき歴史の授業で習いました。 しかし近年では怨霊にあふれた平城京から逃れるためであるとする説が唱えられて、支持もされています。 ところがせっかく怨霊から逃れて長岡京を建都したにもかかわらず、遷都まもなく長岡京は怨霊にけがされることになってしまうのです。 785年、造長岡宮使・藤原種継暗殺事件がおきました。 この事件に桓武天皇の同母弟・早良親王が連座したとして皇太子を廃され、ここ乙訓寺に幽閉されたのです。 早良親王は無実を訴えてハンガーストライキを決行。 淡路へ配流の途中、河内国高瀬橋付近(現・大阪府守口市の高瀬神社付近)で憤死しました。 後、桓武天皇の第1皇子・安殿親王(後の平城天皇)が発病したり、桓武天皇妃藤原乙牟漏の病死など不幸な事件が相次ぎ、それらは早良親王の祟りであると考えられました。 長岡京、そして乙訓寺には早良親王の無念がしみついているのですね~。 早良天皇の怨霊に悩まされた桓武天皇に和気清麻呂が進言をしました。 「怨霊で穢れた長岡京を捨て、平安京に遷都しましょう」と。 794年、桓武天皇は建都後わずか10年しかたっていない長岡京を捨て、平安京に遷都しました。 早良親王の神使は猪であり、牡丹は早良親王=猪をあらわすものなのではないでしょうか。 そして乙訓寺に牡丹が植えられるようになったのは、早良親王を偲んでのことなのではないのかなあと思ったりします。 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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大阪市住吉区 住吉大社 2012年5月20日 撮影
①すみよしの ゆふしでなびく 松風にすみよしの ゆふしでなびく 松風に うらなみしろく かくるうのはな/光台院親王漢字にすると「住吉の 木綿四手なびく 松風に 浦波白く 隠る卯の花」となるんでしょうか。 現代語訳は「住吉の神域に掛けられた木綿の四手をなびかせる松風が、白い波をたてて卯の花を隠しています」みたいな感じかな? ②木綿四手って何? 木綿四手(ゆうしで)とは木綿で作った四手のことです。 四手は神垂とも書き、注連縄や玉串などにつけて垂らした紙のことです。  上の写真は大阪お初天神の節分祭で行われた護摩供ですが、提灯の下あたりに注連縄がはってあって、ジグザグの形をした白い紙がひらひらしているのがわかりますか? これが四手(紙垂)です。  正月の注連飾りにもつけられていますね。(写真は滋賀県多賀大社付近で飾られていた注連飾り) 現在、これらの四手は紙で作られていますが、古には木綿で作られており、木綿四手と呼ばれていたそうです。 このデザインがどこから来るのかについては諸説ありますが、雷光や稲妻をイメージしたものではないかといわれています。
③木綿四手なびく松風とは雷光や稲妻をともなう風?
昔は住吉大社の太鼓橋のあたりまで海だったそうです。 大和川が運んできた大量の土砂によって陸が増え、現在の海岸線は住吉大社から3km以上も離れていますが。 かつて海岸の砂浜には美しい松林が続いており、松林を抜けてくる風のことを松風と詠んだのでしょう。
そしてその松風は木綿四手をなびかせていたということです。
木綿四手は雷光や稲妻をイメージしたものではないかといわれているのでしたね。 住吉大社に吹いてくる松風はさわやかな風ではなく、雷光や稲妻をともなった不気味な風だったのではなかと想像します。
④光台院親王とは後鳥羽天皇の皇子の道助入道親王?
光台院親王とは後鳥羽天皇の皇子の道助入道親王(どうじょにゅうどうしんのう、1196年‐1249年)のことでしょうか。? 1206年に出家し、1214年に仁和寺第8代門跡となり光台院御室と称されました。

⑤波風をおこす後鳥羽院の荒れる心
後鳥羽天皇は院政を行いましたが、しだいに鎌倉幕府と対立するようになり、1221年に承久の乱がおこります。
このとき道助入道親王は父・後鳥羽院のために祈祷を行いましたが、後鳥羽院は敗れて隠岐へ流罪となりました。 道助入道親王は仁和寺門跡を廃され、高野山に隠遁しました。 隠岐に流された後鳥羽院は次のような歌を詠んでいます。 「われこそは 新島守よ 隠岐の海の あらき波かぜ 心して吹け」 私こそ隠岐の島の新しい島守である。隠岐の海の荒々しい波風よ、そのことをふまえて吹くがよい、みたいな訳になりますでしょうか。
光台院親王は住吉の松風に、父・後鳥羽院がおこした隠岐の海の荒々しい波風を思いおこして「すみよしの ゆふしでなびく 松風に うらなみしろく かくるうのはな」と詠んだのではないでしょうか?
この歌を一読したとき、松風、卯の花などの言葉から何となく穏やかな風景を思い浮かべたのですが、どうやらそれは勘違いだったようです・・・・・。
 千葉県 鵜原理想郷の波
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兵庫県丹波市柏原町 柏原八幡宮 織田神社 西楽寺2019年5月8日 撮影
栢原八幡宮 栗の花柏原の町には陣屋跡、太鼓やぐら、織田家廟所などもあるそうですが、今回は時間がないため行けず。 次回はゆっくりと町の隅から隅まで歩いて見学できたらいいなと思います。 ①丹波柏原織田家栢原藩の藩主は代々織田家が努めてきました。 初代栢原藩主は織田信包という人です。 この人は織田信長の弟ですね。1598年、豊臣秀吉より栢原3万6000石を与えられました。 その後、2代目は信包の子の信則、3代目は信則の子の信勝と続きます。 信勝は1650年に28歳の若さで亡くなってしまいました。 信勝の母(岡部長盛娘)は信勝を織田権現として織田神社に祀りました。 織田神社信勝には三女ありましたが、男子がありませんでした。 そのため、叔父の信当が4代目栢原藩主となりました。 | | | / | 信忠 | | | | | | | | | | ②信朝 | | | | | | | | | | | | | | | 信長 | ― | 信雄 | ー | 高長 | - | 長頼 | ― | 信武 | ― | 信休① | < | | | ④信憑 | ー | ⑤信守 | ― | ⑦信貞 | ー | ⑧信啓 | ― | ⑨信民 | ― | ⑩信親 | 織田信秀 | < | | ヽ | 信孝 | | | | | | | | | | ③信旧 | < | | | | | | | | | | | | | | ①信包 | ー | ②信則 | ー | ③信勝 | | | | | | | | | | 信応 | ― | ⑥信古 | ― | 鶴姫 | | | | | | |
※ ピンクの文字、 ブルーの文字は藩主。数字は代。 系図がうまく書けなくてすいません~。 栢原八幡宮 信長は1582年の本能寺の変で明智光秀軍に攻められ、自害しました。 信長の子・信忠も本能寺の変で自害しました。 けれど、信長の子・信雄の血は続き、信休以降、栢原藩主となっていたのですね。 丹波柏原織田家は現在も存続しています。 19代織田家当主は織田信孝さんとおっしゃる方で、織田孝一というペンネームでフリージャーナリストをされています。 信長の七男も信孝で同名です。 ややこしくなるので、以後、19代織田家当主・織田信孝さんではなく、ペンネームの孝一さんの方を使わせていただきます。 栢原八幡宮②丹波栢原織田家と織田信成さんの家系は無関係?フィギュアスケートファンの私としては、織田信長の子孫というと織田信成さんを思い浮かべてしまいますが、 織田孝一さんは織田信成さんについて、次のように発言されているようです。 「結論から言うと、私の家と彼の家はまったく関係がないし、私は彼についてまったく知らなかった」 「(信成さんが主張する信長7男の末えいで江戸時代は旗本高家だったとのことについて)途中の何代かが不明だとも聞いたが、私にはその真偽を判断することはできない」 https://bushoojapan.com/scandal/2015/09/02/58136 木の根橋
③織田信長の長男・織田信忠の息子、秀信・秀則は岐阜城の戦いで敗北・改易。上に書いた織田家の家系図をみてください。 信長の子として信忠・信雄・信孝とあります。 信忠は信長の長男で織田家の家督をつぎましたが、すでに述べたように本能寺の変で自刃しています。 享年25歳~27歳くらいであったと考えられています。 信忠には秀信・秀則という息子がありました。 信忠が本能寺の変で没したあと、秀信は織田家の家督代行・織田信雄の後見を受けています。 織田信雄さんは丹波栢原織田家の先祖ともいえる人ですね。 秀信は1593年、豊臣秀吉から美濃国13万石と岐阜城を与えられています。 しかし、豊臣秀吉の死後の1600年、徳川家康(東軍)vs石田三成(西軍)の争いがおき、織田秀信は石田三成方につきました。 織田秀信の配下だった竹ヶ鼻城主・杉浦重勝も石田三成方につきました。 結果、竹ヶ鼻城に籠城した杉浦重勝は城に火をつけて自刃。(竹ヶ鼻城の戦い) 織田秀信は岐阜城に籠城し、弟の秀則と共に字刃しようとしましたが、東軍の池田輝政に説得されて降伏開城しました。 (岐阜城の戦い) 織田秀信は出家して、関ヶ原の戦い終結後に高野山に入りました。 弟の織田秀則は豊臣家を頼って大坂城下に移り住みますが、豊臣家が滅亡すると京都に移り住みました。 出家して宗爾と称したということです。 織田信秀には正室・和田孫太郎の娘との間に男子がなく、織田信広の外孫で・八幡山秀綱を養子としています。 しかし秀綱は1601年に死亡しており、秀信が関ヶ原の戦いの前哨戦・岐阜城の戦いで敗北・改易されたこともあって、織田宗家の家督を相続しませんでした。 西楽寺④織田信成さんは織田信高の系統で織田信長次男・織田信雄の子孫?
フィギュアスケーターの織田信成さんは織田信長から数えて17代目の末裔(旗本高家の織田信高の系統)であると称しているようです。 織田信長には大勢の息子がありました。 長男・嫡男 | 織田信忠 | | 本能寺の変で自害。 | 次男 | 北畠信雄 | 北畠具房養子 | 丹波柏原織田家 | 三男 | 神戸信孝 | 神戸具盛養子 | | 四男 | 羽柴秀勝 | 羽柴秀吉養子 | | 五男 | 津田信房 | 遠山景任・武田信玄養子のち離縁 | | 六男 | 織田信秀 | 祖父と同名 | | 七男 | 織田信高 | | 織田信成さんの系統? | 八男 | 織田信吉 | | | 九男 | 織田信貞 | | | 十男 | 織田信吉 | | | 十一男 | 織田長次 | | | 庶長子 | 織田信正 | 庶長子は正室ではない女性から生まれた子供 | |
①信長→②信高→③高重→④一之→⑤信門→⑥信倉(能勢頼寛の子)→⑦信直(織田信義の子)→⑧長襦→⑨長裕・・・・⑭重治→⑮信義ー⑯信治(長男)・⑰信成(次男)
6代目の信倉は能勢頼寛の子で、織田信門の養子となっています。 つづく7代目の信直は織田信義の次男で、6代目織田信倉の養子となっています。 織田信直は織田信長の子孫です。 信長→信雄→高長→長政→ 長喬→信義→信直(6代目織田信倉の養子)ですから、いったん信倉が6代目となって信長の血は途切れたように見えますが、7代目が信直となったことで、信長の血はつながっているわけです。 また織田信雄は丹波栢原織田家の先祖ですから、19代丹波栢原織田家織田孝一さんと織田信成さんは同じ先祖をもっているということになりますね。 西楽寺⑤織田重治さん、ご自身の親の名前を明らかにできない。ところが、自称歴史研究家である織田信成さんの祖父・織田重治さんが、ご自身の親の名前を明らかにできないということで、信成さんちの家系図の信憑性は「わからない」というしかないです・・・・。 9代目長裕は子の信真に家督を譲っています。 するとこの信真が10代目なのかなと思えますが、信真に子があったのかどうか? ウィキペディアを読んだ限りでは記述がなく不明です。 ですが、いうまでもないことですが、織田信成さんの価値は彼のスケートにあります。 現役のころ、いろいろやらかしたことは確かですし、おいしいところをほとんど全部高橋大輔さんにもっていかれた感はありますがw、 織田信成さんには高橋大輔さんとはまた違う魅力がありました。 柔らかいジャンプの着氷はぬこジャンプ(猫ジャンプ)といわれ、確か田村岳斗さんだったと思いますが、解説で「世界一のコンビネーションジャンプですね」とおっしゃっていました。 現役を退き、現在はプロとして活躍されていますが、 2018年ジャパンオープンでは四回転トウループー3回転トウループのコンビネーションジャンプを決めるなどノーミスの演技! 宇野昌磨さんにつぐ第2位というすばらしいパフォーマンスでした。 個人的には現在でも日本男子では3番目くらいの実力があるのではないかと思います。 (個人的に1位は羽生弓弦さん、2位は宇野昌磨さん。 現役に復帰した高橋大輔さんが四回転ジャンプの成功率をあげてくればまた変わってくると思いますが。 四人とも大好きです❤) まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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大阪市港区 赤レンガ倉庫(ジ―ライオンミュージアム) 築港赤レンガ倉庫は1923年に住友倉庫によって建設されました。 現在はクラッシックカーを展示するジ―ライオンミュージアムとなっています。 赤レンガのシャビーな雰囲気とクラッシックカーがマッチしたすてきな空間です。 ①スピリット オブ エクスタシーロールスロイスの車体の上に妖精が! 妖精の名前はスピリット オブ エクスタシー。 自動車という近代的なものと妖精というファンタジーの組み合わせがいいですね。遊び心というのかな。 スピリット オブ エクスタシーは蜻蛉(かげろう)のような羽根をもっていますね。 蜻蛉は二文字の漢字からなりますが、どちらも虫偏の漢字です。 そういうわけで無理くりっぽいですが、本日は虫偏のお話しです(汗)。 ②虫は「ヘビ」の形からくるもので、マムシを意味していた。https://www.mag2.com/p/news/260414↑ こちらの記事(おもしろいです!)にこんなことが記されていました。 ※赤字は私の付け足しです。a.蚊(か)は虫偏で虫であることを示し、文は「ブーン」という羽音をあらわす。 b.虻(あぶ)は虫偏で虫であることを示し、亡は「ボーウ」という羽音をあらわす。 c.他に虫偏の漢字は蜂(はち)・「蟻(あり)」など多数ある。 d.爬虫類・両生類にも虫偏のものがある。蛙(かえる)・蛇(へび)・蜥蜴(トカゲ)など。 e.[虫」という字は「ヘビ」の形からきたもので、マムシを意味していた。蛇の仲間、爬虫類に虫偏を使うのは妥当。 ※手元にある漢和辞典にも同様の内容が記されていました。f.虹(にじ)は、天をまたぐ龍のような形をしたもので蛇に似ているため虫偏なのではないか。 g.蛸(たこ)も「魚編」ではなく虫偏。うねうね、くねくねしたところが爬虫類の仲間に見えたのだろう。 ※蛤(はまぐり)などの貝類、蟹(かに)などの甲殻類も虫が用いられていますね。
③昆虫を表す本来の漢字は蟲h.昆虫に使われている虫は、本来は蟲という漢字が用いられていた。蛆虫みたいなのが湧いている漢字をあらわしているようである。 i.『易経』に「山風蠱(さんぷうこ)」という卦がある。物が腐敗したことを意味する卦。 まさに皿の上の物が腐敗して蟲が湧いている様子を表現している。 j.「蟲」がやがて略されて「虫」とだけ書かれるようになったので、「蛇」「蛙」と「蚊」「虻」はいずれも虫偏になった。 が同じようなグループになってしまったのです。 k.『易経』の「水雷屯」という卦は、春になって芽が出ようとしつつも、なかなか頭を出せないで苦労している、「産みの苦しみ」を表す。 l.[蠢く(うごめく)」は下に虫が二つ並び、一般的に「昆虫」の動きを表す。 春の下に「蟲」じゃないところがポイント。「蟲」が出てこようとするのは春ではない。 ④蟲=昆虫がでてくるのは春では?なるほどー、と思いますが、1点気になるところがあります。 l.[蠢く(うごめく)」は下に虫が二つ並び、一般的に「昆虫」の動きを表す。 春の下に「蟲」じゃないところがポイント。「蟲」が出てこようとするのは春ではない。の部分です。 文字が小さくて見にくいと思うので、サイズを大きくしておきますね。 蠢くそれでは蟲=昆虫がでてくる季節はいつなのかと聞きたくなりますが、それについては記されていませんね。 種類にもよりますが(蝉は夏に出てきますね。)、私は蟲=昆虫がててくる季節は春じゃないかと思いますが。 ⑤旧暦の春は1月・2月・3月(新暦2月・3月・4月に相当)
でも、昆虫が春にでてくるというのは新暦(太陽暦)の感覚なのかもしれません。 中国で漢字が作られたころ、中国ではどんな暦が用いられていたのでしょうか。 よくわかりませんが、太陽暦ではなく太陽太陰暦を用いていたかもしれません。 太陽太陰暦は月の周期をベースにした暦です。 月の周期は約29.5日です。 そこで一か月が29日の月を6月、1か月が30日の月を6月としていました。 太陽太陰暦の1年=(29日×6か月)+(30日×6か月)=174日+180日=354日 太陽暦の1年は約365日なので、1年で11日、3年で1か月以上、実際の季節(太陽暦)とずれてしまいます。 そこで4年に1度閏月をもうけて修正する。 国によって細かい違いはあったかもしれませんが、太陽太陰暦は大雑把に上の説明のようなものであったと思います。 そして、かつて旧暦(太陽太陰暦)と新暦(太陽暦)では季節の数え方が違っていました。 旧暦・・・春/1月・2月・3月、夏/4月・5月・6月、秋/7月・8月・9月、冬/10月・11月・12月 新暦・・・春/3月・4月・5月、夏/6月・7月・8月、秋/9月・10月・11月、冬/12月、1月、2月 旧暦は二十四節気の雨水を含む月を1月としていました。雨水は新暦の2月19日ごろです。 ですから、大雑把にいうと旧暦は新暦よりも約1か月遅れということになります。 旧暦・・・春/1月・2月・3月(新暦2月・3月・4月) 夏/4月・5月・6月(新暦5月・6月・7月) 秋/7月・8月・9月(新暦8月・9月・10月) 冬/10月・11月・12月(新暦11月・12月・1月) ⑥蠢という漢字の虫は爬虫類と昆虫を表しているのでは?旧暦の1月(新暦2月ごろ)は1年でもっとも寒い季節で、虫がでてくるということはなさそうです。 しかし、旧暦3月(新暦4月ごろ)になると、ぼつぼつと昆虫が出てくるシーズンではないでしょうか? 二つの虫は虫(爬虫類など)だけでなく蟲(昆虫など)もぼつぼつ現れてくるころではないかと思えますが、どうでしょう?
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