大阪市港区 築港赤レンガ倉庫(ジーライオンミュージアム)
※文末に追記あり
築港赤レンガ倉庫は1923年に住友倉庫によって建設されました。
現在はクラッシックカーを展示するジ―ライオンミュージアムとなっています。
赤レンガのシャビーな雰囲気とクラッシックカーがマッチしたすてきな空間です。
①交通事故は若い人のほうが多い?
https://www.youtube.com/watch?v=Mxz0GQpkv_8&lc=z23wyv5oax3mwblltacdp431yzoe4irnqtkqf3vsdfdw03c010c.1557486284409176上の動画で次のような発言があります。
A | 交通事故統計には3つある。 a.免許あたり(ペーパードライバーを含む) b.事故数(事故件数) c.走行距離あたり(ペーパードライバーを含まない) |
B | 現在老人の数が増えているので、老人の事故が増えている(老人の事故率ではなく事故件数が増えている。)。 警察庁は交通事故の絶対数が増えては困るので老人を攻撃している。 |
Ⅽ | abcは大雑把に見て似ている。 事故が1番多いのは10代。2番目は20代。かなり下に30代~70代。30代~70代のちょっと上に80代。
|
Ⅾ | アクセル・ブレーキ踏み間違え事故も、ほとんどの統計を見ると若い人に多い。 |
E | 若い人が事故をおこす原因は慌てたり乱暴な運転をすること。 老人が事故をおこす原因は判断力や運動神経の低下。 |
F
| 慌てたり乱暴な運転をする若い人は免許返納しなくてもよくて、判断力・運動神経が低下した老人は免許返納しろというのはおかしい。 |
②運転免許返納は年齢ではなく個人の能力で決めるべき。最初に私の意見を言っておきます。
運転免許を取得する際には試験がありますね。
試験があるということは、個人の能力で、運転免許を与えてもいいかどうかを決定しているということになります。
これと同じで、免許返納すべきかどうかは個人個人の能力を見て判断するべきではないでしょうか。
本来であれば個人の能力をはかって決定するべきところを、性別・年齢・国籍・血筋などで判断することを差別といいます。
ですから「高齢者は免許返納すべき」というのは差別にあたる可能性があると思います。
高齢者であっても運転するのに必要な判断力・運動神経を十分に備えている人もいると思います。
「高齢者は免許返納すべきは差別である。」とは思うのですが、それでも私は動画の発言はちょっとおかしいのではないか、と思うのです。
その理由を説明します。
③なぜデータを提示しないのか。こういう話をするときにはデータを提示すれば(リンクを貼るだけでもいい)わかりやすくていいと思うのですが、それをされていません。
以前にPETボトルリサイクル推進協議会から「データねつ造」と指摘されたことがあるそうで、それでデータソースを提示するのは畏れておられるのかも、と思います。
でも改変しないデータをもちいれば、「ねつ造」とはいわれなかったんじゃないかと思いますが。
このあたりのことはウィキペディアにも記述がありますが、本人の言い分も聞いてみないとよくわかりません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E9%82%A6%E5%BD%A6#資源保護問題_2
④年代別事故発生件数 1位は10代。2位は20代。3位は80歳以上。
ネットでぐぐってみたところ次の記事が出てきました。グラフは全て下の記事から引用させていただきました。
https://news.yahoo.co.jp/byline/mamoruichikawa/20161120-00064606/
上のグラフは、平成17年~平成27年の間に起こった事故の件数を年代別に分けて折れ線グラフを作ったものです。
①のところで、武田先生が事故件数の統計の取り方について、次の3つがあると教えてくださっていることを書きました。
a.免許あたり(ペーパードライバーを含む)
b.事故数(事故件数)
c.走行距離あたり(ペーパードライバーを含まない)
上のグラフは
b.事故数(事故件数)です。
たしかに動画主さんが指摘されているように、事故件数は10代がもっとも多く、ついで20代が多いです。3番目に多いのが80歳以上となっています。

上の図は、平成17年から27年までの、免許者10万人あたりの事故数です。
a.免許あたり(ペーパードライバーを含む)免許者あたりの事故率=事故件数÷免許者数 ですね。
その免許者あたりの事故率に、わかりやすくするため10万人をかけてあるわけです。
ですから、これは事故率(事故の起こしやすさ)といってもいいかもしれません。
a.免許あたり(ペーパードライバーを含む)=事故率これを見ても、一番高いのは10代、2番目が20代、3番目が80代となっていて、動画主さんがおっしゃっているとおりです。
残念ながら
c.走行距離あたり(ペーパードライバーを含まない)=事故率 のグラフはありません。
⑤武田さんがなぜか触れない死亡事故率
ここまでなら、動画主さんがおっしゃっていることは正しいといえそうです。
ですが、
https://news.yahoo.co.jp/byline/mamoruichikawa/20161120-00064606/上の記事をさらに読み続けていくと、「死亡事故率」という言葉がでてきます。
「死亡事故率」という言葉は動画主さんの説明にはありませんでした。

上のグラフは、死亡事故の件数、
b.事故数(事故件数)を示したものです。
10代と80歳以上が起こす死亡事故は少ないです。

兵庫県丹波市 白毫寺
2019年5月8日 撮影
去年、GW中に2度ほど百毫寺へ行こうと試みたのですが、大渋滞でした~。
距離は大したことないんですが、駐車場に入りきれない車が4~5km続いているんですね。
あまりに動かないので車外に出て犬を散歩させる人もいるほどw。
1時間ほどは粘ったのですが百毫寺にいきつくにはまだ1時間ほどかかりそうでした。
トイレが我慢できなくなって結局断念。
そういうわけで今年は平日に百毫寺に行ってまいりました!
①法道仙人は牛頭天皇?白毫寺縁起によりますと、百毫寺は705年、法道仙人によって開かれたお寺ということです。
法堂仙人の名前は、過去の旅でも何度か耳にしています。
寺 | 住所 | 創建年 | 創建者 | ブログ記事 |
千光寺 | 富山県砺波市 | 703年 | 法道 | |
観音寺 | 京都府福知山市 | 720年 | 法道 | 観音寺 紫陽花 『万葉集 紫陽花の歌 諸兄と諸弟』 |
伽耶院 | 兵庫県三木市 | 645年 | 法道・孝徳天皇 | |
教海寺 | 兵庫県三木市 | 651年 | 法道 | |
一乗寺 | 兵庫県加西市 | 650年 | 法道 | |
普光寺 | 兵庫県加西市 | 651年 | 法道 | |
奥山寺 | 兵庫県加西市 | 651年 | 法道 | |
如意寺 | 兵庫県神戸市 | 645年 | 法道 | |
石峯寺 | 兵庫県神戸市 | 651年 | 法道・孝徳天皇 | |
忉利天上寺 | 兵庫県神戸市 | 646年 | 法道・孝徳天皇 | |
近江寺 | 兵庫県神戸市 | 646年 | 法道 | |
宝珠寺 | 兵庫県神戸市 | | | |
朝光寺 | 兵庫県加東市 | 651年 | 法道 | |
禅瀧寺 | 兵庫県加東市 | 645~650年 | 法道 | |
清水寺 | 兵庫県加東市 | 景光天皇代 4世紀前半 | 法道 | 播州清水寺 青空 白雲 『法道仙人の正体とは』 |
光明寺 | 兵庫県加東市 | 594年 | 法道 | |
西方寺 | 兵庫県丹波篠山市 | 15世紀後半 | 法道 | |
白毫寺 | 兵庫県丹波市 | 705年 | 法道 | |
東窟寺 | 兵庫県篠山市 | 645~650年 | 法道 | |
西林寺 | 兵庫県西脇市 | 651年 | 法道 | |
花山院 | 兵庫県三田市 | 651年 | 法道 | |
奥山寺 | 兵庫県加西市 | 651年 | 法道 | |
常勝寺 | 兵庫県多可町 | | | |
法楽寺 | 兵庫県神河町 | 642~645年 | 開基/枚夫長者 開山/法道 | |
七宝寺 | 兵庫県神河町 | | | |
圓満寺 | 兵庫県多可町 | | | |
法道寺 | 兵庫県朝来市 | 650~654年 | 法道 | |
長谷寺 | 鳥取市倉吉市 | 721年 | 法道 | |
仙龍寺 | 愛媛県四国中央市 | 815年、空海が法道より この地を譲り受けた。
| 法道 | |
羅漢寺 | 大分県中津市 | 645年 | 法道 | |
多聞寺 | 神戸市北区 | 645~654年 | 法道 | |
廣峯神社 | 兵庫県姫路市 | 734年 | 吉備真備 ※法道は牛頭天皇とともに日本にやってきたとされ、 廣峯神社は牛頭天皇の総本社を称している。 | |
上の表見ていただくとおわかりいただけるように、法道が創建した寺の創建年は、飛鳥時代~奈良時代が多いです。
そのため、法道は6~7世紀ごろに日本へやってきたと考えられています。
しかし中には、4世紀前半の景光天皇代とか、平安時代の815年、15世紀なんてのもあります。
法道は1000歳まで生きた?
法道は法堂仙人とも呼ばれていますが、仙人とは、仙術をあやつり、不老不死を得た者のことですし。
なーんてことはないですね。
どれだけ修業をしようと人間が1000歳まで生きたとは信じがたいです。
播州清水寺 青空 白雲 『法道仙人の正体とは』 ↑ こちらの記事にも書いたのですが、法道は牛頭天皇とともに日本にやってきたと言われています。
私は「法道は牛頭天皇とともに日本にやってきた」というのは、比喩的表現で
法道とは牛頭天皇(釈迦の生誕地・祇園精舎の守護神)そのもののことではないかと考えています。
②宝鉢なのに空鉢ってどういう意味?法道仙人はインドの仙人で、鉢の宝鉢をもっていたため、空鉢仙人とも呼ばれます。
なんで宝鉢なのに、空鉢なんでしょうね?
空鉢ときくと、空っぽの鉢というイメージをもってしまいますが。
空を辞書で調べてみると次のような意味がでてきます。
a.仏教用語。すべての事物はみな因縁によってできた仮の姿で、永久不変の実体や自我などはないこと。
b.中がからになっていること。
c.大空
d. 天と地との間。空間。。
e. 何も存在しないこと。
f. 事実でないこと。よりどころのないこと
g. 無益なこと。また、そのさま。むだ。「今までの努力が空に帰した」
うーーーん?
③空飛ぶ鉢空鉢と聞くと思い出すものがあります。
朝護孫子寺の空鉢護法堂です。
朝護孫子寺本堂から山道を600mも登らないといけないんで、参拝しなかったんですが~(この根性なし!)
空鉢護法堂(くうはつごほうどう)は、毘沙門天王の眷属、八大龍王の上首・難陀竜王(なんだりゅうおう)を祀っています。
「信貴山縁起絵巻」上巻「飛倉之巻(とびくらのまき)」では、、命蓮が空鉢を飛ばし、鉢が山崎長者の蔵を乗せて命蓮のもとに飛びかえったという話があります。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/da/Sigisanengi_tobikura.jpg よりお借りしました。
作者 English: unknown 日本語: 作者不詳 (不明) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
この空鉢は空鉢護法堂で祀られている竜王の力をもっているとされます。
「鉢が開く」「鉢巻き」「鉢合わせ」など頭のことを鉢ということがあります。
鉢とはドクロを比喩的にいったものではないかと思います。
また玄ボウ・曽我入鹿・平将門らの首が飛んだという伝説があります。
多武峯縁起絵巻 複製 中大兄皇子に首を斬られる蘇我入鹿(談山神社)空鉢をもっていた法道とはドクロなんじゃないでしょうか?
空鉢護法堂では神として白蛇を飼っているそうです。
空鉢護法堂では難陀竜王を祀っているということでしたね。
でも龍は架空の聖獣なので、なんとなくイメージが似ている蛇を龍に見立てているのではないでしょうか。
http://www.senjyuin.or.jp/?page_id=135上のサイトに「空鉢ご分霊」の写真があります。
これは、宇賀神にそっくりです。
喜光寺 宇賀神
昔の人は蛇を、ドクロに長い首がついた動物だと考えていたのではないでしょうか。
すると、「空鉢護法堂で祀られている難陀竜王=蛇=宇賀神=ドクロに長い首がついている」となり、難陀竜王の力を持つ鉢はドクロを裏付けると思うんですが、どうでしょう?
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大阪府交野市 磐船神社
十種(とぐさ)祭・・・5月5日
①端午の節句はニギハヤヒの節句?ニギハヤヒを御祭神とする磐船神社。
磐船神社の祭礼って「もしかしたら5月5日じゃないかなあ」と思ってたんですが、あたりでした♪
なんで5月5日が磐船神社の祭礼だと思ったのかって?
②お雛様=天照大神、お内裏様=スサノオ、三人官女=宗像三女神、五人囃子=五柱の男神?雛人形はお内裏様(男雛と女雛)、それに三人官女と五人囃子を飾りますね。
女雛は天照大神、男雛はスサノオの像ではないかと私は考えています。
(正確にはお雛様はアメノウズメ、お内裏様はサルタヒコ=ニギハヤヒの像といういことになると思いますが、これについてはおいおい説明します。)
天照大神とスサノオは姉弟ですが、きょうだいで契って子を産んでいます。
天照大神はスサノオの十拳剣(とつかのつるぎ)を噛みくだき、ふっと息をふくと宗像三女神(タギリヒメ・イチキシマヒメ・タギツヒメ)が生まれました。
次にスサノオが天照大神の「八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠」をかみ砕き、ふっと息をふくと、五柱の男神(アメノオシホミミ・アメノホヒ・アマツヒコネ・イクツヒコネ・クマノクスビ)が生まれました。
雛人形の三人官女は宗像三女神ではないかと思います。
宗像三女神を祀る市比売神社では3月3日に『ひいな祭』を行っており、宗像三女神と雛祭には関係がありそうに思えますね。
市比売神社 ひいな祭すると五人囃子は五柱の男神(アメノオシホミミ・アメノホヒ・アマツヒコネ・イクツヒコネ・クマノクスビ)なのではないでしょうか?
③雛人形は星の神だった?
古事記によれば、天照大神とスサノオは天の安河をはさんで子産みをしたとあります。
天の安河とは天の川のことではないでしょうか。
すると、天照大神は織女星(ベガ)、スサノオは牽牛星(アルタイル)ということになります。
天照大神は太陽神なのに織女星って変な気もしますが、神はそのときどきで神格を変えると考えることができるかもしれません。
また、三人官女はみたらし星(オリオン座の三つ星)、五人囃子はスバル(プレアデス星団)なのかも。
雛人形とは星の神々だった可能性が大です。
プレアデス星団https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3APleiades_large.jpg よりお借りしました。
作者 NASA, ESA, AURA/Caltech, Palomar Observatory The science team consists of: D. Soderblom and E. Nelan (STScI), F. Benedict and B. Arthur (U. Texas), and B. Jones (Lick Obs.) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
大きく目立つ星が5つありますね。
⑤天の川伝説発祥の地で、磐船神社の側に川が流れているのですが、その川の名前を天の川といい、天の川をはさんで機物神社と中山観音寺跡が対面しています。
参照/
中山観音寺跡(牽牛星)と機物神社(織女星) 七夕祭 『星の神が住む交野が原』 機物神社は織女星、中山観音寺跡は牽牛星になぞらえられているといわれ、このあたりは日本における天の川伝説発祥の地といわれています。
他にも天の川伝説発祥の地と称する場所はいくつかあるんですが、磐船神社は初代神武天皇が畿内入りするより早くニギハヤヒが天下ったとされている歴史の古い場所なので、
この地が天の川伝説発祥の地である可能性は高いと思います。
また、雲陽誌という書物によれば、磐船神社の御祭神・ニギハヤヒは星の神と記されています。
⑥スサノオとニギハヤヒは同一神?
記紀神話では女神の天照大神と男神のスサノオがうけいの子産みをしたとありますが、スサノオとニギハヤヒは同一神ではないかと私は考えています。
船場俊昭さんは次のようにおっしゃています。
スサノオを漢字で書くと素戔鳴尊となりますが、これは「輝ける(素)ものを失って(戔)ああ(鳴)と嘆き悲しむ神(尊)」という意味で、スサノオはもともとは星の神だったのが、のちに星の神という神格を奪われたのてはないかと。
ニギハヤヒもスサノオもどちらも星の神なのです。
雛人形 | 神 | 星 |
お内裏様 (女雛) | 天照大神
| 織女星(ベガ) ※天照大神とスサノオは天の安川をはさんでうけいの子産みをしている。 |
お内裏様 (男雛) | スサノオ=ニギハヤヒ(どちらも星の神) | 牽牛星(アルタイル) ※天照大神とスサノオは天の安川をはさんでうけいの子産みをしている。 ※ニギハヤヒを祀る磐船神社は天の川のほとりにある。 |
三人官女 | 宗像三女神(天照大神とスサノオのうけいの子産みで生まれた。スサノオの子) | みたらし星 (オリオン座の三つ星) |
五人囃 | アメノオシホミミ アメノホヒ アマツヒコネ イクツヒコネ クマノクスビ(5柱とも天照大神とスサノオのうけいの子産みで生まれた。天照大神の子) | すばる(プレアデス星団) |

⑦三人官女は天照大神の、五柱の男神はスサノオの分身?
神が子を産むとは、神が分身をつくるということではないかとする説があります。
宗像三女神はスサノオの刀から生まれたのでスサノオの子、五柱の男神は天照大神の珠から生まれたので天照大神の子とされていますが
宗像三女神は天照大神が、五柱の男神はスサノオが産んでいますので
宗像三女神は天照大神の分身、五柱の男神はスサノオの分身のようにも思えます。
そして3月3日がアメノウズメの分身・宗像三女神にちなんで女の子の日なのであれば、5月5日はニギハヤヒの分身・五柱の男神の日となるのではないか?
そんな風に考えたのですが、どうでしょう?
⑧
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奈良県桜井市 山田寺跡
撮影 10年以上前!
①蘇我倉山田石川麻呂蘇我倉山田石川麻呂(? - 649年)は蘇我馬子の孫で蘇我倉麻呂の子として生まれました。
蘇我蝦夷は叔父、蘇我入鹿は従妹です。
蘇我蝦夷ー蘇我入鹿
蘇我馬子<
蘇我倉麻呂ー蘇我倉山田石川麻呂
蘇我日向(倉山田石川麻呂の異母弟)同族ですが、蘇我倉山田石川麻呂は蘇我氏本宗家の蘇我蝦夷・蘇我入鹿父子と対立していたようです。
②蘇我倉山田石川麻呂、乙巳の変のメンバーに。626年、蘇我馬子が死亡し、子の蝦夷が大臣となりました。
蘇我蝦夷・入鹿親子は権力を増大させ、豪族達は朝廷ではなく蘇我家に出仕する有様でした。
642年、蘇我蝦夷と入鹿は、自分達の陵墓築造のために公民を動員しています。
聖徳太子の一族の領民も動員され、聖徳太子の娘の大娘姫王が抗議していますね。
643年、蘇我蝦夷は朝廷の許可をえず蘇我入鹿を大臣とし、次男を物部の大臣としました。
こうした蘇我氏の専横に対し、中臣鎌足&中大兄皇子らは蘇我入鹿殺害を計画します。
この蘇我入鹿殺害計画のメンバーに、蘇我倉山田石川麻呂もはいっていました。
蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘(おちのいらつめ)が中大兄皇子の后になるなど、姻戚関係も結んでいます。
645年、蘇我入鹿は中大兄皇子に斬られて没し、その翌日、蘇我蝦夷は自宅に火を放って自殺しました。
こうして蘇我本宗家は滅びました。
皇極天皇は孝徳天皇に譲位し、中大兄皇子が皇太子となりました。
皇太子となった中大兄皇子は阿倍内麻呂を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣、中臣鎌足を内臣に任命しました。
多武峰縁起絵巻 複製(談山神社)中大兄皇子に首を斬られた蘇我入鹿。入鹿の首は皇極天皇の御簾にくらいついたと伝えられます。③蘇我倉山田石川麻呂、冤罪で自害。右大臣の地位を手に入れた蘇我倉山田石川麻呂。
しかし彼の栄華は異母弟の蘇我日向によって打ち壊されてしまいます。
649年、蘇我日向は、「蘇我倉山田石川麻呂は謀反を企てている」と中大兄皇子に密告しました。
蘇我倉山田石川麻呂のもとへ孝徳天皇の軍がさし向けられ、蘇我倉山田石川麻呂は一族とともに山田寺仏殿前で自害してしまったのです。
この事件は中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀であったとされます。
④蘇我倉山田石川麻呂の死後も続けられた山田寺建立。山田寺は641年に整地工事が始まり、643年には金堂の建立が始まっています。
648年には僧が住むようになっていたようです。
この翌年の649年に蘇我倉山田石川麻呂が自害してしまったため、山田寺造営は中断してしまいましたが
663年(天智天皇2年)に塔建立が始まり、676年8天武天皇5年)に塔が完成したとみられます。
678年(天武天皇7年)丈六仏像鋳造が始まり、685年(天武天皇14年)丈六仏像が開眼され、天武天皇が山田寺に行幸しています。
※丈六/仏像の像高。立像で約4.8m、坐像はその約半分。
⑤天智天皇と持統天皇は蘇我倉山田石川麻呂の怨霊を恐れた?②にも記したように、蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘は中大兄皇子〈天智天皇)の妻となり、健皇子・大田皇女・ 鸕野皇女を産んでいます。
鸕野皇女は天武天皇の皇后となり、天武天皇崩御後、持統天皇として即位しています。
蘇我倉山田石川麻呂の死後も山田寺の造営が続けられたのは、持統天皇・天武天皇の力添えがあったのではないかと考えられています。
また天智天皇(中大兄皇子)やその娘の持統天皇が、蘇我倉山田石川麻呂の怨霊を恐れたということもあって、山田寺の建立は続けられたのではないかと思ったりします。
蘇我倉山田石川麻呂が自殺においやられたのは中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀なのでしたね。
また、『末代まで祟ってやる』などというように、怨霊は憎い本人だけでなく、その子孫にも祟ると考えられていたようです。
奈良時代には長屋王が謀反を企てていると讒言され、厳しい取り調べを受けて自殺に追い込まれていますね。
長屋王の変は藤原四兄弟の陰謀だと考えられています。
その後、天然痘が流行り、藤原四兄弟は相次いで死亡してしまったのですが、これは長屋王の怨霊のしわざだと噂されました。
飛鳥時代にもこれと同じような怨霊信仰があったのではないかと思うのです。
つまり、山田寺の丈六仏像は蘇我倉山田石川麻呂の怨霊封じ込めの象ではないかと思うわけです。
⑥興福寺の僧兵、山田寺講堂本尊を強奪!『玉葉』(九条兼実の日記)に次のような内容が記されています。
「1187年、興福寺の僧兵が山田寺に押し入り、山田寺講堂本尊の薬師三尊像を強奪して、興福寺東金堂の本尊とした」と。
この山田寺講堂本尊の薬師三尊像の中尊の薬師如来は685年(天武天皇14年)に開眼された丈六仏像だと考えられています。
1180年、興福寺は平重衡の兵火によって炎上しています。
このとき、興福寺・東金堂の本尊も焼失してしまったのでしょうか。
興福寺
興福寺は藤原氏の氏寺ですが、藤原氏の祖は中臣鎌足です。
中臣鎌足は死の間際に天智天皇(中大兄皇子)より藤原姓を賜ったとされます。
この藤原鎌足(中臣鎌足)の次男が藤原不比等ですが、藤原不比等は天智天皇の後胤とする説があります。
藤原鎌足は天智天皇の后であった鏡王女を妻としてもらいうけていますが、この時鏡王女はすでに天智の子を身ごもっており、これが藤原不比等であったと、『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などに記されています。
すると、藤原氏にとって蘇我倉山田石川麻呂は先祖(天智天皇と蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘の間に生まれたのが持統天皇なので)ということになります。
鏡王女
|――藤原不比等(興福寺縁起などによる。一般に藤原不比等は中臣鎌足の次男とされる。)
天智天皇
|――持統天皇
蘇我倉山田石川麻呂―遠智娘
興福寺は山田寺に対して、次のような理由を申し立てて仏像を強奪したのではないでしょうか。
a.藤原氏は天智天皇の後胤である。
b蘇我倉山田石川麻呂の死後,山田寺に塔が建立されたのは天智天皇の資金援助を得たためである。(④を参照)
また陰陽道では荒ぶる怨霊(荒魂)は十分に慰霊するとご利益を与えてくださる和魂に転じるという考え方がありました。
さらに、明治まで神仏は習合して信仰されていました。
藤原氏の祖・天智天皇にとって蘇我倉山田石川麻呂は恐ろしい怨霊であるが、十分に慰霊・供養すれば和魂に転じる。
そういうわけで蘇我倉山田石川麻呂の怨霊封じ込めの像である山田寺の丈六仏像を興福寺は欲したのかも?
1411年、興福寺東金堂で火災が発生し、丈六仏像も焼けてしまったようです。
その際、頭部が落ちて焼け残り、その後新しく造られた本尊像の台座内にしまいこまれたようです。
昭和12年(1937年)に発見され、現在は国宝館に安置されています。

山田寺仏頭(興福寺蔵)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Buddha_Head_Yamadadera.JPG
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/08/Buddha_Head_Yamadadera.JPG よりお借りしました。
匿名Unknown author [Public domain]
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大阪市此花区 舞洲シーサイドパーク
2019年5月2日 撮影
①茅渟の海と衣通郎姫が住む茅渟宮舞洲は大阪湾につくられた人口島です。
ネモフィラの青いカーペットの向こうには茅渟の海が見えます。
茅渟の海は大阪湾の別名で、たいへん古い地名です。
允恭天皇のころ、すでに茅渟の海と呼ばれており、衣通郎姫(そとおりひめ)が住む茅渟宮があったとされます。
茅渟宮跡は大阪府泉佐野市とされ、舞洲よりかなり南になりますが(汗~)
えー、日本書紀は衣通郎姫は応神天皇の子・稚渟毛二岐皇子(わかぬけのふたまたのみこ)の娘で、允恭天皇の皇后忍坂大中姫の同母妹としています。
「美しさが衣を透して輝く」という意味で、衣通郎姫と呼ばれたとされます。
(古事記は允恭天皇の皇女で、母は忍坂大中津比売命、軽大郎女と同一人物としていますが~。)
舞洲②蜘蛛が衣につくと親しい人が訪ねてくる。日本書紀に衣通郎姫の歌が二首あります。
我が夫子(せこ)が 来べき夕(よひ)なり 小竹(ささ)が根の 蜘蛛の行ひ 今宵著(しるし)も
(私の愛しいあの人が来る夜だと思う。笹の根での蜘蛛の行いが、今夜ははっきり見えるので。)允恭天皇が藤原に行幸された際、おしのびで衣通郎姫に会いにいこうと考えておられました。
この夕べ、天皇を恋しく思った衣通郎姫は、天皇がこられることを知らなかったのですが、この歌を詠んだということです。
千人万首の現代語訳は次のようになっています。
今晩は、きっとあの人が来てくれるに違いない。笹の根元で蜘蛛が巣を張っている、今夜はそれがはっきり見えるもの。http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sotoori.html より引用
「蜘蛛の行い」を「雲が巣を張っている」と訳していますね。
蜘蛛が巣をつくると愛しい人がやってくるというような迷信があったんでしょうか?
私なんかは不吉な歌のように思ってしまいますが。
蜘蛛が巣をつくるのは獲物を捕獲するためですよね。
まるで衣通郎姫が蜘蛛で、允恭天皇は蜘蛛の獲物のようではありませんか。
ですが、中国では蜘蛛が衣につくと、親しい人が訪ねてくるという俗信があったようで、ここから蜘蛛を喜母と呼んでいたということです。
不吉な歌だと思うのは、私の勘違いかもしれません。
また、実際に允恭天皇は衣通郎姫のもとにやってきたようなので、衣通郎姫は未来予測ができたということかもしれませんね。
③なのりそも衣透郎姫が詠んだもう一首を見てみましょう。
允恭天皇は皇后の嫉妬を怖れ、衣通郎姫を河内の茅渟宮に住まわせ、狩をすると偽っては頻繁に茅渟宮の衣通郎姫に会いにきていました。
しかしうすうす感づいた皇后が恨みつらみを言うので、なかなか衣通郎姫に会えなくなりました。
そしてようやく1年後に衣通郎姫に会うことができました。
天皇にあった衣通郎姫はこんな歌を詠みました。
とこしへに 君も遇(あ)へやも いさなとり 海の浜藻の 寄る時々を
(しょっちゅうあなたに会いたいけれど、海の浜辺に藻が寄せるように千人万首の現代語訳は次のようになっています。
いつも、しょっちゅうあなたに逢いたいけれど、そんなことができるでしょうか。海の浜辺に藻が寄せるように、時々しかあなたは寄ってくれないのに。http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sotoori.html より引用
これを聞いた天皇は衣透郎姫にこう言いました。
「この歌を他人に聞かせてはいけないよ。皇后が聞いたら恨むだろうから。」
それで時の人は浜裳を「なのりそも」というようになりました。
「浜藻」とは浜に打ち上げられた藻、あるいはホンダワラの別名とのことです。
ホンダワラは楕円形の気泡があるため海面に浮き、流れ藻になるそうです。
「とこしへ」は永遠に、「いさなとり」は「鯨をとる」という意味で、海・浜・灘にかかる枕詞です。
永遠にあなたといっしょにいたい。漁師が鯨をとる海。その海の浜藻が岸に寄るたびごとに。みたいに訳すのはダメなんですかね?
「時々しかやってこない」のであれば、皇后はそんなに嫉妬しないのではないかと思ったりするのですが。
④お不言さまえー、それはさておきまして、福岡県の宗像大社は宗像市田島の片津宮、筑前大島の中津宮、沖ノ島の沖津宮からなる神社ですね。行ったことないのですが。
このうちの沖津宮は古来より女人禁制となっており、男性は真っ裸になって禊をしてから入島するのがしきたりです。
なぜ女人禁制なのかについては諸説ありますが、御祭神の田心姫神が女神で嫉妬深くて祟られるからなどともいわれます。
嫉妬深いというのは、なんだか、允恭天皇の皇后みたいですね。
そして沖津島に立ち入った男性は島で見聞きしたことを誰かにしゃべったりしてはいけないと言い伝えられています。
そのため、沖ノ島(沖津宮)は「お不言さま(おいわずさま)」と呼ばれています。

お不言さまというネーミングは、允恭天皇の皇后の妹・衣通郎姫を思い出してしまいます。
衣通郎姫は允恭天皇に「その歌を他人に聞かせてはいけないよ」と言われたのでした。
「聞かせてはいけない」ということは「しゃべってはいけない」ということです。
もしかして、沖津宮の田心姫神とは衣通郎姫のことだったりして?
でも嫉妬深いのは衣通郎姫の姉の皇后でしたね。
沖津宮が女人禁制なのは沖津宮の田心姫神が嫉妬深いからというのは一説にすぎず、絶対的なものではありません。
女性の中には允恭天皇の皇后もいます。
その皇后が沖ノ島にいって、そこでいちゃついている允恭天皇と衣通郎姫の姿を見たら、皇后は嫉妬のあまりヒステリーをおこしてしまうかもしれない。
そういうわけで沖ノ島は女人禁制になっているのかも?
お不言さまと呼ばれているというだけで、他人にしゃべってはいけないと允恭天皇に命じられた衣通郎姫と田心姫神を同一神とみなすのはちょっと乱暴ですね。
もう少し考えてみます(汗)。
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