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5月の祭 まとめ 


日程は変更になることがありますので、ご確認ください。

5月3日   亀岡光秀まつり 『愛宕百韻は光秀の信長打倒の意思表明?』 

亀岡光秀祭7

亀岡光秀祭-2

亀岡光秀祭

5月3日 下鴨神社 流鏑馬 『下鴨神社の流鏑馬と端午の節句には関係がなかった~』※追記あり※タイトル変更しました。 

下鴨神社 流鏑馬4

下鴨神社 流鏑馬-平安装束2
5月3日 神泉苑祭 神泉苑 つつじ 『言霊信仰は呪術だった?』 

神泉苑祭 





5月4日 篠田の花火 『松明の形は男女和合の形?』 

篠田の花火 和火

5月5日 上賀茂神社 競馬 『乗尻はなぜ舞楽の衣装を身に着けているの?』 

上賀茂神社 競馬2


5月5日 藤森神社 駆馬神事 流し撮り 『早良親王の蝦夷征伐?』 

藤森神社 駆馬神事
5月1日~4日 千本閻魔堂 狂言 『土蜘蛛の正体』 

千本閻魔堂狂言

千本閻魔堂狂言 土蜘蛛


5月14日 當麻寺 當麻のお練り 『中将姫は藤原豊成の和魂だった?』 

當麻のお練り

當麻寺 二十五菩薩練供養 『二十五菩薩練供養は聖徳太子信仰からくる?』 

當麻のお練り2

 當麻のお練り 雲の上の菩薩

5月第2日曜日 新日吉神宮 神幸祭 『秀吉の廟を守護する三番叟猿?』  

新日吉神社 鉾

新日吉神社 神幸祭 武者姿の稚児2

新日吉神社 鉾さし

5月15日葵祭 『天地を和合させる祭?』 

葵祭 斎王代列 斎王代

葵祭 斎王代列 牛車

5月17日 日光東照宮 例大祭 流鏑馬 神輿渡御 『星の神を祀っているのになぜ日光東照宮?』 

日光東照宮 流鏑馬2

5月18日 日光東照宮 例大祭 百物揃千人武者行列 『変わっていく神の定義?』※追記 訂正 

日光東照宮 百物揃千人武者行列 稚児2

日光東照宮 百物揃千人武者行列 武者

日光東照宮 百物揃千人武者行列 神輿2

5月19日 唐招提寺 うちわまき 舞楽 黄菖蒲 菖蒲 『蚊の妖怪・紫女』 

唐招提寺 うちわまき

唐招提寺 舞楽 納曽利

5月第3日曜日 霊山寺 薔薇会式・えと祭 『鼻高仙人の正体とは』 

霊山寺 えと祭り



5月第三金・土・日曜日 浅草神社 浅草寺 三社祭 『丸〆猫はなぜ三毛猫なの?』 

三社祭6



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[2019/04/30 15:00] まとめ | TB(0) | CM(0)

京都の桜 いろいろ② 

「ここに行った」という自分用覚書です。
なのでイマイチなのもありますが、ご容赦を―!


宇治 朝霧 

宇治 朝霧橋

新日吉神社 
新日吉神社


千本閻魔堂 
千本閻魔堂

擁翠園 
擁翠園

妙満寺 
妙満寺

法金剛院 
法金剛院

新熊野神社 
新熊野神社

妙見寺 
妙見寺

醍醐寺 清滝宮 
醍醐寺 清滝宮

宥清寺

宥清寺

大覚寺 

大覚寺

妙法院 
妙法院



高瀬川 
高瀬川




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[2019/04/29 21:59] 京都府 | TB(0) | CM(0)

京都の桜 いろいろ 


神泉苑
 
神泉苑

御香宮 
御香宮
 

折上神社

折上神社

雲林院 
雲林院

雨宝院 
雨宝院

祇園白川 

祇園白川

金戒光明寺

金戒光明寺

宇治神社 
宇治神社


北野天満宮

北野天満宮
養源院  
養源院

墨染寺 

墨染寺

地蔵禅院 
地蔵禅院

法住寺 

法住寺

上品蓮台寺 

 上品蓮台寺

天龍寺 
天龍寺

真如堂 
真如堂

渉成園 
渉成園


北向不動 

北向不動



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[2019/04/28 23:46] 京都府 | TB(0) | CM(0)

祇園社 (奈良) 八重桜 『祇園社はなぜ創建されたのか?』 


奈良市押上町 祇園社
2019年4月21日 撮影

祇園社(奈良) 
①1338年、京都・祇園社を勧請して創建された神社

転害門の近く、押上町に祇園社八坂神社(やさかじんじゃ)がありました。
八坂神社は京都市東山区にもありますね。
京都の八坂神社は牛頭天皇(スサノオと習合されている。)の総本社を称しています。
もっとも、兵庫県姫路市の広峰神社(兵庫県姫路市広嶺山52)も牛頭天皇の総本宮を称していて、もめているようですがw
(詳しくはこちら→祇園祭 花傘巡行 『牛頭天王の総本社はどこ?』  

押上町の祇園社は、1338年にに京都の祇園社(現在の八坂神社。明治の神仏分離令で八坂神社と改名した。)を勧請して創建されたとされます。

京都八坂神社といえば7月の祇園祭が有名ですが、奈良の祇園社でも7月に祇園祭が行われているとのことです。
かつては祭で山・笠鉾の巡行も行われていたそうです。
奈良の町を巡行する山鉾の姿を見てみたい!復興を願います。

また東大寺の鎮守・手向山八幡宮の末社であったと伝わります。

祇園社 弁財天社

②長承年間(1132~1134年)の飢饉・疫病の流行


祇園社の創建年が1338年というのが気になりました。

奈良の祭と言えば12月に行われる春日若宮おん祭ですが、そのおん祭が始められたのが祇園社創建の2年前の1336年だったのでした。

春日若宮様は本社に祀られている天児屋根命と比売神の御子神で、神名を天押雲根命といいます。
1003年3月3日、比売神が祀られている第四殿に出現されました。

長承年間(1132~1134年)、大雨洪水により飢饉が相次ぎ、疫病が流行するなどしました。

そこで、1135年、若宮様のために神殿を造営し、1136年より若宮様のためのお祭り・おん祭が行われるようになりました。

祇園社はその2年後の1338年に創建されたということになります。
 
春日若宮おん祭 大和士宵宮詣 
春日若宮おん祭 大和士宵宮詣

祇園社の御祭神・スサノオはもともとは疫神です。
疫神都は疫病をもたらす神ですが、その疫神を神として祭り、慰霊することで疫病の流行を鎮めていただこうという考え方があり、現在スサノオは「疫病を鎮める神」として信仰されています。

ということは、祇園社が創建されたのは、長承年間(1132~1134年)に流行した疫病を鎮める目的があったと考えられるのではないでしょうか。

春日若宮様は春日大社境内にあります。
春日大社は藤原氏の氏神です。

いっぽう、祇園社は東大寺の鎮守・手向山八幡宮の摂社だったということです。
東大寺は官寺であり、天皇家の色合いが濃い寺です。


古の奈良では7月には東大寺ー祇園社の祇園祭が、12月には春日大社ー若宮社のおん祭が行われていたのですね。

そして華やかな祭の裏には悲惨な飢饉・疫病の流行があったと考えられるのではないでしょうか。




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[2019/04/27 22:54] 奈良県 | TB(0) | CM(0)

東大寺 八重桜 赤い楓 しだれ桃 夕景 『大仏の脇侍を寄進した二人の尼僧の正体とは?』 


奈良市雑司町 東大寺
2019年4月21日撮影(仏像は過去撮影)


大仏殿2

①大仏は長屋王の怨霊封じ込めの像?


東大寺の大仏〈廬舎那仏)は長屋王の怨霊封じ込めの像だとする説があります。

720年、右大臣・藤原不比等が薨去したのち、721年に長屋王(祖父/天武天皇 父/高市皇子)が右大臣となって政権を握りました。
724年に聖武天皇が即位すると長屋王は左大臣となりました。

729年、漆部君足と中臣宮処東人が「長屋王はこっそりと左道を学んで国家を傾けようとしている!」と密告しました。
厳しい取り調べに耐え切れず、長屋王は自殺してしまいました。
これを長屋王の変といいます。

 長屋王が国家を傾けようとしている、というのは事実ではなく、長屋王を排斥するための藤原氏の陰謀だと考えられています。
のちの738年には長屋王に仕えていた大伴子虫が、「中臣宮処東人がありもしないことをでっちあげて長屋王を自殺に追い込んだ」と言う理由で
中臣宮処東人を殺す事件もおきています。

ところが政権を手中にした藤原四兄弟が737年に天然痘の流行で次々に死んでしまったので「長屋王の祟りじゃ~!」と騒がれました。

大仏は聖武天皇の発願によって大仏の制作が開始されたのは745年です。(完成は752年)
聖武天皇は長屋王の霊を鎮めるために大仏を作ったのではないかというのですね。
たしかにそれはありそうに思えます。


奈良の大仏 

大仏

②大仏殿独自の三尊配置

大仏は正確には廬舎那仏といい、その脇侍としては文殊菩薩と普賢菩薩が配置されるのが一般的です。
しかし、東大寺では大仏様の左手(向かって右)に如意輪観音、右手(向かって左)に虚空蔵菩薩を配置しています。
なにか理由があるんでしょうか?

東大寺 大仏殿 如意輪観音 

如意輪観音

東大寺 大仏殿 虚空蔵菩薩 

虚空蔵菩薩

③大仏の脇侍を寄進した大和国の二人の尼僧

大仏の脇侍の二体の像は、大和国にかつて存在した国分寺在籍の謎の尼僧2人が寄進したといわれているそうです。

国分寺とは、741年に聖武天皇が国家鎮護を目的として各国に建立を命じた寺院のことです。
国分僧寺(僧侶が男性の寺)と国分尼寺(僧侶が尼僧の寺)があります。
 
大和国とは現在の奈良県に相当する地域のことで、大和国には総国分寺として東大寺が、僧国分尼寺として法華寺が建立されました。

奈良県橿原市北八木にも国分寺があります。
阿弥陀如来像、十一面観音像などは平安時代のものとされますが、文献(寺田一生禄)では、この寺の歴史は天正年間(1573~1593年)までしか遡れません。
しかし、江戸時代に書かれた『大和志』には、『延喜式に記された大和国分寺は東大寺ではなく、この寺である』と記されています。

像を寄進したのは、橿原市国分寺の尼僧だったのか?
尼僧が属するのは国分尼寺ですが、こちら↓ のサイトでは、国分僧寺と国分尼寺が同じ住所になっているところもあります。
https://origamijapan.net/origami/2018/07/2 8/kokubunji-kokubun-niji/

 
法華寺 梅 
法華寺 梅(過去撮影)


ですが、二人の尼僧がいたのは大和国の総国分尼寺・法華寺のことだと思います。

法華寺の開基は光明皇后です。
二人の尼僧とはこの光明皇后と光明皇后の娘・孝謙天皇(重祚して称徳天皇)のことだと思います。

光明皇后が出家したという話は聞きませんが、尼僧というのは比喩的表現だと思います。
光明皇后は法華寺の開基なので、尼僧と言っているのではないでしょうか。
光明皇后の娘の孝謙天皇は阿倍内親王は762年、道鏡と男女関係を疑われた際、身の潔白を証明するために出家して、法華寺に住んでいます。

大仏殿  

④長屋王の怨霊を恐れた母娘

光明皇后と孝謙天皇には、大仏の脇持を寄進する動機があります。

①に次のようなことを書きました。

a.東大寺の大仏〈廬舎那仏)は長屋王の怨霊封じ込めの像だとする説がある。
b.729年、漆部君足と中臣宮処東人が「長屋王はこっそりと左道を学んで国家を傾けようとしている!」と密告した。
厳しい取り調べに耐え切れず、長屋王は自殺した。(長屋王の変)
c.長屋王の変は藤原氏の陰謀だと考えられている。
d.737年,藤原四兄弟が天然痘にかかって次々に死んでしまい、長屋王の祟りとされた。

光明皇后は聖武天皇の皇后で、藤原四兄弟の妹です。

光明皇后は「兄たちはみんな長屋王の怨霊に殺された。次は私が長屋王の怨霊に殺される!」とおそれたことでしょう。
光明皇后は敬虔な仏教徒でしたが、それはみほとけに長屋王の怨霊から守ってもらおうと考えたためではないでしょうか。

孝謙天皇は聖武天皇と光明皇后の間に生まれた娘でしたので、やはり長屋王の怨霊を恐れたことと思います。

二月堂裏参道

季節は駆け足で過ぎていき、風景は走馬燈のように変わっていきますね。

東大寺 二月堂2 

↑↓ 二月堂より落日を望む


東大寺 二月堂 



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[2019/04/26 11:32] 奈良県 | TB(0) | CM(0)

奈良国立博物館 藤田美術館展 八重桜 『星はなぜ反逆者の象徴とされたのか』 


奈良市登大路町 奈良国立博物館
2019年4月21日 撮影

 奈良国立博物館 庭園

奈良公園をうろうろしていたら、遠くのほうに鮮やかな八重桜を発見!茅葺屋根も見えています。
近寄ってみるとそこは奈良国立博物館併設の庭園でした。
奈良国立博物館ではちょうど「藤田美術館展」をやっていまして、チケット提示すれば庭園見れるとのことでした。
趣味人の友人が「天目茶碗が見たい!」というし、閉館まであと1時間くらいだったけど行ってみることに。

奈良国立博物館 庭園2

すばらしい八重桜!穴場的撮影スポットと思います。

①天目茶碗

展示会場では、曜変天目茶碗の周囲に人だかりができていました。

天目茶碗とは、中国の茶の産地だった天目山の寺院で用いられていた陶器の茶碗です。
長石・石灰岩・鉄イオンを原料とする鉄釉という釉薬をかけて焼くのが特徴です。
鉄分の含有率が1 - 2パーセントならば青磁となり、15パーセント以上なら黒磁となるということです。

宋以降、天目茶碗は白茶(中国の弱発酵茶)の流行にともなって数多くつくられるようになりました。
このころ、日本は鎌倉時代で、禅宗が盛んでした。
日本から天目山に留学した禅僧が喫茶の習慣とともに天目茶碗を持ち帰ったといわれます。

奈良国立博物館 庭園3  

②世界に3つ(または4つ)だけ存在する曜変天目

この天文茶碗の最上級品とされるのが「曜変天目」で、世界に3つしかない、と言われています。
(龍光院・静嘉堂文庫・藤田美術館 これにMIHO MUSEUMのものをいれて4つとするケースもあるようです。)

「曜変」はもともとは「窯変(容変)」で陶磁器を焼いた際、偶然に生じる色の変化を指します。
ですが星のように見えることから、星の輝きを意味「曜(耀)」の字が当てて「曜変」と言うようになりました。

「曜変天目」の特徴は次のとおり。

・漆黒の器
・器の内側に星のような斑文が散らばっている。
・斑文の周囲は青または青紫の暈(かさ/太陽や月の周囲に光の輪が現れる現象)で、角度によって玉虫色に輝く。

奈良国立博物館 藤田美術館展 

③中国で作られた曜変天目。でも日本にしか残っていない。

曜変天目茶碗は、中国福建省にあった建釜で南宋時代に作られたとされますが作り方は不明です。
また中国には完全な形で残っているものはなく、完全な形で残っているものはすべて日本にあります。
静嘉堂文庫蔵通称稲葉天目。ので知られ、現存する曜変天目茶碗の中でも最高の物とされる。
もとは徳川将軍家所蔵で、徳川家光が病の春日局にプレゼントした。
1934年、三菱財閥総帥の岩崎小弥太が購入。
藤田美術館蔵水戸徳川家に伝えられたもの。曜変の斑紋が外側にも現れている。1918年、藤田財閥の藤田平太郎が入手
龍光院蔵筑前黒田家の菩提寺、大徳寺の塔頭・龍光院に初世住侍江月宗玩以来伝わる。
宗玩の父で堺の豪商・津田宗及が所持していた説、
建立開基した黒田長政が筑前博多の豪商、島井宗室の縁でこの院に帰した説などあり。
MIHO MUSEUM蔵加賀藩主前田家に伝えられた。かつて大佛次郎が所蔵していた。
曜変が内面の一部に限られるため、「曜変」かどうか議論がある。
失われた曜変天目茶碗足利義政から織田信長へと伝えられたが、本能寺の変で焼失したと考えられている。

奈良国立博物館 庭園5 

④生産地中国で発見された曜変天目の陶片

曜変天目は中国で生産されたにもかかわらず、なぜか生産地の中国の文献には記述がなく、現物や陶片も見つかっていませんでした。
そこで、中国では曜変天目は不吉の前兆として忌み嫌われ、破棄されたので現存していないのではないか。
破壊をまぬがれたものが日本に伝来したのではないかなどともいわれていました。

ところが2015年中国の杭州南宋官窯博物館館長・鄧禾穎が論文を発表。
この論文に、2009年、杭州市内の工事現場から曜変天目の陶片が発見されていたことがことが記されていたのです。

杭州市は南宋の都があったところで、曜変天目の陶片が発見されていた場所は宮廷の迎賓館のような場所だったそうです。
また宮廷用に献上されたという趣旨の文言が刻まれた陶磁器も一緒に見つかったとのことです。

天目茶碗は寺院で用いられるものであったのですが、宮廷に献上されてそこで用いられていたようですね。

出土したものすべてが陶片であること、文献に記述がないことなどを考えると
公に言うことができない呪術などに用いていたのかも?
「〇〇の奴め、くたばってしまえ!」みたいなことを言いつつ、床に投げつける呪術とかw。

⑤曜変天目はジンベエザメを思わせる。

夜空の星のように美しい曜変天目ですが、私は星空とは違うものにも似ていると思いました。
ジンベエザメです。

海遊館 ジンベエザメ2 
色は違いますが、曜変天目にもジンベエザメの背中にも斑点があります。

ジンベエザメの背中の斑点は謀反人の象徴だです。

というのは、日本書紀の『トガノの鹿』にこんな話があるのです。

大仏殿 鹿 
東大寺 大仏殿 鹿

雄鹿が雌鹿に『全身に霜が降る夢を見た』というと、雌鹿が『それは霜ではなく塩で、あなたは殺されて塩を振られているのです』と答えました。


昔、謀反の罪で殺された人は塩を振られることがありました。
鹿の夏毛の斑点が塩に喩えたのではないかと思います。
そしてジンベエザメにも斑点がありますね。

ジンベエザメは別名を「エビスザメ」といいますが、エビスとはイザナギ・イザナミの長子として生まれた神です。
3歳になっても歩けない身体障害児だったので、エビスは両親のイザナギ・イザナミに葦舟に乗せて流されてしまいます。

また水死体のことも「エビス」といい、水死体があがると大量になる、などといわれます。
つまり、エビスとは水死体の神なのです。
エビスザメとよばれるジンベエザメは、死んだエビスが化けたもの、みたいに考えられていたのではないでしょうか。

 熊野若王子神社 蛭子神

熊野若王子神社 蛭子神

⑥抹殺された星の神


夜空には無数の星がきらめています。
それなのに、記紀神話には星の神は天津甕星(別名カカセヲ)たった一柱しか登場しません。
しかも、天津甕星は天照大神の葦原中国平定に最後まで抵抗した神とされています。

なぜ天照大神に抵抗した神は星の神なのでしょうか。

それは、夜空の星が曜変天目や鹿の夏毛、エビスザメの背中の模様のように、斑点状であり、星々が謀反人の死体に振られた塩のように見えるためではないでしょうか。

奈良国立博物館 庭園4






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[2019/04/24 20:25] 奈良県 | TB(0) | CM(0)

興福寺 八重桜 藤 夕景 『八部衆は八所御霊?』 

奈良市登大路町 興福寺
2019年4月21日 撮影


興福寺 五重塔3 

名残の春を求めて奈良へ!

①興福寺の阿修羅は蜘蛛を神格化した神だった?

興福寺といえば八部衆像が有名ですね。 (八部衆の写真はこちら→http://www.kohfukuji.com/property/cultural/015.html

八部衆のうち5体のみほとけに動物のイメージがあります。

五部浄像(ごぶじょうぞう)は像の冠をかぶっています。
沙羯羅像(さからぞう)は頭に蛇を巻いています。
乾闥婆像(けんだつばぞう)は獅子の冠をかぶっています。
迦楼羅像(かるらぞう)は頭が鳥で体が人間です。
畢婆迦羅像(ひばからぞう)はニシキヘビを神格化した神です。
 
興福寺の八部衆の中でもっとも有名なのはなんといっても阿修羅像です。
阿修羅は戦闘の神とされ、恐ろしい形相をした像が多いのですが、興福寺の阿修羅は少年か少女のような美しい顔立ちで、ちょっと憂いを秘めたような表情をしています。


File:ASURA Kohfukuji.jpg

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/67/ASURA_Kohfukuji.jpg よりお借りしました。
作者 日本語: 小川晴暘 English: OGAWA SEIYOU [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


その美しい顔立ちにうっとりしてしまって、つい見過ごしがちなのですが、もっと特徴的なのはその長い腕ではないでしょうか。
腕は長いだけでなく、筋肉がまったくついておらず、「これが戦闘の神なのか?」と疑ってしまうほどです。
いや、筋肉だけでなく脂肪もついていません。
この直線的な腕は人間のものとは思えません。むしろ昆虫的だと感じます。

八部衆の5体に動物のイメージがありますが、阿修羅もまた動物のイメージを重ねたものではないでしょうか。

私は阿修羅の腕は蜘蛛の脚に似ていると思います。

蜘蛛の体 

現在の阿修羅は合掌していますが、もともとは合掌していなかったそうです。
阿修羅の合掌する腕の肘から下を外側にむければますます蜘蛛にそっくりです。
蜘蛛の脚は8本です。
阿修羅の腕は6本で2本足りませんが、脚の2本を足すと蜘蛛と同じ8本になります。

②土蜘蛛

古事記・日本書紀・風土記などに『土蜘蛛』と呼ばれる人々についての記述があります。
土蜘蛛とは朝廷にまつろわぬ民のことで、穴の中に住み、身体的特徴として『背が低くて手足が長い』と記されています。
阿修羅は足はそうでもないですが、手はたいへん長いです。

興福寺の阿修羅像はまつろわぬ民・土蜘蛛をイメージして作られたのではないでしょうか。

File:ASURA detail Kohfukuji.JPG

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:ASURA_detail_Kohfukuji.JPG?uselang=ja よりお借りしました。
作者 日本語: 小川晴暘(1894-1960) 仏像写真家 飛鳥園創業者) English: Ogawa Seiyou (1894-1960), a famous photographer in Japan [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


③阿修羅は隻眼(片目)だった。

↑ 阿修羅の顔のアップをよく見てください。
左目に白でキャッチライトをいれたあと、墨で塗りつぶしたあとがあります。

阿修羅の左目は潰されているのです。

これは阿修羅が土蜘蛛=まつろわぬ民であり、左目をつぶすことで、土蜘蛛の霊が暴れるのを封じようとしたもののようにも思えます。

興福寺 中金堂 

④阿修羅は阿部内親王16歳像?


阿修羅をはじめとする八部衆像はもともとは西金堂(現存せず)に安置されていました。 
西金堂が建立された734年、聖武天皇と光明皇后の間に生まれた阿部内親王(のちの孝謙天皇/重祚して称徳天皇)は16歳であり、阿修羅像は阿部内親王16歳の姿をうつした像ではないか、という説があります。

阿部内親王は女性として初めて皇太子に立てられた人物で、749年に即位して孝謙天皇となり、758年には淳仁天皇に譲位しましたが、764年に重祚し、称徳天皇となっています。

僧・道鏡を寵愛したというスキャンダルが有名なんですが、淳仁天皇から皇位を取り上げると宣言して重祚したり、藤原仲麻呂の乱を平定したりとなかなかの女傑だったのではないかと思います。

興福寺 南円堂

⑤称徳天皇暗殺説

諡号に『徳』の字を持つ天皇は不幸な死を迎えた天皇であると言われますが、称徳天皇は暗殺されたのではないか、という説があります。

称徳天皇は道鏡の故郷・河内国に由義宮を造営し、そこへ行幸したのち病を患い、100日あまり後に崩御しています。

このとき、看病にあたったのは女官の吉備由利(吉備真備の娘または妹といわれます。)だけで、病気回復を願う祈祷も行われていないのは不自然だというのです。

⑥称徳天皇は蝦夷の安倍一族の出身?

『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』には、称徳天皇は蝦夷の安倍一族の出身であると記されています。

当時、日本の東国には蝦夷と呼ばれるまつろわぬ民が住んでおり、朝廷はたびたび蝦夷征伐の軍を送っていましたが、あるとき、朝廷軍は蝦夷軍に大敗し、それによって蝦夷の安倍氏の血を引く彼女が次期天皇になると取り決められたというのです。

また東大寺の大仏建立に用いられた黄金は、彼女の縁で奥州から送られた、とも記されています。

『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』は後世の偽書とされており、偽った内容を書いてある可能性があります。
ですが、安倍は阿倍と記されることもあり、すると、阿部内親王という名前が気になります。

私は安倍内親王の本当の父親は安倍仲麻呂ではないかと考えています。
これについては長くなるので、次の記事をお読みください。
私流 トンデモ百人一首7番 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 『阿部仲麻呂と光明皇后のスキャンダル?』 

興福寺 五重塔 
⑦八部衆は八所御霊?

阿修羅が阿倍内親王=称徳天皇=土蜘蛛(まつろわぬ民)だとすれば、阿修羅は怨霊ということになります。

すると、八部衆の他の神々も、実在した人物で怨霊(政治的陰謀により不幸な死を迎えた人物)をあらわした像ではないかと思えます。

また京都の御霊神社などに八所御霊が祀られています。
御霊とは怨霊が祟らないように慰霊したもののことをいいます。

八所御霊

1早良親王785年、原種継暗殺事件に関与したとして廃太子となり、無実を訴えてハンガーストライキを行った.。
流刑となって淡路に向かう船上で憤死。
2伊予親王807年、謀反を企てたとして母親の藤原吉子とともに川原寺に幽閉され、服毒自殺。死後無実であることが判明(伊予親王の変)
3藤原吉子伊予親王の母親。伊予親王とともに川原寺に幽閉され服毒自殺。(伊予親王の変)
4橘逸勢842年、謀反を企てたとして伴健岑とともに捕えられ拷問をうけた。流罪となって伊豆へ向かう途中死亡(承和の変)
5文室宮田麻呂843年、唐よりの物産を勝手に没収しようとしたとして伊豆に流罪となった。のち、無罪が判明。
6藤原仲成810年、平城上皇を担ぎ上げて謀反をおこしたことにより斬殺された(薬子の変)
6または藤原広嗣740年、九州で反乱をおこし斬殺された。(藤原広嗣の乱)
7

吉備真備770年、称徳天皇崩御後、次期天皇に分屋浄三を推すが敗れ、右大臣を辞任する。
8

火雷神
(菅原道真)
901年、藤原時平の讒言により大宰府に流罪となって数年後に死亡した。のちに火雷神と同一視される。


沙羯羅像は道鏡?

Statues of Tianlong babu

左・畢婆迦羅像、右・沙羯羅像
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Statues_of_Tianlong_babu.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/43/Statues_of_Tianlong_babu.jpg よりお借りしました。
撮影・工藤利三(「社寺建築写真帖3」) [Public domain]


称徳天皇は生涯独身でした。(独身で即位した女性天皇は結婚が禁じられていたようです。)
そして称徳天皇は寵愛していた僧の道教を次期天皇にしようと考えていました。
(私は道鏡は志貴皇子の子で正当な皇位継承権があったと考えています。
これについては、次の記事を参照してください。陰陽 黒と白⑮ 奈良豆比古神社 翁舞 

しかし、⑤で述べたように称徳天皇は急死してしまい、道鏡は失脚してしまうのです。

道鏡は弓削氏の出でした。弓削氏は物部氏の傍系といわれます。

そして、大神神社の御祭神・大物主は物部氏の神ではないかと私は考えています。
というのは、物部氏の祖神・ニギハヤヒを祀る大阪交野市の磐船神社は神殿がなく拝殿より直接ご神体の天磐船を拝する祭祀スタイルで、ほかにも交野市付近には神殿のない神社が多いです。
そして交野市付近は肩野物部氏の本拠地だったとされています。
大神神社にも神殿がなく拝殿よりご神体の三輪山を拝します。
神殿をもたないのは物部氏の祭祀スタイルであり、大神神社の御祭神・大物主は物部氏の神ではないかと思えます。
大物主の物は物部氏の物ではないでしょうか。
大物主は蛇神として信仰されています。

道鏡はこの大物主と同一視され、さらに頭に蛇を巻いた沙羯羅(さがら)と同一視されたのではないでしょうか。

参照/元興寺 ハルシャ菊  『頭に蛇を巻いた童子と沙羯羅』 

興福寺 五重塔2 

⑨五部浄は広嗣の怨霊に体をバラバラにされた玄昉?


五部浄(ごぶじょうぞう)は胸から下を失っており象の冠をかぶっています。
http://www.kohfukuji.com/property/cultural/030.html(五部浄写真)
私的にこの像は玄昉のイメージです。

奈良時代の権力者といえば藤原氏ですが、藤原不比等の四人の息子(藤原四兄弟)が相次いで天然痘にかかって死亡してしまいました。
そのため、一時的に藤原氏の勢力は衰えて、738年に橘諸兄が右大臣となったのですね。
橘諸兄は吉備真備・玄昉を重用し、藤原宇合の長男・藤原広嗣(式家)は大宰府に左遷されてしまいました。
740年、藤原広嗣は「天地による災厄の元凶は吉備真備と僧正・玄昉であるので、二人を処分するべきである。」という上奏文を朝廷におくりました。
しかし訴えは聞き入れられず、藤原広嗣は大宰府で挙兵しますが破れて、処刑されました。 (藤原広嗣の乱)
745年、藤原仲麻呂が権力をもつようになり、玄昉は筑紫の観世音寺に左遷されました。
746年、玄昉は筑紫で亡くなりました。

玄昉の死は藤原広嗣の怨霊の仕業であると考えられたようです。
『元亨釈書』には、空中から手があらわれて玄昉を連れ去り、後日、頭のみが興福寺に落ちていたが、これは藤原広嗣の怨霊の仕業であるとの旨が記されています。

胸から下を失った五部浄像は広嗣の怨霊に体をバラバラにされた玄昉だったりして?
玄昉ゆかりの寺・福地院のマカラ宝院はマカラという聖獣()を形どったものですが、マカラとは鰐・象・竜が合体し、巨大な渦を胴とする聖獣です。
これは五部浄の象の冠のイメージと重なります。

http://fukuchiin-nanto.com/fuku.html(写真)

興福寺 北円堂

⑩眼をつぶる乾闥婆は鑑真?

鑑真は日本に戒律を伝えるため、5度の渡航の失敗、失明を乗り越え、754年に日本にやってきました。
称徳天皇や聖武上皇も鑑真より戒律を受けました。

しかし日本での鑑真は幸福だったかどうか?
唐招提寺の鑑真像、なんかつらそうな顔してますよね。
これについては、もう少し調べて考えてみます。

乾闥婆は目を閉じていて、鑑真のイメージと重なります。

http://www.kohfukuji.com/property/cultural/023.html (写真)

⑪年老いた風貌の畢婆迦羅(ひばから)は吉備真備?

※写真は⑧のものをご覧ください。畢婆迦羅はニシキヘビを神格化した神ともいわれます。音楽をつかさどる神で、横笛を吹いて、諸神を供養するとされます。
他の像に比べてやや年老いた容貌をしており、口や顎に髭をたくわえています。

年老いた、といえば吉備真備です。
⑦のところでもご説明しましたが、彼は八所御霊の一でもあります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Kibi-no-Makibi_statue.jpg

↑ リンク先の写真は倉敷市真備支所に置かれている吉備真備像ですが、立派な髭が畢婆迦羅像に似ているような気がします
もっとも、この時代、髭を蓄えるのは珍しくなく、髭をもってして畢婆迦羅は吉備真備だ、とは言えないんですがw。


それよりもこの像が他の像に比べて老いた姿をしている、という点がポイントです。
彼はこの時代には珍しく83歳という長寿を生きた人物でした

また、吉備真備は2度遣唐使となって入唐していますが、天文学・兵学とともに音楽も学び、音楽書も持ち帰っています。
音楽を司る神・畢婆迦羅に吉備真備はぴったりだと思いますがどうでしょう?

716年、遣唐使として安倍仲麻呂玄昉らとともに唐へ向かい、735年に帰国しています。
738年に橘諸兄政権が成立すると吉備真備は玄昉とともに重用されるようになりました。
740年、藤原広嗣が吉備真備・玄昉を失脚させるため大宰府で反乱おこしますが(藤原広嗣の乱)平定されます。
741年には吉備真備は皇太子・阿倍内親王(後の孝謙天皇・称徳天皇)の教師役を務めています。
750年、孝謙天皇政権下で藤原仲麻呂が政権を握ると、筑前守・肥後守に左遷されました。
751年、二度目の遣唐使として唐へ向かい、唐に残っていた安倍仲麻呂に再会しています。
753年、鑑真を伴って帰国。(同時に別の船で日本に向かった安倍仲麻呂はベトナムに漂着して帰国できず)
754年、大宰大弐。
756年、新羅より防衛のため怡土城(いとじょう)を築きました。
 764年、造東大寺長官として70歳で帰京。藤原仲麻呂の乱鎮圧に功績をあげる。
766年、称徳天皇(孝謙天皇の重祚)・法王道鏡政権下で右大臣となる。左大臣は藤原永手。
770年、称徳天皇崩御。天皇候補として文室浄三・文室大市を推すが敗れ、藤原永手・百川らが推す白壁王が即位して光仁天皇となる。老齢を理由に
辞職。
775年薨去。

興福寺 藤 

↑ これは過去に撮影したものです。藤はまだあまり咲いていませんでした。

残る畢婆迦羅(ひばから)迦楼羅(かるら)鳩槃荼像(くはんだ)については、もう少し考えてみますw。

興福寺 夕景
 
 
⑫八部衆はいつつくられたのか?

④に次のような内容を書きました。

a.阿修羅をはじめとする八部衆像はもともとは西金堂(現存せず)に安置されていた。
b.西金堂が建立された734年、聖武天皇と光明皇后の間に生まれた阿部内親王(のちの孝謙天皇/重祚して称徳天皇)は16歳であり、阿修羅像は阿部内親王16歳の姿をうつした像ではないか、という説がある。

道鏡が孝謙天皇(安倍内親王)に寵愛されるのは761年以降。
玄昉が大宰府で亡くなったのは746年。
鑑真が日本にやってきたのは753年。
吉備真備が83歳で薨去したのは775年。
安倍仲麻呂が唐で吉備真備にあったのは752年。

八部衆が作られたのが、西金堂建立の734年だとしたら、ここまで述べてきた仮説はまったくの間違いということになるかもしれません。(汗)

八部衆

1阿修羅阿倍内親王(称徳天皇/孝謙天皇)阿修羅像の長い手は蜘蛛の脚を思わせ、また左目が潰されている。
阿倍内親王は蝦夷の安倍氏との説があり、土蜘蛛(末路わぬ民)といえる。
2沙羯羅道鏡沙羯羅像は頭に蛇を巻いている。
物部氏の傍流・弓削氏。大神神社の御祭神・大物主は物部氏の神ではないかと思うが
この大物主は蛇神とされる。
3五部浄玄昉五部浄像は胸から下を失っている。
玄昉は藤原広嗣の怨霊に体をバラバラにされたという伝説がある。
4乾闥婆鑑真乾闥婆は眼をつぶっている。
鑑真は両目を失明している。
5畢婆迦羅吉備真備畢婆迦羅像は年老いた風貌である。音楽神。
吉備真備は83歳という長寿であった。唐より音楽書を持ち帰っている。
6鳩槃荼鳩槃荼像は死者の魂を吸う悪鬼。
7緊那羅財宝神・毘沙門天の家来、帝釈天宮の音楽神。半神。
一本の角、三目。
8迦楼羅迦楼羅像は金翅鳥。






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[2019/04/23 15:07] 奈良県 | TB(0) | CM(0)

樽見の大桜 『石ばしる 垂水の上の さわらびの』 

兵庫県養父市 樽見の大桜
2019年4月14日 撮影


樽見の大桜 
樽見の大桜 樹齢500年とも1000年とも伝わります。

①樽見は垂水?

樽見と言う地名はもしかして垂水が転じたものではないでしょうか。
日本では万葉仮名の影響なのか、漢字の意味より音を重要視する傾向があったように思えますし。
例えば奈良の東大寺に転害門’(てがいもん)がありますが、その転害門の門前の町の名前は手貝町(てがいちょう)といいます。
手貝町という町名は転害門からとったものではないかと思いますが、どうでしょうか。

垂水とは「垂れ落ちる水」という意味です。
垂水という地名は各地にあります。
神戸市の垂水区という地名は、かつて複数の滝(垂水)があったことに由来するといわれます。

樽見の大桜の北北東500mほどのところに、竜涎の滝があります。
ここから垂水という地名がつき、樽見に転じたのではないかと思ったりします。

樽見の大桜付近 
駐車場から400Ⅿほど山道を上っていくと開けた土地があり、大桜の周囲にたくさんの桜が植えられています。まるで桜の園。

②3つに分かれて芽吹くワラビ

垂水というと思い出される有名な万葉歌があります。

石(いは)ばしる 垂水の上の さ蕨(わらび)の 萌え出づる春に なりにけるかも/志貴皇子
(岩の上を流れる水の上で蕨が萌えでる春になったことであるなあ。)


ワラビの新芽は3つに分かれて出てきます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%A9%E3%83%93#/media/File:Pteridium_aquilinum_2005_spring_001.jpg

↑ この写真を見て、「石ばしる 垂水の上の さ蕨の 萌え出づる春に なりにけるかも」という歌の意味がわかったような気がしました。
それをいまからご説明します。

樽見の大桜付近2

志貴皇子暗殺説

672年、壬申の乱がおこります。
天智天皇皇子の大友皇子vs天智天皇の弟の大海人皇子(のちの天武天皇)で皇位継承をめぐって争った戦いです。
志貴皇子は天智天皇の皇子であり、壬申の乱の際には天智天皇の皇子(志貴皇子の異母兄)の大友皇子側についていました。
結果は大海人皇子が勝利し、志貴皇子は政治的に不遇な身の上であったのです。

笠金村が次のような志貴皇子の挽歌を詠んでいます。

御笠山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに
(御笠山の野辺を行く道は、これほどにも草繁く荒れてしまったのか。皇子が亡くなって久しい時も経っていないのに。)

日本続記や類聚三代格によれば、志貴皇子は716年に薨去したとありますが、万葉集の詞書では志貴皇子の薨去年は715年となっており1年のずれがあります。

笠金村の挽歌は『志貴皇子が死んだのはついこの間のことなのに、野辺道がこんなに荒れているのはなぜなのだ』といぶかっているように思えます。

志貴皇子の子である白壁王は、女帝の称徳天皇が急死したのち、即位して光仁天皇となっています。
これは志貴皇子には正統な皇位継承権があったということではないか。
そして志貴皇子は715年に暗殺されて、その死が1年近く隠されていたのではないか、とする説があります。

715年は元正天皇が即位した年です。
元正天皇を即位させるために、志貴皇子は暗殺されたのではないでしょうか。
しかし、元正天皇にとって志貴皇子の死はあまりにタイミングがよすぎると、人々はいぶかしむかもしれない。
そういうわけで、志貴皇子の死は1年近く隠されていたのではないかと思います。

詳しくはこちらの記事を参照してください→翁の謎⑩ 百毫寺 萩 『志貴皇子暗殺説』 

樽見の大桜付近3 
手前の黄色い花はミツマタ

志貴皇子=春日王?

志貴皇子と春日王、平城津比古大神を祀る神社が奈良市奈良坂にあります。
奈良豆比古神社といい、毎年10月に翁舞が奉納されることで有名です。

古には神と怨霊は同義語であったといわれます。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、天災や疫病の流行は怨霊の仕業で引き起こされると考えられていました。
③で推測したように、志貴皇子には正当な皇位継承権があったのに暗殺されたとする説があります。
志貴皇子は怨霊であり、そのため神として奈良豆比古神社に祀られているのではないでしょうか。

奈良豆比古神社には次のような伝説が伝えられています。

a.志貴皇子の第二皇子である春日王(田原太子)はハンセン病を患い、奈良坂の庵で療養していました。
春日王の二人の息子、浄人王と安貴王(秋王)は心をこめて春日王の看病をしていました。
ある日、兄の浄人王は春日大社で神楽をって、父の病気平癒を祈りました。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かいました。
桓武天皇はこの兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に「弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)」の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主としました。
のちに志貴皇子の皇子である光仁天皇が即位すると、志貴皇子は光仁天皇より『田原天皇』と追尊されました。
田原天皇はまた春日宮天皇とも呼ばれましたが、これは奈良坂に住んだ春日王と関係があるのかもしれません。


『別冊太陽・梅原猛の世界(平凡社)』によれば、地元の語り部・松岡嘉平さんは①とは別の語りを伝承しておられるとのことです。

b.志貴皇子は限りなく天皇に近い方でした。
そのため、神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそいました。
赤い衣装は天皇の印です。
志貴皇子はハンセン病を患い、病が治りますようにと毎日神に祈りました。
するとぽろりと面がとれ、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていました。
志貴皇子がつけていたのは翁の面でした。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていました。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞いました。
これが翁舞のはじめです。
のちに志貴皇子は第二皇子の春日王とともに奈良津彦神の社に祀られました。


ハンセン病を患ったのは①の伝説では志貴皇子の子の春日王となっていますが、②の伝説では志貴皇子となっています。

春日王は田原太子とも呼ばれており、志貴皇子は田原天皇、春日宮天皇と呼ばれていました。
春日王と志貴皇子は同じ名前で呼ばれていたということになります。
皇族でこのようなケースは他に例がないと思います。
春日王と志貴皇子は同一人物なのではないでしょうか。

④三人翁は御霊・和魂・荒魂をあらわす?

奈良豆比古神社で毎年10月に奉納されている翁舞は、能・翁のルーツだと考えられますが、
能の翁では白式尉は一人なのに対し、翁舞は三人翁といって3人の翁が登場します。

八坂神社 翁 白式尉

八坂神社 翁 白式尉

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁

奈良豆比古神社 翁舞 白式尉(三人翁)


bの伝説では、三人翁は志貴皇子・右大臣・左大臣ということになっていますが、本当は志貴皇子・春日王・奈良豆比古神なのではないかと思います。

神はその表れ方で御霊・荒魂・和魂の三つに分けられるといわれます。
志貴皇子・春日王・奈良豆比古神はこれを表すものではないかと思うのです。
御霊神の本質志貴皇子
荒魂神の荒々しい側面春日王
和魂神の和やかな側面平城津比古大神

春日王はハンセン病になったといいますが、実際にハンセン病になったというわけではなく、春日王はハンセン病をもたらす神だという意味だと思います。
貧乏神はいかにも貧乏そうな姿で表されるように、ハンセン病をもたらす神はハンセン病を患った姿で表されるのではないかと思います。
ハンセン病をもたらす神は疫神であり、怨霊です。怨霊は荒魂と言っていいでしょう。

平城津比古大神は神社名の奈良豆比古に同音で別の漢字をあてたものだと思います。
奈良豆比古の名前のとおり豆のように小さな神なのだと思います。
小さな神といえば少彦名神などがありますが、少彦名神は医薬の神として信仰されています。
医薬の神はよい神、ご利益をもたらす神であり、和魂だと思います。
また小さな神は和魂という信仰があったのではないでしょうか。

すると残る志貴皇子は神の本質・御霊ということになります。

そして、和魂・荒魂は同じ御霊の現れ方の違いによる分類なので、
御霊は志貴皇子、春日王は志貴皇子の荒魂、奈良豆比古神は志貴皇子の和魂ということになると思います。

石ばしる 垂水の上の さ蕨の 萌え出づる春に なりにけるかも

この歌に詠まれたワラビの3つの芽は、志貴皇子・春日王・奈良豆比古神の比喩ではないでしょうか。

奈良豆比古神社 翁舞 白式尉2 

奈良豆比古神社 翁舞

⑤『とうとうたらりたらりろ』は春日若宮=志貴皇子のテーマソングだった?

翁は『とうとうたらりたらりろ』と謎の呪文を唱えます。
(能の翁では『とうとうたらりたらりら』となっています。)

12月に奈良の春日神社では春日若宮おん祭が行われています。。
12月16日深夜に若宮神社の前で新楽乱声(しんがくらんじょう)が奏されます。
雅楽における楽譜のことを唱歌(しょうが)というが、その唱歌は『トヲ‥‥トヲ‥‥‥タア‥‥‥ハア・ラロ・・トヲ・リイラア‥‥』と記されます。

『トヲ‥‥トヲ‥‥‥タア‥‥‥ハア・ラロ・・トヲ・リイラア‥‥』『とうとうたらりたらりろ』はあまりに似ています。

翁=志貴皇子と春日若宮は同一神であり『とうとうたらりたらりろ』とは志貴皇子=春日若宮のテーマソングなのではないでしょうか。

翁舞や能・翁で翁=志貴皇子は自らのテーマソングを口ずさんでいるのではないか、ということです。

奈良豆比古神社 翁舞 

奈良豆比古神社 翁舞

⑥藤原氏の祖神・アメノコヤネは天智天皇だった?

春日若宮が志貴皇子と同一人物だと考えられる理由はほかにもあります。

春日大社の主祭神はアメノコヤネ・タケミカヅチ・フツヌシ・ヒメガミの四柱の神々で、このうち、アメノコヤネは藤原氏の祖神とされています。

私はアメノコヤネ(天児屋根命)とは天智天皇のことではないかと考えています。
というのは天智天皇の作として、は次のような歌が伝えられているからです。

秋の田の 仮庵の庵の 苫をあら み わが衣手は 露にぬれつつ
(秋の田の小屋のとまがたいそう粗いので、私の着物は露でびっしょり濡れてしまいました。)


この歌は万葉集にはなく、958年ごろに成立した後撰和歌集の中に天智天皇御製として掲載されています。。

万葉集には「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」という読人知らずの歌が掲載されており
その内容から農民が詠んだ歌だと考えられています。

「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」を改作したものであり、
実際に天智天皇が詠んだ歌ではないが、天智天皇の心を表す歌であるとして後撰和歌集の撰者たちが天智天皇御作として後撰集に掲載したものと考えられています。

なぜ「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」という歌は、天智天皇の心を表す歌であると考えられたのでしょうか。

一般には、農民の気持ちを思いやる優しさが、天智天皇にふさわしいと考えられたためだといわれています。
でも、私はそうではないと思います。

③で述べたように、672年、壬申の乱がおこりました。
壬申の乱は天智天皇が崩御したあとすぐに興ったので、天智天皇の死体は長い間埋葬されず、放置されていたと考えられています。
『続日本紀』に天智陵が造営されたと記されているのは、天智天皇が崩御してから28年たった699年です。

古事記には「大国主神が八十青柴垣(ヤソクマデ)に隠れた」という記述があります。
これは柴を沢山立てた中に死体が葬られていたということですが、大国主神はニニギに国譲りをして死んでいて、ニニギにとっては敵です。
そのため、高貴な身分の人であれば立派な陵をつくるところ、そうはせずに、庶民と同じように風葬にしたということではないかと思います。
天智天皇の歌にある、苫の荒い仮庵戸は大国主神が葬られたような八十青柴垣を意味しているのではないでしょうか。
また、近年まで沖縄地方などで風葬が行われていたが、小さい小屋の中に死体を収めて風葬にするという地方がありました。

「秋の田の~」の歌は、死んだ天智天皇の霊が、きちんと埋葬されないわが身を嘆いた歌だと解釈され、天智天皇が詠むにふさわしい歌とされたのではないでしょうか。

そして『児』には『小さい』という意味があり、天児屋命とは『小さい屋根の下におわす神』という意味になります。
仮庵のとまの粗い小屋の屋根はそれは小さいことでしょう。

するとアメノコヤネは藤原氏の祖神なので、藤原氏は天智天皇の子孫だということになりますが、
藤原不比等は天智天皇の後胤であるという説があります。
藤原鎌足は天智天皇の后であった鏡王女を妻としてもらいうけていますが、この時鏡王女はすでに天智の子を身ごもっており、これが藤原不比等であったと、『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』には記されています。
とすれば天智天皇が藤原氏の祖神だというのは辻褄があいます。

春日大社 舞楽始  
春日大社

⑦春日若宮=志貴皇子は水徳の神だった。


アメノコヤネノミコトの御子神・春日若宮様は、神名を天押雲根命といい、長保五年(1003年)旧暦三月三日、第四殿に神秘な御姿で御出現になったとされます。

その後しばらく、第二殿と第三殿の間の獅子の間に祀られ、水徳の神と信仰されていたそうです。

長承年間には長年にわたる大雨洪水により飢饉がおき、疫病が流行ったため、1135年に時の関白藤原忠通が若宮様の神殿を造営し、1136年より春日若宮おん祭が行われるようになったとのことです。

ここでもう一度、志貴皇子の歌を鑑賞してみましょう。

石ばしる 垂水の上の さ蕨の 萌え出づる春に なりにけるかも

この歌に詠まれたワラビの3つの芽は、志貴皇子・春日王・奈良豆比古神の比喩ではないかということはすでに述べました。

この3つの芽をもつワラビ(志貴皇子・春日王・平城津比古大神)が垂水(滝)の上で萌えているのです。
志貴皇子=春日若宮はこの歌を詠んだため、水徳の神として信仰されたのではないでしょうか。

樽見の大桜付近4

樽見の大桜付近の集落


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[2019/04/20 23:59] 兵庫県 | TB(0) | CM(0)

山口護国神社 桜 『生野の変について、調べてみた』 

兵庫県朝来市 山口護国神社
2019年4月14日 撮影


山口護国神社 
山口護国神社

①天誅組の変


幕末、尊王攘夷派と公武合体派という異なる政治思想を持つ人々がおり、両者は対立していました。
尊王攘夷とは天皇を尊び、外敵を排斥するべきとする思想、
公武合体は朝廷( 公)と幕府及び諸藩(武)を合体させて幕藩体制を編強するべきという思想です。

文久3年(1863年)8月、尊王攘夷派によって天誅組と言う組織が作られました。
天誅とはもともとは、「神が悪い人間を討伐する」「天罰」などを意味する言葉でしたが、ここから転じて「日本のためにならない人を殺すこと」も「天誅」と言うようになりました。

その天誅組のメンバー・吉村寅太郎、松本奎堂、藤本鉄石らは、前侍従(天皇の側近)・中山忠光をリーダーに担ぎ上げて大和国へ入りました。

1863年8月17日、天誅組は幕府天領の大和国五條代官所を襲撃しました。
そして代官・鈴木正信〈源内)の首をはね、代官所に火を放ったのです。
天誅組は桜井寺に本陣を置き、五條を天朝直轄地にすると宣言、また自らを「御政府」「総裁所」と称しました。(五条御政府)

公卿・三条実美は尊王攘夷派ではありましたが、天誅組の行動は過激すぎると考えたのでしょう、天誅組の行動を制止するため、学習院に勤めていた平野国臣(もと福岡藩士だったが脱藩した。)を五条へ送りました。

五條新町 夕景

五條(五条)新町

②八月十八日の政変

翌8月18日、公武合体派の会津藩と薩摩藩は孝明天皇に働きかけ、大和行幸延期と長州藩の御門警護の解任を行いました。
(前年の1862年、尊王攘夷派(長州藩・激派浪士ら)は公家と手を結んで攘夷実行を幕府に迫っていました。
そして、攘夷祈願のため、1863年8月の孝明天皇の大和行幸を計画していました。
孝明天皇は大和行幸には乗り気ではなかったようです。
孝明天皇は攘夷は望んでいましたが、過激な討幕運動には反対で、妹・和宮を幕府の将軍・家茂に嫁がせるなど公武合体派よりであったようです。)

尊王攘夷派の長州藩は京都を退き、三条実美ら攘夷派公卿7人も京都を追放されました(七卿落ち)。

翌8月19日、三条実美に天誅組の制止を命じられた平野国臣は天誅組のいる五條に到着しましたが、八月十八日の政変を知り、京へ引き戻します。
しかし、すでに京の尊王攘夷派は壊滅状態となっていました。

京都御所 しだれ桜

京都御苑

③平野国臣、生野天領での挙兵を計画。


平野国臣は天誅組と呼応しようと、故郷・福岡藩の筑前勤王党の月形洗蔵・鷹取義巴を訪ねて活動参加を要請しました。
しかし、断られてしまいます。

その後、但馬国の志士・北垣晋太郎と組んで、生野天領での挙兵を計画しました。
北垣晋太郎は農兵を募って海防にあたるべしとする「農兵論」を唱えていた人物です。

④天誅組壊滅

十津川郷士が天誅組に参加しました。、天誅組の兵力は1000人余となっていました。

十津川郷士とは南大和・十津川郷の郷士在住していた郷士(江戸時代の武士階級の下層に属する人々)のことをいいます。

十津川郷士は古より朝廷に仕え、壬申の乱、平治の乱にも出兵して税減免措置を受けています。
南北朝時代には南朝に仕えていました。
このようなことから、十津川郷士は勤皇の伝統をもっていたようですが、倒幕の意志は薄かったと考えられているとのことです。

十津川郷士が天誅組に参加したことで、天誅組の兵力は1000人余となっていました。
ですが、武器などの装備が十分ではなかったようで、高取城攻略で失敗。
周辺諸藩からの討伐を受けて9月27日に壊滅しました。

9月28日、生野天領での挙兵を計画していた平野国臣と北垣晋太郎は周防国三田尻へ行き、長州藩に庇護されていた七卿落ちの一人、公卿・澤宣嘉(さわ のぶよし)を主将に迎えます。
彼らは長州藩としての挙兵の参加も求めましたが、これは同意をもらえませんでした。

10月2日、平野国臣と北垣晋太郎は澤宣嘉とともに三田尻を出立。
播磨に向かう為の船を用意します。
これに、河上弥市(南八郎)ら尊皇攘夷派浪士らが加わった37人が出港しました。

10月8日、一行は播磨国に上陸し、生野へ向かいます。
10月11日、一行は生野の手前の延応寺に本陣を置きました。

天誅組壊滅を知った平野国臣・北垣晋太郎らは、「挙兵を自重し再度の時期到来を待つべき」と主張。
しかし、河上弥市らは「計画通り挙兵するべき」と主張。これが通って挙兵が決行されることになりました。

生野銀山 露天掘跡 

生野銀山 露天掘跡

⑤生野の変

10月12日、生野代官所は無抵出平野国臣らに降服しました。

平野國臣らは農民に募兵を呼びかけたところ、2,000人が集まりました。
これは北垣晋太郎が唱える「農兵論」の影響もあったでしょう。
またこのころ幕府天領・生野銀山などの産出量が減って、住民が生活に困窮していたということもあるでしょう。

10月13日、幕府は周辺諸藩に兵を出動させました。
これに対して「解散するべき」との声があがり、13日夜には主将の澤宣嘉が和歌を机の上に残して逃げ出してしまいました。
頼みもし 恨みもしつる 宵の間の うつつは今朝の 夢にて ありぬる

「頼りにもしていた 恨みもしていた 日暮れ時の 現実は 今朝の 夢であったよ」みたいな意味かな?(自信なし・・・汗)

澤宣嘉は四国伊予小松藩周辺に潜伏したのち、長州へのがれました。

河上弥市ら13人の浪士は「騙された」と怒った農民らに襲い掛かられ、妙見山麓山口村(山口護国神社)で自刃して果てました。
河上弥市は享年21歳。

河上弥市の辞世の句。
議論より実を行へ、なまけ武士、 国の大事を 余所に見る馬鹿

「議論するより実行せよ、なまけ武士どもめ、国の大事を、他人事のように見ているバカ」みたいな意味かな?(自信なし・・・汗)

山口護国神社 忠魂碑 
山口護国神社(河上弥市ら幕末志士と明治維新から昭和にいたるまでの地元戦没者を祀っています。)


美玉三平と中島太郎兵衛は農民たちに射殺されました。

平野国臣は兵を解散させて鳥取へ向かいましたが捕らえられ、京の六角獄舎へ送られました。
1864年の禁門の変によっておこった火災が六角獄舎にもおよび、囚人脱走を恐れた役人らは囚人を処刑しました。
このとき、平野国臣も処刑されました。享年37歳。

羽淵鋳鉄橋

山口護国神社は羽淵鋳鉄橋の道路向かいにあります。

車窓より 
これは車窓から撮影した風景。



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[2019/04/19 14:22] 兵庫県 | TB(0) | CM(0)

羽淵鋳鉄橋 桜 生野銀山 地下アイドル 『亀と鉱山』 


兵庫県朝来市 羽淵鋳鉄橋 生野銀山
2019年4月14日撮影(羽淵鋳鉄橋)

羽淵鋳鉄橋 

①馬車道と羽淵鋳鉄橋

「羽渕のめがね橋」の愛称のある鋳鉄製二連の美しい洋式の橋である。明治20年に神子畑鋳鉄橋と同時に架橋されたものであり、神子畑鉱山・選鉱所から生野精錬所へ鉱石を運搬用の五つの鋳鉄橋のうちのひとつである。

https://www.city.asago.hyogo.jp/0000000401.html より引用

IMG_2266.jpg

神子橋選鉱所


https://www.city.asago.hyogo.jp/0000000401.html
上の羽淵鋳鉄橋の説明のタイトルに「馬車道」とありますので、羽淵鋳鉄橋の上を鉱物を運ぶ馬車が通っていたのでしょう。

銀の馬車道 
銀の馬車道(道の駅 銀の馬車道・神河ふきん)※上2枚は秋に撮影したものです。

生野には古より生野銀山がありましたが、おそらくその近くに生野精錬所があった(ある)のではないかと思います。
生野精錬所って今もあるんでしょうか?

前回ご紹介した竹田城の城主が生野銀山を管轄していたようです。
竹田城は織田信長が派遣した羽柴秀長〈豊臣秀吉の弟)によって攻撃され、竹田城主・太田垣朝延が敗戦していますが、
竹田城を責めた目的は生野銀山を手に入れるためであったとも考えられています。

竹田城 桜2 
竹田城

②地下アイドル♪

現在の生野銀山にはたくさんの人形が置かれていて「地下アイドル」として評判になっていますねw。



かなり以前に生野銀山に行ったことがあります。
そのとき地下アイドルたちはすでにいました。↓ 

生野銀山 唐箕で風を送る手子 
生野銀山 手彫り 

生野銀山 負子 

生野銀山 竪穴 

③銀石を乗せた亀の伝説

生野銀山には、「大亀が背中に銀石を乗せて這い出した所を掘り進むと、良質の鉱石が見つかった」と言う伝説があるそうです。

亀は鉱山と関係があるような気がします。

④ムカデと鉱山と毘沙門亀甲

坑道のことをムカデ穴といいます。
それは坑道が枝分かれして伸びる様子がたくさんの足を持つムカデにたとえられたためだと思います。

で、奈良の朝護孫子寺では額などにムカデのレリーフが刻まれています。↓

朝護孫子寺 額

朝護孫子寺 ムカデのレリーフ

朝護孫子寺のある信貴山はかつて鉱山だったんでしょうか?

その朝護孫子寺の門は毘沙門亀甲といいます。↓

File:Bisyamonkikkou3.svg

毘沙門亀甲紋 

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bisyamonkikkou3.svg?uselang=ja よりお借りしました。
作者はLife of Rileyさんです。(ありがとうございます)

どうでしょう、亀と鉱山には関係ありそうに思いませんか?

⑤毘沙門天=玄武(亀+蛇)=北方守護の神=鉱山の神?


また朝護孫子寺は毘沙門天をご本尊としていますが、毘沙門天は四天王のメンバーとしては多聞天といい、北方守護の神とされます。
(東=持国天、南=増長天、西=広目天)

四天王は仏教の神ですが、中国では北は玄武、東は青龍、南は朱雀、西は白虎という創造上の四聖獣がそれぞれの方角を守護すると考えられていました。

玄武は丘陵に、青龍は清流に、朱雀は湖沼に、白虎は大道に棲むとされ、
北に給料、西に清流、南に湖沼、西に大道のある土地は四神相応の地であるとして都が作られたりしました。
平安京などが四神相応の地とされます。
江戸も四神相応の地だといわれることもありますが、北ー玄武に相当する富士山が西に大きくずれており、私は江戸は四神相応の地に作られた都市ではないと思います。

詳しくはこちらの記事をお読みください。→ カシオペア・北斗七星・北極星の呪術⑰ 『江戸の町は北極星になぞらえて造られた?』 

さて、北方守護の聖獣・玄武についてですが、亀に蛇が巻き付いた姿をしています。

新熊野神社 玄武 

新熊野神社 玄武

そして北方守護の神・毘沙門天はもともとはとはもとはクベーラという地下の財宝を守護する神、鉱山の神です。

毘沙門天=北方守護の神=地下の財宝を守護する神。鉱山の神。
玄武(亀&蛇)=北方守護の神
∴玄武(亀&蛇)=北方守護の神=鉱山の神

上の写真の玄武にも亀甲柄が描かれています。
この亀甲柄は鉱物をあらわすものではないかと思います。
鉱物はだいたい角張った形をしているので。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%B1%E7%89%A9#/media/File:%E9%89%B1%E7%89%A9.jpg


このようなところから、大亀が背中に銀石を乗せて這い出した所を掘り進むと、良質の鉱石が見つかったという伝説が創作されたのではないでしょうか。



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[2019/04/17 20:49] 兵庫県 | TB(0) | CM(0)