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京都御苑 桜  梅 『なむあみだぶを読み込んだ和歌6首』 

京都市上京区 京都御苑
2019年3月24日 撮影


①五摂家

京都御所 しだれ桜 
京都御苑・近衛邸跡のしだれ桜

京都御苑の北、近衛邸跡のしだれ桜は早咲きで春を待ちきれない心を満たしてくれます。

近衛邸は五摂家のひとつです。

五摂家とは藤原氏の嫡流(本家)で公家のトップに位置付けられる5つの家、近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家のことをいいます。
この家に生まれた男子は大納言・右大臣・左大臣~摂政・関白・太政大臣になることができました。
昔は家柄で生まれが左右されてしまっていたんですね~。

ある有名な方が、日本は秀吉のような農民の出身でもトップに立つことが出来た平等な社会だったと論じていましたが、それはあまりに飛躍した論理です。
秀吉は例外的な存在で、基本的には家柄によって昇進できたり、できなかったりしていたのです。
とても古の日本が平等な社会であったなどとはいえないでしょう。

京都御苑 出水小川 しだれ桜 
出水小川のしだれ桜

②戦国時代の関白左大臣・近衛前久

九条邸を建てたのは近衛前久(1536-1612)という人物です。
1547年に内大臣、1553年に右大臣、1554年に関白左大臣となっています。
また、藤氏長者(藤原氏を束ねる代表者)にもなっています。

ただし、この近衛前久がいつこの場所に近衛邸を建てたのか、よくわかりませんでしたー。

1560年、上杉謙信の関東平定の手助けをし、謙信が越後に帰国した際も古河城に残り、情勢を謙信に伝えていました。
結局、第四次川中島の戦いで謙信は武田信玄と戦って負け、近衛前久は京都へ帰ってしまうのですが。

1565年、三好三人宗(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)は足利義輝を殺害し(永禄の変)、足利義栄の将軍就任を近衛前久に願い出ました。
前久は三好三人宗の願いを聞き入れて足利義栄を将軍に就任させました。

1568年、織田信長が足利義昭(足利義輝の弟)を奉じて京都へやってきました。
足利義昭は兄・義昭の死に近衛前久が関与しているのではないかと疑い、先関白の二条晴良とともに前久の罪を追及しました。
前久は朝廷から追放され、赤井直正の黒井城や、顕如の石山本願寺に移り、関白を解任されてしまうのです。

黒井城 鯉のぼり 
黒井城跡


1573年、信長は足利義昭を京都より追放し、二条晴良も疎んじるようになります。
そして1575年、近衛前久は京へ戻ることをゆるされました。
前久と信長はともに鷹狩をするなど友好関係にあったようです。

1573年9月、前久は九州に向かい、大友氏・伊東氏・相良氏・島津氏の和議を図り、1577年に京都に戻りました。

1580年、前久は信長とともに顕如を石山本願寺から撤退させました。

1582年、甲州征伐にも信長と同行しています。

ところが、同年、6月2日の本能寺の変で、信長は亡くなってしまいました。
このとき、「本能寺を攻撃した明智光秀軍は近衛前久邸[から本能寺を銃撃した」とデマを流されていまいます。
京都御苑の近衛邸跡がこの前久邸にあたるかどうかは調べてみましたがよくわかりませんでした~。

デマを信じた織田信孝・羽柴秀吉は近衛前久を疑い、前久は徳川家康を頼るようになり、遠江国浜松へ移りました。
1584年、小牧・長久手の戦いで家康と秀吉が戦った際には、前久は奈良で状況を見守り、和議成立後に京都に戻っています。

1587年、慈照寺(銀閣寺)の東求堂に隠棲。

1600年、関ケ原合戦では東軍の水谷勝俊のの嫡男・勝隆をかくまいつつも、西軍の島津氏にも情報を送ったりしています。

1602年、薨去されました。

京都御苑 下立売御門 
京都御苑 下立売御門

③「なむあみだぶ」を読み込んだ和歌6首

近衛前久は信長の七回忌にこんな歌を詠んでいます。
現代語訳は、わからないところがたくさんあって、できませんでした~(汗)

なけきても 名残つきせぬ なみた哉 猶したはるゝ なきかおもかけ
むつましき むかしの人や むかふらむ むなしき空の むらさきの雲
あたし世の あはれおもへは 明くれに あめかなみたか あまるころもて
みても猶 みまくほしきは みのこして みねにかくるゝ みしかよの月
たつねても たまのありかは 玉ゆらも たもとの露に たれかやとさむ
ふくるよの ふしとあれつゝ ふく風に ふたゝひみえぬ ふるあとの夢

面白いですね。
一首目は五七五七七の始めの音がすべて「な」になっています。
二首目は五七五七七の始めの音がすべて「む」、三首目は五七五七七の始めの音がすべて「あ」いmsも
四首目は五七五七七の始めの音がすべて「み」、五首目は五七五七七の始めの音がすべて「た」
六首目は五七五七七の始めの音がすべて「ふ」になっています。

下の図のように歌を縦にならべ、五七五七七の始めの音を縦に詠んでいくと、「なむあみだぶ」の言葉が5つ現れてきます。

けきてもごりつきせぬみだかなおしたはるるきかおもかげ
つましきかしのひとやかふらむなしきそらのらさきのくも
たしよのわれおもへはけくれにめかなみたかまるころもて
てもなおまくほしきはのこしてねにかくるるしかよのつき
つねてもまのありかはまゆらももとのつゆにてかやとさむ
くるよのしとあれつつくかぜにたたびみえぬるあとのゆめ


でも待ってください。

「なむあみだぶ」じゃなく、「なむあみだぶつ」ですよね。

五七五七七の始めの音がすべて「つ」になっている歌も詠めばよかったのにとか思いませんか?

なんで7句じゃなく6句なんでしょう?

「なむあみだぶつ」は漢字では「南無阿弥陀仏」と書き「六字名号」と呼ばれます。

六波羅蜜寺の空也像は口から6体のみほとけがほとばしり出ていますが、6体のみほとけは南無阿弥陀仏の6字をあらわすといわれます。

そういうわけで6という数字にこだわったのかも?

京都御苑 梅 

京都御苑 梅2 

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[2019/03/31 22:39] 京都府 | TB(0) | CM(0)

長徳寺 桜 常林寺木蓮 『柳女の出る町?』 


京都市左京区 長徳寺・常林寺・正定院
2019年3月24日撮影

長徳寺 桜 
長徳寺 おかめ桜は見ごろを過ぎていましたが、カンヒ桜(かな?)が満開でした。

①出町と柳町をあわせて出町柳駅とした。


早い春を探して出町柳へやってきました。
京阪電車の出町柳という駅名、変わった駅名だなあと思いませんか。

かつて鴨川の西側は出町、東側は柳町と呼ばれていたそうで、ふたつの地名を合わせて出町柳という駅名にしたそうです。

②出町は「洛外に出たところにある町」

もっと正確にいうと、上京区河原町今出川の北部一帯の商業地区を出町と呼んでいたようです。
洛外に出たところにある町、という意味から「出町」になったとのこと。

洛外とは豊臣秀吉が築いた御土居の外という意味です。
御土居の範囲については下の地図を参照してください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%9C%9F%E5%B1%85#/media/File:OdoiRemains.png

北野天満宮 お土居 梅 
北野天満宮に残る御土居としだれ梅(過去に撮影したものです。)

つまり豊臣秀吉の時代、京都の町は御土居(土塁)で囲まれた城郭都市だったんですね。
現在はかなり失われていますが、一部御土居が残されているところもあります。

外国に城壁都市がありますが、京都の町は壁のかわりに御土居という土塁で囲まれていたわけです。
出町はこの御土居の外の北側の地域をいいました。

※城壁・堀・土塁などで城下町まで囲んだ都市を城郭都市といいます。
「日本に城壁がなかったのは日本の戦が単なる土地取り合戦で戦争に負けても領民は奴隷にされなかった」という人が結構おられますが、これは勘違いだと思います。
日本に城壁はなかったかもしれませんが、城下町を防御するための堀や土塁は存在していましたし、戦争に負けた領民は奴隷にされていました。
大坂夏の陣屏風にも多くの大坂の住民が乱取り(領民が兵士らに人や物が掠奪されること)される様子が描かれています。
外国の城壁都市も日本の城下町まで堀で囲まれた城も城郭都市なのです。


③柳町と柳女

柳町のほうは、鴨川の東ということなので、御土居の東北の町だということになると思います。
出町柳駅の東側には、「砂川の三軒寺」と呼ばれる3つのお寺がありますが、もしかしたらこれらのお寺は都の鬼門(東北)除けの意味で建てられたのかもしれませんね。

砂川の三軒寺とは長徳寺・常林寺・正定院の3つの寺です。

長徳寺の門前には地蔵堂があり「北向地蔵尊」が安置されています。

長徳寺 おかめ桜

長徳寺 地蔵堂(過去に撮影したものです。)

百済国王の守本尊で飛鳥時代、舒明天皇(在位629-641)のころ、日本に伝わったといわれています。
宮中に安置されていましたが、823年に西寺の守敏(しゅびん)に下賜されたといいます。
その後、どのような経緯を経て長徳寺にやってきたんでしょうかね?

長徳寺の隣の常林寺にも地蔵堂があり、世継子育地蔵尊が安置されています。
世継子育地蔵尊というからには、子育てにご利益のあるお地蔵さまなのでしょう。

常林寺 地蔵堂 木蓮

さらに正定院にも「ちご地蔵尊」と呼ばれるお地蔵さまがありました。
境内に置かれていた石仏の地蔵尊は新しいもののようでしたが、本堂などに古い「ちご地蔵尊」があるのかもしれません。

ちご地蔵 

正定寺 ちご地蔵尊



さて柳町という地名はどこからくるのでしょうか。

柳の下には幽霊が出るとかいわれますね。
また柳女という幽霊がいるそうです。

江戸時代の「絵本百物語」に登場する妖怪で、強い風が吹いて子どもを抱いた女の首に柳がからまって女は死んで幽霊となり夜な夜な柳の木の下に、子供を抱いた姿で現れるとあります。

ちご地蔵尊って、もしかして柳女?

また柳町という地名は柳女が出るところからつけられた地名だったりして?



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[2019/03/31 10:17] 京都府 | TB(0) | CM(0)