奈良市春日野町 氷室神社
2019年3月10日 撮影
①春愁三首梅の写真を撮ることに夢中になってしまい、気が付かなかったのですが(汗)、氷室神社境内に万葉歌碑があるようですね。
http://www.himurojinja.jp/keidaigoannai/keidaigoannai.html
うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しも ひとりし思へば
(のどかに照る 春の日に ひばりが高く飛び 心は悲しい。ひとりで物思いにふけっていると)この歌の作者は大友家持で、詞書には「二十五日、作る歌」とあります。
この歌の前に二首あり、詞書は「天平勝宝五年二月二十三日、興に依りて作る歌(二首)」となっています。
「興に依りて」とは、実際に見たわけではなく、想像した風景を詠んでいる」という意味です。
二首は次のような歌です。 春の野に 霞たなびき うら悲し この夕影に 鶯鳴くも
(春の野に 霞がたなびいて うら悲しい 夕暮れの光の中で 鶯鳴いているのを聞いていると。)
我が屋戸の いささ群竹(むらたけ) ふく風の 音のかそけき この夕へかも
(私の庭の 竹の群生を 吹く風の音が かすかに聞こえる この夕べであることよ。)
※いささ群竹は諸説あるようです。
a.ささやかな竹の群
b.「五十竹葉」で葉の多い竹
c.「斎笹(ゆささ)」で神聖な笹の葉
天平勝宝五年は753年です。
大伴家持はこの年の2月23日に「春の野に・・・」と「我が屋戸の・・・」の2首を読み、2日後の2月25日に「うらうらの・・・」の1首を詠んだわけです。
この3首は家持の「春愁三首」と呼ばれています。
↑ これはカンヒザクラかな?
②ひばりを詠んだ万葉歌3首
ひばりを詠んだ万葉歌は「うらうらの・・・」の他に3首あります。
天平勝宝7年(西暦755年)3月3日に、防人を検閲した勅使(ちょくし)と兵部(ひょうぶ)の役人たちが集まって宴会をしたときに詠んだ三首
朝な朝な 上がるひばりに なりてしか 都に行きて 早帰り来む/安倍沙彌麿(さみまろ)
(毎朝毎朝 舞い上がる雲雀のように なりたい。そうすれば都へ行って 直ぐに帰ってこよう。)
ひばり上がる 春へとさやに なりぬれば 都も見えず 霞たなびく/大伴家持
(ひばりが上がる春が確かにやってきたので、都も見えないほどに霞がたなびいている)
歌を詠んだ場所は難波のようですね。
東国から徴兵された防人は難波に集まり、難波から大宰府に出発したのです。
この防人たちを検閲する勅使が安倍沙彌麿でした。
755(天平勝宝7)年3月3日、安倍沙彌麿を慰労する宴が催され、兵部少輔の大伴家持など兵部省の役人たちが安倍沙彌麿をもてなしました。
梅原猛さんが、安倍沙彌麿の派遣は、光明皇太后&藤原仲麻呂が対立相手の大伴家持の視察を目的としていたのではないかとする説を唱えておられるようです。
すると、
朝な朝な 上がるひばりに なりてしか 都に行きて 早帰り来む/安倍沙彌麿(さみまろ)
上の歌は、安倍沙彌麿が早く都に行って藤原仲麻呂に「難波での大伴家持の行動」を報告したい、という意味のように思えます。
そして安倍沙彌麿の歌に和して大伴家持が詠んだ歌
ひばり上がる 春へとさやに なりぬれば 都も見えず 霞たなびく/大伴家持
上の歌は、「なに、春霞がたなびいて都から私の行いなど見えやしないさ」という意味ではないでしょうか。
③春日のひばりは藤原仲麻呂の比喩?
それでは氷室神社の万葉歌碑に刻まれた歌に戻りましょう。
うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しも ひとりし思へば
(のどかに照る 春の日に ひばりが高く飛び 心は悲しい。ひとりで物思いにふけっていると)
この歌が詠まれたのは753年ですが、その前年の752年ごろより、孝謙天皇(女帝)は平城京修理を理由に藤原仲麻呂の私邸・田村第に長逗留し、田村第は田村宮と呼ばれるほどでした。
藤原仲麻呂と対立していた大伴家持は、こういった状況をなげいて詠んだのが上の歌ではないかと思います。
春日は春の日と春日大社にかかると思います。
春日大社は藤原氏の氏神なので、「照る春日にあがるひばり」とは藤原仲麻呂の比喩だと思います。
そして藤原仲麻呂が孝謙天皇の寵愛を得て権力を高めつつあるのを、家持は口惜しく思っている。
そういう意味の歌ではないかと思いました。
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