奈良県大和郡山市 稗田環濠集落
売太神社①稗田阿礼と古事記稗田環濠集落の中に売太神社があり、稗田阿礼をお祭りしています。
みなさんご存じのように、稗田阿礼は古事記編纂者のひとりです。
「古事記」序文は稗田阿礼について、次のように記しています。
訳:そのとき、一人の舎人がいた。姓は稗田、名は阿礼。年は28歳。聡明な人で、目に触れたものは即座に言葉にすることができ、耳に触れたものは心に留めて忘れることはない。すぐさま(天武)天皇は阿礼に「『帝皇日継』(ていおうのひつぎ。帝紀)と『先代旧辞』(せんだいのくじ。)をせよ」と命じた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%97%E7%94%B0%E9%98%BF%E7%A4%BC より引用
稗田環濠集落内容を箇条書きにしておきましょう。
・天武天皇の舎人
・年齢は28歳
・一度見たり聞いたりしたことは忘れない。記憶力抜群。
・天武天皇は阿礼に「帝紀」「旧辞」を誦習(しゅうしゅう/声に出して読むこと)させた。
あと次のような内容も書かれているようです。
・元明(げんめい)天皇の詔をうけて、太安万侶が阿礼の記憶を文字におこし、和銅四(711)年の9月18日から翌年1月28日にかけて古事記が編纂された。
稗田環濠集落②稗田阿礼女性説稗田阿礼は天武天皇の舎人だとされますが、舎人とは貴人のそば近くに仕え、警護・雑用などを行う男性の職業のことです。
ですが江戸時代に柳田國男さんや西郷信綱さんたちによって「稗田阿礼女性説」が説かれました。
その理由は次のとおり。
・稗田氏はアメノウズメを始祖とする猿女君と同族。
・猿女君は巫女や女孺(にょじゅ、めのわらわ)として朝廷に仕える家系だったので、稗田氏も同様だったのではないか。
※女孺は後宮で雑事を行う下級女官。
・「アレ」は巫女を意味する言葉。
稗田環濠集落 ③稗田阿礼=藤原不比等説梅原猛さんは稗田阿礼=藤原不比等説を唱えておられます。
読んだのですが、えらく昔なので、記憶がはっきりしません。(すいません!)
ですが、古事記編纂は藤原不比等による律令国家建設の中で行われており、不比等の意思を受けたものと考えるのが自然というようなことであったとおもいます。
年 | 出来事 | 天皇 |
645 | 大化の改新 | 孝徳即位 |
654 | | 孝徳崩御 |
655 | | 斉明即位 |
659 | 不比等、中臣鎌足の次男として誕生 | |
661 | | 斉明崩御 |
668 | | 天智即位 |
669 | 不比等11歳。中臣鎌足死亡。死の間際に藤原姓を賜る。 | |
672 | 不比等13歳。壬申の乱。同族の中臣金ら処分を受ける。不比等不遇に? | 天武即位 |
688 | 不比等の娘・宮子、軽皇子(のちの文武天皇)に入内。 | |
690 | | 持統即位 |
697 | 不比等、文武天皇擁立に尽力する。 不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職につくことができるとされる。 | 文武即位 |
701 | 不比等、正三位大納言。外孫、首皇子(のちの聖武天皇)誕生。 大宝律令
| |
704 | 不比等、従二位。 | |
707 | | 元明即位 |
708 | 不比等、正二位。右大臣。左大臣は空席で、不比等が政界のトップ。 | |
710 | 平城京遷都 | |
712 | 古事記完成 | |
715 | | 元正即位 |
720 | 日本書紀完成。 不比等死亡。 | |
古事記序文には「そのとき、一人の舎人がいた。姓は稗田、名は阿礼。年は28歳。」とあるのでしたね。
そのとき、というのがいつなのかはっきりわかりません。
不比等が28歳だったのは687年で、687年は天武朝なので、つじつまもあいます。
稗田環濠集落
④稗田阿礼は案山子では?稗田阿礼ってなんか偽名っぽい名前のような気がします。
稗という漢字には「小さい」「こまごました」という意味があり、
古代中国では身分の低い小役人のことを稗官(はいかん)と言っていました。
つまり、稗田とは「小さな田圃」という意味ではないでしょうか。
また「阿礼」が「巫女」という意味だということは、稗田阿礼は「稗を植えた田圃の巫女」「小さな田圃の巫女」という意味になります。
「稗を植えた田圃の巫女」「小さな田圃の巫女」とは案山子のことではないでしょうか。
古事記には案山子は久延毘古(くえびこ)と記され、「歩けないが、天下のことは何でも知っている神」とあります。
なんだか記憶力抜群の稗田阿礼に重なるではないですか。

⑤天智天皇は案山子だった?小倉百人一首1番
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ/天智天皇
(秋の田の仮小屋の屋根の苫(むしろ)が荒いので、私の衣のそでは梅雨に濡れてしまったことだ。)この歌は、万葉集にある詠み人知らずの歌「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」を改作したもので
958年ごろに成立した後撰和歌集の中に天智天皇御製として掲載されたと考えられています。
一般には、心優しい天智天皇が、農民の気持ちになってそのつらさを読んだと考えるにふさわしい歌であるため、天智天皇御製とされたと考えられています。
稗田環濠集落
でも、私の考えはこれとは違います。
後撰和歌集の撰者たちはこの歌を「死んだ天智天皇の霊が、埋葬されないわが身を嘆く歌」であると考えたのではないかと思うのです。
672年、天智天皇が崩御したあとすぐに、壬申の乱(天智天皇の皇子・大友皇子vs天智天皇の同母弟・大海人皇子)がおこったため、天智天皇の死体は長い間埋葬されず、放置されていたと考えられています。
『続日本紀』に天智陵が造営されたと記されているのは、天智天皇が崩御してから28年たった699年です。
「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」の中にでてくる、「とまが粗くて袖が濡れてしまう庵」もまた風葬の際につくられた仮小屋を表しているように思えます。
案山子は「山田のそほど」とも呼ばれていました。
「そほど」とは「ぐっしょり濡れる」という意味です。
なんか、天智天皇と「案山子=崩え彦=山田のそほど」のイメージが重なりませんか。
売太神社説明板より
⑥藤原不比等 天智天皇後胤説藤原不比等は天智天皇の後胤であるという説があります。
藤原鎌足は天智天皇の后であった鏡王女を妻としてもらいうけていますが、その時鏡王女はすでに天智の子を身ごもっており、これが藤原不比等であったというのです。
売太神社説明板より
⑦性別がルーズな日本の神日本の神は性別がルーズで、あるときは男神として、あるときは女神として顕れたりすることがあります。
たとえば一般に三輪明神といえば大物主のことであり男神ですが
謡曲・三輪に登場する三輪明神は女神です。
聖徳太子が親鸞の夢枕にたって「私あ女に生まれ変わってあなたの妻になろう」と言ったという話もあります。
神はその現れ方で、御霊(神の本質)・荒魂(神の荒々しい側面)・和魂(神の和やかな側面)の3つに分けられるといわれます。
そして荒魂は男神を、和魂は女神を表すとする説があります。。
すると神の本質である御霊とは男女双体ということになると思います。
御霊・・・神の本質・・・・・・・・・男女双体
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・・・男神
和魂・・・神の和やかな側面・・・・・女神稗田阿礼の正体は、天智天皇の後胤である藤原不比等だと思います。
稗田阿礼を名乗ったのは、天智天皇が、山田のそほど=案山子なのであり、自分はその子であるので、小さな田圃の巫女=案山子としたのではないでしょうか。
女神としたのは、藤原不比等の和魂という意味なのかな、と思います。
御霊・・・神の本質・・・・・・・・・男女双体・・・藤原不比等
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・・・男神・・・・・藤原不比等の荒魂
和魂・・・神の和やかな側面・・・・・女神・・・・・藤原不比等の和魂
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