京都市左京区 長徳寺・常林寺・正定院 2019年3月24日撮影
長徳寺 おかめ桜は見ごろを過ぎていましたが、カンヒ桜(かな?)が満開でした。
①出町と柳町をあわせて出町柳駅とした。早い春を探して出町柳へやってきました。 京阪電車の出町柳という駅名、変わった駅名だなあと思いませんか。 かつて鴨川の西側は出町、東側は柳町と呼ばれていたそうで、ふたつの地名を合わせて出町柳という駅名にしたそうです。 ②出町は「洛外に出たところにある町」もっと正確にいうと、上京区河原町今出川の北部一帯の商業地区を出町と呼んでいたようです。 洛外に出たところにある町、という意味から「出町」になったとのこと。 洛外とは豊臣秀吉が築いた御土居の外という意味です。 御土居の範囲については下の地図を参照してください。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%9C%9F%E5%B1%85#/media/File:OdoiRemains.png 北野天満宮に残る御土居としだれ梅(過去に撮影したものです。)つまり豊臣秀吉の時代、京都の町は御土居(土塁)で囲まれた城郭都市だったんですね。 現在はかなり失われていますが、一部御土居が残されているところもあります。 外国に城壁都市がありますが、京都の町は壁のかわりに御土居という土塁で囲まれていたわけです。 出町はこの御土居の外の北側の地域をいいました。 ※城壁・堀・土塁などで城下町まで囲んだ都市を城郭都市といいます。 「日本に城壁がなかったのは日本の戦が単なる土地取り合戦で戦争に負けても領民は奴隷にされなかった」という人が結構おられますが、これは勘違いだと思います。 日本に城壁はなかったかもしれませんが、城下町を防御するための堀や土塁は存在していましたし、戦争に負けた領民は奴隷にされていました。 大坂夏の陣屏風にも多くの大坂の住民が乱取り(領民が兵士らに人や物が掠奪されること)される様子が描かれています。 外国の城壁都市も日本の城下町まで堀で囲まれた城も城郭都市なのです。 ③柳町と柳女柳町のほうは、鴨川の東ということなので、御土居の東北の町だということになると思います。 出町柳駅の東側には、「砂川の三軒寺」と呼ばれる3つのお寺がありますが、もしかしたらこれらのお寺は都の鬼門(東北)除けの意味で建てられたのかもしれませんね。 砂川の三軒寺とは長徳寺・常林寺・正定院の3つの寺です。 長徳寺の門前には地蔵堂があり「北向地蔵尊」が安置されています。  長徳寺 地蔵堂(過去に撮影したものです。)
百済国王の守本尊で飛鳥時代、舒明天皇(在位629-641)のころ、日本に伝わったといわれています。 宮中に安置されていましたが、823年に西寺の守敏(しゅびん)に下賜されたといいます。 その後、どのような経緯を経て長徳寺にやってきたんでしょうかね?
長徳寺の隣の常林寺にも地蔵堂があり、世継子育地蔵尊が安置されています。 世継子育地蔵尊というからには、子育てにご利益のあるお地蔵さまなのでしょう。
さらに正定院にも「ちご地蔵尊」と呼ばれるお地蔵さまがありました。 境内に置かれていた石仏の地蔵尊は新しいもののようでしたが、本堂などに古い「ちご地蔵尊」があるのかもしれません。
正定寺 ちご地蔵尊
さて柳町という地名はどこからくるのでしょうか。
柳の下には幽霊が出るとかいわれますね。 また柳女という幽霊がいるそうです。
江戸時代の「絵本百物語」に登場する妖怪で、強い風が吹いて子どもを抱いた女の首に柳がからまって女は死んで幽霊となり夜な夜な柳の木の下に、子供を抱いた姿で現れるとあります。
ちご地蔵尊って、もしかして柳女?
また柳町という地名は柳女が出るところからつけられた地名だったりして?
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滋賀県大津市 寿長生の郷 2019年3月17日 撮影
①大黒天は男性のシンボルの神様?寿長生の郷ではアンティークの雛人形のほか、いろんな人形が展示されていました。 ↓ これは人形というより神像または仏像というべきかもしれません。大黒天ですね。 大黒天像にはさまざまな像容がありますが、この写真のように、頭巾をかぶり、大きな袋を背負い、右手には小槌を持ち、米俵に乗る姿で表されることが多いです。 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Daikoku8727.jpghttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0e/Daikoku8727.jpg上は神田明神の大黒天像の写真をウィキペディアよりお借りしたものです。 頭巾・袋・小槌・俵に乗るなど同じですね。 俵に如意宝寿の飾りがついているのも同じです。 大黒天のふたつの米俵は睾丸で、頭巾は亀頭をあらわすなどと言われます。 ②大黒天の袋の中身はドクロ?袋は子宮と書いてあるサイトもありました。 袋は子宮と考えることもできますが、私見では、袋の中にはドクロが入っているのではないかと思います。 真言立川流ではドクロに漆を塗ってドクロ本尊をつくり、これを袋に入れて抱いて寝ると8年目にドクロは命を持って話だす、と考えられていたそうです。 ドクロが命を持って話だす、というのは、いったん命を失って体から切り離されたドクロが生き返るということでしょう。 細かい刺繍がすてきですね~七福神の布袋尊も袋をもっていますが、布袋は死後に姿を見かけられています。 これは布袋は死後に生き返ったので、姿を見かけられたと考えることができます。 また、大黒天は日本神話に登場する大国主と習合されていますが、大国主は数回死んではそのたび生き返っています。 西洋のサンタクロースのモデル・聖ニコラオは殺されて塩漬けにされた子供を生き返らせています。 袋の中には復活のシンボルであるドクロがはいっているということではないでしょうか。 弥勒菩薩は釈迦が56億7000万年後に復活した姿であると私は思いますが 釈迦涅槃図図(釈迦が入滅した際、人々が嘆き悲しむ様子を描いたもの)には、袋が描かれています。 http://www.gyokusenzi.com/sanbukki/nehanz/nehanz.htm釈迦のお母さまの摩耶夫人が、釈迦のために投じたもので、中には薬が入っているとされます。 薬とはドクロであり、この薬によって釈迦は56億7000万年後に弥勒菩薩として復活するということなのではないかと思ったりします。 また、布袋は弥勒菩薩の化身だとされていますね。 ③小槌は男性のシンボルをあらわす?餅つきの臼は女性器を、杵は男性器をあらわすなどといわれます。 槌は英語ではハンマーであり、ものを打ち付ける道具です。 そういう点が杵と槌は似ています。 小槌もまた男性器をあらわすものではないかと思います。 恵比寿と大黒④俵の間の渦巻きは何?寿長生の郷の大黒天像(上から2枚目)をもう一度見てください。 おや、ふたつの俵の間になにか渦巻きのようなものがありますね?これはなんでしょうか? 蓮の葉の上にあるので、カタツムリでしょうか? これは女性のシンボルではないかと私は思います。 登り窯⑤璉珹寺の庭の渦巻きは何を意味している?璉珹寺の阿弥陀如来は女人裸形のみほとけといわれますが、お胸はないです。 お胸がないのになぜ女人のみほとけといわれているのでしょうか。 人裸形の阿弥陀如来立像は裸の阿弥陀如来さまで、布で作った袴をはかせてあります。 この罰当たり目が!といわれそうですが、このみほとけの下半身に女人をあらわすものがあるのではないでしょうか。 もちろん、袴をめくってみるわけにはいきません。 ふと見ると門にこんな張り紙がしてありました。↓   よく見ると庭に渦巻きが描かれていました。 裸形のみほとけの股間は蓮の形をしたものもありますが、渦巻きがついたものを過去に見た記憶があるのです。 ⑥イザナギとイザナミは日本の中心で国生みを行った。
記紀神話によるとイザナギとイザナミは天の浮橋に降り立ち、矛を海に差し入れてこおろこおろとかきまぜ矛を引き上げた際、滴った潮が固まってオノゴロ島ができたとあります。
古の人々は鳴門の渦潮はイザナギとイザナミが矛でかきまぜてできた渦だと考えていたのではないでしょうか。
鳴門の渦潮は多くは右巻きですが、赤ちゃんは生まれてくるとき産道を右回りに回って(まれに左回りもあるそうです)生まれてきます。 鳴門の渦潮はイザナミの女陰に喩えられているのではないでしょうか。
詳しくはこちらの記事をお読みください。→鳴門の渦潮 『国生みは渦潮で行われた?』
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滋賀県大津市 寿長生の郷 2019年3月17日 撮影 寿長生の郷は和菓子の 叶 匠壽庵さんが和菓子の原料となる梅や柚子などを栽培しておられる農園です。 広大な梅林が広がり、レストランやカフェ、茶室のほか、陶芸工房や炭焼き工房などもありました。 駐車料金は1000円ですが、1000円の商品券がついてくる♪ 園内は掃除が行き届いていて気持ちよく、スタッフの方も親切でニコニコ笑顔で接してくださるので、とても感じがいいです。 雛人形展もやっていて、すごく得した気分に~。また行きたいです。
①五人囃子は能楽だった。一般的な五人囃子は能楽のバンドになっています。 向かって右側から、扇子、横笛、小鼓(こづつみ)、大鼓(おおづつみ)、太鼓(たいこ)となっているのが一般的なようです。 扇子をもっている人は謡、ボーカルですね。 上の写真の五人囃子は扇子(謡/ボーカル)がいませんね。 向かって左から小鼓・横笛・火焔太鼓(かえんだいこ/かな?)・大鼓(小鼓のようにも見えますが)、太鼓となっています。 いろんなパターンがあるんでしょうか? もしかしたら他の雛人形セットと楽器が混同してしまったのかも?実際に能を見てみるとわかりやすいですね。 楽器を演奏しているのは4人です。 謡は向かって左ではなく、向かって右に6人ほどいます。 ですが、途中でひとり立ち上がって舞台の中央に向かいます。 この人がメインボーカルで、残りの5人はコーラスみたいなもんでしょうか。 ↑ こちらは向かって右に扇子(謡/ボーカル)、その隣に小鼓がいます。あとは残念ながら楽器が紛失してしまったようです。
②五楽人の雛人形もある。五人囃子でなく五楽人になっている雛人形もあるときいていましたが、寿長生の郷に五楽人の雛人形の展示がありました。  ↑ 楽器が失われていますが、楽人の衣装をきているので、五楽人ですね。楽人は「がくじん」と読み、能とは別の、雅楽を奏する演奏者をさします。 向かって左から、横笛(よこぶえ)、縦笛(たてぶえ)、火焔太鼓(かえんだいこ)、笙(しょう)、羯鼓(かっこ)を持つのが一般的なようです。 ↑ ↓ 中央の人形が笙を持っています。 笙は17本の竹管を円形に並べた楽器で、竹管に空けられた指穴を押さえ、下部横側の穴から息を吸ったり吐いたりして音を出すものです。 吸っても吐いても息がでるとのことです。 また七楽人の雛人形もあるそうです。 こちらは琴、横笛、縦笛、火焔太鼓(かえんだいこ)、大太鼓笙、琵琶、羯鼓(かっこ)のようです。 上の動画の前列中央の大きな打楽器が火焔太鼓、前列向かって右が羯鼓(かっこ)じゃないかと思います。(まちがってたらすいません) 前から2列目向かって右が琵琶、向かって左が琴ですね。後列に笙を吹く人がいます。  ↑ 五人囃子か五楽人かわかりませんが、前二人は髪を結い、後ろ3人は剃髪しています。また前二人は若そうに見えますね。③六人囃子、八人囃子、5人官女、七人官女も!加茂船屋 ひなまつり 『お雛様とお内裏さまは双子だった?』 上の記事にこんなことを書きました。 「私はお雛様は天照大神、お内裏様はスサノオで、三人官女は宗像三女神、五人囃は五柱の男神(正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命・天之菩卑能命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命)ではないかと考えています。
宗像三女神と五柱の男神(正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命・天之菩卑能命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命)は 天照大神とスサノオが「うけいの子産み」をして生んだ神々です。」
ところが、寿長生の郷に展示されていた雛人形の中に、六楽人や八人囃子のようなものがあったのでびっくり!  ↑ 享保雛(享保は1716年~1736年)と雅楽雛と書いてありました。雅楽ということは、六楽人?
↑ 二段目は三人官女のようには見えません。八人囃子?さらに、調べてみると五人官女や七人官女もいた、というのです。 http://www.tenhodo.co.jp/archives/kanjo.html囃子の5人は正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命・天之菩卑能命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命、 官女の3人は宗像三女神であってるかもしれませんが、 六人囃子、八人囃子、5人官女、七人官女はどういうイメージから創作されたんでしょうか? それとも人数なんて適当なんでしょうか? ④六人囃子、八人囃子は六所御霊、八所御霊?私なんかは6とか8とかの数字を聞くと、御霊思い出してしまいますが。 御霊とは怨霊が祟らないように慰霊したもののことをいいます。 863年、神泉苑で御霊会が行われています。御霊とは政治的陰謀によって不幸な死を遂げた人(怨霊と同義と考えていいと思います)が祟らないよう、慰霊されたもののことを言います。  ↑ 1800年代に作られた雛人形。目にはガラス玉がはめられています。863年の御霊会では、次の六柱の御霊が慰霊されました。 ①早良親王(藤原種継暗殺事件に関与したとして廃太子となり、流刑となって淡路に向かう船上で憤死。無実を訴えてハンガーストライキを行った。) ②伊予親王(謀反を企てたとして母親の藤原吉子とともに川原寺に幽閉され、服毒自殺。死後無実であることが判明/伊予親王の変) ③藤原吉子(伊予親王の母親。伊予親王とともに川原寺に幽閉され服毒自殺。/伊予親王の変) ④橘逸勢(謀反を企てたとして伴健岑とともに捕えられ拷問をうけた。流罪となって伊豆へ向かう途中死亡/承和の変) ⑤分室宮田麻呂(唐よりの物産を勝手に没収しようとしたとして伊豆に流罪となった。のち、無罪とされた。) ⑥藤原仲成(平城上皇を担ぎ上げて謀反をおこしたことにより斬殺された/薬子の変) または藤原広嗣(九州で反乱をおこし斬殺された/藤原広嗣の乱) この六所御霊に吉備大臣(吉備真備)・火雷神(菅原道真とされるところもある。)を加えて八所御霊といい、京都の上御霊神社・下御霊神社などに祀られています。 吉備真備が御霊とされている理由はよくわかっていないようです。 六人囃子、八人囃子は六所御霊、八所御霊と関係があるなんてことないかな?
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奈良市雑司町 東大寺 2019年3月11日 撮影 東大寺境内 大仏池①奈良と京都の大仏殿の柱に穴東大寺大仏殿の柱には一か所穴があいているところがあります。 東大寺 大仏殿 柱の穴東海道中膝栗毛で、喜多さんが大仏殿の柱の穴くぐりをしたが、穴から抜けられなくなったという話は有名ですね。 あれは東大寺大仏殿ではなく、京都の方広寺大仏殿での話なんですね。 方広寺現在の方広寺は小さなお寺で、大仏殿も現存していません。 大仏殿緑地内に小さな石碑が当時の面影をしのばせるのみです。 ここにかつて大仏殿があり、その柱に東大寺と同様の穴があいていたというのです。 https://plaza.rakuten.co.jp/asobikokoro2/diary/201702230000/↑ こちらのブログに法広寺大仏殿柱の絵が描かれています。 これを見ると、穴の縦の大きさは1mほどありそうです。 東大寺の柱の穴は縦37cm、横30cmということです。 小学生のときに姉と一緒に母に連れていってもらい、柱の穴くぐりをした記憶があります。 そのときはくぐれましたが、最近は喜多さんと同じく体が抜けなくなってしまいそうで、やっていません(笑)。 東大寺境内②大仏殿柱の穴は鬼門と関係がある?こんな穴がなんであいてるのかと疑問に思っていましたが、どうも鬼門と関係があるようですね。 穴があいている柱は大仏殿の東北の位置にあります。 そして東北は鬼門、鬼が出入りする方角であるとして古来忌まれていました。 ③鬼門除け京都御所の塀の東北部は鬼門の角を作らないように内側にへこませてあります。 さらに、「去る」にかけてあるのか、塀の屋根の下に猿の像が置かれてあり、「猿が辻」と呼ばれています。 猿が辻↓↑
また、石清水八幡宮では東北の角をつくらないように、建物の土台の石組み部分を斜めにしています。 石清水八幡宮ですが、大仏殿の柱の穴は上のふたつの例とはちがい、鬼門からやってくる鬼を除ける呪術的仕掛けのようには見えません。 上の二つの例は、建物の外側の呪術的しかけですが、大仏殿は建物の内側ですしね。 大仏殿の柱の穴は鬼門と関係のある呪術的しかけだと思いますが、どんな意味を持っているのかについてはよくわかりません。 もう少し考えてみます。 東大寺 二月堂
⑤大仏前の花瓶には八本脚の蝶がいる。また大仏様の前の花瓶には巨大な八本足の蝶が止まっているそうです。 大仏殿には何回も行ったことがあるのですが、全然気がつきませんでした~。(恥) ↓ こちらのサイトに写真があります。 東大寺-御朱印.jinja-tera-gosyuin-meguri.com/%E5%A5%88%E8%89%AF%E3%80%80%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E3%83%BB%E5%A4%A7%E4%BB%8F%E6%AE%BF/%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E3%83%BB%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%A7%E4%BB%8F%E6%AE%BF%E3%81%AE%E3%80%8C%E4%B8%83%E4%B8%8D%E6%80%9D%E8%AD%B0%EF%BC%9F%E4%B8%89%E4%B8%8D%E6%80%9D%E8%AD%B0/%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E3%83%BB%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%A7%E4%BB%8F%E6%AE%BF%E3%81%AE%E3%80%8C%E4%B8%83%E4%B8%8D%E6%80%9D%E8%AD%B0%EF%BC%9F%E5%9B%9B%E4%B8%8D%E6%80%9D%E8%AD%B0/.htmlこれは蝶の姿をした土蜘蛛ではないでしょうか。 蝶(ちょう)は大和言葉では「かわひらこ」と言うそうです。 しかし、いつのまにか「かわひらこ」という古名は忘れられ、「ちょう」と呼ばれるようになったとされます。 その理由については諸説あるようですが、蝶は死者の霊であると考えられ、そのため忌まれて「かわひらこ」という言葉が使われなくなり、しだいに「かわひらこ」という言葉が忘れられてしまったと聞いたことがあります。 土蜘蛛とは記紀や風土記に登場するまつろわぬ民のことです。 蜘蛛は八本足ですね。 蜘蛛なぜまつろわぬ民のことを土蜘蛛と呼ぶのか。 これについては、こちらの↓ 別ブログ、旅free styleの「土蜘蛛の謎」シリーズをお読みいただけたら、と思います。 http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-category-9.html 二月堂 籠松明
⑥東大寺大仏は長屋王の怨霊封じ込めの像?東大寺の大仏は、長屋王の怨霊封じ込めの像であるとする説があります。 720年、右大臣・藤原不比等が薨去したのち、721年に長屋王(祖父/天武天皇 父/高市皇子)が右大臣となって政権を握りました。 724年に聖武天皇が即位すると長屋王は左大臣となりました。 729年、漆部君足と中臣宮処東人が「長屋王はこっそりと左道を学んで国家を傾けようとしている!」と密告しました。 厳しい取り調べに耐え切れず、長屋王は自殺してしまいました。 これを長屋王の変といいます。 東大寺 二月堂
長屋王が国家を傾けようとしている、というのは事実ではなく、藤原氏の陰謀だと考えられています。 のちの738年には長屋王に仕えていた大伴子虫が、「中臣宮処東人がありもしないことをでっちあげて長屋王を自殺に追い込んだ」として 中臣宮処東人を殺す事件もおきています。 ところが政権を手中にした藤原四兄弟が737年に天然痘の流行で次々に死んでしまったので「長屋王の祟りじゃ~!」と騒がれたのです。  東大寺 大仏藤原四兄弟の妹・光明皇后は深く仏教に帰依したと言われますが、それは兄たちが四人とも長屋王の祟りで死んでしまったので 次は自分が長屋王に祟られる番だ、と恐れたためではないかという説もあります。 その後743年に聖武天皇(光明皇后の夫)は大仏造像を発願し、745年より造像が開始され、752年に開眼供養会が行われています。 聖武天皇の母親は藤原不比等の長女の藤原宮子、聖武天皇の皇后は藤原不比等の三女・藤原光明子(藤原宮子の異母妹)であり 聖武天皇自身が藤原氏と関係の深い人物だったので、聖武天皇も長屋王の怨霊を恐れたことと思われます。 そこで聖武天皇は長屋王の怨霊封じ込めの像として大仏を造らせたのではないか、というのです。 聖武天皇は、まつろわぬ民・土蜘蛛であり、死者の霊でもあると言えると思います。 東大寺 中門 大仏殿
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奈良市春日野町 氷室神社 2019年3月10日 撮影 ①春愁三首梅の写真を撮ることに夢中になってしまい、気が付かなかったのですが(汗)、氷室神社境内に万葉歌碑があるようですね。 http://www.himurojinja.jp/keidaigoannai/keidaigoannai.html うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しも ひとりし思へば (のどかに照る 春の日に ひばりが高く飛び 心は悲しい。ひとりで物思いにふけっていると)この歌の作者は大友家持で、詞書には「二十五日、作る歌」とあります。 この歌の前に二首あり、詞書は「天平勝宝五年二月二十三日、興に依りて作る歌(二首)」となっています。 「興に依りて」とは、実際に見たわけではなく、想像した風景を詠んでいる」という意味です。 二首は次のような歌です。 春の野に 霞たなびき うら悲し この夕影に 鶯鳴くも (春の野に 霞がたなびいて うら悲しい 夕暮れの光の中で 鶯鳴いているのを聞いていると。)
我が屋戸の いささ群竹(むらたけ) ふく風の 音のかそけき この夕へかも (私の庭の 竹の群生を 吹く風の音が かすかに聞こえる この夕べであることよ。)
※いささ群竹は諸説あるようです。 a.ささやかな竹の群 b.「五十竹葉」で葉の多い竹 c.「斎笹(ゆささ)」で神聖な笹の葉
天平勝宝五年は753年です。 大伴家持はこの年の2月23日に「春の野に・・・」と「我が屋戸の・・・」の2首を読み、2日後の2月25日に「うらうらの・・・」の1首を詠んだわけです。 この3首は家持の「春愁三首」と呼ばれています。
↑ これはカンヒザクラかな?
②ひばりを詠んだ万葉歌3首
ひばりを詠んだ万葉歌は「うらうらの・・・」の他に3首あります。
天平勝宝7年(西暦755年)3月3日に、防人を検閲した勅使(ちょくし)と兵部(ひょうぶ)の役人たちが集まって宴会をしたときに詠んだ三首
朝な朝な 上がるひばりに なりてしか 都に行きて 早帰り来む/安倍沙彌麿(さみまろ) (毎朝毎朝 舞い上がる雲雀のように なりたい。そうすれば都へ行って 直ぐに帰ってこよう。)
ひばり上がる 春へとさやに なりぬれば 都も見えず 霞たなびく/大伴家持 (ひばりが上がる春が確かにやってきたので、都も見えないほどに霞がたなびいている)
歌を詠んだ場所は難波のようですね。 東国から徴兵された防人は難波に集まり、難波から大宰府に出発したのです。 この防人たちを検閲する勅使が安倍沙彌麿でした。
755(天平勝宝7)年3月3日、安倍沙彌麿を慰労する宴が催され、兵部少輔の大伴家持など兵部省の役人たちが安倍沙彌麿をもてなしました。
梅原猛さんが、安倍沙彌麿の派遣は、光明皇太后&藤原仲麻呂が対立相手の大伴家持の視察を目的としていたのではないかとする説を唱えておられるようです。
すると、 朝な朝な 上がるひばりに なりてしか 都に行きて 早帰り来む/安倍沙彌麿(さみまろ)
上の歌は、安倍沙彌麿が早く都に行って藤原仲麻呂に「難波での大伴家持の行動」を報告したい、という意味のように思えます。
そして安倍沙彌麿の歌に和して大伴家持が詠んだ歌 ひばり上がる 春へとさやに なりぬれば 都も見えず 霞たなびく/大伴家持 上の歌は、「なに、春霞がたなびいて都から私の行いなど見えやしないさ」という意味ではないでしょうか。
③春日のひばりは藤原仲麻呂の比喩?
それでは氷室神社の万葉歌碑に刻まれた歌に戻りましょう。 うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しも ひとりし思へば (のどかに照る 春の日に ひばりが高く飛び 心は悲しい。ひとりで物思いにふけっていると)
この歌が詠まれたのは753年ですが、その前年の752年ごろより、孝謙天皇(女帝)は平城京修理を理由に藤原仲麻呂の私邸・田村第に長逗留し、田村第は田村宮と呼ばれるほどでした。
藤原仲麻呂と対立していた大伴家持は、こういった状況をなげいて詠んだのが上の歌ではないかと思います。
春日は春の日と春日大社にかかると思います。 春日大社は藤原氏の氏神なので、「照る春日にあがるひばり」とは藤原仲麻呂の比喩だと思います。 そして藤原仲麻呂が孝謙天皇の寵愛を得て権力を高めつつあるのを、家持は口惜しく思っている。 そういう意味の歌ではないかと思いました。
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奈良市高畑町 片岡梅林 奈良市春日野町 春日大社 2019年3月10日 撮影 ①丸窓梅林と円窓亭浮見堂横の高台にある片岡梅林は別名を丸窓梅林ともいいます。 丸窓梅林と呼ばれるのは、梅林の中に建てられている円窓亭(丸窓亭)に由来します。 円窓亭は鎌倉時代の建物で、春日大社経庫を改造したものです。 片岡梅林から道路を隔てた向こう側は飛火野とよばれる野原で、飛火野の北側に春日大社の長い参道が伸びています。 春日大社本殿横の紅梅も満開でしたが、残念ながら春日祭の準備中ということで拝観できませんでした~。 ②子授石春日大社の摂社・水谷神社で子授石を発見。↓ これと同じような石を見たことがあります。 そう、確か飛鳥坐神社の神楽殿前に同様の石が置いてありました。↓ 飛鳥坐神社といえば夫婦和合の狂言を行うおんだ祭が有名ですね。 飛鳥座神社 おんだ祭 『おんだ祭はサルタヒコを鎮魂する儀式だった?』 その際、天狗がながい竹を股間にあてて振り回したりするのですが(笑)、その竹を上の石の間においたりしていたと思います。 (随分昔のことなので、ちょっと記憶が定かではありません。すいません。) まあ、つまり、そーゆーことを表す石なのでしょう。 ③水谷川は東大寺と興福寺の境界?水谷という神社名は神社北側を流れる水谷川からとったのでしょう。 水谷川の北側は若草山で、若草山山麓には春日大社末社の野上神社があります。 さらにその北側は東大寺の鎮守・手向け山八幡、東大寺三月堂、二月堂となっています。 奈良の新年の風物詩として、若草山山焼きがあります。 山焼きのルーツは諸説ありますが、東大寺と興福寺の境界争いであるとも言われます。 江戸時代までの日本では神仏は習合して信仰されており、藤原氏の氏寺の興福寺と、藤原氏の氏神春日大社は一体化していたとされます。 東大寺と興福寺の境界争いとは、東大寺と春日大社&興福寺の境界争いであると言ってもいいでしょう。 水谷川は東大寺と興福寺の境界を流れる川のようにも見えます。 水谷川の北が東大寺、水谷川の南が興福寺(例外的に野上神社は水谷川の北にありますが) そして、興福寺は藤原氏の氏寺、春日大社は藤原氏の氏神で 東大寺は天皇家の寺です。 藤原氏は娘を天皇に入内させ、外祖父となって政治を牛耳る氏族でしたね。 奈良時代には、藤原不比等の娘・光明子が聖武天皇に入内して、人臣初の皇后となっています。 水谷神社にある子授石は、藤原氏と天皇家の婚姻を象徴する石のように思えます。 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 歴史ブログ・ 旅 free style もよろしくお願いします~。
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奈良県 法華寺 2019年3月10日 撮影(※印は10年以上前の撮影)
梅①光明皇后の姿を映した十一面観音、でも胸がない。法華寺のご本尊の十一面観音は光明皇后の姿を映したものだと言われています。↓ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hokkeiji_Nunnery_Eleven-Headed_Kwannon_I_(303).jpghttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/77/Hokkeiji_Nunnery_Eleven-Headed_Kwannon_I_%28303%29.jpg よりお借りしました。 mperial Japanese Commission to the Panama-Pacific International Exposition [Public domain] 手がすごく長いですね。でも不思議にバランスが取れているような気がします。 美しい顔立ちやひねった腰の曲線は女性的な印象がありますね。 ですが、胸がありません。 というか、胸のある仏像なんて見たことがありません。 釈迦如来、弥勒菩薩、帝釈天、伎芸天、十一面観音、千手観音など、すべて胸がありませんね。 仏像には性別がないといわれます。それで胸がないんでしょうか。 梅②仏像に胸がないのは変成男子光明皇后の姿を映したといわれる法華寺の十一面観音に胸がないのは、変成男子だからかもしれませんよ。 実は仏教では女性は成仏することが難しいとされていました。それで女性はいったん男性になったのちに成仏することができると考えられていたのです。
※浴室(からぶろ)とさんしゅゆ③仏教の男尊女卑思想もともと仏教には男尊女卑的思想があったと考えられます。 増一阿含経 | 釈迦が女人には九つの罪業があると言っている。 (1.7汚らわしくて臭く、2.悪口をたたき、3.浮気で、4.嫉妬深く、5.欲深く、6.遊び好きで 7.怒りっぽく、8.おしゃべりで、9.軽口) | スッタニパータ | 糞尿に満ちた女が、何だというのだ。 | 増一阿含経 中阿含経 | 女は梵天、帝釈、魔王、転輪聖王、仏になれない。 | 法華経・五百弟子受記品) | 仏国土に婦女子(女性)はいない。 |
しだれ梅
④仏教者の言い訳・・・集中力のなさを女性のせいにするな!これに対して、こんな内容を記したサイトがありました。 「男性の僧侶や修行者に対し、色欲に負けないように、女性の欠点を問いているのであって、本当に女性に欠点があると言っているのではない。」 たぶん仏教者が執筆したんだと思います。 あの~、僧侶や修行者に集中力がないのを、女性のせいにしちゃってますやん。 おっぱいの魅力的な女性が悪いんじゃないでよ、おっぱいに気をとられて集中できない僧侶や修行者が悪いんですよ。 この理屈が通るなら、自分の仕事ができないのを同僚のせいにしたり、学校の成績があがらないのを教師のせいにしたりできてしまいますよ。 いいんですか?それで。 そして、キリスト教・イスラム教・神道・儒教・ヒンズー教などの男尊女卑の例を書き連ねて、さも仏教が他宗教よりも優れているように書いていましたが、これもちょっとなあ~。 ミモザかな?
※梅
※梅
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布留梅林①石上神宮に梅と牛2013年3月のこと。 私は雨の布留梅林に立っていました。 その梅林の脇にある小道から森の中へ進んでいくと、石上神宮境内だった! という記憶が確かにあるのですが、先日、石上神宮から布留梅林へ行こうと思ったけど、森をぬけたそこに梅林はありませんでした~。 あったはずの村へ、行こうとしてもいけない、誰もそんな村は知らないという、そんな漫画がありましたが まさかリアル体験するとは~ 梅林、無くなっちゃったんでしょうか?それとも道間違えたのか? 駐車場のところに何本か梅あったけど、梅林を駐車場にしたとか?でも場所がちがうような?(方向音痴) 私は夢を見ていたんでしょうか?? ②梅と牛は火雷神のシンボル?石上神宮の境内には牛の像がありました。 なんで牛の像があるんでしょうか? 牛と梅といえば天満宮ですが? 天満宮は菅原道真を祀る神社ですが、菅原道真は火雷神と同一視されているようです。 下御霊神社京都の下御霊神社の御祭神は 吉備聖霊(吉備真備または他六柱の神の和魂) 崇道天皇(早良親王) 伊予親王 藤原大夫人(藤原吉子) 藤原大夫(藤原広嗣) 橘大夫(橘逸成) 文大夫(文室宮田麻呂) 火雷天神(他六柱の神の荒魂) ですがこのうち火雷天神は菅原道真ともいわれます。 北野天満宮 梅また北野天満宮があった土地にはもともとは火雷神が祀られていたといいます。 つまり、菅原道真はもともと北野に祀られていた火雷神と習合された結果、北野の地に祀られるようになったのではないでしょうか。 そして梅と牛はもともとは火雷神のシンボルであり、ここ石上神宮には火雷神が祀られていたのでは? 北野天満宮 立牛③炎の中から生まれた布都御魂大神石上神宮の御祭神は布都御魂大神といいます。火雷神ではありません。 この神様は、布都御魂剣に宿る神霊です。 この布都御魂剣と火雷神が同一神なのか? それはありえると思います。 というのは剣は鉄で作りますね。 古代の鉄はたたら製鉄で作られました。 堺鉄砲館 たたら(炉の向かって左 木製の箱のようなものがたたら(炉に空気を送る装置)
上はたたら吹きの様子を撮影した動画です。(動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。)
この動画を見るとわかるようにたたら製鉄は燃えあがる炎の中で行われます。 そして、布都御魂大神(剣)はこの炎の中から生まれたのです。 布都御魂大神は火雷神というにふさわしいではありませんか。
石上神宮 鶏
③部氏は製鉄鍛冶技術に長けていた?
古事記には天津麻羅(あまつまら)という神が登場します。 先代旧事本紀では次のように記されています。 「倭の鍛師(かなち)等の祖、天津真浦(あまつまうら)」 「物部造等の祖、天津麻良(あまつまら)、阿刀造等の祖、天麻良(あめのまら)」 阿刀氏はニギハヤヒの子のウマシマジノミコトを祖神とする氏族です。 物部氏はニギハヤヒを祖神としているので、同族と考えていいでしょう。 鍛師は鍛冶師のことだと思います。 ここから物部氏は製鉄や鍛冶の技術に長けた氏族だったのではないかと想像されます。 石上神宮※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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正暦寺・・・奈良市菩提山町157 人形供養・・・3月9日 午後2時より(確認をお願いします。)
①正暦寺の開基は女性じゃなかった~。
この時期、法華寺では古代雛人形展をおこなっていますが、法華寺は光明皇后が開いたお寺ですね。 京都の宝鏡寺でも、人形展や人形供養を行っていますが 宝鏡寺は光厳天皇の皇女・華林宮惠厳(かりんのみやえごん)禅尼を開基とするお寺で、その後多くの皇女が歴代となっています。
正暦寺でも人形供養が行われていますが、やはりこのお寺が女性と関係が深いからでしょうか?
そう思って調べてみましたが、正暦寺は992年(正暦3年)に、一条天皇の勅命を受けて兼俊僧正(九条兼家の子)が創建したお寺でした! 正暦寺の開基は法華寺や宝鏡寺のように女性ではなかったのです~。
②正暦3年3月3日に亡くなった女性
ですが正暦寺が創建された992年を調べてみると、輔子内親王という女性が逝去していることがわかりました。 村上天皇の第7皇女で冷泉天皇は同母兄です。 冷泉天皇が即位した際(967年)、兄冷泉天皇の斎宮に卜定されました。
斎宮は未婚の内親王または女王の中から選ばれ、一代の天皇につき、ひとりの斎宮が選ばれるのがならわしでした。
斎宮に選ばれると、初斎院(占いによって大内裏の殿舎が潔斎所に定められた。これを初斎院という。)や野宮(初斎院で1年間斎戒生活を送ったのち翌年8月に京外の清浄な地に建てられた野宮に移った。)で潔斎生活を送ったのちに伊勢に群行しました。
しかし冷泉天皇の即位期間が短かったので、輔子内親王は群行しないまま退下しています。
逝去したのは3年3月3日(旧暦)。桃の節句です。 しかも正暦3年(992年)で3が3つ揃っています。
③輔子内親王の命日は本当に3月3日?
本当に輔子内親王の命日が3月3日なんでしょうか。ちょっと怪しいなあ~。
例えば、柿本人麻呂・小野小町・和泉式部の命日はともに3月21日だとされています。 梅原猛さんは、柿本人麻呂・小野小町・和泉式部の命日は本当に3月21日だったわけではなく、お彼岸の日を彼らの命日にしたのではないかとおっしゃっています。
昔の日本人は正確な日にちにこだわらず、縁のある数字にこだわっていたようです。
輔子内親王の命日が正暦3年3月3日というのも、正確な日にちではなく、桃の節句なので、この日を命日としたのかもしれませんね。
④平安時代、上巳の節句は3月3日じゃなかったけど・・・・
ここで雛祭りの歴史に詳しい人なら、こんな風に思うはずです。 「雛祭りを3月3日に行うようになったのは室町時代以降じゃないの?正暦3年って平安時代でしょ。 平安時代は3月初めの巳の日に、上巳(じょうし、じょうみ)の節句を行っていたのでは。」と。 はい、そのとおりです。 でも、中国では国時代の魏(220年 - 265年)より3月3日に行われるようになったと言われています。 日本は遣隋使・遣唐使を派遣して中国文化をとりいれようとしていましたから、中国で3月3日に上巳の節句を行っていることを知っていたはずです。 なので、正暦3年3月3日と言う日付に、当時の人々は「何か意味がある」と考えたのではないかと思います。
正暦寺は輔子内親王の菩提を弔うために創建されたお寺じゃないかと思ったりしますが、どうでしょう?
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