奈良市菩提山町 正暦寺
①ぶんぶく茶釜
正暦寺の福寿院に入ると広い土間になっており、アンティークなへっついさんが目に入ります。 そしてその上に、狸を象った茶釜が! やーもう、これ欲しくて仕方ないです~。どっかに売ってませんかね? ぶんぶく茶釜の昔話にちなんで作られたものだと思います。 和尚が茶釜を買って小僧に洗わせたところ、茶釜が痛がった。 さらに小僧が茶釜を火にかけたところ、熱さに耐え切れなくなったのか、茶釜が動き出した。 気持ち悪くなった和尚は古道具屋に茶釜を売った。 小道具屋は鯛を買って食べようとしたが、鯛がなくなっていた。 そこへ茶釜を背負った狸が現れて、「食べたのは自分である。私は化け比べをして茶釜に化けたがもとに戻れなくなったのです」といった。 古道具屋は狸をかわいそうに思って家にとめてやった。 狸は古道具に見世物小屋をつくらせ、客に茶釜が綱渡りするさまを見せた。 見世物小屋は大流行して古道具屋は金持ちになった。
狸が化けたとされる茶釜は「ぶんぶく茶釜」といわれ、現在でも群馬県の茂林寺にあるそうです。 「ぶんぶく茶釜」の昔話は、茂林寺の伝説をベースに作られたと考えられています。 茂林寺の伝説は次のようなものです。 上州(現在の群馬県)の茂林寺の僧・守鶴の茶釜は 汲んでも汲んでも湯がつきない釜だった。 あるとき、別の僧侶が守鶴のお尻から狸のしっぽが生えているのを見つけた。 守鶴の正体は狸が化けていたのだった。 インドで釈迦の説法を受け、中国を経て日本にやってきた狸で、湯のつきない茶釜も狸の魔法だった。 狸は、幻術で源平合戦の八島の戦いや釈迦の入滅を人々に見せて去っていった。
②茶釜の綱渡りと飛行する鉢
茶釜が綱渡りするという話はどこから着想をえたのでしょうか? 私は信貴山縁起絵巻にある飛行する鉢から着想を得たのではないかと考えます。 命蓮法師が托鉢のために飛ばした鉢が、長者のところに頻繁にやってくるようになったので、長者はこれに腹を立てて鉢を米蔵に閉じこめました。 すると鉢は倉から飛び出して倉をのせて信貴山に飛び去りました。 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/da/Sigisanengi_tobikura.jpg よりお借りしました。 作者 English: unknown 日本語: 作者不詳 (不明) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で「鉢が開く」「鉢巻き」「鉢合わせ」など頭のことを鉢ということがあります。 鉢とはドクロを比喩的にいったものではないかと思います。 また玄ボウ・曽我入鹿・平将門らの首が飛んだという伝説があります。 多武峯縁起絵巻 複製 中大兄皇子に首を斬られる蘇我入鹿(談山神社)③釜は髑髏の比喩だった?鉢が綱わたりをすれば、鉢が飛んでいるように見えると思います。 狸が見世物小屋で見せたのは、茶釜の綱渡りであって鉢の飛行ではありませんが 釜も丸い形をしていて、髑髏っぽい形をしているでしょう。 釜と言えば、岡山県の吉備津神社で鳴釜神事が行われており、 神事の由来として次のような伝説が伝えられています。 吉備の国には温羅(うら)という鬼がいて悪事を行っては人々を困らせていたため、大和朝廷は四道将軍の一人、吉備津彦を派遣しました。 吉備津彦は温羅の首をはねましたが、首ははねられたあともうなり声をあげ、犬に食わせてもうなり、御釜殿の下に埋めてもうなり続けました。 ある時吉備津彦の夢に温羅があらわれ「私の妻で阿曽郷の祝の娘である阿曽媛に神饌を炊かしめれば、私があなたの使いとなって吉凶をつげよう」と告げました。
鳴釜神事とは、うなる髑髏を陰とすれば、それを陽に転じた物語のように思えます。 トイレ前に大きな釜もおいてありました。 駐車場に置いてあった狸の置物 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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奈良県生駒郡 朝護孫子寺

日が暮れて灯篭に灯が入れられました。

灯りに導かれるように境内を練り歩きます。
①寅の寺
587年、排仏派・物部氏vs崇仏派・蘇我氏の戦いがありました。 聖徳太子も蘇我氏側に参戦していました。 結果は崇仏派が勝利したのですが、崇仏派が勝利することができたのは、寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻、毘沙門天が聖徳太子の前に現れ、そのご加護を受けたためであるとして、594年に朝護孫子寺は創建されたと伝わります。
587年、排仏派・物部氏vs崇仏派・蘇我氏の戦いがあった587年は未年です。 十二支は子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥ですね。 すると、寅年は583年となります。
聖徳太子が生まれたのは574年なので、聖徳太子が13歳のときに毘沙門天があらわれ、17歳のときに排仏派・物部氏vs崇仏派・蘇我氏の戦いがおきて、これに勝利したということになりますね。
寅の刻とは午前3時から午前5時くらいに相当します。
23時~1時 | 1時~3時 | 3時~5時 | 5時~7時 | 7時~9時 | 9時~11時 | 11時~13時 | 13時~15時 | 15時~17時 | 17時~19時 | 19時~21時 | 21時~23時 | 子 | 丑 | 寅 | 卯 | 辰 | 巳 | 午 | 未 | 申 | 酉 | 戌 | 亥 |

②2月は寅の月?
寅の月は1月のはずですが、朝護孫子寺の張り紙には「2月は寅の月」と書いてありました。 これはいったいどういうことなのでしょうか?
1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 寅月 | 卯月 | 辰月 | 巳月 | 午月 | 未月 | 申月 | 酉月 | 戌月 | 亥月 | 子月 | 丑月 |
日本で用いられている暦には新暦(太陽暦)・旧暦(太陽太陰暦)・二十四節気の3種類あります。
新暦は旧暦より約1か月早いので、新暦2月は旧暦1月にほぼ相当します。 そのため、「2月は寅の月」と言っているのではないかと思います。

③聖徳太子は生年月日も没年月日もぞろ目
さて2月と言えば、旧暦2月22日は聖徳太子の命日ですね。
聖徳太子の生没年は敏達天皇3年1月1日(574年2月7日)~推古天皇30年2月22日(622年4月8日)なのです。
なんか生年月日も没年月日もぞろ目だなんて、うそっぽいなあ~?
④奇数は陽、偶数は陰。男は陽、女は陰。
陰陽思想では万物には陰陽両面があると考えます。
数字で奇数は陽、偶数は陰ですね。 性別では男性は陽、女性は陰です。
| 性別 | 天体 | 光度 | 天気 | 生死 | 陰(黒) | 女 | 月 | 暗 | 雨 | 死 | 陽(白) | 男 | 太陽 | 明 | 晴 | 生 |

⑤奇数は男、偶数は女を表す?
そこで、こんな伝説を思い出しちゃうんですね。
親鸞が六角堂に籠ったとき、聖徳太子が夢の中に現れて「私が女に生まれかわってあなたの妻になりましょう」と告げました。
聖徳太子が本当にこんなこと言うかなあ?妻帯するための詭弁じゃないの、という疑問はさておき。
聖徳太子が生まれたのは1月1日。陽の数字1がふたつ重なる日に生まれています。 聖徳太子が亡くなったのは2月22日。陰の数字2が三つ重なる日に生まれています。
陽の数字が重なる日に生まれた聖徳太子は男であり、女となって亡くなったということで、偶数が重なる日を命日にしたんだったりして?

⑥聖徳太子は荒魂として生まれ、和魂として死んだ?
神はその表れ方で御霊・荒魂・和魂にわけられるといい、男神は荒魂を、女神は和魂をあらわすとする説があります。 陰陽道では男は陽、女は陰なので、荒魂が陽、和魂が陰となります。
御霊・・・神の本質・・・・・男女双体 荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・陽 和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・陰
聖徳太子は荒魂として生まれ、和魂として死んだということなのかもしれません。




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①谷間にかけられた水路橋上のgifアニメは「なばなの里」のプロジェクションマッピングで映し出されていたもので たぶん熊本県上益郡山都町にある石造のアーチ橋・通潤橋(つうじゅんきょう)だと思います。 ちょっとわかりにくいかもしれませんが、橋から放水される様子がアニメーションにされていました。 この橋は、単に通行するための橋ではなく(通行できるようです)、谷間にかけられた水路橋なのです。 ぜひ、ほんものの通潤橋を見にいきたいです。 橋の上には3本の石管が通っているそうですよ。 石管水路の内部にたまった泥などをとりのぞくため、ときどき放水を行っているということです。  通潤橋がつくられたのは、江戸時代の1854年。 白石台地は水利が悪く、飲み水にも困るほどのありさまであったとか。 そこで矢部手永惣庄屋の布田保之助が中心となって通潤橋が建設されました。 通潤橋周辺は美しい棚田が広がっているようですが、通潤橋がもたらした水が棚田を作ったといってもいいでしょう。 このあたりにはアーチ型の石橋が数多くあるそうです。 その理由のひとつには加藤清正以来、優れた肥後石工の存在があったとされます。 これはどこの滝かな?くまモンの後ろ姿かわいいね❤②逆サイフォンの原理水潤橋は橋が結ぶ二つの地区よりも低い位置にあります。 それなのに、どうやって水をおくることができるのでしょうか。 それは逆サイフォンの原理によるとのことです。  上の図は友人に描いてもらいました。(ありがとうー) 友人には計算式なども教えてもらったのですが、理解できず(汗) ホースで水を撒くとき、ホースが地面にあって、地面よりも高い位置でホースをもっていてもホースから水が出てきます。 これと同じようなものなのかな? 上の図で管の高さが桶の高さと同じになると水は噴き上げず止まってしまうと思います。 ですが、水路は水が流れているので、その速度エネルギーで水を高い位置に持ち上げることができるということかもしれません。 (曖昧ですいません。)  上は草千里の山焼き?  ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! にほんブログ村
 まいどおなじみの京都駅ビルイルミネーションですが、行くたびにちがうのをやってるので「今日はどんなのかな」と楽しみで 旅の終わりについ寄ってしまいます。 ①男女の神像で表される道祖神道の神といえば道祖神ですね。  上は栃木県・川治温泉の道祖神です。(向かって左)  ↑こちらは岐阜県・下呂温泉にあったもので、これも道祖神だと思います。 このように道祖神は男女の神像で示されることが多いです。 ②男性器・女性器で表現される道祖神 上は川治温泉のおなで石です。 赤などの男性器を象った石が目につきますが、おなで石はこれではなく、J祠の向かって右下にある切れ目のある四角い石のことです。 女性器を象った石ですね。 おなで石の周囲にも同様の石があります。 川治温泉には上で紹介したもののほかにもたくさんの道祖神があります。 そして道祖神は男性器と女性器の形で表されることもあります。 祠に祀られた男性器の形の石と、おなで石など女性器を象った形の石はペアで道祖神だと言えると思います。 ③飛鳥の道祖神?奈良の飛鳥にもはいくつか道祖神と思われる石像がありますね。  石人像は道祖神とも呼ばれています。  ↑ 飛鳥坐神社にあるコレなんかも道祖神といえるかもしれません。 ただし道祖神ではなく「むすびの神石」と呼ばれています。  ↑ これは飛鳥にあるマラ石。男性器を象ったものですね。しかしその周囲に女性器を象った石はありません。 ④関西では同祖神をみかけない?大阪・京都・奈良あたりは結構あちこち行ってるんですが、ほかにはあんまり道祖神を見かけたことがありません。 飛鳥には道祖神と思われる石像があるので、他にも関西に道祖神があってもよさそうですが、なぜあまりないのでしょうか。 「関西にも道祖神あるよ~」という方、ぜひご一報ください。 ⑤御香宮で道祖神を発見! 上は京都・御香宮の祭の日に飾られていたお面です。 猿田彦と天鈿女命(あめのうずめ)と書いてありますね。 これは石像ではありませんが、道祖神だと思います。 道祖神は猿田彦と天鈿女命の男女双体の神であるともいわれているのです。 ⑥おかめとひょっとこは道祖神?

京都の六斎念仏の演目・祇園囃に登場するおかめとひょっとこの正体は、猿田彦と天鈿女命かも。 御香宮の天鈿女命は小面と呼ばれる美人の面ですが、天鈿女命はおかめのルーツだともいわれています。
⑦地蔵の姿をした道祖神?

上は奈良元興寺の地蔵盆を写したものです。 向かって左に二体のお地蔵さまを刻んだ石がありますね。 これも道祖神だといえるかもしれません。
そういえば京都には地蔵盆に六地蔵めぐりをする習慣がありますが、六地蔵は都に通じる主要街道の入口に祀られています。 道祖神は道に祀られる神なので、六地蔵は道祖神だといえるかもしれません。
1.奈良街道-大善寺-伏見六地蔵 2.西国街道-浄禅寺-鳥羽地蔵 3.丹波街道-地蔵寺-桂地蔵 4.周山街道-源光寺-常盤地蔵 5.若狭街道-上善寺-鞍馬口地蔵 6.東海道 -徳林庵-山科地蔵

⑧観音菩薩の姿をした道祖神?
奈良の海石榴市観音堂には向かって右手に十一面観音、向かって左手にが聖観音が祀られています。 どちらも元亀(1571~1572年)の銘があるそうです。

お堂の傍らの万葉歌碑にはこんな歌が刻まれています。
紫は ほのさすものぞ 海石榴市の 八十のちまたに 逢へる子や誰 (海石榴市の辻で逢った貴女は、何というお名前ですか。)
「『八十』は『多くの』、『ちまた』は『別れ道』という意味です。 紫色に布を染めるためには、椿の灰を媒染剤としました。 紫とは道で出会った女、灰汁は男を比喩したもので、男と目があったとたん、女がぱっと美しく瞳を輝かせた、というような意味だと思います。
石碑の万葉歌には『八十のちまたに』とありますが、八衢神という神様がいます。 八衢神は道祖神と習合されています。 道祖神は『別れ道』を司る神なので、男女の出会いや別れをも司る神やと考えられたのでしょう。
道祖神は男女双体ですが、仏教の神・聖天さんも男女双体です。
十一面観音はビナヤキャの女神に姿を変え、鬼王ビナヤキャの前に現われた。 ビナヤキャはビナヤキャ女神に一目ぼれし、『自分のものになれ』と命令した。 女神は『仏法を守護することを誓うならおまえのものになろう』と言い、ビナヤキャは仏法守護を誓った。
相手の足を踏みつけているほうが、十一面観音の化身ビナヤキャ女紳です。 参照/http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c7/Icon_of_Shoten.
海石榴市観音堂の聖観音はビナヤキャ=猿田彦、十一面観音=ビナヤキャ女神=天鈿女命ということなのかもしれませんね。

あれっ?大きな人と小さな人がいる?
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奈良市春日野町 春日大社 奈良県天理市 石上神宮
節分万燈籠 2月3日 春日大社①刀剣を神格化した神フツヌシ春日大社の御祭神はアメノコヤネノミコト・タケミカヅチ・フツヌシ・ヒメガミの4柱です。 アメノコヤネノミコトは藤原氏の祖神、タケミカヅチ・フツヌシは藤原氏の守護神、ヒメガミはアメノコヤネノミコトの妻とされます。 春日大社の一柱・フツヌシは、刀剣を神格化した神だと考えられています。 ②神武天皇を助けた刀剣・フツノミタマ記紀には「フツノミタマ」という神剣が登場します。 高倉下(タカクラジ)はこんな夢をみました。 葦原中国が騒がしいので、天照大神と高木神はタケミカヅチを葦原中国に派遣しようとしました。 タケミカヅチは「自分が葦原中国へ行かなくとも、国を平定した剣があるのでそれを降ろせばいい」と言いました。 高倉下が目覚めて倉の中を見てみると、倉の中に剣がありました。
神武天皇が率いる軍は熊野で悪神の毒気にあたって倒れてしまいました。 しかし、高倉下がこのフツノミタマをもたらすと意識を戻しました。
春日大社③フツノミタマ、物部氏が祭祀する石上神社から出土。フツノミタマは石上神社(奈良県天理市)にあると記紀には記されています。 石上神社は別名を石上布都御魂神社などともいい、布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)を御祭神としています。 石上神社は古代軍事氏族の物部氏が祭祀し、大和政権の武器庫であったと考えられています。 石上神社にはもともと拝殿があるだけで本殿はありませんでした。 拝殿の奥の聖地を「布留高庭」として祀っています。 そして「布留高庭」には二つの神宝が埋められているという言い伝えがありました。 1874年の発掘調査で布都御魂剣が、1878年の発掘調査では天羽々斬剣が出土し、1913年、これらを祀るための本殿が完建造されました。 石上神社④物部氏の祭祀する神社は神殿がない?大阪府交野市付近は肩野物部氏の本拠地でしたが、星田妙見宮・磐船神社など神殿のない神社が多いです。 どちらの神社も拝殿より直接ご神体の巨大な岩を拝するという祭祀スタイルです。 磐船神社は物部氏の祖神・ニギハヤヒを御祭神とする神社なので、物部氏が祭祀する神社でまちがいないといえそうです。 また交野市の隣・枚方市にある片埜神社の境外社・瘡(くさがみ)神社も拝殿よりその背後にあるご神体の沼を拝します。 石上神社ももともとは本殿がなかったということですし、本殿を持たないのは物部氏の祭祀スタイルなのではないかと思います。 物部氏以外にもそういう祭祀スタイルを持つ氏族はあるかもしれませんが。 磐船神社 天磐船(拝殿後方の船形の石) 星田妙見宮 織女石 瘡神社 本殿はなく、拝殿より後ろの沼を拝します。⑤高倉下の高倉は石上神社の武器庫を表す?
②の伝説に高倉下と言う人物が出てきますね。 この人は石上神社に関係がある人、すなわち物部氏であり、高倉とは石上神社の武器庫を管理するところからつけられた名前なのかも? 石上神社⑥フツヌシは物部氏の神だった?
このように見てみると、布都御魂と似た名前を持つ神・フツヌシは物部氏の神であったように思われます。 ウィキペディアを見ても、次のように記されています。 布都御魂を祀る石上神宮が物部氏の武器庫だったとされることから、経津主神も本来は物部氏の祭神だったが、後に擡頭する中臣氏の祭神である建御雷神にその神格が奪われたと考えられている。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E6%B4%A5%E4%B8%BB%E7%A5%9E より引用 石上神社⑦中臣氏はトミヒコの子孫?古代、中臣氏という神祇を祭る氏族がいました。 585年、蘇我馬子は敏達天皇に仏教を信仰する許可を得ました。 ところがその後、疫病が流行ったので、物部守屋と中臣勝海は廃仏を訴えています。 587年、中臣勝海は彦人皇子と竹田皇子の像を作って呪詛していますが、迹見 赤檮に斬られて没しました。 このようなことがあって、崇仏派・蘇我馬子vs廃仏派・物部守屋の戦いがおきました。 結果、蘇我馬子が勝利し、神仏は習合して信仰されるようになっていくわけですね。 物部守屋の墓(大阪府八尾市)こうしてみてみると、中臣氏は物部氏とつるんでいた氏族のように思えます。 そして初代神武天皇が東征して畿内入りした際、神武天皇は物部氏の祖神ニギハヤヒを神と奉じるナガスネヒコと戦ったと記紀には記されています。 ナガスネヒコの妹は物部氏の祖・ニギハヤヒの妻となってウマシマジノミコトという御子が生まれたとされます。 ナガスネヒコは物部氏の親戚なのです。 このナガスネヒコの別名はトミヒコといいます。 中臣のトミとトミヒコのトミは関係があったりして? つまり、中臣氏は物部氏と婚姻関係を結ぶことによって物部氏の神・フツヌシを奪ったのではないか、と思ったりするのです。 そして中臣鎌足は天智天皇から藤原姓を賜ったとされます。こうして、フツヌシは藤原氏の神とされたのかも? そういえば春日大社の元社は東大阪市の枚岡神社とされます。 枚岡神社からアメノコヤネノミコトとヒメガミを、鹿島のタケミカヅチ、香取のフツヌシを勧請して春日大社は創建されたのです。 枚岡神社 のある東大阪は神武天皇が東征して上陸し、ナガスネヒコ(トミヒコ)と戦ったとされるあたりです。 枚岡神社 お笑い神事
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京都市伏見区 城南宮 七草粥…2月11日
①あみばし とろき ひつき ちりこって何?1月7日は七草の節句で、七草粥を食べる習慣がありますね。 城南宮では旧暦の正月頃にあたるということで、2月11日を七草の日としていますよ。 拝殿には、セリ・ナズナ・スズナ・スズシロ・ホトケノザ・ゴギョウ・ハコベラの春の七草が並べられていました。 また於城南宮斎館では参拝者に七草粥がふるまわれていました。 城南宮神苑で栽培した七草を用いて、焚いたものなのだとか。 私は七草粥をいただきながら、館内に流れる七草囃子を聴いていました。 ♪唐土の鳥が 日本の土地に 渡らぬ先に 七草なずな テッテッテロロロ・・・・・♪ 自宅で七草粥をつくるときには、七草囃子を歌いながら七草を刻むのがならわしです。 子供のころ、母が七草を刻みながら、私に七草囃子を教えてくれました。 それは城南宮の七草囃子とはすこし違っていました。 ♪七草なづな 菜っ切り包丁 まないた 唐土の鳥が 日本の国へ 渡らぬ先に ・・・・そこから先の歌詞が思い出せないんですが、 ♪七草なづな 菜っ切り包丁 まないた 唐土の鳥が 日本の国へ 渡らぬ先に 合わせてバッタバタ♪というのがネットにありました。 『七草囃子』は地方によって色んなバージョンがあるらしく、次のような歌詞もあるそうです。 ♪七草なずな 唐土の鳥と 日本の鳥と 渡らぬ先に 七草なずな 手につみ入れて あみばし とろき ひつき ちりこ げにげにさりげなきようにて 物の大事は侍りけり♪『あみばし とろき ひつき ちりこ』とは何のことなんでしょうか。? ②1月7日は犯罪者の刑罰を禁じる日ご存知のように「七草の節句」は五節句の一ですね。 1月7日・・・七草の節句・・・人日 3月3日・・・桃の節句・・・・・上巳 5月5日・・・菖蒲の節句・・・端午 7月7日・・・笹の節句・・・・・七夕 9月9日・・・菊の節句・・・・・重陽 中国では奇数は陽、偶数は陰の数とし、陽が重なると陰になると考えられました。 そのため、月と日が同じ数字で重なる日に(ただし、1月だけは元旦と重なるため、1月7日)に避邪の行事を行っていました。 現在では節句は「お祝い」するものだと認識されているが、本来は「避邪」の行事であったという点に注意してください。 この中国の習慣が日本に伝わり、宮中で邪気を祓う行事が行われるようになりました。 また中国では、正月の1日を鶏の日、2日を狗(犬)の日、3日を猪の日、4日を羊の日、5日を牛の日、6日を馬の日とし、それぞれの日にはその動物の殺生を禁じていました。 1月7日は人の日(人日)であり、犯罪者に対する刑罰を禁じる日でした。 人日は新年になって初めて爪を切る日ともされます。 七草を浸した水に爪をつけて、柔かくしてから切ると、その年は風邪をひかないなどと言われます。 ③手足の爪を抜かれたスサノオ私は七草に爪を切る習慣は、古事記に記された次の物語からくるものではないかと思う。 スサノオは忌織屋に馬の逆剥ぎを投げ込み、驚いた織女がひで陰所をついて死亡した。 スサノオの姉の天照大神は恐ろしくなって天岩戸に隠れた。 そのため世界は闇となってしまった。 悪い神がここぞとばかりに騒ぎたて、あらゆる禍がどっと押し寄せた。 何とかしなくては、と八百万の神々が天安川の河原に寄り集まって会議を開き、思金神のアイデアで次のような謀を凝らした。 アメノウズメがストリップまがいの踊りをし、それを見ていた神々は笑った。 笑い声を不思議に思ったアマテラスがそっと様子を伺ったところにアメノコヤネとフトタマノミコトが鏡を差し出した。 アマテラスは鏡に映った自分の姿を見てますます不思議に思って身を乗り出した。 そのタイミングを見計らって、アメノタジカラヲがアマテラスを引っ張り出した。 こうして世の中は再び照り輝くこととなった。 スサノオは髭を切られ、手足の爪を剥がされて高天原を追放された。犯罪者の刑罰を禁じる人日の日に、七草を浸した水に爪をつけ、柔らかくしてから切る、というのは手足の爪を抜かれたスサノオノミコトへのせめてもの供養なのではないでしょうか。 ④はオオゲツヒメとスサノオの神話は七草粥のルーツ?人日には七草粥を食べますね。 七草とは現在では芹・なづな・御行・はこべら・仏座・すずな・すずしろの七種類の薬草のことをいいますが 平安時代に書かれた「延喜式」には、七草とは「米・粟・黍(きび)・稗(ひえ)・みの・胡麻・小豆」のことであると記されています。 七草は七種とも記され、草ではなく、穀物のことだったのですね。 それがいつのまにか七種の薬草に代わってしまったみたいです。 ③の伝説の続きは次のようになっています。 追放されたスサノオはオオゲツヒメに食べ物を所望した。 オオゲツヒメは鼻・口・尻などから食べ物を取り出してスサノオにふるまった。 スサノオはわざと穢いものを食べさせようとしているのだと考え、オオゲツヒメを殺した。 オオゲツヒメの死体の頭に蚕が生まれ、目に稲種が生まれ、耳には粟、鼻には小豆、陰処には麦、尻には大豆が生まれた。この物語では七種ではなく五種、穀物の種類も変わっていますが、これが人日の七草粥のルーツではないかと私は思います。 人日は犯罪者の刑罰を禁じる日でしたね。 それで髭を切られ、手足の爪を剥がされて高天原から追放されたかわいそうなスサノオに、オオゲツヒメは身を犠牲にして稲・粟・小豆・麦・大豆などの食物を与えた、というのがこの物語の趣旨だと思います。 七草粥を食べるのは、この伝説にちなむものではないでしょうか。  古事記には「粟の国は大宜都比売(オオゲツヒメ)」と記されています。 粟の穂は三日月の形をしています。 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Japanese_Foxtail_millet_02.jpg?uselang=ja 堺祭 阿波踊 『阿波国の神・オオゲツヒメは月の女神だった?』 、⑤瘡神=草神を食べることで、病をやっつける?♪七草なずな 唐土の鳥と 日本の鳥と 渡らぬ先に 七草なずな 手につみ入れて あみばし とろき ひつき ちりこ げにげにさりげなきようにて 物の大事は侍りけり♪ 「七草なずな 唐土の鳥と 日本の鳥が渡って疫病をもたらす前に七草なずなを手で摘み取ってしまおう。一見何事もないように見えるが、大事は潜んでいるのだ。」 というような意味でしょうか?(自信なし) 七草を刻むときに歌う『七草囃子』の意味は、一般的には「鳥追い歌」であるとか、渡り鳥が疫病を運んでくるという意味であるといわれています。 瘡神=草神を食べることで、病をやっつける 疫神といえば、スサノオですね。 スサノオは京都の八坂神社の御祭神であり、牛頭天皇(武塔神)と習合されています。 この牛頭天皇(武塔神)には次のような伝説があります。 神代の昔、蘇民将来と巨旦将来という二人の兄弟があった。 蘇民将来は貧乏で巨旦将来は金持ちだった。 しかし貧乏ではあったが蘇民将来は武塔神(牛頭天皇=素戔嗚尊)に宿をかし、巨旦将来はこれを断った。 後に疫病が流行ったとき、武塔神は蘇民将来の子孫には茅の輪をつけて疫病から守ったが、茅の輪をつけない者はすべて死んだ。 (備後国風土記) この伝説は牛頭天皇が疫神であることを示しています。 スサノオは牛頭天皇と習合されているので、スサノオもまた疫神だといえます。 古においては特に流行り病である疱瘡(天然痘)が恐れられていましたが、疱瘡は瘡(くさがみ)とも言いました。 瘡は草神に通じます。 七草を食べるのは、瘡神=草神を食べることで、病をやっつける、という意味あいがあったのかも? 八坂神社 石見神楽 大蛇と戦うスサノオ
⑥スサノオと天津甕星は同一神?「あみばし とろき ひつき ちりこ」は中国の二十八星座「二十八宿」のうちの四つの宿を指す和名です。 二十八宿とは、黄道上に見える二十八の星座群(宿)をいいます。 玄武・朱雀・青龍・白虎・のことを四霊獣といい、玄武は北、朱雀は南、青龍は東、白虎は西を司るとされる。 そして四霊獣はそれぞれ七種の星座群(宿)を支配すると考えられました。 あみぼし=亢宿=おとめ座のκ付近・・・・東(青龍) とろき(ぼし)=觜宿=オリオン座のφ付近・・・・西(白虎) ひつき(ぼし)=斗宿=いて座の南斗六星・・・南(朱雀) ちりこ(ぼし)=張宿=うみへび座のυ付近・・・北(玄武) あみぼしは『疫病』を、ひつき(ぼし)は『天子の寿命』を、とろき(ぼし)は『軍隊』を、ちりこ(ぼし)は『飲食』を司ります。 なぜ七草囃子では星の名前を唱えるのでしょうか? 記紀はスサノオは海の神であると記しています。 しかし、スサノオの本来の神格は、海の神ではなく、星の神であったと思われるふしがあります。。 おそらく、記紀編纂の過程で星の神という神格は故意に剥奪されたのだと思います。 というのは、日本神話に星の神はたった一柱・天津甕星(別名カカセオ)しか登場しないのです。 スサノオの海の神という神格は、星が航海の指標とされたために生じた二次的な神格だと思います。 記紀に次のような話があります。 イザナギは黄泉の国へイザナミを迎え似行くが、蛆のわいたイザナミの姿を見て恐ろしくなり、黄泉の国から逃げ帰り、禊をした。 このとき、左の目を洗ったときに天照大神が、右目を洗ったときに月読命が、鼻を洗ったときにスサノオが生まれた。 イザナギは尊い御子が生まれたと喜び、天照大神に高天原を、月読命に夜之食国(よるのおすくに)を、スサノオに大海原を治めさせた。 一方、陰陽道の宇宙観では、東を太陽の定位置、西を月の定位置、中央を星とするのだそうです。 記紀の記述はこの陰陽道の宇宙観に基づくものではないでしょうか。 イザナギの顔が宇宙空間に喩えられているんですね。 東・・・太陽の定位置・・・天照大神・・・イザナギの左目から生まれた。 中央・・・星の定位置・・・スサノオ・・・イザナギの鼻から生まれた。 西・・・月の定位置・・・月読命・・・イザナギの右目から生まれた。 ※地図では左が西で右が東、左右逆だと思われるかもしれないが、それはあくまで向かって右、向かって左なのであって、イザナギの側から見れば左が東で、右が西となります。 とすれば、中央である鼻から産まれたたスサノオは星の神だということになります。 また船場俊昭氏はスサノオという名前は星を表すとし、次のように説明しておられます。 スサノオノミコトは漢字では素戔嗚尊と書く。 この名前は、「輝ける(素)ものを失い(戔う/そこなう)て嘆き悲しむ(鳴/ああ)神(尊)」という意味で、スサノオはもとは星の神であったと。 さきほど日本神話には星の神は天津甕星(たった一柱しか登場しないと言いました。 この神は古事記には登場せず、日本書紀においてのみ登場します。 日本書紀・本文・・・ フツヌシとタケミカヅチは国津神をことごとく平定し、草木や石までも平らげたが、星の神の香香背男だけは征服できず、織物を司る神のシトリガミタケハヅチを遣わして、ようやくカカセオは服従した。第二の一書・・ ・フツヌシとタケミカヅチは、まず高天原にいる荒々しくすさまじい神である天香香背男、別名を天津甕星という悪い神を誅してから葦原中国平定を行うと言っている。一方、スサノオは天照大神に悪戯をした罪で高天原を追放され、葦原中国に天下っています。 天津甕星はスサノオと同一神なのではないでしょうか。 星の神は禍々しい神、疫病をもたらす神だったと考えられます。 七草は星の神に喩えられているのだろう。 星の名前を唱えつつ、七草を菜っ切り包丁で刻むことは疫神である星の神をやっつける、というような意味合いがあったのではないでしょうか。 八坂神社 石見神楽 大蛇の首をとるスサノオ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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京都市左京区 大豊神社 ①大豊神社に合祀された菅原道真大豊神社は、仁和3年(887年)に尚侍藤原淑子が勅命を受けて創建したとされます。 その目的は「宇多天皇の御悩平癒祈願」でした。 御祭神は少彦名命で、後に応神天皇と菅原道真が合祀されました。 なぜ菅原道真が合祀されたのでしょうか? ②道真、怨霊になる。菅原道真は宇多天皇の寵臣でした。 897年、宇多天皇は醍醐天皇に譲位しましたが、宇多天皇は醍醐天皇にも道真を重用するようにと申し付けていました。 ところが901年、藤原時平が醍醐天皇に「道真は謀反を企てている。」と讒言し、 醍醐天皇はこれを信じて道真を大宰府に流刑としてしまいました。 903年、道真は大宰府で死亡しました。 道真の死後、都では疫病の流行・相次ぐ天変地異、清涼殿落雷事件などがあり、道真左遷にかかわった人々がバタバタと亡くなりました。 そしてそれらは道真の怨霊の仕業だと考えられたのです。 ③道真の訴えを聞けなかった宇多上皇宇多天皇が創建した仁和寺には菅公腰掛石があり、次のような伝説があります。 道真は藤原時平の讒言により流罪となりました。 道真は大宰府に向かう途中、仁和寺に立ち寄り、冤罪であることを宇多上皇に訴えようとしました。 しかし宇多上皇は留守でした。 仕方なく道真は石に座って帰りを待っていましたが、会うことができないまま大宰府へ流されていきました。 仁和寺 菅公腰掛石③宇多天皇は道真の怨霊を恐れた?菅公とは菅原道真のことです。 道真を左遷した醍醐天皇は930年の清涼殿落雷事件の3か月後の崩御されていますが、道真の怨霊を恐れるあまりノイローゼになったのが死因だといわれています。 931年には宇多上皇が崩御されていますが、宇多天皇の死もやはり道真の怨霊の仕業だと考えられた可能性が高いと思います。 ④菅公腰掛石は道真の怨霊を封じ込めた石?仁和寺の菅公腰掛石とは道真の怨霊を呪術的に封じ込めた石だと思います。 道真の怨霊を畏れた人々は、道真の怨霊を石に封じるだけでは十分ではないと考えたのでしょう。 それでその石の上に不動明王の石像をたたせて水掛不動尊と称し 毎日多くの参拝者が水をかけて怨霊に禊ぎをさせるようにしているのではないでしょうか。 宇多天皇は出かけていたとはいえ、道真の訴えを聞けず、そのまま道真は流罪となったのですから 宇多天皇ゆかりの大豊神社の関係者は道真の怨霊を恐れたことでしょう。 (史実ではないかもですが、人々がそう信じたということが重要です。) そこで大豊神社の関係者はも道真を神として祀ることで、道真の怨霊を鎮めようとしたのではないでしょうか。  887年 | 宇多天皇即位 | 897年 | 宇多天皇は醍醐天皇に譲位 | 901年 | 菅原道真、藤原時平の讒言によって大宰府に左遷される | 903年 | 菅原道真死亡 死後疫病が流行り道真の怨霊の仕業とされる。 | 930年 | 清涼殿落雷事件 道真左遷にかかわった人が大勢死亡。道真の怨霊の仕業とされる。 醍醐天皇、清涼殿落雷事件の3か月後に崩御。(道真の怨霊を恐れるあまりノイローゼになったといわれる。) | 931年 | 宇多天皇崩御。 |
大豊神社は「宇多天皇の御悩平癒祈願」のため、887年に創建されたのでしたね。 887年、まだ道真は怨霊になっていないので、宇多天皇の御悩は道真の怨霊ではない可能性が高いです。 それでは887年当時の宇多天皇の「御悩」は何だったのか? 此方も気になりますが、またの機会に~。 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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京都市上京区 千本閻魔堂 千本閻魔堂狂言・・・2月3日
鬼の念仏 ①額烏帽子幽霊が頭につけている三角の白い布。 これ「額烏帽子(ひたいえぼし)」「天冠(てんかん・てんがん/仏教用語)」「頭巾(ずきん)」「髪隠し」「紙冠(かみかぶり)」などと呼ばれています。 額烏帽子について、「はてなキーワード」には次のようにあります。 死装束で、頭につけられる白い三角巾。 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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滋賀県犬上郡 真如寺 桜町延命地蔵尊 多賀大社 多賀大社節分祭・・・2月3日
ん ?なにかいる?気のせいか?
①真如寺の地獄絵多賀大社門前町(絵馬通り)にある真如寺。 堂内に足を踏み入れるとそこには地獄の風景が。(地獄図が展示されています。) 初七日。三途川のほとりで奪衣 婆(だつえば)に衣服を剥ぎ取られ・ ・・・・(ナイスバディだったらくらくらしそう~♪) 二七日(ふたなのか) 鬼に舌を引き抜かれ・・・・・ 三七日(みなのか)燃え盛る炎の中に投げ込まれ・・・・・ 四七日(よなのか) 杵でつかれたり、網であぶられたりまるで餅扱いやん~。犬に食わされたりも・・・・・
五七日(いつなのか) 浄波璃の鏡が生前の悪事を映し出す・・・・・ 「おまえ、放火したなっ!」 「ごめんなさい、堪忍してください~」
六七日(むなのか)人間をミンチにする機械? 鳥たちは死肉をついばむ機会をうかがっているのか?
七々日(なななのか) 斧や鋸で真っ二つに体を裂かれ・・・・・ 百ヶ日 針山を登らされたあと、体に鉄をくくりつけられ縄を渡らされる。ついには力つきて煮えたぎる釜の中へ・・・・・ いったいいつまで地獄の責め苦は続くのか?
一周忌 天秤で罪の重さをはかられます。 「この者の罪、岩より重し!」
三回忌 鉄山に挟まれたり、空から降ってきた鉄山に押しつぶされる。鳥に食われる・・・・・ ああ、やっと観音さまが助けに来てくださった!
あー、怖かった。(説明をしてくださったご住職は観音様のように優しい方なので、安心してくださいw。) ②お多賀さんの本地仏真如寺のご本尊は阿弥陀如来です。 https://gurutabi.gnavi.co.jp/a/a_2026/ (中ほどのところに写真が掲載されています。) この阿弥陀如来は多賀大社の神様の本地仏だそうです。 かつて日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うため仮にこの世に姿を現したものだとする考え方がありました。 これを本地垂迹説といいます。 そして日本の神々のもともとの正体である仏教の神々のことを本地仏 仏教の神々が仮に姿をあらわしたものである日本の神々の事を権現といいました。 多賀大社の御祭神・イザナギ&イザナミと阿弥陀如来は同一視されていたと考えてもいいでしょう。 かつて多くの寺社は一体化していました。 しかし明治に神仏分離令が出された結果、神社とお寺は分離させられました。 そしてお多賀さんの本地仏の阿弥陀如来は真如寺で祀られるようになったのです。 ③桜町延命地蔵尊真如寺に広がる地獄の世界から現実の世の中にもどり、ぷらぷら歩いていますと、桜町延命地蔵尊のお堂が。 中をのぞいてみると・・・・ 優しそうなお地蔵さま 閻魔大王とお地蔵さまは同体と言われます。 真如寺の地獄絵にもあった罪の重さをはかる天秤ですね。 千手観音さまと地蔵菩薩、脱衣婆はお堂前の石柱に三途川婆と書いてありましたね。 えっ?三途川婆にご注目! ぎゃあーーーーーっ!股裂地獄!ヤメテーーー! ④イザナミは地獄に住んでいる?真如寺はお多賀さんの本地仏を祀るお寺でしたね。 お多賀さんの御祭神はイザナギ&イザナミでした。 イザナミは出産するときに火傷を負って死に、黄泉の国へ行っています。 イザナギが迎えにきたのですが、イザナミが「見ないでね」と言ったにもかかわらずイザナギはイザナミの腐って膨れた死体を見てしまうのです。 イザナミは激怒してふたりの関係は決裂してしまいます。 その後、黄泉の国からもとの世界へ戻ったイザナギは禊をし、左目から天照大神・右目から月読命・鼻からスサノオを生みます。 しかしこの三神は男神・イザナギが単身で産んだ神ではなく、イザナギ・イザナミの夫婦神から生まれた神のようです。 というのは、スサノオがこんなことを言うシーンがあるのです。 「母上(イザナミ)のいる根の国にいきたい!」 根の国は黄泉の国と同様、死後の国のことだと考えられています。 神仏は習合されていたので、仏教がとく地獄と寝の国・黄泉の国は同様のものだと考えられていたことでしょう。 ⑤イザナミは股が裂けて死んだ?出産の時に会陰が裂けることがあるそうです。 鬼に股を裂かれているのはイザナミかもしれません。 イザナミはカグツチを出産したときに、女陰に火傷をおったとされますが これは出産時に会陰が避け、脹れたり痛みが生じたことを表現しているのかもしれませんね。 会陰切除後は火傷のようになったという人もいます。 その後、多賀大社を参拝すると、そこにも鬼がいました! きゃああああ――――! ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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滋賀県犬上郡 多賀大社 節分祭・・・2月3日
多賀大社に3匹の鬼が登場!
きゃーーっ!①多賀大社には平将門信仰があった?多賀大社門前町(絵馬通り)にはこんな注連縄が飾られていました。 一般的な注連縄は一軒もなく、ぜんぶこれでした。 この注連縄を見て、私は「ここにも平将門信仰があったのではないか?」と思いました。 ②『蘇民将来子孫家門』→『将門』→『笑門』?注連縄に取り付けられた絵馬の形をした札に「笑門」と書いてありますね。 同様の注連縄は京都の祇園や伊勢でも用いられています。 上の写真は祇園の注連縄です。 祇園では1年中この注連縄を門前にかけています。 祇園には八坂神社があります。 この八坂神社の御祭神・スサノオは武塔神(牛頭天皇)と習合されているのですが 武塔神にはこんな伝説があります。 神代の昔、蘇民将来と巨旦将来という二人の兄弟がありました。 蘇民将来は貧乏で巨旦将来は金持ちでした。 あるとき武搭神が「宿を貸してほしい」といって巨旦将来のもとを訪ねましたが、巨旦将来は宿を貸しませんでした。 次に武搭神が蘇民将来のもとを訪れると蘇民将来は快く宿をかし、あたたかく武塔神をもてなしました。 武塔神は蘇民将来に「疫病が流行ったときには茅の輪をつけなさい。」と言って帰られました。 後に疫病が流行り、蘇民将来の子孫は茅の輪をつけました。 武塔神は茅の輪をつけた蘇民将来の子孫は疫病から守りましたが、巨旦将来の子孫をはじめ、茅の輪をつけていない者はみな死んでしまいました。

この伝説にちなみ、八坂神社では祇園祭のころ、『蘇民将来子孫也』の護符を出しています。
『蘇民 将来子孫家 門』を略すと『将門』となり、逆賊とされる平将門に通じるので、『笑門』と札に書いて注連縄につけるようになったのではないか、とする説があります。 平将門は東国に独立国を作ったのですが、朝廷が派遣した藤原秀郷・平重盛らの軍と戦って流れ矢にあたって死亡しました。 平将門の首は京に持ち帰られ、鴨川のほとりで晒されました。 将門の首が晒されたとされる膏薬図子には神田明神を祀る祠がありますが、それは祇園からほど近い場所なのです。 ③多賀大社は首の神を祀る神社? 多賀大社からほど近い場所に胡宮神社があり、多賀大社の奥の院と呼ばれているようです。 胡という漢字を家にあった古い漢和辞典で調べてみると、次のように書いてありました。 ①獣のあご。垂れ下がった顎の肉。 ②くび ③なんぞ。なに。いずくんぞ。 ④いのちがながい。としより。おきな。 ⑤とおい。はるか。 ⑥えびす。北方の異民族の名。 ⑦昔の中国で、外国から渡来したものをいう。 ⑧祭器。 ⑨でたらめのこと。 ⑩ほこの首。ほこの先に曲がってわきに出たもの。 角川漢和中辞典(昭和51年 161版)より。胡という漢字には ②に「くび」とあるのが気になります。 多賀大社には杓子を奉納する習慣があるのです。 杓子って人間の頭部に似ているじゃないですか。 ④弓で弾く楽器を胡弓というのはなぜ?
胡弓という楽器があります。 三味線に似ていますが、三味線と違って弓で弾きます。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E5%BC%93#/media/File:Playing_on_Samisen,_Yokin_and_Kokin.jpg動画お借りしました。動画主さんありがとうございます! 美しい音色に聞きほれてしまいますね。 四角い箱に柄がついたような形をしていて、しゃもじに似ていますね。 また胴体から切り離した頭部(首・ドクロ)にも似ています。 それで胡弓という名前がつけられたのではないでしょうか。 琉球には胡弓(クーチョー)と読いう楽器がありますが、やはり弓で弾きます。 琉球の胡弓は昔は椰子の実を割って胴にしていたというので、日本の胡弓よりさらに頭部(首・ドクロ)のイメージに近いです。 さらに、擦弦楽器を総称して胡弓と呼ぶこともあり、明治初期にはバイオリンのことも胡弓といっていたようです。  つまり弓でひくものが胡弓であり、似たような形をしていても三味線には胡という漢字は用いられないのです。 これはなぜでしょうか? それは弓でひくことに、首を刀などで切断しているイメージがあるため「胡=くび」の文字を用いているということでははないでしょうか? 中国の楽器・二胡も弓で弾き、「胡」の文字が使われていますね。 ⑤糸切餅は胡弓の弓で切っていた?
多賀大社名物は糸切餅です。 私も菱屋さんで買って帰りました。 洗練されたデザインに見惚れてしまいます。味も甘すぎなくておいしいです♪ 胡弓には弦が3本あります。糸切餅の3本の線は、蒙古の旗だと言いますが、本当は胡弓の3本の弦をイメージしたものではないでしょうか。 そして、糸切餅は現在は三味線の弦で切っていますが、もともとは弓の弦で切っていたのでしたね。 弓は弓でも、胡弓の弓で切っていたのではないでしょうか。 これが正しければ、糸切餅の起源は蒙古襲来よりも、時代が下って江戸時代ではないかなと思ったりします。 というのは、胡弓が歴史上に登場するのは江戸時代なので。 ⑥多賀大社も平将門も首(ドクロ)の神だった多賀大社は首’(ドクロ)の神だと考えられますが、鴨川のほとりで首が晒された平将門も首(ドクロ)の神だといえるでしょう。 平将門を祀る神社に御首神社というのがありますね。 そういったところから、多賀大社の神様と平将門は習合され、その結果「笑門」の注連縄を飾るようになったのかも? https://blogs.yahoo.co.jp/to59iwa/32112964.html?__ysp=5aSa6LOA5aSn56S%2BIOW5s%2BWwhumWgA%3D%3D上のブログに御首神社の絵馬の写真がありますが どことなく多賀の注連縄に似ていませんか? 多賀そばを食べて帰りました。(生麩が入ってる。おいしいです。おすすめ!)
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