京都市左京区 須賀神社 節分祭・・・2月2日 3日
①須賀神社節分祭で怪しげな人物を発見!
須賀神社で覆面をかぶった怪しげな人物を発見!(イケメンさんですが❤)実はこの方、「懸想文売り」なんです。 懸想文とは恋文、ラブレターのことを言います。 ②「懸想文売り」は犬神人?「懸想文売り」は、昔金に困った貴族が小遣い稼ぎで恋文を代筆したのが起源で、覆面をしているのは素性を隠すためだといいます。 ですが、私は、『懸想文売り』の姿を見て、これは犬神人ではないのか?と思いました。 「犬神人」とは祇園社(現在の八坂神社)に隷属し、清水坂あたりに住んでいたとされる人々です。 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E7%8A%AC%E7%A5%9E%E4%BA%BA_%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E8%81%96%E4%BA%BA%E4%BC%9D%E7%B5%B5.jpghttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e6/%E7%8A%AC%E7%A5%9E%E4%BA%BA_%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E8%81%96%E4%BA%BA%E4%BC%9D%E7%B5%B5.jpg よりお借りしました。 <a title="覚如 [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で" href=" https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E7%8A%AC%E7%A5%9E%E4%BA%BA_%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E8%81%96%E4%BA%BA%E4%BC%9D%E7%B5%B5.jpg"><img width="256" alt="犬神人 本願寺聖人伝絵" src=" https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e6/%E7%8A%AC%E7%A5%9E%E4%BA%BA_%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E8%81%96%E4%BA%BA%E4%BC%9D%E7%B5%B5.jpg"></a> 上は本願寺聖人絵伝に描かれた犬神人です。 祇園祭の綾傘鉾には犬神人のように顔を覆った人も登場します。(下写真2枚) 祇園祭とはかつて祇園社と呼ばれていた八坂神社の祭礼で、犬神人は祇園社に隷属する民でした。 綾傘鉾の覆面の人々はたぶん犬神人の恰好をしているのだと思います。 でググってみたのですが、やはり懸想文売りは犬神人のようです。 https://blog.goo.ne.jp/kyoto-10nen/e/08347ea3b2fa48eaaa1be44b4de47ecd↑ こちらのブログ記事(良記事と思いますので、一読をおすすめします。)によれば、 広辞苑には「江戸時代に犬神人(いぬじじん)が売り歩いた」と記載されているとあります。 また上のブログには、延宝4年(1676)刊の『日次紀事』の文章が記されています。 参考になるので、引用させていただきます。 …赤布を著し、白布を以て頭面を覆ひ、わずかに両眼を露見して、紙符を市中に売る、これを懸想文という、俗間男女これを買て、男女相思する所の良縁を祈る、
「赤布を着し」とありますね。 私が須賀神社で出会った懸想文売りはクリーム色の着物を着ていましたが、もともとは赤い着物を着ていたのですね。 下記も上のブログよりの引用です。 梅の枝に恋文をつけて売り歩くと、若い娘が飛び出してきたとか。 かつて「都の祝福芸能者たち」と題した講座で聞いたことがありました。 江戸の後期には復活し、明治になくなった恋文売りが、ここ須賀神社に伝わっているのです。 また、節分のときに齢の数だけの豆と賽銭を紙で包んで道に落としておく(厄落とし)と、人の厄をはらって歩く役目を果たす者もいたそうな。
③赤い着物は犬神人のシンボル?平清盛は禿と呼ばれる少年たちをスパイとして用いていたとされますが、清盛が用いた禿とは、犬神人のことであるとする説があります。 禿は、結髪しない童形(おかっぱヘアー)で赤い着物をきていたとされます。 犬神人は非人の一とされますが、非人は結髪することが許されず、大人になっても童形(結髪しない髪型)だったので 童子と呼ばれていたそうです。 鬼の子孫と称する八瀬童子なんかも同様の人々ではないかと思います。 犬神人(つるめそ)の 緋縅着たる 暑さかな (※記憶が曖昧ですいません、川柳の語句にまちがいがあるかもしれません。もし間違っていたら教えてください。) 上の川柳は、祇園祭で緋色の着物を着た犬神人たちが警護のために町をうろついている様子を詠んだものです。 緋色の着物は犬神人のシンボルのようなものであったのでしょう。 ④懸想文売りは節分の鬼だった? 上は玄武神社のやすらい祭を撮影したものです。 結髪しないヘアースタイル、赤い着物、これらは犬神人を思わせます。 そして彼らは「鬼」と呼ばれています。 残念ながら撮影禁止なので写真はないんですが、壬生狂言の節分という演目に登場する鬼も結髪しないヘアースタイルに赤い着物を着ていました。覆面もしていました。 大覚寺狂言 節分厄払い 同様の演目が壬生狂言にもあります。大覚寺狂言の鬼は茶色の着物ですが、壬生狂言の鬼は赤い着物をきていました。延宝4年(1676)刊の『日次紀事』の文章を思い出してください。 …赤布を著し、白布を以て頭面を覆ひ
とありましたね。 懸想文売りも、本来はこのようなスタイルで懸想文を売っていたのかもしれません。 つまり、懸想文売りとは節分の鬼なのではないでしょうか? 「節分の」というのは、懸想文売りが梅の枝を持っているからです。 梅の花ことばを調べると「2月3日の花」とありました。 2月3日は節分で、ちょうろ梅の花が開化し始めるころですね。 ⑤犬神人(鬼)は人々の厄を身に受ける存在?鬼は豆をまいて追い払うものだ、懸想文は縁起物であり、それを売る懸想文売りは幸福をもたらす存在である。 それがなんで鬼なんだ、といわれるかもしれませんね。 たしかに鬼は豆をまいて追い払われますが、その一方で参拝者のお加持を行ったりもします。 蘆山寺 鬼のお加持 善水寺 鬼のお加持豆をまいて退治された鬼が心を入れ替えたのだと説明されることもありますが、私の考えはこれとは若干ちがいます。  上の写真の四ツ目の人物は吉田神社の追儺式に登場する方相氏です。 写真では方相氏が鬼を退治していますが、平安時代の追儺式には方相氏は登場しますが鬼は登場しません。 がシン子を引き連れた方相氏が「鬼やらい」といいながら宮中を練り歩く、というのが平安時代の追儺式でした。 平安時代後期の人物、大江匡房の『江家次第』には『殿上人長橋の内に於いて方相を射る』と記されています。 鬼を追い払ってくれる正義のヒーロー、方相氏を射るというのです。 大江匡房が鬼と方相氏を混同したのではないかという人もいるようですが、私はそうではないと思います。 方相氏は宮中をめぐってその体内に冬の気をすいこみ、いっぱいになったところで弓で射られて殺されるというストーリーになっているのではないかと思います。 ゴキブリホイホイをしかけ、たくさんゴキブリをとったところで、それを燃やして処分するというのに似ていますね。 犬神人は鬼であり、厄をその身に受ける存在だと考えられていたのではないでしょうか。 そして懸想文売りは懸想文を売ることで他人の厄をその身に受けるというような信仰があったのではないでしょうか? 須賀多餅でひとやすみ~歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。
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京都市上京区 蘆山寺 追儺式鬼法楽 2月3日もうすぐ節分ですね!
①蘆山寺は紫式部の邸宅跡って本当?角田文衞氏の考証によれば蘆山寺は紫式部の邸宅跡だといいます。 京都御所のすぐ横にある廬山寺の土地は紫式部の曽祖父・藤原兼輔の邸・堤第があった場所だそうです。 堤第は紫式部の父・為時に伝領されたといわれるため、為時の娘・紫式部はここで人生の大部分を過ごしたのではないかというのです。 しかしこの角田氏の考証には若干の疑問を感じます。 古代日本の結婚形態は妻問婚が多かったようです。 妻問婚とは男が女のもとへ夜這いしていくという結婚形態で、子供の養育権は母方が持っていました。 平安時代中期より子供の養育を父一族で行う習慣が生じました。 そのため後三条天皇以降、摂関政治が衰退したと言われます。 後三条天皇の生没年は1034年~1068年です。 紫式部の生没年は不明ですが、生年は970年~978年、没年はわかりませんが1019年までは存命したと考えられています。 紫式部が生きていた時代は、ちょうど妻問婚から夫居婚の切り替わり時期であったようにも思われます。 紫式部は母方(藤原為信の娘)の屋敷で育った可能性もあるんじゃないかと思うのです。 しかし角田文衞氏の考証については、「彼が考証した」内容を直接読んだわけではありませんので (角田氏がこんな風に考証したという文章を読んだだけw) できれば角田氏の論文等を読んでみて、もう少しじっくり考えてみたいと思います。 ②蘆山寺は紫式部ゆかりの地というよりも元三大師ゆかりの地というべき?写真に「元三大師」と記された提灯が写っていますね。 「元三大師」とは蘆山寺を創建した僧侶・良源の呼称です。 蘆山寺は938年に、元三大師によって創建されましたが、創建されたのは現在地ではなく北山でした。 1243年に法然の弟子・覚瑜が船岡山山麓に再興しました。 戦国時代、豊臣秀吉の寺町建設によって現在地に移転しました。 蘆山寺が紫式部の曽祖父・藤原兼輔が所有していた堤第跡に移転したのは、何か意味があったのかもしれません。 ですが、蘆山寺は紫式部ゆかりの地としてとらえるよりも、元三大師ゆかりの地と考えたほうがしっくりくるような気がします。 ③鬼の姿になった良源良源が元三大師と呼ばれるのは、彼が正月の3日に亡くなったためです。 また良源は角大師とも呼ばれていますが、それは、次のような伝説によるものです。 疫病が流行し、元三大師も感染して高熱を出しました。 自分と同じ苦しみを人々に与えたくない。 彼はそう考えて祈ったところ、疫鬼が現れましたが、そのとき元三大師は鬼のような姿になっていたので、疫鬼は逃げていきました。正月には各地で角大師の姿を描いた護符が出されますが、それは鬼の姿をしています。 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ryogen1.JPG https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/29/Ryogen1.JPGよりお借りしました。 unknown (copyright holder is Kiemon Tsuruya) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で④蘆山寺の三匹の鬼は疫鬼?これをふまえて考えると、蘆山寺の追儺式鬼法楽(鬼おどり)は、疫鬼が元三大師の鬼のような姿を見て退散したという伝説に基づくものではないかと思えます。 鬼は松明や小槌、斧をもって参拝者を威嚇しているように見えますが、やがて上下の写真のようにヘロヘロになって退散します。 これは、元三大師の前に現れた疫鬼の姿ではないでしょうか。
③お加持する鬼は元三大師のイメージ
上の写真は参拝者を加持祈祷する鬼です。 これは元三大師のイメージですよね。 ④豆大師元三大師は豆大師とも呼ばれ、豆粒のように小さい33人の元三大師を描いた護符もあります。 https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E8%B1%86%E5%A4%A7%E5%B8%AB観音さまは33に変化するといわれます。 元三大師は観音様の化身ということで、33人の元三大師が描かれているのでしょうが 豆大師の護符は節分の豆をも意味しているように思えます。 節分には豆を鬼にぶつけて退散させますね。 元三大師は節分の豆となって、鬼を退治してくださる。 そんな信仰から豆大師の護符は作られたのではないでしょうか。 蓬莱師って始めて聞いたけど、蓬莱に住む仙人という意味かな? (蓬莱は古代中国で東海上にある仙人が住む山のことです。)
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三重県桑名市 なばなの里 くまモンのイルミネーションは2018年3月のものです。
なばなの里でバーチャル熊本観光?
熊本城だよね。以下、観光地名まちがってたら教えてくださいね! ①加藤清正は梅毒で亡くなった?熊本城はもともとあった千葉城、隈本城をとりこんで加藤清正(1562年~1611年)が築いたお城です。 この加藤清正の死因は、徳川家康による毒殺説など諸説ありますが、一説に梅毒で亡くなったのではないかともいわれています。 というのは『当代記』という書物に「唐瘡(梅毒)で亡くなった浅野幸長同様、好色ゆえの虚の病で亡くなった」との旨が記されているそうなんです。 草千里かな。草千里では乗馬ができるそうです。②「誰も食わない ワシが食た」のワシはw氏(わし)=梅毒?
そういうわけで、かわいいくまモンや熊本とは何の関係もありませんが、今日は梅毒の話です。 梅毒の事を隠語でw氏(わし)と言うそうです。 w氏とはWassermann反応(ワッセルマン反応/略してW 氏反応)のことで、 梅毒を検査する方法のことです。 アウグスト・フォン・ヴァッサーマン氏が開発しました。
この話を聞いてピンと閃くものがありました。
皆さまは下駄かくしの歌をご存じでしょうか。
下駄かくしチュウレンボウ 橋の下のねずみが 草履をくわえてチュッチュクチュ ちゅっちゅくまんじゅは誰が食た 誰も食わへん わしが食た 表の看板三味線屋 裏から回って三軒め
この歌の歌詞に「誰も食わない ワシが食た」とありますが、食べたのか食べなかったのか、どっちやねーん、と長年思っていました。 この「ワシ」は梅毒という意味ではないでしょうか? 高浜というところでサーフィンできるらしいけど、どうでしょう?③「下駄かくし」の「チュウレンボウ」は「チョウリンボウ」が訛ったもの?「チュウレンボウ」は「チョウリンボウ」の訛ったものではないかという説があり、かつてコンサートなどの合唱に不適切であるとして抗議されたりしたことがあったようです。 ですがこのブログは歴史と民俗学を考えるブログですので(写真ブログじゃなかったのか~) 「あったもの」を「なかった」というわけにはまいりません。 このまま話をつづけますよ~。 これはどこなのか、わかりませんでした~。たぶん「チョウリンボウ」とは「長吏(ちょうり)ん坊」ということなのでしょう。 長吏とは日本の賤民の一つで、中世には穢多・非人の頭目(親分)、江戸時代には穢多・非人・非人頭のことをいったようです。 「赤ちゃん」の「赤」に「ん坊」をつけて「赤ん坊」といいますが、 これと同様「長吏」に「ん坊」をつけて「長吏ん坊」と言っていたのではないでしょうか。 『日葡辞書』には、長吏は「死んだ獣の皮を剥いだり、牛の皮を剥いだりする人、あるいはらい病(ハンセン病)にたいして監督権をもっている頭」と記されています。 ただし、「長吏」は地方によって仕事内容は異なっていたようです。 そして長吏は遊郭と結びつきが深かったように思えます。 非人総取り締まり役として、穢多頭(えたかしら)・弾左衛門(だんざえもん)という身分がありました。 で、当時罪を犯して死罪一等を減じられる「奴刑(しゃつけい)」によって穢多・非人の身分に落とされることがあったようですが こうした人が女性であった場合、穢多頭・弾左衛門は彼女たちを遊郭に売る権限を持っていたそうです。 さきほど、「長吏とは江戸時代には穢多・非人・非人頭のことをいった」と書きました。 穢多頭・弾左衛門は長吏とイコールであると考えていいのではないでしょうか。 「下駄かくしチュウリンボウ」のあと、「橋の下のねずみが 草履をくわえてチュッチュクチュ」となっていますが 被差別部落民は、河原・橋の下などに住まわされていたそうです。 ねずみは「チュウチュウ」となきます。 歌では「チュッチュクチュ」とありますが、これもネズミの鳴き声だと思います。 この「チュウ」や「チュッ」から、「チョウリンボウ」を「チュウリンボウ」としたのではないでしょうか? 通潤橋
④鼠鳴きかつて「鼠鳴き」と呼ばれるものがあったそうです。 喜多村筠庭著『嬉遊笑覧』巻之九に次のように記されているそうです。 『丹前能』(元禄十四年)、稲荷の条、「近年御造宮より此かた、鳥居の前には軒を並べ簾をかけ、うつくしき女、男をみれば鼠なき、あやしや狐のわざかととへば、いやいやあれは此処の茶立女、のぞめば奥にともなひ花代が月、酒を望めば外に分入事也とかたる。月・分とは、いかなることぞ。どうも、遊女が男を誘うときに行うものが「鼠鳴き」であったようです。 また、中野栄三著『廓の生活』には吉原の妓楼の習慣として次のような記述があるようです。 拝が終ると男衆は表入口に行って手のひらで柱と羽目板を叩き、鼠鳴きをしてから下足箱の傍らにある下足札の紐を右手に持ち、それを高くあげ鼠鳴きして、下足札で廊下を強く数回打つ、https://gionchoubu.exblog.jp/tags/%E9%81%8A%E5%A5%B3%E3%80%81%E9%BC%A0%E9%B3%B4%E3%81%8D/より引用 「橋の下のねずみ」とは被差別部落の遊女または男衆のことを言っているのではないでしょうか。  天草教会群⑤下駄かくしなのになぜ草履?「草履」は「じょうり」とも読むそうで、「長吏」に似ていますね。 ですが、なにか他の隠語なのかもしれません。 また「下駄かくし」なのになぜ下駄ではなく草履がでてくるのでしょうか? このあたり、よくわかりません。 下駄目というと、下駄には緒の穴が三つあるところから、三枚目のことですが、関係あるでしょうか? 中野栄三著『廓の生活』に 鼠鳴きをしてから下足箱の傍らにある下足札の紐を右手に持ち、それを高くあげ鼠鳴きして、下足札で廊下を強く数回打つ、とあるのも気になります。 下駄隠しとは、鼠鳴きと関係があるのかもしれませんね。 天草西海岸サンセットライン?自信なし。 ⑤毛饅頭「ちゅっちゅくまんじゅ」の「まんじゅ」は女陰だと思います。 女陰のことを俗語で毛饅頭といいますね。 酸ヶ湯温泉では湯治小屋の「まんじゅうふかし」が名物だそうですが、 これは中にお湯を通した木箱に腰掛けてお尻を温めるのだそうです。 女陰のあたりが温まるから、「まんじゅうふかし」というのでしょう。 「ちゅっちゅくまんじゅ」とは、鼠鳴きをする遊女の女陰という意味かもしれませんね。 山鹿灯籠浪漫・百華百彩かな?くまモンが躍っているのは山鹿灯籠踊りだと思う。⑥夙は三味線や鼓弓を弾いた。中世から近世、近畿地方に多く住んでいた賎民のことを夙といいます。 かわたよりも下位の身分で、かわた村の手下となった夙は雑芸能に携わって三味線や鼓弓をひいていたようです。 また和太鼓・三味線などは現在でも部落で作られることが多いとのことです。 下駄や草履も部落で作られることが多かったようです。 熊本には黒川温泉・平山温泉などたくさんの温泉があるそうです。 あー、行ってみたい!⑦下駄隠しは梅毒の売春宿の歌だった?以上のことを踏まえてもう一度下駄隠しの歌を見てみましょう。 下駄かくしチュウレンボウ 橋の下のねずみが 草履をくわえてチュッチュクチュ ちゅっちゅくまんじゅは誰が食た 誰も食わへん わしが食た 表の看板三味線屋 裏から回って三軒め
下駄かくし長吏ん坊 橋の下に住んでいるネズミ鳴きをする遊女(または売春宿野男衆)が、草履をくわえてチュッチュクチュ 鼠鳴きをする遊女の女陰は誰が食べた(エッチした) 誰も食わない w氏(梅毒)が食べた 表向きの看板は三味線屋になっている 裏から回って3限目がその売春宿だ? うーん、なんかエロい歌だったっぽいですね。 その意味を知りもせず子供たちが歌っているというのが何だかな~。 「下駄かくし」「草履をくわえてチュッチュクチュ」などの意味はもうちょっと調べて考えてみます。 good night. ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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岡山県倉敷市 倉敷美観地区 2016年1月 撮影 夜明け前の倉敷①内海だった倉敷を陸地にした宇喜多堤昔、倉敷付近は吉備の穴海と呼ばれる内海でした。 倉敷の鶴形山にはクスドイゲ、ツワブキ、オニヤブソテツなどの海岸性植物が生育していますが、それはかつてここが島であったころの名残なのだとか。 平安時代初期には干潟(低湿地帯)となり阿智潟と呼ばれました。 1589年ごろ、岡山城主・宇喜多秀家(1572-1655)が倉敷付近に宇喜多堤を作りました。 宇喜多堤によって干潟に海水が入り込まなくなり、島々は陸続きとなりました。 こうしてできた平野には八ヶ郷用水がひかれ、耕作地となりました。 宇喜多秀家なくして現在の倉敷はない、と言っても過言ではないと思います。 ②イケメン宇喜多秀家~❤この宇喜多秀家の肖像画がすんごいイケメンなんすよー。 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ukita_Hideie.jpghttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/33/Ukita_Hideie.jpg よりお借りしました。 不明Unknown author [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で 実物はどうだったんでしょう? この時代の戦国武将の肖像画は結構残されていますが、宇喜多秀家ほどのイケメンはいないです。 やはり実物もイケメンだったのでは~♡♡ アンサイクロペディアを見ても「イケメン」が連呼されています(笑)。 https://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E7%A7%80%E5%AE%B6秀家使用の鎧から推測して身長は170cmくらいだったと考えられています。 当時の男性の平均身長は156cm程度とされており、長身でもあったようです。
日が明けてきましたよ。③織田信長が秀家に家督を継がせたのは秀家が美少年だったから? 1581年、宇喜多秀家が9歳のとき、父で岡山城主だった宇喜多直家が死去。 秀家は幼くして家督を継ぎますが。これには織田信長のはからいがあったとのことです。 織田信長といえば、やっぱり衆道ですよね! 当時、衆道は武士のたしなみとされていたのです。 森蘭丸はたいへんな美少年で、そのため信長は森蘭丸を気に入って小姓に召し抱えたといわれています。 小姓は衆道の相手とされることが多かったため、信長と森蘭丸はBLの関係にあったと考えられています。 9歳の宇喜多秀家もたいへんな美少年であったでしょう。 そんな秀家を美少年好きの信長が気に掛けなかったはずがない、と思ってしまいます~。 信長がまだ9歳だった秀家に家督を継がせたのは、秀家が美少年だったからではないでしょうか? ④美少年宇喜多秀家、秀吉の猶子となる。1582年、信長は本能寺の変で自害しました。 当時18歳だった蘭丸も本能寺の変で討死しました。 信長亡きあと、豊臣秀吉が天下人となりました。 秀家は秀吉にもたいへん気に入られ、秀吉の猶子(養子)となっています。 秀吉が猶子としたのは、智仁親王、近衛前子、伊達秀宗と宇喜多秀家の4人だけですから、秀吉は相当秀家を気に入っていたのではないでしょうか。 そもそも秀家という名前も秀吉の「秀」の字を与えられて名乗った名前なのです。 1598年 には26歳という若さで五大老のひとりに任じられています。 ちなみにこの時、他の五大老は徳川家康が55歳、前田利家が59歳、上杉景勝が42歳、毛利輝元が45歳で、宇喜多秀家が26歳というのはとびぬけて若いです。  ⑤秀吉は衆道もたしなんだ?一般に秀吉は女好きで衆道には興味がなかったと言われていますが、本当でしょうか。 秀吉は秀家のイケメンぶりに熱をあげた結果、自らの猶子とし、秀吉の秀の字をあたえ、さらには五大老に任じたのではないかなと思ってしまいますがー。 『石田軍記』には「秀吉と石田三成がBLの関係だった」と記されており、また南方熊楠は「秀吉と織田信忠がBLの関係だった」と言っているそうです。 『石田軍記』は江戸時代に三成を中傷することを目的として記されたものです。 なので、偽ったことを書いた可能性もありますが。 南方熊楠が秀吉と織田信忠をBLの関係としている理由はわかりません。 ミーハーな内容で失礼しました! 手をつないで、どこまでも歩いていこうね。
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大阪市北区 大阪天満宮 天満天神えびす祭 1月9日~1月11日
①1月10日はえべっさんの誕生日?
北野天満宮の境内に蛭子大神を祀る蛭児遷殿があり、十日えびすが行われています。 さて、 なぜ十日えびすは10日なのでしょうか。 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11119117726?__ysp=5Y2B5pel44GI44Gz44GZIOOBquOBnDEw5pel上記、ちえぶくろには「えべっさん」の誕生日が1月10日だからと書いてあります。 でも「えべっさん」を祀る神社の御祭神は蛭子大神のほか、事代主の場合もありますので、どちらの神様の誕生日かわからないですね? また記紀神話に蛭子大神または事代主の誕生日は書いてないんじゃないかと思います。(間違ってたら教えてね~) ②1月10日は何の日?十日えびすのほかに、1月10日は何の日なのかを調べてみました。 110番の日 | 110が1月10日に通じる。 | 干瓢の日 | 干瓢の「干」の字を分解すると「一」と「十」になる。 | 糸の日 | 1(い)10(とう)で糸(いと)となる。 | 糸引き納豆の日 | 同上 | インテリア検定の日 | 1(イン)10(テ)リア。 | 初金毘羅 | 毎月10日は金比羅の縁日で、一年最初の縁日は「初金比羅」という。 |
③えべっさんは釣糸を垂れてるけど・・・ちょっと苦しいかw1(い)10(とう)で糸(いと)の日、とかオモシロイ! そういえば、「えべっさん」は岩に座って糸を垂れて鯛をつっていますね。 それで1月10日が「えべっさん」なのかな? ちょっと苦しいかw 長田神社 蛭子(向かって左)と大黒(向かって右)③1月10日は初金毘羅1月10日は初金毘羅でもあるのですね。 金毘羅は金毘羅大権現を祀る神社です。 像頭山松尾寺には次のような説話が伝えられています。 大宝年間、役小角が象頭山に登った際、天竺毘比羅霊鷲山(象頭山)に住む護法善神・金毘羅(宮比羅、クンビーラ)の神験に遭って開山しました。 つまり金毘羅大権現とはクンビーラのことだと考えていいと思います。 クンビーラはガンジス川に住む鰐を神格化した水神です。 そのため、金毘羅大権現は海の神様、海上交通の神様として信仰を集めました。 金毘羅講といって講金を積み立て、講員の中から選ばれた代表が参拝する習慣がありました。 「こんぴら狗」といって犬に祈願札や幟をつけて、見ず知らずの人に代参してもらう習慣もあったようです。 「こんぴら狗」を松尾寺に金毘羅さんに連れていくとご利益があると信じられていたので、親切に連れていってくれる人があったようですね。 また、流し樽(舟)に賽銭を入れて金毘羅権現に祈願する木札や幟とともに放つという習慣もあったようです。 こちらも、見つけた人が代参することになっていたようです。 香川県 金刀比羅宮(琴平神社または金比羅神社の総本宮/江戸時代までは象頭山松尾寺金光院だった。) ④金毘羅大権現=えびす神?このように書いているうちに、金毘羅大権現とえびす神は同一神ではないかという思いが強くなってきました。 金毘羅大権現もえびす神もどちらも海の神ですし、縁日も十日で同じです。 そういえば、こんな歌がありますね。 ♪こんぴらふねふね 追風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ♪ 七福神の乗る宝船を思わせますね。みなさんご存じのように、えびす神は七福神の一柱です。(ほかは大黒天・布袋尊・弁財天・毘沙門天・福禄寿・寿老人)  ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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大阪府富田林市 龍雲寺 2016年1月中旬 撮影 ①龍雲寺は狭山藩士らの菩提寺?龍雲寺は元は河内長野市石見川にあったそうですが、1724年(享保9年)に狭山藩主北条氏の援助を受けて現在地に移転し、黄檗宗に改宗したそうです。 富田林市の西は大阪狭山市ですし、龍雲寺があるあたりはかつて狭山藩があったということだと思いますが かつての狭山藩が現在のどのあたりにあったのか、調べてみたのですがわかりませんでした。 北条家と狭山藩士らの菩提寺とする目的から移転したのではないかと思います。 ②北条氏北条氏の祖は戦国時代初期の武将・北条早雲です。 北条家は関東地方を本拠地としていましたが、1590年、豊臣秀吉の小田原征伐により滅亡してしまいました。 しかし、徳川家康の娘婿であった第5代当主・北条氏直と和平に努めた北条氏規は許されて、高野山での蟄居を命じられました。
蟄居(ちっきょ)とは、武士や公家を部屋にとじこめ謹慎させる刑罰のことをいいます。 1591年、氏直は子をもうけないまま死亡し、北条氏の嫡流は断絶しました。 そこで氏規が氏直の跡を継いで後北条氏の当主となりました。 その後、罪を許されて氏規の子・北条氏盛は下野国内で4,000石、氏規も河内狭山で7,000石を領地として与えられました。 1600年、氏規が没し、氏盛はその家督をつぎ1万1,000石の大名となりました。 こうして狭山藩が形成され、明治維新まで狭山藩は存在していました。 第3代藩主・氏宗は飲酒のしすぎで病を患い、江戸城登城ができない状態が続きました。 そのため氏宗は藩主の座を退きましたが、跡を継いだ氏治は老中・稲葉正則に反対されて家督相続が認められませんでした。 前老中・酒井忠清の取り成しで、氏治は第4代狭山藩主になったものの、狭山藩は1万石に減封されてしまいました。 龍雲寺が移転された1724年、狭山藩主であったのは第5代の北条氏朝です。 ③布袋は弥勒菩薩の化身黄檗宗の本山である萬福寺 には本堂の前に天王殿があり、布袋像が安置されています。 萬福寺 布袋像布袋は弥勒菩薩の化身であるといわれますが、萬福寺では布袋は弥勒菩薩そのものであるとしています。 萬福寺の御本尊は釈迦如来ですが、布袋は萬福寺や黄檗宗のシンボル的存在だといえるでしょう。 龍雲寺にも布袋像が置かれていました。 ④弥勒菩薩は復活した釈迦?弥勒菩薩は釈迦の次にブッダになるとされ、56億7000万年後にこの世にあらわれるとされています。 この弥勒菩薩とは釈迦が生き返った(復活した)仏なのではないでしょうか。 そして布袋とは中国に実在した禅僧なのですが、彼には死後に姿を見かけられたなどという話が伝えられています。 死後に姿を見かけられたというのは、布袋はいったん死んだのちに生き返ったということでしょう。 一般には布袋が死の間際に「弥勒は真の弥勒にして分身千百億なり」という文を残していたため、弥勒の化身だと言われるようになったと考えられていますが、 私はそうではなく、布袋が弥勒菩薩のように生き返ったため、弥勒菩薩の化身であるといわれるようになったのではないかと考えています。 ⑤北条氏朝は佐山藩復活を布袋に祈願した?北条氏朝は1万石に減封された狭山藩の復活を志し、そのため龍雲寺を布袋信仰の厚い黄檗宗に改宗させたのではないかと思ったりします。 魚梆(ぎょほう)黄檗宗の寺にはたいていありますね。 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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