大阪市中央区 北御堂
北御堂ライトアップ 12月25日まで
①東西の道が「通り」、南北の道が「筋」
大阪では東西の道を「通り」、南北の道を「筋」といいます。
こういうのは珍しいですね。
東西の道、南北の道ともに「通り」と呼ぶ地域が多いです。
②戦国時代からあった御堂筋
1615年の「大阪夏の陣」を記録した徳島藩の「大坂濫妨人落人改之帳」という文書の中に「大阪御堂筋」という言葉が出てきます。
御堂筋という名前の由来は北御堂と南御堂の二つの御堂があることに由来します。
北御堂の創建年は1597年、南御堂の創建年は1595年です。
1595年~1615年ごろより、北御堂と南御堂をつなぐ道は御堂筋と呼ばれるようになったようです。
随分古い道だったんですね。
③御堂筋拡幅工事かつて御堂筋とは北は淡路町から南は長堀川(現在は埋め立てられて長堀通りとなっています。)までの道のことを言いました。
道幅は約5.4メートルの狭い道だったのです。
御堂筋の西側には北に北御堂、南に南御堂があります。
御堂筋の北は淡路町で突き当りとなり、やや東側にずれて淀屋橋通りが北に延びていました。
第七代大阪市長、関一(せきはじめ)さんが、『御堂筋の拡幅工事』を推進し、昭和12年5月11日に完成しました。
この拡張工事によって御堂筋と淀屋橋筋はつなげられ、「飛行機の滑走路を作るのか」と言われたほのど広い御堂筋が誕生したのです。
幅43.6m、全6車線で、大阪万博開催に伴い1970年から一方通行となりました。
④北御堂なのに西御堂、南御堂なのに東御堂?大阪の古い地図を見てみると、北御堂は西御堂、南御堂は東御堂と書いてあります。
北なのか西なのか? 南なのか東なのか? どっちやねーん!って感じですね。
実は北御堂(西御堂)は正式には本願寺津村別院、南御堂(東御堂)は真宗大谷派難波別院といいます。
本願寺津村別院は浄土真宗本願寺派、真宗大谷派難波別院は新宗大谷派です。
親鸞聖人を宗祖とする浄土真宗には10の宗派があります。
で本願寺津村別院(通称/
北御堂)の本山は京都の本願寺(通称/
西本願寺)なので、北御堂は西御堂
真宗大谷派難波別院(通称/
南御堂)の本山は真宗本廟(通称/
東本願寺)なので、南御堂は東御堂となっているのでしょう。
・真宗興正派(興正寺)
•浄土真宗本願寺派(本願寺)・・・本山 本願寺(通称/
西本願寺)・・・・本願寺津村別院(通称/
北御堂)
•真宗大谷派(真宗本廟)・・・・・本山 真宗本廟(通称/
東本願寺)・・・真宗大谷派難波別院(通称/
南御堂)
•真宗高田派(専修寺)
•真宗佛光寺派(佛光寺)
•真宗木辺派(錦織寺)
•真宗出雲路派(毫摂寺)
•真宗誠照寺派(誠照寺)
•真宗三門徒派(専照寺)
•真宗山元派(證誠寺)
北御堂と南御堂は同じ浄土真宗の寺ですが、宗派が違っていたんですね。
⑤本願寺は兄弟の相続争いで分裂した。浄土宗の開祖・親鸞は京都に葬られ大谷廟堂と呼ばれました。
1321年、廟堂は寺格を得て本願寺と称しました。
親鸞は肉食妻帯した僧侶ですから、子孫がいます。
そして代々本願寺は親鸞の子孫が世襲しました。
その後本願寺は北陸、山科と移転し、1532年には大坂に移転しました。(石山本願寺)
1570年、本願寺は織田信長と対立し10年も、争うことになります。(石山合戦)
当時の寺院には僧兵がいて武力を備えていたのですね。
1580年、信長と本願寺の間に講和が結ばれました。
ここから先、ややこしいので
穏健派(顕如・准如/顕如の三男・如春尼/顕如の妻)・
強硬派(教如/顕如の長男)で色分けして記します。
講和が結ばれたことによって、当時の本願寺のトップ・顕如(けんにょ)紀伊の雑賀に移ります。しかし顕如の長男・教如は強硬派で、なかなか石山本願寺を去ろうとしませんでした。
最終的に顕如は「石山本願寺」を信長に明け渡しましたが、その直後に「石山本願寺」は放火によって消失してしまいました。
顕如はわが子教如の強硬的な態度に怒り、三男の准如を跡継ぎにすると宣言します。
こうして本願寺は
顕如派(穏健派)と
教如派(強硬派)に分裂していまいました。
1582年の本能寺の変で織田信長は自害し、変わって豊臣秀吉が天下をとりました。
1583年、豊臣秀吉は石山本願寺跡地に大阪城を建てました。
1591年、秀吉は顕如に京都の土地を寄進し、ここに本願寺(西本願寺)が建てられました。1592年、顕如が亡くなると、秀吉は本願寺の後継者に教如を命じました。顕如の妻で、教如・准如の母親・如春尼はこれに納得できず、後継者は准如だと申し立てを行い、これが認められます。
教如は本願寺から追い出されてしまいました。1595年、豊臣秀吉より大阪の土地を寄進されて教如が大谷本願寺を立てました。(現在の中央区道修町1丁目付近) 1597年、大坂の顕如派信徒たちによって北御堂が建てられました。
1598年、大阪城三の丸造営に伴う街区拡充のため、大谷本願寺は現在地へ移転しました。
その後、徳川家康が天下をとると、1602年家康は教如に寺を寄進しました。
教如に与えられた寺は本願寺の東にあったので東本願寺、准如に与えられた寺は西本願寺と呼ばれるようになりました。
本願寺の東西分裂は穏健派と強硬派の分裂とみることもできますが、准如・教如兄弟の相続争いという側面もあったといえると思います。
⑥南北で競い合うお堂
えー、話は変わりますが、なぜ大阪は東西の道を通り、南北の道を筋と呼んでいるのでしょうか?
「筋」という漢字を調べてみると、次のようにあります。
1 筋肉。また、その線維。「肩の―が凝る」
2 筋肉を骨に付着させている組織。腱(けん)。「足の―を切る」
3 皮膚の表面に浮き上がってみえる血管。「―の浮き出た手」「額に―を立てて怒る」
4 植物などの繊維。「―のかたい野菜」
5 細長く、ひと続きになっているもの。線。「まっすぐに―を引く」
6 縞模様。「赤い―のある布地」
7 家系。家柄。「貴族の―を引く」
8 学問や芸術の流儀。流派。「彼の絵は狩野派の―だ」
9 素質。たち。「芸の―がいい」
10 物事の道理。すじみち。「―の通った話」
11 小説や演劇などの、大体の内容。梗概(こうがい)。「芝居の―」
12 そのことに関係のある方面。「確かな―からの情報」「消息―」
13 依頼したい事柄。おもむき。「お願いの―があって参上いたしました」
14 道路や川に沿った所。「街道―」「利根川―」
15 囲碁・将棋で、本筋とされている打ち方・指し方。
16 将棋で、盤面の縦9列のそれぞれをいう。
17 身分。地位。
「めでたきにても、ただ人の―は、何の珍しさにか思ひ給へかけむ」(源・少女〉
18 「すじかまぼこ」の略。
https://kotobank.jp/word/%E7%AD%8B-186214 より引用
「16 将棋で、盤面の縦9列のそれぞれをいう。」とありますが、大坂の町は碁盤の目のように縦縦横横で区画されていますので
それを将棋盤に喩えたというようなことはないでしょうか?
かつての御堂筋の南には南御堂が、北には北御堂があって、対戦しているようにも見えます。
と書いてみたけど、大坂には南北に細長くのびる上町台地がありますね。
その上町台地を筋と呼んでいたのが、上町台地上の南北の道(熊野街道/別名御祓筋など)も筋と呼ぶようになり、南北にのびる道を筋と呼ぶようになったのかも?
みなさんはなぜだと思いますか?
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毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

にほんブログ
[2018/12/25 15:37]
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