Author:佳音
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天平年間(729-749)聖武天皇の勅願によって行基が開いたと伝えられます。病を患っていた聖武天皇の夢に観音菩薩が現れ、行基はその観音菩薩を探して2つの川が合流する水間にやってきて観音菩薩の化身である16人の童子に導かれて滝へやってきたところ、竜神があらわれ聖観音像を授けたという伝説が伝えられています。水間寺は枝分かれした二つの川の間に建てられていますよ。 ②水間寺の清十郎・お夏物語水間寺には清十郎・お夏の物語も伝えられています。約700年前、伏見天皇の勅使・山名清十郎が水間寺を訪れ、水間の豪農楠右衛門の娘、お夏と出会いました。二人は水間寺の「愛染明王」に祈願し、身分違いの恋を成就させました。清十郎は北畠顕家の阿倍野の合戦にも参加しましたが無事でした。お夏は清十郎を求めて戦場を彷徨いましたが、住吉の松原で再会し、2人は水間に戻りました。しかし京都御所にふたりの情事がばれ、追手が差し向けられました。清十郎の家来の山名忠平が身代わりとなり、首を打たれました。 ③姫路にもあった、清十郎・お夏の物語清十郎・お夏の物語には姫路にも伝えられており、姫路城の北東にある慶雲寺には「お夏・清十郎」の霊を慰める比翼塚があるそうです。井原西鶴の『好色五代女』に姿姫路清十郎物語という話があります。 造り酒屋の息子・清十郎が、放蕩のあげく姫路の但馬屋にあずけられました。清十郎は但馬屋の主人の妹・お夏と恋仲となって駆け落ちしましたが、とらえられて、男は刑死、女は狂乱しました。この話は当時よく知られていた実話をベースにしたものだといいます。 ④水間寺の利生の銭水間寺と姫路の「お夏・清十郎」物語に登場する男女の名前が同じなのは偶然なんでしょうか?そうではなく、水間寺の物語のほうは、姫路の物語をベースに創作されたものではないかと思います。その理由をご説明します。あるとき江戸の廻船問屋が一貫(貫は昔の貨幣の単位)の利生の銭を借りて帰りましたが、なかなか返済に来ませんでした。(利生とは「仏様が衆生に与える利益」のことだそうです。)13年目に、廻船問屋は馬の背に13年間の元利を揃えて水間寺を参拝したので、このお金で三重塔を建立しました。のちにこの人は網屋という人であることがわかりました。 主語が抜けていて、廻船問屋が誰に一貫のお金を借りたのか書いてありませんが、水間寺の住職さんにでも借りたんでしょうか。1834年に岸和田藩主 岡部長愼が水間寺を再建していますので、この岡部長愼が廻船問屋にお金を貸したのかもしれません。そして借りることができた一貫のお金は、実際には人に借りたのでしょうが、水間寺の観音様のご利益であると考えられたのでしょう。また、初午の日に水間寺を参拝し、受けた利正の銭を来年倍額にして返すことによってご利益が得られるなどといった習慣があったようです。そして井原西鶴の「日本永代蔵」の第1話「初午は乗て来る仕合」に水間寺の利生の銭が記されているのです。こうして、水間寺と井原西鶴が結び付けられ、さらに井原西鶴が記した『好色五代女』姿姫路清十郎物語と水間寺が関係づけられた結果、水間寺に「お夏・清十郎」物語が生じたのではないでしょうか。清十郎が犯罪人である点も同じですし。しかし、清十郎が刑死させられてしまうのは、あまりにかわいそう。なんとか清十郎がお夏と幸せになる話にしたい。そうだ、清十郎が利生の銭を観音様に返したとしたら、観音さまからご利益が得られるではないか。そういうわけで、話を変えたんだったりして?
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