八坂神社・・・京都府京都市東山区祇園町北側625 をけら詣・・・12月31日 午後7時半ごろより ①をけら詣12月28日、八坂神社では鑽火式(さんかしき)が行われます。
鑽火式とは火鑽杵(ひきりきね)と火鑽臼(ひきりうす)で御神火を鑽(き)り出す神事です。
12月31日、午後7時ごろ、神職さんによって御神火が『をけら灯籠』に点火されます。
をけら燈籠の中には護摩木のほか、キク科の薬草である朮(おけら)が入っています。
朮は漢方薬の屠蘇散の主原料で独特の芳香があります。
人々は吉兆縄ををけら火にかざして火を貰い受け、火が消えないように吉兆縄をくるくると回しながら家に持ち帰ります。
これををけら詣といいます。
持ち帰ったをけら火で正月のお雑煮を焚くと、無病息災のご利益があるなどと言い伝えられています。
でも、をけら火を持ったままバスや電車に乗ることはできません。
ある人に「どうしたらいいのか」と聞いたところ、
「白金カイロにをけら火を移して家まで持ち帰り、その火でガスコンロを着火させて雑煮を焚けばいい。」と教えてくださいました。
ナルホド!
②お屠蘇、をけら火など新年を迎えるのに欠かせない朮 正月にはお屠蘇を飲む習慣がありますね。
お屠蘇は漢方薬の屠蘇散をみりんや酒に浸して作ります。
屠蘇散の主原料は朮(おけら)です。
あれっ、をけら火はキク科の薬草・朮を燃やす火のことでしたね。
どうやら朮は新年を迎えるのに欠かせない薬草のようですね。
お屠蘇は『蘇という悪鬼をほふる(体を切ってばらばらにすること)』という意味だとされます。
③お屠蘇の蘇は「怨霊として蘇った者」という意味?『大鏡』には、藤原師輔が出合った百鬼夜行の先頭には蘇我入鹿がいたと記されています。
蘇我入鹿は飛鳥時代に権力を握っていた人物で、645年中大兄皇子に暗殺されました。
多武峯縁起絵巻 複製 (談山神社)に描かれた斬首された蘇我入鹿と入鹿を斬る中大兄皇子 入鹿の首は皇極天皇(女帝)の御簾に食らいついています。 平安時代の人々が蘇我入鹿を悪鬼(怨霊)だと考えていたことがわかりますね。
蘇というのは怨霊として蘇ったもの、という意味なのかもしれませんね。
④1年の変わり目=鬼? そして、蘇とは悪鬼だといいますが、滋賀県の延暦寺では大晦日に追儺式を行っています。
現在では追儺式は節分に行われることが多いですが、延暦寺のお坊様の説明によれば、追儺式とはもともとは大晦日に行う行事であったということです。
延暦寺 追儺式 干支では旧暦12月は丑、旧暦1月は寅なので、旧暦の1年の変わり目は丑寅です。
丑寅は方角では東北ですが、東北は鬼が出入りする方角、鬼門として忌まれました。
丑寅とは、1年の変わり目をあらわすと同時に、鬼をあらわすものでもあったのですね。
追儺式とは「1年の変わり目=鬼」を追い払うことで新年を迎えるというまじないだと考えることができるでしょう。
すると、新年にお屠蘇を飲むという習慣も、同様に、蘇=鬼=1年の変わり目を飲み干すことで新年がくるというまじないであったと考えられますね。
『飲む(呑む)』と言う言葉には水などの液体を体内に摂取するという意味の他に、相手を圧倒するという意味もある。
すなわち、お屠蘇を飲むということは、蘇という悪鬼を圧倒するという意味もあるのではないでしょうか。
⑤蘇民将来 お屠蘇の『蘇』は悪鬼であるということになるが、八坂神社には『蘇』に関係するものがあります。
祗園祭の際、売り出される粽に『蘇民将来子孫也護符』がついているのです。
神代の昔、蘇民将来と巨旦将来という二人の兄弟があった。 蘇民将来は貧乏で巨旦将来は金持ちだった。 しかし貧乏ではあったが蘇民将来は武塔神(スサノオ)に宿をかし、巨旦将来はこれを断った。 後に疫病が流行ったとき、武塔神は蘇民将来の子孫には茅の輪をつけて疫病から守ったが、茅の輪をつけない者はすべて死んだ。 武塔神とはインドの神・牛頭天皇のことです。
これが日本に伝わって、記紀神話のスサノオと習合されたとのだといわれます。
八坂神社では牛頭天皇と素戔嗚尊を習合して祀っています。
をけら詣・・・・・・・・薬草である朮を燃やす
屠蘇散・・・・・・・・・朮を主成分とする漢方薬
屠蘇・・・・・・・・・・屠蘇散を酒やみりんにつけたもの。『蘇(悪鬼)を屠る』という縁起をかついで正月に飲む。
祇園祭(八坂神社)・・・・縁起物の粽には『蘇民将来子孫也』の護符がついている。
こうしてみてみると、朮と蘇と八坂神社には、何かつながりがあるように思えませんか?
⑥地中に住むおけらとスサノオ 昆虫にも『おけら』と呼ばれるものがいます。
体長3センチほどの、茶褐色でコオロギに似た昆虫です。
地中に住んでいて、ミミズや植物の根を食べます。
ここから古の人々は、おけらを八坂神社の御祭神・スサノオのイメージに重ねたのではないか、と私は考えています。
VIDEO 記紀によれば、黄泉の国と同じものである根堅洲国に素戔嗚尊の宮があるとされます。
根堅洲国とは地中にあって、植物の根が生えている国のことではないかと思います。
一方、黄泉と言う言葉は、もともとは漢語で、陰陽五行説では黄は土を表すというところから、地中を流れる泉を意味する言葉なのだそうです。
こちらもやはり、地中の国であることを示していそうです。
植物の朮はその根が生薬となります。
また、蒼朮を焚く(そうじゅつをたく)などと言い、梅雨時に朮の根を焚き、湿気と悪臭をとる習慣などもありました。
植物の朮は根が薬などに利用されるところから、古の人々に「根の国」をイメージさせたのかも?
貴船神社 出雲神楽 八岐大蛇を退治するスサノオとクシイナダヒメ 八坂神社は疫神として信仰されていますが、暦の神でもあります。
八坂神社の御祭神はスサノオ・クシイナダヒメ・八柱御子神。
スサノオは天道神ともいい、吉方・凶方のすべてを支配します。
クシイナダヒメは暦と方位の神で、歳徳神とも呼ばれます。この神のいる方位は「恵方」とされます。
八柱御子神とはスサノオと櫛稲田姫命の間に生まれた八人の皇子のことで、八将軍・八将神ともいいます。
(総光天王、魔王天王、倶魔羅天王、得達神天王、良侍天王、侍神相天王、宅神相天王、蛇毒気神天王)
十二支によってその所在を運行し、凶方を司ります。
なぜスサノオは疫病の神であると同時に暦の神でもあるのでしょうか。
私は「方角・季節がともに十二支であらわされるからではないか」と思います。
そう、丑寅は鬼でもあり、1年の変わり目でもあるのでしたね。
先日、インターネットを検索していたら面白い論文がありました。
それによれば、大年神とは疱瘡神であるといいます。
アイヌ地方では天然痘(疱瘡)のことを pa と言い、疱瘡の神( pa kor kamuy)は、歩行する神(apkas kamuy)、旅行する神(paykay-kamuy, payoka-kamuy)などとも言われ、神が訪れることで病気が流行ると考えられていました。
pa は『疱瘡』の他に、『頭』『煙、湯気』『口(くち)』『年(歳)、季節』などの意味があり
ここから『大年神』とはpa kor kamuy に漢字を当てたものなのではないかというのです。
参照/
大年神と疫神 そう考えると正月に八坂神社を参拝するのはとても理に適った事のように思えますね。
※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。 2018年もとんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! 2019年もよろしくお願いします。 にほんブログ村
[2018/12/31 15:31]
京都の祭 |
トラックバック(-) |
コメント(-)
12月13日 祇園 事始め 12月13日は正月準備を始める「正月事始め」の日で、この日、祇園では踊りのお師匠さんのもとを訪れて、正月挨拶をする習慣があります。
12月13日 北野天満宮 大福梅授与 京都では正月に梅干を入れたお茶を飲む習慣があり、正月事始めの12月13日より北野天満宮で大福梅の授与が始まります。
12月13日 六波羅蜜寺 隠れ念仏(撮影禁止)12月13日より31日まで六波羅蜜寺では隠れ念仏が行われます。
この間、ご本尊の十一面観音に献じたお茶は皇服茶として正月の参拝者に授与されます。
12月22日 葛城一言主神社 一陽来復祭 一陽来復とは冬至のことです。
冬至は太陽の南中高度が最も低くなる日で、この日より再び太陽は南中高度をあげていきます。
冬至を1年の始点とする考え方は古くよりあり、冬至正月という言葉もあります。
12月25日ごろ 枚岡神社 お笑い神事 新年に向けて新しい注連縄をかけ、神職さん、巫女さん、氏子さん、参拝者の皆さん、皆揃って「わっはっはー」と笑います。
天照大神が天岩戸に籠って世の中は真っ暗になってしまったのですが、アメノウズメのストリップダンスに神々が笑いました。
天照大神はこれを不思議に思って岩戸の扉を少し開けて外をのぞいたところを引っ張り出されたという神話がありますね。
お笑い神事はこれを再現したものと考えられており、かつては冬至(12月22日)の日に行われていたと伝えられています。
12月31日 長谷寺 観音萬灯会 12月31日 延暦寺 追儺式現在では追儺式は節分(2月3日)に行われることが多いですが、もともとは大晦日の行事であったそうです。
1月1日 大神神社 繞道祭 仁和寺 京門松 京門松は根引き松(根がついた松)に和紙と水引を巻いたシンプルなものです。
1月1日~3日 霊山寺 始福茶1月1日~3日 六波羅蜜寺 皇服茶 1月3日 八坂神社 能奉納「翁」 1月3日 八坂神社 かるた始め 1月4日 下鴨神社 蹴鞠始め 1月4日 大和神社 御弓始祭 1月7日 待乳山聖天 大根祭 1月日曜日(年によって日程は変わります。)三十三間堂 通し矢 成人式前日 友呂伎神社 お弓行事 1月10日ごろ 近江神宮 かるた祭1月13日 走田神社 弓講 1月14日 四天王寺 どやどや 牛玉宝印を奪い合います。
1月14日 法界寺 法界寺裸踊 牛玉宝印は撒きませんが四天王寺のどやどやにそっくりです。
かつてはどやどやのように牛玉宝印を撒いていたのではないでしょうか。
1月第4土曜日 若草山山焼き 若草山を焼かない年は牛鬼が出ると言われていました。
若草山山焼き2016 『野槌は蛭(ひる)の妖怪だった?』 2019年がみなさまにとってよい年になりますように!
※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 歴史ブログ・ 旅 free style もよろしくお願いします~。 にほんブログ村
[2018/12/30 23:55]
まとめ |
トラックバック(-) |
コメント(-)
大阪市中央区 御堂筋 御堂筋イルミネーション2018 12月31日まで ①難波宮は条坊制の都だった? 大阪の町は条坊制のように碁盤の目のように、東西の道(通り)と南北の道(筋)が交差しています。 条坊制とは中国・朝鮮・日本の宮城都市にみられるもので、条(東西の路)と坊(南北の路)がほぼ直角に交差する左右対称・方形の都市のことをいいます。 京都の東西の道に一条通、四条通などがあるは平安京のなごりだったんですね。 奈良にも二条大路・三条大路・九条など平城京のなごりをとどめる地名が残っています。 藤原京・平城京・平安京などが条坊制の都市であったことは良く知られていますが、大阪にあった難波宮も条坊制であったとする説があります。 645年、中大兄皇子は難波宮で改新の詔を発しました。 その中にこんな文言があるのです。 「京には坊毎(ごと)に長一人を置け。四つの坊には令一人を置け」 さきほど「坊」は南北の道と書きましたが、周囲を大路でかこまれた区域のことも坊と言っていました。 大阪の町が碁盤の目状になっているのは難波宮に始まる? ありえなくはないですが、改新の詔は信ぴょう性が疑われています。 改新の詔が出されたとされる645年ごろの史料は残っておらず、改新の詔について記されているのは720年に成立した日本書紀なのです。 改新の詔は日本書記のフィクションではないかというのです。 発掘調査をすればわかるかもしれませんが、大阪の町はビルが立ち並んでいて発掘調査が難しいそうです。 ②秀吉による大阪の都市整備 大阪の碁盤の目のような町は豊臣秀吉が作ったといわれています。
[2018/12/28 17:51]
大阪の祭 |
トラックバック(-) |
コメント(-)
すみのえ南港 光のワンダーランド2018 2018年は12月25日まで ①平安時代、住之江区は海だった。 住之江区にある南港の海を見ていると、百人一首にあるこんな歌を思い出します。
住の江の 岸による波 よるさへや 夢の通ひ路 人目よくらむ (藤原敏行) 墨の江というのにぴったりな夜の住之江。この住之江の岸に何度も波は寄ってくるのに、あなたは私に寄ってこない。 住之江の岸に寄る波の「寄る(よる)」という言葉は「夜」を思い出せるが、 その夜にさえ、夢の中で私のもとに通う道にあなたは人目を避けてあらわれてくれない。平安時代に藤原敏行はこのあたりでこの海を読んだのでしょうか。住之江区だし。
残念!
藤原敏行が歌に詠んだ住之江とは現在の住吉大社付近にあった入り江のことだというのです。
そこで住吉大社付近の地図を見てみると、あれっ?海がない?
海岸線ははるか遠くです。
実は現在の住之江区あたりは、平安時代にはほとんど海だったのです。
②河内湾・河内湖 かつて大阪湾の海岸線は現在の平野部まで深く入りこんでいました。(河内湾)
そして上町台地のみが海の上に姿を見せていました。
古墳時代’(3世紀~ら7世紀ごろ)にはなると、河内湾は淀川・大和川が運ぶ水によって淡水化し、河内湖となりました。
住の江の 岸による波 よるさへや 夢の通ひ路 人目よくらむ と詠んだ藤原敏行(?年~901年)の時代、海岸線が現在の住吉大社あたりまであったのですね。
また藤原家隆(1158~1237)は現在の四天王寺あたりに庵を構え、海に沈みいく夕日を拝して「日想観」を修したといわれます。
(日想観とは沈む太陽を見て、その丸い形を心に留める修行とのこと)
ですが、四天王寺の西にある高台に登って西を眺めても、ビルが林立する平野が広がっているばかりで、海など見えません。
現在の海岸線は四天王寺から7km以上も西です。
淀川や大和川の度重なる氾濫により土砂が堆積し、また干拓工事なども行われた結果、河内湖は徐々に平野へと変わっていったようです。
門真市の弁天池・大東市の深野池は河内湖の名残なのだそうです
↓ こちらのページに河内湾(河内湖)の変遷図が掲載されています。
https://www.suito-osaka.jp/history/history_2.html ③大阪府の天然島はいくつある? 海に面している都道府県には島が含まれているケースが多いです。 一番多いのは長崎県で外周0.1km以上の島が1,041あります。 大阪には外周0.1km以上の天然島はいくつあるでしょうか? 答は0個です。 人工島はあるのですが。
[2018/12/27 00:31]
大阪の祭 |
トラックバック(-) |
コメント(-)
大阪市中央区 北御堂 北御堂ライトアップ 12月25日まで ①東西の道が「通り」、南北の道が「筋」大阪では東西の道を「通り」、南北の道を「筋」といいます。
こういうのは珍しいですね。
東西の道、南北の道ともに「通り」と呼ぶ地域が多いです。
②戦国時代からあった御堂筋 1615年の「大阪夏の陣」を記録した徳島藩の「大坂濫妨人落人改之帳」という文書の中に「大阪御堂筋」という言葉が出てきます。
御堂筋という名前の由来は北御堂と南御堂の二つの御堂があることに由来します。
北御堂の創建年は1597年、南御堂の創建年は1595年です。
1595年~1615年ごろより、北御堂と南御堂をつなぐ道は御堂筋と呼ばれるようになったようです。
随分古い道だったんですね。
③御堂筋拡幅工事かつて御堂筋とは北は淡路町から南は長堀川(現在は埋め立てられて長堀通りとなっています。)までの道のことを言いました。
道幅は約5.4メートルの狭い道だったのです。
御堂筋の西側には北に北御堂、南に南御堂があります。
御堂筋の北は淡路町で突き当りとなり、やや東側にずれて淀屋橋通りが北に延びていました。
第七代大阪市長、関一(せきはじめ)さんが、『御堂筋の拡幅工事』を推進し、昭和12年5月11日に完成しました。
この拡張工事によって御堂筋と淀屋橋筋はつなげられ、「飛行機の滑走路を作るのか」と言われたほのど広い御堂筋が誕生したのです。
幅43.6m、全6車線で、大阪万博開催に伴い1970年から一方通行となりました。
④北御堂なのに西御堂、南御堂なのに東御堂? 大阪の古い地図を見てみると、北御堂は西御堂、南御堂は東御堂と書いてあります。
北なのか西なのか? 南なのか東なのか? どっちやねーん!って感じですね。
実は北御堂(西御堂)は正式には本願寺津村別院、南御堂(東御堂)は真宗大谷派難波別院といいます。
本願寺津村別院は浄土真宗本願寺派、真宗大谷派難波別院は新宗大谷派です。
親鸞聖人を宗祖とする浄土真宗には10の宗派があります。
で本願寺津村別院(通称/
北 御堂)の本山は京都の本願寺(通称/
西 本願寺)なので、北御堂は西御堂
真宗大谷派難波別院(通称/
南 御堂)の本山は真宗本廟(通称/
東 本願寺)なので、南御堂は東御堂となっているのでしょう。
・ 真宗興正派(興正寺)
•浄土真宗本願寺派(本願寺)・・・本山 本願寺(通称/
西 本願寺)・・・・本願寺津村別院(通称/
北 御堂)
•真宗大谷派(真宗本廟)・・・・・本山 真宗本廟(通称/
東 本願寺)・・・真宗大谷派難波別院(通称/
南 御堂)
•真宗高田派(専修寺)
•真宗佛光寺派(佛光寺)
•真宗木辺派(錦織寺)
•真宗出雲路派(毫摂寺)
•真宗誠照寺派(誠照寺)
•真宗三門徒派(専照寺)
•真宗山元派(證誠寺)
北御堂と南御堂は同じ浄土真宗の寺ですが、宗派が違っていたんですね。
⑤本願寺は兄弟の相続争いで分裂した。 浄土宗の開祖・親鸞は京都に葬られ大谷廟堂と呼ばれました。
1321年、廟堂は寺格を得て本願寺と称しました。
親鸞は肉食妻帯した僧侶ですから、子孫がいます。
そして代々本願寺は親鸞の子孫が世襲しました。
その後本願寺は北陸、山科と移転し、1532年には大坂に移転しました。(石山本願寺)
1570年、本願寺は織田信長と対立し10年も、争うことになります。(石山合戦)
当時の寺院には僧兵がいて武力を備えていたのですね。
1580年、信長と本願寺の間に講和が結ばれました。
ここから先、ややこしいので
穏健派(顕如・准如/顕如の三男・如春尼/顕如の妻) ・
強硬派(教如/顕如の長男) で色分けして記します。
講和が結ばれたことによって、当時の本願寺のトップ・顕如(けんにょ)紀伊の雑賀に移ります。しかし顕如の長男・教如は強硬派で、なかなか石山本願寺を去ろうとしませんでした。 最終的に顕如は「石山本願寺」を信長に明け渡しましたが 、その直後に「石山本願寺」は放火によって消失してしまいました。
顕如はわが子教如の強硬的な態度に怒り、三男の准如を跡継ぎにすると宣言します 。
こうして本願寺は
顕如派(穏健派) と
教如派(強硬派) に分裂していまいました。
1582年の本能寺の変で織田信長は自害し、変わって豊臣秀吉が天下をとりました。
1583年、豊臣秀吉は石山本願寺跡地に大阪城を建てました。
1591年、秀吉は顕如に京都の土地を寄進し、ここに本願寺(西本願寺)が建てられました。 1592年、顕如が亡くなると、秀吉は本願寺の後継者に教如を命じました。 顕如の妻で、教如・准如の母親・如春尼はこれに納得できず、後継者は准如だと申し立てを行い、これが認められます。 教如は本願寺から追い出されてしまいました。 1595年、豊臣秀吉より大阪の土地を寄進されて教如が大谷本願寺を立てました。(現在の中央区道修町1丁目付近) 1597年、大坂の顕如派信徒たちによって北御堂が建てられました 。
1598年、大阪城三の丸造営に伴う街区拡充のため、大谷本願寺は現在地へ移転しました。 その後、徳川家康が天下をとると、1602年家康は教如に寺を寄進しました。 教如に与えられた寺は本願寺の東にあったので東本願寺 、 准如に与えられた寺は西本願寺と呼ばれるようになりました。 本願寺の東西分裂は穏健派と強硬派の分裂とみることもできますが、准如・教如兄弟の相続争いという側面もあったといえると思います。 ⑥南北で競い合うお堂 えー、話は変わりますが、なぜ大阪は東西の道を通り、南北の道を筋と呼んでいるのでしょうか? 「筋」という漢字を調べてみると、次のようにあります。1 筋肉。また、その線維。「肩の―が凝る」2 筋肉を骨に付着させている組織。腱(けん)。「足の―を切る」3 皮膚の表面に浮き上がってみえる血管。「―の浮き出た手」「額に―を立てて怒る」4 植物などの繊維。「―のかたい野菜」5 細長く、ひと続きになっているもの。線。「まっすぐに―を引く」6 縞模様。「赤い―のある布地」7 家系。家柄。「貴族の―を引く」8 学問や芸術の流儀。流派。「彼の絵は狩野派の―だ」9 素質。たち。「芸の―がいい」10 物事の道理。すじみち。「―の通った話」11 小説や演劇などの、大体の内容。梗概(こうがい)。「芝居の―」12 そのことに関係のある方面。「確かな―からの情報」「消息―」13 依頼したい事柄。おもむき。「お願いの―があって参上いたしました」14 道路や川に沿った所。「街道―」「利根川―」15 囲碁・将棋で、本筋とされている打ち方・指し方。16 将棋で、盤面の縦9列のそれぞれをいう。17 身分。地位。 「めでたきにても、ただ人の―は、何の珍しさにか思ひ給へかけむ」(源・少女〉18 「すじかまぼこ」の略。https://kotobank.jp/word/%E7%AD%8B-186214 より引用「16 将棋で、盤面の縦9列のそれぞれをいう。」とありますが、大坂の町は碁盤の目のように縦縦横横で区画されていますので それを将棋盤に喩えたというようなことはないでしょうか? かつての御堂筋の南には南御堂が、北には北御堂があって、対戦しているようにも見えます。 と書いてみたけど、大坂には南北に細長くのびる上町台地がありますね。 その上町台地を筋と呼んでいたのが、上町台地上の南北の道(熊野街道/別名御祓筋など)も筋と呼ぶようになり、南北にのびる道を筋と呼ぶようになったのかも? みなさんはなぜだと思いますか?
※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 歴史ブログ・ 旅 free style もよろしくお願いします~。 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! にほんブログ
[2018/12/25 15:37]
大阪の祭 |
トラックバック(-) |
コメント(-)
京都府綴喜郡宇治田原町 禅定寺 2015年11月下旬 撮影 花灯窓に仁王様のお姿が。赤い目をしていましたよ。 ①此岸は四角、彼岸は丸↓ 禅定寺の庭を眺める窓にこんなものが。
『此岸 迷の窓』は□形のフレーム、『彼岸 悟の窓』は○形のフレームになっています。
中国には天円地方といって、天は○、地は□の形をしていると考えられていました。
それをふまえて禅定寺の窓をあらためて見てみると、「なるほど~」と思います。
此岸とはこの世、現生のことです。
この世は煩悩にまみれた迷いの世界だといえるでしょう。
そしてこの世は大地の上にあります。
そのため此岸の窓は大地を表す□のフレームになっているのでしょう。
彼岸とはあの世、天国のことです。
あの世は煩悩から解放され世界で、天上にあると考えられています。
そのため、彼岸の窓は天を表す○のフレームになっているのだと思います。
②普賢菩薩の徳を持つ大威徳明王?禅定寺の仏像もとてもユニークでした。
大威徳明王はふつう、水牛に乗ったお姿をされているのですが
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Daiitoku_myoo_painting.jpg 禅定寺の大威徳明王(藤原時代)は象に乗っておられました。
一般的に普賢菩薩は象に乗ったお姿をされています。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Fugen.jpg 禅定寺の大威徳明王は普賢菩薩の徳を持ったみほとけなのかも?
③大威徳明王は政治に口を出す詮子のイメージ? 吉祥寺 紅葉葵 芙蓉 『吉祥寺は井上内親王を慰霊する寺?』 ↑ こちらの記事にも書いたのですが、賢菩菩薩は女人成仏を説く法華経に登場する菩薩なので女性から厚く信仰されていました。
そこで禅定寺の縁起を見てみると、創建は991年、藤原兼家によって、とあります。
平安時代、このあたりは藤原氏の別荘があった土地なのだそうです。
991年は藤原詮子( せんし/あきこ)が出家した年です。
詮子は第64代円融天皇の女御で、父親は藤原兼家です。 兼家はここ禅定寺を創建した人物でしたね。 詮子は980年に兼家の東三条邸で円融天皇の第一皇子・懐仁親王(のちの一条天皇)をお産みになられました。 ところが990年に関白藤原頼忠の娘・ 遵子( じゅんし/のぶこ)が円融天皇の皇后となってしまいました。 そのため詮子は東三条邸にひきこもり、円融天皇に会おうとしませんでした。 庭園には大きな壁画がありました。 その後、986年に詮子の子、・懐仁親王が即位して一条天皇となり、詮子は皇太后となりました。 991年、円融法皇が崩御されると、詮子は出家して、皇太后を辞し、女院となりました。 詮子は一条天皇の母親としておおいに政治に介入したそうです。 また、詮子は弟の道長をかわいがり、兄道隆・道兼が没したのち、執政者に道長を押しました。 そのため、兄一家は没落したと言われています。 禅定寺の象に乗った大威徳明王は詮子のイメージでつくられたものなのかも? ④アシカの顔をした獅子 大威徳明王は阿弥陀または文殊が衆上を導くために敢えて恐ろしげな姿で現れたものであると言われていますが、 禅定寺の大威徳明王の隣には文殊菩薩が安置されていました。 文殊菩薩は一般的には獅子に乗ったお姿をされています。 禅定寺の文殊菩薩が乗っている獅子は大きな目を持っておられ、なんと耳がありませんでした! 体は獅子ですが、お顔は獅子というよりはアシカにそっくりでした。 ⑤禅定寺の敷地は八角形だった? 禅定寺の山号は補陀洛山といいますが、補陀洛山とはインドの南方海上にあるとされる八角形の山で、観音が住む浄土とされます。(もちろん想像上の山ですよ) 興福寺の八角円堂の南円堂はこの補陀洛山を模したものとされます。 禅定寺は京都の南の南山城にあり、小高い丘の上にあるため、この補陀洛山に喩えられたのかも。 それでアシカに乗る文殊菩薩像のような海のイメージのものがあるのかもしれませんね。 上は禅定寺の航空写真ですが、敷地が五角形か六角形に見える~。 もともとは補陀洛山と同じ八角形だったなんてことないですかね?※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 歴史ブログ・ 旅 free style もよろしくお願いします~。 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! にほんブログ
[2018/12/19 17:14]
京都府 |
トラックバック(-) |
コメント(-)