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満願寺 紅葉 『坂田金時は鉱山の神だった?』 

満願寺 山門3 
兵庫県川西市 満願寺
2017年11月24日


京都は人手がすごいので、のんびり紅葉狩ができる川西市の満願寺へ。
美しい紅葉をゆったりのんびり愛でることができるって、とても贅沢ですよね♪

満願寺 山門 


満願寺 山門2


①金時神社の金太郎伝説


境内の奥まったところに坂田金時の墓がありました。

坂田金時とは「まさかり 担いだ 金太郎~」と歌われるあの金太郎のことです。

満願寺 坂田金時の墓 
満願寺にある坂田金時の墓

静岡県駿東郡小山町に金時神社があり、こんな伝説が伝えられています。

彫物師十兵衛の娘、八重桐は京にのぼり、宮中に仕えていた坂田蔵人と結ばれた。
身籠った八重桐は故郷に帰り、956年5月に金太郎を生んだ。
しかし坂田蔵人は亡くなってしまったので、故郷で金太郎を育てた。
金太郎は足柄山で熊と相撲をとるなどたくましい子供に育った。
976年、足柄峠で源頼光に出会い、頼光の家来となり、坂田金時と改名した。
坂田金時は渡辺綱、卜部季武、碓井 貞光らとともに、頼光四天王と呼ばれた。
源頼光と四天王は山伏に化けて大江山の酒呑童子を退治した。
1012年12月15日、坂田金時は九州の賊を征伐するため筑紫へ向かい、その途中、勝田壮(現在の岡山県勝央町)で熱病を患って亡くなった。享年55歳。
勝田の人々は倶利加羅神社(くりがら/剛勇の意/現在は栗柄神社)を建てて坂田金時を葬った。


山姥が雷神の子を産んだのが金太郎だとか、金時山の頂上で赤い龍が八重桐に授けて生まれたのが金太郎だという話もあります。

 満願寺 本坊 紅葉

②坂田金時のモデルは下毛野公時だった?

坂田金時は実在せず、下毛野公時が坂田金時のモデルであるともいわれます。

藤原道長の日記『御堂関白記』によれば、下毛野公時は1000年には生まれ、1009年に近衛舎人となっています。
そして三条天皇に仕えて歌舞や、騎射、相撲使(相撲取をスカウトする仕事)などをを務めています。
また藤原道長の髄身でもあったようです。
1017年、相撲使としてスカウトに赴いた筑紫で死亡しています。18歳でした。

坂田金時は筑紫に向かう途中、55歳で亡くなっていますし、なるほどこの下毛野公時が坂田金時のモデルのようにも思えます。

平安末期に成立した『今昔物語集』では源頼光の郎党「坂田公時」が登場しています。
もしかしたら、下毛野公時→坂田公時→坂田金時 のように変化したのかもしれませんね。

満願寺 鐘楼

③八重桐は江戸時代の歌舞伎役者・荻野八重桐からとった?

http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_199.html

上のブログ(おもしろいです!)によれば、金太郎の母親・八重桐(?~1736年)は江戸時代の歌舞伎役者・荻野八重桐からとったのではないかということです。

満願寺 地蔵堂 紅葉

④下毛野公時は近江国坂田郡の金太郎伝説で坂田金時となった?

http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_199.html

また同ブログは近江国坂田郡の金太郎伝説を紹介してくださっています。

金太郎は、息長氏の一族として、955年に近江国坂田郡布勢郷(現在の長浜市布施)に生まれた。
その後、小一条の「うばがふところ(番所/ばんふところ)」で乳母によって育てられた。
金太郎は、舟崎の鯉ヶ池で鯉にのったり、常喜の熊岡や足柄山で熊と相撲を取ったりして遊んだ。
本庄の足柄神社の奉納相撲にも出場した。
また名超寺、富施寺などで、学問にも励んだ。
青年となった金太郎は、地元の鍛冶屋で働いた。当時この地は、製鉄業が盛んだったのである。
金太郎20歳のころ、足柄山にやってきた源頼光と出会い、金太郎は頼光の家来となった。
994年、金太郎は伊吹山の山賊を退治し、渡辺綱、卜部季武、碓井貞光とともに頼光の四天王と称された。


そしてブログ主は近江国坂田郡の伝説から、下毛野公時は坂田金時に変わったのではないかと説かれていますが、これに完全に同意します。
坂田金時とは坂田郡に住んでいる公時という意味だ思います。

静岡県駿東郡小山町の金時神社の伝説は、近江国坂田郡の金太郎伝説をもとにのちに作られたものではないかと思います。

満願寺 観音堂 紅葉

⑤下毛野氏の本拠地・下野は砂金の産地だった。

毛野(けの、けぬ)氏は、毛野国(群馬県・栃木県)を本拠地とした古代豪族で、10崇神天皇の第1皇子の豊城入彦(とよきいるひこ)命を祖とする皇別氏族とされています。

その後、毛野国は上毛野国(現在の群馬県)と下毛野国(現在の栃木県)にわかれましたが、それぞれの国の国造家が上毛野(かみつけぬ)氏・下毛野(しもつけぬ)氏です。

http://sky.geocities.jp/tuguyasu/kinzoku/kinzo5.html
上のサイトには、「927年、延喜式にみられる諸国の鉱産物。鍬鉄は伯耆、美作、備中、備後。銅鉛は備中、長門、豊前等。砂金・錬金は下野国。砂金は陸奥国。大宰府銀(対馬産)。伊勢産の朱砂(『延喜式』巻廿三)。」と記されています。

平安時代、下野は砂金の産地として有名だったのです。

満願寺 参道 紅葉2

⑥金太郎の前掛け、まさかりは金と製鉄のシンボルだった?

金太郎は金と記した赤い菱形の前掛けを身に着けていますが、金とは金属の金を表しているのでしょう。
また前掛けは菱形ですが、これも鉱山や鉱物をあらわすものだと思います。

日本地質学会員の藤井光男氏さんは、群馬県桐生市菱地域は古代鉄生産の里であったとしておられます。

菱型といえば雛祭りの菱餅を想いだしますが、菱餅は菱の実でつくられています。
トウビシの実はとげが2本あります。
またオニビシヒメビシにはとげが四本あります。
忍者が用いた撒菱はこれらを乾かしたものです。

 菱紋の名前の由来については、葉の形からくるとも、実の形からくるともいわれています。
けれど菱の葉も実も菱型ではありません。

漢和辞典をひいてみると「夌は音を表し、角のある意からきている」とあります。
菱の実には鋭い角があり、図形の菱形にも鋭角の角があります。
おそらく角のあるものを菱と言っていたのではないでしょうか。

鉱物の結晶にも角がありますね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%85#/media/File:Cuivre_Michigan.jpg
そういうわけで菱は鉱物のシンボルになったのではないかと思います。

まさかりとは刃渡りの広い斧のことで、鉄や銅で作られます。
近江国坂田郡は製鉄業が盛んで、金太郎は鍛冶屋で働いていたのでしたね。
金太郎はまさかりは製鉄業のシンボルだということで、手にそれを持っているのでしょう。

満願寺 金堂 紅葉

⑦金太郎の母親はなぜ山姥なのか?

①で、金太郎の母親は山姥だとする伝説もあるとお話ししました。
山姥は山に住む女性の妖怪ですが、山は山でも鉱山の妖怪なのではないでしょうか。

満願寺 参道 紅葉

⑧満願寺に坂田金時の墓があるのはなぜ?

それでは満願寺に坂田金時の墓があるのはなぜでしょう?
坂田金時は源頼光四天王の一人とされていますが、満願寺は源頼光と関係が深い寺なのです。

平安時代中ごろに源満仲が帰依して以来、満願寺は源氏の祈祷所とされていました。
源頼光はこの源満仲の子です。

そしてこの地方には多田銀山があり、多田源氏と呼ばれた源満仲の子孫たちは、鉱山開発を行っていました。
そういうわけで、源頼光と坂田金時は結び付けられたのではないでしょうか。

つまり、坂田金時は鉱山の神として満願寺に祀られているのではないかと思うわけです。

青木間歩 入口 

青木間歩 内部 
2枚とも、多田銀山 青木間歩


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