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多田神社 紅葉 『平季武が産女から受け取った赤子の正体とは?』 


多田神社 橋2

兵庫県川西市 多田神社
2018年11月25日 撮影

①頼光の郎等平季武、産女にあひし話

前回ご紹介した満願寺(満願寺 紅葉 『坂田金時は鉱山の神だった?』 )から4kmほどのところに多田神社があります。
多田神社は満願寺と関係の深い神社で源満仲、源頼光、源頼信、源頼義、源義家を祀っています。

多田神社 橋

今日は多田神社の御祭神の一、源頼光にちなみ、頼光四天王の一、卜部 季武(うらべ の すえたけ950-1022)の話を。
卜部季武は正式には坂上季武といいますが、今昔物語集には平季武という名前で登場します。

「頼光の郎等平季武、産女にあひし話」
夜、 平季武が馬で川を渡っていると、川の中に産女がいて赤子を渡し、「これを抱け」といった。
季武は女から赤子を受け取り、抱いたまま岸へ向かった。
産女は「子を返せ」と言って追いかけてきたが、季武は陸へ上がって館へむかった。
抱いていた赤子を見ると木の葉だった。

多田神社 西門

②死んだ妊婦の妖怪・産女

産女は死んだ妊婦が変じた妖怪で、血に染まった腰巻を身につけ、人を追いかけたり、かみついたりするとされました。
血に染まった腰巻を身に着けているのは、死んだ妊婦は血の池地獄に堕ちると信じられていたことが由来とされます。

死んだ妊婦が産女にならないように、腹をさいて胎児を取り出し、母親に抱かせて葬ったりしていたようです。

産女がわが子を僧侶に抱かせ、僧侶の念仏や題目によって産女が成仏したなどという話もあるようで、その際には産女はお礼に黄金の袋をくれたといいます。

多田神社 西門2

③下毛野公時→坂田公時→坂田金時と変化した?

ここで閃きました!
平季武が抱いた赤子とは金太郎ではないでしょうか?

坂田金時は実在せず、下毛野公時が坂田金時のモデルであるともいわれます。

藤原道長の日記『御堂関白記』によれば、下毛野公時は1000年には生まれ、1009年に近衛舎人となっています。
そして三条天皇に仕えて歌舞や、騎射、相撲使(相撲取をスカウトする仕事)などをを務めています。
また藤原道長の髄身でもあったようです。
1017年、相撲使としてスカウトに赴いた筑紫で死亡しています。18歳でした。

『今昔物語集』の別の物語に源頼光の郎党「坂田公時」が登場しています。
もしかしたら、下毛野公時→坂田公時→坂田金時 のように変化したのかもしれませんね。

多田神社 田尻稲荷神社

④下毛野氏は下手野国の国造家

毛野(けの、けぬ)氏は、毛野国(群馬県・栃木県)を本拠地とした古代豪族で、10崇神天皇の第1皇子の豊城入彦(とよきいるひこ)命を祖とする皇別氏族とされています。

その後、毛野国は上毛野国(現在の群馬県)と下毛野国(現在の栃木県)にわかれましたが、それぞれの国の国造家が上毛野(かみつけぬ)氏・下毛野(しもつけぬ)氏です。

多田神社 田尻稲荷神社 紅葉2

⑤坂田金時の金とは砂金の金?

下毛野はのちに那須を加えて下野国となったのですが

http://sky.geocities.jp/tuguyasu/kinzoku/kinzo5.html
上のサイトには、「927年、延喜式にみられる諸国の鉱産物。鍬鉄は伯耆、美作、備中、備後。銅鉛は備中、長門、豊前等。砂金・錬金は下野国。砂金は陸奥国。大宰府銀(対馬産)。伊勢産の朱砂(『延喜式』巻廿三)。」と記されています。

平安時代、下野は砂金の産地として有名だったのです。

「下毛野(下野)=砂金」という連想から、「下毛野公時→下毛野金時 」となり、さらに滋賀県坂田郡で盛んだった製鉄業とあわさって坂田金時となったのではないかと思います。

すなわち、坂田金時の金とは砂金の金ではないかと思うわけです。

多田神社 田尻稲荷神社-2

⑥金太郎や産女が抱いた赤子は赤く焼ける金属の比喩?

平季武は川を渡っているときに産女にあって赤子を抱かされたとされますが、砂金は川で採取されます。

さらに金太郎は赤い体で描かれることが多いです。
金太郎の体が赤いのは、製鉄鋳造で金属が赤く焼ける様子を表すという説があります。
赤子もまた製鉄鋳造で金属が赤く焼ける様子を表しているのではないでしょうか。

多田神社 鳥居

⑦卜部季武は頼光が金太郎を家来にしたことと深くかかわっていた。

金太郎にはこんな伝説もがあります。

源頼光は卜部季武季武を従えて信州明呂山にやってきて、山姥(坂田時之の妻)の家に宿を請うた。
山姥は頼光を家にとめ、すきを見て襲ったが、頼光の武力が勝っていた。
山姥は我が子・怪童丸の助命を請い、頼光は怪童丸を家来にした。
怪童丸は坂田金時と名前を改め、頼光四天王の一人となった。

多田神社 拝殿

源頼光が卜部季武を従えていたという点に注意してください。
卜部季武は頼光が金太郎を家来にしたことと深くかかわっているのです。

上の伝説を、もっと比喩的に表現したのが①の産女と赤子の話なのかもしれません。

つまり、山姥=産女、金太郎=赤子(金の袋)というわけです。

多田神社 拝殿2
 
すると平季武が金の袋だと思って持ち帰ったのは実は木の葉だったという残念な結末になってしまいますがw

多田神社 参道3 
あまりに紅葉が美しいので大量アップしちゃおう!(実際はもっときれいなんですが、写真の腕がないので~)
観光客も少ないし、ゆったり紅葉狩できるのでお勧めです。

多田神社 参道2 

多田神社 参道 

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[2018/11/30 10:34] 兵庫県 | トラックバック(-) | コメント(-)

満願寺 紅葉 『坂田金時は鉱山の神だった?』 

満願寺 山門3 
兵庫県川西市 満願寺
2017年11月24日


京都は人手がすごいので、のんびり紅葉狩ができる川西市の満願寺へ。
美しい紅葉をゆったりのんびり愛でることができるって、とても贅沢ですよね♪

満願寺 山門 


満願寺 山門2


①金時神社の金太郎伝説


境内の奥まったところに坂田金時の墓がありました。

坂田金時とは「まさかり 担いだ 金太郎~」と歌われるあの金太郎のことです。

満願寺 坂田金時の墓 
満願寺にある坂田金時の墓

静岡県駿東郡小山町に金時神社があり、こんな伝説が伝えられています。

彫物師十兵衛の娘、八重桐は京にのぼり、宮中に仕えていた坂田蔵人と結ばれた。
身籠った八重桐は故郷に帰り、956年5月に金太郎を生んだ。
しかし坂田蔵人は亡くなってしまったので、故郷で金太郎を育てた。
金太郎は足柄山で熊と相撲をとるなどたくましい子供に育った。
976年、足柄峠で源頼光に出会い、頼光の家来となり、坂田金時と改名した。
坂田金時は渡辺綱、卜部季武、碓井 貞光らとともに、頼光四天王と呼ばれた。
源頼光と四天王は山伏に化けて大江山の酒呑童子を退治した。
1012年12月15日、坂田金時は九州の賊を征伐するため筑紫へ向かい、その途中、勝田壮(現在の岡山県勝央町)で熱病を患って亡くなった。享年55歳。
勝田の人々は倶利加羅神社(くりがら/剛勇の意/現在は栗柄神社)を建てて坂田金時を葬った。


山姥が雷神の子を産んだのが金太郎だとか、金時山の頂上で赤い龍が八重桐に授けて生まれたのが金太郎だという話もあります。

 満願寺 本坊 紅葉

②坂田金時のモデルは下毛野公時だった?

坂田金時は実在せず、下毛野公時が坂田金時のモデルであるともいわれます。

藤原道長の日記『御堂関白記』によれば、下毛野公時は1000年には生まれ、1009年に近衛舎人となっています。
そして三条天皇に仕えて歌舞や、騎射、相撲使(相撲取をスカウトする仕事)などをを務めています。
また藤原道長の髄身でもあったようです。
1017年、相撲使としてスカウトに赴いた筑紫で死亡しています。18歳でした。

坂田金時は筑紫に向かう途中、55歳で亡くなっていますし、なるほどこの下毛野公時が坂田金時のモデルのようにも思えます。

平安末期に成立した『今昔物語集』では源頼光の郎党「坂田公時」が登場しています。
もしかしたら、下毛野公時→坂田公時→坂田金時 のように変化したのかもしれませんね。

満願寺 鐘楼

③八重桐は江戸時代の歌舞伎役者・荻野八重桐からとった?

http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_199.html

上のブログ(おもしろいです!)によれば、金太郎の母親・八重桐(?~1736年)は江戸時代の歌舞伎役者・荻野八重桐からとったのではないかということです。

満願寺 地蔵堂 紅葉

④下毛野公時は近江国坂田郡の金太郎伝説で坂田金時となった?

http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_199.html

また同ブログは近江国坂田郡の金太郎伝説を紹介してくださっています。

金太郎は、息長氏の一族として、955年に近江国坂田郡布勢郷(現在の長浜市布施)に生まれた。
その後、小一条の「うばがふところ(番所/ばんふところ)」で乳母によって育てられた。
金太郎は、舟崎の鯉ヶ池で鯉にのったり、常喜の熊岡や足柄山で熊と相撲を取ったりして遊んだ。
本庄の足柄神社の奉納相撲にも出場した。
また名超寺、富施寺などで、学問にも励んだ。
青年となった金太郎は、地元の鍛冶屋で働いた。当時この地は、製鉄業が盛んだったのである。
金太郎20歳のころ、足柄山にやってきた源頼光と出会い、金太郎は頼光の家来となった。
994年、金太郎は伊吹山の山賊を退治し、渡辺綱、卜部季武、碓井貞光とともに頼光の四天王と称された。


そしてブログ主は近江国坂田郡の伝説から、下毛野公時は坂田金時に変わったのではないかと説かれていますが、これに完全に同意します。
坂田金時とは坂田郡に住んでいる公時という意味だ思います。

静岡県駿東郡小山町の金時神社の伝説は、近江国坂田郡の金太郎伝説をもとにのちに作られたものではないかと思います。

満願寺 観音堂 紅葉

⑤下毛野氏の本拠地・下野は砂金の産地だった。

毛野(けの、けぬ)氏は、毛野国(群馬県・栃木県)を本拠地とした古代豪族で、10崇神天皇の第1皇子の豊城入彦(とよきいるひこ)命を祖とする皇別氏族とされています。

その後、毛野国は上毛野国(現在の群馬県)と下毛野国(現在の栃木県)にわかれましたが、それぞれの国の国造家が上毛野(かみつけぬ)氏・下毛野(しもつけぬ)氏です。

http://sky.geocities.jp/tuguyasu/kinzoku/kinzo5.html
上のサイトには、「927年、延喜式にみられる諸国の鉱産物。鍬鉄は伯耆、美作、備中、備後。銅鉛は備中、長門、豊前等。砂金・錬金は下野国。砂金は陸奥国。大宰府銀(対馬産)。伊勢産の朱砂(『延喜式』巻廿三)。」と記されています。

平安時代、下野は砂金の産地として有名だったのです。

満願寺 参道 紅葉2

⑥金太郎の前掛け、まさかりは金と製鉄のシンボルだった?

金太郎は金と記した赤い菱形の前掛けを身に着けていますが、金とは金属の金を表しているのでしょう。
また前掛けは菱形ですが、これも鉱山や鉱物をあらわすものだと思います。

日本地質学会員の藤井光男氏さんは、群馬県桐生市菱地域は古代鉄生産の里であったとしておられます。

菱型といえば雛祭りの菱餅を想いだしますが、菱餅は菱の実でつくられています。
トウビシの実はとげが2本あります。
またオニビシヒメビシにはとげが四本あります。
忍者が用いた撒菱はこれらを乾かしたものです。

 菱紋の名前の由来については、葉の形からくるとも、実の形からくるともいわれています。
けれど菱の葉も実も菱型ではありません。

漢和辞典をひいてみると「夌は音を表し、角のある意からきている」とあります。
菱の実には鋭い角があり、図形の菱形にも鋭角の角があります。
おそらく角のあるものを菱と言っていたのではないでしょうか。

鉱物の結晶にも角がありますね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%85#/media/File:Cuivre_Michigan.jpg
そういうわけで菱は鉱物のシンボルになったのではないかと思います。

まさかりとは刃渡りの広い斧のことで、鉄や銅で作られます。
近江国坂田郡は製鉄業が盛んで、金太郎は鍛冶屋で働いていたのでしたね。
金太郎はまさかりは製鉄業のシンボルだということで、手にそれを持っているのでしょう。

満願寺 金堂 紅葉

⑦金太郎の母親はなぜ山姥なのか?

①で、金太郎の母親は山姥だとする伝説もあるとお話ししました。
山姥は山に住む女性の妖怪ですが、山は山でも鉱山の妖怪なのではないでしょうか。

満願寺 参道 紅葉

⑧満願寺に坂田金時の墓があるのはなぜ?

それでは満願寺に坂田金時の墓があるのはなぜでしょう?
坂田金時は源頼光四天王の一人とされていますが、満願寺は源頼光と関係が深い寺なのです。

平安時代中ごろに源満仲が帰依して以来、満願寺は源氏の祈祷所とされていました。
源頼光はこの源満仲の子です。

そしてこの地方には多田銀山があり、多田源氏と呼ばれた源満仲の子孫たちは、鉱山開発を行っていました。
そういうわけで、源頼光と坂田金時は結び付けられたのではないでしょうか。

つまり、坂田金時は鉱山の神として満願寺に祀られているのではないかと思うわけです。

青木間歩 入口 

青木間歩 内部 
2枚とも、多田銀山 青木間歩


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[2018/11/28 18:07] 兵庫県 | トラックバック(-) | コメント(-)

叡山電車 きらら 『親鸞は立川流の影響をうけていた?』 

2017年11月18日撮影

二ノ瀬駅 紅葉 ライトアップ-きらら 
二ノ瀬駅 きらら

①展望列車「きらら」と雲母坂

叡山電車の展望列車「きらら」は窓が大きく、車窓から風景を楽しむことができるので大人気です。

「きらら」という名前は、修学院から比叡山に通じる「雲母坂(きららざか)」からとったようですね。

雲母坂の名前の由来は、京都市内からみてこの坂から雲が生じるように見えるからとか
雲母を含む花崗岩由来の砂が多いからなどと言われています。

登山口にあたる雲母橋には親鸞ゆかりの石碑がたっているそうです。行ったことないけど(汗)。

二ノ瀬駅 紅葉 ライトアップ 
二ノ瀬駅 デオ710形

②親鸞ゆかりの雲母坂


浄土真宗の宗祖・親鸞は青蓮院で出家して比叡山延暦寺で修行しました。
そして29歳のときに比叡山を下山して六角堂に籠るのですが、このとき親鸞が降りて来た道が雲母坂なのだそうです。

六角堂に籠った親鸞の夢の中に聖徳太子が出てきて「私が女に生まれ変わってあなたの妻になろう」と言ったというのです。

信者さんには申し訳ないんですが、現代で同じようなことを言う人がいたら、多くの人は「頭おかしくなったんじゃないの?」と思うでしょう。
でも鎌倉時代の人はそうは思わなかったみたいですね。

浄土真宗の宗祖は親鸞とされますが、彼には浄土真宗を開くという意思はなく、親鸞の死後、彼の子孫によって浄土真宗が開かれました。

叡山電鉄 きららより紅葉のトンネルを写す 
「きらら」より紅葉のトンネルを写す。

③親鸞が肉食妻帯したのは、すべての人が幸せになる道をとくため?

それまで僧侶は妻帯が認められていなかったのですが、親鸞の妻は聖徳太子の生まれ変わりということにされ、親鸞の子孫は聖なる血筋ということになったのでしょう。

それだけでなく、親鸞は禁じられていた肉食もしています。

なぜ親鸞は肉食妻帯したのでしょうか。

その理由について、こんな風に解説しているサイトがありました。

親鸞上人の時代、仏教といえば天台宗や真言宗などの山にこもって修行し、欲・怒り・愚痴の煩悩と闘って、本当の幸せになろうとする教えばかりでした。
僧侶は欲のままに行動する、肉を食べ、結婚することは固く禁じられていました。

当時、僧侶が公然と肉食妻帯することは仏教界だけでなく社会を大騒ぎさせることだったのです。

そんな肉食妻帯を公然とされた親鸞聖人を、“己に素直に生きられたお方”といったイメージを持っている人は少なくないようです。しかし肉食妻帯は、己の欲望のままになされた行動ではありませんでした。

その大胆な行動は、山にこもって修行している人も、生きる為に仕事をしている人も、男も女も、老いも若きも、一切の差別なく、すべての人が、本当の幸せになれる道を教えられたのが、本当の仏教であることを明らかにするためだったのです。

https://1kara.tulip-k.jp/naruhodo/201104360.html

叡電 
③親鸞の登場で寺が世襲制に。

ですが、私は親鸞の登場によって寺が世襲制になったということに、私は反感を持ってしまいます。

親鸞以前のお寺では、世襲はなかったはずです。
もちろんそれは僧侶の妻帯が認められていなかったからです。
仮に僧侶がエッチして子供ができたとしても、公にはできなかったでしょうね。
ところが親鸞の妻が聖徳太子の生まれ変わりだということで、本願寺は世襲制となってしまったのです。

僧侶という職業は、何かを生産するわけではありません。
僧侶は信者からお布施をもらって生きているわけです。
なぜ僧侶が信者からお布施をうけることができたのか。
それは世俗と縁を切り、結婚もせず、昔は人の大きな価値観であったと思われる子孫繁栄を捨て、人々のために祈るという聖職についていたからだと思います。

叡山電車 芸妓さんを合成 
④親鸞は真言立川流の影響をうけていた?

私は親鸞は真言立川流の影響を受けていたのではないかと思います。

真言立川流れの流祖は仁寛(?-1114年)で、南北朝時代に文寛(1278-1357)によって大成したとされます。
しかし江戸時代に邪教であるとして弾圧され、文献も焚書によって残されていないため、詳しいことは不明ですが
髑髏に和合水と漆を塗り重ねた髑髏本尊をつくり、その前でエッチを繰り返すというようなことをしていたといわれます。

立川流は陰陽道の思想を取り入れたもので、男女和合によって真言宗の本尊・大日如来と一体になることをとくとされます。

そして神はその表れ方で御霊・荒魂・和魂にわけられるといい、男神は荒魂を、女神は和魂をあらわすとする説があります。
陰陽道では男は陽、女は陰なので、荒魂が陽、和魂が陰となります。

御霊・・・神の本質・・・・・男女双体
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・陽
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・陰


御霊・・・神の本質・・・・・男女双体
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・陽・・・親鸞
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・陰・・・親鸞の妻

そのような信仰があったため、親鸞は妻帯したのではないかと思ったりします。

叡山電鉄 紅葉のトンネル 
⑤親鸞が肉食したのは、聖天さんの信仰と関係ある?

親鸞が肉食したのは聖天さんの信仰と関係がありそうです。

聖天さんとは鬼王ビナヤキャと十一面観音の化身・ビナヤキャ女神の男女双体の神で、象頭の男女の神がい抱き合うお姿をされています。

そして、こんな伝説があります。 

Icon of Shoten

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AIcon_of_Shoten.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c7/Icon_of_Shoten.jpg よりお借りしました。
作者 不明 (平安時代の図像集『別尊雑記』(心覚 撰)巻 42より) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


 インドのマラケラレツ王は大根と牛肉が大好物でした。
牛を食べつくすと死人の肉を食べるようになり、死人の肉を食べつくすと生きた人間を食べるようになりました。 
群臣や人民が王に反旗を翻すと、王は鬼王ビナヤキャとなって飛び去ってしまいました。
の後ビナヤキャの祟りで国中に不幸なできごとが蔓延しました。
そこで十一面観音はビナヤキャ女神に姿を変え、ビナヤキャの前に現われました。
女神は『仏法を守護することを誓うならおまえのものになろう』と言い、ビナヤキャは仏法守護を誓いました。

この聖天さんの伝説は、この御霊・和魂・荒魂をあらわしたもののように思えます。

御霊・・・神の本質・・・・・男女双体
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・ビナヤキャ・・・・・・親鸞・・・・・陽
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・ビナヤキャ女神・・・・親鸞の妻・・・陰


了徳寺 大根焚 
了徳寺 大根焚

そして親鸞ゆかりの寺・了徳寺では12月に大根焚を行っており、東京の待乳山聖天では1月に大根まつりをおこなって、参拝者にふろふき大根を授与しています。

待乳山聖天 ふろふき大根

待乳山聖天 大根まつり

待乳山聖天で大根まつりを行っているのは大根が聖天さんの好物(大根と肉)のひとつだからでしょう。

そして親鸞ゆかりの了徳寺で大根焚を行っているのは、妻帯した親鸞が聖天さんのイメージに重ねられたためだと思います。
聖天さんは大根のほか、肉も好物でした。
さらに、聖天さんの信仰と立川流の信仰には関係があったのではないかと思います。
それで親鸞は肉食を行ったのではないでしょうか。

叡山電車 貴船駅 
貴船駅

貴船駅 ミラーに映る列車

貴船駅 


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[2018/11/26 21:25] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

鞍馬寺 紅葉 『鞍馬寺を創建した藤原伊勢人は架空の人物?』 


鞍馬寺 仁王門 紅葉

鞍馬寺 仁王門

京都市左京区 鞍馬寺
2018年11月17日 撮影


①鞍馬寺は紀氏の寺だったのを藤原氏が奪った?

鞍馬寺にはこんな創建説話が伝えられています。

796年、藤原伊勢人の夢の中に貴船の神が現れ、鞍馬寺をつくるようにと言った。

鞍馬寺から貴船神社までは山道を歩いて30分ほどです。
(現在は台風による倒木で通行禁止なので、叡山電鉄を利用しました。)

貴船神社 紅葉3

貴船神社

貴船神社は平安時代に上賀茂神社の第2摂社となっています。
賀茂神社の御祭神・賀茂別雷大神の母神は玉依姫で、下鴨神社に祀られています。
そして貴船神社奥の院にある船形石が玉依姫の乗った船であるという伝説があるので、
貴船神社は上賀茂神社と関係がある神社だということで、上賀茂神社の摂社とされたのではないかと思います。

 鞍馬寺 普明殿 紅葉 
鞍馬寺 普明殿 (ケーブルカーの乗り場です。ちなみにトイレは鳥樞沙摩明王殿w)

ところが兵庫県尼崎市の長洲貴布禰神社には次のように伝わっています。

平安京遷都の際、調度の運搬を命ぜられた紀伊の紀氏が「任務が無事遂行できますように」と自身の守り神に祈願したところ、事がうまく運び、そのお礼にこの社を建てました。

貴船神社(貴布禰神社)は紀氏の神のようですね。
紀氏の神が、藤原氏の藤原伊勢人に寺を作れ、なんて言うもんですかね?

鞍馬寺はもともと紀氏の寺だったのを、のちに藤原氏に奪われたのではないでしょうか?

鞍馬寺 多宝塔 紅葉 
鞍馬寺 ケーブルカーをおりたところには多宝塔が。

②藤原伊勢人

鞍馬寺の創建説話に登場する藤原 伊勢人(ふじわら の いせんど)とはどんな人物なのでしょうか。
生没年は759年~827年。
藤原南家の藤原巨勢麻呂の七男です。

藤原伊勢人は鞍馬寺を創建したのと同年の796年に東寺を創建したとも伝わります。

鞍馬寺 転法輪堂 紅葉3 

鞍馬寺 参道の木が倒れて、転法輪堂が見えていました。

伏見稲荷大社と藤森神社の確執

東寺の鎮守は伏見稲荷大社です。
伏見稲荷大社の南に紀氏の神を祀る藤森神社がありますが、もともと藤森神社は伏見稲荷大社の場所にあったとされています。
その場所に伏見稲荷大社が建てられることになったので、藤森神社は移転したというのです。

東寺 五重塔 
東寺

伏見稲荷大社 舞妓さん 

伏見稲荷大社

藤森神社 藤森祭 神輿 
藤森神社 藤森祭


そのため、伏見稲荷大社付近の人々は今でも藤森神社の氏子だといいます。
藤森神社の祭礼では氏子さんたちは神輿を担いで伏見稲荷神社に乗り込み、その境内にある藤尾社の前で「土地返しや、土地返しや」と叫び
稲荷神社側の人々は「神さん、今お留守、今お留守」と言い返すそうです。

鞍馬寺 紅葉4 

鞍馬寺 参道

氏子さん方にはこんな話が伝わっています。

稲荷山はが藤森神の土地だったが、稲荷神が俵1つ分の土地を貸してほしいと言いました。
俵一つ分くらいならと許可すると、稲荷神は、持っていた俵を解いて長い縄にし、その縄で囲んだ土地を借りました。
しかし期限が来ても返さないので、祭礼の際に「土地返せ」と言っています。

伏見稲荷大社があるあたりは山城国紀伊郡といい、紀氏の土地であったのが、藤原氏や秦氏が権力を持つようになって紀氏は土地を奪われたと考えられています。

鞍馬寺 転法輪堂 紅葉2 
鞍馬寺 転法輪堂

空海のもとにやってきた紀州の神。

『稲荷大明神流記』には次のように記されています。

816年、紀州国熊野で空海は神に出会いました。
神は空海に『弟子になれ』と言いました。
空海はこう答えました。
『私は密教を広めたいと思っているので、仏法で守ってくださるとうれしいです。
東寺であなたをお待ちしています。』
823年、紀州の神が約束通り東寺にやってきたので、空海は大喜びで神をもてなし、
17日間祈祷して神に鎮まっていただきました。


空海が紀州で出会った神とは紀氏の神ではないでしょうか。

 鞍馬寺 転法輪堂 紅葉 
鞍馬寺 転法輪堂
 

⑤伏見稲荷大社は紀氏の神までも奪っていた?

伏見稲荷大社では宇迦之御魂大神、佐田彦大神、大宮能賣大神、田中大神、四大神を祭っていますが
柴田實氏によると、四大神とは、五十猛命(いそたけるのみこと)、大屋姫(おおやつひめ)、抓津姫(つまつひめ)、事八十神の四柱の神神々のことだということです。(式内社調査報告)

五十猛命(イソタケル)は、スサノオの子で、林業の神です。
記紀の記述によれば五十猛神は紀伊国に祀られている神とあります。紀伊国とは紀州のことです。

 また記紀の記述によれば、大屋都姫命(大屋姫)はスサノオの娘で、五十猛命は兄、抓津姫は妹としており
大屋都姫命と抓津姫はスサノオに命じられて五十猛命と共に全国の山々に木種を撒いたあと紀伊国に戻ったとあります。

そして、和歌山市宇田森の大屋都姫神社では大屋都姫命を、和歌山市伊太祈の伊太祁曽神社では五十猛命を主祭神としています。
都麻都姫命(抓津姫/は都麻都比売神社の主祭神とされていると古い文献には記されていますが、この都麻都比売神社が現在のどの神社のことであるのかは不明です。

紀州は古より林業が盛んだったので、紀州の人々は林業の神・五十猛神や、木種をまいた大屋都姫命・抓津姫を信仰していたのでしょう。
そして紀州は紀氏の本拠地でした。
五十猛神・大屋都姫命・抓津姫は紀氏の神だと考えられるでしょう。

伏見稲荷大社は紀氏の土地を奪っただけでなく、紀氏の神まで奪っていたのでは?

和歌山県有田氏の糸我稲荷神社が最古の稲荷社だともいわれています。

鞍馬寺 金剛寿命院 紅葉 
鞍馬寺 金剛寿命院

⑥秦伊侶具とは空海をモデルとして創作した人物?

空海は東寺建設のために稲荷山から木を伐りだしています。
高さ54.8mの東寺の五重塔。
その心柱とするのに適切な木材が稲荷山にしかなかったので、空海は稲荷山を欲したのではないでしょうか。

『稲荷大明神流記』では紀州の神に鎮まってもらったのは823年となっています。
それ以前には紀氏の神を祀る神社があったはずです。
伏見稲荷大社の創建説話では秦伊侶具が711年に矢を射たとありますが、これはウソっぽいです。

空海の俗名は佐伯真魚といいます。
そして伏見稲荷大社の創建説話に登場する秦伊侶具は「はたのいろぐ」と読みますが、「はたのうろこ」とルビをふってある文書もあります。
さらに空海は秦氏だとする説もあります。


私は秦伊侶具とは空海をモデルとして創作した人物ではないかと思います。

空海は佐伯真魚で『魚』なので、そこからイメージして伊侶具(うろこ)という名前にしたんだったりして?

鞍馬寺 紅葉3 
鞍馬寺 日が沈んで灯篭に明かりが入りました。


⑦藤原伊勢人は架空の人物?

東寺の記録書『東宝記』には「796年、藤原伊勢人が造寺長官となって東寺を建立した」とあるのですが
藤原伊勢人は公式の史書や系譜にはその名前がありません。
そのため架空の人物だとする説があります。

私も藤原伊勢人という人物は架空の人物ではないかと思います。
そして鞍馬寺はもともとは紀氏の神を祀る貴船神社と関係のある寺ではないかと思います。


鞍馬寺 紅葉   
ケーブルはもう終了したので、歩いて下山しますw。



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[2018/11/22 10:44] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

貴船神社 紅葉 『なぜ干ばつには黒馬で、長雨には白馬?』 


京都市左京区 貴船神社

2018年11月17日 撮影

貴船神社 紅葉 
①絵馬のルーツ

小さな板に願い事などを書いて神社に奉納するもののことを絵馬といいますね。
常陸国風土記や続日紀によると、古には神事の際に本物の馬を献上する習慣にあったそうで、これが絵馬のルーツとされています。
本物の馬を奉納できない人が土や木で作った馬を奉納するようになり、さらに絵に書いた馬を奉納するようになったと考えられています。

なぜ牛や猪ではなく、馬なんでしょうか?
一般的には、神様は馬に乗って現れると考えられていたためとされています。

でも、私は「馬と天然痘が結び付けられた可能性があるかも」と思ったりします。

瘡神社 

↑ 大阪府枚方市・片埜神社の境外社・瘡(くさがみ)神社です。
瘡神社は次のような伝説を伝えます。

菅原道真が無実の罪で流罪となり大宰府へ向かう途中、この地で道真の馬が倒れました。
道真は馬を地元の人に託して大宰府へ向かいました。
地元の人は手厚く介抱しましたが、馬は死んでしまいました。
馬が埋葬された場所には馬の好物である草がたくさんお供えされ、「草神様」と呼ばれるようになりました。
この「草神」が「瘡(くさ)神」に転じて「瘡神社」となり、皮膚病にご利益があると信仰されました。

貴船神社 紅葉4

瘡とは皮膚病のことですが、天然痘を意味するものでもあったのではないかと思います。
日本書紀には「瘡発でて死る者――身焼かれ、打たれ、摧かるるが如し」と記されており、天然痘の病状を記したものではないかと考えられています。

天然痘は疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいい、豆粒状の丘疹が全身にできます。

現在では種痘によって天然痘は撲滅されたとされますが、天然痘は近年まで猛威をふるっていた恐ろしい伝染病でした。
奈良時代には藤原四兄弟が天然痘に感染して死亡していますし
孝明天皇(1831-1867)の死因も天然痘であると記録されています。

そして草が好物の馬は、瘡(くさ)を食べてくれる神として信仰されていたため、馬は天然痘の神としても信仰されたようです。

貴船川 黒馬 白馬 
貴船川に貴船神社の馬の像を合成

②干ばつには黒馬、長雨には白馬

古来朝廷は勅使を派遣して「貴船神社」や「丹生川上神社」に馬を奉納していたそうです。
干ばつの際には雨が降ることをいのって黒馬が、長雨の際には雨が止むことを祈って白馬が奉納されたとのこと。

なぜ天然痘の神である馬が、天気の神ともされたのかについては、わかりません!(きっぱり)

ですが、長雨の際には白馬で、干ばつの際には黒馬が奉納された事の意味については思い当たるふしがあります。

貴船神社 紅葉3 
③陰陽思想

白と黒といえば、陰陽思想ですよね!

陰陽思想とはこの世にあるすべてのものは陰と陽に分けられるとする中国由来の考え方のことです。
例えば性別では、男が陽で女が陰、天体では太陽が陽で月が陰、光度では明るいのが陽、暗いのが陰などとされます。
そして陰陽を表す太極図は陽が白、陰が黒であらわされます。

Yin yang

太極図
https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AYin_yang.svg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/17/Yin_yang.svg よりお借りしました。
作者 Gregory Maxwell [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

そして天気を陰陽でいうと晴が陽で、雨が陰です。
性別天体光度天気
太陽

干ばつで雨が降ることを祈る際には、雨は陰なので黒馬を
長雨で雨が止むこと’を祈る際には、晴は陽なので白馬を奉納したと考えると筋が通るのではないでしょうか?

貴船神社 紅葉5 

貴船神社 紅葉2 
↓ 台風の被害で倒れた木がたくさんありましたが、貴船神社の紅葉はとても美しく、また境内や参道はきちんと片づけられていました。

貴船駅付近 台風で倒れた木々



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[2018/11/20 16:37] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

湯の山温泉 紅葉 『折り鶴は白or黒?』 

三重県三重郡菰野町 湯の山温泉
2018年11月12日 撮影


湯の山温泉 紅葉2


①鹿の湯温泉

湯の山温泉は別名を鹿の湯温泉ともいい、こんな伝説があります。

木こりは狩人がやってきたのを鹿に教えて助けた。
数日後、鹿が木こりを訪ねてきて、「助けてくださってありがとうございました。お礼にいいことを教えましょう。私がいたくぼみには温泉が湧いていてケガによく効くのですよ。」
と教えました。


実際にクマや猿が温泉につかっていることがあるそうですが、鹿も温泉につかるんでしょうか?
動画など探してみましたが、見つかりませんでした。

湯の山温泉 紅葉3 
②鹿は謀反人の比喩

実際に鹿が温泉につかることもあるのかもしれませんが、鹿は謀反人の比喩だと思います。

日本書紀に『トガノの鹿』という物語があり、鹿とは謀反人を比喩したものであるとする説があるのです。

雄鹿が『全身に霜がおりる夢を見た。』と言うと雌鹿が『霜だと思ったのは塩であなたは殺されて塩が振られているのです。』と答えました。
翌朝猟師が雄鹿を射て殺しました。
時の人々は『夢占いのとおりになってしまった』と噂しました。 (トガノの鹿)

大仏殿 鹿 
大仏殿 鹿

鹿の夏毛には白い斑点がありますね。それを塩に見立てたのでしょう。
謀反の罪で殺された人は塩を振られることがあり、 鹿とは謀反人の象徴なのではないかというのです。

湯の山温泉 桜紅葉 
③折り鶴伝説

湯の山温泉にはこんな伝説もあります。

江戸時代、上方の大店のひとり娘の葵と使用人の佐吉は身分違いの恋に落ち、湯の山にやってきました。
そして蒼滝に身を投じて心中しようとしたのですが、そこへ僧兵が現れ「温泉にでもつかれば、気持ちが変わるかも」といいました。
ふたりは僧兵の言葉通り、温泉に入りました。
すると、心中せずに頑張って生きていこうという気分になりました。

翌朝、二人は僧兵にお礼を述べようと三岳寺を訪れたました。
しかし僧兵の姿は見えず、ふたりは鶴を折って寺へ奉納しました。
不思議なことに折鶴は連なってひらひらと舞い上がり、飛びたっていきました。

ふたりは上方に帰り、(たぶん結ばれて)数年後に再び三岳寺を訪ねました。
山岳寺の住職は「もう何十年も僧兵はいない」といいました。

 山岳寺 紅葉 
④鳥による温泉発見伝説

鳥が温泉を発見したという話が全国にたくさんあります。

白鷺温泉愛知県傷ついた白鷺が湯に浸かって傷を癒すのを見た人によって発見された。
山中温泉石川県奈良時代、行基が発見した。
文治年間長谷部信連が鷹狩にやってきた際、白鷺が芦の間の流れに傷脚を洗うのを見て発見し,
12件の湯宿を開いた。
片山津温泉石川県1653年、大聖寺藩二代藩主、前田利明が柴山潟に鷹狩りに訪れた際、
水面に水鳥が群れていたのを見て湖底の温泉を発見した。
和倉温泉石川県漁師の夫婦が七尾湾の沖合で、傷ついた足を癒す白鷺を見つけたことから発見された。
湯涌温泉石川県718年、紙漉き職人が泉で白鷺を見つけたことから発見された。
白山中宮温泉石川県泰澄が谷川で傷ついた白鳩を見つけたことから発見された。
粟津温泉石川県718年、泰澄が白山大権現のお告げに従って掘ったところ温泉が湧き出た。
下呂温泉岐阜県天歴年中(947~957年)に温泉が湧き出たとされますが、1265年、温泉が出来なくなった。
翌年、飛騨川の河原に白鷺が舞い降りると、再び温泉が湧き出るようになった。
道後温泉兵庫県足を傷つけた白鷺が足を湯に浸したところ、たちまち傷が治って飛び立った。
山代温泉石川県
725年、行基が白山へ修行に向かう途中、八咫烏が羽の傷を癒すのを見て発見した。
有馬温泉愛媛県神代、大己貴命と少彦名命が三羽の傷ついたが傷を癒すのを見て発見した。

※表では石川県が多いですが、 全部の温泉を調べたわけではないので、たまたまネットでぐぐった結果見つかったのが石川県の温泉だったという可能性が高いです。

 ⑤折り鶴は白or黒?

折り鶴というのは、白鷺による温泉発見説話の変形バージョンだと思います。

表を見ると、白い鳥(白鷺・白鳩)と黒い鳥(八咫烏・烏)のバージョンがありますね。
湯の山温泉の折り鶴は白でしょうか?黒でしょうか?

湯の花温泉の伝説では、折鶴は連なって飛び立ったとあるので、二羽の折り鶴が飛び立ったのでしょう。
そして、色は片方が白で、もう片方が黒だと思います。

その理由は、僧兵のいでたちを見ればわかります。

鞍馬寺 竹伐会式

上は鞍馬寺・竹伐会式に登場した僧兵です。
白と黒の衣装を身に着けていますね。
そして、折り鶴は僧兵の化身だと思われます。

また折り鶴となっているのは僧兵の着物の裾がプリーツスカートの様に折りたたまれているからじゃないかと思いますが、どうでしょう?

湯の山温泉 紅葉 
湯の山温泉 大石 

御在所岳 

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[2018/11/16 12:06] 三重県 | トラックバック(-) | コメント(-)

氷上町清住 コスモス畑 『標準時子午線について調べてみた。』 


清住 コスモス畑3

兵庫県丹波市氷上町清住 
2018年10月下旬 撮影


①日本標準時子午線の町

氷上町で子午線の町と書かれた標柱を見かけました。
子午線とは地球の赤道に直角に交差するように両極を結ぶ大円のことです。
当然子午線は無数のひくことができ、どの町でも子午線の町だといえます。
「子午線の町」とは正確には「日本標準時子午線の町」という意味です。日本標準時子午線は東経135度子午線です。

清住 コスモス畑5 

日本各地で時間が違うと都合が悪いので、標準時子午線を定め、その標準時子午線が通る町の時刻を日本の時刻としているわけです。

清住 コスモス畑7

②明治21年まで東京と大阪の時間は異なっていた。

しかし日本の時刻が統一されたのは1888年(明治21年)1月1日以降で、それまでは地方ごとに異なった時刻が用いられていました。
これを地方時といいます。

明治初期の鉄道では、東京始点のものは東京時刻、京阪神間のものは大阪時刻で運転されていました。

清住 コスモス畑2 

③なぜ日本標準時子午線は東経135度?

日本の最東端は東京都小笠原村の南東島・坂本崎で、東経153度58分50秒。
日本の最西端は沖縄県八重山郡与那国町の与那国島で、東経122度56分1秒だそうです。

すると日本の中心となる経度は東経137度5分ぐらいになります。
愛知県設楽町あたりを通る子午線が中心だということになります。

また日本の首都・東京を中心とした場合、東経140度ぐらいが標準時子午線となります。

そうではなく、東経135度が標準時子午線とされたのはなぜなのでしょうか?

清住 コスモス畑8 

1884年(明治17年)10月13日、国際子午線会議で世界中の経度と時刻の基点となる本初子午線は、グリニッジ天文台を通る子午線と決められました。

地球は24時間で1周します。これが1日です。
1周=360度
なので、1時間で回転する角度は
360度÷24時間=15度となります。

本初子午線上の時刻を世界時といいます。
この世界時から、経度15度ごとの子午線を中心とする範囲(経帯)は同一の時刻を使用することが決められており
15度ごとに1時間の時差が生じます。

清住 コスモス畑6

もう一度、日本の経度を見てみましょう。
日本の最東端は東京都小笠原村の南東島・坂本崎で、東経153度58分50秒。
日本の最西端は沖縄県八重山郡与那国町の与那国島で、東経122度56分1秒でしたね。

東経150度だと世界時から10時間の時差となりますが、中心があまりに東によりすぎです。
東経120度だと世界時から8時間の時差となりますが、中心があまりに西によりすぎです。
そういうわけで、世界時から9時間の時差となる東経135度が日本標準子午線と定められたのです。

清住 コスモス畑 

日本標準時子午線が通る町は、京都府は京丹後市・福知山市 ・兵庫県は豊岡市・丹波市・西脇市・加東市・小野市・三木市・神戸市西区・明石市・淡路市、和歌山県は和歌山市があります。

お住まいの地域の経度から実際の時刻を計算してみると楽しいかも?

清住 コスモス畑4


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[2018/11/13 16:51] 兵庫県 | トラックバック(-) | コメント(-)

城南宮 白拍子の舞 『北海道に旅立った義経と錫』 


京都市伏見区  城南宮
白拍子の舞・・・11月3日


城南宮 白拍子 
①静御前

白拍子といえば、源義経の妾の静御前を思い出す人も多いのでは。

源義経は兄・頼朝に嫌われ、都落ちをして尼崎の大物浜より吉野山へのがれました。
静御前は義経に従っていましたが、危険であるとして義経は静を京に送り返そうとしました。
ところが、護送のためにつけた男たちは金目のものを奪って逃げてしまい、静は迷って、蔵王堂へやってきました。
静は僧兵たちに捕らえられ、京都の北条時政の屋敷に送られ、さらに鎌倉へと送られて取り調べを受けました。

源頼朝と政子が鶴岡八幡宮に参拝した際、静は舞を命じられました。

城南宮 白拍子

静はこんな歌を詠みつつ舞いました。

しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
倭文(しず)の布を織る麻糸をまるく巻いた苧(お)だまきから糸が繰り出されるように、繰り返し昔を今にする方法があればなあ)

吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
(吉野山の峰の白雪を踏み分けて山に入っていった義経のあとが恋しいわ。)

城南宮 白拍子


これを聞いた頼朝をかんかんになって怒りますが、政子は「私が御前の立場であっても、あの様に謡うでしょう」といって命を助けました。
しばらくして、静は義経の子を産みますが、男子であったため、殺されることになりました。

静は泣いて抵抗しましたが、静かの母親・磯禅師が赤子を取り上げて使いに渡し、赤子は由比ガ浜に沈めて殺されてしまいました。
静母子は京へ帰ることとなり、憐れんだ政子と大姫がたくさんの宝をあたえました。

城南宮 白拍子 

②静がなまって鈴久名になった?

岩手県宮古市鈴久名の鈴ヶ神社では静御前を祀っており、こんな伝説が伝えられていますよ。

静御前は義経一行と別れ、金売り吉次に連れられ、安全のため遠回りし、秋田経由で当地にやってきました。
土地の人々は大聖山の閉伊川沿いに館を建て、静をかくまいました。
隣の箱石地区の山名家には、義経一行が身をよせていました。
ときどき義経は静を訪ねてきては、ひと時を過ごしました。
その後義経は北海道へ旅立ち、その際山名家に鞍馬寺の毘沙門天を置いていき、その毘沙門天は、現在も山名家が別当をつとめる判官神社で祀られています。
静は義経の二人目の子を出産しますが、難産で墓誌ともに亡くなり、金売り吉次が子供の御骨を京都の実家に持っていきました。



金売り吉次は義経記などに登場する伝説的な人物で、奥州の金を京で商っていたとされます。
源義経は金売り吉次の助けを得て奥州藤原氏の元へと下ったということです。

鈴久名の地名は静がなまったものだといわれます。
この地方のなまりでは「しずか」が「すずか」になるのだそうです。

城南宮 白拍子 
③鈴久名は鉱山または鉱物にちなむ地名では?

金売吉次は平泉の金を扱う商人だということをふまえて考えると、鈴久名はて鉱山または鉱物にちなむ地名じゃないかと思ったりしますが、どうでしょう?

岩手には鉱山がたくさんあるそうですし。

錫(スズ)という鉱物がありますね。
で、昔の日本では漢字の意味はあまり重要視されていなかったようで、たとえば奈良東大寺の転害門付近の地名は手貝町となっていたりします。
万葉仮名なんかも漢字の意味を重要視せず、漢字の音を日本語にあててつくられていますね。
鈴久名の錫は錫からくるのではないでしょうか?

城南宮 白拍子2



錫の加工品は奈良時代に唐より持ち込まれた可能性が高いとのことです。銅と錫の合金は青銅です。
日本での青銅の生産は紀元前1世紀ごろには始まったと考えられています。

鈴久名は奥州藤原氏が本拠地としていた平泉の北にあり、岩手県で鉄が生産されるようになったのは奥州藤原氏が栄えた平安時代にまでさかのぼります。

また
http://www.bunka.pref.iwate.jp/rekishi/rekisi/data/jyomon_7.html
上記サイトによると岩手の終末期古墳の中に、北海道積丹半島を起点に流通したといわれる錫製の釧(くしろ=腕輪)があると記されています。

どうやらこの地域では古くから北海道産の錫を扱っていたようです。
・・・・・そういえば、義経は北海道に旅立ったという伝説があるのでしたね。

北海道からとりよせた錫と、義経伝説をあわせた結果、義経が北海道にいったなどという伝説が生じたのかも?

城南宮 曲水の宴 歌人と白拍子

城南宮 菊 


城南宮 すすき



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[2018/11/10 11:59] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

城南宮 曲水の宴 『羽觴は死者の魂の乗り物、遣水はあの世へ向かう川? 』 


京都市伏見区  城南宮
曲水の宴・・・11月3日


城南宮 曲水の宴 行列 
あれっ、平安時代にタイムスリップ?

城南宮 曲水の宴 歌姫 
城南宮神苑に平安びとが登場ーーー。

城南宮 曲水の宴 童と神職さん

①「曲水の宴」の歴史


「曲水の宴」とは遣水(やりみず)に羽觴(うしょう、おしどりの姿を象った盃台)の背に杯を載せて流し、自分の前に羽觴が流れ着くまでに歌が詠めなければ罰として杯を飲み干すす、というものです。

誰ですか、「酒呑みたいから歌なんか詠まないよ」なんて言っているのは~。(笑)

城南宮 羽觴 
羽觴(うしょう、おしどりの姿を象った盃台)

曲水の宴は古代中国、周公(紀元前1042年ごろ)の時代に始まったとされます。
永和9年(西暦353)3月3日、王羲之が修禊の儀式をして曲水の宴を開いたという記録がありますよ。

曲水の宴は日本に伝わり、『日本書紀』には、顕宗天皇元年(485)3月に『三月上巳幸後苑曲水宴』が行われたことが記されています。
『上巳』とは上旬の巳の日という意味で、元々は3月上旬の巳の日をさしていました。
古代中国の魏(220年-265年)の時代から、『上巳の節句』は3月3日に行われるようになったそうです。

その後、史料から曲水の宴の記事はしばらくとだえます。
次に登場するのは聖武天皇代の神亀5年(728年)の記事です。
これ以降、年中行事となり、3月3日に行われました。

曲水の宴はもともとは3月3日の桃の節句の行事だったということですね。

平安時代に桓武天皇が3月に崩御したことから中止されましたが、その後、嵯峨天皇が復活させています。 

  城南宮 曲水の宴 歌人と童

②雛祭は身代わり人形に息を吹きかかけて穢れを移し、川や海に流す行事だった。

3月3日は雛祭りで、下鴨神社や和歌山県加太の淡島神社では『雛流し』を行っています。

下鴨神社 ひな流し 
下鴨神社 流し雛

6月晦日には各地の神社で『夏越の祓』といって人形(ひとがた)に息をふきかけて穢れを人形に移し、川や海に流すという行事が行われています。
雛流しは夏越の祓と同様の神事で、雛人形は身代わり人形であると考えられます。

貴船神社 夏越祓 
貴船神社 夏越の祓


3月3日には雛人形を飾りますが、3月3日を過ぎたら早くしまわないと娘が嫁に行けなくなる、などと今でも言いますね。

高取土佐町 雛祭 
高取土佐町 雛祭

それは、「人形というものが、もともとは息を吹きかけて穢れを移すためのものだったから」ではないかと思ったりします。
だんだん豪華な人形が作られるようになったために、雛人形は流されなくなりました。
そのかわりに雛人形は首を抜かれて押入れの奥深くにしまいこまれるのです。
(現在は首の抜けない雛人形も多いそうですが、昔のひな人形は首が抜けました。私が持っていた雛人形も首が抜けました。)
人形の首を抜くのは収納のためだと思っていましたが、よく考えてみると気持ち悪いですね。

城南宮 曲水の宴 童と歌人

柿本神社にある柿本人麻呂の神像も首がすぽっと抜けるように作られているそうです。
神像はご神体として、神社のご神殿などに安置するもので、収納など考える必要はなさそうです。
ということは、人麻呂の神像が首が抜けるようになっているのは、収納のためではなく、まじない的なものなのではないでしょうか。

雛人形も人麻呂像と同じで、女の子の身代りとなって穢れをその体内に吸い込んだのち、命を絶たれるべきものとして、首が抜けるように作られているのではないでしょうか。

城南宮 曲水の宴 童と歌姫

③羽觴は死者の魂の乗り物、遣水はあの世へ向かう川?

曲水の宴で用いる羽觴(うしょう)は、おしどりを象ったものですが、鳥は死者のイメージが強いです。

「翼をください」という歌に象徴されるように、現代人にとっては鳥は希望の象徴とされることが多いですが、古代人にとってはそうではなかったようです。

古事記には死んだヤマトタケルが白鳥となって飛び立ったという記述があります。
また鳥たちがアメノワカヒコの葬儀を執り行うという記述もあり、鳥には死のイメージが強いです。


ササキという鳥がいますが、これに御をつけるとミササギ(陵)となりますね。
古の人々は鳥とは死んだ人の霊だと考えたのではないでしょうか。
地上から見たのではわからない巨大な古墳の形も、鳥の目線からなら認識できますね。
巨大古墳は鳥になった霊の目線を意識して作られたのではないでしょうか?

ブータンでは、身分の高い人は鳥葬するのだと聞いたことがあります。
残酷なようにも思えますが、鳥に食べてもらうことで空に還る、という信仰があるのだそうです。
これは古事記のヤマトタケルが白鳥になった話を思い出させて興味深いですね。 

 ちなみに一般人は火葬され、遺灰は小麦粉と混ぜて仏塔型の団子にして川に流し、魚に食べてもらうということです。
 
インドでも遺灰はガンジス川に流すそうです。
こちらのほうは、夏越の祓いで人形を川に流すことを思い出させてやはり興味深いです。

曲水の宴は鳥と川、両方のアイテムが揃っています。
羽觴は死者の魂の乗り物、遣水はあの世へ向かう川を表現してあるのだったりして?

城南宮 曲水の宴 歌人と童2

④酒を呑むのは、厄をもらうこと?

紀貫之が古今和歌集仮名序に次のように書いています。

力をも入れずして天地を動かし
目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ
男女のなかをもやはらげ
猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり
(力を入れずに天地を動かし
目に見えない鬼神の心をも動かし
男女のなかをも和らげ
猛々しい武士の心をもなぐさめるもの。それが歌である。)


これを読むと、歌とは芸術などではなく、呪術であったことがわかりますね。
おそらく曲水の宴において和歌を詠むのは、羽觴に乗せられた怨霊の心を和らげ、なぐさめるためではないでしょうか。

そして和歌を詠めないと酒を飲む、というのは死者の厄をもらう、という罰なのではないかと思ったりします。

昔、近所のおじさんが厄年で、おばさんが『善哉たいたので食べにおいで』といってくれました。
それで姉や近所の友達と善哉をよばれにいったんですが、その夜、思いがけなく祖母に叱られました。
『善哉もらうことは厄をもらうことなんやで。』と祖母はいうのです~w

曲水の宴で酒を飲むのはこれと同様の意味があるのかも?

當麻のお練り 雲の上の菩薩 
當麻のお練り 合成

さらに『迎講』『二十五菩薩練供養』などといって、二十五菩薩があの世から死者を迎えにくる様を表現した行事があります。

この行事は、死者をあの世に届ける儀式であると同時に、この世の人が再生する儀式でもあるといわれます。

これは人形や羽觴のかわりに死者に生きている人の穢れを移してあの世に持っていってもらうというような信仰に基づくものだと思います。

このように考えると毎年3月3日に行われていた曲水の宴が、桓武天皇が3月に崩御したことから中止になった理由がなんとなくわかるような気がしませんか。

人々にはまるで羽觴に乗っている霊が、桓武天皇の霊であるかのように思われたのではないでしょうか。
桓武天皇に自らの穢れを移してあの世にもっていってもらうなど、畏れ多い、ということで、中止になったのかも?

城南宮 曲水の宴 童と歌姫2


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[2018/11/07 09:47] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

和歌山・滋賀・兵庫・その他の紅葉 まとめ 

【滋賀】

常楽寺 紅葉 『阿星山は紫香楽宮の鬼門守護の寺ではないと思う。』 

常楽寺 本堂 五重塔5

白山神社(長寿寺) 紅葉 称徳天皇はククリヒメ? 

長寿寺 白山神社 鳥居

長寿寺 紅葉 『長寿寺は孝謙(称徳)天皇誕生に伴って建立された?』 

長寿寺 門

延暦寺 紅葉 『なすび婆の正体とは?』 

延暦寺 東塔 阿弥陀堂

永源寺 紅葉 『世継観世音菩薩の謎』 

永源寺 含空院 紅葉

西教寺 紅葉 『鬼の念仏 と 猿の念仏』 

西教寺 猿の像 紅葉2

西明寺(湖東三山) 紅葉 『三修上人は阿弥陀如来の化身?』 

西明寺(湖東) 三重塔 紅葉

百済寺 (湖東三山) 紅葉 『百済寺はキリスト教寺院だった?』 

百済寺 紅葉

日吉大社 紅葉 『大己貴神は女神だった?』 

日吉大社 早尾地蔵堂 紅葉

彦根城 紅葉 ライトアップ 『ゲイパワーで建った城?』 

玄宮園より彦根城を望む 紅葉 ライトアップ

高野山 紅葉 『空海と即身仏』 

高野山 金剛峯寺 東塔

根来寺 紅葉 『根来寺炎上と根来衆』 



根来寺 紅葉

根来衆

【兵庫】

東光寺 屏風岩 棚田 猪名川町立ふるさと館 『日本人は何を食べてきたのか?』 

東光寺 門

猪名川 屏風岩

石龕寺 紅葉 『戦国武将はなぜ毘沙門天を信仰したのか』 

石龕寺-紅葉

但馬安國寺 どうだんつつじ 紅葉 『足利尊氏はなぜ六十八もの安國寺を建てたのか』 

安国寺 ドウダンツツジ 紅葉3

播州清水寺 紅葉 『千手観音の千の手は坑道を表している?』 

播州清水寺 本堂 紅葉

高源寺 紅葉 『天目カエデと天目一箇神』 

高源寺 紅葉

姫路城 紅葉 ライトアップ 『姫路城の幽霊の正体』 

ひめじじょう こうよう

【東京】

富士山 夕景色と朝景色 『関東に北極星・カシオペア座・北斗七星が存在していた?』 

朝護孫子寺 湯島聖堂 紅葉 『亀甲紋と虎』 

湯島聖堂 紅葉2

赤山禅院 増上寺 紅葉  『神田明神は鬼門封じ、増上寺は裏鬼門封じって本当?』 

増上寺 紅葉

皇居(江戸城跡) 紅葉 『江戸は北極星になぞらえた町だった?』※追記あり 

皇居3

【千葉】

本土寺 紫陽花 『銀杏の木は火事になると乳をだす?』 

本土寺 イチョウ

旧大塚家住宅(浦安) 『漁業を捨てた町』 

浦安 清滝神社

清滝神社

浦安散歩 紅葉 『火山はなぜ女神に喩えられたのか?』 

浦安 稲荷神社 紅葉 
稲荷神社

浦安 大蓮寺 紅葉 
大蓮寺

浦安 花蔵院 イチョウ 
花蔵院


浦安 豊受神社 
豊受神社

浦安 豊受神社 富士塚 
豊受神社 富士塚

【茨城】

袋田の滝 紅葉 『一富士・二鷹・三茄子は鉱山の隠語?四扇・五煙草・六座頭は?』 

袋田の滝2

【埼玉】

長瀞渓谷 紅葉 秩父神社 『秩父三社の配置はたたら星の形になっている?』 

長瀞渓谷 紅葉-SL

長瀞渓谷 紅葉



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[2018/11/05 23:03] まとめ | トラックバック(-) | コメント(-)