2017年11月18日撮影
二ノ瀬駅 きらら①展望列車「きらら」と雲母坂叡山電車の展望列車「きらら」は窓が大きく、車窓から風景を楽しむことができるので大人気です。 「きらら」という名前は、修学院から比叡山に通じる「雲母坂(きららざか)」からとったようですね。 雲母坂の名前の由来は、京都市内からみてこの坂から雲が生じるように見えるからとか 雲母を含む花崗岩由来の砂が多いからなどと言われています。 登山口にあたる雲母橋には親鸞ゆかりの石碑がたっているそうです。行ったことないけど(汗)。 二ノ瀬駅 デオ710形 ②親鸞ゆかりの雲母坂浄土真宗の宗祖・親鸞は青蓮院で出家して比叡山延暦寺で修行しました。 そして29歳のときに比叡山を下山して六角堂に籠るのですが、このとき親鸞が降りて来た道が雲母坂なのだそうです。 六角堂に籠った親鸞の夢の中に聖徳太子が出てきて「私が女に生まれ変わってあなたの妻になろう」と言ったというのです。 信者さんには申し訳ないんですが、現代で同じようなことを言う人がいたら、多くの人は「頭おかしくなったんじゃないの?」と思うでしょう。 でも鎌倉時代の人はそうは思わなかったみたいですね。 浄土真宗の宗祖は親鸞とされますが、彼には浄土真宗を開くという意思はなく、親鸞の死後、彼の子孫によって浄土真宗が開かれました。 「きらら」より紅葉のトンネルを写す。③親鸞が肉食妻帯したのは、すべての人が幸せになる道をとくため?それまで僧侶は妻帯が認められていなかったのですが、親鸞の妻は聖徳太子の生まれ変わりということにされ、親鸞の子孫は聖なる血筋ということになったのでしょう。 それだけでなく、親鸞は禁じられていた肉食もしています。 なぜ親鸞は肉食妻帯したのでしょうか。 その理由について、こんな風に解説しているサイトがありました。 親鸞上人の時代、仏教といえば天台宗や真言宗などの山にこもって修行し、欲・怒り・愚痴の煩悩と闘って、本当の幸せになろうとする教えばかりでした。 僧侶は欲のままに行動する、肉を食べ、結婚することは固く禁じられていました。 当時、僧侶が公然と肉食妻帯することは仏教界だけでなく社会を大騒ぎさせることだったのです。 そんな肉食妻帯を公然とされた親鸞聖人を、“己に素直に生きられたお方”といったイメージを持っている人は少なくないようです。しかし肉食妻帯は、己の欲望のままになされた行動ではありませんでした。 その大胆な行動は、山にこもって修行している人も、生きる為に仕事をしている人も、男も女も、老いも若きも、一切の差別なく、すべての人が、本当の幸せになれる道を教えられたのが、本当の仏教であることを明らかにするためだったのです。
https://1kara.tulip-k.jp/naruhodo/201104360.html
③親鸞の登場で寺が世襲制に。
ですが、私は親鸞の登場によって寺が世襲制になったということに、私は反感を持ってしまいます。
親鸞以前のお寺では、世襲はなかったはずです。 もちろんそれは僧侶の妻帯が認められていなかったからです。 仮に僧侶がエッチして子供ができたとしても、公にはできなかったでしょうね。 ところが親鸞の妻が聖徳太子の生まれ変わりだということで、本願寺は世襲制となってしまったのです。
僧侶という職業は、何かを生産するわけではありません。 僧侶は信者からお布施をもらって生きているわけです。 なぜ僧侶が信者からお布施をうけることができたのか。 それは世俗と縁を切り、結婚もせず、昔は人の大きな価値観であったと思われる子孫繁栄を捨て、人々のために祈るという聖職についていたからだと思います。
④親鸞は真言立川流の影響をうけていた?
私は親鸞は真言立川流の影響を受けていたのではないかと思います。
真言立川流れの流祖は仁寛(?-1114年)で、南北朝時代に文寛(1278-1357)によって大成したとされます。 しかし江戸時代に邪教であるとして弾圧され、文献も焚書によって残されていないため、詳しいことは不明ですが 髑髏に和合水と漆を塗り重ねた髑髏本尊をつくり、その前でエッチを繰り返すというようなことをしていたといわれます。
立川流は陰陽道の思想を取り入れたもので、男女和合によって真言宗の本尊・大日如来と一体になることをとくとされます。
そして神はその表れ方で御霊・荒魂・和魂にわけられるといい、男神は荒魂を、女神は和魂をあらわすとする説があります。 陰陽道では男は陽、女は陰なので、荒魂が陽、和魂が陰となります。
御霊・・・神の本質・・・・・男女双体 荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・陽 和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・陰
御霊・・・神の本質・・・・・男女双体 荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・陽・・・親鸞 和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・陰・・・親鸞の妻 そのような信仰があったため、親鸞は妻帯したのではないかと思ったりします。
⑤親鸞が肉食したのは、聖天さんの信仰と関係ある?
親鸞が肉食したのは聖天さんの信仰と関係がありそうです。
聖天さんとは鬼王ビナヤキャと十一面観音の化身・ビナヤキャ女神の男女双体の神で、象頭の男女の神がい抱き合うお姿をされています。
そして、こんな伝説があります。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AIcon_of_Shoten.jpg https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c7/Icon_of_Shoten.jpg よりお借りしました。 作者 不明 (平安時代の図像集『別尊雑記』(心覚 撰)巻 42より) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
インドのマラケラレツ王は大根と牛肉が大好物でした。 牛を食べつくすと死人の肉を食べるようになり、死人の肉を食べつくすと生きた人間を食べるようになりました。 群臣や人民が王に反旗を翻すと、王は鬼王ビナヤキャとなって飛び去ってしまいました。 その後ビナヤキャの祟りで国中に不幸なできごとが蔓延しました。 そこで十一面観音はビナヤキャ女神に姿を変え、ビナヤキャの前に現われました。 女神は『仏法を守護することを誓うならおまえのものになろう』と言い、ビナヤキャは仏法守護を誓いました。
この聖天さんの伝説は、この御霊・和魂・荒魂をあらわしたもののように思えます。
御霊・・・神の本質・・・・・男女双体 荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・ビナヤキャ・・・・・・親鸞・・・・・陽 和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・ビナヤキャ女神・・・・親鸞の妻・・・陰
了徳寺 大根焚
そして親鸞ゆかりの寺・了徳寺では12月に大根焚を行っており、東京の待乳山聖天では1月に大根まつりをおこなって、参拝者にふろふき大根を授与しています。

待乳山聖天 大根まつり
待乳山聖天で大根まつりを行っているのは大根が聖天さんの好物(大根と肉)のひとつだからでしょう。
そして親鸞ゆかりの了徳寺で大根焚を行っているのは、妻帯した親鸞が聖天さんのイメージに重ねられたためだと思います。 聖天さんは大根のほか、肉も好物でした。 さらに、聖天さんの信仰と立川流の信仰には関係があったのではないかと思います。 それで親鸞は肉食を行ったのではないでしょうか。
貴船駅

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[2018/11/26 21:25]
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鞍馬寺 仁王門京都市左京区 鞍馬寺 2018年11月17日 撮影①鞍馬寺は紀氏の寺だったのを藤原氏が奪った?
鞍馬寺にはこんな創建説話が伝えられています。 796年、藤原伊勢人の夢の中に貴船の神が現れ、鞍馬寺をつくるようにと言った。
鞍馬寺から貴船神社までは山道を歩いて30分ほどです。 (現在は台風による倒木で通行禁止なので、叡山電鉄を利用しました。) 貴船神社貴船神社は平安時代に上賀茂神社の第2摂社となっています。 賀茂神社の御祭神・賀茂別雷大神の母神は玉依姫で、下鴨神社に祀られています。 そして貴船神社奥の院にある船形石が玉依姫の乗った船であるという伝説があるので、 貴船神社は上賀茂神社と関係がある神社だということで、上賀茂神社の摂社とされたのではないかと思います。 鞍馬寺 普明殿 (ケーブルカーの乗り場です。ちなみにトイレは鳥樞沙摩明王殿w)ところが兵庫県尼崎市の長洲貴布禰神社には次のように伝わっています。 平安京遷都の際、調度の運搬を命ぜられた紀伊の紀氏が「任務が無事遂行できますように」と自身の守り神に祈願したところ、事がうまく運び、そのお礼にこの社を建てました。
貴船神社(貴布禰神社)は紀氏の神のようですね。 紀氏の神が、藤原氏の藤原伊勢人に寺を作れ、なんて言うもんですかね? 鞍馬寺はもともと紀氏の寺だったのを、のちに藤原氏に奪われたのではないでしょうか? 鞍馬寺 ケーブルカーをおりたところには多宝塔が。②藤原伊勢人鞍馬寺の創建説話に登場する藤原 伊勢人(ふじわら の いせんど)とはどんな人物なのでしょうか。 生没年は759年~827年。 藤原南家の藤原巨勢麻呂の七男です。 藤原伊勢人は鞍馬寺を創建したのと同年の796年に東寺を創建したとも伝わります。 鞍馬寺 参道の木が倒れて、転法輪堂が見えていました。③伏見稲荷大社と藤森神社の確執
東寺の鎮守は伏見稲荷大社です。 伏見稲荷大社の南に紀氏の神を祀る藤森神社がありますが、もともと藤森神社は伏見稲荷大社の場所にあったとされています。 その場所に伏見稲荷大社が建てられることになったので、藤森神社は移転したというのです。
東寺
伏見稲荷大社
藤森神社 藤森祭
そのため、伏見稲荷大社付近の人々は今でも藤森神社の氏子だといいます。 藤森神社の祭礼では氏子さんたちは神輿を担いで伏見稲荷神社に乗り込み、その境内にある藤尾社の前で「土地返しや、土地返しや」と叫び 稲荷神社側の人々は「神さん、今お留守、今お留守」と言い返すそうです。
鞍馬寺 参道
氏子さん方にはこんな話が伝わっています。
稲荷山はが藤森神の土地だったが、稲荷神が俵1つ分の土地を貸してほしいと言いました。 俵一つ分くらいならと許可すると、稲荷神は、持っていた俵を解いて長い縄にし、その縄で囲んだ土地を借りました。 しかし期限が来ても返さないので、祭礼の際に「土地返せ」と言っています。
伏見稲荷大社があるあたりは山城国紀伊郡といい、紀氏の土地であったのが、藤原氏や秦氏が権力を持つようになって紀氏は土地を奪われたと考えられています。
鞍馬寺 転法輪堂
③空海のもとにやってきた紀州の神。
『稲荷大明神流記』には次のように記されています。 816年、紀州国熊野で空海は神に出会いました。 神は空海に『弟子になれ』と言いました。 空海はこう答えました。 『私は密教を広めたいと思っているので、仏法で守ってくださるとうれしいです。 東寺であなたをお待ちしています。』 823年、紀州の神が約束通り東寺にやってきたので、空海は大喜びで神をもてなし、17日間祈祷して神に鎮まっていただきました。
空海が紀州で出会った神とは紀氏の神ではないでしょうか。
鞍馬寺 転法輪堂 ⑤伏見稲荷大社は紀氏の神までも奪っていた?伏見稲荷大社では宇迦之御魂大神、佐田彦大神、大宮能賣大神、田中大神、四大神を祭っていますが 柴田實氏によると、四大神とは、五十猛命(いそたけるのみこと)、大屋姫(おおやつひめ)、抓津姫(つまつひめ)、事八十神の四柱の神神々のことだということです。(式内社調査報告) 五十猛命(イソタケル)は、スサノオの子で、林業の神です。 記紀の記述によれば五十猛神は紀伊国に祀られている神とあります。紀伊国とは紀州のことです。 また記紀の記述によれば、大屋都姫命(大屋姫)はスサノオの娘で、五十猛命は兄、抓津姫は妹としており 大屋都姫命と抓津姫はスサノオに命じられて五十猛命と共に全国の山々に木種を撒いたあと紀伊国に戻ったとあります。 そして、和歌山市宇田森の大屋都姫神社では大屋都姫命を、和歌山市伊太祈の伊太祁曽神社では五十猛命を主祭神としています。 都麻都姫命(抓津姫/は都麻都比売神社の主祭神とされていると古い文献には記されていますが、この都麻都比売神社が現在のどの神社のことであるのかは不明です。 紀州は古より林業が盛んだったので、紀州の人々は林業の神・五十猛神や、木種をまいた大屋都姫命・抓津姫を信仰していたのでしょう。 そして紀州は紀氏の本拠地でした。 五十猛神・大屋都姫命・抓津姫は紀氏の神だと考えられるでしょう。 伏見稲荷大社は紀氏の土地を奪っただけでなく、紀氏の神まで奪っていたのでは? 和歌山県有田氏の糸我稲荷神社が最古の稲荷社だともいわれています。 鞍馬寺 金剛寿命院⑥秦伊侶具とは空海をモデルとして創作した人物?空海は東寺建設のために稲荷山から木を伐りだしています。 高さ54.8mの東寺の五重塔。 その心柱とするのに適切な木材が稲荷山にしかなかったので、空海は稲荷山を欲したのではないでしょうか。 『稲荷大明神流記』では紀州の神に鎮まってもらったのは823年となっています。 それ以前には紀氏の神を祀る神社があったはずです。 伏見稲荷大社の創建説話では秦伊侶具が711年に矢を射たとありますが、これはウソっぽいです。
空海の俗名は佐伯真魚といいます。 そして伏見稲荷大社の創建説話に登場する秦伊侶具は「はたのいろぐ」と読みますが、「はたのうろこ」とルビをふってある文書もあります。 さらに空海は秦氏だとする説もあります。
私は秦伊侶具とは空海をモデルとして創作した人物ではないかと思います。
空海は佐伯真魚で『魚』なので、そこからイメージして伊侶具(うろこ)という名前にしたんだったりして?
鞍馬寺 日が沈んで灯篭に明かりが入りました。⑦藤原伊勢人は架空の人物?
東寺の記録書『東宝記』には「796年、藤原伊勢人が造寺長官となって東寺を建立した」とあるのですが 藤原伊勢人は公式の史書や系譜にはその名前がありません。 そのため架空の人物だとする説があります。 私も藤原伊勢人という人物は架空の人物ではないかと思います。 そして鞍馬寺はもともとは紀氏の神を祀る貴船神社と関係のある寺ではないかと思います。 ケーブルはもう終了したので、歩いて下山しますw。
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[2018/11/22 10:44]
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京都市左京区 貴船神社2018年11月17日 撮影 ①絵馬のルーツ小さな板に願い事などを書いて神社に奉納するもののことを絵馬といいますね。 常陸国風土記や続日紀によると、古には神事の際に本物の馬を献上する習慣にあったそうで、これが絵馬のルーツとされています。 本物の馬を奉納できない人が土や木で作った馬を奉納するようになり、さらに絵に書いた馬を奉納するようになったと考えられています。 なぜ牛や猪ではなく、馬なんでしょうか? 一般的には、神様は馬に乗って現れると考えられていたためとされています。 でも、私は「馬と天然痘が結び付けられた可能性があるかも」と思ったりします。
↑ 大阪府枚方市・片埜神社の境外社・瘡(くさがみ)神社です。 瘡神社は次のような伝説を伝えます。 菅原道真が無実の罪で流罪となり大宰府へ向かう途中、この地で道真の馬が倒れました。 道真は馬を地元の人に託して大宰府へ向かいました。 地元の人は手厚く介抱しましたが、馬は死んでしまいました。 馬が埋葬された場所には馬の好物である草がたくさんお供えされ、「草神様」と呼ばれるようになりました。 この「草神」が「瘡(くさ)神」に転じて「瘡神社」となり、皮膚病にご利益があると信仰されました。
瘡とは皮膚病のことですが、天然痘を意味するものでもあったのではないかと思います。 日本書紀には「瘡発でて死る者――身焼かれ、打たれ、摧かるるが如し」と記されており、天然痘の病状を記したものではないかと考えられています。 天然痘は疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいい、豆粒状の丘疹が全身にできます。 現在では種痘によって天然痘は撲滅されたとされますが、天然痘は近年まで猛威をふるっていた恐ろしい伝染病でした。 奈良時代には藤原四兄弟が天然痘に感染して死亡していますし 孝明天皇(1831-1867)の死因も天然痘であると記録されています。 そして草が好物の馬は、瘡(くさ)を食べてくれる神として信仰されていたため、馬は天然痘の神としても信仰されたようです。 貴船川に貴船神社の馬の像を合成②干ばつには黒馬、長雨には白馬古来朝廷は勅使を派遣して「貴船神社」や「丹生川上神社」に馬を奉納していたそうです。 干ばつの際には雨が降ることをいのって黒馬が、長雨の際には雨が止むことを祈って白馬が奉納されたとのこと。 なぜ天然痘の神である馬が、天気の神ともされたのかについては、わかりません!(きっぱり) ですが、長雨の際には白馬で、干ばつの際には黒馬が奉納された事の意味については思い当たるふしがあります。 ③陰陽思想白と黒といえば、陰陽思想ですよね! 陰陽思想とはこの世にあるすべてのものは陰と陽に分けられるとする中国由来の考え方のことです。 例えば性別では、男が陽で女が陰、天体では太陽が陽で月が陰、光度では明るいのが陽、暗いのが陰などとされます。 そして陰陽を表す太極図は陽が白、陰が黒であらわされます。 太極図https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AYin_yang.svg https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/17/Yin_yang.svg よりお借りしました。 作者 Gregory Maxwell [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
そして天気を陰陽でいうと晴が陽で、雨が陰です。 干ばつで雨が降ることを祈る際には、雨は陰なので黒馬を 長雨で雨が止むこと’を祈る際には、晴は陽なので白馬を奉納したと考えると筋が通るのではないでしょうか? ↓ 台風の被害で倒れた木がたくさんありましたが、貴船神社の紅葉はとても美しく、また境内や参道はきちんと片づけられていました。 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/11/20 16:37]
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三重県三重郡菰野町 湯の山温泉 2018年11月12日 撮影
①鹿の湯温泉 湯の山温泉は別名を鹿の湯温泉ともいい、こんな伝説があります。
木こりは狩人がやってきたのを鹿に教えて助けた。 数日後、鹿が木こりを訪ねてきて、「助けてくださってありがとうございました。お礼にいいことを教えましょう。私がいたくぼみには温泉が湧いていてケガによく効くのですよ。」 と教えました。
実際にクマや猿が温泉につかっていることがあるそうですが、鹿も温泉につかるんでしょうか? 動画など探してみましたが、見つかりませんでした。
②鹿は謀反人の比喩
実際に鹿が温泉につかることもあるのかもしれませんが、鹿は謀反人の比喩だと思います。
日本書紀に『トガノの鹿』という物語があり、鹿とは謀反人を比喩したものであるとする説があるのです。
雄鹿が『全身に霜がおりる夢を見た。』と言うと雌鹿が『霜だと思ったのは塩であなたは殺されて塩が振られているのです。』と答えました。 翌朝猟師が雄鹿を射て殺しました。 時の人々は『夢占いのとおりになってしまった』と噂しました。 (トガノの鹿)
大仏殿 鹿
鹿の夏毛には白い斑点がありますね。それを塩に見立てたのでしょう。 謀反の罪で殺された人は塩を振られることがあり、 鹿とは謀反人の象徴なのではないかというのです。
③折り鶴伝説
湯の山温泉にはこんな伝説もあります。
江戸時代、上方の大店のひとり娘の葵と使用人の佐吉は身分違いの恋に落ち、湯の山にやってきました。 そして蒼滝に身を投じて心中しようとしたのですが、そこへ僧兵が現れ「温泉にでもつかれば、気持ちが変わるかも」といいました。 ふたりは僧兵の言葉通り、温泉に入りました。 すると、心中せずに頑張って生きていこうという気分になりました。
翌朝、二人は僧兵にお礼を述べようと三岳寺を訪れたました。 しかし僧兵の姿は見えず、ふたりは鶴を折って寺へ奉納しました。 不思議なことに折鶴は連なってひらひらと舞い上がり、飛びたっていきました。 ふたりは上方に帰り、(たぶん結ばれて)数年後に再び三岳寺を訪ねました。 山岳寺の住職は「もう何十年も僧兵はいない」といいました。
④鳥による温泉発見伝説
鳥が温泉を発見したという話が全国にたくさんあります。
白鷺温泉 | 愛知県 | 傷ついた白鷺が湯に浸かって傷を癒すのを見た人によって発見された。 | 山中温泉 | 石川県 | 奈良時代、行基が発見した。 文治年間長谷部信連が鷹狩にやってきた際、白鷺が芦の間の流れに傷脚を洗うのを見て発見し, 12件の湯宿を開いた。 | 片山津温泉 | 石川県 | 1653年、大聖寺藩二代藩主、前田利明が柴山潟に鷹狩りに訪れた際、 水面に水鳥が群れていたのを見て湖底の温泉を発見した。 | 和倉温泉 | 石川県 | 漁師の夫婦が七尾湾の沖合で、傷ついた足を癒す白鷺を見つけたことから発見された。 | 湯涌温泉 | 石川県 | 718年、紙漉き職人が泉で白鷺を見つけたことから発見された。 | 白山中宮温泉 | 石川県 | 泰澄が谷川で傷ついた白鳩を見つけたことから発見された。 | 粟津温泉 | 石川県 | 718年、泰澄が白山大権現のお告げに従って掘ったところ温泉が湧き出た。 | 下呂温泉 | 岐阜県 | 天歴年中(947~957年)に温泉が湧き出たとされますが、1265年、温泉が出来なくなった。 翌年、飛騨川の河原に白鷺が舞い降りると、再び温泉が湧き出るようになった。 | 道後温泉 | 兵庫県 | 足を傷つけた白鷺が足を湯に浸したところ、たちまち傷が治って飛び立った。 | 山代温泉 | 石川県 | 725年、行基が白山へ修行に向かう途中、八咫烏が羽の傷を癒すのを見て発見した。 | 有馬温泉 | 愛媛県 | 神代、大己貴命と少彦名命が三羽の傷ついた烏が傷を癒すのを見て発見した。 |
※表では石川県が多いですが、 全部の温泉を調べたわけではないので、たまたまネットでぐぐった結果見つかったのが石川県の温泉だったという可能性が高いです。 ⑤折り鶴は白or黒?折り鶴というのは、白鷺による温泉発見説話の変形バージョンだと思います。 表を見ると、白い鳥(白鷺・白鳩)と黒い鳥(八咫烏・烏)のバージョンがありますね。 湯の山温泉の折り鶴は白でしょうか?黒でしょうか? 湯の花温泉の伝説では、折鶴は連なって飛び立ったとあるので、二羽の折り鶴が飛び立ったのでしょう。 そして、色は片方が白で、もう片方が黒だと思います。 その理由は、僧兵のいでたちを見ればわかります。  上は鞍馬寺・竹伐会式に登場した僧兵です。 白と黒の衣装を身に着けていますね。 そして、折り鶴は僧兵の化身だと思われます。 また折り鶴となっているのは僧兵の着物の裾がプリーツスカートの様に折りたたまれているからじゃないかと思いますが、どうでしょう? ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/11/16 12:06]
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兵庫県丹波市氷上町清住 2018年10月下旬 撮影①日本標準時子午線の町氷上町で子午線の町と書かれた標柱を見かけました。 子午線とは地球の赤道に直角に交差するように両極を結ぶ大円のことです。 当然子午線は無数のひくことができ、どの町でも子午線の町だといえます。 「子午線の町」とは正確には「日本標準時子午線の町」という意味です。日本標準時子午線は東経135度子午線です。 日本各地で時間が違うと都合が悪いので、標準時子午線を定め、その標準時子午線が通る町の時刻を日本の時刻としているわけです。 ②明治21年まで東京と大阪の時間は異なっていた。しかし日本の時刻が統一されたのは1888年(明治21年)1月1日以降で、それまでは地方ごとに異なった時刻が用いられていました。 これを地方時といいます。 明治初期の鉄道では、東京始点のものは東京時刻、京阪神間のものは大阪時刻で運転されていました。 ③なぜ日本標準時子午線は東経135度?日本の最東端は東京都小笠原村の南東島・坂本崎で、東経153度58分50秒。 日本の最西端は沖縄県八重山郡与那国町の与那国島で、東経122度56分1秒だそうです。 すると日本の中心となる経度は東経137度5分ぐらいになります。 愛知県設楽町あたりを通る子午線が中心だということになります。 また日本の首都・東京を中心とした場合、東経140度ぐらいが標準時子午線となります。 そうではなく、東経135度が標準時子午線とされたのはなぜなのでしょうか? 1884年(明治17年)10月13日、国際子午線会議で世界中の経度と時刻の基点となる本初子午線は、グリニッジ天文台を通る子午線と決められました。 地球は24時間で1周します。これが1日です。 1周=360度 なので、1時間で回転する角度は 360度÷24時間=15度となります。 本初子午線上の時刻を世界時といいます。 この世界時から、経度15度ごとの子午線を中心とする範囲(経帯)は同一の時刻を使用することが決められており 15度ごとに1時間の時差が生じます。 もう一度、日本の経度を見てみましょう。 日本の最東端は東京都小笠原村の南東島・坂本崎で、東経153度58分50秒。 日本の最西端は沖縄県八重山郡与那国町の与那国島で、東経122度56分1秒でしたね。 東経150度だと世界時から10時間の時差となりますが、中心があまりに東によりすぎです。 東経120度だと世界時から8時間の時差となりますが、中心があまりに西によりすぎです。 そういうわけで、世界時から9時間の時差となる東経135度が日本標準子午線と定められたのです。 日本標準時子午線が通る町は、京都府は京丹後市・福知山市 ・兵庫県は豊岡市・丹波市・西脇市・加東市・小野市・三木市・神戸市西区・明石市・淡路市、和歌山県は和歌山市があります。 お住まいの地域の経度から実際の時刻を計算してみると楽しいかも? ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/11/13 16:51]
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京都市伏見区 城南宮 白拍子の舞・・・11月3日 ①静御前白拍子といえば、源義経の妾の静御前を思い出す人も多いのでは。 源義経は兄・頼朝に嫌われ、都落ちをして尼崎の大物浜より吉野山へのがれました。 静御前は義経に従っていましたが、危険であるとして義経は静を京に送り返そうとしました。 ところが、護送のためにつけた男たちは金目のものを奪って逃げてしまい、静は迷って、蔵王堂へやってきました。 静は僧兵たちに捕らえられ、京都の北条時政の屋敷に送られ、さらに鎌倉へと送られて取り調べを受けました。 源頼朝と政子が鶴岡八幡宮に参拝した際、静は舞を命じられました。 静はこんな歌を詠みつつ舞いました。 しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな 倭文(しず)の布を織る麻糸をまるく巻いた苧(お)だまきから糸が繰り出されるように、繰り返し昔を今にする方法があればなあ)
吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき (吉野山の峰の白雪を踏み分けて山に入っていった義経のあとが恋しいわ。) これを聞いた頼朝をかんかんになって怒りますが、政子は「私が御前の立場であっても、あの様に謡うでしょう」といって命を助けました。 しばらくして、静は義経の子を産みますが、男子であったため、殺されることになりました。
静は泣いて抵抗しましたが、静かの母親・磯禅師が赤子を取り上げて使いに渡し、赤子は由比ガ浜に沈めて殺されてしまいました。 静母子は京へ帰ることとなり、憐れんだ政子と大姫がたくさんの宝をあたえました。
②静がなまって鈴久名になった?
岩手県宮古市鈴久名の鈴ヶ神社では静御前を祀っており、こんな伝説が伝えられていますよ。
静御前は義経一行と別れ、金売り吉次に連れられ、安全のため遠回りし、秋田経由で当地にやってきました。 土地の人々は大聖山の閉伊川沿いに館を建て、静をかくまいました。 隣の箱石地区の山名家には、義経一行が身をよせていました。 ときどき義経は静を訪ねてきては、ひと時を過ごしました。 その後義経は北海道へ旅立ち、その際山名家に鞍馬寺の毘沙門天を置いていき、その毘沙門天は、現在も山名家が別当をつとめる判官神社で祀られています。 静は義経の二人目の子を出産しますが、難産で墓誌ともに亡くなり、金売り吉次が子供の御骨を京都の実家に持っていきました。
金売り吉次は義経記などに登場する伝説的な人物で、奥州の金を京で商っていたとされます。 源義経は金売り吉次の助けを得て奥州藤原氏の元へと下ったということです。
鈴久名の地名は静がなまったものだといわれます。 この地方のなまりでは「しずか」が「すずか」になるのだそうです。
③鈴久名は鉱山または鉱物にちなむ地名では?
金売吉次は平泉の金を扱う商人だということをふまえて考えると、鈴久名はて鉱山または鉱物にちなむ地名じゃないかと思ったりしますが、どうでしょう?
岩手には鉱山がたくさんあるそうですし。
錫(スズ)という鉱物がありますね。 で、昔の日本では漢字の意味はあまり重要視されていなかったようで、たとえば奈良東大寺の転害門付近の地名は手貝町となっていたりします。 万葉仮名なんかも漢字の意味を重要視せず、漢字の音を日本語にあててつくられていますね。 鈴久名の錫は錫からくるのではないでしょうか?
錫の加工品は奈良時代に唐より持ち込まれた可能性が高いとのことです。銅と錫の合金は青銅です。 日本での青銅の生産は紀元前1世紀ごろには始まったと考えられています。
鈴久名は奥州藤原氏が本拠地としていた平泉の北にあり、岩手県で鉄が生産されるようになったのは奥州藤原氏が栄えた平安時代にまでさかのぼります。
また http://www.bunka.pref.iwate.jp/rekishi/rekisi/data/jyomon_7.html 上記サイトによると岩手の終末期古墳の中に、北海道積丹半島を起点に流通したといわれる錫製の釧(くしろ=腕輪)があると記されています。
どうやらこの地域では古くから北海道産の錫を扱っていたようです。 ・・・・・そういえば、義経は北海道に旅立ったという伝説があるのでしたね。
北海道からとりよせた錫と、義経伝説をあわせた結果、義経が北海道にいったなどという伝説が生じたのかも?

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[2018/11/10 11:59]
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