兵庫県川西市 黒川ダリヤ園 2018年 10月下旬 撮影
①炭焼き黒川では室町時代よりクヌギを利用して、炭焼きが行われていました。 最盛期には40件の炭焼き農家があったそうですが、現在ではたった一件だそうです。 生物は骨などをのぞき、主に有機物からできています。 ほとんどの有機物は炭素・水素・酸素・窒素(硫黄・リン)から構成されています。 生物を通常の状態で燃やすと、有機物の炭素・水素・酸素・窒素は空気中の酸素と結合し、二酸化炭素・水蒸気などの気体となります。 しかし、体内には微量の無機物(金属元素/カリウム・カルシウム・マグネシウムなど)があり、これらは燃やしても気体にならず個体として残ります。 これが灰です。 生物を酸素のない状態で燃やすと、炭素化合物は分解し、揮発性の低い個体の炭素分が残ります。これを炭化といいます。 炭は木を炭化させたもので、平安時代ごろより石油・ガスが普及するまで燃料として用いられてきました。 現在でもバーベキューなどの際に用いますね。 ②茶の湯に用いられた黒川の菊炭(池田炭)黒川で作られている炭はクヌギを原料としたもので、菊炭といい、炭の断面に美しい菊のような模様があります。 菊炭は黒川のほか、能勢町・豊能町の各地で生産され、池田から全国へ出荷されたため、「池田炭」と呼ばれました。 ③菊の節句と不老長寿菊炭は室町時代から茶の湯に用いられました。 なぜ、菊炭は茶の湯に用いられたのでしょうか? 火つきがよく、火力が強く、香りもいい。燃えた後の灰も真っ白で美しいからという理由のほかに、「見た目の縁起のよさ」というのもあるんじゃないかなと思いました。 そう、炭の断面に菊のような模様があるのでしたね。 陰陽道では偶数を陰、奇数を陽とします。 そして1月をのぞき、月と日が同じ奇数の日、3月3日・5月5日・7月7日・9月9日は節句とされてお祝いをする習慣がありました。 1月1日は元旦なので、1月のみ1月7日が節句とされました。 1月7日 七草の節句 人日の節句 3月3日 桃の節句 上巳の節句 5月5日 菖蒲の節句 端午の節句 7月7日 笹の節句 七夕の節句 9月9日 菊の節句 重陽の節句9月9日を重陽の節句というのは、9という陽の数字(奇数)が重なっているためでしょう。 3月3日、5月5日、7月7日も陽の数字(奇数)が重なっているじゃないか、といわれるかもしれませんが 9は一けたの奇数では最も大きい数字なので、奇数を代表する数字であるとして、重陽といっているのではないかと思います。 もちろんこの9月9日というのは陰暦ですから、太陽歴に換算すると10月から11月ごろとなります。 ちょうど菊が見ごろを迎えるころですね。 そういえばダリアってキク科の植物なんですよね。 それを思い出した私は、ダリアの花をめでつつ、重陽の節句を祝っている気分に浸ったのでありました~。 重陽の日(太陽暦9月9日)、京都法輪寺では重陽神事が行われ、菊滋童の舞が奉納されます。 法輪寺 重陽神事
菊滋童の舞は次のような中国の伝説に基づくものです。
周の穆王が寵愛していた少年菊滋童は、あるとき誤って帝の枕の上を超えてしまい、レッケン山に流刑となりました。 穆王は菊滋童に観世音菩薩 普門品というお経にある「具一切功徳慈眼視衆生、福聚海無量是故応頂禮」を毎日唱えるようにと言いいました。 菊慈童がこれを菊の下葉に書きつけたところ、菊の下葉の露が不老長寿の薬となりました。 そしてそれを飲んだ菊滋童は700歳の長寿を得ました。
重陽の節句の前夜、菊の花に綿をかぶせ、翌朝、綿についた雫で体を撫でると長寿になると言われていました。 これを「菊の被綿(きせわた)」といいます。 このように菊は不老長寿と関係が深いものであったのです。 菊の被綿(法輪寺) ④お茶と喜撰法師さらに、私はお茶と不老長寿も関係が深いのではないかと考えています。 その理由を説明します。 泰平の 眠りを覚ます 上喜撰 たった四杯で 夜も眠れずという有名な狂歌がありますね。 1853年のペリー来航を詠んだ歌です。 宇治茶に喜撰という銘柄があり、上等なお茶であることから上喜撰といっているのだと思います。 その上喜撰に蒸気船をかけてあるのですね。 さらにお茶の成分であるカフェインには眠気をさます効果があって眠れないことと 蒸気船が四隻(実際には2隻だともいう。)やってきただけで、不安で眠れないことをかけています。 宇治茶の銘柄を喜撰というのは、喜撰法師の次の歌にちなむものだと思います。 わが庵は 都の辰巳 しかぞ住む 世を宇治山と 人はいふなり (私の庵は都の辰巳にあってこうやって住んでいる。世を憂しとして山に入った。宇治山であると人は言っているそうだ。)またお茶のことを隠語で喜撰といいます。 どうやらお茶と喜撰は関係が深そうです。 ③喜撰法師、喜撰洞に入定する?高田祟史さんは「わが庵は都の辰」できれ、「巳(み)しかぞ住む」→「みろく(弥勒 ※鹿はろくとよむ)ぞ住む」という意味が隠されているともおっしゃっていました。
宇治には萬福寺という寺があり、天王殿に黄金に輝く布袋像が祀られています。 布袋は弥勒菩薩の化身とされています。 萬福寺 布袋像萬福寺は1661年に創建されたお寺ですが、宇治に弥勒菩薩というイメージがあったため、ここに弥勒菩薩の化身である布袋像が置かれているのかもしれません。 弥勒菩薩とは56億7000万年後に現れるというみほとけです。 そして、かつて即身仏を志した人の目的は56億7000万年後の弥勒菩薩の聖業に参加するためだと聞いたことがあります。 そして宇治には喜撰洞があり、洞内に喜撰法師像が祀られています。 喜撰洞は喜撰法師の棲んだ庵のあとであり、喜撰法師は即身仏となるべく、喜撰洞に入定したのではないでしょうか? ④六歌仙は藤原氏と敵対していた?
古今和歌集仮名序において、名前をあげられた6人の歌人(遍照・在原業平・文屋康秀・小野小町・喜撰法師・大友黒主)は、六歌仙と呼ばれています。 六歌仙は全員、藤原氏と敵対関係にあった人物です。 大友黒主は大伴黒主と記されることもあり、また大友家持とほとんど同じ歌を詠んでいることなどから、大伴家持のことだと思われます。 大伴家持は藤原種次暗殺事件に関与したとして、当時すでに亡くなって埋葬されていたのだが、死体を掘り出されて流罪とされています。 陰陽 黒と白⑩ 大友黒主の正体は大伴家持だった? 小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王のことだと私は考えています。理由を話すと長くなるので、次の記事を読んでください。 陰陽 黒と白⑫ 小野小町は白い神 遍照・在原業平・紀有常(惟喬親王の叔父)は惟喬親王の歌会のメンバーです。 そして喜撰法師とはこの紀有常またはその父親の紀名虎ではないかとする説があります。 惟喬親王は文徳天皇の第一皇子で母親は紀静子でした。 文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えていたのですが、当時の権力者・藤原良房を憚った源信にいさめられ、藤原良房の娘・明子との間にできた惟仁親王(のちの清和天皇)が皇太子となりました。 世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は頻繁に歌会を開いていますが、この歌会のメンバー・遍照・在原業平・紀有常らは歌会と称して惟喬親王を担ぎ上げてのクーデターを計画していたのではないかとする説があります。 文屋康秀は小野小町を「三河に行きませんか」と誘っています。 小野小町=惟喬親王だと考えられるので、文屋康秀もまたクーデター計画にかかわっていた可能性があります。 髄心院 小野小町像⑤喜撰法師=紀仙法師=惟喬親王?④で喜撰法師は紀仙法師で紀名虎または紀有常のことではないかとする説があると書きました。 私も最近までそう考えていましたが、しだいに喜撰法師(紀仙法師)とは惟喬親王のことではないかと考えるようになりました。 つまり、小野小町も喜撰法師もその正体は惟喬親王ではないか、ということです。 惟喬親王の母親は紀静子で、惟喬親王は紀氏の血の濃い親王でした。 当時、藤原氏の血をひく天皇がほとんどで、惟喬親王は紀氏の希望の星だったのです。 ですから、惟喬親王を紀仙法師と呼んでもおかしくはないと思います。 筒井峠 惟喬親王御陵 惟喬親王像⑨惟喬親王と漆の関係惟喬親王は京都嵐山の法輪寺に籠った際、虚空蔵菩薩から漆の製法を授かったという伝説があります。 ちなみに、上でお話しした重陽神事も同じ法輪寺です。 法輪寺私は先ほど次のようなことを述べました。 ・喜撰法師の歌に「みろく(弥勒)」が読み込まれている。 ・即身仏になるべく入定した人の目的は56億7000万年後に現れるとされる弥勒菩薩の聖業に参加することだった。 ・喜撰洞は喜撰法師が即身仏となるべく入定した洞窟なのではないか。 即身仏になる際には、まず木食といって五穀をたち、木の実や皮を食べる修行をします。 こうすることによって体の脂肪が減ります。 さらに入定する前に漆を飲みます。 漆を飲むことで、食物を吐き出し、胃の中を空っぽにするのです。 また漆には防腐作用があるため、死後腐りにくい体になるといわれています。 惟喬親王が法輪寺に籠った際、虚空蔵菩薩から漆の製法を授かったという伝説は、彼が入定して即身仏になったところから創作されたのではないでしょうか? 即身仏になるため入定する際、漆を飲みますが、これを「漆のお茶を飲む」と記されたサイトがありました。 漆の木に傷をつけると乳白色の樹液がでてきます。 しかし、すぐに酸化して茶色くなります。その色はほうじ茶のような色です。 戦国武将たちは茶の湯をたしなみましたが、それは茶の湯に入定する際に飲む漆のイメージがあったのではないでしょうか。 つまり、茶の湯は漆を飲んで不老長寿になるというおまじないであったのではないかと思うのです。
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[2018/10/31 19:12]
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①三島江は歌枕だった。三島江は古より歌枕として有名なところだったようで、多くの人が歌を読んでいます。 歌枕とは和歌の題材とされた日本の名所旧跡のことです。 三島江の玉江の薦をしめしよりおのがとぞ思ういまだ刈らねど 万葉集 (三島江の玉のように美しい葦に標を立てたので、自分のものだと思う。まだ刈っていないけれど。) 薦を女性に喩えて、「唾つけたから俺のだ」と言っているんでしょうかね? 薦は脚の掛詞になっているのかも?だとしたら、作者は脚フェチなのかも♥ 葦は湿地帯に生える植物です。 で、写真では見えませんが、このコスモスロードの向こう側は淀川です。 かつて三島江の淀川のほとりには葦が茂っていたのでしょう。 舞洲 葦②三島江を詠んだ歌他にどんな歌があるのか見てみましょう。現代語訳はよくわからないところが多いので省きます(汗~) 【蘆を詠んだもの】 三島江の 玉江の 薦をしめしよりおのがとぞ思ういまだ刈らねど (万葉集 ) 三島江や 露もまだひぬ 蘆の葉に つのぐむほどの 春風ぞ吹く (源通光) 三島江に つのぐみわたる 蘆の根の ひとよのほどに 春めきにけり( 曾禰好忠) 蘆の根も つのぐみぬらむ 三島江の 岸の青柳 色づきにけり (藤原家隆 ) 乱れ 芦の かれ薬もさやに みしまえや 氷のうへは 浦風ぞふく (為道朝臣) よそにのみ 三島の 葦の 根を絶えて 刈りにだにやは 今はおとづる (堀川百首 ) 【薦(こも)】 三島江の 入江の まこも 雨ふれば いとどしをれて かる人もなし (大納言経信) 三島江の 入江の 薦を 刈りにこそ 我れをば 君は思ひたりけれ (読人しらず) 三島江の 玉江の まこも かりにだに とはで程ふる 五月雨の空 (藤原行能) 【菅(すげ)】 みしまえに 真菅のなへや もえぬらし 友よぷ駒の けしきしるしも (小侍従) みしま江の 入江に生ふる 日管の しらぬ人をも あひみつるかな (藤原基俊) 【水草】 三島江の ひしの浮葉に ぬる 玉を 薦しか夏の 月もさやけき (後鳥羽院 ) しらずとも たづねて知らむ 三島江に 生ふる 三稜(みくり)の すぢは絶えじを (源氏物語) 【松】 住吉の 松もみゆきは ありけりと こはめづらしく 三島江の浦 (小弁) 【鳥】 三島江の 水鳥さわぐ 夕暮に 袖うちぬらし 今ぞすぎゆく (大僧正尊行) 友鶴の 群れゐしことは 昔にて みしま隠れに 音をのみぞなく (従二位成実) 【貝】 風吹けば 花咲く波の 折るたびに 桜貝寄る 三島江の浦 (西行) 【渡船場】 春霞 かすめるかたや 津の国の ほのみしま江の わたりなるらん (藤原頼家) 【漁火】 さてもまた 人しれずのみ 消え佗びぬ 三島がくれの あまの 漁火 (正三位知家) 【「見し間」の掛詞】 はつかにも 君を みしまの 芥川 あくとや人の おとづれもせぬ (伊勢) ③三島江から連想される玉川という地名これらの歌の中には「玉」を読んだものが3首あります。 三島江の 玉江の 薦をしめしよりおのがとぞ思ういまだ刈らねど (万葉集 ) 三島江の 玉江の まこも かりにだに とはで程ふる 五月雨の空 (藤原行能) 三島江の ひしの浮葉に ぬる 玉を 薦しか夏の 月もさやけき (後鳥羽院 ) 玉の意味を古語辞典で調べてみると次のようにあります。 a.美しい石。宝石。 b.貝類。真珠。 c.美しいものの形容。 d.丸い形をしたものの形容。 bに貝類とあるので「、風吹けば 花咲く波の 折るたびに 桜貝寄る 三島江の浦 (西行)」も玉を詠んだ歌だといえるかもしれません。 また、玉は魂(たま)と同音で、魂の意味にも用いられているように思えます。 魂とはもちろん「たましい」のことです。 蘆・薦(こも)・菅(すげ)などは淀川の水辺に生殖する植物、菱(ひし)・三稜(みくり)は水草、 松・鳥・貝・わたり(渡船場)も川または湖に関係する言葉です。 (かつてこのあたりまで海であり、河内湖と呼ばれていたため、三島江という地名になったのかもしれない。江とは海や湖が陸地に入り込んだ地形のこと) しかし玉は特に川に関係するものではなく、三島江とは関係がないという意見もあるかと思います。 でも私は玉という言葉は三島江と関連付けて読まれている可能性があると思います。 というのは、三島江の北方すぐのところに玉川という地名があるのです。 玉川も歌枕として古来より有名な場所でした。 ④玉川・三島江の東を流れる芥川そして、「はつかにも 君をみしまの 芥川 あくとや人の おとづれもせぬ (伊勢) 」という歌のなかに「みしま」とあるのは「三島江」をさすものと思いますが、同じ歌の中に「芥川」とありますね。 芥川は、玉川・三島江の東部を流れる川です。 芥川といえば、伊勢物語にある次の歌を思い出します。 白玉か なにぞと人の問ひしとき 露と答えて 消えなましものを (白玉なの?何なの?と高子が私に問うたとき、あれは露だと答えて、露のように消えてしまえばよかったのに。) これは伊勢物語の主人公の在原業平が藤原高子と駆け落ちをして芥川のほとりへやってきたのですが、途中で高子が鬼に食われてしまった(実際には高子は兄の藤原基経に取り戻されたことを鬼に食われたと表現したものとされる。) 際、業平が読んだとされる歌です。 高子は深窓の霊場で夜露を見たことがなかったので、業平に「あれはなあに?白玉なの?」と聞いたのです。 しかし業平は嵐がひどくなってきたこともあって、その問いには答えずに、嵐が蔵の中に高子をかくして、自分は蔵の前に立っていたのです。 私は業平が高子と関係を持っていたと思いますが、この物語は創作だと思いました。 というのは、地名をキーワードとして暗号のように用いた話のように思えるからです。  芥川のほとりには玉川という地名がありました。 高子が「あれはなあに?白玉なの?」と聞くのにぴったりの地名ですね。 そして高子は鬼に食われてしまい、「露と答えて 消えなましものを」と歌を詠みましたが 芥川の芥とは「くず、ちり」という意味です。 白玉か なにぞと人の問ひしとき 露と答えて 消えなましものを (白玉なの?何なの?と高子が私に問うたとき、あれは露だと答えて、露のように消えてしまえばよかったのに。) この歌の「消えなましものを」は一般的に、「業平自身が消えてしまえばよかった」という意味だとされていますが、私は高子が消えてしまえばよかったという意味だと思います。 詳しい説明は省きますが、業平が高子と駆け落ちをしたのは、高子が清和天皇に入内するのを阻むためではないかと思うからです。 また、歌の意味からいっても、「玉のように美しい高子が、露のように消えてしまえばよかった」ととった方が、歌全体につながりが出てすっきりすると思いますがどうでしょう? それはさておき、芥川の「あくた」とは「チリ、くず」という意味です。 玉が散ってしまった場所として芥川という地名はぴったりではありませんか。 ⑤三島江は逢引するのにぴったりの場所またこの歌には直接出てきませんが、芥川の西、玉川の南にある三島江という地名も意識されていそうです。 そのヒントは伊勢の歌「はつかにも 君を みしまの 芥川 あくとや人の おとづれもせぬ 」にあります。 芥川とあるところから、この歌にある「みしま」は「三島江」のことだと思われますが、「みしま」は「見し間」の掛詞になっています。 平安時代、貴族の女性は男性に姿を見せないのが一般的でした。なので「逢う」「見る」などは、そのまま男女の関係になることを意味する言葉だったのです。 いやー、そう考えると、すごく深い歌だったんですね。 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/10/27 17:46]
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和歌山県野上町 生石高原 2018年10月20日 撮影 ①夢野の鹿広い広いススキの野原。 こんなに広いススキの野原は初めてみました♪ ススキにまつわる話が摂津風土記にあります。 夢野(現在の神戸市兵庫区湊川の西)に夫婦の鹿がいたが、雄鹿には淡路の野島に妾の鹿がいた。 牡鹿はある夜、自分の背に雪が降り、すすきが生える夢を見、これを妻の雌鹿に話した。 雌鹿は「背中にススキが生えるのは、背中に矢が刺さっているのです。雪が積もるというのは、あなたは殺されて塩漬けにされているということです。」といって妾のもとへ通うのをやめさせようとした。 しかし、雄鹿は妾の鹿に会いにいき、その途中舟人に弓矢を射られて死んだ。(夢野の鹿) 下鴨神社 追儺弓神事②鹿の背中にはえたススキは矢、雪は鹿の斑点の比喩?上の写真は京都下鴨神社の追儺弓神事です。左と右の射手が持っている弓にご注目。 なにかの植物に似ていませんか? そう、ススキに似ていますね。 現代の歌、Jpopにもいろんな植物など自然界にあるものが出てきます。 例えば一青窈さんなら、ハナミズキ、イチジク、いろはもみじ、雨などが歌詞の中に出てきます。 それらの植物はイメージや季節、雰囲気などをつたえるために詩の中に登場するのだと思います。 しかし古代人は植物の形などから他の物の比喩として用いていたようです。 ススキは矢、雪は塩に似ているでしょう。 また鹿の背中には白い斑点があるので、それを雪に喩えたのだと思います。 大仏殿 夏毛の鹿 ③萩はなぜ鹿鳴草というの?萩の花は別名を「鹿鳴草」といいますが、それは萩の白い花が雄鹿の背中に積もった雪=塩や、鹿の夏毛の斑点に似ているためだと思います。 大聖寺門跡 萩 ④貝は女性器の比喩?また死んだ大国主がキサガイヒメ(𧏛貝比売)ととウムギヒメ(蛤貝比売)の手当てを受けて生き返るという物語がありますが、貝は女性器の比喩ではないでしょうか。 同じ例は外国にもあって、愛と美の女神・ビーナスはしばしば貝に乗る姿で描かれています。 これは、ビーナスが女性の神であることを示すものではないでしょうか。 ⑤ススキ野の山焼きを比喩した物語?大国主が根の国に行ったという話があります。 根の国の王スサノオは、広い野原の中に鳴鏑(なりかぶら)を射込み、それを拾ってくるようにと大国主に命じた。 大国主が野の中に入っていくと、スサノオは野に火を放った。 大国主が困っているとネズミがやってきて、「内はほらほら、外はすぶすぶ」(穴の内側は広い、穴の入り口はすぼまって狭い)といった。 そこで大国主は地面を踏んでみると、穴の中におち、火から身を守ることができた。これはススキ野の山焼きをモチーフにした話なのかもしれないと思ったりしました。 ススキはかやぶき屋根の材料となるため、かつて各地に萱場が造られていました。 ススキで有名な宇陀の曽爾高原も茅場であったと聞きました。
ところがススキ野を放置しておくと、赤松などの木が生えてきます。 そこで萱場を維持するために、人々は定期的に草刈り、火入れを行っていました。
若草山山焼き 生石高原でも春に山焼きが行われているそうです。
で、ススキ野にはカヤネズミという小さいネズミが巣をつくって生息したりしているようです。

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[2018/10/23 18:30]
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京都市右京区 山国神社 還幸祭 10月第2日曜日 (山国隊鼓笛行進の奉納) ①修理職領山国杣山国神社があるあたりは、平安遷都に用いる木材の供給地で、修理職領山国杣とされていました。 修理職とは平安時代の令外官(りょうげのかん/律令の令制に規定のない新設の官職)、杣は中世の国家が所有した山林のことです。 つまり、平安時代の国有林があった場所ということですね。 平安京遷都に先立ち宝亀年間(770年-780年)に修理職が本殿を造営したそうです。 造営に際し和気清麻呂が祭主として奉仕したとされます。 その後、この土地は秀吉の太閤検地まで禁裏直轄の荘園でした。

②山国隊
1868年、1月3日に鳥羽伏見の戦いが始まると、山陰道鎮撫総督・西園寺公望から丹波に王政復古の募兵がありました。 そこで、この地域の人々は、これに応じて農民隊を結成しました。 その背景には、再びこの地を皇室の直轄地にしてもらいたい、という望みがあったとされます。 1月11日農民隊は山国神社より出陣しました。 西軍 (隊士64人客士12人、沙汰人:水口備前守・藤野齋(藤野近江守)) は、岩倉具視より「山国隊」と名付けられ、鳥取藩付属とされました。 東軍 (隊士27人、沙汰人:鳥居河内守・河原林大和守)は「親兵組」と称していたようです。。
山国隊の訓練所は京都の北野天満宮・椿寺付近にあったそうで、のちに北野天満宮に石灯籠を奉納したそうです。 この石灯籠は現在も北野天満宮にあるということなので、今度北野天満宮をお参りするときには、探してみたいと思います。
山国隊は、勝沼、宇都宮などで戦い、戦死4人(行方不明1人含)、病死3人、多数の負傷者を出しましたが、11月25日には、東征大総督・有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)とともに凱旋帰京しました。
ですが山国は皇帝直轄地とはなりませんでした。資金調達のため多くの山林が売り払われたためといわれています。
山国神社の還幸祭で行われている山国隊鼓笛行進は、山国隊凱旋帰京のようすを再現したものといわれます。 10月22日の時代祭でも、山国隊が登場しますよ。
③教科書から士農工商が削除されたワケ
えー、ここまではググればでてくる話です。 なんか山国神社に関係する面白いネタないかな、とググってみましたが、ありませんでした~。 仕方ないので、農民軍だった山国神社にちなみ、士農工商の話を(なんじゃ、そりゃ~w)
最近、教科書から士農工商えた非人という言葉が削除されたと聞きます。 で、それを受けて「士農工商っていうのは階級ではなく、職業のちがいだったんだよ」という人が結構おられます。
なぜ教科書から士農工商の言葉が削除されたのかについて記されたページがありましたので、まとめました。
①かつて、近世特有の身分制社会とその支配・上下関係を表す用語として「士農工商」「士と農工商」という表現が用いられていた。
②部落史研究を含む近世史研究の結果、2点の修正が加えられた。
一、身分制度を表す語句として「士農工商」という語句は適当でない。 基本的には「武士-百姓・町人等,えた・ひにん等」が存在し,ほかにも,天皇・公家・神主・僧侶などが存在した。 二.「士-農-工-商-えた・ひにん」という身分としての上下関係のとらえ方が適切でない。 武士は支配層として上位。他の身分については,上下,支配・被支配の関係はないと指摘されている。 「農」が国の本であるとして,「工商」より上位にあったと説明されたこともあったが、身分上はそのような関係はなく,対等であった。 近世被差別部落は「武士-百姓・町人等」の社会から排除された「外」の民とされ、「士-農-工-商-えた・ひにん」の下にあったのではなく、武士の支配下にあった。
https://www.tokyo-shoseki.co.jp/question/e/syakai.html#q5
つまり、 上・・・士(農工商より上) 下・・・農工商(農工商に身分の差なし) ということで、階級制があったという風に読めます。
ネットをぐぐると、士農工商に階級はなかったとし、日本は平等であったと書いてある記事をいくつか見ましたが、勘違いだと思います。
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[2018/10/21 00:18]
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大阪府池田市 池田城 水月公園 2018年10月初旬撮影
池田城 夕日①呉からやってきた織女たち
日本書紀にこんな記述があります。 応神天皇20年、阿知使主(あちのおみ)と阿知使主の息子・都加使主(つかのおみ)を呉(くれ/華南、当時の中国の呉あるいは東晋、南朝)に派遣した。 親子は高麗(高句麗)に辿り着いたが、呉までの道順がわからなかったので道案内を求めた。 そこで、髙麗の王は、久礼波(くれは)・久礼志(くれし)の二名を随伴させた。 呉に到着した二名は、兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)、呉織(くれはとり)・穴織(あなはとり)の4人の裁工女を日本に連れ帰った。 (日本書紀)この4人の裁工女のうち、呉織(くれはとり)・穴織(あなはとり)は現在の大阪府池田市にやってきて、 織物の技術を伝えたという伝説があります。 ふたりは神として呉服神社と伊居太神社に祀られています。 池田城夕景
②池田は渡来人秦氏が住み着いた土地だった?池田は古名を「呉羽里」(くれはのさと)といい、『和名類聚抄』には、豊能郡「泰上郷」(はたのかみごう)・「泰下郷」(はたのしもごう)という地名が記されています。 おそらく、池田には渡来人秦氏が多く住んでいたのでしょう。 秦氏は日本に渡来して建築・土木など大陸の先進技術を伝えたとされます。 その秦氏の先進技術の中に養蚕・絹織物の技術もありました。 そういったところから、池田に呉織(くれはとり)・穴織(あなはとり)の伝説が生じたのではないでしょうか。 水月公園 夕景③織姫と河童の民話http://rikachanhouse.com/3669.html%E3%80%8D上記「いけだより」さんに、次のような内容の民話が記されています。 1700年前、遠い国から織物技術を伝えるため、二人の姉妹が池田にやってきた。 姉妹はお守りの薬師如来をかわるがわる抱きしめて苦しく長い航海を乗り越えた。 池田にやってきた姉妹は熱心に機織りをした。夜は七つの星がおりてきて手元を照らした。 ある日、姉妹は井戸が輝くのを見ているうちに、井戸に落ちてしまった。 井戸の中にはイケメンのふたりの少年がおり、少年たちは姉妹に「井戸はどこにでもつながっているので、行きたいところに連れていってあげる」といった。 姉妹は「故郷に帰りたい」というと、少年たちは龍を呼んだ。龍は背中に四人を乗せて井戸の中を飛び、姉妹の故郷へ連れていった。姉妹は両親が健やかに過ごしているのを確認し、池田に戻った。 少年たちの正体は河童で、井戸に落ちて来た人の血を吸ってやろうと考えていたのだが、姉妹があまりに美しいので役に立ちたいと考えたのだった。 河童たちは姉妹に正体をあかすことができず早死にしてしまった。姉妹は100歳以上長生きした。龍は井戸や五月山で暮らしていたが今は大光寺の山門の上で休んでいる。この民話は呉織・穴織伝説をベースにして作られたものなのでしょう。 清水寺 青龍会④昔の河童はカワウソの妖怪だった?ということで、今日は河童の話です!(前振りが長い~) 河童と言うと緑色で背中に甲羅があり、頭にお皿をのせた妖怪を思い浮かべますが、 河童がこういう姿になったのは、18世紀ごろのことのようです。 というのは、こんな文献があるそうなんですね。 『下学集(1444年)』・・・「カワウソ老いて河童(カワロウ)に成る」。 『日葡辞書(1603年~1604年)』・・・カワラゥ/川に棲む猿に似た獣の一種。 海遊館 コツメカワウソ⑤河童の特徴江戸時代以降の一般的な河童の特徴をあげてみます。 a.子供のような体格 b.全身緑色または赤色 c.頭頂部に皿がある。皿が乾くと脱力したり、死ぬ。 d.口は短いくちばし。 e.背中に甲羅がある。 f.手足に水かきがある。 g.肛門が3つある。 h.生臭い。 i.キュウリが好物。 j.相撲が得意 k.土木工事を手伝う。 l.河童を助けた人間に魚を贈った。 m.薬の製法を教えた。 n.溺れた人の尻小玉を抜いて食べる。 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kappa_jap_myth.jpg https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8a/Kappa_jap_myth.jpg よりお借りしました。 作者 Toriyama Sekien (Japanese, *1712, †1788) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で⑥河童は亀の妖怪? b.全身緑色または赤色 d.口は短いくちばし。 e.背中に甲羅がある。 f.手足に水かきがある。 h.生臭い。
これはズバリ、亀の特徴ですね。
亀の中には口がくちばしのように見えるものがありますし、水中で生活する亀の手足には水かきがついているそうです。
海遊館 亀
⑦河童の頭に皿があるのはなぜ?
c.頭頂部に皿がある。皿が乾くと脱力したり、死ぬ。
とありますが、河童の頭に皿があるのはなぜでしょうか? これは a.子供のような体格 と関係があると思います。
「おかっぱ」というヘアスタイルがありますね。
大和な雛祭にて
「おかっぱ」とは、上の人形のようにサイド・バッグを同じ長さに切りそろえ、前髪は眉あたりで切りそろえる髪型のことです。 しかし、もともとのおかっぱはこの写真とは違い、頭頂部の髪を丸く剃った男の子の髪型のことを「おかっぱ」と言っていたようです。 しだいに頭頂部を剃らない髪型のことも「おかっぱ」というようになり、女の子のヘアスタイルも「おかっぱ」というようになったようです。
「おかっぱ」は「御河童」と書き、河童に似ているところからこの名前があるといわれますが 河童は江戸時代の男の子の妖怪なので、この髪型をしていたのではないかと私は思います。
つまり、こういう流れではないかと思うわけですね。
1.頭頂部を剃る男の子のヘアスタイルがもともとあった。 ↓ 2.男の子の妖怪なので、河童は頭頂部を剃った髪型の妖怪として創作された。 ↓ 3.頭頂部を剃る男の子の髪型を御河童というようになった。

おかっぱ頭の金太郎 八坂神社 石見神楽より
⑧河童が尻小玉を抜くとは?
尻小玉とは人間の尻のあたりにあると考えられていた臓器のことですが、もちろん、本当にそんな臓器があるというわけではありません。
人間に尻小玉という臓器があると考えられたのは、溺死した人のお尻の穴は肛門括約筋が緩んで開いてしまうので、それを河童が尻小玉を抜いた状態であると考えたようです。

薬師三尊像
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Triad_of_Yakushi_Nyorai.JPG https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3b/Triad_of_Yakushi_Nyorai.JPG よりお借りしました。 作者 日本語: 小川晴暘(1894-1960) 仏像写真家 飛鳥園創業者)English: Ogawa Seiyou (1894-1960), a famous photographer in Japan [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
⑧河童の正体は薬師如来だった?
私は河童の正体とは薬師如来ではないかと思うのです。 池田の民話では姉妹がお守りの薬師如来をかわるがわる抱きしめたとありますね。 そのお守りの薬師如来の化身が河童ではないでしょうか。
その理由を説明します。
①河童が薬の製法を教えたという伝説がある。(m.薬の製法を教えた。) ②河童は手足に水かきがあります(f.手足に水かきがある。)が、薬師如来にも水かき(まんもうそう)があり、水と関係が深そうに思えます。 ③河童は亀の妖怪だともかんがえられますが(b.全身緑色または赤色・d.口は短いくちばし・e.背中に甲羅がある・f.手足に水かきがある・h.生臭い。)、淳和天皇の勅願によって829年に創建された京都の亀龍院は、近世、亀薬師という亀に乗った薬師如来を本尊とするようになっています。 http://kame.rakusaba.jp/yakusi/yakusi06.htm ④薬師三尊像は東に日光菩薩・中央に薬師如来・西に月光菩薩を配置する安置スタイルのことをいいます。 一方、記紀神話によればイザナギの左目(東)から天照大神が、イザナギの右目から月読命が、イザナギの鼻からスサノオが生まれたとしており、日光菩薩と天照大神、月光菩薩と月読命、薬師如来とスサノオが習合されているように思われます。
東(左) | 日光菩薩 | 左目 | 天照大神 | 中央 | 薬師如来 | 鼻 | スサノオ | 西(右) | 月光菩薩 | 右目 | 月読命 |
スサノオは京都の八坂神社の御祭神ですが、八坂神社の紋がキューリに似ているので、八坂神社の祭礼である祇園祭の期間中はキュウリを食べてはいけないなどと言われています。
河童の好物がきゅうり(i.キュウリが好物)というのは、ここからきてはいないでしょうか。
j.相撲が得意については、愛媛県で薬師如来奉納相撲(後八日相撲大会)という150年の歴史を持つ行事や 宮崎県には明治以降行われている長野薬師尊の長野薬師相撲大会などがあります。
だけどg.肛門が3つある はなんでなんでしょうね?三本足の八咫烏と関係ある?
水月公園 夕景
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[2018/10/11 17:42]
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滋賀県高島市 箱館山 2018年9月下旬 撮影
ゴンドラで箱館山山頂へ!
丸くてふわふわもふもふしてるのはコキア。
①コキア(ホウキギ)コキアという名前、まるくてもふもふしたかわいい姿。 ヨーロッパの風景に似合いそうですが、やはり原産地はヨーロッパだそうです。 日本へは中国より食用として渡来したということですが、それがいつごろなのかは、調べてもわかりませんでした。 しかし江戸時代には、実は食用、茎は箒(ほうき)に利用されていました。 コキアの日本名をホウキギというのはそのためだったんですね~。 秋田県の特産品「とんぶり」はコキアの実を加熱加工したもので、「畑のキャビア」とも呼ばれているそうですね。 一度食べてみたいです。 ②魔女の箒はハレー彗星を比喩したものだった?えー、今日はコキア=ホウキギにちなみ、箒(ほうき)の話をしたいと思います。 ヨーロッパの魔女は箒に乗って飛びますが、この箒はコキアの箒なのだとか。 私は魔女が乗る箒とは彗星の比喩ではないかと考えています。 彗星は別名を箒星ともいいました。 長く尾をひく姿が箒のように見えるので箒星とよばれたのでしょう。 動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。彗星はまるで空飛ぶ箒のようではありませんか? 684年10月2日(グレゴリオ暦)に日本でハレー彗星が観測されています。 その後の11月29日(グレゴリオ暦)20時から21時ごろ、太平洋沿岸にマグニチュード8クラスの大地震が起きました。(白鳳地震・天武地震) 山崩れ、河涌き(液状化現象?)、多くの建物が倒壊し、道後温泉や南紀白浜温泉は土砂に埋もれて湧出が止まりました。 土佐は津波に飲み込まれて田畑約12km2が海中に没し、調を運ぶ船が多数流失するという大参事。 彗星は白鳳地震の前触れにちがいない! 古の人々はそう考えたのではないかと思います。 これは何という植物でしょう?ご存じの方、教えてください!
記紀神話には星の神は天津甕星たった一柱しか登場しませんが、この神は天照大神の葦原中国平定に最後まで抵抗した悪い神とされています。 天津甕星が悪い神であれば、彗星もよくないことの象徴だと考えられたことでしょう。 実際、ハレー彗星が観測されたあとに白鳳地震がおきて大惨事となっていますし。 西洋でも彗星はよくないことの象徴と考えられ、魔女の乗り物とされたのではないでしょうか。 原田神社 獅子神事 『天武地震とハレー彗星』 ③葬式になぜ「ははきもち」(箒持ち)が登場するの?記紀神話にアメノワカヒコという神様の葬儀のようすが記されています。 それによると、カワカリが食べ物を運び、サギはほうきを持ち、カワセミは神饌を用意し、スズメは米をつき、キジは泣き女をつとめたとあります。 ダリアも見ごろでした。「サギはほうきを持ち」という記述から、サギを掃除係だとしているサイトもありましたが、 ほうきは祓い浄めるための神具であって、掃除をするために持っているのではないと思います。 サギは浄めの儀式を行うために箒を持っているのではないでしょうか。 相撲の土俵入りの際には呼び出しが箒で土俵を掃きますが、これは単なる掃除ではなく、浄めの儀式であると考えられています。 赤ちゃんが産まれたときに、箒を贈る習慣や 妊婦の腹を箒で掃いたり、遺体の足の上に箒をおくなどの習慣もありますが、これらも浄めの儀式だといえるでしょう。 ④箒をたてておくのは「死ね」というまじない?京都では早く帰ってほしい客人があるときは、ほうきを逆さにして立てておくそうです。 帰ってほしい客人を穢れとみなし、ほうきで祓い浄めるという意味もあるでしょうが 葬式のははきもち(箒持ち)を意味しているのかもしれません。 「消えて無くなれ!(死ね!)」ということなのかも・・・ 京都の人の家に行って長居をすると、死ねというまじないをかけられますから、さっさと帰るようにしたほうがよさそうですw 箱館山に置かれていた案内板
中秋の名月の日は夜9時まで営業しています。(普段は夕方5時まで) あいにくの曇り空で月はこんな感じでちょろっと見えただけでした~ でも琵琶湖・竹生島から望む月は長年のあこがれだったので、ちょろっとだけでも見えてうれしかったです。 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/10/09 15:13]
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川原寺 彼岸花
①川原寺の謎
棚田と道路を挟んで橘寺の北側に川原寺があります。 この寺は謎の多い寺で「謎の大寺」と呼ばれています。その謎とは・・・ a.日本書紀に創建の記述がない。 b.川原寺は、飛鳥寺、薬師寺、大官大寺と並ぶ飛鳥の四大寺とされる。 平城京遷都の際、ほかの三寺は移転したが、川原寺のみ飛鳥にとどまった。 c.伽藍配置は一塔二金堂式の特異なもの(中金堂の手前右(東)に五重塔、西に西金堂が建つ。) d.中金堂の礎石には大理石の礎石が使用されている。(寺伝は瑪瑙と記している。) e.川原寺の裏山の板蓋神社から、千数百点におよぶ塑像の断片や塼仏が発掘された。 川原寺裏山からは、20cm×20㎝ほどの板状の塼に三尊仏を浮き彫りにした三尊塼仏が大量に発掘されている。 このような例はほかにない。 仏堂の壁面を塼仏で埋め尽していたという説が有力。 川原寺 夕景②平城遷都後、興福寺が弘福寺にとってかわった?昔、梅原猛さんの「隠された十字架」の中で川原寺について述べられていたと思いますが、内容を忘れてしまいました・・・。 本は誰かに貸して戻ってこず、手元にないので、近々図書館で借りて読み直そうと思います。 ですが、インターネットをぐぐってみると、次のような内容がでてきました。 平城京移転にともない、飛鳥の三寺院(薬師寺・法興寺・大官大寺)も移転した。 薬師寺はそのまま薬師寺と称したが、大官大寺は大安寺、法興寺は元興寺と改称された。
本薬師寺跡 布袋葵 薬師寺 日の出方興寺は「法が興った寺」という意味だろうが、改称された元興寺というネーミングは「元興った寺=古びた寺」という印象で屈辱的である。 元興寺 萩
飛鳥の四大寺のうち、川原寺は移転せず、かわりに山階寺が移転して興福寺と称した。 川原寺は別名を弘福寺という。広福寺は「ぐふくじ」とよむが、「こうふくじ」とも読め、興福寺が弘福寺にとってかわったようにも思える。 興福寺 夕景「隠された十字架」にこのような内容が書かれていたように思いますので、それを参考に記されたものだと思います。 加藤優さんの「興福寺と伝戒師招請」関晃先生古希記念会編『律令国家の構造』、吉川弘文館、1989年 には次のような内容が記されているそうです。 唐で「弘福寺」が「興福寺」と改名された事例がある。奈良の興福寺は飛鳥に留まった川原寺(弘福寺)を移転・継承する意図も含まれていたのではないか。③二金堂を三金堂にグレードアップ?川原寺の伽藍配置は一塔二金堂式、2つの金堂がありました。 金堂とはご本尊を安置する建物で、一つの寺に一つの金堂が置かれるのが一般的です。 川原寺のように金堂が二つあるというのは珍しいのです。 あと珍しいケースとしては興福寺があります。 興福寺にはかつて中金堂・東金堂・西金堂の3つの金堂がありました。 川原寺(弘福寺)のかわりに奈良に移転されたのが興福寺でしたね。 川原寺(弘福寺)の二金堂をグレードアップして、興福寺は三金堂にしたのかも? 川原寺 飛鳥光の回廊2018④川原寺は橘寺と関係がある?上の地図を見ていただくとおわかりいただけるように、川原寺は橘寺と対面するように建てられています。 橘寺は聖徳太子が創建したと伝わりますが、発掘調査結果などから、天智天皇代創建の可能性が高いとされています。 そして橘寺は川原寺と対を成す尼寺として建立されたのではないかとする説が有力です。 橘寺のご本尊は聖徳太子です。 ということは、川原寺もまた聖徳太子信仰の寺であったと考えられるのではないでしょうか。 川原寺の現在の本尊は十一面観音です。この十一面観音は聖徳太子と同一視されていたのではないかと思ったりします。 (かつての川原寺の本尊は十一面観音でなかった可能性もありますが) 橘寺 彼岸花そう考えるのは、かつて京都北野天満宮の神宮寺だった東向観音寺に次のように記した石碑が建てられているからです。 「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」 天満宮とは北野天満宮の御祭神・菅原道真のことだと思います。 本地仏とは本地垂迹説からくる言葉です。 本地垂迹説とは日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うため仮にこの世に姿を現したものであるとする考え方です。 そして仏教の神が仮にこの世に姿をあらわした日本古来の神々のことを「権現」、 日本古来の神々のもともとの姿である仏教の神々のことを「本地仏」といいました。 つまり、「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」とは「菅原道真は十一面観音の生まれ変わりである」というような意味になると思います。 東向観音寺これと同じで、聖徳太子も十一面観音の生まれ変わりであるとの信仰があったのではないでしょうか。 ⑤天武天皇、川原寺を重用する。川原寺の創建については日本書紀は何も記さないのですが、天武天皇の代に川原寺が重用されたことについては記しています。 天武天皇(673年)二年 書生を集めて川原寺で一切経の書写を始めた。 朱鳥元年(686年)四月 新羅の客人を饗応するために川原寺の伎楽(舞人、楽人、衣裳)を筑紫に運んだ 朱鳥元年(686年)五月 天皇は病平癒のため、川原寺で薬師経を説かせた。 朱鳥元年(686年)六月 百官の人々を川原寺に遣わして燃灯供養を行い、盛大な斎会を設けて悔過を行った 朱鳥元年(686年)九月 親王、諸臣、川原寺に集い、天皇の御病平癒のために祈願した。 ⑥天武天皇の崩御日は本当に9月9日?天武天皇は朱鳥元年9月9日(686年10月1日)に崩御されたと記録されていますが、崩御日が朱鳥元年9月9日というのはちょっと怪しいと思います。 9月9日は重陽の節句です。 唐で624年に記された芸文類聚には、「魏 の文帝が鍾馗へ菊花を贈った」という記事があるそうです。 当時の日本は大陸から大勢の人がやってきていますし、遣唐使も派遣していますから、9月9日が重陽の節句であることを知っている人がいたのではないでしょうか。 重陽の節句に関係するものとして、菊滋童の伝説が伝えられています。 菊滋童とは菊の葉についたしずくを飲んで、不老長寿を得た童のことです。 天武天皇は崩御されましたが、天武天皇の魂は永遠に生き続けますようにという願いをこめて、この日を崩御日としたのではないかと思ってしまいます。 法輪寺 菊滋童の像⑦天武天皇の病の原因は聖徳太子の怨霊の祟り?それはともかく、朱鳥元年に川原寺で行われた数々の行事は、天武天皇の病回復を祈るものだと考えられます。 ということは、天武天皇の病回復を聖徳太子に祈ったということになるのではないでしょうか。 また、これが正しいとすると、なぜ天武天皇の病回復を聖徳太子に祈ったのでしょうか? ④に「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」とは「菅原道真は十一面観音の生まれ変わりである」というような意味だと書きましたが 菅原道真は怨霊として有名です。 怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、疫病や天災は怨霊のしわざでひきおこされると考えられていました。 そこで怨霊が祟らないように神として祀られました。 このような例はほかにも井上内親王、早良親王など多数あります。 すると聖徳太子もまた怨霊である可能性が濃厚です。 梅原猛さんは「聖徳太子の子孫は全員蘇我入鹿に攻められて斑鳩寺(法隆寺)で首をくくって死んでいる。そのため聖徳太子は怨霊として畏れられた」との旨を語っておられました。 もしかして、天武天皇の病は聖徳太子の怨霊のしわざであると考えられ、それで川原寺(聖徳太子の本地仏を祀っていた?)を重用したのかも? 「聖徳太子よ、あなたを神としてたたえます。なのでどうぞ、お許しください!」 大聖将軍寺 神妙椋樹⑧天武天皇即位は聖徳太子の血筋が絶えることによって実現した?https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%A8%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87より引用 聖徳太子は31代用明天皇の第二皇子で、母親は29代欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女でした。 しかし用明天皇崩御後、用明天皇の異母弟の32代崇峻天皇が即位、崇峻天皇崩御(蘇我馬子に殺害されました。)後は用明の同母妹の33代推古天皇が女帝となり、聖徳太子は推古天皇の摂政となりました。 推古天皇崩御後、聖徳太子の第一皇子である山背大兄王か、田村皇子(舒明天皇)のいずれに皇位継承させるかでもめましたが、田村皇子が即位して34代舒明天皇となりました。 のち、山背大兄王は蘇我蝦夷蘇我入鹿に攻められ、一族とともに法隆寺(斑鳩寺)で首をくくって死んでしまいました。 こうして聖徳太子の血筋は絶えてしまいました。 法隆寺 月舒明天皇崩御後は舒明天皇の皇后で敏達天皇の弟・茅渟王の娘の35代皇極天皇(斉明天皇は同一人物)が即位しています。 言葉で説明するとややこしいですが、ウィキペディアの表を見ると、皇位継承の系統において、用明天皇―聖徳太子ー山背大兄王の流れが不幸な形で途切れ、 その結果、それまでは日の目をみることがなかった舒明天皇の流れへ移行したように見えます。 35代皇極天皇は36代孝徳天皇(皇極天皇同母弟)崩御後、再び皇位について37代斉明天皇となります。 斉明天皇には舒明天皇との間に、中大兄皇子と大海人皇子があり、中大兄皇子が38代天智天皇、大海人皇子が39代天武天皇となって舒明天皇の流れでの皇位継承が続いていきます。 そういうわけで天武天皇は血筋の絶えてしまった用明天皇ー聖徳太子―山背大兄皇子らの祟りを恐れていたんだったりして? ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/10/01 10:35]
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