奈良県明日香村 橘寺 飛鳥光の回廊 彼岸花祭 2018 9月22日、23日 ①仏頭山橘寺は聖徳太子生誕の地で、聖徳太子創建の寺と伝わります。 橘寺の山号は仏頭山といいます。 お寺の後ろに写っている山が仏頭山です。 ②千の仏頭が現れた伝説。 橘寺にはこんな伝説があります。 あるとき聖徳太子が3日間にわたり勝鬘経(しょうまんきょう)の講義を行うと、不思議なことがおきました。 蓮の花が庭に降り積もり、仏頭山に千の仏頭が現れ光り輝いたというのです。 推古天皇はこれにたいそう驚かれて、この地に寺を建てるようにと聖徳太子に命じました。 そこで聖徳太子が橘の宮を寺と改めました。
仏頭といえば思い出すのが興福寺所蔵で、もと山田寺にあったとされる仏頭です。 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Buddha_Head_Yamadadera.JPG https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/08/Buddha_Head_Yamadadera.JPG よりお借りしました。
作者 匿名Unknown author [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で仏頭とはみほとけの頭部のことです。 体から切り離された頭部って気持ち悪いですねえ~。 しかも、その仏頭の数は千も仏頭山に現れたというのです。 ③千の仏頭は聖徳太子に子孫の霊のドクロ?聖徳太子の子孫は、蘇我入鹿に責められて山背大兄王以下、全員斑鳩寺(法隆寺)首をくくって自害しています。 千の仏頭とは、首をくくって自害した聖徳太子の子孫の霊のドクロなのではないでしょうか。 聖徳太子の子と孫は大勢いましたが、千人は大すぎです。誇張は当然あるでしょう。 ④ドクロの神に杓子を奉納する?以上のような内容を、以前の記事・ 橘寺 彼岸花と芙蓉 『千のドクロが現れた山』 に書いたのですが 今回、再び橘寺を訪れて、本堂に願い事を書いた杓子がたくさん奉納されているのに気が付きました。 杓子を奉納する習慣で有名なのは多賀大社です。 多賀大社門前にある『多賀や』さん多賀大社の近くにある胡宮神社は多賀大社の奥の院ともいわれています。 胡宮神社多賀大社は胡宮神社や胡宮神社の「胡」という漢字と関係が深いと考えられます。(意味なく神社の名前をつけたりはしないでしょう。) この胡宮神社の「胡」という漢字を漢和辞典で調べてみたところ、次のように記されていました。 ①獣のあご。垂れ下がった顎の肉。 ②くび ③なんぞ。なに。いずくんぞ。 ④いのちがながい。としより。おきな。 ⑤とおい。はるか。 ⑥えびす。北方の異民族の名。 ⑦昔の中国で、外国から渡来したものをいう。 ⑧祭器。 ⑨でたらめのこと。 ⑩ほこの首。ほこの先に曲がってわきに出たもの。 角川漢和中辞典(昭和51年 161版)より。
④いのちがながい。としより。おきな。
とありますが、多賀大社は延命にご利益があると信仰されています。 ⑥えびす。北方の異民族の名。 ⑦昔の中国で、外国から渡来したものをいう。
日本にとって蒙古は外国からやってきた異民族です。 多賀大社=胡宮神社=胡の神を祀る神社=異民族の神をまつる神社 ②くび
多賀大社には杓子(しゃもじ)をお供えする習慣があります。 多賀大社の門前で糸切餅を販売している『多賀や』さんの看板も杓子です。 なぜ多賀大社に杓子をお供えする習慣があるのでしょうか? 多賀大社=胡宮神社=胡の神を祀る神社=首(ドクロ)の神を祀る神社 という発想から杓子が奉納されたのではないかと思います。 杓子って人間の頭部と首を連想させる形をしているではありませんか。 仏頭山橘寺はドクロの神をまつる神社なので、杓子を奉納する習慣があるのだったりして? ③弓で弾く楽器を胡弓というのはなぜ?
胡弓という楽器があります。 三味線に似ていますが、三味線と違って弓で弾きます。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E5%BC%93#/media/File:Playing_on_Samisen,_Yokin_and_Kokin.jpg 動画お借りしました。動画主さんありがとうございます!四角い箱に柄がついたような形をしていて、杓子に似ていますね。 また胴体から切り離した頭部(首・ドクロ)にも似ています。 それで胡弓という名前がつけられたのではないでしょうか。 琉球には胡弓(クーチョー)という楽器がありますが、やはり弓で弾きます。 琉球の胡弓は昔は椰子の実を割って胴にしていたというので、日本の胡弓よりさらに頭部(首・ドクロ)のイメージに近いです。 さらに、擦弦楽器を総称して胡弓と呼ぶこともあり、明治初期にはバイオリンのことも胡弓といっていたようです。 つまり弓でひくものが胡弓であり、似たような形をしていてもバチで弾いて音を出す三味線には胡という漢字は用いられないのです。 これはなぜでしょうか? それは弓でひくことに、首を刀などで切断しているイメージがあるからではないでしょうか? 中国の楽器・二胡も弓で弾き、「胡」の文字が使われていますね。  多賀大社名物の糸切餅の3本の線は、蒙古の旗をデザインしたものだと言われていますが、本当は胡弓の3本の弦をイメージしたものではないでしょうか。 糸切餅は現在は三味線の弦で切っていますが、もともとは弓の弦で切っていました。 弓は弓でも、矢を放つ弓ではなく、胡弓の弓で切っていたのではないでしょうか? 多賀大社 『糸切餅は胡弓をデザインしたものだった?」 ミシャグジはオシャモジとも呼ばれて信仰されている神で、諏訪地方では白蛇の姿をしているとか、タケミナカタや洩矢神と同一神ともされています。 シャモジを奉納する習慣がある神社はたくさんあり、中には咳にご利益があるとされているところもあります。 それはミシャグジ→御石神→石→セキ→咳という語呂合わせだと思います。  上は大阪四天王寺にある「咳の地蔵尊」ですが、「石の地蔵尊」から語呂合わせで「咳の地蔵尊」となったのではないかと思います。 この四天王寺はやはり聖徳太子が創建した寺です。 もしかしたら聖徳太子はドクロの神と信仰されていたのかも? ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/09/26 13:31]
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※上賀茂神社・・京都府京都市北区上賀茂本山339 ※烏相撲・・・9月9日 午前10時より(確認をお願いします。) 上賀茂神社の烏相撲の写真をとるのはokなんですが、子供相撲の写真をインターネットにあげるのは禁止とのことでした。 そこで無謀にも自分でイラストを描いて風景と合成してみたんですが、笑えるほどへたくそな絵ですね~。 見苦しくてすいません!①重陽ってなあに?陰陽道ではすべてのものは陰陽両面をもつと考えます。 例えば数字では、奇数は陽、偶数は陰の数字としています。 古代中国では、1月7日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日は、「陽(月)+陽(日)=陰」になるとして避邪の行事が行われていました。 1月7日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日は五節句といわれ、お祝いをしたりしますが、もともとは避邪の行事だったんんですね~。 特に9は一桁の奇数としては一番大きな数であるために「陽の極まった数」と考えられ、「陽の極まった数の重日」ということで「重陽」と呼ばれていました。 日本においても宮中では「観菊の宴」などが開かれ、盛大にお祝いされました。 烏相撲を見つめる斎王代②重陽と烏相撲その重陽の日、上賀茂神社では烏相撲が行われます。 なぜ、重陽の日に相撲が行われるのでしょうか? ①で次のように書きました。 a.陰陽道ではすべてのものは陰陽両面をもつと考える。 b.数字では奇数は陽、偶数は陰。 性別を陰陽で考えると、男性が陽、女性が陰となります。
かつては女相撲などもあったそうですが、上賀茂神社の烏相撲は男(陽)と男(陽)が取り組みを行うというもので、これはまさしく重陽となります。 そういうわけで、重陽の日に烏相撲を行っているのではないかと私は思います。 法輪寺 重陽神事虚空蔵法輪寺の重陽神事では菊滋童の舞が奉納されますが、菊滋童は古代中国・周の穆王の寵愛を受けていた少年です。 その菊滋童は穆王の枕を超えた罪で流罪になったという伝説があるのですが、これは穆王と菊滋童がBLの関係にあったということでしょう♥ 男である穆王と男である菊滋童が重なるのですから、重陽ですね。 重陽の節句が「菊の節句」と言われるのも、イミシンですね~♥(菊は男色の象徴) ③烏相撲は上賀茂神社の親神である松尾の大山咋神に見せるために行われている。「烏相撲は上賀茂神社の親神である松尾の大山咋神に見せるために行われている」といわれています。  松尾大社つまり、松尾大社のの御祭神・大山咋神は上賀茂神社の御祭神・別雷命の父神様だということですね。 こんな伝説があります。 ある日川から丹塗りの矢が流れてきました。 玉依姫がこれを持ち帰り、枕元に置いて寝るとやがて妊娠し、別雷命が生まれました。
上賀茂神社の御祭神は別雷命で、下鴨神社の御祭神が玉依姫と賀茂健角身命で、玉依姫と賀茂健角身命は夫婦神とされます。 丹塗り矢の正体は賀茂健角身命といういことですね。 で、この玉依姫の父親が松尾大社のの御祭神・大山咋神だというのですね。 三本脚の八咫烏は賀茂健角身命の神使とされます。④紀名虎と藤原良房の相撲によるバトル松尾大社は②でお話しした虚空蔵法輪寺(重陽神事で菊滋童の舞が奉納される。)と近い場所にあります。 松尾大社は秦氏の氏神ですが、虚空蔵法輪寺がある付近にかつては三光明星尊を祀る葛野井宮(かずのいぐう)があり、秦氏は葛野井宮を尋ねてこの地にやってきたと伝わります。 虚空蔵法輪寺は秦氏と関係のある寺である可能性が高いです。 そして、この虚空蔵法輪寺には紀氏の母親を持つ惟喬親王の伝説が伝えられています。 平安時代、この寺に惟喬親王が籠もったとき、虚空蔵菩薩が惟喬親王にうるしの製法を授けたというのです。 「なんで紀氏の母親を持つ惟喬親王?秦氏じゃないの?」って? 秦氏創建と伝えられる伏見稲荷大社はもともと紀氏の神を祀る神社であったのを、秦氏が土地を奪ったといわれ、今でも紀氏の氏神を祀る藤森神社の祭では伏見稲荷大社に乗り込んで「土地返せ、土地返せ」とはやし立てるそうです。 松尾大社・虚空蔵法輪寺のあるあたりも、もともと紀氏の土地だったのが、秦氏に奪われたのかも? 藤森神社もしそうだとしたら、オモシロイことになります。 文徳天皇には紀静子との間に惟喬親王が、藤原明子との間に惟仁親王(清和天皇)がありました。 平家物語などに、紀静子の父・紀名虎と藤原明子の父・藤原良房が、いずれの孫を皇太子にするかで対立し、高僧の祈祷合戦・相撲などを行った結果、藤原良房が勝利したと書かれているのです。 紀名虎は847年に亡くなっており、惟仁親王(清和天皇)が生まれたのが850年なので、これは史実ではなく、フィクションなのですが。 「烏相撲は上賀茂神社の親神である松尾の大山咋神に見せるために行われている」といわれてることを思い出してください。 紀名虎または惟喬親王は、松尾の大山咋神とイメージが重ねられているのではないでしょうか。 つまり、烏相撲は、紀名虎または惟喬親王に、世継ぎを決める相撲で、あなた方は負けたんだよ、ということを思い出させるために行われているのかも? 烏相撲を見つめる斎王代
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[2018/09/21 17:51]
京都の祭 |
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京都市西京区 大原野神社 御田刈祭 9月9日
①伊勢物語 小塩の山「伊勢物語 小塩の山」に大原野神社を舞台としたこんな話があります。 むかし、二条の后のまだ春宮のみやすん所と申しける時、氏神にまうで給ひけるに、このゑづかさにさぶらひけるおきな、人々のろくたまはるついでに、御くるまよ りたまはりて、よみたてまつりける。 大原や をしほの山も けふこそは 神世のことも 思ひいづらめ (昔、二条の后が、まだ東宮の御息所と申しあげていた時、藤原氏の氏神である大原野神社に参詣されましたが、この近衛府に勤めていた翁が、お供の人々が禄を賜る機会に、御息所の御車から賜って、詠み奉った歌。 大原の 小塩の山も 今日はまさに 神代のことを 思い出していることでしょう。)
②中宮になった藤原高子
「二条の后」とは人臣初の摂政となった藤原良房の養女で藤原基経の妹の藤原高子のことです。 藤原高子は866年、25歳で8歳年下の当時17歳の清和天皇に入内しました。
「春宮の御息所と申しける時」というのは、「藤原高子(二条の后)が『春宮の御息所』と呼ばれていたとき」という意味です。 高子は868年に清和天皇の皇子・貞明親王(のちの陽成天皇)を産みました。 貞明親王は生後3か月で皇太子となり、876年に即位しています。(陽成天皇) 高子が『春宮の御息所』と呼ばれていたのは、陽成天皇が皇太子であった869年から876年です。 高子は877年に皇太夫人・中宮となっています。
③皇后・中宮になりたいという望みをかなえてくれる大原野神社
「氏神」は藤原氏の氏神をまつる神社のこと。 藤原氏の氏神を祀る神社は奈良の春日大社などいくつかありますが、ここでは大原野神社をさします。
大原野神社は皇后・中宮になれますようにと祈願する神社で、祈願がかなえられると行列を作ってお礼まいりをする習慣がありました。 藤原高子は自分が中宮になれる可能性が決定的になったことで、大原野神社に参拝をしたのでしょう。
④高子と業平のスキャンダル
近衛づかさにさぶらひける翁とは、877年に右近衛権中将になった在原業平のことだと考えられています。 高子が大原野神社を参拝したのは、876年~877年ごろのことでしょうか。
さきほど「高子は25歳で清和天皇に入内した」と書きました。 25歳というのは当時としては晩婚です。 その理由としては高子と在原業平のスキャンダルが関係しているともいわれます。
「伊勢物語 芥川」では、業平と高子が駆け落ちをする様子が記されているのです。
「駆け落ちの途中、高子は鬼に食われてしまった」と記されていますが、実は高子は兄の藤原基経に連れ戻されたのです。 これを業平は地団太をふみ、泣いてくやしがったとあります。
⑤業平は高子の清和天皇入内を阻むため駆け落ちをした?
情熱的な恋の物語? 私はそうではないと思います。 高子は業平のことを愛していたと思いますが、業平はそうでもなかったのではないかと思います。
その理由は古今和歌集の詞書に次のようにあるからです。
五条の后の宮の西の対にすみける人に、本意にはあらで物言ひわたりけるを、
これは「五条の后(仁明天皇の后、藤原順子)の宮の西側の建物に住んでいる人(藤原高子のことだと考えられています。)に、業平は本気ではなかったのだが通っていたが」という意味になります。
業平はなぜその気もないのに高子のもとへ通い、駆け落ちまでしたのでしょうか?
⑥業平は自分の子供を産ませるのが目的で、高子に近づいた?
業平と高子は駆け落ちをしているところから、高子が産んだ貞明親王(のちの陽成天皇)は業平の子ではないかとする説があります。 そして百人一首の絵札の、弓矢を背負う業平の姿は陽成天皇を守る姿であるという話を聞いたこともあります。
業平がその気もないのに高子のもとへ通っていたのは、清和天皇に入内する予定の高子を妊娠させるのが目的だったのでは? 高子が産んだ子は清和天皇の皇子とされるはずです。 そしてその皇子は将来皇太子となり、天皇となる可能性がきわめて高いです。  これはうちにある古い百人一首かるた。私の年より古いです。 子供のころ、お正月によく百人一首かるたをしたり、坊主めくりをしたりして遊びました。⑦天皇の孫なのに、臣籍降下した在原業平
在原業平の祖父は平城上皇、父親は阿保親王でした。 ところが平城上皇は嵯峨天皇と対立して挙兵し、敗れてしまいました。(薬子の変) このため、平城上皇は出家し、阿保親王は連座したとして大宰府に流罪となります。 10年以上たち、ようやく阿保親王は許されて京に戻りました。 そして阿保親王は自分の子供(在原行平・業平ら)の臣籍降下を願い出て許されています。 阿保親王は自分の子供たちを臣籍降下させることによって、反逆する気持ちがないことを示そうとしたのではないでしょうか。 ⑨業平は平城上皇の竜田川の歌をふまえて「ちはやぶる・・・」の歌を詠んだ?百人一首にもある在原業平の有名な歌といえば ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは(在原業平)
ですが 龍田川の紅葉については、業平の祖父・平城上皇も歌に詠んでいます。 龍田河 もみぢみだれて 流るめり 渡らば錦 なかや絶えなむ(平城上皇)(龍田川の上を紅葉が乱れて流れている。私が渡ると紅葉の錦がちぎれてしまうだろう。) 祖父(平城上皇)と孫(在原業平)がどちらも龍田川の歌を詠んでいるのは、偶然なのでしょうか。 そうではないと私は思います。 業平は平城上皇の龍田川の歌を受けて、自分も龍田川の歌を詠んだのだと思います。 平城上皇は竜田川を皇位継承の血筋に喩えているのではないでしょうか。 そして自分が薬子の変をおこしたため、私の子孫は皇位につくことができないということを「錦 なかや絶えなむ」と呼んだのだと思います。 業平の 「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」の歌は平城上皇の歌を受けて詠まれたものだと思います。 「平城上皇が薬子の変を起こしてちぎれてしまった皇位継承の血筋が、貞明親王(のちの陽成天皇)が皇太子になったことによって括られた。こんなことは神代にもなかったことだ」と業平は詠んだのだと思います。  竜田川
⑩「神代のこと」とは政権交代を意味している?大原や をしほの山も けふこそは 神世のことも 思ひいづらめ/在原業平
この歌は「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」と関連付けて鑑賞するべきだと思います。
先ほど私は「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」の歌の意味は 「平城上皇が薬子の変を起こしてちぎれてしまった皇位継承の血筋が、貞明親王(のちの陽成天皇)が皇太子になったことによって括られた。こんなことは神代にもなかったことだ」という意味ではないか、と書きました。
「神代にもなかった(神代も聞かず)」なのか、はたまた「神代のことも思ひいづらめ」ということは「神代にあった」のか、どっちなんだという感じですが
謀反人となった人がその後皇位についたとか、神の最上位についたという話はないと思います。(間違ってたら教えてね~) でも、政権交代はあったと思います。
天皇家は万世一系といいますが、実は万世一系ではないと私は考えています。
初代神武天皇が日向から東征して畿内入りするより早く、物部氏の祖神・ニギハヤヒが畿内には天下っていたと記紀には記されています。 ここから、畿内には神武以前、物部王朝があったとする説があります。
ニギハヤヒは別名を天照国照彦火明櫛玉饒速日命といい、本当の天照大神とはニギハヤヒではないかとする説があります。 http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7 上記、アンサイクロペディアは初代天皇を天照国照彦天火明櫛玉饒速日としています。 アンサイクロペディアってすばらしい!
それはさておき、奈良・大神神社の御祭神・大物主神は別名を倭大物主櫛甕魂命といいます。 天照国照彦火明櫛玉饒速日命と倭大物主櫛甕魂命は櫛と玉(魂)が同じなので、同一神だとする説があり、私はこれを支持しています。
三輪山
肩野物部氏の本拠地である大阪府交野市・枚方市あたりには神殿のない神社がいくつかあります。(星田妙見宮・磐船神社・片埜神社の境外社・瘡神社など) そして大神神社にも神殿はなく、拝殿から直接ご神体の三輪山を拝するという祭祀スタイルです。 神殿を持たない祭祀スタイルは物部氏の祭祀スタイルではないかと思うのです。
で、初代神武天皇の皇后が大物主の娘のヒメタタライスケヨリヒメです。 神武天皇は物部王朝の入り婿になることで、物部氏より政権を奪ったのではないでしょうか。 古代エジプトでも、王家の女性と結婚した男が王になったケースがあったといいますが、これと同様のことが古の日本でもあったのではないかと思えます。
神武天皇以前の神代にも、同様のことがありました。 天照大神の孫のニニギが葦原中国に天下り、芦原中国のオオヤマツミの娘・コノハナサクヤヒメと結婚しています。 ニニギは高天原から葦原中国へやってきてコノハナサクヤヒメと結婚したのですから、ニニギも入り婿になったということでしょう。
さらにその後、ニニギの子の山幸彦は竜宮に行き、海神の娘の豊玉姫と結婚しています。やはり入り婿ですね。
ニニギや山幸彦の話は別国にいって、別国の王国の入り婿となって、政権を奪うという話ではないでしょうか。 そしてそれらの神話は、神武が物部王朝の入り婿となって政権を奪ったことを、神代に投影した物語のように思えます。
そして業平が詠った「神世のこと」とは、ニニギまたは山幸彦の「入り婿になって政権交代しよう作戦」のことではないかと思えます。
業平は入り婿になったわけではありませんが、高子に自分の子供を産ませることによって、自分の子孫が皇位につく。 これは政権交代といってもいいでしょう。
磐船神社 拝殿より直接御神体の天の磐船を拝します。
●陽成天皇の父親が在原業平であることがばれた?皇太子となった貞明親王は9歳で即位して陽成天皇となります。 そして高子の兄の藤原基経が摂政となりました。 ところがどうも陽成天皇の父親が業平であることが基経にばれたみたいですね。 私がこう思うのは、陽成天皇が源益を殴殺したといて退位させられているからです。 基経は陽成天皇の叔父です。 仮に陽成天皇が源益を殺したというのが本当でも、甥が天皇であるということは基経にとってメリットが大きいはずなので 普通なら事件をもみ消すんじゃないでしょうか。 さらに基経と高子は実の兄妹でありながら大変仲が悪かったとされます。 これらは陽成天皇の父親が業平であることが、高子の兄・藤原基経にばれたのだと考えると辻褄があうように思えます。 また、高子は東光寺の座主善祐と密通したという疑いをかけられて、皇太后を廃されていますが、これも兄基経に事の次第がばれた結果、ありもしない疑いをかけられた可能性が大だと思います。 そしてその後、陽成天皇の子孫が皇位につくことはありませんでした。 こうして業平の計画は失敗に終わってしまったのです。 八坂神社 かるた始め ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/09/19 20:11]
京都の祭 |
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愛媛県松山市 道後温泉 道後温泉本館 ①白鷺伝説道後温泉の冠山から、約3000年前の縄文中期の土器・石鏃(せきぞく/石のやじり)が見つかっており、 道後温泉は日本最古の温泉ではないかともいわれています。 伝説によれば、足を傷つけた白鷺が足を湯に浸したところ、たちまち傷が治って飛び立っていき、これを見ていた村人が温泉を発見したといいます。 道後温泉本館 ②下呂温泉にもあった白鷺伝説あれっ?どこかで聞いた話だなあ? そうそう、下呂温泉にも白鷺の伝説があるんでした。 下呂温泉は天歴年中(947~957年)に温泉が湧き出たとされますが、1265年、温泉が出来なくなってしまいました。 翌年、飛騨川の河原に白鷺が舞い降りると、再び温泉が湧き出るようになりました。下呂温泉 花火 『源義平の狒々退治伝説』 道後温泉本館 道後温泉本館 ③他にもあるある、温泉の白鷺伝説調べてみたら、ほかにも同様の伝説がたくさんありました。 白鷺温泉 | 愛知県 | 傷ついた白鷺が湯に浸かって傷を癒すのを見た人によって発見された。 | 山中温泉 | 石川県 | 奈良時代、行基が発見した。 文治年間長谷部信連が鷹狩にやってきた際、白鷺が芦の間の流れに傷脚を洗うのを見て発見し, 12件の湯宿を開いた。 | 片山津温泉 | 石川県 | 1653年、大聖寺藩二代藩主、前田利明が柴山潟に鷹狩りに訪れた際、 水面に水鳥が群れていたのを見て湖底の温泉を発見した。 | 和倉温泉 | 石川県 | 漁師の夫婦が七尾湾の沖合で、傷ついた足を癒す白鷺を見つけたことから発見された。 | 湯涌温泉 | 石川県 | 718年、紙漉き職人が泉で白鷺を見つけたことから発見された。 | 白山中宮温泉 | 石川県 | 泰澄が谷川で傷ついた白鳩を見つけたことから発見された。 | 粟津温泉 | 石川県 | 718年、泰澄が白山大権現のお告げに従って掘ったところ温泉が湧き出た。 | 山代温泉 | 石川県 | 725年、行基が白山へ修行に向かう途中、八咫烏が羽の傷を癒すのを見て発見した。 | 有馬温泉 | 兵庫県 | 神代、大己貴命と少彦名命が三羽の傷ついた烏が傷を癒すのを見て発見した。 |
表では石川県が多いですが、 全部の温泉を調べたわけではないので、たまたまネットでぐぐった結果見つかったのが石川県の温泉だったという可能性が高いです。 道後温泉本館 ④白鷺のほか、白鳩や白山大権現、八咫烏、烏の温泉伝説もある。白鷺のほか、白鳩や白山大権現、八咫烏もありますね。そのほかの動物の温泉伝説もありました。 那須温泉 | 栃木県 | 舒明天皇の御世(629-641)、狩野三郎行広が射損じた鹿が湯につかって傷を癒していたことから発見された。 | 熊の湯温泉 | 長野県 | 熊が傷を癒した。 |
「ほかの温泉にも鳥や動物にまつわる伝説があるよ」と言う方、ぜひご一報いただければうれしいです。 ⑤温泉につかる動物たち実際、猿や熊は温泉につかるようです。 動画お借りしました。 動画主さん、ありがとうございます! 鹿も温泉に入るんでしょうか?鹿が池を泳いだり、ぬたばで泥にまみれている映像は見たことがありますが。 また、鷺や烏はどうでしょうか? 私は見たことないんですが、見たよ~、という方おられますか? ⑥鹿は謀反人の比喩夢がないことを言うようで申し訳ありません。 動物が温泉につかることを否定するわけではありませんが(実際、猿や熊は温泉につかる。) 温泉伝説に登場する、白鷺・烏・鹿・熊などは比喩だと思います。 まず、鹿ですが、これは謀反人の比喩だと思います。 日本書紀に『トガノの鹿』という物語があり、鹿とは謀反人を比喩したものであるとする説があるのです。 雄鹿が『全身に霜がおりる夢を見た。』と言うと雌鹿が『霜だと思ったのは塩であなたは殺されて塩が振られているのです。』と答えました。 翌朝猟師が雄鹿を射て殺しました。 時の人々は『夢占いのとおりになってしまった』と噂しました。 (トガノの鹿)
大仏殿 鹿
鹿の夏毛には白い斑点がありますね。それを塩に見立てたのでしょう。 謀反の罪で殺された人は塩を振られることがあり、 鹿とは謀反人の象徴なのではないかというのです。
那須温泉は舒明天皇の御世(629-641)、狩野三郎行広が射損じた鹿が湯につかって傷を癒していたことから発見されたといいます。
この舒明天皇は当時の実力者・蘇我蝦夷の後押しを受けて即位したのですが、このことで、聖徳太子の長子である山背大兄王は皇位につくことができず、643年に蘇我入鹿の軍に攻められて斑鳩寺(法隆寺)で一族とともに首をくくって亡くなっています。 山背大兄王の死亡年は643年で、舒明天皇の御代に亡くなったわけではありません。 しかし、山背大兄王の死は、舒明天皇即位と関係があるので、舒明天皇の御代に鹿(=謀反人=山背大兄王)として、山背大兄王の霊を登場させたのではないでしょうか。
⑦鳥は死んだ人の霊をあらわす?
記紀に鳥たちがアメノワカヒコの葬儀をする様子が描かれています。 また「ササキ」という鳥がいますが、これに「御」をつければ「ミササギ(陵/丘の形をした大きな墓)」となります。 鳥には死のイメージがあります。
また巨大な前方後円墳は地上から見たのではその全体像が把握しにくいです。 空高く飛ぶ鳥の目線からなら、その形は容易に認識することができるでしょう。
巨大な前方後円墳は鳥の目線を意識して作られていると思います。 昔の人は「死んだ人の魂は鳥になって空に向かう」と考えたのではないでしょうか。
死んだヤマトタケルが白鳥になって飛び立ったという伝説もあります。
この白鳥とはスワンのことではなくて、白い鳥の事だと言われています。 するとヤマトタケルが変身したのは、温泉伝説に登場する白鷺・白鳩の可能性が大です。
つまり、温泉は死んだ人の霊によって発見されたという意味ではないかと思うのです。
それにしても、白鷺(白鳥)が見つけた温泉と、烏(黒鳥)が見つけた温泉があるのはなぜでしょう? 坊ちゃん列車 松山城
おまけ
高松駅 いしづち 岡山駅 アンパンマン列車※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/09/16 23:46]
愛媛県 |
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岡山県真庭郡 湯原温泉
湯原ダム
③山陰地方の伝説はたたら製鉄にまつわるものが多い?山陰地方の伝説について、こんな説があります。 a.スサノオが退治した八岐大蛇は 山間の谷沿いのあちこちで行われていた野だたらの炎の比喩ではないか?b.吉備津彦が退治した温羅という鬼はたたら製鉄に従事する人をあらわしているのではないか? これはそのとおりだと思います。 上の写真は奈良薬師寺の花会式ですが、鬼が燃え盛る松明をゆすぶって火の粉をまき散らしています。 また、このあと毘沙門天が登場しますが、毘沙門天とはもとはクベーラという地下の財宝を守護する神、鉱山の神です。 薬師寺にはブロンズの薬師三尊像がありますが、薬師寺の鬼はこの薬師三尊像を鋳造する人々を表しているのではないでしょうか。 鬼とは製鉄鋳造に従事する人のことをさしているように思えます。 ②「ドジョウすくい」は「土壌すくい」だった?
cドジョウすくいの様をあらわす安来節は、実は砂金とりの比喩である。 金は普通の砂に比べて思いので、ザルに砂をすくって川の中でゆすると、重い金がザルの底に残ります。 もしかしたら「どじょう」は「土壌」で「土壌すくい」なのかもしれませんね。 鼓橋③鉄穴流し湯原を流れる旭川流域ではかつてたたら製鉄に用いる砂鉄が採取されていたそうです。 http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/saguru3-3.html上記に次のような内容が記されています。 ・かつて旭川は頻繁に洪水を起こしていた。 ・その原因のひとつは砂鉄を採取するための鉄穴流し〈かんなながし〉である。 ・鉄穴流しとは、山を崩して土砂を水路に落とし、それを流下させることで比重の軽い土砂と重い砂鉄を分離させる方法のことである。 ・採掘場からたたら場(たたら製鉄を行う場所)まで造った水路は500mから数㎞。 4、5か所に精洗場をもうけ、さらにたたら場近くには砂鉄洗い場をもうけて、そこで土砂を撹拌し、軽い土砂と砂鉄を分離させていた。 ・土中の砂鉄の量は、多くても3%程度なので、大量の土砂を川に流す結果となった。 大量の土砂によって耕作地が増えるというメリットはあったものの、旭川を氾濫させるというデメリットも生じた。 安来製作所鳥上木炭銑工場提供の鉄穴流しの操業写真が掲載されていますが、湯原の町にこんな水路とため池のようなものがありました。 もしかして、かつての鉄穴流しの跡だったりして?(未確認) 地福寺 百日紅ウィキペディアによると、江戸宝暦(1751年から1764年)年間以降より、「鉄穴流し」が行われるようになったとあります。 http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/saguru3-3.htmlしかし上記には、宝永2(1705)年に津田永忠が記した口上に、 「県北作州(美作)のたたら吹製鉄のため旭川の川床が土砂で埋まって高くなり、城下における洪水の危険性が高くなった」 とあるそうなので、鉄穴流しの歴史は宝暦よりももっと古いかもしれませんね。 さらに昔にさかのぼると、どじょうすくいのようなやり方で砂鉄を採取していたのでしょうが、この方法は大変効率が悪い。 もっと効率のいい方法ということで鉄穴流しが考案されたのでしょう。 鉄穴流しは近年まで行われていましたが、農作物の生育、飲料水、製紙・酒造・紺屋(こうや/染物屋)などに影響があるとされ、1971年の水質汚濁防止法で禁止となりました。 地福寺 百日紅④はんざき大明神
えー、話しは変わりますが湯原温泉は大山椒魚の生息地です。 大山椒魚は別名を『はんざき』といいますが、湯原温泉にははんざき大明神を祀る社もありますよ。
はんざき大明神
はんざき大明神のこんな伝説も伝えられています。
文禄時代(1593~1596)旭川上流の龍頭ヶ淵に全長10mもある大はんざきが住んでいました。 近くを通りかかった人や牛を飲み込んでしまうので、三井彦四郎という若者が大はんざきを退治しようと淵に飛び込みました。 大はんざきは彦四郎を飲み込んでしまいましたが、彦四郎は大はんざきの腹を切り開いて出てきたので無事でした。 しばらくして、夜、彦四郎の家の戸をたたき、号泣する声が聞こえるようになり、まもなく彦四郎一家は全員亡くなってしまいました。 村人たちはこれを大はんざきの祟りであるとして、はんざき大明神の祠をたてて慰霊しました。
湯原温泉には『はんざきセンター』があってはんざきを飼育していたんですが、写真撮りそびれまして(汗~) ユーチューブからお借りしました。(ありがとうございます!)
⑤はんざきの斑点は皮膚病のイメージとは言い難い~
この伝説は何を言おうとしたものなのか、考えてみました。
こんな話があります。
612年、百済から渡来したものの中に体に白斑を持つ者がおり、海中の島に置き去りにしようとした。 白斑の男はこう言って抵抗した。 「白斑が悪いというのなら、私と同じように白斑のある牛馬は飼えないではないか。 私は築山を作るのが得意で、この国のお役にたつことができます。私を海中の島に捨てるのは日本のためになりません。」 そこでこの男に須弥山の形と呉風の橋を御所の庭に築かせた。(日本書紀)
白い斑点はハンセン病を思わせます。 ハンセン病の初期症状は白または赤・赤褐色の斑点ができることです。 https://www.nippon-foundation.or.jp/what/projects/leprosy/about/
この物語に登場する百済人はハンセン病ではなく、別の皮膚病だったのかもしれませんが 皮膚病は忌まわしいものと考えられており、その結果、海中の島に置き去りにされそうになったと考えられます。
そこでもう一度、はんざきの動画を見て下さい。斑点がありますね。 はんざきの斑点はハンセン病などの皮膚病をあらわしているのか? でも白い斑点じゃないなあ~?
参照/海遊館 『じんべえさまと鹿の共通点は?』
 旭川
ハンセン病は白・赤・赤褐色の斑点ができるのでした。 なので、はんざきの黒っぽい斑点も皮膚病をあらわしているといえるかもしれないけど、ちょっとひっかかります。
古に猛威をふるった病といえば天然痘ですが、天然痘にかかると、皮膚色またはやや白色の豆粒状の丘疹が全身にできるそうで はんざきは黒い斑点なので、天然痘のイメージとは言い難いです・・・・・。
旭川
⑥はんざきは砂鉄とけら(鉄の塊)の神?
それでは、はんざきの黒い斑点は何に似ているか。・・・・砂鉄?
たたら製鉄では粘土製の炉を木炭で熱した中に砂鉄をいれて溶かします。 龍頭ヶ淵とは、このたたら製鉄の炉のことでは?
上のたたら吹きの動画の11:56あたりから見てください。 たたら吹きの最終段階では「けらだし」といって、炉を崩す作業があります。 炉を崩した中から「けら(鉄の塊)」がでてきます。
腹を割るとは炉を割る「けらだし」のことで、中から出て来た「けら」が彦四郎ではないでしょうか。 動画の12:57あたりに「けら」の映像がありますが、長細い形ははんざきの形に似ていますし、 表面がぶつぶつとした感じははんざきの斑点をイメージさせます。
彦四郎とは砂鉄を擬人化したもので、彦四郎が飛び込んだ龍頭ヶ淵とはたたら吹きの炉、 「腹を割る」とはけらだし(炉を崩す)で、その中から出て来た彦四郎とは「砂鉄がたたら吹きでけら(鉄の塊)になったもの」の比喩ではないでしょうか。
彦四郎一家が死んだというのは、けらが死んだという意味ではなく、たたら吹きにかかせない鉄穴流しによる川の汚染で、本物のはんざきが死んでしまったという意味ではないかと思います。
「はんざき」という名前は「体を半分に裂いても生きている」ところからくるともいわれていますが 「彦四郎(砂鉄)が「腹を裂いて、(けらとなって)出て来た」ところから、「腹裂き」がなまって。「はんざき」になったのかも?
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[2018/09/11 18:45]
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奈良県五條市 上野公園 五新線跡 2018年8月17日 撮影
上野公園より和歌山線を望む
①「宮中=紫薇=百日紅=100」なのに「宮中=九重=99」
サルスベリは中国南部が原産で江戸初期に日本に伝わったそうです。 中国では紫薇(しび)と呼ばれますが、唐代長安の紫微(宮廷)に多く植えられていたので、紫薇と呼ばれるようになったともいわれます。 宮廷は紫微で、植物は紫薇。草冠があるかないかのちがいですね。 日本では宮中のことを九重ともいいますね。 九重とは9つの重なりという意味であると説明されますが、 九重→九が重なる→九九(99)という意味だったりしませんかね? 法輪寺 重陽神事 『団扇は魂を呼び寄せる呪具だった』 九が重なるとは重陽のことでもあります。 9月9日はひとけたの陽の数字(陰陽道では偶数を陰、奇数を陽とする)である9が重なる日なので、重陽の節句とされています。 菊の節句ともいい、この日、菊の葉についたしずくを飲むと不老不死のご利益があるなどといわれます。 宮中のことを雲の上ともいいます。 雲の上の人は不老不死なので九重(九が重なる?)というんだったりして? 宮中=紫薇=九重(九が重なる)=99 あれっ、でも 宮中=紫薇=百日紅=100ですね? なぜ99と100で数字があわないのでしょう?? 上野公園 百日紅
②かなわなかった100日後の再会サルスベリを百日紅と書くのは、花が咲く期間が長く、100日近くも紅色の花を咲かせるためです。 で、朝鮮半島に次のような伝説があるそうです。 ある漁村には、水難をさけるため娘を竜神の生贄にする習慣がありました。 漁村を通りかかった王子は竜神を退治して娘を救いました。 王子と娘は100日後に会おうと約束して別れました。 しかし、娘は100日前に亡くなってしまいました。 娘との再会が叶わなかった王子は娘の墓の前で泣きました。 すると墓の前に2本の木が生えてきて、それぞれ赤と白の花が咲き、100日間も咲き続けました。

五條新町 百日紅
③恋する女は紫色に染まる?百日紅には鮮やかなピンク色のほか、白色、紫色などもあります。 江戸時代に日本に伝わってから、品種改良もされているので、もともとの色が何色だったからよくわからないのですが ②の伝説から察するに、赤と白はもともとあった色だろうと思われます。 またサルスベリで最もよく見かけるのは鮮やかなピンク色なので、赤といっても濃いピンク色のことを言っているのではないかと想像します。 このピンク色、紫といえなくもない? 万葉集に次のような歌があります。 紫は ほのさすものぞ 海石榴市の 八十のちまたに 逢へる子や誰 (海石榴市の辻で逢った貴女は、何というお名前ですか。) 紫色に布を染めるためには、椿の灰を媒染剤としました。 紫とは道で出会った女、灰汁は男のことで、男と目があったとたん、女がぱっと美しく瞳を輝かせた、というような意味でしょうか。 上野公園より和歌山線を望むこんな歌もあります。 紫草(むらさき)のにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに我恋ひめやも. ( 紫草の紫色のように美しいあなたのことを憎いと思っているとしたら、どうして私はあなたのことがこんなに恋しいのでしょうか。あなたは人妻だというのに)大海人皇子(のちの天武天皇)が額田王に贈った有名な歌ですね。 この2首を鑑賞すると、恋する女が美しく瞳を輝かせるようすを『紫』といっているように思えませんか? 国営ひたち海浜公園 ネモフィラ 『吸血鬼 紫女』 上賀茂神社 燃灯祭 『小松と玉箒草は夫婦和合を意味している?』 日本書紀に『トガノの鹿』という物語があり、鹿とは謀反人を比喩したものであるとする説があります。 雄鹿が『全身に霜がおりる夢を見た。』と言うと雌鹿が『霜だと思ったのは塩であなたは殺されて塩が振られているのです。』と答えました。 翌朝猟師が雄鹿を射て殺しました。 時の人々は『夢占いのとおりになってしまった』と噂しました。 (トガノの鹿)
大仏殿 鹿謀反の罪で殺された人は塩を振られることがあり、 鹿とは謀反人の象徴なのではないかというのです。 萩の別名は『鹿鳴草』といいます。なぜ萩のことを『鹿鳴草』というのでしょうか。 萩には白色の花と紫色の花がありますが、白い萩の花は塩を振ったように見えます。 また鹿の夏毛には白い斑点があり、その白い斑点もまた塩に喩えられたのではないでしょうか。 つまり、白い萩の花は謀反人=雄鹿をあらわすものだと思います。 そして紫色の花のほうは雌鹿をあらわしているのでしょう。 元興寺 彼岸花 萩 『なぜ萩の別名は鹿鳴草?』 ②の伝説に登場する白いサルスベリは王子の象徴、赤い(紫)のサルスベリは娘の象徴ではないでしょうか。 百毫寺 萩④深草少将百代通い伝説②の伝説によく似た伝説が日本にあります。 小町を慕う深草少将に小町は「百日間私のもとに通いとおしたならば、あなたのものになりましょう」と約束をしました。する。 深草少将は毎夜小町のもとに通い続けましたが、今日で100日目という雪の夜に凍えて死んでしまいました。
100日という約束が果たせずに死んでしまったという点が⓶の伝説と同じですね。 欣浄寺 小野小町・深草少将供養塔⑤深草少将と小野小町の99と100④のような伝説が残り、深草少将は99に縁の深い人dといえるでしょう。 そして小野小町は100と縁が深く、たとえば能の関寺小町では100歳の老婆として登場しています。 でも小町は100だけではなく99とも関係が深いです。 というのは、伊勢物語に「九十九髪」の段があり、次のような物語が記されているのです。 昔、色気づいた女が三人の子に「思いやりのある男にお会いしたい」と話した。 三男は「よい男が現れるでしょう」と夢判断をし、在五中将(在原業平)に頼み込んだ。 在五中将は女をかわいそうに思ってやってきて寝た。 しかしその後、在五中将は女のもとへやってこなくなり、女は男の家に行って中を伺った。 男は女をちらっとみて歌を詠んだ。 ももとせに ひととせ足らぬ つくも髪 我を恋ふらし おもかげに見ゆ (百年に1年たりない九十九歳の白髪の女が、私を恋い慕っているのが 面影に見える。) その後、男がでかけようとしたので、女は家に戻って横になった。 在五中将が女の家の前で中を伺うと、女は次のように歌を詠んだ。 さむしろに 衣かたしき こよひもや こひしき人に あはでのみねむ (狭いむしろに衣を一枚だけ敷き、今宵も恋しい人に会えずに寝るのだろうか。) 在五中将は女がかわいそうになり、その夜は女と寝た。 (伊勢物語)
※伊勢物語には単に「色気づいた女」とあるが、伊勢物語の注釈書・『知顕集)』には次のように記されている。 「このをんなは、をののこまちなり。小野小町とふ、こまちには子ありともきかぬに、三人ありといへり。いかなる人の子をうみけるぞや、おぼつかなし。」 (この女は小野小町である。小野小町に子供があったとは聞いたことがないが、三人の子がいるとしている。どんな人の子を産んだのか、はっきりしない) 九十九は「つくも」と読みますが、「つくも」とは「つぎもも(次百)」という意味だそうです。 100ひく1は99となりますが、百ひく一は白となるので九十九髪とは白髪のことだというのです。 うまい!座布団2枚! 髄心院 小野小町像⑥熊手=九十九まで、掃く(まで)=百(まで)また、俗謡で「おまえ百までわしゃ九 十九まで、共に白髪の生えるまで」というのがあります。 これは謡曲高砂の尉・姥からくるものだとされています。 尉が熊手をもち、姥が箒をもって掃いているのは、熊手=九十九まで、掃く(まで)=百(まで)という洒落だとされます。 これもうまい!座布団2枚! 亀岡祭 高砂山⑦白は男、赤(桃色?紫?)は女をあらわす。⑤に書いたように九十九は百-一=白です。 そして百は「もも」とも読み、桃色はピンク色です。 ③に「②の伝説に登場する白いサルスベリは王子の象徴、赤い(紫)のサルスベリは娘の象徴ではないでしょうか。」と書きましたが 白いサルスベリ・・・九十九(百-一=白)・・・熊手(九十 九まで)・・・尉・・・男・・・王子 赤いサルスベリ・・・百(桃色)/・・・・・・・掃く( はく=百)・・・・姥・・・女・・・娘 となって、つじつまがあってる? また九十九は奇数で陰陽道では陽の数字、百は偶数で陰の数字ですが 陰陽道では男が陽で、女が陰なので、これもつじつまがあいます。 多気山不動尊 道祖神 (日本では、道祖神はアメノウズメとサルタヒコの神像とされます。)⑧サルは王子や深草少将をあらわす?
サルスベリという名前は幹につるつるした感触があるため、猿が登ろうとしても滑ってしまうという意味だとされます。 (実際には猿はすべらず登ることができるそうです。) 登ろうとしても登れなかった猿は、100日を満たせず、恋する女性に会えなかった王子や深草少将のイメージと重なります。 そういえば、日本では、道祖神はアメノウズメとサルタヒコの神像とされていますね。 道祖神は手をつなぎ合っていますが、これはランデブーというよりも、サルタヒコがアメノウズメの手におさえつけられてるの図だと私は見ています。 というのはサルタヒコはあざかの海で貝に手を挟まれて死んだとあるのです。 貝は女陰の比喩で、サルタヒコはアメノウズメへの愛欲におぼれて死んだという意味ではないでしょうか。 この神話と、朝鮮の王子&娘、深草少将&小野小町の話は関係がありそうです。 もう少し考えてみます。 まとまりを欠く文章になってしまい、すいません! 幻の五新鉄道のはずなのに、SLが? ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/09/05 11:23]
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奈良県五條市 五條新町様々なデザインの窓や看板などがあっておもしろいです。 ※ 人物と夕焼け空は合成です。 ①花火師 鍵屋弥兵衛五條出身の人物に鍵屋弥兵衛という人物がいたそうです。 鍵屋弥兵衛は徳川家光のころ、大塔町篠原の木地師集落に生まれ、三男坊であったため五條の火薬工場に奉公に出ました。 幕府は厳しく火薬を取り締まっており、製造場所も制限していたようです。 火薬が製造されていた場所としては、ほかに家康の故郷・三河などがあります。 五條で火薬が製造されていたのは、ここを治めていた松倉重政が1616年に島原城主となって以降、五條新町が天領(江戸幕府の直轄地)となったためではないかと思います。 鍵屋弥兵衛は五條新町の火薬工場で火薬の知識を得たのち、1659年に江戸に向かい、花火師となりました。 家康は鍵屋弥兵衛など一部の花火師を保護していたともいわれていますし、上京間もなく幕府御用達の花火師になっていますので、もしかしたら家康に呼ばれて江戸に向かったのかもしれませんね。 ②花火大会の「鍵屋」「玉屋」という掛け声の由来東京の花火大会では「鍵屋~」「玉屋~」と掛け声をかける習慣があるそうですね。 そういえば江戸川花火大会に行ったときに、そういう掛け声を聞いたような気がします。 (関西ではそういう習慣はあまりないです。) 「鍵屋」「玉屋」とは、江戸時代の両国川開きの大花火で花火をあげた2件の花火屋の屋号です。 このうち「鍵屋」の創業者が初代弥兵衛こと鍵屋弥兵衛なのです! 「鍵屋」は六代目弥兵衛の代から両国川開きの大花火をはじめ、八代目鍵屋の時、番頭の清七がのれん分けしてもらって「玉屋」を開きました。 ③両国川開きの大花火は死者を弔うためのものだった。1732年にコレラが流行し、大勢の死者がでました。 このとき、死者を弔うため両国川で水神祭が、隅田川両岸の水茶屋では川施餓鬼が行われました。 そして翌年の1733年より鍵屋によって花火が打ち上げられるようになったといいます。 花火大会は死者を弔うためのものとしてはじまったということでしょう。 ④鍵屋・玉屋と稲荷信仰「鍵屋」の鍵と「玉屋」の玉。 ここから伏見稲荷大社の狐の像を思い出します。  狐の像が鍵と玉をくわえています。 実は、鍵屋・玉屋という屋号は、稲荷信仰からくるといわれています。 なんでも鍵屋は稲荷神を厚く信仰していたのだとか。 現在も伏見稲荷の門前には「玉屋」さんと言う茶店が残っており、昔は「鍵玉屋」と言う茶屋もあったということです。 https://itp.ne.jp/info/264203586300000899/ ⑤稲荷神は紀氏の神だった?そこで気になってくるのが、初代鍵屋弥兵衛生誕の地・篠原が木地師の集落だったということです。 伏見稲荷大社は 秦伊侶具なる人物が創建したと伝わりますが、これはどうやら嘘っぽいです。 もともと伏見稲荷大社がある場所には藤森神社があったのを、空海がここに伏見稲荷大社を建てたため、藤森神社は移転したというのが本当のようです。 藤森大社の祭では、氏子さんたちが神輿を担いで伏見稲荷大社に乗り込んで今でも「土地返せ、土地返せ」というのだとか。 いや、すごいお祭りですね。
また、最古の稲荷社は和歌山県糸我稲荷神社であるとも伝わります。 藤森神社は紀州(和歌山県)を本拠地としていた紀氏の神を祀るともいい、空海は紀氏の土地だけではなく神までも奪ったっぽい?
稲荷神とは紀氏の神なのではないでしょうか?

⑥木地師の祖・惟喬親王の母親は紀氏だった。
鍵屋弥兵衛が大塔町篠原の木地師集落の生まれだったということを思い出してください。
木地師の祖は平安時代の惟喬親王だといわれています。 惟喬親王は巻物が転がるのを見て、木地師が用いるろくろを発明したという伝説があります。 (実は奈良時代に木製百万塔がろくろを用いて作られているので、事実ではない。) この方の父親は文徳天皇で、母親が紀静子(紀名虎の娘)なのです。 当時、天皇に入内するのは藤原氏の女性が多かったですから、紀氏の母親を持つ親王は珍しかったのです。
文徳天皇には藤原明子(藤原良房の娘)との間には惟仁親王もありました。 文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えており、これを源信に相談しています。 源信は藤原良房を憚って文徳天皇をいさめ、その結果、惟仁親王が皇太子となっています。(のちの清和天皇)

⑦木地師は紀氏の神・稲荷神を信仰していた?
木地師の祖・・・惟喬親王・・・母親が紀静子・・・稲荷神は紀氏の神?
そういうわけで木地師は稲荷神を信仰していた、なんてことはないかな?



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[2018/09/01 16:13]
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