京都市南区 吉祥院天満宮 吉祥院六斎奉納 8月25日
世間ではボンジョヴィ音頭が流行っているようですが、吉祥院天満宮では吉祥院音頭です。さあさ、みんなで吉祥院音頭~♪①菅原氏ゆかりの土地吉祥院天満宮は平安遷都の際、菅原道真の曽祖父・土師古人(はぜのふるひと)が天皇の伴として京都にやってきて、 土地を賜って邸宅を建てた場所と伝わります。 道真の祖父・菅原清公は土師をあらためて菅原姓を名乗るようになりました。 菅原清公は802年、最澄・空海とともに遣唐使として唐にむかいましたが、その途中で嵐に遭遇しましたが、吉祥天女の霊験が菅原清公らを救ったといいます。 菅原清公は805年に帰国しました。 吉祥院六斎が始まったよ!その後、菅原清公または道真の父の菅原是善がここに吉祥天女を祭りました。 菅原道真は845年にここで生まれ、18歳までここで過ごしたと伝わります。 でも、道真生誕の地と言うのは各地にありまして~(笑) 菅原天満宮(奈良)付近、菅大臣神社(京都)付近、菅生天満宮付近(堺市)菅生寺付近(奈良𠮷野)など・・・・ 菅原道真は一体何人いたんだって感じですね~(笑) 激しいビートはまるでヘビメタ。②朱雀天皇はなぜ吉祥院天満宮を創祀したのか?菅原氏は身分が低く、身分が低いと政治家にはなれなかった時代において、菅原道真は右大臣にまでのぼりつめています。 菅原道真はよほど才能があったんでしょうね。 ところがこれに左大臣の藤原時平が嫉妬。 時平は醍醐天皇に「道真は謀反を企てている」と讒言し、道真は大宰府に左遷となって数年後の903年に亡くなってしまいました。 その後、都では疫病の流行や天災などが相次ぎ、それらは道真の怨霊の仕業であると考えられました。 道真は怨霊だったのですね~。 陰陽道では荒ぶる怨霊は十分に慰霊するとご利益を与えてくださる和魂、神に転じると考えるそうです。 そういうわけで道真は学問の神として各地の天満宮で祀られているのですね。 ノリノリですね。ここ吉祥院天満宮は朱雀天皇の勅願によって934年に創祀されたと伝わります。 朱雀天皇は道真を大宰府に左遷した醍醐天皇の皇子です。 930年、清涼殿に落雷があって、道真左遷にかかわった多くの人物が死傷しました。 醍醐天皇は道真の怨霊を恐れてノイローゼとなり、その3か月後に崩御されたとも伝わります。 そして940年には平将門の乱・藤原純友の乱がおこり、これらも道真の怨霊のしわざであると考えられました。 「道真の怨霊は醍醐天皇の皇子である私を恨んでいる!」 醍醐天皇の皇子である朱雀天皇はそう考え、道真を慰霊するため吉祥院天満宮を創祀したのではないでしょうか? ③六斎念仏の創始者は空也ではなく一遍上人?吉祥院天満宮の境内には立派な舞楽殿があり、古くからここで六斎念仏が行われていたことがうかがえました。 六斎念仏のルーツは平安時代の僧・空也の踊念仏だといわます。 951年、京で疫病が流行り鴨川は死体であふれかえるほどの惨状となったとき、空也はに自ら十一面観音を刻み、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えながら車に乗せてひきまわしたという伝説があります。 だけど、「南無阿弥陀仏」と称えるのに、空也はなぜ阿弥陀仏ではなく十一面観音を刻んだのでしょうね。 私は六斎念仏の創始者は平安時代の空也ではなく、鎌倉時代の一遍上人ではないかと考えています。 また空也とは平将門の首を聖人化したものだと思います。 詳しくは別ブログのこちらの記事をお読みください→ 土蜘蛛の謎⑲ 平将門を慰霊した時宗の僧侶たち 一遍聖絵 四条釈迦堂で踊念仏をする僧たち。 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7e/Ippen_Biography_3.jpg よりお借りしました。 作者 En'i (円伊) (Tokyo National Museum) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で ④光秀軍戦死者慰霊のための六斎念仏吉祥院天満宮の六斎念仏のおこりは、戦国時代、山崎の戦い(豊臣秀吉vs明智光秀)で光秀軍の残党がここ吉祥院で多数戦死し、その霊を弔うために始まったと言われます。 明智光秀は織田信長に仕えていましたが、上司の信長から随分とパワハラを受けていたらしい? それで明智光秀は部ちぎれて本能寺の変で、信長を自害に追いやったとされます。 このときやはり信長に仕えていた秀吉は備中に出兵していましたが、本能寺の変の知らせを聞いて引き返し光秀軍と闘ったのです。(山崎の戦い) 光秀は敗走する途中、落ち武者狩にあって亡くなったとも、自害したとも伝えられます。 亀岡光秀まつり 『愛宕百韻は光秀の信長打倒の意思表明?』 四つ太鼓⑤岩見重太郎の狒々退治京都にはたくさんの六斎会がありますが、異なる演目があったり、同じ演目であっても少しづつ演じ方がちがうのがオモシロイです。 吉祥院六斎保存会では「岩見重太郎の狒々退治」をテーマとした演目がありました。 おー、岩見重太郎! 吉祥院天満宮の旅は、かつての野里住吉神社の旅、へとつながっていきます! 野里住吉神社 一夜官女祭 『岩見重太郎の狒狒退治伝説』 岩見重太郎の狒々退治野里住吉神社の伝説にも岩見重太郎(薄田隼人正兼相)が登場していました。 岩見重太郎は小早川隆景の剣術指南役・岩見重左衛門の二男ですが、叔父の薄田七左衛門の養子となって薄田隼人と名乗るようになりました。 小早川隆景の死後浪人となり、のちに豊臣氏に仕官しました。 大坂夏の陣の道明寺の戦いにおいて陣頭指揮を取りましたが戦死しています。 岩見重太郎が狒々退治をしたという話は野里住吉神社だけでなく、各地に伝わっています。 狒々とは大きな猿のような姿をした妖怪で、人間の女性を襲うとされています。 四つ太鼓 p秀吉はその容貌から「猿」と呼ばれていましたし、たいへん女好きでした。 狒々とは大きな猿の姿をした妖怪で、人間の女性を襲うのでしたね。 狒々とは秀吉のことなのかも?と私は考えました。 思い出してください。 吉祥院は秀吉軍とたたかった光秀軍の残党が大勢戦死した場所でしたね。 そしてこれらの戦死者を弔うために始まったのが、吉祥院六斎でした。 その吉祥院六斎において、岩見重太郎の狒々退治が行われるのはなぜなんでしょうか? 野里住吉神社で考察したとおり、やはり狒々とは秀吉のことで、秀吉軍に敗れて死んだ者たちのため、狒々を退治しているのではないでしょうか? 獅子 p 土蜘蛛と獅子 p 何回撮っても難しいです~。またチャレンジします。※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/08/29 21:59]
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城下町五條新町。 涼しい風が通りを吹き抜け、ちりりんちりりんと風鈴の音が聞こえます。 この地区の建造物330棟のうち143棟が伝統的建築物に指定されていますよ! これはもう、町全体がアンティークだと言っても過言ではない! 吉野川より五條新町を望む①五條新町を作った松倉重政五條新町のもとを作ったのは松倉重政という人物です。 1600年、27歳の松倉重政は関ケ原の戦いで東軍の井伊直政隊に参加しました。 1603年、徳川家康は征夷大将軍となり、江戸に幕府を開きます。 1608年、35歳の松倉重政は関ケ原の戦いでの戦功が評価され、十市、高市、宇智郡で一万石余を拝領して大名となり、二見城(五條市二見)の城主となります。 二見城の城主となった松倉重政は吉野川沿いに新町筋を作り、この通りに面して100件弱の商家を各地から誘致しました。 誘致に際し、「諸役免許のこと」を条件としたため、多くの商家が集まり、あっという間に城下町が形成されたようです。 このとき松倉重政の誘致によって新しくできた町なので新町とよばれました。 1610年に「松倉豊後守様御免許状御墨付」なるものが新町に交付されており、「新町諸役萬是迄のことくめんきよの事」と記されているので、このときすでに新町がほぼできあがっていたことがわかります。
「松倉豊後守」とありますが、「守(カミ)」とは国司のことです。 しかし、守は名目にすぎず、実際の領地とは関係がないことが多いとのことです。 松倉重政も松倉豊後守という役職ではありますが、豊後(大分県あたり)とは関係がなく、十市、高市、宇智郡をおさめていたのでしょう。 その後松倉重政は1614年の「大坂冬の陣」・1615年の「大坂夏の陣」で戦功をあげ、 1616年、43歳の松倉重政は、島原4万3千石の城主になります。新町は天領(江戸幕府の直轄地)となりました。 御霊神社②島原城築城と過酷な税のとりたて島原には日野江城や原城がありましたが、重政は、これを廃して島原城を築城しました。(1618年築城開始。1624年完成) また、周辺に商工業者を誘致して城下町を建設しました。 城下町の町家は1,000軒に及んだといわれます。 五條新町の商家は100件程度だったので、新町の10倍もの規模の城下町だったということになりますね。 しかし、石高に対して城の規模が大きすぎ、家臣団も10万石に匹敵するものであったといいます。 江戸城馬場先門の石垣普請を命ぜられたおりも、十万石の課役を申しでて許可されています。 これらの費用の出どころはもちろん税でした。 検地を行って、領内石高を実際の倍に見積もり、非常に過酷な税をとりたてたんだそうです。 五條新町は免税にしたのに、なんで島原は重税にしたんでしょうか? 当時、大名たちの間にライバル心があったようで、そういう意識から、石高を多く見積もったり、大きな城をたてたり、無理な公儀普請役をひきうけたりということがあったといいます。 例えば、土佐山内家は10万8千石の石高なのに、20万石として幕府に申請しています。 隣の徳島蜂須賀家が淡路を加増されて25万石余になると、これに対抗して24万石と申請しましたが、 さずがに過大であるとして幕府に認められませんでした。 ③キリシタン弾圧日本にキリスト教が伝来したのは1549年、フランシスコ・ザビエルによってとされます。 キリスト教の布教は南蛮貿易と密接な関係があったといわれます。 キリスト教の宣教師派遣の際には商人たちが同行するのが常で、その利益のうちいくらかは教会に還元されるシステムになっていたのだとか。 九州の大友宗麟、大村純忠、有馬晴信氏らがキリシタン大名となったのも、純粋な信仰心からというよりは、南蛮貿易によってもうけようというスケベ心からだったのではないでしょうか。 キリシタン大名はキリスト教を保護し、教会を建てたりしたため、民衆の間にも信者が増えていきました。 1586年、豊臣秀吉は九州に出兵し、住民の強制的なキリスト教への改宗・神社仏閣の破壊・ポルトガル人が日本人を奴隷として売買しているという事実を知ります。 このとき長崎はイエズス会の所領になっていたともいいます。 このため秀吉はバテレン追放令を出しました。 1612年、江戸幕府は禁教令を出しました。カトリック教国の植民地政策を排除するのが目的でした。 1617年、家康の死後、将軍秀忠は、禁教令をさらに徹底します。 また、イギリス船とオランダ船の着岸を平戸に、ポルトガル船を長崎に制限しました。 1622年、元和の大殉教で、幕府はイエズス会司祭や日本人信者など55名を処刑しています。 島原城主の松倉重政は長崎で唐物類を購入したり、数度にわたって朱印船を出したり、1621年平戸のイギリス商館に重臣を遣わしたりしています。 そのためキリシタンについては寛容であったようですが 三代将軍徳川家光に呼び出され、「キリシタンの対応が甘ーい!」と注意を受けました。 そのため松倉重政は改宗しないキリシタンに拷問を行うようになりました。 顔に「吉利支丹」という文字の焼き籠ごてを押したり、指を切り落としたり、雲仙地獄で熱湯をかけたり、1mほどの穴の中に逆さに吊るし、穴の中には汚物を入れる・・・。 http://martyr-hall.com/jyunkyo.htmlまた税金を払えない者に対しても両手を後ろ手に縛って蓑で覆い、火をつける拷問(蓑踊り)などを行ったそうです。 宝満寺④ルソン島出兵計画、そして急死、1630年、松倉重政は長崎奉行の竹中重義とともにキリシタンの本拠地・フィリピンのルソン島(イスパニアn植民地。イスパニアはスペイン)に出兵する計画もたて、幕府に許可をえて視察のため、船をルソンに向けて出港させています。 そのあと重政は小浜温泉に立ち寄り入浴中で急死してしまいました。享年57歳。 竹中重義が刺客を放って暗殺したのではないか、という説もあります。 結局ルソン島出兵は行われなかったようです。 ⑤島原の乱その後、松倉重政の長男・松倉勝家が島原城城主となり、さらにキリシタン弾圧をすすめ、領民には重税を課しました。 1634年ごろより凶作となりましたが島原藩は救済策をとりませんでした。 1637年、ついに島原の乱がおこります。 松原勝家が江戸へ行って留守のすきを狙い、数名の代官が一揆宗に殺害されました。 一揆勢は島原城を攻めますが、落とすことはできず、原城の跡に立て籠もります。 幕府は一揆討伐軍を派遣、一揆勢は総大将の天草四郎ほか、ほとんど全員が戦死して島原の乱は終結しました。 松倉勝家は大乱を招いた責任を問われ、切腹も許されず、絞首刑となって没しました。 ⑤キリスト教弾圧・鎖国政策は日本の植民地化を防ぐためだった?
幕府は1633年に第1次鎖国令、1634年に第2次鎖国令、1635年に第3次鎖国令、1636年に第4次鎖国令を出していましたが、 島原の乱後の1639年にさらに第5次鎖国令を出して諸外国とのかかわりをほとんど絶っています。 それは当時西欧諸国が各地に植民地を作っており、秀吉は江戸幕府は日本が先進技術にすぐれた西欧諸国の植民地になることを防ごうとしたのだとする説があります。 おそらくそうだと思いますし、妥当な対応であったと思います。 ときどき西欧諸国の植民地支配をもって「西欧人は残酷で、日本人は残酷ではない」と論じる人がいますが、 松倉重政・勝家らが行った拷問を考えると、「日本人は残酷ではない」とは言い難いと思います。 またキリスト教が西欧諸国の植民地拡大政策の道具とされていたことも確かで、こういう事実をみると、宗教がいいものであるとはどうしても私には思えません。(無宗教です。) 1853年にペリーが率いる黒船が来往して、日本は開国に向けて動き出しますが、このとき尊王攘夷論がおこったのは、植民地化されたくないという思いのあらわれだったのかも? 1890年の大日本帝国憲法では宗教の自由を謳いながらも、政府は「神道は宗教ではない」という理由をつけて、神道・神社を他宗派の上位に位置づけましたが、 江戸時代初期の西欧諸国のキリスト教布教と植民地拡大政策を考えると、これも無理からぬことだったのかなあと思ったりします。 ですが「神道は宗教ではない」という理屈はどう考えてもこじつけた感が強く、二枚舌だという印象です。
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[2018/08/27 00:08]
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大阪市天王寺区 四天王寺 篝の舞楽・・・8月4日※写真は2010年に撮影したものでストロボ撮影okでしたが、現在はストロボ撮影は禁止のようです。 振鉾 ①空也は平将門の首を聖人化した呼称。聖徳太子は厩戸皇子を聖人化した呼称?少し前、教科書から『聖徳太子』という表記をなくして『厩戸王(聖徳太子)』という表記にあらためるという報道がありました。 結局『聖徳太子』の表記はなくならなかったようですが。 その理由を一言でいえば「聖徳太子という呼称は厩戸皇子の死後しばらくたって、信仰上の理由からつけられた呼称である。」ということのようですね。 前回の記事で、空也とは平将門の首を聖人化したものではないかと書きました。 涌泉寺 松ヶ崎題目踊り 『盆踊りのルーツ・踊念仏の創始者は空也ではなく一遍だった?』 空也は南無阿弥陀仏と称えながら踊る踊念仏の創始者だといわれていますが、 空也が刻んだと伝わる六波羅蜜寺の仏像は阿弥陀仏ではなく十一面観音で不自然です。 踊念仏の創始者はその後六波羅蜜寺にやってきて踊念仏を行った一遍だと考えたほうが自然だと思います。 将門の首は京の鴨川のほとりで晒されたのち、飛び上がって生まれ故郷の東国をめざしたという伝説があります。 空也忌は空也が亡くなった日ではなく空也が東国へ旅立った日とされていますが、それは空也が将門の首を聖人化したものであり、 「空也が東国へ旅立った」とは「鴨川のほとりで晒されていた将門の首が東国へ向かって旅だった」という意味だと考えるとつじつまが合うと思います。 これと同様、聖徳太子とは厩戸皇子を聖人化したものだということですね。 打毬楽②聖徳太子が厩戸皇子を聖人化したものだとする説の理由ネットでぐぐってみたところ、次のような理由がでてきました。 a.厩戸皇子の生没年は574年~622年だが、聖徳太子という呼称がでてくるのは720年に編纂された日本書紀以降である。 b.聖徳太子が制定したと伝わる憲法十七条に『国司』という言葉がでてくるが、この時代に『国司』という言葉があったかどうか疑問。(この時代の文献に国司という言葉が使われていないということだと思います。) c.憲法十七条の記述は日本書紀にしかない。 d.隋書によると俀(倭/日本のこと)は600年と607年に遣隋使を派遣してきたと記している。 このときの天皇は女帝の推古天皇(在位593~628年)で、593年より聖徳太子を摂政としていた。 しかし日本側の記録には600年の遣隋使の記録はない。 随書では俀王の姓は阿毎、字は多利思北孤、号は阿輩雞彌と記している。 e.三経義書は聖徳太子がまとめたとされるが、同じ内容のものが中国にある。また、後世の引用がある。 f.聖徳太子は推古天皇の摂政だったとされるが、聖徳太子の時代、摂政という役職はない。 g.冠位十二階は中国・朝鮮半島にも同様の制度がある。 当時の日本は積極的に中国・朝鮮半島より先進技術を取り入れていたので、中国・朝鮮の制度を導入したと考えるのが妥当。 聖徳太子には多くの伝説があります。 い.同時に10人の人が言うことを理解した。 ろ.南嶽慧思の生まれ変わりである. は.飛ぶ馬に乗って富士山に行ったなど。 憲法十七条や冠位十二階・三経義書はこれら多くの聖徳太子伝説の中のひとつということでしょう。 い・ろ・はのような伝説はあまりに超人的で信じられないので、誰もが伝説だと認識していると思います。 しかし憲法十七条や冠位十二階・三経義書などは伝説っぽくないため、史実であると錯覚してしまったのだと思います。 ③自虐史観や反日ではない。教科書から聖徳太子の表記をなくすということについては反対意見が多いですが、その理由は、これを自虐史観・反日であると考える人が多いからのようですね。 しかし、a~eの理由を読んでみると、厩戸皇子の死後しばらくしてから彼が聖人であるとの信仰が生じ、そこから憲法十七条や三経義書と聖徳太子が結び付けられたと考えるのは妥当なように思えます。 歴史は人文科学なので、妥当だと思われる考え方のほうを正しいとするべきで、愛国心とは切り離して考えるべきでしょう。 また信仰と史実はわけて考えるべきだと思いますので、『聖徳太子が憲法十七条や冠位十二階を作った』とはやはり言い難いように思えます。 単に『日本は憲法十七条をや冠位十二階を導入した』と書くのが、史実としては正しいように思えます。 聖徳太子が憲法十七条や冠位十二階を作ったのではなくても、日本がユニークで素晴らしい国であることは何も変わらないと思いますし かえって厩戸皇子を聖徳太子と呼び、1000年以上たった今でも彼を偲び続けている日本人の精神に感動させられます。 蘇利古(顔には紙に顔を描いた雑面をつける。聖徳太子のめざめを慰める供養舞とも伝わる。)④天武天皇が自らの血筋の正当性を示すために厩戸王を聖人化した?さて、なぜ厩戸皇子は信仰され、聖徳太子と呼ばれたのでしょうか。 https://toyokeizai.net/articles/-/118796?page=3上記の記事には次のような内容が記されています。 厩戸王没後50年ほどたったとき、壬申の乱がおこって天武天皇が即位した。 天武天皇は天皇中心の中央集権律令国家をつくるため、厩戸王を聖人化した聖徳太子像をつくりあげた。 ライバルである有力豪族に対し、神代からつづく自らの血筋の正当性と日本の統治者であるという正当性を示そうとした。うーん、私はこの意見には賛同できません。 なぜかというと、天武天皇は聖徳太子の親戚だとはいえますが、直接の血はひいていないからです。 天武天皇が自らの血筋の正当性を示すなら、父親の舒明天皇か、祖父の押坂彦人大兄皇子あたりを聖人化するべきではないでしょうか。 天武天皇と聖徳太子の系図を簡単に書くと次のようになります。 欽明天皇ー用明天皇ー聖徳太子 欽明天皇ー敏達天皇ー押坂彦人大兄皇子ー舒明天皇(母親は斉明天皇)ー天武天皇
蘇莫者 聖徳太子は飛鳥と天王寺の間を愛馬「甲斐の黒駒」に乗って往復していたが、あるとき大和川の亀の瀬で、太子が洞簫(どうしょう/中国古代の尺八)を吹いたところ、老猿(信貴の山神)が現れて笛の音に合わせて舞った。これを舞楽にしたものと伝わる。
⑤梅原猛さんの聖徳太子怨霊説それよりも、梅原猛さんの聖徳太子怨霊説のほうが聖徳太子聖人化の理由としてはしっくりくると思います。 聖徳太子が建てたと伝わる法隆寺の夢殿は、開扉すると大地震がおこると伝えられ、長年あけられたことがありませんでした。 1908年フェノロサが夢殿の扉をあけたところ、聖徳太子等身大の像と伝わる救世観音がでてきたのですが、布でグルグル巻きにされフランケンシュタインのような状態でした。 また、光背が頭に直接釘で打ち付けられていました。(一般的には足元にたてた棒に光背をつける。) これらは怨霊封じ込めの呪術であり、梅原さんは聖徳太子は怨霊であったと説かれました。 法隆寺 救世観音 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:GUZE_Kannon_Horyuji.JPG https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e8/GUZE_Kannon_Horyuji.JPG 作者 Tokyo Bijutsu Gakko [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、疫病の流行や天災は怨霊の仕業でひきおこされると考えられていました。 聖徳太子の子孫は蘇我入鹿に攻められて全員斑鳩寺(法隆寺)で首をくくって自殺しました。 つまり聖徳太子の血筋は絶えてしまったわけで、それで聖徳太子は怨霊になったのではないかと梅原さんはおっしゃっています。 井沢元彦さんは、「先祖の霊はその子孫が供養・慰霊するべきなのに、聖徳太子の子孫は絶えてしまったので怨霊になったのではないか」とおっしゃっています。 そして陰陽道では荒ぶる怨霊は十分に慰霊するとご利益を与えてくださる和魂になると考えていました。 そこで怨霊である聖徳太子を祀りあげ、和魂となったものを聖徳太子と呼んだのではないかというのです。 また聖徳太子の命日の法要である聖霊会で舞われる蘇莫者とは「蘇えること莫(な)き者」という意味で、舞を舞う山神は聖徳太子の怨霊ではないかとしておられます。
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[2018/08/22 18:23]
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大阪市福島区海老江 淀川花火大会・・・2018年8月4日
今年は海老江から撮影しました。 ①海老江と言う地名は海老洲からくる?かつてこのあたりは海で海老州と呼ばれており、そこから海老江という地名になったとわれます。(大阪府全志) 海老州?えびす?えべっさん? 海老洲の洲は中州(川の中の土砂が積もって島のようになった所)や島を意味します。 海老洲とは『海老の島』とか『海老のとれる島』というような意味なのかな? ②エビの腰はなぜ曲がったか?海老といえば、下記サイトに「まんが日本昔ばなし」の「エビの腰はなぜ曲がったか」という話が掲載されていました。 http://nihon.syoukoukai.com/modules/stories/index.php?lid=201伊勢参りに出発した大きなカエルが夜道の上で寝ましたが、それは道ではなく大きな蛇の背中でした。 カエルはびっくりして逃げていきました。
次にその大蛇が伊勢参りに出発し、途中日陰で休んだところ、それは大きな鷲の陰でした。 蛇は、鷲の羽ばたきで遠くへ飛ばされてしまいました。 その鷲も伊勢参りに出発し、海に浮かぶ赤い棒に止まって休みました。 ところがそれは大きな伊勢エビのヒゲで、鷲は振り落とされてしまいました。
伊勢エビが伊勢参りに出発し、途中海の中の穴で休みました。 その穴はクジラの潮吹き穴で、伊勢エビは潮とともに吹きあげられ、岩の上に落ちて腰を打ち、腰が曲がってしまいました。
③カエル・蛇・鷲・伊勢エビ・クジラは神使
物語にはカエル・蛇・鷲・伊勢エビ・クジラが登場しますが、これらの動物は全部神の使いだと思います。
奈良県吉野郡の龍王院(脳天大神)には狛蛙があります。
滋賀県竹生島の都久夫須麻神社には神蛇の像があります。
天日鷲神(あめのひわしのかみ)を祀る千葉県我孫子市久寺家の鷲神社には狛鷲が置かれているそうです。
またクジラはエビスと呼ばれることがあり、大漁をもたらす神として信仰されています。 クジラがエビスと呼ばれるのは七福神の恵比寿(蛭子・戎)の神使だと考えられたためでしょう。
④清水型千手観音は伊勢エビを擬人化したもの?
エビは?
私の友人いわく、清水型千手観音は伊勢エビを擬人化したものではないか、とのことです。
http://www.kiyomizudera.or.jp/read/%E7%A7%98%E4%BB%8F-%E5%8D%81%E4%B8%80%E9%9D%A2%E5%8D%83%E6%89%8B%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E7%AB%8B%E5%83%8F ↑ こちらの清水寺さんのサイトに写真があります。
清水型千手観音は二本の腕を高く上方にあげているのが特徴です。 この上方にあげた二本の腕と、胸前で合掌する二本の腕を比較してみてください。
上方にあげた腕のほうは、筋肉や脂肪がまったくついておらず昆虫的ですね。 この腕は伊勢エビのヒゲではないかと言うのです。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:PanulirusJaponicus.jpg?uselang=ja よりお借りしました。
確かに手(脚)の付き方なども、清水型千手観音に似ています!
カエル・蛇・鷲・伊勢エビはすべて神の使いなので、最高神・天照大神を祀る伊勢神宮をめざしたのでしょう。 最後にでてきたクジラは伊勢神宮を参拝したのでしょうか?これについては記述がありませんね。
⑤海老と恵比寿と蝦夷
クジラのことをエビスと呼ぶことがあると書きましたが、エビもエビスと関係がありそうに思えます。
エビとエビスは音が似ていますし、もとは海老洲と呼ばれていた海老江は兵庫県西宮市に近いです。 西宮の西宮神社はえびす神社の総本社ですね。
また清水寺は780年に坂上田村麻呂が自邸を本堂として寄進したと伝わりますが、坂上田村麻呂は797年に征夷代将軍となって東北の蝦夷を平定しています。
蝦夷は「えみし」と読みますが、蝦夷と書いて「えびす」とも読みます。 蝦夷=恵比寿?
そして清水寺のご本尊・清水型観音は「伊勢エビ」に似たお姿をしており、蝦夷や蛭子を表したもののようにも思えます。
海老州は恵比寿信仰と関係のある土地なのかも?

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[2018/08/15 14:52]
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滋賀県犬上郡 多賀大社 万灯祭・・・8月5日
異形の者たちのカーニバルが始まった! ①弓の弦で切って作る糸切餅 ↑ 多賀大社門前にある『多賀や』さん。 『糸切餅の看板が目をひきますね。 糸切餅は長く引き伸ばした米粉のお餅を三味線の弦で切って作ります。 もともとは三味線の弦ではなく、弓の弦で切っていたそうです。 それで糸切餅というんですね。 糸切餅の起源は約700年前の「蒙古襲来」にまで遡ると言われます。 1274年と1281年の2度にわたり、蒙古(モンゴル帝国)が日本にせめて来ました。 しかし神風が吹いて、蒙古は撤退しました。 その後、人々は蒙古が撤退したのは神のご加護があったからだと考えて、多賀大社にお供え物をしました。 その中に糸切餅があったということです。 赤と青の三本線は蒙古軍旗を模したものなのだとか。 それはともかく、「弓の弦で切っていた」と聞いて私は心臓バクバク状態に! その理由とは? ②多賀大社の奥の院『胡宮神社』の『胡』とはどういう意味?多賀大社の近くにある胡宮神社は多賀大社の奥の院ともいわれています。 胡宮神社多賀大社は胡宮神社や胡宮神社の「胡」という漢字と関係が深いと考えられます。(意味なく神社の名前をつけたりはしないでしょう。) この胡宮神社の「胡」という漢字を漢和辞典で調べてみたところ、次のように記されていました。 ①獣のあご。垂れ下がった顎の肉。 ②くび ③なんぞ。なに。いずくんぞ。 ④いのちがながい。としより。おきな。 ⑤とおい。はるか。 ⑥えびす。北方の異民族の名。 ⑦昔の中国で、外国から渡来したものをいう。 ⑧祭器。 ⑨でたらめのこと。 ⑩ほこの首。ほこの先に曲がってわきに出たもの。 角川漢和中辞典(昭和51年 161版)より。
④いのちがながい。としより。おきな。
とありますが、多賀大社は延命にご利益があると信仰されています。 ⑥えびす。北方の異民族の名。 ⑦昔の中国で、外国から渡来したものをいう。
日本にとって蒙古は外国からやってきた異民族です。 多賀大社=胡宮神社=胡の神を祀る神社=異民族の神をまつる神社 日本では古来より怨霊を神として祀る習慣がありました。 たとえばスサノオはもともとは恐ろしい流行り病をもたらす疫神なのですが、厄病除けの神として信仰されています。 つまり、疫神であるスサノオに「私を疫病にかからないようにしてください」と拝むわけです。 これと同じように、異民族である蒙古がせめてきたとき、異民族の神・多賀大社の神様に「異民族である蒙古より我々を守ってください」と祈ったのではないでしょうか。 ②くび
多賀大社には杓子(しゃもじ)をお供えする習慣があります。 多賀大社の門前で糸切餅を販売している『多賀や』さんの看板も杓子です。 なぜ多賀大社に杓子をお供えする習慣があるのでしょうか? 多賀大社=胡宮神社=胡の神を祀る神社=首(ドクロ)の神を祀る神社 という発想から杓子が奉納されたのではないかと思います。 杓子って人間の頭部と首を連想させる形をしているではありませんか。 ③弓で弾く楽器を胡弓というのはなぜ?
胡弓という楽器があります。 三味線に似ていますが、三味線と違って弓で弾きます。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E5%BC%93#/media/File:Playing_on_Samisen,_Yokin_and_Kokin.jpg 動画お借りしました。動画主さんありがとうございます!四角い箱に柄がついたような形をしていて、杓子に似ていますね。 また胴体から切り離した頭部(首・ドクロ)にも似ています。 それで胡弓という名前がつけられたのではないでしょうか。 琉球には胡弓(クーチョー)という楽器がありますが、やはり弓で弾きます。 琉球の胡弓は昔は椰子の実を割って胴にしていたというので、日本の胡弓よりさらに頭部(首・ドクロ)のイメージに近いです。 さらに、擦弦楽器を総称して胡弓と呼ぶこともあり、明治初期にはバイオリンのことも胡弓といっていたようです。 つまり弓でひくものが胡弓であり、似たような形をしていてもバチで弾いて音を出す三味線には胡という漢字は用いられないのです。 これはなぜでしょうか? それは弓でひくことに、首を刀などで切断しているイメージがあるからではないでしょうか? 中国の楽器・二胡も弓で弾き、「胡」の文字が使われていますね。 ④糸切餅は胡弓の弓で切っていた?ここで糸切餅のデザインを思い出してください。 胡弓には弦が3本あります。糸切餅の3本の線は、蒙古の旗だと言いますが、本当は胡弓の3本の弦をイメージしたものではないでしょうか。 そして、糸切餅は現在は三味線の弦で切っていますが、もともとは弓の弦で切っていたのでしたね。 弓は弓でも、胡弓の弓で切っていたのではないでしょうか。 これが正しければ、糸切餅の起源は蒙古襲来よりも、時代が下って江戸時代ではないかなと思ったりします。 というのは、胡弓が歴史上に登場するのは江戸時代なので。 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/08/14 14:35]
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大阪市阿倍野区 あべのハルカスより PL花火大会・・・8月1日
最初の花火が打ち上がった瞬間、花火の小ささに、あべのハルカス展望台に集まった人々から失望のため息がもれました。 花火が打ち上げられる富田林からあべのハルカスはかなり離れていますもんね。 でも私は大阪の夜景の中に浮かびあがる花火が見たかった! aikoさんの「夏の星座にぶら下がって 上から花火を見下ろして~♪」的な風景じゃないですか? 私的には大感激の風景でした♪ ①花火の色は金属の炎色反応でつくられる。江戸時代、花火の色はオレンジ色しかなかったそうですが、最近は赤・青・黄・緑・紫などカラフルになっています。 この花火の色はどうやって作るのかと疑問に思って調べてみたところ、次のサイトが見つかりました。 https://global.canon/ja/technology/kids/mystery/m_04_11.htmlそれによると花火の色は金属の炎色反応の違いによるもののようですね。 リチウム・・・・・・・・・ローズナトリウム・・・・・・・・黄色カリウム・・・・・・・・・紫ルビジウム・セシウム・・・青カルシウム・・・・・・・・オレンジストロンチウム・・・・・・赤バリウム・・・・・・・・・水色銅・・・・・・・・・・・・緑 ②花火に用いられるセシウム・ストロンチウムには放射性はない。むむむ? セシウム・ストロンチウムというのは理数系に弱い私にも聞き覚えが。 そう、これらは原発事故のときに問題となった放射性物質ですね。 ですが、調べてみると花火に用いられているストロンチウム88は放射性はないということです。 問題なのはストロンチウム89、ストロンチウム90で、これらは原子力発電や原爆などでウランやプルトニウムが核分裂する際に生じるのだとか。 セシウムもセシウム133は放射性ではなく、セシウム135、セシウム137が放射性で危険だということです。 花火にセシウムが用いられているかどうか、調べてみましたがわかりませんでした。 しかし、セシウム135、セシウム137も原子力発電や原爆などでウランやプルトニウムが核分裂する際に生じるものだということなので もし花火にセシウムが用いられていたとしても、それはセシウム133で放射性はないということになると思います。 ③花火には放射性物質のカリウム40が含まれている。ですが、どうやら花火に放射性物質は含まれていそうです。それはカリウム40です。 通常のカリウムはカリウム39で、これには放射性はありません。 しかしカリウムの0.012パーセントはカリウム40という放射性物質で、自然界に存在しているとのこと。 そしてカリウム1gあたり、31ベクレルの放射能が観測されるそうです。 打上げ花火の原料として過塩素酸カリウム、硝酸カリウムが使用されています。 カリウムの0.012%はカリウム40で、花火が打ち上げられるごとに放射性物質であるカリウム40が空中にばらまかれるわけです。 ④放射線の核種は問題ではない。問題なのは放射線の種類とエネルギー?
原発事故後、福島でつくられた花火の打ち上げ反対の声があがり、中止となったことがありました。 これに対して、花火が打ち上げられるごとに放射性物質のカリウム40がばらまかれている。 福島で作られた花火に放射性物質のセシウムがついていたとしても問題ではないとする意見がありました。 カリウム40は自然に存在しますが、セシウム137は自然には存在しません。 しかし放射線の核種は問題ではなく、放射線の種類とエネルギーが問題で、 セシウム137よりカリウム40の方が1割ほど強力な放射線を放出しているというのです。 ⑤食品にも含まれるカリウム40https://blog.goo.ne.jp/lynmiu_2011/e/bd87a6f2679ae3986239749daabcddee↑ 佐倉市議会議員・伊藤とし子さんのブログに「食品とくらしの安全12月号」から引用した食品に含まれる放射性カリウムの量が掲載されていました。 バナナ 109ベクレル/kg ホウレンソウ 210ベクレル/kg ジャガイモ 125ベクレル/kg きざみ昆布 2492ベクレル/kg 大豆 73ベクレル/kg 精白米 27ベクレル/kg 豚もも肉 106ベクレル/kg そしてやはり「食品とくらしの安全12月号」からの引用として、次のような内容が記されています。 い・人体中のカリウム量は一定なので、カリウムを豊富に含む食品を食べても、余分なカリウムは体内から排出される。 ろ・原発からでた放射性ストロンチウムは骨に蓄積して、白血病や骨がんを増やし、放射性セシウムは膀胱がんを増やす。 また遺伝病が増加する。 ⑥同じ放射性物質でも性質が異なれば危険度も異なる。http://peacephilosophy.blogspot.com/2012/09/blog-post_19.html ↑「矢ケ崎克馬氏の警告」には、さらに詳しい内容が記されていました。 理数系は苦手なのでわからないところもあるのですが、理解できたことをまとめておきます。 (リンク先文章を読んでいただくのが一番いいんですが) い.セシウムは原子が集団をなす状態で身体に入る。カリウムは、個々別々の単一原子で存在する。 そのため、一つの細胞を再打撃する確率はセシウムが高く、カリウムは低い。 ろ.尿中のセシウム濃度が高いと特異な膀胱炎の発症率が高いことが報告されている。 カリウム40は特異な膀胱炎は発生していない。 は.セシウムに被曝すると、血液やリンパ液中だけでなく、臓器の中にセシウムが取り込まれる。 臓器に取り込まれたセシウムは排出され難く、体液(血液、リンパ液)中のセシウムだけが排泄される。 カリウムは体内にある全量が排泄される。 に.事故を起こした原発から放出されたのは放射性微粒子で、ヨ ウ素、ストロンチウム、プルトニウム、ウラニウム、その他、たくさんの種類の放射性原子が放出されたが、測定されたのはセシウムだけ。 ほ.カリウム原子の約1万分の1に放射能があり、放射性原子だけが集合していることはない。 カリウム40原子は「ベータ線を1本出す」または「ガンマ線を1本出す」のどちらかで、放出する放射線は1本だけである。 また、それぞれの放射性カリウム原子は遠く離れているので、被曝領域が重なることはない。 へ.セシウムの微粒子からは、一つの原子からベータ線とガンマ線の2本が同時に放出される。 この放射線放出は、1原子当たりカリウムの倍。 かつ被曝はカリウム放射線と重なるために、局所的被曝が高密度になる。
と.打撃を受ける細胞にとっては、一度打撃を受けた細胞が修復する過程で第2の打撃が加わるかどうかが、大きな危険度の指標となると言われる。(最近の分子生物学、あるいはECRRの主張)。
ち. 電離(放射線の作用)は分子を切断する。 人は全身の細胞数がおよそ60兆個。カリウムが1日で分子切断をもたらすその数は、おおよそ1細胞当たりで0.1個の程度。 それに対し、セシウム137のベータ線が届く範囲の半径1㎝球内での分子切断は、1細胞当たり100個程度となる。

⑦感情的にならず、冷静な議論を。
このように両方の意見を聞いてみると、専門家ではないので断言はできないのですが、⑤の意見より、⑥の矢ケ崎克馬氏の意見のほうが正しいように思えますが
⑤の意見の人と、⑥の意見の人が同じテーブルについて冷静な議論をすることが望ましいと思います。
http://www.asyura2.com/16/genpatu45/msg/640.html
上のサイトのコメントを読んでも、攻撃的なものが目立ちます。
こういう議論をする際に攻撃的になるのは、「自分が正しい」と主張したいからだと思いますが 議論というのはやみくもに勝っても意味がないんですよ。 意味があるのは「何が正しいのかを明らかにすること」です。 なので議論に負けるということは、「自分の考えが間違っていた」ことを知ることができたということで、本当は負けたほうがおトクなんです。
攻撃的な態度では、自分が間違っていた場合、それを認めることができなくなるのではないかと心配になってしまいます。
合成してみたけど・・・ちょっとやりすぎたかな?(汗)
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[2018/08/07 12:07]
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