京都市左京区 下鴨神社 みたらし祭 土用の丑のころ
 ①「土用の丑」って何?陰陽五行説では世の中全てのものは、木火土金水の5つの組み合わせで成り立つと考えます。 季節では、春=木、夏=火、秋=金、冬=水と考えられていました。 季節は4つなので、木火土金水のうち土が余ってしまいますね。 土は季節の交代をスムーズにするものと考えられ、各季節の最後の18~19日間を『土用』として均等に割り振られました。 本来、土用は夏だけではなく、すべての季節にあるのです。 陰陽五行説には『相生説』と『相克説』があります。 『相生説』とは、五行が対立することなく、木火土金水の順で、五元素が順送りに相手を生じていくという説です。 『木生火』・・・・・・木は摩擦により火気を生ずる。 『火生土』・・・・・・火は燃焼して灰(土)を生ずる。 『土生金』・・・・・・土は金属を埋蔵している。 『金生水』・・・・・・金属は表面に水気を生ずる。 『水生木』・・・・・・水は植物(木)を育てる。 『相剋説』は五行同士が相互に反発し、木火土金水の順で、五元素が順送りに相手を剋していくとする説のことです。 『木剋土』・・・・・・木は土中の栄養を奪う。 『土剋水』・・・・・・土は水の流れをせきとめる。 『水剋火』・・・・・・水は火を消す。 『火剋金』・・・・・・金属は火に溶ける。 『金剋木』・・・・・・金(斧など)は木を切り倒す。 『土用の丑』の習慣については、様々な説がありますが、『水剋火』、すなわち夏の火性を冬の水性で緩和しようとするのが『土用の丑』の習慣だと考えてまず間違いないと思います。 ②冬の食べ物を食べることは、夏の火性を冬の水性で緩和すること? 夏の『土用の丑』に鰻を食べる習慣がありますが、本来、鰻の旬は冬なのです。 そのため経営不振に陥った鰻屋に、平賀源内が『本日、土用の丑』と書いた紙を店先に貼るようにアドバイスしたというエピソードは有名ですね。 その結果、鰻は飛ぶように売れたということです。 冬の食べ物である鰻を夏に食べるということは、夏の火性を冬の水性で緩和することだといえるでしょう。 平賀源内のキャッチコピーは当時の人々に陰陽五行説の『水剋火』を思い起こさせる効果があったということだと思います。 ③ 御手洗祭はみたらし星の祭?神前には『素麺』とともに『みたらし団子』が供えられていました。 また境内の出店でもは『みたらし団子』が売られていました。 どうやらこの『みたらし団子』と『御手洗(みたらし)祭』には関係があるようです。 下鴨神社のみたらし団子については次のようないわれがあります。 後醍醐天皇が、下鴨神社の境内の御手洗池で水をすくうと、泡が1つ浮き上がりました。 その後、しばらくして4つの泡が浮き上がってきました。 みたらし団子はこの水玉を模したもので、 一番上の団子は人間の頭を、他の四つは体を現しているといわれます。私は上記のみたらし団子のいわれよりも、オリオン座の三ツ星がかつての日本では『みたらし星』と呼ばれていたことが気になります。 オリオン座の三つ星は三つ星の傍に小さい星があって、本当は三つ星ではなく四つ星なのです。 みたらし団子の伝説の、あとで浮き上がってきた四つの泡はみたらし星をあらわしているのではないかと思います。 そしてこれが肝心なのですが、オリオン座は冬の星座で、陰陽五行説では水性になります。 このオリオン座の三つ星を模したみたらし団子を食べることで、夏の火性を緩和しようとするのが『みたらし祭』の意味だと思います。 素麺は天の川ではないでしょうか。参照/ 枚方市穂谷 コスモス 『そうめんは天の川を模したものだった?』 足を水につけるのは、足と書いて『たらし』とよみ、『みたらし星』と音が通じるからではないかと思います。 ですが、なぜか御足祭ではなく、御手洗祭と書きますね。 なぜなんだろう? ④住吉明神はみたらし星の神?大阪の住吉大社は現在では海の神として信仰されていますが、もともとは『みたらし星』の神だったのではないかとする説があります。 みたらし星とはオリオン座の三ツ星のことで、真東からのぼって真西に沈むので航海の指標とされていました。 海の神とはみたらし星の二次的な神格なのではないでしょうか。 住吉大社住吉大社の境内には同じ大きさ、同じ作りの社が四つあり、そのいずれもが本宮とされています。 奥から、底筒男命 (そこつつのをのみこと)を祀る第一本宮、中筒男命 (なかつつのをのみこと)を祀る第二本宮、表筒男命 (うわつつのをのみこと)を祀る第三本宮、第三本宮の東が神功皇后=息長足姫命 (おきながたらしひめのみこと)を祀る第四本宮となっています。 その社の配置がみたらし星の配置に似ているというのです。 住吉大社の第四本宮は14代仲哀天皇の皇后・神功皇后=息長足姫命 (おきながたらしひめのみこと)をお祀りしています。 もしかして、第一本宮、第二本宮、第三本宮に祀られている底筒男命・中筒男命 ・表筒男命とは、12代景行天皇(おお たらしひこおしろわけのすめらみこと)、13代成務天皇(わか たらしひこのみこと)、仲哀天皇( たらしなかつひこのすめらみこと)のことなのではないでしょうか? 景行天皇・成務天皇・仲哀天皇は和風諡号に「たらし」とあるところから、「タラシ王朝」などともよばれます。 みたらし星は御手洗星と記されるようですが、本当は御足星または三足星という意味で、タラシ王朝を象徴するものだったのかも? そういえば御手洗祭は、御手洗といいますが、水に足をつけて身を浄めますね。 下鴨神社の御祭神・賀茂健角身命の神使は三本脚の八咫烏だとされています。 八咫烏が三本脚なのは、三人のタラシ王朝の天皇、12代景行天皇(おお たらしひこおしろわけのすめらみこと)、13代成務天皇(わか たらしひこのみこと)、仲哀天皇( たらしなかつひこのすめらみこと)の象徴だからだったりして? つまり、賀茂健角身命=景行・成務・仲哀=八咫烏、ということで、 下鴨神社で御手洗祭を行っているのは、賀茂健角身命=景行・成務・仲哀=八咫烏の慰霊という目的があるのかも? ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/07/31 12:36]
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[2018/07/29 21:34]
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奈良県川上村 不動窟鍾乳洞
※鍾乳洞内はレタッチで色をつけてみました。 ①鍾乳洞は黄泉の国
鍾乳洞入口前に神像(着物着てるのでたぶん神像かな?)と不動明王が。 さあ、鍾乳洞へ入ってみましょう~! 役行者さんがお出迎え。 鍾乳洞内の温度計は14度でひんやりしていますが、湿度が高いのと、洞窟内をすすむのにハラハラドキドキしちゃううせいか、結構汗かきました。 かがまないと通れない天井の低い場所も。 頭打たないように注意。(友人は頭ぶつけて1cmほどの傷つくってました~。) あっ、筍だ! と思いましたが、薬師如来と書いてあります。洞川温泉 面不動鍾乳洞 『鍾乳洞は黄泉の国?』 ↑ こちらの記事にも書いたんですが、私は黄泉の国とは鍾乳洞のイメージだと考えています。 イザナギは妻・イザナミに会うため、黄泉の国へ行きました。 そしてイザナギはイザナミに「愛しい妻よ、帰ってきておくれ」と訴えます。 イザナミは「黄泉の大王に相談してくるので、その間決して私の姿を見ないでくださいね」と言いました。 しかし、イザナギは我慢できなくなって振り返り、イザナミの姿を見てしまいます。 イザナミの体は腐り、ウジが湧いていました。 恐ろしくなったイザナギは慌てて逃げ帰ろうとしました。(サイテー!) イザナミは怒り(当たり前やん~)黄泉醜女(よもつしこめ)に追いかけさせました。 イザナギが髪につけていた黒いカズラ(蔓=ツル植物)を取って投げると、みるみるうちに成長して山ブドウの実がなりました。 黄泉醜女たちは山ぶどうを食べはじめ、その間にイザナギは逃げました。 しかしまたしても黄泉醜女たちが追いかけてきたので、イザナギが右のミズラ(角髪)に挿していた櫛の歯を折って投げると、筍が生えてきました。 黄泉醜女たちは筍を食べ始め、イザナギは黄泉平坂まで逃げました。「イザナギが黒い蔓を投げつけると山ぶどうになった」とありますが、山ぶどうとはケイブパールを比喩的に言ったものだと思います。(不動窟鍾乳洞にはケイブパールはありませんでした。) 動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。また、「イザナギが櫛の歯を折って投げると筍が生えてきた」とありますが、筍とは石筍のことではないでしょうか。 「せいたかどうじ」とあるのは「制多迦童子」のことでしょう。 不動明王の眷属ですよ。 上は不動窟鍾乳洞前のお堂に祀られていた不動明王・制多迦童子・ 矜羯羅童子(こんがらどうじ)像です。 向かって左が制多迦童子です。②三途の川とスティクス、どちらも渡し賃が必要 轟音をとどろかせながら地下を流れる川!これはまさしく三途の川ではありませんか! (本当は不動の滝。三途の川と呼ばれている川も別にありますが、ビジュアル的にこっちのほうが三途の川っぽく思えたので。)ギリシャ神話に登場する冥界にもステュクス、アケローン、コーキュートス、レーテー、ピュリプレゲトーンという川が流れているとされます。 ステュクス・・・憎悪、嫌忌の川。 アケローン・・・嘆息、悲嘆の川、もしくは沼。 コーキュートス・・・号泣の川 レーテー・・・忘却の川。 ピュリプレゲトーン・・・火が燃える川。 龍死者が川を渡るための舟があり、この舟の船頭をカローンといいます。 この舟に乗るためには舟代として、カローンに1オボロス(約6円から10円くらい)を支払わなければなりませんでした。 そのため、ギリシャでは死者の口の中に舟代をいれる習慣があったといいます。 日本にも死者が三途の川を渡る際の渡し賃として、棺桶の中に六文銭を入れる習慣がありました。 あれ?日本とギリシャってちょっと似てる? 花立て花瓶
③ギリシャ神話・日本神話に共通する「冥界で振り返ってはいけない」ギリシャ神話には冥界にまつわるこんな話もありますよ。 オルフェイスの妻・エウリュディケーは毒蛇に噛まれて亡くなってしまい、オルフェウスは妻を連れ戻すため冥界にいきます。 冥界の王・ハーデースは「エウリュディケーを連れ帰ってもいいが、決して後ろを振り返ってはいけない」といいました。 しかしオルフェイスは本当と妻がついてきているのか心配になり、後ろを振り返ってしまい、妻を連れ帰ることができなかった。 この話、冒頭ピンクの文字で記した日本神話のイザナギ・イザナミの話とそっくりですね。 笈とは巡礼する人が着用する白い着物、錫杖は空海さんや地蔵菩薩が手にもっている杖のことです。⑤「ナルキッソス&エーコー」「雄略天皇&一言主大神」えー、ここまでは一般によく言われていることです。 ここからは「心の旅」ならではのオリジナルな見解(かな?)を述べたいと思いますよ。 ギリシャ神話と記紀神話はほかにも似ているところがたくさんあります。 そのひとつが、「ナルキッソス&エーコー」「雄略天皇&一言主大神」です。 ナルキッソスはアプロディーテーに魔法をかけられ、愛された相手を拒むようになりました。 エーコーはヘーラーに他人の言葉を繰り返すことしかできないように魔法をかけられていました。 ナルキッソスはそんなエーコーを退屈に思い、振ってしまいます。 侮辱を罰する神・メネシスはこれを見て、ナルキッソスが自分しか愛せないように魔法をかけました。 ナルキッソスは泉に映った自分に恋し、水面に映った自分に口づけしようとして泉に落ちて死にました。 ナルキッソスが死んだあと、水辺には水仙の花が咲いていました。(ギリシャ神話)
雄略天皇が葛城山に登る時、向かいの山の尾根伝いに山に登る人たちがありました。 その一行は天皇の一行とまったく同じいでたちをしていました。 雄略が『大和の国に私のほかに大君はないのに、今誰が私と同じ様子で行くのか』と問うと、 向かいの山の方から、『大和の国に私のほかに大君はないのに、今誰が私と同じ様子で行くのか』と同じ言葉が返ってきました。雄略が『そちらの名を名乗れ。そしてそれぞれが自分の名を名乗って矢を放とう。』と言うと、 『私が先に問われた。だから私が先に名乗ろう。私は悪いことも一言、良いことも一言、言い放つ神。葛城の一言主の大神である。』と返事が返ってきました。 これを聞いた雄略は畏まり、『おそれおおいことです。わが大神よ。現実の方であろうとはわかりませんでした。』 と言い、自分の刀や弓矢、お供の着ている衣服も脱がせて拝んで献上しました。 一言主大神は、手を打ってそれを受け取り、雄略が帰る時、一言主大神一行が雄略を長谷の入口まで送りました。 (日本書紀)エーコーは木霊(山彦)の神ですが、一言主大神も木霊(山彦)の神だと考えられます。雄略天皇と同じ言葉を返していますから。 そしてナルキッソスは水鏡に映った自分の姿に恋しますが、雄略天皇の木霊だと考えられる一言主大神は雄略天皇と同じ姿をしていたとありますね。 一言主大神は水鏡に映った雄略天皇の姿だったのです。 さらに、一言主大神は女神だと考えられます。 というのは雄略天皇がこんな歌を詠んでいるからです。 籠(こ)もよ み籠持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串持ち この丘に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは 告(の)らめ 家をも名をも(ヘイ彼女。いい籠持ってるじゃん。いいヘラ持ってるじゃん。この丘で菜を摘む彼女、家はどこ?名前はなんてーの? 大和の国は僕ちんが治めてるんだよん。僕ちんこそ名乗っちゃうよ。家柄も名前も。/友人による現代語訳)これに対して彼女はこう答えたのではないかと思うのです。 『私が先に問われた。だから私が先に名乗ろう。私は悪いことも一言、良いことも一言、言い放つ神。葛城の一言主の大神である。』
一言主神は狩りをしていた。一方娘は菜を摘んでいた。二人は違うことをしているので、同一神ではないのではって? でも狩りと菜摘みは関係があるんですよ。 狩りは鹿狩り、菜摘みは薬草を摘むことではないかと思います。 鹿狩と薬草摘みはどちらも古には旧暦5月5日に行われる行事で、薬狩りと呼ばれていました。 一言主神も娘も薬狩りをしていたということで共通点があり、同一神であると思うのです。 ナルキッソスが拒んだエーコーとは鏡に映った自分の姿(性別は男から女に変わっているが)だったのではないでしょうか。 そして、ナルキッソスとエーコー(鏡に映ったナルキッソス)は立場が逆転し(一言主大神と雄略天皇の立場が逆転したように) ナルキッソスが虚像(エーコー)となり、虚像のエーコーが実像(ナルキッソス)になってしまったのではないでしょうか。 そしてそれをナルキッソスが死んだと表現してあるように思われます。 恵比寿さんと大黒さん、見えますか? 私にはこんな風に見えたけど、どうかな?
注意したほうがいいかも? ・三脚okとのこと。でも移動の際には三脚バッグにしまって肩にかけ、両手がふさがらないようにする。 (天井が低かったり、急な階段だったりで結構こわいです。こわがりだからかな?) ・荷物もできるだけリュックなどにまとめて、両手がふさがらないようにする。 ・靴は受付で長靴に履き替える。 ・水滴が落ちてくるので、カメラはタオルなどでくるんでおく。 ・駐車場近くにおいしい水がわいていてくめるのでペットボトルあるといいかもです。
説明が笑える。
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[2018/07/26 11:41]
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京都市東山区 八坂神社 石見神楽奉納・・・8月16日
①大江山に住む鬼と土蜘蛛
石見神楽「大江山」は源頼光・渡辺綱・坂田金時らが大江山の鬼を退治すると いう話です。 源頼光・渡辺綱・坂田金時らは大江山の鬼に八幡大菩薩より贈られた「神変奇特酒(人間が飲めば薬となり鬼が飲めば毒になる酒)を飲ませて酔っぱらわせ、眠ってしまったところを次々に斬って退治していきますが 巨大な蜘蛛がはく糸に絡まって動けなくなってしまいます。 しかし八幡大菩薩のご加護をうけ、無事鬼を退治することができました。
②おほえ山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立おほえ山 いく野の道の 遠ければ、まだふみも見ず 天の橋立/小式部内侍石見神楽「大江山」は百人一首にもとられている有名なこの歌から始まります。 この歌には次のような詞書がつけられています。 和泉式部、保昌に具して丹後国に侍りける頃、都に歌合侍りけるに、小式部内侍歌よみにとられて侍りけるを、定頼卿、局のかたに詣で来て、「歌はいかがせさせ給ふ、丹後へ人はつかはしてけんや、使まうで来ずや、いかに心もとなくおぼすらん」など、たはぶれて立ちけるを、引き留めてよめる
小式部内侍の母・和泉式部はすごくモテる女性で、橘道貞と結婚して小式部内侍を産みましたが その後、道貞と別れて、弾正宮為尊 (ためたか)親王(冷泉第三皇子)と関係を結びます。 しかし為尊親王は26歳で早世してしまい、次に為尊親王の弟の帥宮 (そちのみや)敦道親王と関係を結んでいます。 この敦道親王も27歳で早世してしまい、一条天皇の中宮・藤原彰子に出仕します。 彰子の父・藤原道長のすすめで道長の家司藤原保昌と再婚し、丹後守となった保昌について任国に下りました。 和泉式部の娘である小式部内侍は都に残っていたのですが、歌合わせが予定されていました。 藤原定頼が小式部内侍のもとを訪れてこう言いました。 「歌合わせの歌はどうするんですか。丹後の母親の元へ使者 を送りましたか。まだ使者は来ませんか。さぞ心細いでしょうね」とからかいました。
「母親の和泉式部にかわりに歌を詠んでもらうのだろう」というような意味ですね。
それに対して小式部内侍が歌を詠んで返したのが、 おほえ山 いく野の道の 遠ければ、まだふみも見ず 天の橋立 だったのですね~。
意味はこんな感じです。
大江山へ行く道は、いくつもの野の道を超えていかなければならず、遠いです。 なのでまだ天橋立を踏んだこともありませんし、母の手紙を見ていません。「まだふみも見ず」に「まだ文も見ず」と「まだ踏みもみず」をかけてあるのですね。 私なんかだったらこんなこと言われたら「うるさい、ボケ」とか言いそうですが(笑) 歌を詠んでやりこめるとは、小式部内侍はなかなかやりますね。 天橋立③おほえ山は大江山?大枝山?おほえ山の所在については諸説あります。 a.大江山 b.京都市西京区の大枝山 c.大江山と大枝山をかけているとする説 私はbまたはcだと思います。 その理由は、大江山が和泉式部の夫・藤原保昌の任地である丹後(丹後半島の付け根)にあるからです。 ④保昌は頼光の郎党ではなかった。石見神楽の『大江山』は、お伽草子の『酒呑童子』を元ネタとした演目だと思いますが、お伽草子の『酒呑童子』は石見神楽『大江山』とは登場人物が少し違っています。 石見神楽『大江山』で鬼退治に向かうのは源頼光・渡辺綱・坂田金時の3人ですが、 お伽草子の『酒呑童子』では一条天皇は源頼光、碓井貞光、卜部季武、渡辺綱、坂田金時、藤原保昌らに鬼退治を命じ、6名で大江山の鬼退治に向かっています。 このうち、碓井貞光、卜部季武、渡辺綱、坂田金時は頼光四天王と呼ばれており、保昌は頼光の郎党となっています。 しかし、実際には藤原保昌は頼光の郎党ではなく、道長につかえており源頼信・平維衡・平致頼らとともに道長四天王と呼ばれていました。 頼光四天王も道長四天王も武勇に秀でた人物なので混同されたのでしょうか。 『大江山絵詞』(大江山絵巻)では、「995年、一条天皇が源頼光と藤原保昌らを征伐に向わせた」となっています。 ⑤頼光、道長にたびたび進物を贈る。源頼光は990年、43歳の時に藤原道長の側近となっています。 頼光はたいへんなお金持ちであったようで、道長にたびたび進物を贈っています。ワイロ? ⑥祇園祭 保昌山祇園祭の山鉾のひとつに保昌山がありますが、この保昌山のご神体が藤原保昌(平井保昌)です。 藤原保昌が和泉式部にせがまれて紫宸殿前の梅を一枝折ったところを武士に見つかり、矢を放たれるも逃げ帰ったというエピソードを題材とした山で、かつて保昌山は花盗人山と呼ばれていました。 花盗人とはあまり聞こえのよくない言葉です。 花とはモテモテだった和泉式部のことで、保昌が和泉式部を盗んだということを、比喩的に表現した物語のようにも思えます。 歴史の表には現れない、裏の歴史があったのではないかと勘ぐってしまいます。 祇園祭 山鉾巡行 保昌山⑦山鉾巡行は百鬼夜行を陽に転じたもの?
そもそも祇園祭の山鉾巡行とは百鬼夜行を陽に転じたようなものではないかと私は考えています。 聖徳太子山の聖徳太子、黒主山の大友黒主、菊水鉾の菊滋童、橋弁慶山の弁慶と牛若丸、役行者山の役行者などは怨霊ではないかと思われますし。 祇園祭 山鉾巡行 『山鉾巡行と百鬼夜行』 藤原保昌は和泉式部を妻としたことで失脚して、怨霊になったのかも? そして保昌が失脚したことが物語に繁栄されて、源頼光の郎党扱いされるようになったんだったりして? 
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[2018/07/24 18:06]
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京都市東山区 八坂神社 出雲神楽奉納 7月16日
①道真は天神?それとも雷神?八坂神社の能舞台で演じられた石見神楽「天神」。 天神とは菅原道真のことです。 平安時代、藤原時平の讒言によって大宰府に流罪となった菅原道真は、数年後に失意のまま亡くなりました。 その後都では疫病の流行、清涼殿落雷炎上事件などがあり、それらは菅原道真の怨霊の仕業だと畏れられました。 北野天神絵巻には雷神となって祟る道真の姿が描かれています。 石見神楽の「天神」というタイトルは、道真の神号「天満大自在天神」の略号です。 あれっ?道真は天神なの?それとも雷神?天満って何? ②雷神ゼウスは天空の神?ギリシャ神話の雷神といえばゼウスですが、ゼウスは太陽神アポローンや月の神アルテミスよりも上位の神で、オリンポス十二神の主神とされています。 なぜ雷神が太陽神や月神より上位の神なのでしょうか? それは雷神というのはゼウスの二次的な神格で、ゼウスは天空の神だからではないかと思います。 太陽や月は天空の中にあるので、天空のほうが太陽や月より上位なのではないでしょうか。 雷は、天の神が操る武器、というわけです。 ③似ている。ギリシャ神話と日本の神話。
ギリシャ神話と日本の記紀神話には似ているところがありますね。 最もよく似た神話としては、『オルフェウス・エウリュディケ』と『イザナギ・イザナミ』が有名です。 オルフェウスは死んだ妻のエウリュディケを連れ戻すために冥界にいきます。 冥界の王ハデスは『エウリュディケを連れ帰ってもいいが、地上に着くまで後ろを振り返ってはいけない』といいました。 しかしオルフェウスは本当に妻がついてきてくれているのか心配になり、後ろを振り返ってしまったため、エウリュディケは冥界に連れ戻されてしまいました。(ギリシャ神話)イザナギは死んだ妻のイザナミを連れ戻すために黄泉の国へいきます。 イザナミは「黄泉の大王に戻ってもいいか聞いてみます。その間決して振り返って後ろを見ないでください」と言いました。 しかしイザナギは振り返ってイザナミの姿を見てしまいます。 イザナミの体は腐って蛆がわいていました。 約束を破られたイザナミは怒ってイザナギを追いかけ、イザナミは必死になって黄泉平坂まで逃げ帰りました。(日本書紀)
ギリシャのパルテノン神殿と同じエンタシスの柱が法隆寺や唐招提寺にありますし、ギリシャと日本はシルクロードを通してつながっていたのではないでしょうか。 ④ 道真は天空の神でもある。
道真は星の神だとも考えられます。 というのは北野天満宮の紋が星梅鉢紋なのです。 丸は星をあらわすとされています。 丸を梅の形に並べたのが星梅鉢紋。「天満大自在天神」の「天満」「天に満ちる」とは星のことなのかも? 天神さん(道真)は雷神ともされているところから、ゼウスと同様、星や雷を含む天空の神なのではないかと思ったりもします。 もしかしたら道真は天照大神や月読命よりも上位の神だったりして? ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/07/21 11:16]
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兵庫県神戸市 生田神社 夏越大祓式・・・7月15日
①生田敦盛生田神社境内に生田の森があります。 生田の森ここを舞台とした能に「生田敦盛」があります。
[2018/07/14 00:00]
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①神武天皇が創建した神社
前回の記事で、生國魂神社の主祭神の一柱、足島(たるしま)大神について考えました。 そのつづきです~。 生國魂神社は初代・ 神武天皇が上町台地の難波碕(現在の大阪城一帯)に、生島・足島大神をお祀りされたのが創祀と伝えられています。 生島神・足島神は、生國魂大神・咲國魂大神とも呼ばれていますよ。 神武天皇が即位したのは記紀によれば紀元前660年ですが、これは極めて信ぴょう性が低いです。 そもそも神武天皇が実在したかどうかもわからないです。 ですが、事実でなくとも、「なぜ神武天皇が創祀したと伝えられているのか」と考えてみることは意味のあることだと思います。
②神武、東征して浪速の渡を超えて河内湖に入る。初代神武天皇はもともとは日向に住んでいたのですが、あまりに国の端であるため東征し、浪速の渡を超えて湾に入り、日下の楯津(東大阪市日下) 上陸しています。 上陸した神武は待ち構えていた長髄彦と戦いますが破れ、南に迂回して熊野を越え大和にいたる作戦をとります。 浪速とは現在の大阪市あたりの古名ですが、現在とはかなり地形が違っており、内陸にまで湾が入り組み河内湖と呼ばれていました。 北限は現在の枚方市付近、東限は現在の東大阪市付近だったとされます。 それじゃあ、現在の大阪市はほとんど湖だったと思われますが、上町台地あたりは陸であったようです。 そしてこの生國玉神社はかつては現在の大阪城のあたりにあり、その付近が上町台地だったのです。 ③足島大神は長いスネ(下腿)を持った神?長髄彦という名前に注目してください。 長髄彦とは長いスネ(下腿)足をもった男子という意味ではないでしょうか? すると、足島大神とは長髄彦のことではないのかと思えます。 ④即位することができたのは生島神・足島神のおかげ生國魂神社の主祭神・生島神・足島神は、平安時代に宮中でも奉斎されていますし 新天皇の即位儀礼の1つ、八十島祭においても主神として祀られました。 「八十島」とは日本の国土(大八洲)を指すとされます。 しかし、古代の河内湖には淀川、大和川、武庫川などによって運ばれた土砂が堆積してできたたくさんの島があり、難波八十島と呼ばれていました。 八十島祭の八十島はこの浪速八十島の神を祀る祭であったとも考えられます。 八十島を祀る八十島祭の主神・生島神・足島神は浪速八十島の神ではないかと考えると、やはり神武天皇以前よりこの地を支配していた長髄彦は生島神・足島神にぴったりな存在のように思えます。 「日下の楯津(東大阪市日下)から 上陸した神武は待ち構えていた長髄彦と戦ったんだろ。 神武と長髄彦は敵じゃん。で、神武の子孫が歴代天皇だよね。 八十島祭は浪速八十島の神・長髄彦を祀る祭だというけれど 神武の子孫である歴代天皇の即位儀礼に、なぜライバルである長髄彦を祀るんだ?」って? 長髄彦は王で河内付近に住んでいたのだと思います。 それをあとからやってきた神武が国を横取りしちゃったと考えればつじつまが合うと思います。 で神武は国を横取りしたものの、長髄彦の怨霊の祟りが怖くてしかたなく、神として祀ったのではないでしょうか。 また怨霊は十分に慰霊すれば、ご利益を与えてくれる和魂に転じると考えられていました。 つまり天皇に即位することができたのは、長髄彦のおかげ、ということで即位儀礼の八十島祭で長髄彦を生島神・足島神として祀ったのではないかと思います。 ⑤大阪と長野の深い関係生島神・足島神は長野県の生島足島神社の御祭神でもあります。 生島足島神社の摂社に諏訪神社がありますが、諏訪大社本宮は拝殿後背の守屋山をご神体としています。 守屋山には物部守屋を祀る守屋神社がありますが、この物部守屋と長髄彦は関係がありそうなんですよね。 長髄彦はニギハヤヒという神を奉じており、妹をニギハヤヒの妻としていました。 このニギハヤヒは物部氏の祖神なのです。 また物部守屋は大阪市八尾市付近を本拠地としており、大阪市天王寺区にある四天王寺は守屋の土地と奴婢を用いて聖徳太子が建てたとされます。 大阪市中央区の森ノ宮という地名は守屋の宮がなまったものだという説もあり、大阪と長野は深い関係がありそうです。 ⑥息長帯比売命は生長帯比売命?前回の記事で、足島大神はタラシ王朝の神ではないかと書きました。 國魂神社 生玉夏祭① 『足島大神はタラシ王朝の神?』 足は「たらし」とも読みますが、和風諡号に足(たらし)という字のつく天皇や皇后がおり、タラシ王朝と呼ばれています。 12代景行天皇・・・大足彦忍代別天皇(おお たらしひこおしろわけのすめらみこと) 13代成務天皇・・・稚足彦尊(わか たらしひこのみこと) 14代仲哀天皇・・・足仲彦天皇( たらしなかつひこのすめらみこと) 神功皇后(仲哀天皇皇后)・・・気長足姫尊(おきなが たらしひめのみこと) 私はタラシ王朝の天皇は物部王朝の天皇ではないかと考えているのですが それはさておき、神宮皇后の和風諡号にご注目! 和風諡号は、日本書紀では気長足姫尊ですが、古事記では息長帯比売命となっています。(読み方は同じです。) 息長帯比売命という諡号の中に「息」とありますが、「息(いき)」は「生(いき)」と同音ですね。 生島大神とはタラシ王朝の神宮皇后(息長帯比売命)、足島王朝とは景行天皇(大足彦忍代別天皇/おお たらしひこおしろわけのすめらみこと)・成務天皇(稚足彦尊/わか たらしひこのみこと)・仲哀天皇(足仲彦天皇( たらしなかつひこのすめらみこと) だったりして? ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/07/12 21:23]
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大阪市中央区 生國魂神社
いくたま夏祭・・・7月11日、12日 くわしくはこちらをご覧ください。→ 上六うえいくネット いくたま夏祭 大阪城で獅子舞のお練りが行われました。 ↑ これは鳳輦(ほうれん)のように見えます。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B3%E8%BC%A6①足島大神は『満ち足らしめる神』いくたま夏祭は生國魂神社のお祭りです。 生國魂神社の主祭神は生島(いくしま)大神・足島(たるしま)大神で、相殿に大物主大神を合祀しています。 生島大神・足島大神はどのような神様なのでしょうか。 ウィキペディアの「 生國魂神社」の項目には次のような内容が記されています。 ①神武東征の際、神武天皇が難波碕(現在の上町台地)の先端に日本列島そのものの神である生島大神・足島大神を祀った。 長野県上田市にはこの生島大神・足島大神を祀る生島足島神社があります。 ウィキペディアの「 生島足島神社」の項目には、次のように記されています。 ②生島大神は万物を生み育て生命力を与える神、足島大神は国中を満ち足らしめる神。 なるほど、足島大神の『足』は『足りる』という意味なのですね。 また、日本の国土のことを「葦原中国(あしはらのなかつくに)」といいますので、足は葦にかかり、葦原中国のことをさしているのではないかと思ったりします。 ②足島大神は『葦原中国の神』?足は「たらし」とも読みますが、和風諡号に足(たらし)という字のつく天皇や皇后がおり、タラシ王朝と呼ばれています。 12代景行天皇・・・大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと) 13代成務天皇・・・稚足彦尊(わかたらしひこのみこと) 14代仲哀天皇・・・足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと) 神功皇后(仲哀天皇皇后)・・・気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと) 大阪市住吉区にある住吉大社は海の神として信仰されていますが、もともとは「みたらし星」の神だったのではないかという説があります。 住吉大社の境内には同じ大きさ、同じ作りの社が四つあり、そのいずれもが本宮とされています。 奥から、底筒男命 (そこつつのをのみこと)を祀る第一本宮、中筒男命 (なかつつのをのみこと)を祀る第二本宮、表筒男命 (うわつつのをのみこと)を祀る第三本宮、第三本宮の東が神功皇后=息長足姫命 (おきながたらしひめのみこと)を祀る第四本宮となっています。 その社の配置がみたらし星の配置に似ているというのです。  住吉大社の第四本宮は14代仲哀天皇の皇后・神功皇后=息長足姫命 (おきながたらしひめのみこと)をお祀りしています。 もしかして、第一本宮、第二本宮、第三本宮に祀られている底筒男命・中筒男命 ・表筒男命とは、12代景行天皇(おお たらしひこおしろわけのすめらみこと)、13代成務天皇(わか たらしひこのみこと)、仲哀天皇( たらしなかつひこのすめらみこと)のことなのではないでしょうか? 景行天皇・成務天皇・仲哀天皇は和風諡号に「たらし」とあるところから、「タラシ王朝」などともよばれます。 みたらし星は御手洗星と記されるようですが、本当は御足星という意味で、タラシ王朝を象徴するものだったのかも? そういえば下鴨神社の御手洗(みたらし)祭では、御手洗といいますが、水に足をつけて身を浄めますね。 生國魂神社の御祭神・足島大神とはタラシ王朝の神なのかも?
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[2018/07/10 16:38]
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2014年6月29日 撮影 ①頼光像と地蔵願王菩薩は習合されている?頼光寺は長保年間(999年~1003年)に創建されたお寺で、本堂には源頼光神像が祀られています。 お寺なのに神像が祀られていることを不思議に思う方がおられる方もいるかもしれませんが、江戸時代までの日本では神仏は習合されて信仰されていました。 頼光寺に頼光像が祀られているのは、そのころの名残でしょう。 神仏が別々に祀られるようになったのは明治の神仏分離令以降です。 頼光寺のご本尊は地蔵願王菩薩です。 地蔵願王菩薩というのは初めて聞きましたが、調べてみると結構各地にあるようです。 地蔵願王菩薩 説話・・・昔、インドに大変慈悲深い2人の王がいました。一人は自らが仏となることで人々を救おうと考え、仏になったのです。しかしもう一人の王は仏になる力を持ちながらあえて仏とならずに、自ら地獄に落ちて、すべての苦しみ、迷い続ける者たちを救おうとしたといいます。それが地蔵菩薩です。さらに釈迦の入滅後、56億7000万年後に弥勒菩薩が現れるまでの間、仏が不在となってしまうため、その間、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)を輪廻する衆生を救う菩薩であるともされています。http://kougenji.la.coocan.jp/s/boku/000001.html より引用上のサイトの説明を読むと、地蔵願王菩薩と地蔵菩薩は同じもののようですね。 ですが、わざわざ願王とあるところに、「もともとは王であったのに衆上のためにあえて地獄におちた人」という意味が強調されているように思えます。 ちなみに願とは「みほとけが衆上を救うために立てる願い」のことで、願王とは「衆上を救うために願いをたてた王」という意味ではないかと思います。 下記サイトの説明と私の解釈は若干異なりますが。 「願王」とは仏・菩薩の願の根本をなす願、という意で、密教で願王菩薩といえば金剛寿命を授ける普賢菩薩(延命菩薩)を指す。普賢、地蔵の縁日がともに24日であることなどから、何時のころからか庶民の信仰厚かった地蔵菩薩に変容したものと思われる。
http://www.yamagata-community.jp/~iizuka/ganou.html より引用それはさておき、もしかして、この地蔵願王菩薩と源頼光は習合されていたのかも? ②大江山の夷賊討伐と土蜘蛛退治源頼光は平安時代中期の武将で摂津国多田(兵庫県川西市多田)の土地を所有していました。 大変なお金持ちであったようで、たびたび藤原道長に豪華な贈り物をしています。 多田には銀山があります。 頼光はその銀山の採掘によって財力を得ていたのかもしれませんね。 1018年、頼光は勅命を受けて、頼光四天王(渡辺綱 ・坂田金時 ・卜部季武 ・碓井貞光) らともに大江山の夷賊討伐を行っています。 大江山は京都府丹後半島付け根あたりにある山です。 平安京からそんなにはなれていませんが、都からこんなに近い場所にもまつろわぬ民(夷賊)がいたのですね。 東北のほうにもしょっちゅう蝦夷平定の軍を出していますし、案外、平安時代の日本は狭かったのかもしれません。 のちに、源頼光が頼光四天王を従えて丹波国大江山で鬼の酒呑童子を討伐したとか、土蜘蛛退治をしたという伝説が生じます。 土蜘蛛とは古事記、日本書紀、風土記などに登場する「まつろわぬ民」のことです。 これらの伝説は1018年の大江山夷賊討伐をベースに創作されたものなのかも? 京都の伝統芸能である大念仏狂言や六斎念仏などで「頼光と土蜘蛛」は大人気の演目となっています。 上の写真は嵐山紅葉祭において演じられた嵯峨狂言による「頼光と土蜘蛛」です。 向かって右の青い着物を着ているのが源頼光、向かって左の蜘蛛の巣柄の着物を着ているのが土蜘蛛です。 (もうちょっといい写真があったらよかったんですが~。) ③2か所にあった土蜘蛛の塚☆ ←こちらは『拾遺都名所図会』に描かれた清和院と蜘蛛塚の図です。 清和院は大変広そうなお寺に描かれていますが、現在はコンクリート造の小さなお堂と庫裏があるだけです。 また絵の向かって左下に蜘蛛塚が描かれています。 この蜘蛛塚は源頼光が退治した土蜘蛛が住んでいた場所だと言い伝わっていますが、現在はありません。 明治31年、蜘蛛塚の発掘調査が行われていますが、このときに墳丘は取り壊されたのではないかと思います。 清和院この発掘調査の際、燈篭の火袋が発掘され、ある人がそれを貰い受けて庭に置いていたところ、よくないことが次々に起こり 土蜘蛛の祟りだという噂がたちました。 そのため、その火袋は北野天満宮の西にある東向観音寺に奉納されました。 現在、火袋は『土蜘蛛の塚』と呼ばれ、東向観音寺の裏庭に置かれています。 蜘蛛塚は東向観音寺のほか、上品蓮台寺にもあると聞いたので、上品蓮台寺に行ってみました。 ところが、それらしいものがないのです。 そこへかわいらしい尼僧の方が歩いてこられたので、「蜘蛛塚はどこですか」と聞いてみました。 その答えを聞いてびっくりしました。 尼僧さんは「あそこにある、源頼光の塚が蜘蛛塚ですよ」とおっしゃったのです。 えっ?頼光の塚が土蜘蛛の塚? それって頼光が土蜘蛛だということ? 土蜘蛛は穴の中に住むと風土記などに記されていますが、それは原始的な民族という意味ではなく、 坑道を掘って生活しているという意味ではないかと考えたりもします。 そして頼光の本拠地である多田には銀山があります。 だとすると、頼光は穴の中に住む土蜘蛛ともいえそうですが。 そして、頼光寺の地蔵願王菩薩は地獄に落ちた王なので、坑道のイメージと重なります。 元々は船岡山の南西にあって「頼光塚」と呼ばれていたのを、昭和のはじめごろ、上品蓮台寺に移したというので 単純に、頼光塚と蜘蛛塚が混同されたということなのかもしれませんが、なんだかとても気になってしまいます。
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[2018/07/06 15:23]
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