奈良県大和郡山市 矢田寺 かなり以前の撮影
①矢田型地蔵
お地蔵様は右手に杖、左手に如意宝珠を持ったお姿をしておられるのが一般的です。 矢田寺のお地蔵様のほとんどは右手の親指と人差し指を結んだ独特のスタイルで、『矢田型地蔵』と呼ばれています。 右手の親指と人差し指を結ぶ印は阿弥陀仏によく見られるもので、阿弥陀仏の徳を併せ持ったお地蔵様だということなのでしょう。 ちょっとわかりにくいですが、下の写真の向かって左のお地蔵様もこの印を結んでおられます。 ②天武天皇に勝利をもたらした矢田山の神矢田寺の創建は飛鳥時代とされ、次のような創建説話が伝えられています。 天智天皇が崩御したのち、天智天皇の弟・大海人皇子(後の天武天皇)と天智天皇の皇子・大友皇子が皇位継承をめぐって争いました。(壬申の乱) この戦いで勝利したのは大海人皇子で、勝機がないと悟った大友皇子は自害して果てました。 大海人皇子は673年に即位し、679年に戦いに勝利したのは 矢田山の神のご加護のおかげであるとして矢田寺を創建しました。
③春日明神が刻んだ地蔵菩薩また矢田寺にはこんな伝説もあります。 嵯峨天皇の御世、小野篁(802~852)という役人がいました。 小野篁は昼は宮中に、夜は閻魔庁に仕えていました。 ある時、閻魔大王が篁に言いました。 『自分には三熱の苦しみがある。この苦しみから離れるために菩薩戒を受けたいので、適任者を探してほしい。』と。
篁は矢田寺の満慶上人こそ適任者だと考え、満慶上人を閻魔庁に連れていきました。 満慶上人は閻魔庁で閻魔大王に会い、閻魔大王に菩薩戒を授けました。 閻魔大王はそのお礼に満慶上人を地獄に案内しました。 満慶上人は、地獄の燃えさかる炎の中で、生身の地蔵菩薩に会いました。 地蔵菩薩は『苦果を恐れるものは我に縁を結ぶべし。わが姿を一度拝し、わが名を一度唱える者は必ず救われる。』とおっしゃって 亡者の身代わりとなって地獄の責め苦を受けておられました。
矢田寺へ戻った満慶上人は仏師に地蔵菩薩の姿を刻ませましたが、思うように彫ることができませんでした。 ある日4人の翁があらわれ、3日3晩のうちに地蔵菩薩を彫り上げました。 それは満慶上人が地獄で出会った地蔵菩薩そのままのお姿でした。 4人の翁は『我らは仏法守護の神である。』と告げて、五色の雲に乗って奈良の春日山へと飛び去りました。 そのため、矢田寺の地蔵菩薩は、春日四社明神(春日大社の神)化身の作と伝えられています。
また満慶上人は地獄から戻るとき、閻魔大王より米の入った手箱をもらいましたが、 米はどれだけ使っても減らず、常に米が箱いっぱいに満ちていました。 そのため人々は満慶を満米上人と呼ぶようになりました。 (矢田寺地蔵縁起 )
矢田寺のご本尊の地蔵菩薩は平安時代に春日明神が刻んだものだというのですね。 ④天児屋根命=天智天皇?春日明神とは藤原氏の氏神である春日大社の四柱の神様、藤原氏の守護神であるタケミカヅチとフツヌシ、祖神であるアメノコヤネノミコトとヒメ神の四柱の神のことです。 私はアメノコヤネノミコト(天児屋根命)とは天智天皇のことではないかと考えています。 天児屋根命の『児』とは小さいという意味で、『小さな屋根の下にいる神』という意味です。。 そして天智天皇は 秋の田の かりほの庵の とまをあらみ 我が衣手は 露にぬれつつ (秋の田の仮庵の屋根があらくて雨漏りがするので、私の衣の袖は露に濡れどおしだよ。) と歌を詠んでいます。 仮庵の雨漏りのする屋根はそれは小さいことでしょう。 とすれば、アメノコヤネノミコトは藤原氏の祖神なので、藤原氏は天智天皇の子孫だということになりますが、藤原不比等は天智天皇の後胤であるという説があります。 藤原鎌足は天智天皇の后であった鏡王女を妻としてもらいうけていますが、その時鏡王女はすでに天智の子を身ごもっており、これが藤原不比等であったというのです。 そうであるなら、天智天皇が藤原氏の祖神だというのは辻褄があいます。 矢田寺の地蔵菩薩は、春日明神がつくったと伝説に伝えられますが、それは天智天皇の霊が地蔵菩薩をつくったという意味なのではないでしょうか。 そして天武天皇が戦勝祈願した矢田山の神とは天智天皇のことではないでしょうか。 ⑤荒ぶる怨霊は慰霊すれば和魂に転じる?かつて政治的に不幸な死を迎えた人は怨霊になると考えられ、疫病の流行や天災は怨霊のしわざでひきおこされると考えられていました。 天智天皇は怨霊になる条件を備えていました。 天智天皇は自分の皇子の大友皇子を次期天皇につけたいと考えていたのに、弟の天武天皇が大友皇子を自殺に追い込み、天武天皇が皇位についてしまったからです。 そして陰陽道では荒ぶる怨霊は神として祭り上げればご利益を与えてくださる和魂に転じると考えます。 天武天皇が敵対関係にある兄・天智に戦勝祈願をしたというのは奇妙に思えるかもしれませんが、陰陽道の考え方では十分にありえることだと思います。 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/06/27 08:49]
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大阪府泉南市 長慶寺 2018年6月24日 撮影 ①西国三十三か所 ゆかりの閻魔大王・花山法皇・佛眼上人三角形の形をした閻魔堂。 中には閻魔大王・花山法皇・佛眼上人像が安置されていました。 佛眼上人は叡福寺の僧侶で花山法皇とともに西国三十三か所を巡礼された人です。 奈良の長谷寺にはこんな伝説があります。 717年、長谷寺の開山・徳道上人が病で仮死状態となり、冥土に行きました。 そのとき、閻魔大王は徳道上人に言いました。 「お前はまだ死んではいけない。もと世界に戻って西国三十三カ所観音霊場を開きなさい。」 徳道上人は閻魔大王の閻浮壇金(えんぶだごん)の黄金印(壇ダ印)をもらってもとの世界に戻りました。 そして修二会結願の日、閻浮壇金の黄金印を参拝者の額に押し当てて『悪魔退散』『無病息災』の加持祈祷をしました。 その時、長谷寺の乾(西北)の方、白山に棲んでいた悪鬼が出没しました。 徳道上人はこの鬼を修二会の法力で追い祓いました。
閻魔大王は徳道上人に西国三十三か所を開くようにと指示した神で、閻魔大王・花山法皇・佛眼上人は全員西国三十三か所に関係のある人物だということになります。 ちなみに長慶寺は西国三十三か所に含まれるお寺ではありませんが、各地に西国三十三所に倣った三十三所の巡礼の聖地があり、長慶寺は和泉西国三十三所のひとつとされています。 ②長慶寺の歴史長慶寺の創建は古く、 長慶寺の北にかつて存在していた海会寺の一院だそうです。 海会寺は724年、聖武天皇の勅願寺として行基によって創建されたと伝わります。(長慶寺寺伝) 988年に焼失し、997年に再興されるも、天正年間、織田信長・羽柴秀吉による紀州攻めで全山焼失しました。 その後、秀吉の子の豊臣秀頼が諸堂を作って再興しました。 親の後始末を子が行ったということでしょうか。 江戸時代には岸和田藩主岡部氏の祈願寺として栄えたということですが、明治以降衰退し、観音堂と庫裏しかなかったのを、現住職によって再興されたということです。 多宝塔は1991年・三重塔は2004年、喪腰つきの三重塔は2015年に建てられました。 ③孔雀宝塔と孔雀明王中でもひときわ目をひくのが喪腰つきの三重塔ですね! http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/sos_cyokeiji.htm 上記サイトによれば、「孔雀宝塔」といい、高野山孔雀明王を模刻した孔雀明王を安置してあるようです。
明王は憤怒の表情をしたものが多いですが、孔雀明王はおだやかな菩薩形の表情をされており 孔雀の背に座しておられます。 一面四臂の姿で表されることが多く、手にはそれぞれ倶縁果、吉祥果、蓮華、孔雀の尾を持ちます。 そして広げた孔雀の羽が光背のようになっています。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Woodcut_of_Mahamayuri.jpg?uselang=ja#file よりお借りしました。
④千手観音は孔雀を神格化したみほとけ?
孔雀は神経毒に耐性があり、毒のある害虫や蛇を食べるので人々の災厄や苦痛を取り除くみほとけとして信仰されたようです。
また仏教だけでなく、さまざまな宗教において孔雀は神聖視されていました。 クルド人のヤヅィート派の主神マラク・ターウースは孔雀の姿をした天使、ギリシャ神話ではヘラのペットで羽の模様は百の目を持つアルゴスの目ではないかともいわれています。 動画おかりしました。動画主さん、ありがとうございます。 つまり、アルゴスは孔雀を神格化した神というわけですが、これを聞いて仏教の千手千眼観音を思い出してしまいました。 千手千眼観音と呼ばれるのは千本のの掌に一眼があるとされるところからついた名前です。 一般的な千手千眼観音の手は四十二臂です。 胸前で合掌する2本の手を除くと40本ですが、40本のそれぞれの手が25の世界を救うとされ、「25×40=1,000」と考えられているようです。 しかし大阪葛井寺の千手千眼観音は胸前で合唱する二本の手を除いて1037本の手があり、一度参拝したことがありますが、その手のひらに、眼が描かれていました。 かつてはすべての手に眼が描かれていたと考えられています。 http://www.tnm.jp/modules/rblog/index.php/1/2018/02/14/%E5%8D%83%E6%89%8B%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E8%8F%A9%E8%96%A9%E5%9D%90%E5%83%8F/リンク先に葛井寺千手千眼観音の写真があります。 千手千眼観音とは孔雀を神格化したみほとけなのかも? 千の手が広げた孔雀の羽で、手のひらに描かれた目は孔雀の羽の模様です。 頭上についている十一の頭は孔雀の冠羽のようじゃないですか~。 千手千眼観音と孔雀明王は兄弟のようなみほとけではないかと思ったりします。 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/06/26 21:57]
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奈良市般若寺町 般若寺 2018年6月17日撮影
①頼長♂が愛した男たち
おお!
日本のBL史に燦然と光り輝く藤原頼長さまの供養塔ではありませんか!
NHK大河ドラマ「平清盛」をほんの少しだけ見ましたが、山本耕史さんの頼長すてきですね~❤ 実際の頼長もなかなかの美形であったと伝わります。 そしてその妖艶な魅力で周囲の男たちを次々に落としていったのですね~。
頼長が関係を結んだ男性をあげてみます。
●秦公春(はたのきみはる)
隋身(護衛官)左近衛府生(下級武官) 愚管抄に「無ににあいし寵しける随身公春」とあります。 頼長は召使国貞殺害犯人が赦免されたことに激怒し、公春に命じて犯人を密かに殺害させたりもしています。 つまり、秦公春は単に頼長の恋人であるというだけでなく、忠実な僕でもあったわけですね。 頼長は公春の糖尿病平癒のためにたびたび仏事を行っていますが、そのかいなく公春はなくなってしまいました。 それがよほどショックだったのか、頼長は3ヶ月も公事を休んでいます。 そして神仏への恨みをつらつらと日記に書き連ねています。
●源義賢(みなもとのよしかた)
武将。 源為義の次男で源義朝の異母弟。木曽義仲の父。 頼長の日記・台記には次のように記されています。 「今夜、義賢を臥内に入る。無礼に及ぶも景味あり。」 今夜、義賢を臥内(ねや)に入れた。義賢は無礼に及んだが感じちゃった、みたいな意味ですかね。 あ、無礼というのは義賢が責めで、頼長が受けということです♡
●藤原公能(ふじわらのきんよし)
公卿。頼長の妻・藤原幸子の弟。 頼長さまったら、奥様の弟とまで関係を持っていたのですね。
●藤原隆季(ふじわらのたかすえ) 公卿。 たいへんな美形で、頼長は何通ものラブレターを書いたそうです。 でもノーマルの隆季から返信はありませんでした。 そこで頼長はまず、隆季の従兄弟で義理の兄弟でもある藤原忠雅とBLの関係に。 そして陰陽師の安倍泰親より授かった祈祷符に恋愛成就を祈願しました。 頼長さま、乙女みたいだな。 さらに頼長・藤原忠雅・藤原隆季の三人で会おうといって、隆季を呼び出すことに成功。 そして途中で忠雅に席を外させ、二人っきりに。こうしてついに頼長は思いを遂げるのです。 それほどまでにして落としたのに、隆季が昇格をねだってくると、ばっさり関係を切ってしまったらしい? (その後、頼長の日記『台記』に隆季の名前はでてきません。)
●源成雅(みなもとのなりまさ)
貴族。頼長の父・藤原忠実の恋人。 頼長さま、御父上の恋人を寝取ってしまったのですね。いやー、この時代の乱れようって半端ないっすね。
②部下を性的にも支配する?
頼長は摂政関白太政大臣の藤原忠実の子で、自らは左大臣・太政大臣となっています。 いわば朝廷のエリート中のエリートなわけで、BLのお相手は当然自分よりも下の身分の者たちばかりです。 平安時代は陰謀渦巻く世界で、下手に心を許すと命とりになるなんてこともあったでしょう。 また武士が力をつけて政治の表舞台にも登場しつつあった時代ですから、部下には絶対服従を誓わせる必要があったのかも。 それで権力で部下を支配するだけでなく、性的にも支配するというような目的があったのかもしれませんね? ちなみにこの時代、頼長だけでなく、BLは一般的なことであり、またたしなみでもあったようです。
③BLがたしなみであったのは陰陽道の影響?
そのほか、この時代にBLがたしなみであった理由としては、陰陽道の影響があるのではないかと思ったりします。
陰陽道では万物には陽と陰の側面があるとし、次の表のように陰陽を分けます。
| 性別 | 天体 | 光度 | 天気 | 動き | 大小 | 数 | 感情 | 生死 | 陰 | 女 | 月 | 暗 | 雨 | 緩慢 | 小 | 偶数 | 抑制 | 死 | 陽 | 男 | 太陽 | 明 | 晴 | 敏速 | 大 | 奇数 | 興奮 | 生 |
数字では奇数が陽で、偶数が陰です。 そして月と日が同じ数字で重なる日は節句としてお祝いされていました。 ただし、1月1日は元旦なので、1月7日を節句とします。 あとは、3月3日・5月5日・7月7日・9月9日が節句です。 9は一けたの数字では最も大きな数字なので9月9日は特別おめでたい節句とされ、「重陽の節句」「菊の節句」と呼ばれていました。 そしてこの日に菊酒を飲むと不老長寿になるなどといわれていたのです。 「重陽」とは「陽が重なる」という意味だと思います。 そして性別では女が陰で男は陽ですから、男と男が重なることはまさしく重陽であり、BLは不老長寿を得るための呪術であったのではないかと思うのです。 「菊の節句」というのも菊門を思い出させてイミシンですよね(きゃーっ)。 で頼長はたいへんな学問好きだったと伝わりますが、この時代の陰陽道とは学問であり科学でありました。 先ほど、頼長が藤原隆季をおとすために 陰陽師の安倍泰親より授かった祈祷符に恋愛成就を祈願したと書きましたが、 このほかにも頼長は、保元の乱の際、先制攻撃すべしとの意見を陰陽道の卦が悪いとして退けています。頼長は酒が弱かったせいか、重陽の節句の菊酒を飲まず、「不老長寿など望まないよーん」と日記に書いていますが 菊酒のかわりにBLをばんばんやっていますので、本当は不老長寿を望んでいたのだと思います。 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/06/22 22:07]
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奈良県生駒市 長弓寺 2018年6月17日 撮影
①息子に射られて死んだ真弓長弓 728年、聖武天皇は鳥見郷の小野真弓長弓(おののまゆみたけゆみ)と長弓の息子・長真呂を伴って狩に出かけました。 長麻呂が不思議な鳥が飛び立つのを見て矢を放つと、矢は長弓にあたって死んでしまいました。 聖武天皇はこれを憐れんで行基に命じて寺を作らせました。 行基は十一面観音を刻み、この像の頭頂に聖武の弓で刻んだ仏面を乗せて、本尊としました。 これが長弓寺であると伝わります。(長弓寺縁起)
②鳥見郷と登美毘古鳥見(登美)郷は長弓寺がある生駒山東麓を指す古い地名です。 記紀にはナガスネヒコという人物が登場しますね。ナガスネヒコは別名を登美毘古(トミヒコ)ともいい、生駒付近に住んでいた豪族だと考えられています。 鳥見(登美)郷と登美毘古ってなにか関係ありそうですよね。 ③神武以前、畿内には物部王朝があった?記紀には次のように記されています。 神武天皇は日向に住んでいましたが、あまりに国の端なので東征の旅にでました。 出立にあたり塩槌のオジが「東にはすでにニギハヤヒが天の磐船を操って天下っている」と発言しています。 神武が畿内入りする際、ニギハヤヒを神と奉じるナガスネヒコ(トミヒコ)に撃退されました。 そこで神武は南へ迂回して畿内入りし、再びナガスネヒコと対決しました。 金鵄が神武天皇の弓先に止まり、激しく輝くとナガスネヒコは戦意が失われてしまいました。 ナガスネヒコは「私はニギハヤヒを神と奉じ、妹のミカシキヤヒメはニギハヤヒと結婚してウマシマジノミコトという神も生まれた。あなたは天孫だというが、天孫はふたりもいるのか。あなたは私をだまそうとしているのではないか」といい、 ニギハヤヒが天孫であることを示す天の羽羽矢と歩靱をみせました。 すると神武も同じ天の羽羽矢と歩靱をみせました。 それでも長髄彦は考えを変えなかったので、ニギハヤヒは長髄彦を殺しました。ニギハヤヒやウマシマジノミコトは物部氏の祖神とされています。 この物部氏の祖であるニギハヤヒが神武天皇より早く畿内に天下ったとあるところから、神武以前、畿内には物部王朝があったとする説があります。 磐船神社(大阪府交野市) 天の磐船 ニギハヤヒが天下った場所と言われています。④迹見赤檮は弓を神格化したもの?時代が下って飛鳥時代、仏教が日本に伝わると、587年に排仏派の物部守屋vs崇仏派の蘇我馬子の戦いがおきました。 物部守屋は榎の樹の上から弓を射ていましたが、蘇我軍の迹見赤檮(とみのいちい)が守屋を弓で射て守屋は戦死したと伝わります。 この戦いには14歳の厩戸皇子(聖徳太子)も参加していました。 この厩戸皇子には次のような伝説があります。 587年の物部守屋vs蘇我馬子の戦いのとき、厩戸皇子は弓矢で射られそうになりましたが、椋の木の中に隠れて難を逃れました。 大聖勝軍寺(大阪府八尾市) 椋の木は幹が太く、洞ができやすいところから、その洞の中に厩戸皇子が隠れたなどという伝説が創作されたのでしょう。 一方榎は根元から数本に割れることもあり、幹の中に洞ができにくいようです。 昔の人が実によく自然を観察して伝説を創作したかがわかりますね。 さて、守屋を射たのは迹見赤檮(とみのいちい)という人物でしたが、私は迹見赤檮とは実在しない創作上の人物ではないかと思います。 というのはイチイという木があって、木質が弾力性に富むため、アイヌではイチイを用いて弓をつくっていたのです。 迹見赤檮とは守屋を射た弓を神格化したものではないでしょうか。 ⑤迹見首は鳥見物部?さらに迹見赤檮(とみのいちい)という名前に「とみ」とあるのが気になります。 迹見氏は迹見のほか、登美・止美とも記すようです。 登美という言葉は鳥見(登美)郷や登美毘古を思い出させますね。 迹見氏の出自については諸説あります。 a.毛野氏族に属する皇別氏族(新撰姓氏禄) b.渡来系氏族 c.赤檮の出自である迹見首は毛野氏族の登美首・止美首とは別系統で,物部氏の一族で鳥美物部の伴造氏族。 迹見氏の出自がcの物部氏の一族だとすると、物部守屋は一族の迹見赤檮に弓で射られたということになります。 ここで、長弓寺の伝説を思い出してください。 鳥見郷の小野真弓長弓(おののまゆみたけゆみ)は息子の長真呂に射られて死んでしまったのでしたね。 小野真弓長弓は物部守屋、息子の長真呂とは迹見赤檮の琴のように思えるんですが、どうでしょう? 「なんで小野なんだ?物部じゃなかったのかよ?」と言われそうですね。 小野氏って不思議なんですよね。 小野小町は小野氏ではなく、小野宮と呼ばれた惟喬親王のことだと思うし 髄心院 桜 『わが御代に降るながめせしまに』 霊山寺の由来には「小野富人が672年に右大臣を辞して登美山にすみ、鼻高仙人と呼ばれた」とあるんですが、 672年右大臣だったのは小野富人ではなく中臣金で、中臣金が創建した佐久奈度神社には伊勢神宮より賜った鼻高面があって 鼻高仙人と呼ばれた小野富人と中臣金は同一人物のように思えるんですよね。 霊山寺 薔薇会式・えと祭 『鼻高仙人の正体とは』 小野という言葉には、小野=オノ=オン=オニという意味が込められているのかもしれない、と思ったり。 もう少し考えてみます。 ⑥基王がなくなったのは守屋の怨霊の仕業?長弓寺が創建された728年、聖武天皇の子の基王がなくなっています。 聖武天皇はこれを物部守屋の怨霊の仕業であると考え、そのため守屋を慰霊する寺つぃて長弓寺を建てたのではないでしょうか。 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/06/20 09:41]
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京都市山科区 勧修寺 2011年6月20日撮影
①藤原高藤・胤子父娘ゆかりの寺勧修寺の創建は900年。 醍醐天皇が右大臣藤原実方に命じて造立させたとされます。 その目的は醍醐天皇の生母・藤原胤子(実方の同母妹)の菩提を弔うためで、胤子の祖父・宮道弥益(みやじいやます)の邸宅が寺に改められたとされます。(勧修寺縁起) ※胤子が生前に創建したとする史料もあります。 勧修寺という寺名前は胤子の父・藤原高藤の諡号をとったものだということです。 勧修寺近くの民家には勧修寺を造立した藤原実方の墓があるようです。 写真を見ると亀の上に墓碑がたてられており、その後ろに墳墓があります。 藤原実方の墓から徒歩10分程度のところの鍋岡山山頂に藤原高藤の墓があるそうです。 墓碑には「贈正一位太政大臣藤原高藤墓」と記されているとのこと。 ②高藤・列子のエピソードは作り話藤原胤子の父親は藤原高藤、母親は宮道列子で 高藤と列子にはこんな説話?が伝えられています。 高藤が南山階に鷹狩に出かけたとき、急な雨にみまわれて宮道弥益(山城国宇治郡大領)の屋敷を訪れました。 高藤は弥益の娘・列子に一目ぼれして一夜の契りを結びました。 翌日帰宅した高藤は父・良門に厳しくしかられ、鷹狩を禁止されてしまいました。 6年後、高藤は列子と再会しますが、列子は胤子という娘を連れていました。 胤子は6年前に高藤と契ったときにもうけた子供でした。 胤子は成長して宇多天皇の女御となり、醍醐天皇をお産みになられました。人間関係がややこしいですかね。まとめておきます。 説話によれば、高藤は父・良門に鷹狩を禁止されたとありますが、これは事実とは考えにくいです。 というのは良門は高藤がうまれて間もなく亡くなったとされているからです。 ③天皇の外祖父だったのに昇格できなかった藤原高藤①で、藤原高藤の墓碑に「贈正一位太政大臣」と記されているとお話ししましたが、これは藤原高藤の死後に「正一位」が送られたということです。 最終官位は内大臣正三位です。 高藤は父親の良門が低い地位のまま亡くなってしまったため、昇進が遅く、長い間従五位でした。 そして娘の胤子は光孝天皇の第七皇子で、臣籍降下していた源定省の妻となりました。 ところが、887年、源定省は皇族に復帰して即位したのです。(宇多天皇) つまり高藤は天皇の義父になったわけで、このとき正五位下に昇進しています。 893年には胤子の生んだ敦仁親王が立太子して、翌894年には従三位、895年には参議となっています。 897年には敦仁親王が即位(醍醐天皇)し、高藤は正三位・中納言に。 899年には大納言となりました。 900年に危篤となり、天皇の外祖父であることから大臣昇進が検討されました。 しかし、当時左大臣には藤原時平、右大臣には菅原道真がいました。 高藤を大臣にするためには、藤原時平・菅原道真いずれかを太政大臣にする必要があったのですが、両者とも太政大臣の資格を満たしていませんでした。 そこで100年以上途絶えていた内大臣という役職を復帰させて高藤をこれに任じました。 しかし昇進後2か月で薨去し、死後に正一位・太政大臣の官位が送られたのです。 ④藤原基経の後押しを受けて即位した宇多天皇歴史をもう少しさかのぼってみましょう。 藤原良房という人物が娘の明子を文徳天皇に入内させ、紀静子が生んだ第一皇子の惟喬親王をおしのけて、明子が生んだ惟仁親王を生まれたばかりで立太子させました。 惟仁親王が即位して清和天皇となると、藤原良房は養女の藤原高子を清和天皇に入内させます。 そして高子が生んだ貞明親王がわずか9歳で即位して陽成天皇となります。 そして藤原高子の兄で、藤原良房の養子の藤原基経が摂政となりました。 この陽成天皇は清和天皇の子ではなく、在原業平の子だという説があります。 というのは、伊勢物語に在原業平と高子が駆け落ちをしたという話があるからです。 私も陽成天皇は在原業平の子ではないかと思います。 その理由については、こちらの記事をお読みください。→ 龍田川 紅葉 『陽成天皇の父親は在原業平だった?』 陽成天皇は源益を殺したとして退位させられていますが、退位させられた本当の理由は彼が在原業平の子だからだと思います。 そして藤原基経は仁明天皇の第三皇子である時安親王を55歳で即位させます。(光孝天皇) 時安親王の母親は藤原沢子という人で、基経の叔母にあたる人ですね。 光孝天皇は基経の後ろ盾を得て即位したということで基経には逆らえなかったのではないかと想像します。 光孝天皇は陽成天皇の弟の貞保親王をはばかって26人の皇子皇女を臣籍降下させました。 光孝天皇が重体に陥ったとき、基経は後継者に源定省を推しました。 貞明親王は基経の妹・藤原高子の子なのですが、当時基経と高子は大変仲が悪かったようです。 (高子と在原業平の関係が気にいらなかったのでしょう。) そしてその源定省(宇多天皇)の妻が、藤原高藤の娘だったということなんですね。 891年に藤原基経はなくなりましたが、基経の子の時平が権力をひきついで左大臣になっていました。 こういうわけで藤原高藤は天皇の外祖父となっても権力を持つことができなかったのだと思います。 このように見てみると、勧修寺は高藤の娘・胤子を弔うという目的のほか、高藤を弔うための寺という意味も持っていそうに思えます。 それで寺名を高藤の諡号である「勧修」としたのではないかと思われます。 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/06/17 00:31]
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京都市左京区 鞍馬寺 竹伐会式・・・6月20日午後2時より
 ①大蛇を伐る。 平安時代初期の僧である峯延(ぶえん)上人が寛平年間(889~897年)、鞍馬寺で護摩の行をしていると北の峰から大蛇が現れて上人に襲いかかりました。 上人が真言を唱えて調伏すると、別の大蛇が現れ、蛇は鞍馬の御香水を守護すると誓いました。 蛇は里人に神として祀られました。 『竹伐会式』は、この伝説にちなむものだとされます。 丹波座、近江座より2組づつ、合計4組8人の鞍馬法師が登場します。 鞍馬法師は弁慶のようないでたちをしていました。 弁慶は延暦寺の僧兵でした。 ということは、鞍馬法師も僧兵なんでしょうか。 そういえば、ここ鞍馬寺は源義経が幼いころ住んでいたところでしたね。 弁慶は京の五条の橋の上で義経に出会い、生涯義経に仕えました。 鞍馬法師は大蛇になぞらえた長さ4m、太さ10cmの青竹を節ごとに5段に伐る速さを競い合います 早く伐り終えたほうが、豊作になると言い伝えられています。 つまり竹は峯延上人に襲いかかった大蛇をイメージしたもので、これを伐ることで悪霊を退散させようというのがこの会式の主旨なのでしょう。 ②由岐神社鞍馬寺境内に由岐神社があります。 拝殿は桃山時代のもので、真ん中が割れた珍しいデザインは割り拝殿と呼ばれています。 由岐神社はもともとは京都御所にありましたが、地震や平将門の乱などが相次いだために朱雀天皇が詔を出し、940年9月9日に鞍馬に遷宮しました。 遷宮にあたって矢を入れる靱(ゆき)を奉納したところから靱(ゆき)神社と命名され、由岐神社になったとも伝わります。 靱とは矢を入れる道具のことで、細長い袋状の形をしています。 由岐神社の御祭神は大己貴命と少彦名命で、八所大明神が相殿されています。 ③蛇蛇は由岐明神(大己貴命と少彦名命)?大己貴命は大国主命の別名です。 大国主命は葦原中国をおさめていましたが、天照大神は 葦原中国は自分の子孫が収めるべきだとしてタケミカヅチとフツヌシを大国主命のもとに派遣しました。 タケミカヅチとフツヌシは大国主命に「天孫(天照大神の子孫)に国を譲るように」とせまり、大国主命は立派な宮殿を建てることとひきかえに国を譲りました。 この物語は「出雲の国譲り」と言われています。 ですが、「国を譲れ」といわれて「はい、どうぞ」と差し出す王などいるんでしょううか。 実際には、激しい戦いがあったのではないでしょうか。 少彦名命は蛾の皮を着た小さな神様で、大己貴命と少彦名命は兄弟の契りをかわし、共に国作りをしたことが記紀に記されています。 江戸時代までの日本では、神仏は習合して信仰されていました。 ということは、鞍馬寺の伝説に登場する蛇神とは由岐神社の神のことであるとも考えられます。 ④由岐神社の三本杉と大神神社また由岐神社の拝殿の傍には3本の大杉があって、しめ縄がかけられていました。 三本杉といえば大神神社の御神紋です。 http://oomiwa.or.jp/ (サイト上部に三本杉の御神紋があります。) 大神神社の御祭神の大物主神は蛇神とされていて、境内にはいつも蛇の好物である玉子がお供えされています。 さらに、記紀には大物主命と大国主命が同一神であることを示す記述があります。 大国主の前に海の向こうから光り輝く神があらわれて『私を祀るように』と言いました。 大国主が神に名前を問うと『私はあなたの幸霊・奇霊』と答えました。 こうして祀られたのが大神神社です。 (古事記・日本書紀) 従って、大己貴命(=大国主神・・・由岐神社の神)=大物主神(・・・大神神社の神)=蛇神 となるのではないでしょうか? 大神神社 拝殿⑤上人に襲いかかった蛇=荒魂、御香水守護を誓った蛇=和魂鞍馬寺の伝説では最初に上人に襲い掛かる蛇が登場し、その蛇が上人に調服されたのち、御香水守護を誓って神として祀られた別の蛇が登場しますね。 別の蛇、という書き方をしていますが、実はこの二匹の蛇は同体で、上人に襲い掛かった蛇は荒魂、御香水守護を誓った蛇は和魂なのだと思います。 神はその表れ方で、御霊・和霊・荒霊のみっつに分けられるという。 御霊は神の本質、和霊は神の和やかな側面、荒霊は神の荒々しい側面のことをいいます。 御霊・和霊・荒霊という観念は、陰陽道に基づくものだと思います。 陰陽道では荒ぶる怨霊(陰)は十分に祀れば人々にご利益を与えてくださる神(陽)に転じると考えるのだと聞いたことがあります。 神と怨霊は同義語であるともいわれますが、それはそのためでしょう。 ⑥靭が奉納されたのは、その中に蛇をいれておくため?靱がは矢を入れるための細長い入れ物であることはすでにお話ししましたが、靱は蛇を入れておくのにも具合がよさそうです。 蛇神様に靱の中に入っていただき、大人しくしてもらう。 そういった理由で、靱が奉納されたんだったりして? また大物主は矢の神でもあります。というのは、次のような伝説があるのです。 セヤダタタラヒメに一目ぼれした大物主は矢に姿を変えて流れていき、セヤダタタラヒメが用を足すために川へやってきたところを下から陰処をついた。(古事記) 靱は矢の神である大物主を封じ込めておく道具としてもふさわしいものだといえますね。 舞楽の奉納もありました。
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[2018/06/14 16:08]
京都の祭 |
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京都市左京区 安楽寺 2014年6月 撮影
①「くさの地蔵」は「瘡地蔵」?安楽寺の地蔵堂に「くさの地蔵」がお祀りされています。(例によって写真撮り忘れました~。なんでもいいからとにかくシャッターきっとかないとダメですね・・・ 汗) 1991年に解体修理を行った際、胎内に墨書銘が発見されました。 そしてこの銘より、このお地蔵さまが1258年に作られたこと、作者は慶派の仏師であることがわかりました。 「くさの地蔵」は皮膚病・腫瘍を治してくださるお地蔵さまとして厚い信仰を集めているそうです。 なぜ「くさの地蔵」は皮膚病・腫瘍にご利益があると考えられたのでしょうか? 大阪府枚方市の片埜神社に瘡(くさがみ)神社があります。 片埜神社の境外社・瘡(くさがみ)神社 神殿はなく拝殿よりご神体の沼を拝む。瘡は「くさ」とよみ、「皮膚のできもの」を意味します。 「くさの地蔵」の「くさの」がもともとどのような漢字表記だったのかわかりませんが、「瘡」であったかもしれません。 またこれとは異なる漢字、たとえば「早」「草」「総」などであったのかもわかりませんが、この場合は音が「瘡」に通じることから「瘡にご利益のあるお地蔵さま」として信仰されたのだと考えられます。 ②くさの地蔵は北斗七星のみほとけ「くさの地蔵」には柄杓を奉納する習慣があったようです。 なぜ「くさの地蔵」にこのような習慣があったのでしょうか? 安楽寺のhpには次のように記されています。 安楽寺には「くさの地蔵」さまへの願掛けやお礼に奉納された古い柄杓(ひしゃく)がたくさん残されています。 「柄杓」には北斗七星にかたどられ、世界中の神話に神聖な道具として登場するものです。http://anrakuji-kyoto.com/anrakuji.html より引用 「奉納された柄杓に北斗七星がかたどられている」ということでしょうか。 それとも、「柄杓が北斗七星を意味する」という意味でしょうか。 いずれにせよ、「くさの地蔵」は北斗七星に関係するお地蔵さまだということでしょうね。 ③柄杓もしゃもじも杓子ご飯をよそったり、汁をすくう道具のことを杓子といいます。 柄杓は杓子の一種なんですね。 また、しゃもじも杓子の一種です。 そして多賀神社などしゃもじを奉納する習慣のある神社があります。 多賀大社に奉納するしゃもじを象った看板 ④石神→シャクジン→ミジャクジ→シャクシ多賀大社には、寿命石と呼ばれる石があります。 東大寺再建を命じられた重源が多賀大社に東大寺再建を果たすまでの延命祈願をし、東大寺再建後に座り込んでなくなった石だと言われます。 寿命石は多賀大社の神の石だといえます。 つまり多賀大社は石神であり、石神→シャクジン→ミジャグジ→シャクシとなって、杓子の一種であるしゃもじが奉納されるようになったのではないかと私は考えました。 ミシャグジはオシャモジとも呼ばれて信仰されている神で、諏訪地方では白蛇の姿をしているとか、タケミナカタや洩矢神と同一神ともされています。 シャモジを奉納する習慣がある神社はたくさんあり、中には咳にご利益があるとされているところもあります。 それはミシャグジ→御石神→石→セキ→咳という語呂合わせだと思います。  上は大阪四天王寺にある「咳の地蔵尊」ですが、「石の地蔵尊」から語呂合わせで「咳の地蔵尊」となったのではないかと思います。 日本には語呂合わせで神格を広げる習慣があったようで、柿本人麻呂はもともとは和歌三神の一だったのが、人麻呂→ひとまる(火止まる)で防火の神に、ひとうまる(人生まる)で安産の神と神格を広げています。 ●なぜ弓でひいて音を出す楽器を胡というの?青龍山山頂に胡宮の磐座(いわくら)があり、多賀大社の奥の院と呼ばれているそうです。 その青龍山のふもとにある胡宮神社は多賀大社の関係の深い神社だと思われます。 胡宮神社磐座とは信仰の対象とされた磐や石のことです。 青龍山山頂にある胡宮磐座はまさしく石の神ですね。 そして胡宮神社の胡という漢字を漢和辞典で調べてみると、次のように書いてありました。 ①獣のあご。垂れ下がった顎の肉。 ②くび ③なんぞ。なに。いずくんぞ。 ④いのちがながい。としより。おきな。 ⑤とおい。はるか。 ⑥えびす。北方の異民族の名。 ⑦昔の中国で、外国から渡来したものをいう。 ⑧祭器。 ⑨でたらめのこと。 ⑩ほこの首。ほこの先に曲がってわきに出たもの。 角川漢和中辞典(昭和51年 161版)より。①獣のあご。垂れ下がった顎の肉。 ②くびというのが特に気になります。 胡弓という楽器があります。 三味線に似ていますが、三味線と違って弓で弾きます。 琉球には胡弓(クーチョー)、中国には二胡と読いう楽器がありますが、やはり弓で弾きます。 さらに、擦弦楽器を総称して胡弓と呼ぶこともあり、明治初期にはバイオリンのことも胡弓といっていたようです。 つまり弓でひくものが胡弓であり、指やバチではじく三味線やギターは胡弓ではないのです。 それは弓でひくことに、首を刀などで切断しているイメージがあるからではないでしょうか? 動画お借りしました。動画主さんありがとうございます! そう考えると、胡宮神社とはドクロ(首)の神であり、胡宮の磐座を奥の院とする多賀大社もドクロの神ではないかと思われるのです。 そして、しゃもじは胴体から切り離した首=ドクロを思わせる形をしているではありませんか。 つまり、石神=シャクジン=ミシャグジ=杓子=胴体から切り離した首に似ている=ドクロ という関係になっていると思われるのです。 くさの地蔵に戻りましょう。 このくさの地蔵に奉納する柄杓も杓子の一種であり、その形はやはりドクロに似ています。 くさの地蔵もミシャグジと同じくドクロの神なのではないでしょうか。 ただ疑問は残っています。 くさの地蔵は木造であって石仏ではありません。 これが解けねば、くさの地蔵はドクロの神とは断定できない~。 もうちょっと考えてみます。
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[2018/06/12 22:56]
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京都市下京区 京都駅ビル 2016年6月 撮影 ①クチナシの語源は「口無し」or「朽ち無し」?クチナシの語源は諸説ありますが、そのひとつに、実が熟しても裂けないところから「口無し」になったとする説があります。 そしてクチナシは語呂合わせで「朽ち無し」となるので縁起がいいと考えられていたそうです。 うーん、でも、私はクチナシの語源は、案外この「朽ち無し」からくるのではないかとと思ったりしました。 「朽ちる」とは「腐って形がくずれたりぼろぼろになること」を言います。 クチナシは白いきれいな花をつけるんですが、すぐに花びらが茶色くなってしまいますよね。 花が茶色くなると腐って朽ちたように見え、朽ち無しとは言い難いようにも思えます。 しかし、花びらが茶色くなるのは腐っているのではなく、水分が不足して枯れた状態になっているのかもしれません。 (このあたりよくわかりません。) でも私はクチナシの花、大好きなんですよね~。 あの甘い芳香がたまらないんです。 そして、甘い芳香を放つところから、「朽ち無い」と考えらえたのではないかなあと思ったりするのです。 腐ると臭くなるでしょう。 もう少し詳しく説明します。 ②布袋とサンタクロースの袋の中には不老不死の薬が入っている?七福神の一、布袋は亡くなったあと、姿を見かけられています。 これは布袋が死後に生き返ったということでしょう。 千本釈迦堂 布袋像布袋は大きな袋を持っていますが、西洋のサンタクロースも大きな袋を持っています。 サンタクロースのモデルは聖ニコラオという人物ですが、この聖ニコラオは肉屋に殺されて樽につけこんだ子供を生き返らせたという伝説があります。 布袋は自らが生き返り、サンタクロースは死んだ子供を生き返らせた・・・。 布袋やサンタクロースの袋の中には不老不死の薬が入っているのではないでしょうか。 ③香りのいい橘と臭いニンニク垂仁天皇に命じられて、タジマモリが常世の国から持ち帰った不老不死の薬・非時香木実(ときじくのかくのこのみ)は橘とされています。 タチバナの実をむいてみたことはないんですが、ミカン科なので、ミカンのように果皮の中に複数個の実が入っているのでしょう。 一方、ニンニクは薄皮の中に複数の球根が入っています。 薄い皮の中に複数個の球根(ニンニク)または実(橘)が入っているという点で、ニンニクは不老不死の薬・橘と似ています。 上の写真は大阪の交野天神社境内に置かれていた国栄石です。 国栄石がどのようなものなのかわかりませんが、似たような袋が聖天さんを祀る寺の幕などに描かれていたりしますね。 それはともかく、この国栄石、なんとなくニンニクに似ていませんか? ドラキュラはにんにくが苦手ですね。なぜドラキュラはニンニクが苦手なんでしょうか。 ニンニクを見つけたドラキュラはこんな風に考えたかも。 「おっ、不老不死の薬見っけ~」ところがドラキュラが不老不死の薬だと思ってニンニクを手にとると、強烈な臭いが! 「うへっ、腐ってるじゃん~!」きっとドラキュラはそう思ったに違いありません。 私は橘を手に取ってにおいをかいでみたことがないんですが、聞くところによるとフローラル系のよい香りなのだとか。 よい香りがすることが不老不死の薬の条件なのではないでしょうか。 ③死者は復活するためいい香りを食べる?なぜお寺では線香をたくのでしょうか? 仏教経典のひとつ「倶舎論(くしゃろん)」には、「死後の人間が食べるのはは匂いのみ。善行を行った死者は良い香りを食べる」と記されているそうです。 そして死者は四十九日まで線香の香りを食べる(食香)と考えられていたそうです。 線香は死者の食べ物だったんですね。 線香は白檀のよい香りがします。 よい香りは死者が復活するための不老不死の薬なのかも?
④水銀の防腐作用
橘のほかにも不老不死の薬と信じられていたものがあります。水銀です。 なぜ水銀が不老不死の薬であるなどと考えられたのでしょうか。 それは水銀の防腐作用によるものだと私は思います。 かつて即身仏になろうとした人が大勢いましたが、彼らの目的は56億7000万年後に弥勒菩薩があらわれたとき、生き返ってその聖業に参加するためだったといわれます。 生き返るためには魂の容れ物である肉体が必要だと考えられていたのでしょう。
即身仏となるためには木食といって五穀を絶ち、木の実や草、木の皮のみを食べる木食という修行を行いました。 脂肪を落とし、死後腐りにくい体にするために木食を行ったのですが 水銀土壌の湯殿山に多くの即身仏が残されています。 これは水銀土壌で育った木の実や草や木の皮を食べることで体内に水銀が蓄積し、水銀の防腐作用で死後腐りにくい体になったためだといわれています。
昔の人は、死後腐らない肉体を持つことが不老不死であると考えていたのだと思います。 即身仏をみると、みかけは黒ずんでいたり、乾燥したりしていますが、腐ってはいません。 腐らないので死臭がしないはずです。(こちらもにおいをかいだことがないのでわからないのですが)
花は茶色くなりやすいですが、よい香りがするクチナシと、乾燥して美しいとはいえなくても臭くない即身仏は似ているようにおもいます。

東福寺付近 クチナシ
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[2018/06/10 18:35]
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京都市左京区 岡崎神社 2017年5月30日 撮影
岡崎神社
①廣峯神社から八坂神社へ遷座する途中、牛頭天皇が休憩された場所 牛頭天皇(スサノオと習合されている)の総本社はどこでしょうか? 「そりゃー、京都の八坂神社だよ」と答える人が多いと思いますし、八坂神社も牛頭天皇の総本社を称しています。 ところが、兵庫県姫路市の広峰神社(兵庫県姫路市広嶺山52)もまた牛頭天皇の総本宮を称しています。。 広峰神社側の資料には次のようにあります。 ①869年疫病が流行り、藤原基経が播磨国の牛頭天皇を都に勧請した。 ②京都四条にある元祇園梛神社(京都市中京区壬生梛ノ宮町18-2)は、この時、牛頭天王の乗る御輿を梛の林中に置いて祭ったことが始まりである。  ③京都に着いた牛頭天王は北白川の東光寺に祭られた。 ④その後、藤原基経が八坂にあった邸宅を寄進して感神院祇園社を建立し、牛頭天王を遷座した。(現在の八坂神社) ⑤しかし疫病はおさまらず、広峯神社の社人を都に招いて白幣祭を行わせたところ疫病はおさまった。 ⑥この白幣祭が祇園御霊会のルーツである。 八坂神社しかし八坂神社は鎌倉時代に入ってから広峯神社が言い出したことだとしているようです。 また神戸の祇園神社、大阪の難波八阪神社、そしてここ京都の岡崎神社などは、神様を廣峯神社から八坂神社へ移した際に神様が休憩された場所と伝わっています。 みなさんはどちらが正しいと思いますか? 岡崎神社
②三女五男八柱神岡崎神社ではスサノオ・クシイナダヒメ・三女五男八柱神をおまつりしています。 スサノオは天照大神にいたずらをした罪で高天原を追放され、葦原中国に天下ります。 そして八岐大蛇を退治してアシナヅチ・テナヅチの娘であるクシイナダヒメを救い、彼女と結婚しました。  貴船神社 貴船祭 出雲神楽 八岐大蛇・スサノオ・クシイナダヒメ 三女五男八柱神とはスサノオ・クシイナダヒメの間に生まれた三柱の女神と五柱の男神の総称です。 ウィキペディアの「岡崎神社」の項目のところに記された「三女五男八柱神」の文字をクリックすると、「アマテラスとスサノオの誓約」の項目に飛びます。 岡崎神社・・・ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%B4%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BEアマテラスとスサノオの誓約・・・ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%86%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%B5%E3%83%8E%E3%82%AA%E3%81%AE%E8%AA%93%E7%B4%84なんで「アマテラスとスサノオの誓約」に飛ぶんですかね? 「アマテラスとスサノオの誓約」の項目には天照大神とスサノオが誓約の子産みをして宗像三女神(多紀理毘売命・市寸島比売命・多岐都比売命)と五柱の男神(勝吾勝勝速日天之忍穂耳命・天之菩卑能命・天津日子根命 ・活津日子根命・熊野久須毘)を産んだという話が記されています。 三女五男八柱神とは宗像三女神と五柱の男神(勝吾勝勝速日天之忍穂耳命・天之菩卑能命・天津日子根命 ・活津日子根命・熊野久須毘)だといいたいのでしょうか? ですが、これらの神々は天照大神とスサノオの間に生まれた神々で、スサノオとクシイナダヒメの間に生まれた神々ではないはずです。 八坂神社の項目には御祭神としてスサノオ・クシイナダヒメ・八柱御子神(八島篠見神・五十猛神・大屋比売神・抓津売神・大年神・宇迦之御魂神・大屋毘古神・須勢理毘売命)と神名があげられています。 三女五男八柱神ってこの八柱御子神のことなんじゃないの?と一瞬思いますが、八島篠見神・五十猛神・大屋毘古神が男神大歳神・大屋比売神・抓津売神・宇迦之御魂神・須勢理毘売命が女神のようです。 ※大歳神は多くの神々の父親ともされますが、陰陽家では大歳神を頗梨采女のことだとしているそうです。
女神が五柱、男神が三柱なので、三女五男八柱神だとはいえないですね。 元祇園社を称しているもうひとつの神社・広峰神社の御祭神はどうなっているんでしょうか? 正殿・・・スサノオ・五十猛命 左殿・・・クシイナダヒメ・アシナヅチ・テナヅチ 右殿・・・宗像三女神・天忍穂耳命・天穂日命ほか
となっていて、八坂神社や岡崎神社の御祭神とは異なっています。 うーん?
神社名 | 夫婦 | | | 天照大神&スサノオ | 宗像三女神 多紀理毘売命・市寸島比売命・多岐都比売命 五柱の男神 勝吾勝勝速日天之忍穂耳命・天之菩卑能命・天津日子根命 ・活津日子根命・熊野久須毘
| 八坂神社 | スサノオ&クシイナダヒメ | 八柱御子神 八島篠見神・五十猛神・大屋毘古神 大屋比売神・抓津売神・大年神・宇迦之御魂神・・須勢理毘売命
| 岡崎神社 | スサノオ&クシイナダヒメ | 三女五男八柱神 |

八坂神社 西楼門
③日本の神は性別がルーズ
八坂神社の八柱御子神は男神三柱、女神五柱、一方岡崎神社の三女五男八柱神は女神が三柱、男神が五柱で男女の数が逆になっています。
ですが、日本の神は性別がルーズです。 上表では一応大歳神は陰陽家の考えに従って女神としましたが、多くの神々の父神ともされていて、性別が大変ルーズです。
また亀岡祭では、一般には女神とされている宇迦之御魂神は男神でしたし、男神とされている三輪明神は女神でした。
聖徳太子が女に生まれ変わって親鸞の妻になろうといったという伝説もあります。
ですから、岡崎神社の三女五男八柱神は、八坂神社の八柱御子神の性別がすべて逆になったものとも考えられます。
八坂神社 舞殿
④天照大神とクシイナダヒメは同一神?
ウィキペディアが「三女五男八柱神」のリンクを、「アマテラスとスサノオの誓約」にはっているのは、天照大神とスサノオの誓約によって生まれた八柱の神々と、岡崎神社の三女五男八柱神を混同したのかもしれません。
ですが、案外、間違いとも言い切れないかも? というのは天照大神とクシイナダヒメは同一神であるとも考えられるからです。
スサノオの妻には神大市比賣命もいますが、この神大市比賣命の『大市』という言葉には聞き覚えがあります。
日本書紀に次のように記されています。
倭迹迹日百襲姫命は大物主神の妻となったが、大物主神は昼は姿を見せず、夜になるとやって来た。 倭迹迹日百襲姫命は次のように言った。 『あなたは夜にしかいらっしゃらないので、お顔を見ることができません。今日はもうちょっと留まってお顔を見せて下さい。』 大物主神は『明日の朝はあなたの櫛函に入っていよう。しかし私の形を見て驚かないように。』といった。 朝になって、倭迹迹日百襲姫命は函を開けた。そこには麗しい小蛇がいた。 倭迹迹日百襲姫命は驚いて叫んだ。 大物主神は、『驚くなと言ったのに、私に恥をかかせたな。今度はお前に恥をかかしてやる。』と言って、大物主神は空を舞い三輪山を登っていった。 倭迹迹日百襲姫命は大物主神が去る姿を仰ぎ見て悔い、座り込んだ拍子に、箸で陰部をついて死んでしまった。 こうして倭迹迹日百襲姫命は大市に葬られ、墓は箸墓と呼ばれている。
箸墓古墳
倭迹迹日百襲姫命は大市に葬られています。 神大市比賣命とは大市に葬らた神という意味ではないでしょうか。 とすれば神大市比賣命とは倭迹迹日百襲姫命のことだということになりますね。
また、籠神社で発見された系図に、始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)の9代目の孫に日女命(ひめのみこと)とあり、脇に、『またの名を倭迹迹日百襲姫命』、『またの名を神大市姫命』、『日神ともいう』と記されています。 籠神社の系図も神大市比賣命=倭迹迹日百襲姫命となって整合性がとれます。
籠神社
そして籠神社の系図に記されている、日女命・日神とは天照大神のことだと思われます。
神大市比賣命=倭迹迹日百襲姫命=日女命=天照大神
上の例のように、記紀は一柱の神に複数の名前をつけているのではないかと思えるフシがあります。 なので、クシイナダヒメとは天照大神の別名であり、スサノオ&クシイナダヒメの間に生まれた三女五男八柱神と、 スサノオ&天照大神の間に生まれた宗像三女神+五柱の男神は同一神ではないかとも思えるわけです。
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[2018/06/06 10:10]
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大阪府枚方市 山田池公園 2007年6月4日 撮影 ①山田池付近にあった春日明神に対する信仰かつて山田池の北の春日山には春日社があったそうです。 春日社といえば奈良の春日大社を思い出しますね。 藤原氏の氏神です。 枚方市の14kmほど南の大阪府東大阪市には枚岡神社があり、元春日と呼ばれています。 枚岡神社が元春日と呼ばれているのは、もともとアメノコヤネノミコトとヒメミカミを御祭神としており この枚岡神社から奈良の春日大社に勧請されたからです。 春日大社は藤原氏の氏神をまつる神社です。 アメノコヤネノミコトは中臣氏の祖神とされます。 中臣氏とは大化の改新で有名な中臣鎌足を輩出した支族ですね。 この中臣鎌足が死の間際に天智天皇より「藤原姓」を賜ったとされます。 それで中臣氏の祖神は藤原氏の祖神でもあるとされ、枚岡神社の神が奈良春日大社に勧請されたのでしょうね。 ②中臣鎌足は藤原姓を賜っていなかった?ですが、中臣鎌足が天智天皇より藤原姓を賜ったというのは怪しいです。 というのは天智天皇の死後、壬申の乱(大友皇子/天智天皇の皇子vs大海人皇子/天智天皇の弟)がおこり、 勝利した大海人皇子が即位して天武天皇となり、藤原京を建都しています。 藤原という臣下がいるのに、都に藤原京という名前をつけるでしょうか? おまけに天武天皇13年(684年)に八色の姓が定められ、52氏が朝臣を与えられたんですが、この中に藤原姓がない! ③藤原京建都に功績のあった不比等が藤原京にちなんで藤原姓を賜った?https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14151135009↑ 上記知恵袋の banquo0421さんの回答が興味深いです。 要約すると次のような内容が記されています。 ⑴臣下の姓と同じ名前が、新しい宮につけられる、というようなことはない。 臣下のほうが遠慮して改姓するはずである。(823年、大伴氏は大伴親王(淳和天皇)が即位した際)した際、天皇の諱と同じ姓であるのを憚って伴氏に改姓している。)
⑵天智天皇の子孫は近江京にちなんで淡海氏という姓を賜った。 天武天皇の子孫は飛鳥浄御原宮にちなんで清原氏という姓を賜った。 桓武天皇の子孫は平安京にちなんで平氏という姓を賜った。
⑶⑵の例からわかるように「都の名前が姓になる」ことは普通にあった。
⑷中臣鎌足が藤原姓を賜ったのではなく、藤原京建都に功績のあった不比等が藤原京にちなんで藤原姓を賜ったのではないか。
⑸実質上、日本書紀を編纂したのは藤原不比等である。不比等が「鎌足が天智天皇より藤原姓を賜った」と偽ったのではないか。
⑹不比等は手柄を誇らない性質で、生涯右大臣にとどまっていた。(政界のトップは左大臣) また、律令・日本書紀の編纂を主導したが、自分の名前が表に出ないようにしている。 不比等は自分が「天皇から姓を給わるような大物である」ことを誇りたくなかったのではないか。
⑺自分一代でのしあがった成り上がり者だと思われたくなかったのではないか。
おお~、すばらしい回答ですね! 論理的に筋が通っていると思います。 ④タケミカヅチに土地を奪われた榎本の神春日大社の摂社・榎本神社に次のような伝説が伝えられています。 榎本神社武甕槌命は春日野の地主である榎本の神に『この土地を地尺だけ譲ってほしい』と言いました。 榎本の神は『三尺くらいなら』と承諾しました。 ところが武甕槌命は広大な土地に囲いをしたので、榎本の神は『話が違う』と抗議しました。 武甕槌命は『私は地下三尺と言ったのに、あなたが聞き取れなかったのです。』といっいました。 しかし榎本の神が住むところがないと困るので、春日大社本殿のすぐそばに社を作りました。榎本の神は耳が遠いとされ、そのため柱を叩き、祠を回って参拝する習慣がありますが、それはこの伝説からくるものでしょう。 榎本神社の御祭神は猿田彦です。 記紀によれば、猿田彦は「高天原から葦原中国までを照らす神」だと記されていますが、これにぴったりな神名を持つ神がいます。 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)です。 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊というのは先代旧事本紀の記述で、記紀では単に、ニギハヤヒとなっています。 ニギハヤヒは物部王朝の祖神で、初代天皇の神武が日向から東征して畿内入りする以前に天下っていたとされます。 ここから神武以前に物部王朝があったとする説もあります。 つまり猿田彦とニギハヤヒは同一神だと考えられます。 ということは榎本の神は物部氏の神なのではないでしょうか? 飛鳥時代、物部守屋という人物がいました。 587年、排仏派の物部守屋は崇仏派の蘇我馬子や聖徳太子と戦い、榎の枝で指揮をとっていたところ、迹見赤檮に矢で射落とされて死亡しました。 榎本の『本』を漢和辞典でひくと『下の意を表す。』とあります。 榎本明神とは榎の木の上で指揮をとっていたところを矢で射落とされた物部守屋のことではないでしょうか。 ④肩野物部氏で、現在の大阪府枚方市・交野市あたりはかつては交野ケ原と呼ばれ、肩野物部氏がすんでいたとされます。 山田池のあたりも交野物部氏がすんでいたと考えられます。 山田池のほとりにある春日山の春日社は物部氏の神を祀っていたのかも? だけど、物部氏の神だとするとなぜ春日社という名前なのでしょう? 春日氏という氏族もいて、春日社は春日氏と関係が深いようにも思われます。 これは今後の宿題とさせていただきます。(宿題たまってるよ!) ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/06/04 17:58]
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