京都市左京区 平安神宮
2009年 6月初旬 撮影
①平安神宮神苑に路面電車が置かれているわけ平安神宮の南神苑の中にアンティークな電車が置かれています。
配色やデザインなどとてもおしゃれですね~。
日本で初めて運行された路面電車の車両なのだそうです。
だけどなぜ神社の神苑に路面電車なんでしょうか?
明治28年、京都で第4回内国勧業博覧会が開催されました。
このとき大内裏が実物の8分の5の規模で復元されました。
これが平安神宮で、第50代桓武天皇と第121代孝明天皇をお祭りしています。
桓武天皇は794年に平安京遷都された天皇、孝明天皇は明治天皇の父親で平安京で過ごされた最後の天皇です。
平安京は明治天皇が東京に移られた1868年まで、1000年以上も日本の都だったのですね~。
明治28年2月1日、第4回内国勧業博覧会に合わせて京都電気鉄道が日本で初めての鉄道を開業しました。
初めて開通した路線は東洞院塩小路下ル(京都駅近く)⇔伏見下油掛(京橋)間で、4月1日には七条から岡崎の博覧会場にいたる路線が開業しました。
なるほど、そういうわけで神苑に路面電車が置かれているんですね。
現在では京都の路面電車の多くは廃線になりましたが、昔、京阪四条駅から路面電車に乗って美術館まで行った記憶があります。
懐かしいなあー。
②桓武天皇、怨霊を恐れて長岡京から平安京に遷都する。平安神宮の御祭神の桓武天皇は794年に平安京に遷都しましたが、784年に長岡京遷都してわずか10年しかたっていませんでした。
わずか10年で長岡京から平安京に遷都したのは、早良親王の怨霊から逃れるためだと言われています。
早良親王は桓武天皇の同母弟で桓武天皇の皇太子にたてられていました。
ところが785年、早良親王は藤原種継暗殺事件に連座したとして乙訓寺に幽閉されてしまいます。
(
乙訓寺 牡丹 『早良親王の霊を封じる牡丹』 )
早良親王は無実を主張してハンガーストライキを決行し、淡路へ流罪となる船の上で憤死したと伝わります。
その後、桓武天皇の桓武天皇の母親や后があいついで死亡しました。
また疫病の流行や洪水などがあり、それらは早良親王の怨霊の祟りであると考えられました。
長岡京は早良親王の怨霊が住む土地だと考えられ、桓武天皇は早良親王の怨霊から逃れるために長岡京を捨てたというわけです。
③桓武天皇、天智系天皇の都を作る?それでは桓武天皇が784年に平城京から長岡京に遷都したのはなぜなのでしょうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E4%BA%AC上記、ウィキペディアには次のように記されています。
「天武天皇系の政権を支えてきた貴族や寺院の勢力が集まる大和国から脱して、新たな天智天皇系の都を造る意図があったといわれる。」
この説に私は賛成です。
672年、天智天皇の弟である大海人皇子と天智天皇の子である大友皇子が皇位をめぐって争い、大海人皇子が勝利しました。(壬申の乱)
大海人皇子は即位して天武天皇となりました。
それ以降、ずっと天武系の天皇が即位していますが、称徳天皇は女性で結婚が許されなかったため跡継ぎがいませんでした。
称徳天皇が急病を患って崩御されたのち、天武系の血筋がたえてしまいました。
そして、藤原永手の後押しを受けて、天智天皇の孫の光仁天皇が即位したのです。
藤原永手は藤原不比等の孫にあたる人物ですが、藤原不比等は天智天皇の落胤であると噂されていました。
これが本当ならば藤原氏は天智天皇の血をひく氏族だということになります。
藤原永手が天智天皇の血をひく光仁天皇の後押しをしたのは、天武の国を廃して天智系の国を作りたいという願いがあったためではないでしょうか。
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[2018/05/30 12:15]
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