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一ノ宮神社 キリシマツツジ 『日本の城と日本の地形の関係』 

兵庫県丹波市氷上町上成松 一ノ宮神社
2018年 4月29日 撮影


一ノ宮神社 キリシマツツジ4

①一ノ宮神社

京尾山のふもとに鎮座する一ノ宮神社。
本殿を取り囲むようにキリシマツツジが植えられていました。
樹齢300年を超える古木とのことです。

一ノ宮神社 キリシマツツジ-本殿2

②勝田勘八郎、明智光秀軍の猛攻に討死する。

一ノ宮神社東側の平地にはかつて成松城があったそうですが、成松城の遺構らしきものはないようです。
成松城は後屋城主・赤井氏が築造したものですが、天正期には勝田勘八郎の居城となっていたようですね。

一ノ宮神社からほど近いところに赤井直正の居城だった黒井城跡があります。
参照/黒井城 レンゲ 鯉のぼり 夕景 『ひとりで直正に会いにきた脇坂安治』 

黒井城 鯉のぼり

黒井城跡

1575年、赤井直正は但馬の竹田城を攻めます。

竹田城跡 合成

竹田城跡


竹田城の山名祐豊は信長に援軍を要請し、信長は明智光秀を送りました。
信長は竹田城主・山名祐豊の援軍要請をきっかけにして丹波攻略をはじめたわけです。
明智光秀は最初は丹波側の反撃にてこずるも、次々に丹波の城を落としていきます。
1578年、赤井直正が病死し、黒井城も落ちてしまいました。

そして1579年、勝田勘八郎が明智軍と戦って討死したといいますから、このとき成松城もおちてしまったのでしょう。
こうして、信長の命をうけた明智光秀によって丹波は平定されてしまうのです。

亀岡光秀祭-2

亀岡光秀祭 (白馬にまたがっているのが光秀役の方)

功をあげた明智光秀ですが、信長のパワハラに切れたのか、1582年に「本能寺の変」をおこして信長を討伐してしまいます。
このとき豊臣秀吉は中国地方に出兵していましたが、本能寺の変がおこったことを知るや、急遽毛利氏と和睦を結び、京へ引き返しています。
そして山崎で光秀軍と戦い、光秀は敗走する途中、落ち武者狩りの農民に竹槍で刺されて重傷を負い、もはやこれまでと自害してしまうのですね。

参照/http://kntryk.blog.fc2.com/blog-entry-1148.html

こうして赤井直正・勝田勘八郎・織田信長・明智光秀らはみな死んでしまいました。南無阿弥陀仏~。

一ノ宮神社 キリシマツツジ3 

③日本人は山が多い地形を生かして山城を作った。

ウィキペディアにこんなことが書いてありました。

本来、城は、環濠や城壁で囲まれた町を指す語として中国で成立した。しかし国土の8割が山岳部を占める日本において防衛施設は、より堅牢な山城に拠ることが多かった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%9F%8E#歴史 より引用

上の写真を見てもわかるとおり、竹田城・黒井城は山城ですね。
光秀の居城だった亀山城は平山城(平野の中にある山や丘に築かれた城)です。

亀岡光秀祭 火縄銃 
亀山城跡

④堀は城壁よりも防御能力にすぐれている?


ときどき、こんなことを言う人がいます。

外国の城は町全体を取り囲むように城壁がつくられ、城壁の中に大勢の民衆が住んでいた。
これは外国の戦争は領土獲得のほか、奴隷獲得を目的としていたため、民衆を城壁で守る必要があったからだ。

日本の城下町は城壁で囲まれていなかった。
これは日本の戦が領土獲得を目的としていて奴隷獲得を目的にしていなかったため、市民を城壁で守る必要がなかったからだ。


これが間違いであるということは、次の記事で述べました。
大阪城 イルミナージュ 『城壁vs堀。防御能力はどちらが優れている?』 

乱取りといって戦のあと負けた側の領民を奴隷にするということがあり、日本に奴隷はいなかったとはいえません。
また城下町の周囲には堀がめぐらされていることが多かったようです。
城壁はなかったかもしれませんが、堀が民衆を保護する役割を担っていたと考えられます。
そして、城壁よりも堀のほうが防御能力は優れていると思います。
城壁は大砲で簡単に壊れますが、堀を埋めるのは大変な時間と労力がかかります。
弓矢や火縄銃をあびせられる中、堀を舟で渡りきるのも難しいと思われます。

一ノ宮神社 キリシマツツジ

⑤中国やヨーロッパの平たんな土地には山のように外敵から身を守るものがない。


それにしても、なぜ日本では海外にあるような城壁が作られなかったのか、疑問に思っていました。
逆に言うと、海外ではなぜ日本にはあまり見られない町全体を囲む城壁都市がつくられたのか、ということです。

ウィキペディアを読むと、それは中国やヨーロッパは平たんな土地が多いので、山など外敵から身を守るものがなく、そのため城壁都市が発達した、ということがわかります。

日本は中国やヨーロッパと違い、山が多い。
それでわざわざ人工的な城壁を作るよりも、防御能力の高い山に城を作ることが多く、そのため城壁都市が発達しなかったといえるかもしれませんね。

一ノ宮神社 キリシマツツジ2

成松城の隣には京尾山があるのに、そこに城をつくらず、その隣に平城として成松城を作ったのはなぜでしょうか。
一ノ宮神社についてググってみても、創建年や御祭神など、でてこないので、よくわからないんですが
京尾山には古くから一ノ宮神社がまつられており、聖域であるとして避けたのかも?




一ノ宮神社の西の山は京尾山で、東の平地部分に成松城があったとされます。
京尾山は自然の城壁としての役目を持っていそうです。
また西部や南部には加古川が流れており、これが堀のような役割をはたしていたのかも?



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[2018/05/11 18:23] 兵庫県 | トラックバック(-) | コメント(-)