Author:佳音
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世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし/在原業平世の中に桜というものがなかったならば、もっとのどかな気持ちで春を迎えられるのに、という歌です。一般には、桜が美しすぎるため、見る人の心をそわそわさせるという意味だとされていますが業平は良房の次の歌をうけてこの歌を詠んだのではないかと私は考えています。染殿の后のおまへに花瓶(に桜の花をささせたまへるを見てよめる年ふれば 齢()は老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし/藤原良房つまり、桜とは藤原明子のことで、「明子がいなかったなら、清和天皇が生まれることはなく、私がお仕えする惟喬親王が天皇になっていたのに。明子など消えてしまえ。」という意味ではないかと思うのです。天つかぜ 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ/遍照(天の風よ、吹いて雲のすきまを閉じてしまっておくれ。乙女の姿をもう少し見ていたいから。)この歌は詞書に「五節の舞姫をみてよめる」とあります。遍照は宮中を天上になぞらえ、そのため宮中に吹く風を「天つかぜ」と表現したと解釈されています。古今和歌集では作者は「よしみねのむねさだ(遍照の在俗時の名前)」となっており、遍照が出家する(850年)以前に詠んだ歌だと一般には考えられていますが、僧侶がこんな好色な歌をよむなんてけしからん、という批判をさけるために在俗時の名前にしたのかもしれません。世継ぎ争いに勝利した惟仁親王は859年に即位して清和天皇となったわけですがこの際の大嘗祭で、藤原良房の養女・藤原高子が五節舞姫をつとめています。そして866年には清和天皇に入内して女御となりました。高子が清和天皇に入内したことで藤原良房はますます権力を高めていきます。遍照の歌にある「をとめ」とは859年の清和天皇即位に伴う大嘗祭で五節舞姫をつとめた藤原高子のことではないでしょうか。遍照は宮中を天上になぞらえているのでしたね。そして「風よ、高子を天上(宮中)に入れないでくれ。清和天皇に入内させないでくれ」と詠んだ歌のように思えます。⑦福屋隆兼にあてて光秀が送った手紙はフェイク情報だった?次にbについて考えてみましょう。b.本能寺の変がおきたのは6月2日。5月28日に福屋隆兼にあてて光秀が送った手紙には「信長より山陰道への出陣を命令されたので、備中に着陣のうえ様子を見て伯耆へ発向する予定。その際には、格別の貢献を期待しています。」とあり、5月28日には謀反を決意していなかった。備中とは現在の岡山県西部、伯耆とは鳥取県中部・西部にあたります。福屋 隆兼は(ふくや たかかね)は、石見の国人で、本明城の城主でした。石見は島根県西部のことで、、地理的に伯耆に近いです。それで福屋隆兼に援軍を依頼する文を送ったと考えられます。しかし、時に人は真実をわかりにくくするための工作をすることがあります。光秀は何らかの意図があって、福屋隆兼に「伯耆へ行く」とフェイク情報を流したとも考えられますよね?「本城惣右衛門覚書」によれば、雑兵は信長討伐という目的を最後まで知らされておらず、信長の命令で徳川家康を討つのだと思っていたとあります。信長討伐という目的は光秀に近しい数人しか知らないことだったのでしょう。福屋隆兼にあてて光秀が送った手紙がフェイク情報だったと仮定した場合、どういう目的で光秀はフェイク情報を流したのでしょうか?すいません、わかりません!(汗)もうちょっと考えてみます。 ⑧愛宕百韻を鑑賞してみる。c.愛宕百韻は全体的に見ると雅な句が多く、信長打倒の意思表示とは思えない。これを検証するため、まずは愛宕百韻を鑑賞してみました。http://www.nobunaga-lab.com/labo/12_honnouji/atago100.html 意味がわからない箇所がたくさんありますが、次のように解釈できなくもありません。
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