京都市左京区 平安神宮 2009年 6月初旬 撮影 ①平安神宮神苑に路面電車が置かれているわけ平安神宮の南神苑の中にアンティークな電車が置かれています。 配色やデザインなどとてもおしゃれですね~。 日本で初めて運行された路面電車の車両なのだそうです。 だけどなぜ神社の神苑に路面電車なんでしょうか? 明治28年、京都で第4回内国勧業博覧会が開催されました。 このとき大内裏が実物の8分の5の規模で復元されました。 これが平安神宮で、第50代桓武天皇と第121代孝明天皇をお祭りしています。 桓武天皇は794年に平安京遷都された天皇、孝明天皇は明治天皇の父親で平安京で過ごされた最後の天皇です。 平安京は明治天皇が東京に移られた1868年まで、1000年以上も日本の都だったのですね~。 明治28年2月1日、第4回内国勧業博覧会に合わせて京都電気鉄道が日本で初めての鉄道を開業しました。 初めて開通した路線は東洞院塩小路下ル(京都駅近く)⇔伏見下油掛(京橋)間で、4月1日には七条から岡崎の博覧会場にいたる路線が開業しました。 なるほど、そういうわけで神苑に路面電車が置かれているんですね。 現在では京都の路面電車の多くは廃線になりましたが、昔、京阪四条駅から路面電車に乗って美術館まで行った記憶があります。 懐かしいなあー。 ②桓武天皇、怨霊を恐れて長岡京から平安京に遷都する。平安神宮の御祭神の桓武天皇は794年に平安京に遷都しましたが、784年に長岡京遷都してわずか10年しかたっていませんでした。 わずか10年で長岡京から平安京に遷都したのは、早良親王の怨霊から逃れるためだと言われています。 早良親王は桓武天皇の同母弟で桓武天皇の皇太子にたてられていました。 ところが785年、早良親王は藤原種継暗殺事件に連座したとして乙訓寺に幽閉されてしまいます。 ( 乙訓寺 牡丹 『早良親王の霊を封じる牡丹』 ) 早良親王は無実を主張してハンガーストライキを決行し、淡路へ流罪となる船の上で憤死したと伝わります。 その後、桓武天皇の桓武天皇の母親や后があいついで死亡しました。 また疫病の流行や洪水などがあり、それらは早良親王の怨霊の祟りであると考えられました。 長岡京は早良親王の怨霊が住む土地だと考えられ、桓武天皇は早良親王の怨霊から逃れるために長岡京を捨てたというわけです。 ③桓武天皇、天智系天皇の都を作る?それでは桓武天皇が784年に平城京から長岡京に遷都したのはなぜなのでしょうか。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E4%BA%AC上記、ウィキペディアには次のように記されています。 「天武天皇系の政権を支えてきた貴族や寺院の勢力が集まる大和国から脱して、新たな天智天皇系の都を造る意図があったといわれる。」 この説に私は賛成です。 672年、天智天皇の弟である大海人皇子と天智天皇の子である大友皇子が皇位をめぐって争い、大海人皇子が勝利しました。(壬申の乱) 大海人皇子は即位して天武天皇となりました。 それ以降、ずっと天武系の天皇が即位していますが、称徳天皇は女性で結婚が許されなかったため跡継ぎがいませんでした。 称徳天皇が急病を患って崩御されたのち、天武系の血筋がたえてしまいました。 そして、藤原永手の後押しを受けて、天智天皇の孫の光仁天皇が即位したのです。 藤原永手は藤原不比等の孫にあたる人物ですが、藤原不比等は天智天皇の落胤であると噂されていました。 これが本当ならば藤原氏は天智天皇の血をひく氏族だということになります。 藤原永手が天智天皇の血をひく光仁天皇の後押しをしたのは、天武の国を廃して天智系の国を作りたいという願いがあったためではないでしょうか。 まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/05/30 12:15]
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奈良市西紀寺町 璉珹寺 2018年5月中旬 撮影
①喜撰法師=紀有常?璉珹寺は奈良時代に聖武天皇の勅願により行基が創建し、平安時代に紀有常が再興したと伝わります。 おお、紀有常! このブログの中で何度も登場していただいた人物です。 百人一首に喜撰法師という歌人の歌がありますが、この喜撰法師とは紀仙法師で、紀名虎(有常の父)または紀有常のことではないかといわれています。 ②紀氏と藤原氏の世継ぎ争い紀名虎には紀静子という娘がありました。 紀有常は紀名虎の息子で紀静子の兄です。 紀静子は文徳天皇に入内し第一皇子の惟喬親王を御産みになりました。 文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えていました。 ところが、文徳天皇と藤原良房の娘・藤原明子との間に惟仁親王が生まれると 生まれたばかりの惟仁親王が皇太子となってしまいました。 文徳天皇は「惟喬親王を皇太子にしたい」と源信に相談しましたが、源信は当時の権力者・藤原良房を憚って天皇を諫めたそうです。(源信の日記による) ③惟喬親王のクーデター計画?世継ぎ争いに敗れた惟喬親王はたびたび歌会を開いていますが、その歌会のメンバーに遍照・在原業平・紀有常らの名前があります。 紀有常=喜撰法師とすると、六歌仙(遍照・喜撰法師・在原業平・文屋康秀・小野小町・大友黒主)のうち3人までが惟喬親王の歌会メンバーだったことになりますね。 彼らは歌会と称して惟喬親王を担ぎ上げてクーデターを企てていたのではないかという説があります。 惟喬親王像 木地師の里④六歌仙は怨霊だった?六歌仙は全員藤原氏と確執があった人物です。 六歌仙とは歌のうまい6人の歌人であるとされていますが、それは現代人の勘違いで、六歌仙とは怨霊ではないかと高田祟史さんはおっしゃっています。 遍照 | 藤原良房にすすめられて出家したが、生涯出家した理由を他人に語らなかった。 | 喜撰法師(紀有常) | 世継ぎ争いにで藤原良房の孫・惟仁親王に敗れた惟喬親王の叔父 | 在原業平 | 紀有常の娘を妻としており、惟喬親王の寵臣でもあり、紀氏と関係が深かった。 | 文屋康秀 | 文屋は分室ともかき、文室宮田麻呂と血縁関係があるのではないかと思われる。 文室宮田麻呂は謀反の罪で流罪となったが、没後無罪であるとされ863年、神泉苑の御霊会で慰霊された。 | 大友黒主 | 大伴黒主とも書き、大友家持とほとんど同じ歌を詠んでいることなどから同一人物だと考えられる。 大伴家持は藤種継暗殺事件の首謀者とされ、すでに死亡していたが死体が掘り出されて流罪となった。 参照/小野小町は男だった③ 草子洗い『大友黒主と大伴家持は同一人物?』 | 小野小町 | ? |
⑤小野小町とは小野宮とよばれた惟喬親王のことだった?
残る小野小町とはどのような人物なのでしょうか? 私は小野小町とは惟喬親王のことではないかと私は考えています。 その理由は・・・・
a.惟喬親王は小野宮という広大な屋敷に住み、自身も小野宮と呼ばれていた。 b.惟喬親王は男で女ではないが、古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌というのがたくさんある。 c.小野小町は穴のない体だという伝承がある。穴のない体とは男だということではないのか。 d.小野小町が詠んだ「花の色は 移りにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに」は「わが御代に下(ふ)る長雨(天)せしまに」で「私の御代(治世)に長い雨(天)が下(ふ)り、長い天下となるだろう」という意味である。
参照/小野小町は男だった⑭ 『男神を女神に変える呪術』 小野小町は男だった⑯(最終回) 『わがみよにふるながめせしまに』
ちょっとわかりにくいかもですが、庭に渦巻きが描かれていました。
⑥女人裸形の阿弥陀如来は小野小町のイメージ?
本堂には紀有常尊像や女人裸形の阿弥陀如来立像が安置されています。 女人裸形の阿弥陀如来立像は裸の阿弥陀如来さまで、布で作った袴をはかせてあります。 50年に1度、独身の女性によって袴が取り換えられるとのこと。 このように裸形のみほとけを作って布の着物を着せるというのか鎌倉時代に流行りました。
画像はこちら→http://meguru.nara-kankou.or.jp/inori/hihou/renjoji/event/tecryor42l/
お胸がないけど、女人なの?という人はこちらの記事をどうぞ! → 璉珹寺(紀寺跡) 茉莉花 『女人裸形の阿弥陀如来』

なぜ女人の阿弥陀如来なのでしょうか? 光明皇后をモデルにしたともいわれているようですが、 私はこの像は紀氏の血をひく小野小町(惟喬親王)をモデルにしたみほとけではないかと思います。
⑦白=九十九=小野小町?
もういちど女人裸形の阿弥陀如来立像の写真を見てください。 お肌が白いですね。
肌の白さも小野小町の像であることを示す暗号のように思えます。
伊勢物語にこんな話があります。
在五中将(在原業平)が色気づいた老婆をかわいそうに思って一緒に寝たが、それっきり老婆のもとにやってこなくなりました。 そこで老婆は在五中将の家にいって中をのぞき見しました。 在五中将は次のように歌をよみました。
ももとせに ひととせ足らぬ つくも髪 我を恋ふらし おもかげに見ゆ (百歳に一年足りない九十九歳の白髪の女が 私を恋い慕っているらしい面影が見える) この歌は謎々になっています。 100-1=99で、九十九のことを「つくも」といいますが 百引く一は白となるので、九十九髪(つくもがみ)とは白髪というわけです。
そして伊勢物語の注釈書・『知顕集』はこの九十九歳の色気づいた女は小野小町であるとしているのです。

小野小町像 髄心院
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[2018/05/28 18:00]
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奈良県橿原市 おふさ観音 2018年5月20日 撮影
①白い亀の背中に乗った観音様かつて、おふさ観音の本堂がたっているあたりは大きな池で、池は鯉ヶ淵と呼ばれていました。 1650年4月、お房という娘が、鯉ヶ淵のそばを歩いていると、白い亀の背中に乗った観音様が現れました。 そこでお房が池のそばに小さなお堂を建てたのが、おふさ観音の始まりとされます。 境内には鯉の池、亀の池というふたつの池がありますよ。 鯉の池は鯉ヶ淵から、亀の池は鯉ヶ淵から亀の背中に乗った観音様が現れたという伝説からネーミングされたものでしょう。 鯉の池 亀の池②総持寺にも現れた亀に乗る観音大阪府茨木市にある総持寺にも亀に乗った観音様の伝説が伝えられています。 この寺は平安時代に藤原山蔭によって創建されたのですが、 山蔭の父親が漁師から買い取った亀を逃がしてやったところ、船から落ちた山蔭を背中に乗せて現れたというのです。 この話は『今昔物語集』にも記されています。 亀に乗った観音が現れたのは、おふさ観音が江戸時代、総持寺が平安時代なので、総持寺の話のほうが先ということになりますね。 ③浦島太郎伝説亀といえば浦島太郎伝説を思い出しますね。 浦島太郎は助けた亀に竜宮城に連れてこられ、海神の娘・乙姫と恋に落ちますが、ホームシックになって地上に戻ります。 そして乙姫からもらった玉手箱をあけると煙がもくもくと立ち上り、浦島太郎はおじいさんになってしまいます。 これが一般的によく知られている浦島太郎伝説です。 しかし、浦島太郎伝説のルーツと考えられる御伽草子の話は若干違うようです。 太郎が助けた亀が美しい女性に変身して小舟に乗って現れ、竜宮城につれていきます。 太郎は3年竜宮城で過ごしましたがホームシックになり家に戻ります。 しかし家はなく、太郎が竜宮城にいってから700年もたっていました。 そして女性からもらった箱をあけると紫色の煙が3本たち、太郎は鶴になってしまいます。 「カメは私が年をとらないよう箱の中に私の年を入れてくれていたんだ。 そして万が一箱をあけてしまった場合、年をとって死んでしまわないように千年生きる鶴の姿に変身できるようにしてくれていたんだ。」 浦島太郎は丹後の国に祀られ浦島明神として祀られました。 また竜宮城の亀もあらわれ、夫婦神として祀られました。 ソースはここ → http://ほのぼのスタイル.com/2016/12/20/urasimatarou/ ④海幸彦・山幸彦浦島太郎伝説はさらに奈良時代に編纂された記紀(古事記・日本書紀)にある海幸彦・山幸彦の話までそのルーツをさかのぼることができるでしょう。 山幸彦が海幸彦の釣り針をなくしてしまい困っていたところ、塩椎神のアドバイスを得て小舟にのって綿津見神宮(わたつみのかみのみや)にいきます。 海神は山幸彦を温かく迎え、山幸彦は海神の娘・豊玉姫と結婚します。 3年たって山幸彦は、豊玉姫に失くした釣針と、潮盈珠(しおみつたま)と潮乾珠(しおふるたま)を貰って地上に戻ります。 そして潮盈珠をつかって海幸彦をおぼれさせ、海幸彦が許しをこうと潮乾珠で潮をひかせました。 ⑤亀は地上と水中をつなぐどうも亀は地上と水中の世界をつなぐ乗り物であると考えられていたようですね。 それは水中を泳ぐこともできるし、陸上を歩くこともできるという亀の特性によるものだと思います。 本当に昔の人の自然観察眼はすごいですね。 J-popsでは歌詞の中で深い意味なく花の名前を使ったりします。 意味がある場合でも、鳥=羽ばたく、桜=はかない(すぐ散ってしまうので)など安直(すいません!)なものが多いです。 桑田佳祐さんがマチルダという薔薇を女性器に喩えたり、aikoさんが甘い香りに誘われるカブトムシ(果物などを好みます)を恋する女性に喩えたりみたいなのはありますが 亀を地上と水中をつなぐ乗り物ととらえるほどの繊細な感覚はありません。(すいません) 私の考えでは、古代人は次のようにもとらえていたのではないかと思います。 ●鹿→謀反人→謀反の罪で殺された人は塩を振られることがありました。鹿の夏毛の斑点を塩に喩えたのでしょう。 ●ジンベエザメ(えびすザメ)→ジンベエザメがやってくると鰯やカツオもいっしょにやってきて大漁になることからえびすザメと呼ばれたのではないでしょうか。 海遊館 『じんべえさまと鹿の共通点は?』  ●土蜘蛛→斬首された人→昆虫は頭部・胸部・腹部の3つのパーツで構成されますが、蜘蛛は頭胸部・腹部の2つのパーツで構成されます。昔の人は蜘蛛を頭部のない昆虫だと考えたのではないでしょうか。 梨木神社 萩 『浮穴媛のこどもたち』  ●獏(マレーバク)→体が黒と白の2色なのが、陰陽に喩えられたのでは。それで悪い夢(陰)を食べてよい夢(陽)に転じるなどと考えられたのではないでしょうか? 山中渓駅 桜 パンダ列車 『パンダはなぜ獏と同一視されたのか?』 動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます! まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/05/26 01:01]
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奈良県大和郡山市 松尾寺 2018年5月20日 撮影
①女握りの拳印を結ぶ大黒天
七福神の大黒天といえば、こんな ↓ お姿をされているのが一般的ですね。(写真向かって右が大黒天。向かって左は蛭子神。 長田神社にて)
松尾寺の大黒天はこれとは全く異なるお姿をされています。
一般的な大黒天はベレー帽のような頭巾を被り、袋と打ち出の小槌をもって米俵の上に立っていますが 松尾寺の大黒天は烏帽子をかぶり、左手に袋はもっていますが、右手は打ち出の小槌はもたず、腰にあてています。 また米俵ではなく、八角形の台にのっており、鋭い形相でにらみつけています。
写真はこちら→ https://www.city.yamatokoriyama.nara.jp/ourcity/history/shiseki/000193.html
上の写真のような大黒天は江戸時代に作られたものです。 松尾寺の大黒天は鎌倉時代に作られた古いもので、当時はこのような様相の大黒天が作られたそうです。
興福寺・東大寺・法華寺などにも同様の像があるとのこと。
写真ではわかりにくいですが、松尾寺の大黒天は親指を人差し指と中指の間から覗かせた女握りの拳印を結んでいると聞きました。
百合のつぼみはまだ固く見ごろはもう少し先のようです。(写真は以前に撮影したもの)
②七福神堂に聖徳太子像?
今回、時間がなかったので七福神堂を参拝しなかったのですが、確か七福神堂には笏を持った聖徳太子像のような像もあったと思います。 蛭子神だったかな?(記憶があいまいですいません!今度参拝して確認してきます。)
「聖徳太子に似ていますが、当時の人はみな聖徳太子のような恰好をしていたので同じような像がつくられたのではないか」と説明をうけた記憶もあります。
ネットをぐぐっていると、「七福神堂に聖徳太子像が安置されていた。」と書かれたブログ記事もありました。 寺では七福神の一、蛭子神(だったかな?)としておられるようですが、やはり普通に見ると聖徳太子像だと思ってしまうんですね。
私はその笏を持った像は、そのブログ記事にあるように聖徳太子像ではないかと思いました。 というのは、松尾寺は聖徳太子が建てたと伝わる法隆寺の奥の院だとされているからです。
あー、でも記憶が間違っているかも~。 その点、ご了承くださいね!(すいません!) ③フランケンシュタイン・トルソー秘仏のため拝観できなかったのですが、宝蔵殿には焼け焦げた千手観音トルソーがあるそうです。 http://www.matsuodera.com/special.htmlトルソーとは胴体部分のみ彫刻したもののことをいいます。 ブティックなどで洋服をディスプレイするために顔や手足のないマネキンに服を着せたりしますが、ああいうのもトルソーといいますね。 近年、本堂の修理をした際、白い布でグルグル巻きにされた状態で発見されたものだそうです。 旧本尊と推定されています。 こんなことをいうと怒られるかもですが、白い布でグルグル巻きって、フランケンシュタインじゃないですか~。 実は松尾寺のトルソー以外にもフランケンシュタイン状態で発見された仏像があります。 法隆寺夢殿の救世観音です。 松尾寺は法隆寺の奥の院だったということを思い出してください。 みほとけをフランケンシュタイン状態にするのは、法隆寺に関係する寺の伝統なのかな? 法隆寺夢殿は開扉すると大地震がおこると伝えられていて長年開かれたことがありませんでした。 明治時代になってフェノロサが夢殿の扉をあけて調査したところ、白い布でぐるぐる巻きにされたフランケンシュタインのようなものを発見。 丁寧に布をほどいたところ、中から金色に輝く救世観音が現れたのです。 救世観音との出会いがよほど衝撃的だったのか、フェノロサは後にキリスト教を捨て、仏教徒に改宗しています。 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:GUZE_Kannon_Horyuji.JPG https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e8/GUZE_Kannon_Horyuji.JPG よりお借りしました。 作者 Tokyo Bijutsu Gakko [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で幾重にも巻き付けられた布の中から現れた救世観音は聖徳太子等身大の像と伝わります。 すると法隆寺の奥の院・松尾寺で発見されたフランケンシュタイン・トルソーもまた聖徳太子等身大の像?

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[2018/05/24 13:30]
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奈良市 唐招提寺 うちわまき 5月19日
①蚊遣り火そろそろ蚊のシーズンがやってきますね。 先日、我が家でも蚊がぶんぶんと飛んでおりまして、蚊取り線香をたきました。 この蚊取り線香ができたのは1890年のことで、大日本除虫菊株式会社の創業者・上山英一郎さんが開発したんだそうです。 それ以前の日本では、蚊遣り火(かやりび)を用いて蚊を駆除していました。 よもぎの葉、カヤの木、杉や松の青葉などを火にくべて煙をたたせることで蚊を追い払うのだとか。 蚊遣り火の週間は平安時代ごろからあったようで、鎌倉時代の文献にも登場します。 六月(みなづき)の頃、あやしき家に夕顔の白く見えて、蚊遣火ふすぶるもあはれなり 徒然草/吉田兼好 (六月ごろ、みすぼらしい家に夕顔が白く咲いているのが見え、蚊遣火がくすぶっている情景をみるとしみじみとした気持になる。 )
かやり火の けぶりのあとや 草枕 たちなんのべの かた見なるべき 藤原定家 (蚊遣り火の煙のあとよ、旅をして一夜野宿をした その形見のようにみえる。)※現代語訳、まちがっているかもです。(汗) このように古くから蚊遣り火の習慣があったのですが、鎌倉時代の唐招提寺の僧・覚盛上人(かくじょうしょうにん)は蚊遣り火を焚かなかったのかもしれません。 というのは、覚盛上人は殺生を好まず、自分を刺した蚊さえ殺さなかったというのです。 蚊遣り火には殺虫効果はなさそうなので、もしかしたら焚いたかな? 覚盛没後、教えを受けた法華寺の尼僧たちが「せめてうちわで蚊を払ってほしい」と霊前にうちわを供えたという話が伝えられています。 うちわまきの行事はこれにちなむものとされます。 ②紫女は蚊の妖怪?以前、こちら ↓ の記事に「妖怪・紫女」について書きました。 国営ひたち海浜公園 ネモフィラ 『吸血鬼 紫女』 妖怪・紫女とねんごろな仲になった男は血を吸われてげっそりと痩せてしまい、最後には死んでしまうといわれます。 紫女とは蚊の妖怪だとも考えられますね。血を吸う蚊はメスなので。 ③覚盛は法華寺の尼僧(紫女)に血を吸われて死んでしまった?すると法華寺の尼僧たちが霊前にうちわを供えた、というのが気になります。 法華寺は尼寺なので、当然尼僧ばかりがいるお寺なわけです。 法華寺の尼僧は紫女で、覚盛は法華寺の尼僧(紫女)に血を吸われて死んでしまったということなのかな? またうちわとは人の心や霊をまねく呪具でもありました。 法華寺の尼僧たちは覚盛の心を自分たちのほうにむけるためにうちわを奉納したんだったりして? ④鑑真の再来・覚盛と光明皇后覚盛は、奈良時代に唐招提寺を創建した鑑真の再来ともいわれています。 そして法華寺は光明皇后が創建したお寺です。 覚盛=鑑真、法華寺の尼僧=光明皇后 で、光明皇后が鑑真の血を吸って殺しちゃったという話だと考えるのはあまりにもトンデモ? いやいや、そうでもないかもですよ。 光明皇后は甥の藤原仲麻呂を寵愛していたといいます。 その藤原仲麻呂のあとおしを受けて、淳仁天皇が即位しています。 758年、淳仁天応は鑑真を大和上とし、僧綱の任を解きました。 僧綱とは仏教の僧尼を管理する役職です。 ウィキペディアには次のように記されています。 「政治にとらわれる労苦から解放するため僧綱の任が解かれ、自由に戒律を伝えられる配慮がなされた。」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%91%91%E7%9C%9F より引用なんでもものはいいようでしてね、「政治にとらわれる労苦から解放するため」といいますが、実は「鑑真に僧尼を管理させないため」とも考えられませんか。 鑑真が日本にやってきたのは754年ですから、758年はそれからまだ4年しかたっていません。 それなのに役職を解かれてしまったのは、鑑真にとって残念なことだったのではないでしょうか? そして、それは僧尼の人事を自分の思いのままにしたいという藤原仲麻呂の意思によるものであり そのため藤原仲麻呂を寵愛していた光明皇后が鑑真を不幸に追い込んだと考えられたのかも? ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/05/21 13:38]
奈良の祭 |
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京都市東山区 新日吉神宮 神幸祭 5月第2日曜日
お神輿の前で僧侶がお経をあげるのは神仏習合だったころ(江戸時代まで)の名残なんでしょうね。 各地の祭礼でこういう風景を見かけます。
①豊臣秀吉、善光寺如来の祟りで死亡。豊国神社の御祭神となる。1567年、東大寺大仏殿の戦いで東大寺大仏殿は戦火によって消失し、大仏の首も落ちてしまいました。 1591年、豊臣秀吉は方広寺を創建し、1595年には全長19mもある大仏が方広寺大仏殿に安置されました。 当時の方広寺の敷地は、妙法院・現在の豊国神社・京都国立博物館・三十三間堂の敷地を含む広大なものでした。
ところが1596年、慶弔伏見地震によってこの大仏は倒壊してしまいました。 そこで1597年、秀吉は善光寺如来(善光寺の御本尊ですが、当時は甲斐にありました。)を大仏殿に移して本尊としました。 1598年 秀吉は病を患い、善光寺如来の祟りではないかということで、善光寺如来は信濃の善光寺へ戻されました。 しかし1599年に秀吉は死亡してしまいます。 1599年、遺命に従い、秀吉の遺体は方広寺東にある阿弥陀ヶ峯山頂に埋葬されました。 そして阿弥陀ヶ峯の山ろくに廟所が建立されました。 秀吉は奈良東大寺大仏殿の鎮守・手向山八幡宮にならって自分を「新八幡」として祀るように遺言していました。 しかし、朝廷は「新八幡」ではなく「豊国乃大明神(とよくにのだいみょうじん)」の神号を与え、廟所は豊国神社と命名されました。 毎年8月18日の秀吉の年忌には豊国祭と呼ばれる盛大な祭りが行われたようです。 祭の行列がにぎやかに町を練り歩きますよ♪②徳川家康、方広寺鐘銘に大激怒!豊臣家を滅亡させる。秀吉の死後、秀頼が方広寺の大仏を作り直す計画をたてていました。 秀吉が作った大仏は木造漆膠でしたが、秀頼は銅造で大仏を作ろうとしました。 ところが1602年、流し込んだ銅が漏れ出て火災が起き、造営中の大仏と方広寺大仏殿は消失してしまうのです~。 1610年、方広寺大仏殿は再建され、1610年には梵鐘が完成しました。 ところが家康がこの梵鐘の銘文「国 家安 康」「君 臣豊楽」に大激怒! 方広寺鐘銘「国家安康」だと?これは家康の名前を切っているじゃないか! 「君臣豊楽、子孫殷昌」は「豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむ」という意味ではないか! けしからんーーーー!と。 そしてこれを理由に豊臣秀頼の居城・大阪城を責め、豊臣家を滅亡させてしまったのです。 ③新日吉神社は豊国廟への参拝を妨げるために再建された?
1615年、豊臣家が滅亡すると徳川家康は、後瑞夫天皇の勅許をえて豊国大明神の神号を剥奪し、豊国神社も廃絶させてしまいました。 (現在、方広寺の隣にある豊国神社は1868年に明治天皇の勅命によって再興されたものです。)
1640年、旧豊国神社参道上(現在地よりもやや北がわ)に新日吉神社が再建されました。 (1160年、後白河天皇が法住寺殿の鎮守として現在地より南に創建されましたが、遷宮を繰り返していました。)
幕府が豊国廟への参拝を妨げるため、豊国神社旧参道に新日吉神社を再建したとする説があります。 獅子に噛んでもらうとご利益があるといわれます。④新日吉社の再建は豊国神社の復活?
ところがウィキペディアを調べてみると、次のようなことが記されていました。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E5%BA%83%E5%AF%BAa.新日吉神社は、豊国神社の参道を塞ぐように再建されたため、「幕府が豊国廟への参拝を妨げるために再建した」との説が明治以降流布した。
b.新日吉神社の再建に幕府が積極的に関わった形跡はなく、伝承では再建したのは後水尾上皇、直接に関与したのは妙法院の尭然法親王(後水尾実弟)である。
c.再建新日吉神社には明暦元年(1640)に樹下(このした)社(現在は豊国社と改称)が勧請され、そこには妙法院で密かに保管されていた豊国神社のご神体も祀られた。 秀吉の元姓は木下、幼名は日吉丸だった。
d.a~cの理由から、新日吉社の再建は、実は「豊国神社の復活」ではなかったかとの見方もある。
この説はつじつまがあっており、読むとなるほどと納得させられます。
⑤猿の三番叟
ただし、新日吉社は秀吉を祀る豊国神社そのものではなく、秀吉の荒魂を和霊に転じたものを祀る神社だと私は考えます。 その理由をお話ししますね。
本殿向拝柱上方にある御神猿(説明版の写真)
新日吉神宮本殿向拝柱上方に御神猿のレリーフがあります。 また、狛犬のかわりに狛猿の像が置かれています。
能に「翁」という演目がありますが、その後半に狂言方が舞う舞に三番叟があります。 烏帽子をかぶり、手に鈴を持つ新日吉神宮の猿はこの三番叟を舞ういでたちをしています。
三番叟は古い猿楽芸を伝えるものだともいわれるためか、よくこのような人形を見かけます。 ます。

八坂神社 翁 三番叟
⑤能「翁」の白式尉と黒式尉
三番叟を舞う人はは黒い翁面をつけており、黒式尉といわれます。
これに対し、翁の前半は白い翁面をつけた人が舞い、白式尉といわれます。
白式尉は荘厳な舞、黒式尉は鈴を振って足拍子を踏み鳴らすなどのしぐさをします。 黒式尉が舞う三番叟は農耕作業を舞にしたものであるとも聞きますが、私にはよくわかりませんでした。(汗)
⑥白式尉・黒式尉と陰陽
それにしても、黒式尉の面は真っ黒ですね。こんなに黒い顔の人は日本人にはいません。松崎しげるも真っ青です。 なぜ黒式尉の面は真っ黒なんでしょうか?
私は白式尉と黒式尉の面陰陽道からくるもので、白式尉は陽、黒式尉は陰をあらわしているのではないかと思います。
えー、神はその表れ方で御霊・荒魂・和魂にわけられるといい、男神は荒魂を、女神は和魂をあらわすとする説があります。 陰陽道では男は陽、女は陰なので、荒魂が陽、和魂が陰となります。
御霊・・・神の本質・・・・・男女双体 荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・陽 和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・陰
ですが、荒魂・和魂は男女のほかに、白式尉と黒式尉で表されることもあったのではないかと思います。 陰陽では白が陽、黒が陰なので、次のようになると考えられます。
御霊・・・神の本質・・・・・男女双体・・・陰陽バランスがとれている状態・・・白黒 荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・陽・・・白・・・・・・・・・・・・白式尉 和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・陰・・・黒・・・・・・・・・・・・黒式尉

陰陽図 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yin_yang.svg https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/17/Yin_yang.svg よりお借りしました。 作者 Gregory Maxwell [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
さらに、猿は黒式尉だと考えられるので、次のようになります。
御霊・・・神の本質・・・・・男女双体・・・陰陽バランスがとれている状態・・・白黒 荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・陽・・・白・・・・・・・・・・・・白式尉・・・秀吉 和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・陰・・・黒・・・・・・・・・・・・黒式尉・・・猿
つまり、秀吉という荒魂を、和魂に転じたのが三番叟猿であり、その三番叟猿を秀吉の廟の参道におくことで、秀吉の怨霊封じとしたのではないかと思うわけです。祭の行列はまだまだ続きますよ!  こういう武者姿はなんとなく秀吉を思わせますね。↑ ↓ ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/05/15 19:54]
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兵庫県丹波市氷上町上成松 一ノ宮神社 2018年 4月29日 撮影
①一ノ宮神社
京尾山のふもとに鎮座する一ノ宮神社。 本殿を取り囲むようにキリシマツツジが植えられていました。 樹齢300年を超える古木とのことです。
②勝田勘八郎、明智光秀軍の猛攻に討死する。
一ノ宮神社東側の平地にはかつて成松城があったそうですが、成松城の遺構らしきものはないようです。 成松城は後屋城主・赤井氏が築造したものですが、天正期には勝田勘八郎の居城となっていたようですね。
一ノ宮神社からほど近いところに赤井直正の居城だった黒井城跡があります。 参照/黒井城 レンゲ 鯉のぼり 夕景 『ひとりで直正に会いにきた脇坂安治』

黒井城跡
1575年、赤井直正は但馬の竹田城を攻めます。

竹田城跡
竹田城の山名祐豊は信長に援軍を要請し、信長は明智光秀を送りました。 信長は竹田城主・山名祐豊の援軍要請をきっかけにして丹波攻略をはじめたわけです。 明智光秀は最初は丹波側の反撃にてこずるも、次々に丹波の城を落としていきます。 1578年、赤井直正が病死し、黒井城も落ちてしまいました。
そして1579年、勝田勘八郎が明智軍と戦って討死したといいますから、このとき成松城もおちてしまったのでしょう。 こうして、信長の命をうけた明智光秀によって丹波は平定されてしまうのです。

亀岡光秀祭 (白馬にまたがっているのが光秀役の方)
功をあげた明智光秀ですが、信長のパワハラに切れたのか、1582年に「本能寺の変」をおこして信長を討伐してしまいます。 このとき豊臣秀吉は中国地方に出兵していましたが、本能寺の変がおこったことを知るや、急遽毛利氏と和睦を結び、京へ引き返しています。 そして山崎で光秀軍と戦い、光秀は敗走する途中、落ち武者狩りの農民に竹槍で刺されて重傷を負い、もはやこれまでと自害してしまうのですね。
参照/http://kntryk.blog.fc2.com/blog-entry-1148.html
こうして赤井直正・勝田勘八郎・織田信長・明智光秀らはみな死んでしまいました。南無阿弥陀仏~。
③日本人は山が多い地形を生かして山城を作った。
ウィキペディアにこんなことが書いてありました。
本来、城は、環濠や城壁で囲まれた町を指す語として中国で成立した。しかし国土の8割が山岳部を占める日本において防衛施設は、より堅牢な山城に拠ることが多かった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%9F%8E#歴史 より引用
上の写真を見てもわかるとおり、竹田城・黒井城は山城ですね。 光秀の居城だった亀山城は平山城(平野の中にある山や丘に築かれた城)です。
亀山城跡
④堀は城壁よりも防御能力にすぐれている?ときどき、こんなことを言う人がいます。 外国の城は町全体を取り囲むように城壁がつくられ、城壁の中に大勢の民衆が住んでいた。 これは外国の戦争は領土獲得のほか、奴隷獲得を目的としていたため、民衆を城壁で守る必要があったからだ。
日本の城下町は城壁で囲まれていなかった。 これは日本の戦が領土獲得を目的としていて奴隷獲得を目的にしていなかったため、市民を城壁で守る必要がなかったからだ。これが間違いであるということは、次の記事で述べました。 大阪城 イルミナージュ 『城壁vs堀。防御能力はどちらが優れている?』 乱取りといって戦のあと負けた側の領民を奴隷にするということがあり、日本に奴隷はいなかったとはいえません。 また城下町の周囲には堀がめぐらされていることが多かったようです。 城壁はなかったかもしれませんが、堀が民衆を保護する役割を担っていたと考えられます。 そして、城壁よりも堀のほうが防御能力は優れていると思います。 城壁は大砲で簡単に壊れますが、堀を埋めるのは大変な時間と労力がかかります。 弓矢や火縄銃をあびせられる中、堀を舟で渡りきるのも難しいと思われます。 ⑤中国やヨーロッパの平たんな土地には山のように外敵から身を守るものがない。それにしても、なぜ日本では海外にあるような城壁が作られなかったのか、疑問に思っていました。 逆に言うと、海外ではなぜ日本にはあまり見られない町全体を囲む城壁都市がつくられたのか、ということです。 ウィキペディアを読むと、それは中国やヨーロッパは平たんな土地が多いので、山など外敵から身を守るものがなく、そのため城壁都市が発達した、ということがわかります。 日本は中国やヨーロッパと違い、山が多い。 それでわざわざ人工的な城壁を作るよりも、防御能力の高い山に城を作ることが多く、そのため城壁都市が発達しなかったといえるかもしれませんね。 成松城の隣には京尾山があるのに、そこに城をつくらず、その隣に平城として成松城を作ったのはなぜでしょうか。 一ノ宮神社についてググってみても、創建年や御祭神など、でてこないので、よくわからないんですが 京尾山には古くから一ノ宮神社がまつられており、聖域であるとして避けたのかも?一ノ宮神社の西の山は京尾山で、東の平地部分に成松城があったとされます。 京尾山は自然の城壁としての役目を持っていそうです。 また西部や南部には加古川が流れており、これが堀のような役割をはたしていたのかも?
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[2018/05/11 18:23]
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[2018/05/10 17:27]
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