大阪府寝屋川市 寝屋川 寝屋長者屋敷跡 山根街道 寝屋神社 2018年4月下旬 撮影
寝屋川 京阪寝屋川市駅付近
①寝屋長者と鉢かづき姫伝説(河州交野郡寝屋長者鉢記)
『河州交野郡(かしゅうかたのごおり)寝屋長者鉢記(ねやちょうじゃはちき)』という書物に次のような物語が記されています。 寝屋長者屋敷跡 説明版より弘安2年(1279年)、河内国片野郡に藤原実高という大長者が住んでいました。 実方には津の国海の里の芦屋長太夫の娘・照見という妻がいました。 照美はなかなか身籠りませんでしたが、長谷寺観音に祈願したところ、ある夜「娘を授けるが、鉄鉢を娘の頭に被せよ」という夢告がありました。 夢告とおり、照見は娘を出産し、初瀬姫と名付けました。
芦屋長太夫の甥・鳴海太郎が悪事を行ったため、芦屋家は貧乏になり、芦屋長者は亡くなってしまいました。 照見も病を患い、初瀬姫は母の病回復祈願のため長谷寺を参拝しました。 すると「母はまもなく往生するだろう」と夢告げがありました。 照見は初瀬姫のは頭に鉢をかぶせてなくなりましたが、鉢は初瀬姫の頭からとれなくなってしまいました。
寝屋川 京阪寝屋川市駅付近 鉢かづき姫は合成
浅路という女性が実高の後妻として嫁いできました。 浅路は実娘のお腎をかわいがり、初瀬姫をかたわ者として嫌い、家を追い出してしまいます。
打上村四辻まで連れ出されたあと、初瀬姫はひとりにされ、八幡までやってきて淀川に身をなげました。 しかしすぐに救助され、淀付近をさまよいました。 藤原山蔭は石清水八幡宮参詣の帰りに初瀬姫と会い、館に連れ帰りました。
浅路は弟作兵衛と手代権九朗に命じて初瀬姫を殺させました。 権九朗は姫の首をもっていましたが、重くなったので淀川に破棄しました。 しかしその首は姫の首ではなく、照見と初瀬姫が信仰していた地蔵尊の首でした。 長谷寺の乳母おこんの夢の中に照見があらわれ、初瀬姫が無事であることをつげました。 後年、おこんは長者となりました。
初瀬姫は山蔭邸の湯殿役として働いているうちに、山蔭の四男・宰相と相思相愛となり契りを結びました。 宰相の母君はふたりの関係を快く思わず、宰相の兄嫁3人と嫁比べをして二人の仲を裂こうとしました。 宰相と初瀬姫は駆け落ちしようとしますが、その時姫の鉢がとれました。 そして鉢から着物や宝物が出、鉢は南の空へ舞い上がって消えました。
嫁比べでは初瀬姫の容姿が美しく、管弦・和歌・書道も秀でていました。 こうして、宰相と初瀬姫は結婚し、宰相は家督相続し、竹の御所に住みました。
実高は妻・浅路のせいでおちぶれ、修行者となり、浅路は路頭に迷います。 初瀬姫は母の供養のため長谷寺に参詣し、父・実高とめぐりあいます。
寝屋長者屋敷跡付近にある山根街道 鉢かづき姫は合成②登場人物は実在した?初瀬姫を屋敷に連れ帰った藤原山蔭は実在した人物です。 総持寺(大阪府茨木)や吉田神社(京都市左京区)を創建した人物ですよ。 ですが、年代があいません。 『河州交野郡寝屋長者鉢記』はこの物語を弘安2年(1279年)のこととしていますが、藤原山蔭の生没年は824年~888年です。(笑) 藤原実高という人物も実在の人物ではないかと思います。 寝屋川市には藤原実高の屋敷跡(1659年ごろまでは現存していたといわれます)がありますし、その近くには堀之内(屋敷の周囲に堀がめぐらされていたのだでしょう)・金門(かなかど/金箔をはった門?)・車司(くるもうじ/牛車用の牛を飼育する人々が生活していた場所)などの地名が残っています。 ですが前妻・照見、後妻・浅路、初瀬姫が実在したのかどうかはわかりません。 藤原山蔭の四男・宰相は実在したのでしょうか? 山蔭には有頼・公利・逐長・言行・兼三・中正・如無の5人の息子と3人の娘ががいます。 宰相とは参議を唐風に言ったものだと思いますが、山蔭の子供のうち参議になった者がいたのかどうか、調べてみましたがわかりませんでした。 寝屋長者屋敷跡付近にある山根街道 鉢かづき姫は合成③空飛ぶ鉢は空飛ぶドクロ?
「鉢が開く」「鉢巻き」「鉢合わせ」など頭のことを鉢ということがあります。 私は鉢かづき姫があたまにかぶっている鉢とはドクロを比喩的にいったものではないかと思います。 平将門の首が飛んだという伝説がありますね。 で、信貴山縁起絵巻には鉢を飛ばすという話があります。 命蓮法師が托鉢のために飛ばした鉢が、長者のところに頻繁にやってくるようになったので、長者はこれに腹を立てて鉢を米蔵に閉じこめました。 すると鉢は倉から飛び出して倉をのせて信貴山に飛び去りました。 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/da/Sigisanengi_tobikura.jpg よりお借りしました。 作者 English: unknown 日本語: 作者不詳 (不明) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由でこの物語に登場する空飛ぶ鉢とは平将門の首のような空飛ぶドクロのことであり、鉢かづき姫は頭にドクロを乗せた姫の話ではないかと思うのです。 ④川を流れる鉢=川を流れるドクロ?
平安時代、浄蔵という修験者が桂川に鉢を落としたという話もあります。 浄蔵所は吉野山大峰山で修行を終えて帰ろうとしていたところ、蔵王権現が現れて「連れて帰ってほしい」とおっしゃったので、浄蔵は蔵王権現を背負って帰りました。 途中、浄蔵は桂川に鉢を落としてしまいました。 その鉢が流れ着いた場所で蔵王権現は動かなくなったので浄蔵はそこに寺を建てました。 それが蔵王堂光福寺だと伝わっています。 浄蔵が桂川に落とした鉢もドクロの比喩ではないでしょうか? そして鉢かづき姫は淀川に身を投げていますが、鉢かづき姫が頭にかぶった鉢とはドクロであり、ドクロが川を流れていくという話であるようにも思えます。 また、鉢かづき姫のドクロだと思っていたものが実は地蔵のドクロだったという話も、鉢とはドクロの比喩であることを示しているように思えます。 寝屋川 京阪寝屋川市駅付近⑤𠮷野の神はドクロの神?④でお話しした浄蔵が修行していた奈良県吉野山の金峯山寺に蔵王堂があり、蔵王権現を祀っています。 浄蔵が創建した寺が蔵王堂光福寺という寺名なのは、吉野の蔵王堂からつけたのでしょう。 吉野の蔵王堂では7月7日に蛙飛行事を行っています。  吉野山にある金峯山寺の塔頭に竜王院(脳天大神)があり、頭の神様として信仰されています。 その脳天大神には狛犬ならぬ狛蛙が置かれています。 ↑ 飛鳥の亀石は亀ではなく蛙ではないかともいわれていますが、亀や蛙よりももっと妖怪・ぬらりひょんに似ています。 ↑ 上は京都の大将軍商店街(妖怪ストリート)に置かれてあった妖怪・ぬらりひょんの人形ですが、眉間に皺があるところまで亀石にそっくりです。 飛鳥の亀石はドクロを象ったものであり、蔵王堂で蛙飛行事を行ったり、龍王院(脳天大神)に狛蛙が置かれているのは、蛙が人間の頭蓋骨=ドクロに似ているためではないでしょうか。 そして信貴山縁起絵巻の飛行する鉢や、浄蔵が桂川に落とした鉢、そして鉢はづき姫が頭にかぶっている鉢はドクロの比喩のように思えるのです。 寝屋川 京阪寝屋川市駅付近 寝屋神社 鉢かづき姫は合成※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/04/30 14:38]
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大阪市天王寺区 四天王寺 聖霊会 4月22日 ①聖徳太子の命日は4月22日ではない。四天王寺は聖徳太子が建てたお寺で、聖霊会は「聖徳太子の命日に慰霊を目的として催される舞楽大法要」とのことです。 こう聞くと大抵の方は「へー、聖徳太子の命日って4月22日なんだ~。」と思うのではないでしょうか。 実はそうではありません。聖徳太子の命日は推古天皇30年2月22日なんです。 推古天皇30年2月22日というのは旧暦で、新暦換算すると622年4月8日です。 ②新暦採用でずれてしまった行事と季節感日本で新暦(太陽暦/グレゴリオ暦)を用いるようになったのは明治5年のことです。 それまで用いていた旧暦は太陰太陽暦といって月のみちかけの周期をベースとしたものでした。 新暦は旧暦よりも約1か月ほど早くなります。 そのため、行事と季節感がずれてしまったケースが多々あります。 たとえば3月3日の雛祭は、桃の節句とも呼ばれますが、新暦の3月3日ではまだ桃の花は咲いていません。 関西で桃の花が咲き始めるのは3月下旬から4月上旬ですね。 旧暦7月7日の七夕は、新暦では8月ごろですが、新暦で七夕の行事をするところが多いですね。 新暦7月7日は梅雨があけず雨が降る確率が高いです。 7月7日、牽牛と織姫は天の川にかささぎが架けた橋を渡って1年に1度の逢瀬を楽しむといわれますが、雨がふるとかささぎが橋をかけず、二人は逢うことができないと言われています。 新暦採用によって牽牛・織姫は逢瀬を楽しめない年がぐんと増えてしまったわけです。 ③月遅れこのような行事と季節感のずれを解消するため、月遅れといって、行事を一か月遅れで行うケースがでてきました。 例えば旧暦7月15日を中心にして行われていたお盆の行事を、新暦8月15日を中心として行ったりしています。 これを月遅れといいます。 ところがお盆は旧暦7月15日を中心に行っていたのを、月遅れで新暦8月15日を中心に行うようになったのですが 旧暦7月7日に行われていた七夕は新暦7月7日に行うことが多いので、 本来七夕はお盆の入りの行事であったのに、その意味が薄れてしまったというようなこともあります。 ④聖霊会はなぜ月遅れの3月22日ではなく4月22日に行われているの?聖徳太子の命日は旧暦2月22日です。 明治5年に新暦が採用される以前は旧暦2月22日に聖霊会を行っていたのでしょう。 これを、月遅れでこれを行うとすると新暦3月22日となります。 それなのに聖徳太子の命日に催される聖霊会は、なぜ3月22日ではなく、4月22日に行われているのでしょうか? 推古天皇30年2月22日というのは旧暦で、新暦換算すると622年4月8日です。 新暦3月22日だと新暦4月8日には17日早くなります。新暦4月22日だと14日遅くなります。 新暦4月22日に行うほうが実際の命日とのずれが少ないということで、この日に聖霊会が行われているのでしょうか? ⑤聖徳太子には偶数が似合う?そうではないと思います。 3月22日の3月は奇数となります。 本来の聖徳太子の命日は2月22日とすべて偶数です。  上の写真は聖徳太子が建てたと伝わる法隆寺の写真です。 五重塔の手前にある中門に注目してください。 4間になっているという珍しいものです。 通常、門は下の東大寺中門のように奇数間に作られます。 東大寺 中門と大仏殿法隆寺のは偶数間になっているので門の中央に柱がたつ形になります。 梅原猛さんは『門に柱を建てれば閂になる』とし、法隆寺は聖徳太子の怨霊封じ込めの寺ではないかと説かれました。 聖徳太子の子孫は蘇我入鹿に攻められて全員斑鳩寺(法隆寺)で首をくくって死に、聖徳太子の血は絶えました。 我々日本人の中に聖徳太子の血は一滴も流れていないのです。 ⑥奇数は陽、偶数は陰陰陽思想では奇数は陽、偶数は陰と考えます。 また怨霊=鬼と考えていいと思いますが、鬼という言葉は陰からくるとも言われます。 聖徳太子が偶数と縁が深いのは、聖徳太子が怨霊だからかも?
それで聖霊会は聖徳太子の命日の月遅れの3月22日ではなく、4月22日に行われているのだったりして? 上は聖徳太子めざめの舞と呼ばれている蘇利古です。雑面をつけたこの姿は聖徳太子の怨霊ではないでしょうか? ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/04/25 20:12]
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和歌山県橋本市 子安地蔵寺 2018年4月22日 ①737年、天然痘大流行737年、行基が地蔵菩薩を刻み、女人安産守護のため安置したのが子安地蔵寺の創建と伝わります。 737年はおそろしい年だったんですよ~。 天然痘が流行りましてね、藤原不比等の四人の息子・武智麻呂・房前・馬界・麻呂(藤原四兄弟)が相次いで亡くなってしまったのです~。 そして「藤原四兄弟の死は長屋王の怨霊の仕業にちがいない!」と噂されたのです。 ②長屋王の変720年、右大臣・藤原不比等が薨去したのち、721年に長屋王(祖父/天武天皇 父/高市皇子)が右大臣となって政権を握りました。 724年に聖武天皇が即位すると長屋王は左大臣となりました。 729年、漆部君足と中臣宮処東人が「長屋王はこっそりと左道を学んで国家を傾けようとしている!」と密告しました。 厳しい取り調べに耐え切れず、長屋王は自殺してしまいました。 これを長屋王の変といいます。 長屋王が国家を傾けようとしている、というのは事実ではなく、藤原氏の陰謀だと考えられています。 のちの738年には長屋王に仕えていた大伴子虫が、「中臣宮処東人がありもしないことをでっちあげて長屋王を自殺に追い込んだ」として 中臣宮処東人を殺す事件もおきています。 ところが政権を手中にした藤原四兄弟が天然痘の流行で次々に死んでしまったので「長屋王の祟りじゃ~!」と騒がれたわけですね。 ③光明皇后の前に現れた長屋王の怨霊光明皇后にはこんな伝説がありますよ。 光明皇后は法華寺に浴室を建立し、千人の民の汚れを洗い流そうと願を立てました。 千人目は膿のある病人で、病人は皇后に『膿を口で吸い出してほしい』と頼みましだ。 皇后が病人の膿に唇を近づけたとたん、病人は阿閦如来になりました。
光明皇后の千人風呂伝説が伝わる奈良・法華寺の浴室(からぶろ) 膿のある病人とは天然痘のことだと思います。 で、貧乏神はいかにも貧乏そうな姿をしていますね。 天然痘をはやらせる神は天然痘を患った姿をしていると考えられていたのではないでしょうか。
そう、この伝説に登場する天然痘を患った病人とは長屋王の霊ではないかと思うのです。 光明皇后は長屋王の怨霊に殺された藤原四兄弟の妹です。 「次は私が長屋王の怨霊に殺されるかもしれない」という恐怖を、光明皇后は持っていたことでしょう。 そして作者は誰かかわりませんが、光明皇后の気休めのための物語を創作したのですね。 長屋王の怨霊は天然痘をまき散らして人々に祟るのをやめ、成仏して阿閦如来になったという。
病人とは天然痘のことだと思います。 で、貧乏神はいかにも貧乏そうな姿をしていますね。 天然痘をはやらせる神は天然痘を患った姿をしていると考えられていたのではないでしょうか。
④長屋王の怨霊、行基の前にも現れる!
行基にも光明皇后と同じような伝説がありますよ。
行基は旅の途中で出会った病人を有馬温泉に連れていきました。 病人は「温泉では私の皮膚病は治らないので、舐めてくれないか」と行基に頼みました。 行基はためらうことなく、膿んで異臭のする病人の肌を舐めました。 すると病人の肌は金色に輝いて薬師如来になりました。
ほとんど光明皇后と同じ伝説ということは、行基が出会った病人も長屋王の怨霊だと思われます。 737年に行基が創建した子安地蔵寺は長屋王の慰霊を目的として作られたものなのかもしれませんね。
⑤737年、桓武天皇誕生
737年は桓武天皇が誕生した年でもあります。 桓武天皇は天然痘が大流行している中で生まれたのですね。 桓武天皇の父親・光仁天皇は高野新笠の出産をそれは心配したことでしょう。 それで行基に子安地蔵寺の創建を命じたのかも・・・・ 行基は女人安産守護の寺として子安地蔵寺を創建したのではないでしょうか?
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[2018/04/24 18:45]
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奈良県葛城市 當麻寺 ※西塔は修理中です。
①野見宿祢vs當麻蹴速
相撲のルーツは神代のタケミカヅチvsタケミナカタの戦いだと言われています。 人間同士の相撲でもっとも古いのは、垂仁天皇7年(紀元前23年)の野見宿祢vs當麻蹴速の戦いですね。 この當麻蹴速は當麻寺の近くに住んでいたとされ、當麻寺の近くには蹴速塚もあります。 この勝負、勝ったのは野見宿祢で、當麻蹴速は骨を折られて死亡の上、土地も没収されています。 古代の相撲って残酷だったんですね~。 ②神事相撲・勧進相撲・大相撲その後、相撲は実践的な武術から、神事的な意味合いを持つようになったようです。 平安時代には宮中行事として相撲節会が行われるようになりました。 また、神社においても神事としての相撲が行われるようになりました。 相撲節会は1174年を最後に廃絶しましたが、神事相撲は現在でも行われていますね。 また武家や大名が相撲を保護するというようなこともあって、相撲の伝統は続き、 1925年には江戸・京都・大阪などで行われていた勧進相撲を一本化して大相撲となりました。 (勧進とは寺社が建立資金などをを集めることで、相撲を興行として金銭を得ていました。しかししだいに勧進の意味は廃れ、単なる興行となっていったようです。) ③土俵は宇宙になぞらえられている?相撲は神事であるといわれますね。 たとえば、行司さんが「はっけよい」と言いますが、「はっけよい」とは「八卦よい」からくるともいわれます。 また土俵式の祝詞では「陰陽がどうのこうの~」みたいなことを言っています。 どうも相撲は八卦とか陰陽道と関係がありそうです。 中国では「天円地方(天は丸く、地は四角)」などと言われていました。 丸い土俵は天(宇宙)を表しているのではないでしょうか。 そして陰陽道の宇宙観では東は太陽の定位置、西は月の定位置、中央は星と考えます。 記紀神話ではイザナギの左目から天照大神が、右目から月読命が、鼻からスサノオが生まれたとあります。 イザナギの顔は宇宙に喩えられているのだと思います。 で、地図は右が東で左が西ですが、それは正しくは向かって右が東で、向かって左が西なんです。 地図の側に立てば、左(向かって右)が東、右(向かって左)が西となります。 すると、天照大神は宇宙(イザナミの顔)の東、月読命は宇宙の西に位置することになり、陰陽道の宇宙観と一致します。 イザナギの鼻から生まれたスサノオは星の神ということになりますが、 船場俊昭さんは「スサノオを漢字で書くと素戔鳴尊となりますが、これは輝ける(素)ものを失って(戔)ああ(鳴)と嘆き悲しむ神(尊)という意味で、スサノオはもともとは星の神だったのが、のちに星の神という神格を奪われたのてはないか」とおっしゃっています。 イザナミ(宇宙)の左目・・・東・・・天照大神(太陽) イザナミ(宇宙)の右目・・・西・・・月読命(月) イザナミ(宇宙)の鼻・・・中央・・・素戔鳴尊(星) 土俵が宇宙とすると、東の力士は太陽、西の力士は月を表しているのではないでしょうか? また、陰陽道の宇宙観では、宇宙の中心は星なので、東西の力士が組み合う土俵の中心部は星となります。 それで相撲の勝敗を白星・黒星というのではないかと思ったりします。 ④陽と陽が重なると不老長寿になる。土俵に女性があがってはいけないとされているのはなぜなのでしょうか? 私の考えを書きます。 9月9日は重陽の節句といい、京都の上賀茂神社では烏相撲が行われます。 どうやら重陽の節句と相撲は関係がありそうです。 上賀茂神社 烏相撲同じ重陽の日、京都法輪寺では重陽神事が行われ、菊滋童の舞が奉納されます。 法輪寺 重陽神事
菊滋童の舞は次のような中国の伝説に基づくものです。
周の穆王が寵愛していた少年菊滋童は、あるとき誤って帝の枕の上を超えてしまい、レッケン山に流刑となりました。 穆王は菊滋童に観世音菩薩 普門品というお経にある「具一切功徳慈眼視衆生、福聚海無量是故応頂禮」を毎日唱えるようにと言いいました。 菊慈童がこれを菊の下葉に書きつけたところ、菊の下葉の露が不老長寿の薬となりました。 そしてそれを飲んだ菊滋童は700歳の長寿を得ました。
穆王の枕を超えた、という点に注意してください。 穆王は菊滋童を寵愛していたとありますが、これは単に「かわいがっていた」という意味ではなく、「BLの関係にあった」ということでしょう!(きゃーーーっ❤) 陰陽道では男性は陽、女性は陰となります。 BLや男同士がぶつかりあう相撲は、どちらも重陽となります。 岡山県西大寺で行われている会陽という行事も、「男(陽)たちが出会う、集まる(会)」という意味で会陽というのではないかと思います。 動画、お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。そして重陽は9月9日のことであり、菊(ククとも読むようです。)の節句です。 菊とは男色の隠語でもありますね。 そしてBLや相撲など男と男が重なりあうと、不老長寿になると考えられたのではないかと思います。 ⑤女相撲は卑しいものだった?江戸時代には女相撲が行われていたようですし、古くは日本書紀に女相撲についての記述もあります。 日本書紀の雄略天皇13年(469年)9月、猪名部真根(いなべのまね)という石の細工人は「石を細工する際に斧の刃を傷つけたことがない」と言いました。 雄略天皇はその言葉が信じられず、采女にフンドシを締めさせ女相撲を行わせた。 真根は石を細工していましたが、女相撲が気になり、斧の刃先を台座の石にぶつけ、刃が欠けてしまいました。 ④で述べたように陽の存在である男と男が重なる(重陽)と不老長寿になると考えられていたのではないかと思います。 一方、女性は陰陽では陰の存在であり、女と女が重なる(重陰)と、天才的石細工人でも誤って刃をかけさせてしまうように、よくないことがおこると考えられたのではないでしょうか? ⑥陰陽道禁止このように相撲は陰陽道とか八卦と関係がありそうです。 そして、八卦は陰陽思想と関係が深いです。 詳しくは、ウィキペディアのこちらの記事を参照なさってください。→ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%8D%A6ですが陰陽道は迷信であるとして、1872年(明治5年)に明治政府によって廃止されています。 国がはっきりと「陰陽道は迷信である」と表明したわけです。 また国が表明するまでもなく、男が陽で重陽は縁起がよく、女が陰で重陰が縁起が悪いというのが迷信であることは多くの人が認めるところでしょう。 ⑦「女性は土俵から降りてください」は犯罪では?最近、大相撲舞鶴場所で挨拶をしていた多々見良三市長が土俵上でいきなり倒れるという事件がありましたね。 そこで看護師の女性らが土俵上にかけのぼって心臓マッサージを行ったところ、「女性は土俵から降りてください」とのアナウンスが流れました。 これが女性差別にあたるのではないかと騒がれています。 実行委員会は、会場に待機していた消防署員が自動体外式除細動器(AED)を持って処置を交代したため、このようなアナウンスをしたというのですが 人命救助を行う場には知識がある人がひとりだけではなく、数人いたほうがいいと思います。 幸い、市長は一命をとりとめたのでよかったのですが、もしも亡くなっていたら? 市長の人命救助を妨害したとして、アナウンスした人は刑事罰に問われかねなかったと思います。 ⑧伝統は変わっていく。伝統を守っていくというのは大切ですが、伝統は時代に合わせて変化してきたという事実もあります。 相撲も最初は殺し合いであったものが(①に書いたように、野見宿祢vs當麻蹴速の戦いでは當麻蹴速は死亡しています。) 宮中行事になった際には単に勝ち負けを競うものになっていたはずです。 あるお寺に地獄絵を見に行ったことがあるんですよ。 地獄絵には竹藪にすわりこんで何かを探している女の絵がありました。 昔、子供を産まなかった女性は筍を探し続ける地獄に落ちると言われていたんですね。 お寺の住職さんがその地獄絵の絵解きをしてくださるんですが、筍を探し続ける地獄については何もおっしゃいませんでした。 それはもちろん、女性が子供を産まなかったとしても罪ではなく、極楽へ行く権利があると、現在の仏教が考えているからでしょう。 富士山・立山・白山・比叡山・御岳山・高野山などはかつて女人禁制でしたが、 江戸後期から明治にかけての期間に女人禁制をといているので、女性でも足を踏み入れることができるようになりました。 これらの山に行って仏像を参拝したり、写真を撮ったりできることは本当に幸せなことです。 それに地理的なことや、気候のことなど、行ってみないとわからないこともあるんですよ。フィールドワークっていうんですか。 大峯山や沖ノ島など、今でも女人禁制の場所もあることはあります。 また将来、女性総理大臣が誕生したとして、表彰の際に土俵にあがれなくても、それは単に伝統であって、差別とはちがうという意見もあるかもしれません。 ですが、最低限、今回のように人の命にかかわる際には、女性でも土俵にあがってもよいとしておくべきだということは 言うまでもないことです。 松尾大社 赤ちゃん土俵入り
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[2018/04/22 01:05]
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奈良県葛城市 當麻寺 2018年4月18日 撮影 ①もののな拾遺集にこんな歌がありますよ。 紫の 色には咲くな むさしのの 草のゆかりと 人もこそ見れ/如覚法師 (紫色に咲かないでくれ。武蔵野の草と縁のある草だと人に間違えられてしまうから) この歌は拾遺集の「もののな」に分類される歌で「さくなむさ」という題がついています。 「もののな」とは! 先生「 みるみるうちに、という語を使って文章をつくりなさい。」 生徒「ヤクルト ミルミル、うちにある。」 この文章は国語のテストとしては✖かもしれませんが、「もののな」としては〇になります。 そう、もののなとは隠し題ともいい、和歌などの中に、こっそりある言葉をひそませるテクニックのことです。 ですから子供がこういう回答をした場合には怒ったりせずに「センスがあるね」とほめてあげてほしいです。 すごい例ではこういうのがありますよ。 茎も葉も みな緑なる 深芹は 洗ふ根のみや 白く見ゆらむ/藤原輔相 (茎も葉もみな緑の深芹は、洗う根だけが白く見えている。)洗ふ根のみや白→あらふねのみやしろ→荒船の御社 座布団2枚っっ! ②「さくなむさ」は石楠花冒頭の歌にもどりましょう。 紫の 色には咲くな むさしのの 草のゆかりと 人もこそ見れ/如覚法師 (紫色に咲かないでくれ。武蔵野の草と縁のある草だと人に間違えられてしまうから)歌の中に「さくなむさ(咲くな むさ)」と言う言葉が読み取れますが、「さくなむさ」とは「しゃくなげ」のことだと考えられています。 しゃくなげという言葉の語源は漢語の石南花を「しゃくなんげ」と読み、それが「しゃくなげ」に転じたとする説が有力です。 そして石南花の花の部分を草にかえて石南草とし、「しゃくなんくさ」→「さくなむさ」に転じたのではないかと考えられています。 如覚が「紫の色には咲くな」と呼びかけた花は石楠花だったのですね。 ③古今集の歌をふまえた歌紫の 色には咲くな むさしのの 草のゆかりと 人もこそ見れ/如覚法師 (紫色に咲かないでくれ。武蔵野の草と縁のある草だと人に間違えられてしまうから)この歌は、古今和歌集の次の歌をうけたものだとされます。 紫の ひともとゆゑに 武蔵野の 草はみながら あはれとぞ見る/詠み人しらず 紫草が一本があるために、武蔵野の草も皆全ていとしいと思って見る。短い歌の中に、もののなとして「さくなむさ」を隠し、さらに別の歌もイメージさせるという高度なテクニックですね。 ④詠み人は業平?古今和歌集にあるこの歌は、詠み人しらずとなっていますが、もしかしたら在原業平かも? というのは、在原業平にはこんな伝説があるのです。 東国に下った在原業平は田面長者長勝(たのものちょうじゃおさかつ)の館に滞在し、長勝の娘・皐月の前と恋に落ちました。 そして業平と皐月の前は駆け落ちするため館から逃げ出しました。 長勝は家来に捜索させましたが武蔵野は広大すぎて、手がかりも得られませんでした。 そこで、樋の橋(新座市片山)あたりから野火をつけました。 燃え広がった火は二人の目の前まで迫りました。 そのとき皐月の前が歌を詠みました。
むさしのは 今日はなやきそ 若草の、つまもこもれり 我もこもれり (むさしのは 今日は焼かないでください。若草のような夫も籠っています。私も籠っています。)
この歌が聞こえたため、ふたりは長勝の家来にみつかり、館へ連れもどされてしまいました。 2人が隠れていた場所は平林寺境内の業平塚で、地名の野火止も、この逸話からくるものです。
紫の ひともとゆゑに 武蔵野の 草はみながら あはれとぞ見る/詠み人しらず (紫草が一本があるために、武蔵野の草も皆全ていとしいと思って見る。)
(むさしのは 今日はなやきそ 若草の、つまもこもれり 我もこもれり (むさしのは 今日は焼かないでください。若草のような夫も籠っています。私も籠っています。)
このふたつの歌はペアになっているように思えないでしょうか? 如覚は武蔵野に好きな人でもいたのかな? お稚児さんは平野神社・桜祭神幸祭に登場された方です。(合成)
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[2018/04/20 15:36]
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奈良県葛城市 當麻寺 中之坊 2018年4月18日 撮影
①牡丹灯籠夏はまだもう少し先ですが、怪談をひとつ。 お露は萩原新三郎に恋い焦がれるあまり、死んでしまいました。 お露つきの女中・お米もお露のあとを追って死に、二人とも幽霊になってしまっいました。 幽霊になってもお露は新三郎が恋しくてならず、夜な夜な新三郎のもとへ通いました。 牡丹灯篭を下げた女中・お米は牡丹燈籠を手にもってお露のお供をしました。 新三郎はお露が幽霊であると知り、家のまわりに幽霊封じのお札をはり、さらにお守りとして小さな金の仏像を身につました。 新三郎に会えなくなったお露とお米は、新三郎の下男・伴蔵に「お札をはがしてほしい」と頼みます。 半蔵は「百両もってきたらはがしてあげるよーん」と言いました。 お露とお米は百両もってきました。 そこで伴蔵とお峰は新三郎の仏像を盗み、お札もはがしました。 お露とお米は新三郎の家の中に入っていき、新三郎とともにあの世へ去っていきました。ご存じ、怪談『牡丹灯籠』です。 ②牡丹燈記は正月の話だったなぜお露の女中・お米は牡丹灯篭を下げていたのでしょうか。 お盆には盆灯篭といって故人の霊が迷わず戻ってこれるように灯篭をともす習慣があります。 それで幽霊になったお米はお露が迷わず新三郎のもとへ通えるように灯篭を下げていたのでしょうか? つまり、幽霊になったお露が新三郎のもとへ通っていたのはお盆の時期なのか?ということです。 ですが、牡丹灯籠の元になった中国の牡丹燈記を読むと、お盆の時期ではありません。 元末、明州(浙江省鄞県/せっこうしょうきんけん)では正月元宵の燈籠見物でにぎわっていました。 妻を亡くしてやもめ暮らしをしていた喬生(きょうせい)は夜更けに17~18歳の美女・麗卿(れいきょう)と出会いました。 美女は牡丹型の灯篭を持った侍女・金蓮(きんれん)をつれていました。 麗卿はその日から毎日喬生の家にやってくるようになりました。 半月ほどたち、隣家の老翁が骸骨と抱き合う喬生の姿を見、喬生に麗卿の正体を調べるようアドバイスします。 喬生は湖心寺という古寺の奥の一室で棺を見つけました。 その棺には「もとの奉化州判の娘、麗卿の柩」と記されていました。 棺の前には牡丹燈と藁人形があり、藁人形の背中には「金蓮」と書いてありました。 喬生は逃げ帰り、法師に魔除けのお札をもらいました。 それから麗卿はやってこなくなりましたが、ひと月ほどしてうっかり湖心寺の前を通ってしまったところ、金蓮に捕まえられて寺の中へ引きずり込まれました。 寺の中には麗卿がおり、喬生を棺の中にひきずりこみ、自分も一緒に棺の中に入って蓋を閉じてしまいました。 喬生が帰ってこないのを心配した隣家の老翁は湖心寺まで探しにやってきて、棺の中で喬生と麗卿が抱き合うようにして死んでいるのを発見しました。 これ以降、月のない夜には喬生と麗卿が手をつなぎ、その先を牡丹燈を持った侍女が歩いて行く姿が見られるようになりました。
牡丹型の灯篭を持つ侍女をつれた美女があらわれたのは正月です。 中国では正月にたくさんの灯篭を飾る習慣があるようですね。 神戸 南京町 ランターンフェア ③年がかわるとき、幽霊やお化けがでる?どうも、年がかわる際には幽霊とかお化けがでると考えられていたんじゃないかと思うんですね。 堂島薬師堂付近を練り歩く美しすぐるお化けさんたち日本では節分にお化けといって変装して練り歩く習慣がありますが、節分とは二十四節気の大晦日で、1年の変わり目になります。 ハロウィン(10月31日)にも変装して練り歩きますが、ハロウィンとはもともとはケルト人の大晦日の行事だと考えられています。 ケルト人はこの日死者の霊が家族を訪ねてくると考えていました。 その際、悪霊もあらわれると考えられ、この悪霊から身を守るために変装する習慣が生じたと言われています。 日本の節分のお化けも同様の信仰によるものなのかもしれません。 偶然かもしれませんが、上の写真のお化けさんは灯篭をもっていますよ。 また、ハロウィンにはジャック・オ・ランタンといってかぼちゃをくりぬいた灯篭をつくりますね。 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Halloween-card-mirror-1904.jpg https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5d/Halloween-card-mirror-1904.jpg よりお借りしました。
<a title="作者 Ellen Clapsaddle (1865–1934) (Drawing by Ellen Clapsaddle) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で"
牡丹燈篭はジャックオランタンのようなもので、お露や麗卿の侍女が牡丹灯籠をもっていたのは、彼女たちがお化け(幽霊)であることを示しているのかも? 牡丹はお露や麗卿が美人であることを表しているのではないかと思います。 「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」といいますね。 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/04/18 19:28]
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滋賀県犬山郡甲良町金谷 大将軍社 2018年4月8日 撮影
落ち椿の赤いカーペットを発見。あまりに美しいので車を止めて撮影することに。①方角をつかさどる神・八将軍大将軍とは陰陽道の神・八将神の一柱です。 八将軍 | 方位 | 神格 | 吉凶 | 太歳(たいさい) | 十二支の方位 | 木曜星(歳星/さいしょう)…木星 | 移転普請は吉。訴訟、伐木は凶。 | 大将軍(だいしょうぐん) | 3年同じ方位に留まる。 (三年塞がり) | 金曜星(太白)・・・金星 | 万事に大凶。 | 太陰(たいおん) | | 土曜星(鎮星/ちんしょう…土星 | 縁談出産は凶。 | 歳刑(さいぎょう) | | 水曜星(辰星/しんしょう)・・・水星 | 耕作は凶。 | 歳破(さいは) | | 土曜星(鎮星/ちんしょう)・・・土星 | 移転旅行は凶。 | 歳殺(さいせつ) | | 火曜星(熒惑星/けいこくしょう)…火星 | 縁談は凶。仏事は吉。 | 黄幡(おうばん) | | 羅睺(らごう)星・・・4本の腕と1本の尾をもつアスラ(魔族) | 武芸は吉。移転普請は凶。 | 豹尾(ひょうび) | | 計都(ひょうび)星(所説あり) ①暗黒の星で太陽や月をかくして日食月食がおこる。 ②彗星・流星 ③月の遠地点(月が重力中心から最も遠ざかる位置)
| 豹のように猛々しく、家畜を求めるに凶。
大小便も凶。 |
これらの神々は下図のように、その年の十二支によって存在する方角を変えます。 十二支 | 子年 | 丑年 | 寅年 | 卯年 | 辰年 | 巳年 | 午年 | 未年 | 申年 | 酉年 | 戌年 | 亥年 |
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大歳神 | 子 | 丑 | 寅 | 卯 | 辰 | 巳 | 午 | 未 | 申 | 酉 | 戌 | 亥 |
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大将軍 | 酉 | 酉 | 子 | 子 | 子 | 卯 | 卯 | 卯 | 午 | 午 | 午 | 酉 |
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大陰神 | 卯 | 辰 | 巳 | 午 | 未 | 申 | 酉 | 戌 | 亥 | 子 | 丑 | 寅 |
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歳刑神 | 卯 | 戌 | 巳 | 子 | 辰 | 申 | 午 | 丑 | 寅 | 酉 | 未 | 亥 |
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歳破神 | 午 | 未 | 申 | 酉 | 戌 | 亥 | 子 | 丑 | 寅 | 卯 | 辰 | 巳 |
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歳殺神 | 未 | 辰 | 丑 | 戌 | 未 | 辰 | 丑 | 戌 | 未 | 辰 | 丑 | 戌 |
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黄幡神 | 辰 | 丑 | 戌 | 未 | 辰 | 丑 | 戌 | 未 | 辰 | 丑 | 戌 | 未 |
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豹尾神 | 戌 | 未 | 辰 | 丑 | 戌 | 未 | 辰 | 丑 | 戌 | 未 | 辰 | 丑 |
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十二支が示す方角は下図のとおりです。 大将軍は子・卯・午・酉の方角、つまり北・東・南・西の方角に3年とどまると考えられました。
②大将軍と四天王の習合
大将軍社の説明板には「当社の御祭神増長天王・・・」とあります。 増長天は四天王の一(多聞天・持国天・増長天・広目天)で 多聞天は北、持国天は東、増長天は南、広目天は西の守護神とされます。
日本では明治まで神仏は習合されて信仰されていたので、大将軍はこの四天王と習合されて信仰されていたのでしょう。 だけど、なぜこの四天王の一で南の守護神である増長天が、大将軍と習合されているんでしょうか?
③都の四方に祀られた大将軍
平安京を建都した桓武天皇は、奈良春日大社から大将軍を勧請し、都を守る方除の神として四方に祀りました。
北の守護神は今宮神社境内の大将軍社(大徳寺門前より遷宮)、西の守護神は大将軍八神社、東の守護神は大将軍神社、南の守護神は藤森神社境内の大将軍社だといわれています。
大将軍八神社 大将軍神半跏像
藤森神社 大将軍社
これらの大将軍社はどういうわけか、きれいに都の東西南北にあるわけではないです。
ですが、お寺の堂内に安置されている四天王の配置もきれいに東西南北に置かれているわけではないです。東大寺戒壇院の四天王の配置も下図のように90度ずらしてあります。
えー、今回訪れた大将軍社は南の守護神・増長天をお祭りしているということなので、 他に北の多聞天、東の持国天、西の広目天をお祀りする大将軍社もあるのではないでしょうか?
見つかったら報告しますね。
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[2018/04/17 15:00]
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滋賀県長浜市 竹生島 奥琵琶湖パークウェイ 滋賀県高島市 海津大崎 2018年4月8日 撮影
竹生島 奥琵琶湖パークウェイより
①都久夫須麻神社琵琶湖北部に浮かぶ小さな島・竹生島。 面積は0.14平方キロメートル、周囲2.0キロメートル。 島には都久夫須麻神社と宝厳寺、土産物店がありますが、住民はいません。 参拝者はいますが、夜間は寺社関係者・店舗従業員も島を出てしまって無人島になります。 竹生島 宝厳寺 ※夏に撮影したものです。都久夫須麻神社の御祭神はイチキシマヒメ(弁財天・宗像大神)・宇賀福神(龍神)浅井比売命 (あざいひめのみこと) です。 社伝では、雄略天皇3年に浅井姫命を祀る小祠が建てられたのが創建と伝えています。 宝厳寺 本堂 ※夏に撮影したものです。②イチキシマヒメと宇賀神都久夫須麻神社の御祭神・イチキシマヒメは、仏教の神の弁財天と習合されています。 イチキシマヒメと弁財天はどちらも水の神様ということで、神社の池の中の小島などに祀られることが多いです。 都久夫須麻神社の御祭神・宇賀神は 人頭蛇身の神です。(写真は奈良市・喜光寺の宇賀神)  宇賀弁財天といって、頭上に宇賀神をいただくお姿の弁財天もあります。 ↓ こちらは竹生島にある宝厳寺の宇賀弁財天です。 弁財天の頭上に宇賀神がおられます。弁財天頭部の飾りに隠れて宇賀神のとぐろがわかりにくいかもですが。 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hogonji13s3200.jpg https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/dc/Hogonji13s3200.jpg よりお借りしました。
作者 663highland [GFDL (http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html), CC-BY-SA-3.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/) または CC BY 2.5 (https://creativecommons.org/licenses/by/2.5)], ウィキメディア・コモンズより江戸時代まで神仏は習合して信仰されていたので、古には都久夫須麻神社と宝厳寺は一体化していました。 宝厳寺に宇賀弁財天像があるのは、都久夫須麻神社の信仰と深い関係があるんですね。 奥琵琶湖パークウェイ付近③浅井の神もう一柱のは都久夫須麻神社の御祭神・浅井比売命は産土(うぶずな)神だということです。 産土神とは土地の守り神のことです。 かつて竹生島の北の対岸に浅井郡と呼ばれる地域がありました。 かなり古い地名のようです。 浅井比売命という神名は地名の浅井からくるもので、浅井の守り神が浅井比売命なのでしょう。 浅井郡は伊香郡をはさんで東浅井郡と西浅井郡に分かれていたようです。 竹生島は東浅井郡の南方、琵琶湖上にあって、浅井郡から近い場所にあります。 浅井比売命について、『近江国風土記』にはこんな話が記されています。 夷服岳(伊吹山)の多多美比古命が姪の浅井岳(金糞岳)の浅井比売命と高さ比べをしたところ、浅井比売命が勝ちました。 負けた多多美比古命はこれに腹をたて、浅井比売命の首を斬りました。 浅井比売命の首は琵琶湖に落ちて竹生島になりました。
奥琵琶湖パークウェイ付近
④矢合神社の浅井比売命伝説前回ご紹介した矢合神社にはこんな伝説がのこされていますよ。 浅井比売命と気吹雄命(多多美比古命)が争った時、 気吹雄命が浅井岡を襲いました。 浅井比売命は当地まで退き、 防矢を射ました。 矢合神社
矢合神社は延喜式に「江州浅井郡八相山鎮座八相社」とあり、八相さんと呼ばれていたそうです。 寛文年間まで正月10日に弓矢の神事が行われており、矢のゆき交う形の矢合いと、八相の訓読ヤアイから矢合神社となったといわれています。 境内にある岩上神社の御祭神が浅井比命なのだそうです。 遠くに海津大崎がみえています。⑤ドクロの神『近江国風土記』に話を戻します。 浅井比売命の首が琵琶湖に落ちて竹生島になったということは、浅井比売はドクロの神なんですね。 それで都久夫須麻神社では宇賀神を、宝厳寺では宇賀弁財天を祭っているのでしょう。 宇賀神の写真をもう一度見てください。 三室戸寺 宇賀神私は喜光寺や三室戸寺の宇賀神を見て、ろくろ首を思い出しました。  https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hokusai_rokurokubi.jpg https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/39/Hokusai_rokurokubi.jpg よりお借りしました。 葛飾北斎 [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
宇賀神とは頭部に長い首がついたドクロの神なのだと思います。 また、ろくろ首とは上の葛飾北斎の絵にあるように首が長くのびる妖怪のことですが、首が胴体から抜けるタイプのろくろ首もあるとのことです。  https://commons.wikimedia.org/wiki/File:ShokokuHyaku_Rokurokubi.jpg https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b9/ShokokuHyaku_Rokurokubi.jpg よりお借りしました。 作者 不明 (scanned from ISBN 4-7790-0051-3.) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
上の絵は『諸国百物語』の挿絵で、タイトルは 「ゑちぜんの国府中ろくろ首の事」となっていますが 多多美比古命に斬られた浅井比売命の首を想像させるではありませんか。 浅井比売命とは「ろくろ首」の神なのではないでしょうか。
そして宇賀神とは頭に長い首がついた神様なのだと思います。
それで宇賀神は浅井比売と同一視され、都久夫須麻神社に祀られているのではないでしょうか。
海津大崎
⑥蓮華会はドクロの神を祀る行事?
都久夫須麻神社では「竹生島の頭(とう)がさす」と呼ばれる行事があり、正式には蓮華会というそうです。 弁財天を新規に作造し、竹生島に奉納する行事だということです。
蓮華会といえば、奈良𠮷野・金峯山寺の蓮華会を思い出します。 金峯山寺の蓮華会は、大和高田市奥田にある弁天池の蓮を蔵王権現にお供えする行事で7月7日に行われますが 同日金峯山寺で蛙飛び行事が行われます。
金峯山寺 蓮華会
弁天池の蓮、というところに都久夫須麻神社の蓮華会との関連がありそうに思えますね。 都久夫須麻神社の御祭神はイチキシマヒメ(弁財天・宗像大神)・宇賀福神(龍神)浅井比売命 でしたね。 イチキシマヒメと弁財天が習合されているということですが、弁財天は別名を弁天ともいいますので。

金峯山寺 蛙飛行事
で、峯山寺の蛙飛行事では蛙の着ぐるみを着た人がぴょんぴょん跳ねるのですが、蛙はドクロを比喩したものだと私は思うんです。
下の写真は飛鳥の亀石ですが、蛙ではないかともいわれています。
下の写真は京都の大将軍商店街(妖怪ストリート)に置かれてあったぬらりひょんの人形ですが、飛鳥の亀石にそっくりですね。眉間に半月形の皺があるところまで同じです。  下の写真は金峯山寺近くにある(金峯山寺と関係が深い)脳天大神に置かれていた狛蛙です。  脳天大神は頭を割られた蛇を祀り、首から上の病気に霊験あらたかと言われています。 この狛蛙も飛鳥の亀石と同じく、ドクロをあらわしていると思います。 詳しくは別ブログの次の記事をお読みください。 金峯山寺 蔵王堂 蓮華会 蛙飛行事 『蛙と空飛ぶドクロ』 もしかしたら蓮華会とはドクロの神を祀る行事なのかも? 都久夫須麻神社では6月14日の放生会で蛙の形をした御幣を用いるそうですが、蛙=ドクロであり、都久夫須麻神社の御祭神がドクロの神であることから蛙の形の御幣を用いるのではないかと思います。 上は都久夫須麻神社に置かれていた神蛇の像ですが、蛇もまたドクロの神として信仰されていたのではないかと思います。 つまり、昔の人は蛇を、頭に長い首のついた動物だと考えていたのではないかと思うわけです。 頭に長い首がついているといえば、都久夫須麻神社の御祭神の宇賀神、そしてろくろ首ですね。 蛙は首が抜けるタイプのろくろ首で、蛇は首がのびるタイプのろくろ首というわけです。
かなりいい加減な地図で、正確なものではありません(汗)
海津大崎 しだれ桜 ライトアップ
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[2018/04/16 13:38]
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滋賀県長浜市 矢合神社 2018年4月中旬 撮影
①猿田彦=応神天皇?矢合神社の御祭神は猿田彦神・応神天皇です。 このうち応神天皇は明治43年に近所にあった 八幡神社を合併して御祭神となったようです。 なので矢合神社のもともとの御祭神は猿田彦神ということになりますが 明治に八幡神社を合併したころ、人々は猿田彦神と応神天皇は同一神であるという認識があって合併したのかも? と思ったりします。 ②猿田彦=ニギハヤヒ?猿田彦神は記紀に「高天原から葦原中国までを照らす神」と記されていますが 「高天原から葦原中国までを照らす神」にぴったりな神名を持つ神がいます。 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)です。 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊という神名は先代旧事本紀に記述されているもので、記紀では単にニギハヤヒとなっています。 ニギハヤヒは物部氏の祖神で、初代神武天皇が日向より東征して畿内入りする以前より、畿内に天下っていたと記紀(古事記・日本書紀)には記されています。 ここから神武天皇以前、畿内には物部王朝があったとする説があり、私はこれを支持しています。 記紀が記されたのは奈良時代ですが、このときあえて天皇家にとって都合の悪いこと(神武以前ニギハヤヒが天下っていたこと)を書いたのはなぜでしょうか。 それは、このとき、天皇家以前に物部王朝があったということは周知の事実であったからではないかという説があります。 妥当な見方だと思うんですが、どうでしょうか? そしてニギハヤヒを神と奉じる長髄彦という者がいて、神武に「天孫はニギハヤヒだ。あなたは天孫だというが、それは嘘だ」と言いました。 このとき、ニギハヤヒが長髄彦を殺したと記紀は記します。 ニギハヤヒは自分が天孫であるのに、自分を神としたう長髄彦を殺してまで、神武に皇位を譲ったとよめますね。 一方、猿田彦は、神武の先祖で天照大神の孫のニニギを高天原から葦原中国まで道案内したとされます。 猿田彦は天照大神の孫・ニニギが天下る手助けをし、ニギハヤヒは天照大神の6代目の孫・神武が畿内で即位する手助けをしています。 猿田彦がニニギを高天原から葦原中国まで案内したというのは、ニギハヤヒが神武に皇位を譲ったということを神代の物語として描いたもののように思えるのです。 ③応神天皇は伊奢沙和気大神に皇位を譲った?明治43年に合祀された応神天皇についてですが、記紀は応神天皇が伊奢沙和気大神と名前を交換したという物語を記しています。 名前を交換するということは、応神天皇が伊奢沙和気大神に皇位を譲った話であるようにも思えます。 猿田彦=ニギハヤヒ・・・神武に皇位を譲った。 応神天皇・・・・・・・・伊奢沙和気大神に皇位を譲った。 こういう共通点から、猿田彦神と応神天皇は同一視され、その結果明治43年に矢合神社(祭神/サルタヒコ)と八幡神社(御祭神/応神天皇)は合併されたのかも? ④伊奢沙和気大神は朝鮮の神?応神天皇と名前を交換した伊奢沙和気大神とは福井県敦賀市にある気比神宮の神です。 気比神宮の摂社に角鹿(つぬが)神社があり、ツヌガアラシトを祀っています。 ツヌガアラシトは祟神58年(紀元前40年)に朝鮮半島から日本にやってきて、崇神天皇に5年仕えたとされる人です。 帰国の際、崇神天皇はツヌガアラシトの国に任那という国号を与えたとされます。 このツヌガアラシトを祀る角鹿神社が気比神宮の摂社ということは、気比神宮の御祭神・伊奢沙和気大神もまた朝鮮半島からやってきた人なのでは? 朝鮮半島から船を出すと対馬海流にのって、北九州・出雲・敦賀あたりにつくと言われていますし。 ということは応神天皇は朝鮮半島からやってきた神様と名前を交換したということなのかな? 四天王寺ワッソ ツヌガアラシト 角がある人、という意味みたいですね。⑤神武=応神=伊奢沙和気大神?応神天皇は九州で生まれ、その後畿内入りするのですが、この畿内入りルートが神武東征ルートと重なるので、応神と神武は同一人物ではないかとする説があります。 そして応神天皇は伊奢沙和気大神と名前を交換しています。 神武=応神=伊奢沙和気大神 初代神武天皇以前、畿内に天下っていたニギハヤヒは物部氏の祖神でしたね。 もしかして、ですが 神武東征は実は神武の話ではなく、ニギハヤヒの東征だったりしないでしょうか? ⑥神武の故郷の人々・隼人が朝廷に反抗するという矛盾神武の故郷は日向とされますが、このあたりに住む人々は隼人と呼ばれ、たびたび朝廷に反抗しています。 神武と同郷の隼人が朝廷に反抗するって変じゃないですか? 日向に住んでいたのは実はニギハヤヒだったとしたら、ニギハヤヒの子孫が朝廷に反抗するのは当然のことのように思えます。 そしてすでに述べたように応神=神武と考えられるわけですが、応神天皇は渡来人の神の可能性が高い伊奢沙和気大神と名前を交換しています。 神武は本当は対馬海流に乗って朝鮮半島から敦賀にやってきた渡来人の伊奢沙和気大神であったのが、物部氏の神・応神天皇と名前を交換して大和朝廷の支配者になったんだったりして? ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/04/13 23:07]
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大阪府枚方市 百済王神社 百済寺跡 2018年4月初旬 2007年4月初旬 撮影
①百済王家の末裔 ℚ.これはなんとよむ? → 百済王
答えは、「くだらのこにきし」です。超難読?百済王とは渡来系氏族の姓で、枚方市には百済王氏の祖霊を祭る百済王神社があります。 百済王神社の隣には百済寺跡がありますよ。 4世紀前半ごろより 660年まで朝鮮半島に百済という国がありました。 百済第31代王の義慈王(ぎじおう)は高句麗ととも新羅をせめていました。 また日本に軍事協力を求める意味から、子の豊璋(ほうしょう)と善光を日本に人質として送り込んでいました。
しかし唐と新羅が同盟を結んで攻めてきて、660年新羅は滅亡してしまうのです。
百済の遺臣は豊璋を国王に擁立して百済を復興させる計画をたて、日本に援助を求めます。
これを受け、中大兄皇子は661年、豊璋を護送する軍を送ります。 662年には第2軍を送っています。 しかし663年の白村江の戦いで、百済日本連合軍は大敗します。 豊璋は捕らえられて幽閉されたとか、流罪になったとされます。
豊璋の弟・善光は日本にとどまり、彼の子孫は持統天皇より百済王の姓を賜りました。 桓武天皇の母親・高野新笠は百済王氏の和(やまと)氏でしたね。
②軍王=豊璋?
万葉集に軍王という人の和歌があります。 軍王は従来「いくさのおおきみ)と読まれていました。
しかし雄略紀に百済王加須利君(かすりのきし)が日本に送った弟の名前を「軍君」といい 『釈日本紀』はコニキシ(またはコンキシ)とよんでいます。
コニキシとは百済王族に対する尊称です。 そのため、青木和夫さんは軍王とは豊璋のことではないかとおっしゃっています。
③軍王の歌は百済を懐かしむ歌?
軍王の歌を鑑賞してみましょう。
讃岐国康益郡(あやのこほり)に幸(いでま)せる時、軍王の山を見て作る歌
霞立つ 長き春日の 暮れにける わづきも知らず むらきもの 心を痛み ぬえこ鳥 うら泣け居れば 玉たすき 懸けのよろしく 遠つ神 我が大君の 行幸の 山越す風の ひとり居る 我が衣手に 朝夕に 返らひぬれば 大夫と 思へる我れも 草枕 旅にしあれば 思ひ遣る たづきを知らに 網の浦の 海人娘子らが 焼く塩の 思ひぞ焼くる 我が下心
反歌 山越しの 風を時じみ 寝る夜おちず 家なる妹を 懸けて偲ひつ
【通釈】[長歌]霞の立つ長い春の一日が、いつの間にか暮れてしまった――そのようにわけも知れず、心が痛むので、トラツグミのように忍び泣きをしていると、託して思うのに具合よいことに、我が大君がお出ましになった山を越えて故郷の方から吹て来る風が、独りでいる私の衣の袖に朝な夕な、「帰れ」と言うように吹き返すので、立派な男子と自負している私も、旅の空にあることとて、思いを晴らすすべも分からず、網の浦の海人乙女らが焼く塩のように、ただ家恋しさに焦がれている、我が胸の内であるよ。 [反歌]山を越して来る風が時を分かず吹き寄せるので、寝る夜は一晩も欠けることなく、家にある妻を、吹き返す風に託して偲んだのだ。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ikusaou.htmlより引用
軍王=豊璋と考えると、この歌は豊璋が故郷・百済の安否を気遣い、また百済を懐かしんでいる歌のように思えますね。
④夜に鳴く鳥・鵺(ぬえ)
歌に「ぬえこ鳥」とありますが、「ぬえこ鳥」とはトラツグミのことだとされます。
動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます!
ダンスをしているように見えるのは、草を振動させているのだそうです。 草を振動させると草に隠れている虫が動き、それを捕らえて食べるとのこと。
かわゆす!
このようなかわいいトラツグミですが、ぬえこ鳥という名前は妖怪・鵺からくるものだと思います。
平安時代、妖怪・鵺は源頼政によってとらえられましたが、頭はサル、体はタヌキ、尾はヘビ、手足はトラのようであったとされます。
なぜこんなかわいい鳥が妖怪視されたのでしょうか?
私の考えでは、トラツグミは夜に鳴くので不気味だと考えられたのではないかと思います。 夜に鳴く鳥といえば、あとはフクロウ、ヨダカくらいですか?
ユーチューブで検索すると、夜に鳴くトラツグミの動画がたくさんヒットします。
長歌は 霞立つ 長き春日の 暮れにける わづきも知らず むらきもの 心を痛み ぬえこ鳥 うら泣け居れば・・・ でしたね。
※「わづき」とは「わけもしれず」、「むらきもの」は「心にかかる枕詞」です。
霞立つ 長き春日の 暮れにける (霞が立つ長い春の一日が暮れてしまった)とあるので、ぬえこ鳥(トラツグミ)が鳴いているのは夜だということになりますね。
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[2018/04/12 15:52]
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