奈良市月ヶ瀬尾山 月ヶ瀬梅林2018年3月下旬撮影
①烏梅月ヶ瀬梅林の梅は現在ではその多くが食用とされていますが、かつては梅の実を用いて烏梅(うばい)を作っていたそうです。 烏梅とは若い梅の実にススをまぶして燻製にし、乾燥させたものです。 烏梅は漢方薬の原料に用いたり、染色の触媒剤として用いられていました。 なんでも烏梅に含まれている青酸成分が紅花の染色にかかせなかいのだとか。 また烏梅は口紅や頬紅を作る際にも用いられていました。 紅の溶液に烏梅を加えて一昼夜おいておくと、紅の色素が沈殿して泥土のようになります。 これを羽二重でこし、蛤の貝殻や皿にいれて乾燥させたものを艶紅といいます。 これを筆でといて口紅や頬紅として用いたそうですよ。 ②姫若伝説月ヶ瀬村には次のような伝説が伝えられています。 1331年、奈良の笠置にいた御醍醐天皇が、さらに落ち延びる時、天皇家の女官達がこの月ヶ瀬の地に逃げてきました。 その女官のひとり、園生姫が世話をしてくれたお礼にと烏梅の製法を村人に教えました。
園生姫は別名を姫若ともいうそうです。 ③長宗我部元親の幼少のころのニックネームは姫若子だった。そこで「姫若」で検索してみると「姫若子」というのが出てきます。 「姫若子」とは長宗我部元親の幼少のころのニックネームです。 幼い頃、長宗我部元親は色が白く軟弱で、「姫若子」とからかわれていたそうです。 ④女装して御所を脱出した後醍醐天皇
ここでピンときました! それで「後醍醐天皇 女装」とキーワードを入れてググってみたのです。 すると、ウィキペディア・元弘の乱に次のように記されていました。 笠置山・赤坂城の戦い元弘元年(1331年)、後醍醐の側近である吉田定房が六波羅探題に倒幕計画を密告し、またも計画は事前に発覚した。 六波羅探題は軍勢を御所の中にまで送り、後醍醐は女装して御所を脱出し、比叡山へ向かうと見せかけて山城国笠置山で挙兵した。 後醍醐の皇子・護良親王や、河内国の悪党・楠木正成もこれに呼応して、それぞれ大和国の吉野および河内国の下赤阪城で挙兵した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%BC%98%E3%81%AE%E4%B9%B1より引用
月ヶ瀬村の伝説も1331年で、後醍醐天皇に関係する伝説でしたね・・・・。
烏梅の製法を月ヶ瀬村に伝えた園生姫(姫若)とは女装して御所を脱出した後醍醐天皇のことではないでしょうか?
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[2018/03/29 18:48]
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三重県桑名市 なばなの里 3月中旬撮影
なばなの里 河津桜なばなの里 しだれ梅 河津桜 『伊勢神宮が伊勢につくられた理由とは?』 のつづきでーす。 ①二見が浦からダイヤモンド富士が見える。
なばなの里にある「アイランド富士」。※地上45mの高さで回転し、360度のパノラマ風景を楽しむことができます。 なばなの里は三重県なのに「アイランド富士」というアトラクションがあるのは、 二見ヶ浦から富士山が見えるからではないでしょうか? 動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます! ②富士山=北斗七星、伊勢神宮=北極星、カシオペア=?で、日本のあちこちに、北斗七星・カシオペア座・北極星になぞらえた場所があるみたいなんですよ。 下の図は夜空を左右反転させたものです。 夜空を左右反転させるのは、夜空をそのまま地上に投影したものを地上から見下ろすと、夜空を左右反転した形になるからです。  日振島はカシオペア座を左右反転させた形をしています。 三上山は北斗七星を表すものだと思います。その理由については、長くなるので前回の記事を読んでくださいね。 なばなの里 しだれ梅 河津桜 『伊勢神宮が伊勢につくられた理由とは?』 三上山は北斗七星、日振島はカシオペア座、鳴門の渦潮は北極星をあらわしているように思えるのですが、どうでしょう? これと同様、富士山=北斗七星、伊勢神宮=北極星だと思います。カシオペアはよくわからないんですが(汗) 奈良の二上山だと距離が近すぎ、日振島だと距離が遠すぎ、島根の二上山だと角度があきすぎ~? ③太陽神の子孫なのに天皇(北極星)とはこれいかに?「伊勢神宮って天照大神を祀る神社やん。天照大神って太陽神やろ。伊勢神宮が北極星って変とちゃう」って? いい質問です!(エラそう?) 天照大神は天皇家の祖神です。天照大神は太陽神です。それなのに、その子孫が天皇の称号を世襲しているっていうのも変ですよね。 天皇大帝とは北極星をつかさどる道教の最高神のことです。 太陽神の子孫なのに天皇(北極星)とはこれいかに~~~? なばなの里 河津桜 ④サルタヒコ=ニギハヤヒこんな話があります。 ニニギはサルタヒコに道案内されて葦原中国の日向の宮へと天下りました。 その後、ニニギはアメノウズメに『サルタヒコを彼の故郷の伊勢へと送り届け、サルタヒコの名前を伝えて仕え祭れ』と命じました。 ここからアメノウズメは猿女君と呼ばれるようになりました。 のちに猿田彦は伊勢の阿邪訶(あざか。現松阪市))の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれて溺れ死にました。(古事記)
なばなの里 河津桜
サルタヒコは「高天原から葦原中国までを照らす神」と記述があります。 これにぴったりな神名を持つ神がいます。 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)です。 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊というのは先代旧事本紀の記述で、記紀ではニギハヤヒとなっています。 サルタヒコとニギハヤヒは同一神なのではないでしょうか? ⑤天照大神はサルタヒコとアメノウズメの男女双体の神?また、この天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊が本当の天照大神だとする説もあります。 神はその表れ方で御霊(神の本質)・和魂(神の和やかな側面)・荒魂(神の荒々しい側面)の三つにわけられるとされます。 そして女神は和魂を、男神は荒魂をあらわすとする説があります。 私は御霊とは男女双体ではないかと思います。 つまり、サルタヒコ=天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊とアメノウズメの男女双体の神が天照大神ではないかと思うのです。 道祖神はサルタヒコとアメノウズメの男女双体の神像だともいわれていますよ。 いや、太陽神=天照大神は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊=サルタヒコで アメノウズメは月の神だと思います。 陰陽道では太陽や男は陽、月や女性は陰とされているからです。 ⑥道祖神=女媧&伏義道祖神は中国の女媧&伏義と習合されていると思います。 https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AAnonymous-Fuxi_and_N%C3%BCwa3.jpg https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a9/Anonymous-Fuxi_and_N%C3%BCwa3.jpg よりお借りしました。 作者 匿名 [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で上は女媧&伏義を描いたものですが、絵の上部中央に太陽が、下部中央に月が描かれています。 ⑦伏義=太陽、女媧=月 http://www.d4.dion.ne.jp/~arai-n/pic1099.htm↑ こちらの五盔墓4号墳の壁画に描かれた絵では、伏義が持ち上げている円の中には八咫烏が、女媧が持ち上げている円の中にはヒキガエルが描かれています。 八咫烏は太陽の中に、ヒキガエルまたはウサギは月に住むと考えられていました。 この絵を見ると、伏義は太陽の神、女媧は月の神のように思われます。 いや、もっと広く伏義は陽の神、女媧は陰の神というべきかもしれません。 太陽は伏義を、月は女媧をあらわしていると思います。 ⑧太陽と月が結婚すると星が生まれる。そして、日食は太陽と月が和合することだといってもいいでしょう。 日食が太陽と月が重なっておきる現象だという説は古くから唱えられていました。 そして、日食になると夜のように暗くなり、星が見えてきます。 つまり、太陽と月が結婚すると星が生まれるというわけです。 上の女媧&伏義の絵にもたくさん星が描かれていますね。 伊勢神宮に祀られているのはサルタヒコ(太陽神)とアメノウズメ(月神)の男女双体の神=星の神だと考えることができるのではないでしょうか。  まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/03/27 19:27]
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三重県桑名市 なばなの里 2018年3月中旬 撮影 なばなの里 しだれ梅とアイランド富士①三重県なのになんでアイランド富士?なばなの里に空飛ぶ富士山が登場! 実はこれアイランド富士といいまして、地上45mの高さで回転し、360度のパノラマ風景を楽しむことができるというアトラクションなのです。 「三重県なのになんで富士山?関東地方ならわかるけど、三重と富士山って随分離れてるやん」とか思いませんか。 なばなの里 河津桜実は三重県の二見ヶ浦から富士山が見えるそうなんですよ。 しかも夏至の日には朝日が富士山から昇ってくるんだとか。 動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます! ②伊勢神宮が伊勢につくられ田理由は、二見ヶ浦から富士山がみえるから?東京の足立の花火を見にいったとき、 足立の花火 『道祖神の招きを受けて旅立った松尾芭蕉』 隣に居合わせたカメラマンさんとお話しをしました。 そのカメラマンさんは民俗学にも詳しくて、こんなことを教えてくださったのです。 「夏至の日に二見ヶ浦からダイヤモンド富士が見えるので、二見ヶ浦から近い伊勢に天照大神を祀る伊勢神宮がつくられたんですよ~♪」 おおーーーっ、おっしゃるとおりかも! そして、そして、それは伊勢神宮を北極星、富士山を北斗七星、どこかの場所をカシオペア座とする呪術なのではないでしょうか? なばなの里 河津桜とミツマタ③日振島=カシオペア座=藤原純友、三上山=北斗七星=平将門詳しく説明しますね♪ 日振島はカシオペア座を左右反転させた形をしています。  この日振島は平安時代に藤原純友の乱をおこした藤原純友の本拠地だったところです。 藤原純友の乱と同時期に平将門の乱がおこっています。 加門七海さんが関東の平将門関連史跡をつなぐと北斗七星の形になると指摘されています。 平将門は北斗七星の神だといってもいいでしょう。 すると藤原純友はカシオペア座の神と言えると思います。 で、琵琶湖のほとりにある三上山にすむ大ムカデを藤原秀郷が退治したという伝説があります。 藤原秀郷は平将門の乱を鎮圧した人なんです。 三上山にすむ大ムカデとは平将門の比喩だと考えられますね。 また日振島は藤原純友の比喩(日振島は藤原純友の本拠地だった)、三上山は平将門の比喩だと考えられます。 そして日振島はカシオペア座、三上山は北斗七星になぞらえられているのではないかと思えます。 なばなの里 河津桜④変形された北斗七星日振島はカシオペア座の形をしていますが、三上山は近江富士とも呼ばれ、台形の形をしていて北斗七星の形をしていません。 三上山大阪府交野市の星田妙見宮に北斗七星の神々が祀られていますが、やはり北斗七星の配置になっていません。 
星田妙見宮 境内図 (文・禄・巨・貧・破・武・廉とあるのが北斗七星の神だが北斗七星の形に配置されていない。) 上は星田妙見宮の旗に描かれえいた北方をつかさどるとされる聖獣・玄武(亀に蛇がまきついた姿をしている。)です。 その玄武の上に北斗七星を渦巻き状に変形させたのようなものが描かれています。 亀は北極星、亀にまきつく蛇は北斗七星をあらわしているのではないでしょうか。 北斗七星は北極星の周囲を回るので、このような形に描かれているのではないかと思います。 なばなの里 河津桜⑤三上山=北極星、三上山に巻き付くムカデ=北斗七星すると、本来、三上山は北極星、三上山に巻き付くムカデは北斗七星をあらわしていたのではないかと思われます。 しかし、日振島をカシオペア座になぞらえた場合、三上山を北極星&北斗七星になぞらえると、おかしなことになってしまいます。 というのは、カシオペア座は北極星をはさんで北斗七星と対面するような位置にあり、カシオペア座もまた北極星のまわりをまわっているからです。 ⑥鳴門の渦潮=北極星三上山は本来ならば北極星と北斗七星をあらわすものだと考えられますが、三上山は北斗七星をあらわすものとしましょう。 そして三上山=北斗七星と日振島=カシオペア座の中間に北極星になぞらえるものを探してみました。 そうしたところ、北極星にぴったりなものが見つかりました。鳴門の渦潮です。 すべての星は北極星を中心に左回りに回ります。それはあたかも北極星に宇宙を回転させるパワーがあるかのようですね。 日振島はカシオペア座を左右反転させた形をしていますから、北極星の回転方向も左右反転させなければなりません。 ということは、北極星は右回りに回転しているということになりますが、鳴門の渦潮はほとんど右回り回転だそうです。 http://www5a.biglobe.ne.jp/~outfocus/mirror/uzumaki.htm(私が見に行ったときは左回りの渦潮もたくさん発生していましたが)   ⑦他にもある、カシオペア座・北斗七星・北極星になぞらえられた場所北斗七星。北極星。カシオペア座になぞられているのは、日振島・鳴門の渦潮・三上山だけでなく、他の組み合わせもありそうです。 なばなの里 さんしゅゆ⑧富士山=北斗七星、伊勢神宮=北極星、カシオペア座は?
下の地図を見てください。 富士山=北斗七星、伊勢神宮=北極星だと思うんですが、カシオペアは・・・・ 奈良の二上山だと距離が近すぎ、日振島だと距離が遠すぎ、島根の二上山だと角度があきすぎ~? もうちょっと考えてみます~(汗) なばなの里 河津桜まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/03/24 23:12]
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京都市右京区 梅宮大社2018年3月中旬撮影
①酒解神=オオヤマツミ、酒解子神=コノハナノサクヤヒメ、大若子神=ニニギ、小若子神=ホオリ梅宮大社の本殿の御祭神は酒解神・酒解子神・大若子神・小若子神の四柱です。 酒解神とはオオヤマツミの別名です。 酒解子神はコノハナノサクヤヒメの別名で、酒解神の御子神。 大若子神は天照大神の孫・ニニギの別名で酒解子神の夫神。 ニニギは天照大神の天孫で葦原中国へ天下って国を治めた神。葦原中国のコノハナノサクヤヒメと結婚しました。 小若子神はホオリの別名で、酒解子神(コノハナサクヤヒメ)と大若子神(ニニギ)の御子神です。 ということは小若小神(ホオリ)は酒解神(オオヤマツミ)の孫ということですね。 言葉で説明するより図を見てもらったほうがわかりやすいと思います。 酒解神(オオヤマツミ)―――酒解子神(コノハナノサクヤヒメ)※酒解神(オオヤマツミ)の娘 | |ーーー小若子神(ホオリ) | ※母・酒解子神(コノハナノサクヤヒメ)・父・大若子神(ニニギ) | 天照大神ーー――――――――――大若子神(ニニギ)※天照大神の孫
酒解神は初めて酒を作って神々に献じた酒造の祖神です。 若子(ワクコ)は発酵を意味する言葉なので、大若子神・小若子神も酒の神を意味していると考えられています。 ホオリは有名な海幸彦・山幸彦の物語に登場する山幸彦のことで、初代神武天皇の祖父にあたります。 酒解神(酒造の祖神)=オオヤマツミ 酒解子神(酒解神の御子神)=コノハナノサクヤヒメ(ニニギの妻) 大若子神(酒解子神の夫神)=ニニギ(天照大神の孫で葦原中国へ天下って治めた。) 小若子神(酒解子神と大若子神の御子神・酒解神の孫)=ホオリ(神武天皇の祖父)
②酒解神=橘清友、酒解子神=橘嘉智子、大若子神=嵯峨天皇、小若子神=仁明天皇?そして、相殿として、嵯峨天皇とその皇后の橘嘉智子、嵯峨天皇と橘嘉智子の間に生まれた仁明天皇、檀林皇后の父・橘清友を御祭しています。 嵯峨天皇・・第52代天皇 橘嘉智子・・嵯峨天皇の皇后 仁明天皇・・嵯峨天皇と橘嘉智子との間に生まれた皇子。第54代天皇 橘清友・・・橘嘉智子の父親
相殿とは同じ社殿に2柱以上の神を合わせて祭ることをいいます。 これは、酒解神・酒解子神・大若子神・小若子神と、嵯峨天皇・橘嘉智子・仁明天皇・橘清友が同一視されたということではないかと思うのです。 酒解神=オオヤマツミ=橘清友 酒解子神=コノハナノサクヤヒメ=橘嘉智子 大若子神=ニニギ=嵯峨天皇 小若子神=ホオリ=仁明天皇
酒解神(オオヤマツミ=橘清伴)―――酒解子神(コノハナノサクヤヒメ=橘嘉智子)※酒解神(オオヤマツミ=橘清伴)の娘 | |ーーー小若子神(ホオリ=仁明天皇) | ※母・酒解子神(コノハナノサクヤヒメ=橘嘉智子) 父・大若子神(ニニギ=嵯峨天皇) | 天照大神ーー――――――――――大若子神(ニニギ=嵯峨天皇)※天照大神の孫
③右大臣・橘諸兄失脚、橘奈良麻呂拷問死。本殿の向かって右の若宮社には橘諸兄が、本殿の向かって左の護王社にはは橘氏公(ウジギミ)と橘逸勢が祭られています。 若宮社・・・橘諸兄 護王社・・・橘氏公・橘逸勢 若宮社の橘諸兄(684~757)は敏達天皇の5世(もしくは4世)子孫で葛城王といいました。 父親は美努王、母親は橘美千代です。 736年、弟の佐為王と共に母・橘三千代の姓氏である橘宿禰を継ぐことを願い出ます。 葛城王の申し出は許可され、葛城王はこれ以後、橘諸兄と称しました。 橘三千代は夫の美努王が大宰府に単身赴任しているすきに藤原不比等と再婚して光明皇后を産んでいます。 光明皇后は橘諸兄の異父妹なんですね~。 737年、天然痘が流行し、藤原不比等の子である藤原四兄弟や舎人親王ら多くの政府高官が死亡しました。 738年、こういった情況下で橘諸兄は右大臣となり、743年には左大臣になりました。 ところが755年、諸兄の従者が『諸兄は酒宴の席で朝廷を誹謗した』と讒言をしました。 聖武太上天皇は問題視しなかったそうですが756年、これを恥じた諸兄は辞職し、翌757年死亡しています。 このころ、光明皇后の信任を得た藤原仲麻呂が勢力を伸ばしており、この事件には仲麻呂の思惑が働いていたのではないかと思われます。 758年、橘諸兄の子である奈良麻呂は藤原仲麻呂の専横に不満を持ち、クーデターを計画しましたが密告によって捕らえられました。 このクーデター計画にかかわった多くの人が厳しい拷問によって死亡しています。 続日本紀の拷問死した人物の記述の中に、奈良麻呂の名は記されていないが、やはり拷問死したと考えられています。 ④子孫は繁栄したが、早死にした橘清友梅宮大社の御祭神の橘清友は、この奈良麻呂の子です。 清友は777年に渤海大使都蒙を接待したとき、 『骨相から見るとあなたの子孫は繁栄するが、あなた自身は32歳で厄があるでしょう』 といわれ、その予言どおりに32歳で死亡しました。 子孫が繁栄するというもうひとつの予言もあたったといえるかもしれません。 娘の橘嘉智子嵯峨天皇の皇后となり、橘嘉智子が生んだ正良親王は54代仁明天皇に、正子内親王は53代淳和天皇の皇后となりました。 ⑤承和の変橘嘉智子の娘の正子内親王は淳和天皇の皇后となり、恒貞親王をもうけました。 833年、正子内親王の夫・淳和天皇は、正子内親王の弟・正良親王(仁明天皇)に譲位します。 そして仁明天皇の皇太子には、淳和天皇と正子内親王の間に生まれた恒貞親王が立ちました。 このころ、藤原北家の藤原良房が嵯峨上皇と皇太后橘嘉智子(檀林皇太后)の信任を得て権力を強めつつありました。 良房は恒貞親王ではなく、仁明天皇と妹順子の間にできた道康親王の皇位継承を望んでいました。 淳和上皇と恒貞親王はしばしば皇太子辞退を奏請していますが、それはおそらく良房を恐れてのことでしょう。 しかし、恒貞親王の皇太子辞退は嵯峨上皇に慰留されていました。 840年、淳和上皇が崩御し、842年嵯峨上皇が病に伏せると、後ろ盾をなくした恒貞親王は不安定な立場に立たされてしまいます。 伴健岑と橘逸勢(橘嘉智子の従兄弟)は恒貞親王の身を案じて恒貞親王を東国へ移す計画を練りました。 ふたりはこの計画を安保親王(第51代平城天皇の皇子。在原業平の父)に相談しますが、阿保親王はこれに与せず、橘嘉智子に密告してしまいます。 驚いた橘嘉智子はこれを藤原良房に相談したのです。 嵯峨上皇が崩御した2日後、仁明天皇は伴健岑・橘逸勢らを逮捕しました。 恒貞親王は廃太子。 橘逸勢は姓・官位を剥奪、『非人』の姓を与えられて流罪になり、その護送途中に病没しました。 これを『承和の変』といいます。 ⑥橘氏公橘氏公は橘嘉智子の兄で、橘嘉智子の立后を受けて急速な昇進を遂げています。 833年に正良親王が仁明天皇として即位後は、844年に右大将となり、845年に従二位となっていますが、847年に66歳で没しました。 橘嘉智子以降、橘氏より立后する女性は出ず、橘氏の男子からも藤原氏をしのぐような人物は登場しませんでした。 ●自らの罪におびえた橘嘉智子 従来『承和の変』は藤原良房による他氏排斥だと考えられていましたが、当時良房はまだ中納言で第六位の身分にすぎませんでした。 そんな良房がひとりでこんな事件を起こせるはずがない、仁明天皇や橘嘉智子もこの事件に深く関与しているのではないか、と言う説が近年となえられています。 『日本三代実録』によれば、恒貞親王の母・正子内親王は激しく怒り泣いて母・嘉智子太皇太后を恨んだとも記されています。 橘嘉智子は自分の孫の繁栄を願って仁明天皇と藤原順子の間に生まれた道康親王の立太子を画策したのでしょう。 しかし、道康親王の立太子は適ったものの、橘氏はその後ぱっとせず、藤原氏の栄華の手助けをしたに過ぎなかったという結果に。 しかもそのために娘の正子内親王の恨みを買い、孫の恒貞親王・従兄弟の橘逸勢を犠牲にしています。 橘氏の没落を招いたのは橘嘉智子だった可能性が高いのです。 橘嘉智子は我が国最初の禅寺である檀林寺(現在の天竜寺付近にあったとされる。)を創建し、奨学・養老・施薬の施設をととのえるなど、大変信仰心の厚い女性であったとされます。 私は橘嘉智子が深く仏教に帰依したのは、自らの罪の重さにおののいたためではないかと思います。 まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/03/20 23:54]
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京都市上京区 北野天満宮 2018年3月中旬 撮影
御土居
①御土居
御土居は豊臣秀吉が作った土塁で、京都を囲むように作られました。 江戸時代になって寺社・公家に払い下げられ、その多くは取り壊されました。 しかし、北野天満宮・蘆山寺境内など数か所に遺構が残されています。 本殿②土塁を作った目的秀吉が土塁を作った目的は複数あると考えられています。 ひとつは堤防としての役割です。 お土居は鴨川に沿って南北に長く伸びていますが、それは鴨川の氾濫から町を守るためだと考えられています。 洛中の範囲を明らかにするためだとする説もあります。 天正18年(1590年)ごろ、秀吉は細川幽斎に意見を聞くなど都の境界を定め、惣土堤を築かせたというようなことが、 『室町殿日記』に記されているようですね。 また防壁として作られたとする説もあります。 宝物殿③御土居=防壁説の疑問点ただし防壁としてお土居がつくられたとする説には、いくつかの疑問点が指摘されています。 a.御土居の西部や北部は第2次世界大戦後まで農地が広がっていた場所すらあり、兵力が多く必要である。 b.御土居の内側に堀(紙屋川)がある個所があり、侵入者に御土居を占拠されかねない。 c.防壁上に櫓がない。 d.御土居の出入口に侵入者を防ぐ構造がない。 e.御土居の上に竹が植えられていたので視界が遮られる。兵士がが御土居の上を移動できない。 社務所 ④京の町は御土居に囲まれた城塞都市だった?1585年、秀吉は関白となり、政庁兼邸宅として聚楽第を建てました。 聚楽第が完成したのは1587年です。 「京都図屏風」から、本丸の位置は、北堀が一条通南方、東堀が大宮通、南堀は上長者町通、西堀は裏門通にあったと推定されています。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:OdoiRemains.pngお土居の範囲はリンク先をご覧ください。 聚楽第は二条城の北、京都御苑の西ですから、当然お土居の中にあるわけです。 いや、1587年に聚楽第が完成し、その後1590年ごろに御土居がつくられたと言ったほうがいいですね。 お土居は聚楽第の防壁として作られた可能性があると思います。 つまり、京の都は聚楽第を中心とした城郭都市であったのではないかということです。 長五郎餅本舗さん⑤農地までを取り囲む城塞都市?御土居を防壁とする説の疑問点をひとつひとつ見てみましょう。 a.御土居の西部や北部は第2次世界大戦後まで農地が広がっていた場所すらあり、兵力が多く必要である。 御土居の西部や北部は、御土居が作られた1590年ごろからずっと農地だったということでしょうか。 秀吉は豪快で派手好きな性格であったといわれますね。 1587年の北野大茶湯では「茶湯執心の者は若党、町人、百姓を問わず参加すること」とお触れを出し、1000人もの人が参加しています。 2日目には肥後国一揆がおこったためか、突然中止になってしまうのですが~。 (思ったほど参加者が集まらなかったので、秀吉が機嫌を損ねたとする説もあります。)  このような秀吉の性格を考えると、農地まで防壁を築くということはありえそうに思えます。 籠城することになった場合、食料や水を確保しておくことがかかせません。 農地まで防壁で囲っておけば、安心できると秀吉は考えたりしなかったかな? ⑥紙屋川は排水システム?b.御土居の内側に堀(紙屋川)がある個所があり、侵入者に御土居を占拠されかねない。 紙屋川は御土居の西を流れる川で、この川の東に御土居を設け、京の町を囲っていたようです。 つまり紙屋川を堀がわりに利用していたのですね。 紙屋川の大部分は御土居の外側を流れていたが、御土居の内側を流れている個所もあったということだと思います。 ということは、御土居の下が暗渠のようになっている個所があったということではないでしょうか。 御土居は防壁であると同時に、鴨川の氾濫から町をまもるためのものでもあったでしょう。 それでも鴨川の水が御土居を超えてきたら? 京の町は御土居に囲まれているので、町にたまってしまいます。 町には水抜きのための排水システムが必要です。 紙屋川は京の町の排水口として、御土居の内側に作られたのかも? 梅園⑦秀吉は途中で町つくりを放棄した?
c.防壁上に作られる櫓がない。 d.御土居の出入口に侵入者を防ぐ構造がない。 聚楽第は1591年に秀吉の甥・秀次の邸宅となり、1595年には秀吉は秀次を切腹させて聚楽第を破却させています。 一方、お土居を作り始めたのは1590年ごろなので、当初は櫓など造るつもりだったのを、途中で「聚楽第も潰すし、お土居ももうどうでもいいよ!」と放置されたとかいうようなことはないですかね? e.御土居の上に竹が植えられていたので視界が遮られる。兵士がが御土居の上を移動できない。 これはお手上げです。ぜんぜんわかりません。皆さまはどうお考えになりますか?
梅園では梅昆布茶とお菓子をいただけますよ♪
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[2018/03/15 22:26]
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えー、こういうことはテレビ・新聞・雑誌などでは絶対言わないので、私が言っておこうと思います。 これからお花見などで大勢の人があちこちの観光地に行くと思うので、その前に、観光地の方々は「どうすればお互い気分よく過ごせるのか」について考えていただきたいと思うのです。 観光地が三脚禁止にしたり、撮影禁止にするのは自由です。 それをとやかくいうつもりはありません。 しかし「三脚禁止」「撮影禁止」などの張り紙をするか、入場料を払う際に「三脚禁止(撮影禁止)ですがよろしいですか」と一言声をかけるくらいのことはしていただきたいです。 三脚使える観光地は多いですし、仏像などの美術品の撮影okという観光地もあるので、禁止なら禁止と言ってもらわないとわからないですよ。 先日ある神社に行き、お金を払って庭園に入らせてもらいました。 受付には「三脚禁止」の張り紙もなく、手にはカメラをとりつけた三脚を持った状態で入園料を支払いましたが、何の注意もされませんでした。 また、半年ほど前にも入場料を払って庭園に入らせてもらったことがあり、その際、受付で確認したところ三脚使用可との返事をもらっていました。 それでここは三脚使用可なんだと思っていたのです。 堂々と三脚をたてて撮影していました。 そこへひとりの神職さんが駆け寄ってきて「三脚禁止です。すぐにしまってください!」と強い口調でおっしゃっいました。 「三脚にカメラを取り付けた状態で受付をすませたけど、受付では何の注意もされなかった。」と言ったのですが 受付に注意をしにいこうともされませんでした。 「三脚禁止」と1枚張り紙をしておくだけで、お互いに気分よくすごせるのに、意地悪な神社だなあ、と思いました。 もしかして観光客をどなりつけたくてわざと張り紙していないんじゃないの? 武田邦彦さんが、昔会社勤めをされていたとき、出張費の請求で少し金額を間違えたそうなんです。 すると経理から交通費がまちがっていると指摘を受けたのが意地悪だと感じたとおっしゃっていました。 経理のほうで確認の計算ができるなら、面倒な交通費の請求などさせずに、経理のほうで交通費を計算して建て替え分を支払ってくれればいいのに、というのです。 確かに合理的な考え方だと思います。 今回のケースは、この武田邦彦さんのおっしゃるケースに少し似ていると思いました。 まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/03/13 09:50]
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加茂船屋 ひなまつり・・・JR加茂駅周辺 最近、民家を公開して雛人形を飾るというイベントが各地で行われていますが、これ、すごくいいですね! 道でうろうろしていると家の中から住民の方が、おいでおいでと手招きしてくださったり コーヒーをいれてくださったり、雛人形のことや町の歴史のことなんかを教えてくださったり、すごく親切なんです。 今年は奈良の大和郡山と京都の加茂船屋のひなまつりイベントに行きましたが、とてもいい思い出ができました。 みなさん、ありがとうございました! ①同じ顔をした男女ペアの市松人形は双子? 雛祭りに男女の市松人形を飾ったりすることがありますね。 7段飾りや御殿飾りもいいですが、↓ こういう市松人形のペアというのもかわいいですね。  ありゃ~、男の子も女の子も同じ顔をしていますね? ネットを検索しても男女が同じ顔をした人形のペアがたくさんでてきますよ。 https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&gdr=1&p=%E5%B8%82%E6%9D%BE%E4%BA%BA%E5%BD%A2+2%E4%BD%93+%E5%90%8C%E3%81%98%E9%A1%94 ↑ こちらは前回ご紹介した大和郡山市の和菓子店・菊屋さんに置かれてあった人形です。 なぜ男女ペアの人形は同じ顔をしているのでしょうか? 男女ペアの人形は双子? ②男女の一卵性双生児男女の双子は二卵性双生児で、一卵性双生児は同性のみだと思っていましたが ごくごくまれに、男女の一卵性双生児が生まれるそうです。 もともとはともにXY染色体をもつ男性だったのが、片方がY染色体を欠損し、その結果XOとなって女性となってしまうそうです。 よくわからないのですが(すいません~)、染色体がXOというのはターナー症候群(ターナー女性)といわれるものだではないかと思います。 身長が低かったり、第二次性徴がみられなかったり遅れたりすることがあり、まれに男女の一卵性双生児として生まれるケースがあるということです。 ですが、みなさん、ふつうに社会生活をおくっておられるそうですよ。 または性染色体がXXYで、XまたはY染色体がそれぞれ別に落とされて、性別が異なる一卵性多胎児が生まれるというケースも考えられるとのことです。 ですが、二卵性双生児でも兄妹または姉弟なので、よく似ているということはありそうです。 ローラさんも双子のお兄様がおられますが、とてもよく似ておられます❤(美形兄妹ですね) ③お雛様は天照大神、お内裏様はスサノオ?私はお雛様は天照大神、お内裏様はスサノオで、三人官女は宗像三女神、五人囃は五柱の男神(正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命・天之菩卑能命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命)ではないかと考えています。 宗像三女神と五柱の男神(正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命・天之菩卑能命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命)は 天照大神とスサノオが「うけいの子産み」をして生んだ神々です。 ④うけいって何?うけいとは、『Àならば〇〇』『bならば××』のように前もって宣言を行い、ÀBいずれが起こるかでものごとを占うことを言います。 たとえば子供のころ「明日天気になあれ」といって靴を蹴り投げ、上向きに落ちたら晴れ、下向きに落ちたら雨などと占いました。 これなどもうけいですね。 ⑤盟神探湯もうけいの一種?古代には盟神探湯(くがたち)という裁判が行われていましたが、これもうけいの一種といえるかもしれません。 盟神探湯ではは煮えたぎる熱湯に手をいれて、火傷しなければ正しく、火傷をすれば正しくないと判断されました。 もちろん、これは誤った迷信的な判断法です。 ⑥天照大神とスサノオのうけいの子産み天照大神とスサノオは、スサノオに邪心があるかどうかを、生まれた子供の性別によって判定しました。 天照大神がスサノオの十拳剣をうけとってかみ砕き、ふっと息をふいたところ生まれたのが宗像三女神です。 スサノオが天照大神の「八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠」をうけとってかみ砕き、ふっと息をふいたところ生まれたのが5柱の男神です。 宗像三女神はスサノオの十拳剣から生まれたのでスサノオの子、5柱の男神は天照大神の珠から生まれたので天照大神の子とされました。 そして、スサノオの子が女神だったので、スサノオには邪心がないと占われたのです。 ⑦古には兄妹婚は当たり前だった?天照大神とスサノオは兄妹でありかつ、夫婦でもあるのです。 古には血の純潔を守るため同じ父親・同じ母親を持つ兄妹または姉弟の結婚はふつうにあったともいわれています。 細川智栄子さんの漫画「王家の紋章」でも姉のアイシスが弟のメンフィスを異性として愛していますね。 メンフィスはキャロルを愛しているので、アイシスの片思いなのですが。 引眉をして殿上眉を描き、お歯黒をした三人官女。④天照大神と月読命・スサノオは3つ子だった?天照大神とスサノオは兄弟です。 黄泉の国から戻ったイザナギが禊をし、左目を洗ったところ天照大神が、右目を洗ったところ月読命が、鼻を洗ったところスサノオが生まれたのです。 天照大神・月読命・スサノオが生まれたのは時間的に差がなく、天照大神・月読命・スサノオは3つ子だとも考えられます。 このうち月読命ななぜか記紀神話にはあまり登場しないのですが~。 同じ顔をした男女ペアの人形は雛祭に飾られるので、女は天照大神、男はスサノオの神像だと考えられます。 そして天照大神・月読命・スサノオは3つ子だと考えられるので、男女ペアの人形は同じ顔に作られるのかも?
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[2018/03/09 10:55]
京都の祭 |
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大和な雛祭・・・3月4日まで 郡山城近辺
朝寝坊したので大和郡山の町を2時間ほど散策しただけなんですが、見るものが多かった! そういうわけで大和な雛祭の記・№5です! 歩き疲れたので甘いものをいただきにやってきました。 食べるのがもったいないくらい、かわいいでしょ。 開山堂は東大寺開山堂の椿・糊こぼしのデザイン。 東大寺 開山堂 糊こぼし桃の形のは西王母(せいおうぼ)という名前の和菓子です。 盆栽の桜が春らしい雰囲気。後ろのケースにあるのは和菓子の型です。
①西王母・東王父と陰陽思想古代中国でははるか西方に崑崙山が、東方の海には蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)という三神山があると考えていました。 そして崑崙山には女仙’(女性の仙人)を統率する西王母が、東方の海には男仙(男の仙人)を統率する東王父が住むと考えていたようです。 陰陽道では西を月の定位置、東を太陽の定位置とするそうですが、これに対応していますね。 陰陽道では月や女性は陰、太陽や男性は陽と考えられたのです。 それで西王母は月の定位置と同じ西、東王父は太陽の定位置と同じ東にすむとされたのでしょう。 天井にも和菓子の型がずらーり。お菓子はおいしいだけでなく、見た目も楽しいのがいいよね。
②西王母は不老長寿になる桃をもっている。西王母と東王父はどちらも不老不死を与える神として信仰されました。 西王母が住む崑崙山には3000年に1度しか実が実らないという桃があるといわれ、この桃を食べると不老長寿になるなんていわれていますよ。 そして西王母がこの桃をくれたとか、孫悟空が西王母の桃を盗んだなんていう物語が残されていますよ。 もう一度上の和菓子の写真を見てください。 桃の形をしているのが西王母という名前のお菓子です。(おいしいです!) なぜ桃の形をしたお菓子が西王母という名前なのかというと、桃と西王母には前述したように深い関係があるからなのですね。 百と書いて「もも」と読みますが、桃が不老長寿の象徴なので、100歳まで生きられるということからくるなんてことないかな? ③桃は西王母の女陰?桃はなぜ西王母と結びつけられたのでしょうか? 女仙という言葉がでてきましたね。 女仙でぐぐってみると、多肉植物が出てきます。女仙と書いて「めせん」と読むみたいですね。 http://blog.sabotenstyle.com/article/54076161.htmlhttps://blogs.yahoo.co.jp/conocono123/69620625.htmlやー、これね~、絶対、下の写真に似てるでしょう? 飛鳥坐神社 むすびの神石 川治温泉 おなで石(おなで石は祠の中の石ではなく、祠の手前にある四角い石)どちらも女陰を象ったものです。多肉植物の女仙は、女陰に似ているところから名前がつけられたのでは? 桃にも割れ目がありますね。 桃は西王母の女陰を表してるんだったりして? 桃が女陰の象徴とか隠語だと考えると、昔話の桃太郎は川から巨大な女陰が流れてきたってことかな? まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/03/06 15:40]
奈良の祭 |
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奈良県大和郡山市 町屋物語館(旧川本邸) 大和な雛祭・・・3月4日まで 大和郡山城周辺
①仮名・諱・幼名・稚児名
源九郎稲荷神社? 源九朗義経と関係ある? 源九朗義経とは牛若丸、源義経のことです。 源義経は仮名(けみょう)を九朗といい、源九朗義経ともいわれます。 仮名とは、江戸時代以前、諱(本名)を呼ぶことをさけ、用いられていた通称のことです。 古代には貴人や死者を本名で呼ぶことを避ける習慣があったそうで、そこから仮名が作られるようになったとされます。 諱で呼びかけることができるのは親や主君など限られた人のみで、それ以外の人間が諱で呼びかけることは無礼なことだと考えられていたそうです。 なぜそのように考えられたのかというと、名前を呼ぶことはその名前を持つ人を支配することができるというような信仰があったためのようですね。 牛若丸というのは幼名です。 平安時代~江戸時代には、武士や貴族の子供は元服して諱をつける習慣があり、元服するまでは幼名が用いられていたのです。 牛若丸は 遮那王(しゃなおう)とも呼ばれていましたが、これは11歳で鞍馬山に預けられ稚児となったときの稚児名です。 ややこしいですね~。 ②矛盾する社名の由来と、創建説話源義経が兄の源頼朝と対立した際、稲荷神の神使である狐が何度も義経を助けてくれました。 そのため義経は狐に源九朗の名を贈ったと伝えられます。 これがのが社名の由来と伝わります。
一方、神社の創建説話には次のようにも伝わります。
翁の姿をした源九郎狐が、長安寺村の宝譽という僧の夢枕に立ち、「郡山城に自分を祀れば、城の守護神になろう」と告げた。 宝譽はさっそく豊臣秀長にこれを告げたところ、城内竜雲郭に稲荷が創建されたと。
一瞬、聞き流してしまいそうになりますが、よく考えてみると矛盾していますよね。
源義経が兄の頼朝と対立するようになったのは平安時代末の1185年のことです。 しかし源九郎神社が創建されたのは、豊臣秀長が郡山城の城主であったときだと考えられます。 秀長が郡山城に入ったのは1585年なので、創建年は1585年より早い時期であるとは考えられません。 1585年は、義経vs頼朝の兄弟争いから400年もたっています。
空白の400年の間、稲荷は別の場所に祀られていたのでしょうか。 それとも、稲荷神が存在していただけで、社は作られていなかったのでしょうか?
五色椿のようなつり飾りは神社の奥様が手作りされたものです。
③義経千本桜
義経が源九郎狐に助けられるという話は、人形浄瑠璃や歌舞伎の『義経千本桜』にもあります。 『義経千本桜』では、義経が兄頼朝に追われ、吉野山まで逃げる道中、佐藤忠信に化けた白狐が、静御前を守ったことになっています。
静御前というのは源義経の愛人で、白拍子でした。
『義経千本桜』の初演は1747年ですが、これより早い時代に義経が源九朗狐に助られたという伝説があり、それをもとに「義経千本桜」が作られたという可能性もあります。

下鴨神社 名月管弦祭 白拍子
④源九郎狐と静御前の雨ごいの関係
この静御前が神泉苑で舞を待って雨をふらせたと言われています。
源九郎神社には「豊臣方大野治房による郡山城攻撃で城下町が火災がおこったが、洞泉寺住職天誉和尚が、源九郎狐に祈願をしたところ、突然大雨が降り大火を免れた。」という伝説があります。
この伝説は静御前が雨ごいをして雨をふらせたということをうけて創作されたものではないでしょうか。
黒猫ちゃんも奥様の手作りですよ。
⑤源九郎稲荷は義経の化身だった?
話をもどします~。 源九朗稲荷が創建されたのは1585年以降、一方社名の由来は1185年に源義経が稲荷に源九朗の名をおくったとされ、400年のずれが生じます。 この矛盾はなぜ生じたのか、というお話をしたかったのでした。
源九朗稲荷が創建されたのは、創建説話にあるとおり、豊臣秀長が大和郡山城主であったときでしょう。 1585年以降の話でしょうね。
おそらく夢をみた宝譽か豊臣秀長が源九朗義経を崇敬しており、それで義経を稲荷神として祀るというアイデアを思い付いたのではないでしょうか。
①で、『名前を呼ぶことはその名前を持つ人を支配することができるというような信仰があった』と書きました。 その大事な名前を義経は稲荷に与えたというのですから、これはただごとではありません。 『義経が稲荷に源九朗という名を贈った」というのは『稲荷神は義経の化身』であるということではないかと思います。
稲荷神は義経の化身と考えられたことから、稲荷が義経を助けたというような伝説が生じ、それが人形浄瑠璃や歌舞伎にとりいれられて「義経千本桜」はつくられたのではないでしょうか。
この超キュートな文化人形も奥様の手作り! かわええ~。 まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/03/05 00:00]
奈良の祭 |
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