大和な雛祭・・・3月4日まで 大和郡山城周辺にて
住民の方々が大切にされているお雛様が町中に展示されています。
ひとつひとつのお雛様に思い出がつまっています。
①お雛様は天照大神、お内裏様はスサノオ?天照大神とスサノオは「うけいの子産み」をして宗像三女神(田心姫君・湍津姫君・市杵島姫君)と正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命・天之菩卑能命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命の5柱の男神をもうけています。
お雛様は天照大神、お内裏様はスサノオの神像、
三人官女は宗像三女神、五人囃子は天五柱の男神(正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命・天之菩卑能命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命)の神像なのではないでしょうか?
70年ほど前のものだそうです。ケースもとてもかわいらしいですね。②天照大神=日女命=倭迹迹日百襲姫命籠神社で発見された系図では始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)の9代目の孫に日女命(ひめのみこと)とあり、脇に、『またの名を倭迹迹日百襲姫命』と記されていました。
また、日女命とは太陽の神、天照大神のことでしょう。
天照大神とは日女命のことであり、倭迹迹日百襲姫命のことでもあるということになりますね。
張り子の雛人形(福島県)③大古には近親婚は普通に行われていた?
古事記や日本書紀を読むと、神代には同母兄妹または同母姉弟の結婚が当たり前に行われています。
天照大神とスサノオのほか、イザナギ&イザナミ、天照大神&スサノオ、アシナヅチ&テナヅチなどのカップルがそうです。
氏族の血の純潔を望み、他の氏族の血が混ざることを嫌ったため、大古には近親婚は普通に行われていたのではないかとする説があります。
古事記・日本書紀には、第19代允恭天皇の皇子・木梨軽皇子と皇女・軽大娘皇女(衣通姫)が同母兄妹で契り、それが発覚して流罪になったという話が記されています。
時代とともに近親婚は禁忌とされるようになったということでしょう。
起き上がり小法師のお雛様⑤天照大神・スサノオは物部王朝の神?②に次のように書きました。
籠神社で発見された系図では始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)の9代目の孫に日女命(ひめのみこと)とあり、脇に、『またの名を倭迹迹日百襲姫命』と記されていましたと。
籠神社では始祖の彦火明命の別名を天火明命(あめのほあかりのみこと)・天照御魂神(あまてるみたまのかみ)・天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)とも伝えています。
先代旧事本紀は天火明命とは天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと/ニギハヤヒ)と同一神としています。
天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊は物部氏の祖神です。
どうも始祖の彦火明命は物部氏の神っぽいですね。
すると、9代目の孫の日女命もまた物部氏の神だということになります。
ひなの道具もうっとりするほどの美しさ!⑥天皇家に政権を奪われた物部王朝そして記紀には初代神武天皇が東征して畿内入りする以前、すでにニギハヤヒが天下っていたと記されています。
そのため、初代神武天皇以前、畿内には物部王朝があったとする説があります。
記紀は物部氏のために記されたものではなく、天皇家に献上するためにっ記されたものです。
その記紀にこのような記述があるのはなぜでしょうか。
それは、記紀が記された奈良時代、初代神武天皇以前に物部王朝があったということは周知の事実であり、偽りようがなかったためだと考えるのが筋が通っているのではないでしょうか。
⑦神武は婿入りして物部王朝をのっとった?初代神武天皇と10代崇神天皇はどちらも和風諡号をハツクニシラスといいます。
そのため、二人は同一人物ではないかとする説があります。
そして崇神天皇にはミマキイリヒコイニエという和風諡号もあります。
11代垂仁天皇の和風諡号はイクメイリヒコイサチといい、どちらにもイリとあるところから「イリ王朝」などと呼ばれますが
このイリとは入り婿の入りではないかとする説があります。
そういえば、記紀神話には入り婿になる話が多いです。
たとえばニニギ(神武天皇の曽祖父)は葦原中国に天下って、芦原中国のオオヤマツミの娘・コノハナノサクヤヒメと結婚していますし
山幸彦(神武天皇の祖父)は竜宮にいって海神の娘・豊玉姫と結婚しています。
神武は物部王朝の日女命に婿入りし、物部王朝を乗っ取ったのではないかと思います。
おそらく日女命(天照大神)は再婚でしょうね。(スサノオと別れさせられ、神武と結婚したのでしょう。)
こう考えると、なぜ日本の太陽神が女神なのかがわかりますね。
天照大神が男神であったとしましょう。
神武は男神と結婚して子孫を残すことはできないので、神武の子孫は天照大神の子孫を名乗ることができません。
しかし天照大神が女神なら神武は女神と結婚することができます。
そして神武の子孫が天照大神の子孫だといってもまちがいではないということになります。
⑧首を抜いてしまう雛人形さらに雛流しといって、ひな人形に息を吹きかけて穢れを移し、川や海に流すという習慣がありました。
これって天照大神とスサノオを流すということなのでは?
豪華な雛人形が作られるようになってからは、川や海に流すということはなくなりましたが
昔の雛人形は首が抜けるようになっていて、首を抜いてから和紙にくるんでしまうのです。
これは天照大神とスサノオの命を絶つ、というまじないでは?
私たちは知らない間にスサノオのみならず、天照大神までも呪わされていたのでは?
犬筥に入ったお雛様(向かって左)と流し雛(向かって右)
まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

にほんブログ村
[2018/02/27 22:04]
奈良の祭 |
トラックバック(-) |
コメント(-)