Author:佳音
名前: メール: 件名: 本文:
大阪市中央区 大阪城大阪城イルミナージュ 2018年2月25日まで ①日本に町を取り囲む城壁がないのは、日本の戦が奴隷獲得を目的にしていなかったから?ときどき、こんなことを言う人がいます。日本の戦は関ケ原のような何もないようなところで行われ、人々は手弁当を持って戦見物にやってきた。日本の民衆は戦いによって被害を受けることがなかったので、戦を余興として楽しんでいた。外国の城は町全体を取り囲むように城壁がつくられ、城壁の中に大勢の民衆が住んでいた。これは外国の戦争は領土獲得のほか、奴隷獲得を目的としていたため、民衆を城壁で守る必要があったからだ。日本の城下町は城壁で囲まれていなかった。これは日本の戦が領土獲得を目的としていて奴隷獲得を目的にしていなかったため、市民を城壁で守る必要がなかったからだ。 ③関ケ原には領民がすんでいた。関ヶ原合戦屏風には稲を持って逃げる農民が描かれていますし、「関ヶ原の領民に乱暴したり、放火してはならない」と記された家康が発布した禁制も残っています。なので、「日本の戦は関ケ原のような何もないところで行われた」というのは間違いです。間違ったことが正しいこととして多くの人に認識されているというのは、こわいことですね。 ④家康は禁制を出したのは、関ケ原の領主が家康側についていたから。「でも徳川家康がそんな禁制をだしているということは、家康が民衆を思いやっていた。戦によって民衆が被害を受けることが少なかったということじゃないの」って?関ケ原の領主は家康側(東軍)についていたのです。もしも領主が家康と敵対する西軍だったら、家康はこんな禁制を出さなかったのではないでしょうか。 ⑤乱取り戦国時代から安土桃山時代には、戦いのあと兵士が物や人を奪うという行為が行われており、これを乱取りといいました。女子供は奴隷にされたり、売られたりしたようです。この乱取りは、大名が指示して行っていたものではなく、あくまで下っ端の兵士が戦に参加した褒美として認められていたものです。ですから、大名にとって戦は奴隷獲得が目的でなかったとはいえるかもしれません。しかし下っ端の兵士の中には奴隷獲得が目的で参加しているものもいたでしょうし、大名も乱取りを認めているのですから「戦は奴隷獲得が目的ではなかった」とはいえないでしょう。 ⑥民衆が戦見物をしたのは関ケ原合戦ではなく大津城の戦い民衆が戦見物をしたとされるのは関ケ原合戦ではなく大津城の戦いで、安全な山の上から戦のようすを眺めたようですよ。⑦日本の城郭都市は堀で囲まれていた。日本の城は戦争や都市化などで保存状態が悪く、現存する城の姿は、昔の城の姿とはちがいます。「城郭都市」という言葉があります。城郭都市とは城を中心とし、城壁・土塁・堀などで囲まれた都市のことをいいます。外国の城壁で囲まれた都市はもちろん、城郭都市です。そして日本の代表的な城、江戸城・大阪城・名古屋城・姫路城なども城郭都市であったとされます。これらの城の城下町に城壁があったかどうかは浅学のためわかりません。しかし城下町の周囲には堀があったようです。動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。0:37あたりを見ると、大天守の周囲、三の丸と文字が記された向かって右側に津田・山澄・勝野と記された区画があります。これは有力氏族の民家ではないでしょうか。そしてそれらの民家の下部に濃いグレーの一画があります。これは城壁または塀ではないのか、と思ったりもしますが、よくわかりません。しかし三の丸という文字の下にある水色の部分は明らかに堀だと思われます。申し訳ないですが「城壁がない=民衆を保護する必要がなかった」と結論付けるのは短絡的ではないかと思います。城壁はなかったかもしれませんが、堀が民衆を保護する役割を担っていたと考えられるからです。 ⑧大砲の出現で城壁都市は防御システムとして機能しなくなった。それでは城壁と堀、どちらが防御能力に優れているのでしょうか?。それは外国で城壁都市がつくられなくなった理由を見てみると、おのずから答えがでるような気がします。外国で城壁都市がつくられなくなった理由、それは大砲の出現です。大砲は城壁をやすやすと破壊してしまい、城壁は防御システムとしての意味を失ってしまったのです。⑨大坂城がおちたのは堀を埋めたことが原因だった?1576年、大友宗麟が日本人として初めて大砲(石火矢/フランキ砲)をポルトガル宣教師より入手しています。1590年代ごろより、日本で大砲の生産が盛んになり、海戦や攻城戦に用いられるようになりました。1614年には徳川家康が大坂の陣に備えて青銅砲(カルバリン砲)をイギリス・オランダから輸入しています。
しかし徳川家康が大坂城をおとしたのは、その大砲の威力によってではありませんでした。1614年、家康は大坂冬の陣後の豊臣方との和議の際、「豊臣秀頼の安全」「本領の安堵」などの引き換えとして「二の丸、三の丸の破壊」「惣構の南堀、西堀、東堀を埋め立て」を要求し、これを実行させています。この後におこった1615年の大坂夏の陣では徳川方兵士は埋められた堀を超えて大阪城乱入に成功し、大坂城は炎上、秀頼は自害して果てています。この結果からみて、城壁よりも堀のほうが防御システムとしては優秀だと言えると思うのですが、どうでしょう? ⑩堀は城壁よりも優れた防御システムだった?城壁は大砲で簡単に破壊することができたようですが、堀を埋めるのは大変で、数時間で埋めるなんてことはできなかったでしょう。堀を埋めている間に攻撃されてやられてしまうでしょうしね。船で堀を超えるのは目立ちすぎ、やはり弓や銃を雨のようにあびせられたことでしょう。また甲冑を身に着けたまま泳ぐ古式泳法があったようですが、やはりすんなりと泳ぎ着くのはむつかしかったのではないでしょうか。堀は城壁以上の防御システムだったといえるのではないでしょうか。そして中世の日本には堀に囲まれた中に城下町があり、人々は堀に守られて生活していた。そういえるのではないかと思います。 ↑ これは長命寺だと思う。 長命寺まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!にほんブログ村
| HOME |
copyright © 2006 センチメンタル ジャーニー all rights reserved. Powered by FC2ブログ
Material by もずねこ Template by nano's everyday*