大和な雛祭・・・3月4日まで 大和郡山城周辺にて
住民の方々が大切にされているお雛様が町中に展示されています。 ひとつひとつのお雛様に思い出がつまっています。
①お雛様は天照大神、お内裏様はスサノオ?天照大神とスサノオは「うけいの子産み」をして宗像三女神(田心姫君・湍津姫君・市杵島姫君)と正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命・天之菩卑能命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命の5柱の男神をもうけています。 お雛様は天照大神、お内裏様はスサノオの神像、 三人官女は宗像三女神、五人囃子は天五柱の男神(正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命・天之菩卑能命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命)の神像なのではないでしょうか? 70年ほど前のものだそうです。ケースもとてもかわいらしいですね。②天照大神=日女命=倭迹迹日百襲姫命籠神社で発見された系図では始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)の9代目の孫に日女命(ひめのみこと)とあり、脇に、『またの名を倭迹迹日百襲姫命』と記されていました。 また、日女命とは太陽の神、天照大神のことでしょう。 天照大神とは日女命のことであり、倭迹迹日百襲姫命のことでもあるということになりますね。 張り子の雛人形(福島県)③大古には近親婚は普通に行われていた?
古事記や日本書紀を読むと、神代には同母兄妹または同母姉弟の結婚が当たり前に行われています。 天照大神とスサノオのほか、イザナギ&イザナミ、天照大神&スサノオ、アシナヅチ&テナヅチなどのカップルがそうです。 氏族の血の純潔を望み、他の氏族の血が混ざることを嫌ったため、大古には近親婚は普通に行われていたのではないかとする説があります。 古事記・日本書紀には、第19代允恭天皇の皇子・木梨軽皇子と皇女・軽大娘皇女(衣通姫)が同母兄妹で契り、それが発覚して流罪になったという話が記されています。 時代とともに近親婚は禁忌とされるようになったということでしょう。 起き上がり小法師のお雛様⑤天照大神・スサノオは物部王朝の神?②に次のように書きました。 籠神社で発見された系図では始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)の9代目の孫に日女命(ひめのみこと)とあり、脇に、『またの名を倭迹迹日百襲姫命』と記されていましたと。 籠神社では始祖の彦火明命の別名を天火明命(あめのほあかりのみこと)・天照御魂神(あまてるみたまのかみ)・天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)とも伝えています。 先代旧事本紀は天火明命とは天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと/ニギハヤヒ)と同一神としています。 天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊は物部氏の祖神です。 どうも始祖の彦火明命は物部氏の神っぽいですね。 すると、9代目の孫の日女命もまた物部氏の神だということになります。 ひなの道具もうっとりするほどの美しさ!⑥天皇家に政権を奪われた物部王朝そして記紀には初代神武天皇が東征して畿内入りする以前、すでにニギハヤヒが天下っていたと記されています。 そのため、初代神武天皇以前、畿内には物部王朝があったとする説があります。 記紀は物部氏のために記されたものではなく、天皇家に献上するためにっ記されたものです。 その記紀にこのような記述があるのはなぜでしょうか。 それは、記紀が記された奈良時代、初代神武天皇以前に物部王朝があったということは周知の事実であり、偽りようがなかったためだと考えるのが筋が通っているのではないでしょうか。 ⑦神武は婿入りして物部王朝をのっとった?初代神武天皇と10代崇神天皇はどちらも和風諡号をハツクニシラスといいます。 そのため、二人は同一人物ではないかとする説があります。 そして崇神天皇にはミマキイリヒコイニエという和風諡号もあります。 11代垂仁天皇の和風諡号はイクメイリヒコイサチといい、どちらにもイリとあるところから「イリ王朝」などと呼ばれますが このイリとは入り婿の入りではないかとする説があります。 そういえば、記紀神話には入り婿になる話が多いです。 たとえばニニギ(神武天皇の曽祖父)は葦原中国に天下って、芦原中国のオオヤマツミの娘・コノハナノサクヤヒメと結婚していますし 山幸彦(神武天皇の祖父)は竜宮にいって海神の娘・豊玉姫と結婚しています。 神武は物部王朝の日女命に婿入りし、物部王朝を乗っ取ったのではないかと思います。 おそらく日女命(天照大神)は再婚でしょうね。(スサノオと別れさせられ、神武と結婚したのでしょう。) こう考えると、なぜ日本の太陽神が女神なのかがわかりますね。 天照大神が男神であったとしましょう。 神武は男神と結婚して子孫を残すことはできないので、神武の子孫は天照大神の子孫を名乗ることができません。 しかし天照大神が女神なら神武は女神と結婚することができます。 そして神武の子孫が天照大神の子孫だといってもまちがいではないということになります。 ⑧首を抜いてしまう雛人形さらに雛流しといって、ひな人形に息を吹きかけて穢れを移し、川や海に流すという習慣がありました。 これって天照大神とスサノオを流すということなのでは? 豪華な雛人形が作られるようになってからは、川や海に流すということはなくなりましたが 昔の雛人形は首が抜けるようになっていて、首を抜いてから和紙にくるんでしまうのです。 これは天照大神とスサノオの命を絶つ、というまじないでは? 私たちは知らない間にスサノオのみならず、天照大神までも呪わされていたのでは? 犬筥に入ったお雛様(向かって左)と流し雛(向かって右)
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[2018/02/27 22:04]
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滋賀県近江八幡市 日牟禮八幡宮
①日群から比牟禮に131年、成務天皇が高穴穂の宮に即位された時、武内宿禰に命じてこの地に大嶋大神を祀ったのが、日牟禮八幡宮の始まりと伝えられます。 その後、275年に応神天皇が奥津嶋神社からもどられたとき、この地で休憩されたところ、ふたつの日輪をご覧になられるという不思議な出来事がありました そこで祠を建て、日群之社八幡宮と名付けられました。 691年、藤原不比等が日群之社八幡宮を参拝し、次のように歌を詠みました。 天降りの 神の誕生の 八幡かも ひむれの杜に なびく白雲 (天下った神が誕生した八幡よ、ひむれの社に白雲がなびいているよ、みたいな意味かな?)この不比等の歌にちなんで比牟禮社に改めたそうです。 和歌は「ひむれ」とひらがなになっていますが、なぜこの歌から「日群」を「比牟禮」と神社名を変えたのでしょうか? もともとの和歌は「天降りの 神の誕生の 八幡かも 比牟禮の社に なびく白雲」となっていたのでしょうか? それとも不比等の歌の意味をつきつめると「日群」より「比牟禮」のほうがふさわしいということで、「比牟禮」に改められたのでしょうか? ネットを調べてみたんですが、そのあたりを明確に記したものは見つかりませんでした。 神社名が現在の日牟禮八幡宮に改められたのは昭和41年(1966年)のことです。 日牟禮八幡宮と呼ばれるようになったのは最近のことで、長い間比牟禮八幡宮と呼ばれていたのです。 ②不比等が語呂合わせで神格を変えた?興味深いブログ記事を見つけました。→ https://ameblo.jp/duku510/entry-11903252528.html『日』は『太陽』、『群』は『群がる』で、『日群』は『太陽が複数』という意味、 『比』は『並べる』、『牟』は『奪う』、『禮(礼)』は『敬って拝する』で、『比牟礼』は『並んで奪うものを廃する』という意味だというのです。 つまりもともとは応神天皇が二つの太陽をご覧になったので、『太陽が複数』で『日群』という神社名だったのが 不比等が『日群』を語呂合わせで『並んで奪うものを拝する』という意味の『比牟禮』に変えてしまった、というのですね。 これはオモシロイです!すばらしいひらめきですね! ただ、『比牟禮』は『二つ並んだ太陽神の一方の神格を奪い、神格を奪い取ったほうの神を拝む』という意味ではないかと思います。 ⑥名前を取り換えた皇子
古事記にこんな話があります。 武内宿禰は皇子(のちの応神天皇)に禊をさせるため海岸に連れていきました。 その夜、武内宿禰の夢の中に伊奢沙和気大神が現れ、「皇子と私の名前を交換してほしい」と言ったので、武内宿禰はこれを承知しました。 翌朝、海岸に行ってみると、たくさんの鼻を傷つけられたイルカがいました。 皇子は「神様が御饌を下さった」と大喜びしました。 イルカの血で臭かったので、血浦となり、これが訛って角鹿(ツヌガ/現在の敦賀)となりました。
 ⑤名前の交換は政権交代をあらわす?応神天皇と伊奢沙和気大神が名前を交換するという話は、政権交代を意味しているのではないかと思います。 伊奢沙和気大神とは福井県敦賀市の気比神宮に鎮座する神です。 応神天皇は伊奢沙和気大神となって気比神宮に祀られ、神饌として大漁のイルカがお供えされたという話なのかも? そして伊奢沙和気大神は応神天皇となり、ちゃっかり皇位についたということではないでしょうか? 天皇家の祖神は天照大神なので、天皇は太陽神だといえるでしょう。 世界的に見ても王を太陽神としてあがめたケースが多いです。 つまり『応神天皇がふたつの日輪を見た=日群』というのは『自分のほかにもう一人の太陽神を見た』という意味だと思うのです。 そして『二つ並んだ太陽神の一方の神格を奪い、神格を奪い取ったほうの神を拝む=比牟禮』とは 『本物の応神天皇の太陽神という神格を奪い、伊奢沙和気大神として拝み、伊奢沙和気大神が偽物の応神天皇となった。』 という意味ではないでしょうか。 ⑥『天皇家は万世一系』は嘘では?一般に天皇家は万世一系だと言われますが、神話や伝説を紐解いていくと、どうも万世一系は怪しいように思えます。 神話は実話ではないので重要視しても仕方がない? たしかに神話は実話ではないでしょう。 ですが、なぜこのような神話が作られたのか、と考えることはできるでしょう。 応神天皇と伊奢沙和気大神が名前を交換したという話が、政権交代を意味するというが、古事記は天皇家のために書かれたものだ。 なぜ天皇家にとって不都合なことをわざわざ記すのかって? 古事記が書かれた奈良時代、政権交代があったというのは偽りようのない周知の事実だったので、記さざるをえなかったのではないでしょうか? もしも、応神天皇と伊奢沙和気大神が名前を交換したという話が、政権交代を意味する神話ではないとお考えの方がいれば その理由を聞かせていただきたいです。 お話しを伺ったうえで、もう一度神話について考え直したいと思いますので。 ↓ おまけ 池田町洋風住宅と旧近江八幡郵便局 まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/02/24 16:58]
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兵庫県洲本市 由良湊神社 ねり子祭り・・・2月11日
①由良湊神社由良湊神社が創建された年代や経緯などは詳しくはわかっていないようです。 近世になり、成山城城主・池田忠長が由良神社の近くにあった八幡宮を再興して氏神とし、由良湊神社を境外摂社としました。 その後、蜂須賀氏が八幡宮を由良湊神社の境内に遷宮させたということです。 御祭神は速秋津日古神(はやあきつひこのかみ)・速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)・品陀別尊(ほむたわけのみこと/第15代応神天皇)です。 八幡神とはこの品陀別尊(応神天皇)のことです。(以後、皇子または応神天皇と記します。) ②父の死後、九州で生まれた皇子応神天皇の父親は第14代仲哀天皇、母親は神功皇后です。 仲哀天皇は熊襲征伐のため神功皇后とともに筑紫に行きました。 その際、神功皇后が神がかりして、「新羅の宝を授ける」という託宣しました。 しかし仲哀天皇はこれを信じなかったため、神の怒りに触れて崩御してしまいました。 神功皇后はおなかに応神天皇を宿していましたが、おなかに石をおき、冷やすことで出産を遅らせて三韓出兵します。 そして日本に戻り、九州の宇美で皇子(のちの応神天皇)を出産しました。 そのあと、神功皇后や武内宿祢とともに畿内いりしたんだと思います。(よくわかりません。すいません。) まだ子供なので、武内宿祢に抱かれて旅をしたのでしょう。 皇太子になったのは神功皇后4年です。 おそらく3歳から4歳ごろ皇太子となったのでしょう。 ③名前を交換した皇子
古事記にこんな話があります。 武内宿禰は皇子(のちの応神天皇)に禊をさせるため海岸に連れていきました。 その夜、武内宿禰の夢の中に伊奢沙和気大神が現れ、「皇子と私の名前を交換してほしい」と言ったので、武内宿禰はこれを承知しました。 翌朝、海岸に行ってみると、たくさんの鼻を傷つけられたイルカがいました。 皇子は「神様が御饌を下さった」と大喜びしました。 イルカの血で臭かったので、血浦となり、これが訛って角鹿(ツヌガ/現在の敦賀)となりました。
④ねり子は八幡神のイメージ?時間の関係で、ねり子祭りを最後まで見ることができなかかったんですが、 数えで3歳の幼児をねり子といい、数人の大人がねり子を抱いて神社からお旅所までをリレーするそうです。 皇子だった応神天皇が武内宿祢に抱かれて畿内へ向かうシーンや、武内宿祢に抱かれて禊をするために敦賀に行くシーンを思い浮かべてしまいます。 ねり子は八幡神(応神天皇)のイメージと重ねられているのではないでしょうか。 ⑤名前の交換は政権交代を表している?
③の、応神天皇と伊奢沙和気大神が名前を交換するという話は、政権交代を意味しているのではないかと思います。 伊奢沙和気大神とは福井県敦賀市の気比神宮に鎮座する神です。 応神天皇は伊奢沙和気大神となって気比神宮に祀られ、神饌として大漁のイルカがお供えされたという話なのかも? そして伊奢沙和気大神は応神天皇となり、ちゃっかり皇位についたということではないでしょうか? ⑥神武天皇以前、畿内には物部王朝があった?初代神武天皇の東征ルートと、15代応神天皇の畿内入りルートが重なるため、二人は同一人物ではないかとする説があります。 神武天皇は九州から東征して畿内入りするのですが、畿内には神武天皇よりはやくニギハヤヒという神が天下っていました。 ニギハヤヒは物部氏の祖神なので、神武天皇以前、畿内には物部王朝があったという説があります。 ニギハヤヒを神と奉じるナガスネヒコは神武と対峙しますが、ニギハヤヒはナガスネヒコをうらぎって神武につき、ナガスネヒコは神武に殺されたと記紀は記しています。 ここから神武天皇以前、畿内には物部王朝があったとする説があります。 応神天皇とはニギハヤヒ、神武天皇とは応神天皇と名前を交換した伊奢沙和気大神のことなのかもしれませんね。 ⑤卑弥呼は日女命=倭迹迹日百襲姫命でニギハヤヒの孫籠神社の系図によれば、始祖ニギハヤヒの9代目の孫に日女命(ひめのみこと)とあり、「またの名を倭迹迹日百襲姫命」とあります。 この日女命が魏志倭人伝に登場する卑弥呼ではないかといわれています。 また倭迹迹日百襲姫命の墓とされる箸墓は大きさが魏志倭人伝に記された卑弥呼の墓と同じぐらいです。 箸墓は前方後円墳ですが、魏志倭人伝は、卑弥呼の墓が前方後円墳だとは記していません。 しかし近年の研究でもともと円墳であったものを、前方後円墳に作り直した可能性が浮上しています。 ⑥神功皇后=卑弥呼
日本書紀の「神功皇后紀」39年条と40年条、43年条には魏志倭人伝から引用された箇所があります。 39年条「魏志によると、明帝の景初3年(239年)6月に倭の女王が大夫の難斗米などを派遣して、郡(朝鮮半島の帯方郡)に行き、天子に会いたいと朝献(朝廷に詣でる)した。太守の鄧夏は吏を派遣して、京都(洛陽)に詣でた」
40年条「魏志によると、正始元年(240年)に建忠校尉(文官)の梯携たちを派遣して詔書印綬を奉じ、倭国にもたらした」
43年条「魏志によると、正始4年(243年)に倭王はまた使者の大夫の伊聲者掖耶約たち8人を派遣して献上した」
http://fushigi-chikara.jp/sonota/6883/ より引用(ありがとうございます!)
我々の先祖は魏志倭人伝を読んでおり、魏志倭人伝に登場する卑弥呼とは神功皇后のことであると考えていたのですね!
私は神宮皇后とは卑弥呼をモデルに創作された人物で、実在していなかったのではないかと思います。 そして10代崇神天皇の叔母で箸墓に葬られた倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼だと思うので 卑弥呼=日女命(ニギハヤヒの9代目の孫)=倭迹迹日百襲姫命(籠神社の系図に日女命の別名と記されている)=神功皇后 ということになると思います。
⑦応神天皇は二人いた?
すると神功皇后とはニギハヤヒの9代目の孫・日女命のことであり、ニギハヤヒは物部氏の祖なので、神功皇后は物部王朝の女王ということになります。 そして神功皇后の御子である応神天皇もまた物部王朝の王であったということになりますが、イザサワケと名前を交換して(政権交代して)しまった?
もともとのイザサワケとは天皇家の人間だったのではないでしょうか。 ところが物部王朝の応神天皇がイザサワケとなり、天皇家のイザサワケが応神天皇とすり替わってしまったのでは?
言い換えれば、物部王朝の応神天皇と、天皇家の応神天皇、ふたりの応神天皇がいたのではないかということです。
⑧八幡神は物部王朝の応神天皇?
八幡神は天皇家の応神天皇ではなく、物部王朝の応神天皇だと思います。 八幡宮にはたいてい神功皇后も祀られていますが、彼女も物部王朝の女性だと考えられますので。
また、日本には怨霊信仰がありました。 怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、疫病や天災は怨霊の祟りで引き起こされると考えられていました。 そこで怨霊が祟らぬように神として祭ったのです。 そのため、「古には神と怨霊は同義語だった」などとも言われますよ。
戦国時代には「神とは立派な人物である」と考え方が変化してきたようで、豊臣秀吉や徳川家康は自ら死後、神として祀られることを望みました。
しかしそれよりも昔、神として祀られた人物は政治的に不遇だった人物ばかりです。
ある有名な方が、「天皇は神として祀られているケースが多い」とおっしゃっていましたが その多くは明治以降の国家神道重視の政策の中で創建されたもので、(神武天皇を祀る橿原神宮・天智天皇を祀る近江神宮・桓武天皇を祀る平安神宮など) 古より神として祀られていた天皇はそんなに多くないと思います。
応神天皇は例外で、古くから八幡神として祀られていましたが、それは応神天皇が物部王朝の天皇であり、政治的に不幸な死を迎えた天皇(ニセモノの応神天皇に政権を奪われた)だからではないかと私は考えています。
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[2018/02/23 00:00]
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奈良県天理市 天理市田井庄池公園
①性転換するクマノミクマノミはひとつの中で数匹の群れで住んでいます。 この群れの中で一番体の大きなものがメス、2番目に大きなものがオスになります。 3位以下は未成熟です。 雌がいなくなると、2位だった個体が雌に性転換し、3位だった個体が雄になります。 海遊館で撮影したクマノミ 海遊館での撮影、むつかしい~。またリベンジしたいです~。②海の生物には性転換するものが多い。
陸上脊椎動物で性転換するものはほとんどないそうですが、魚類には性転換するものが多いということです。 メスからオスに性転換するものを雌性先熟、オスからメスに性転換するものを雄性先熟といいます。 クマノミは雄性先塾になるとのことです。 このほか、両方向に性転換するものなどもあります。
魚類 | 雌性先熟(メス→オス) | ホンソメワケベラ・アカハラヤッコ・コウライトラギス・ベラ・ブダイ・ ミスジリュウキュウスズメダイ・キンギョハナダイ | 魚類 | 雄性先熟(オス→メス) | クマノミ・クロダイ | 魚類 | 両方向に性転換する | ダルマハゼ・オキナワベニハゼ | 節足動物 | 雄性先熟(オス→メス) | タラバエビ ムラサキヤドリエビ | 甲殻類 | 雌性先熟(オス→メス) | ウミナナフシ タナイス | 軟体動物 | 雌性先熟(メス→オス) | エゾフネガイ | 環形動物 | 大きな個体が雌に、小さな個体が雄になるが やがて大きさが逆転し雌が雄に、雄が雌に性転換する | ゴカイの一種 | 植物 | 球茎が小さいときは雄花、球茎が大きくなると雌花を咲かせる。 | テンナンショウ | 植物 | 雄性先熟(オス→メス) | ウリハダカエデ |
上表のうち赤字で示したものは海の生物です。海って不思議ですね! ③クロダイ(茅渟)も性転換する。
クロダイも性転換するんですね。
クロダイは茅渟(チヌ)とも呼ばれています。 茅渟の海とは大阪湾のことで、クロダイはかつて茅渟の海でとれる代表的な魚だったため茅渟と呼ばれるようになったといわれます。
茅渟という名前の語源にはいくつか説があります。 a.神武天皇の兄「彦五(ひこいつ)瀬(せの)命(みこと)」が戦傷を受けて血を流したため、「血(ち)沼(ぬ)」と呼ばれた。 b。瀬戸内海から大阪湾一帯をを支配していた「珍彦(ちぬひこ)」別名/神知津彦命(かみしりつひこのみこと)、椎根津彦命(しいねづひこのみこと)に由来する。。
2~3歳までは精巣が発達したオスですが、4~5歳になると卵巣が発達してメスになるそうです。 ただ、すべてのクロダイがメスになるわけではなく、オスのまま性転換しないただし全てがメスになるわけではなく、雌性ホルモンが少ないオスは性転換しないのだとか。
クロダイの雌雄の見分け方は、大きいものがメス、小さいものがオスです。
③日本の神様も性転換する
日本の神様も性転換します。
たとえば奈良県桜井市の大神神社の大物主はヤマトトドヒモモソヒメのところに夜這いしているところからみて男神だと考えられますが、謡曲三輪では大三輪明神(大神神社の神のこと)として登場するのです。
また伏見稲荷大社のウカノミタマは女神だとされていますが、亀岡祭のご神体のウカノミタマは男神でした。
聖徳太子が親鸞の夢の中に現れて「女に生まれ変わってそなたの妻になろう」と言ったという話もあります。
このように神が性転換するという発想は、日本の神様が海の神・クロダイの神であり、クロダイが性転換するところからくるんだったりして?
④大穴持命は大国主命の性転換した姿だった?
私は『大己貴命と少彦名神』は『イザナギとイザナミ』に似ていると思います。
大己貴命とは大国主の別名で、少彦名神ときょうだいの契りをかわしてともに国造りをしました。
イザナギとイザナミはきょうだいで契り、国産み・神産みを行いました。 ところがイザナミが死んで黄泉の国へ行ってしまい、イザナギはイザナミを迎えに黄泉の国へ行きます。 そしてイザナミにこう言いました。 「愛しい妻よ、戻ってきておくれ。国造りはまだ終わっていない。」
イザナギ・イザナミはきょうだいで契って国づくりをしていますが、おなじように 大己貴命・少彦名神はきょうだいの契りをかわして国づくりをしていますね。
少彦名命という神名に「彦」とありますが、「彦」は男性の名前に用いられる漢字です。 少彦名命とは男神だと思います。
少彦名命とペアを組んだ大巳貴命とは大国主の別名ですが、大国主の別名には大穴持命(おおあなもち)というのもあります。 大穴持命・・・大きな穴を持つ神とは、女神なのではないでしょうか。
大国主には妻問いをするという話があり男神だと思います。 大穴持命とは大国主が性転換して女神になった姿なのかも?
そして神々が性転換するという発想は、海に住む魚の中に性転換するものがあることが知られていたためかもしれません。 スサノオは多くの神社で祀られており、大変厚く信仰されている神ですが、 スサノオはいざなぎに「大海原をおさめよ」と命じられています。 そのため海神はスサノオと同一視されています。 海神が住む竜宮ではタイやヒラメが舞い踊っています。 海神は魚たちを統治する神なのです。
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[2018/02/21 17:59]
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大阪市港区 海遊館
食事中のジンベエザメ ※画質が悪くてすいません~。
①普通の度合いを超えた甚だしい奴
「ジンベエザメっちゅう名前は、着物の甚兵衛からくるらしいな。」 「一般的にはそう言われてるけど、逆とちゃうかなあ?着物の甚兵衛はジンベエザメに似てるとこから名前がついたんとちゃう?」 「なんで?」 「着物の甚兵衛はなんで甚兵衛というんやと思う?」 「甚兵衛っちゅう名前の人が着てたとか聞いたで。」 「『甚』という漢字には『はなはだしい、普通の度合いを超えた』という意味があるねんて。 『兵衛』は『〇〇太』とか『✖✖太郎』とかの『太』『太郎』と同じで、ニックネーム的に男性の名前の後ろにつけるやん。」 「やられてのびてるから『のび太』、たぬきやから『ポン太』、お菓子の名前で『たこべえ』ゆうのがあったっけか。」 「そう、それで普通の度合いを超えたはなはだしい奴なんで甚兵衛となったんとちゃう?」 「ジンベエザメは世界最大の魚(全長20mにもなるという。)やから、たしかに普通の度合いをはるかに超えてるといえるかもな。」 海遊館に展示されていた説明版 ジンベエザメ イルカ ②日本人は古くからジンベエザメを知っていた。「着物の甚兵衛ができたんは江戸時代やろ、 着物の甚兵衛がジンベエザメから名前がついたんやとしたら、江戸時代の人はジンベエザメを知っとったいうことになるやん。 ジンベエザメは日本の近海におったん?熱帯に住んでるっちゅうイメージが強いねんけど。」 「ジンベエザメは熱帯・亜熱帯だけじゃなく、温帯の海にも生息するってウィキペディアに書いてあったよ。 それに、関東方面では『えびすざめ』って呼ばれとったみたい。 なんで『えびすざめ』かってーと、ジンベエザメの周囲にはいつもイワシ・カツオが群れてるねん。 ジンベエザメもイワシ・カツオもプランクトンを主食にしてるんで。 そやけど、昔の人はジンベエザメがイワシやカツオをつれてくると考えたんやと思う。 それで、ジンベエザメを福の神と信仰したんとちゃうかな。 七福神のうち、海の神様はえべっさん(えびす神のことを関西ではえべっさんと言います)やん。」 「えべっさんはイザナギ・イザナミの長子として生まれたけど、3歳になってもたたれへん身体障害児やったんで、葦舟に乗せて流されたんやったっけか。 えべっさんは竜宮にたどりついて海神に育てられたけど、神の御子やいうことで地上に戻された。 そのえべっさんを祀るのが西宮戎神社。 なるほど、それでふつうの度合いをはるかに超えた甚だしい奴、ジンベエザメは海の神様で『えびすさめ』か。 確かに、そういう信仰は最近のものとは思われへんな。」 ③妖怪・ジンベエサマ「せやろ、ほんで、宮城県金華山沖にジンベエサマっちゅう妖怪がでるねんて。 すごく大きくて船の下で船をささえてたりして、ジンベエサマが現れたら大漁になると言われてる。」 「そのジンベエサマの正体はジンベエザメやな!」 ④金華山の鹿とジンベエザメの斑点は謀反の罪で殺された人をあらわしている?「金華山は、島全体が黄金山神社の神域で、奥州三霊場のひとつやねんて。 行ったことないけど。 で、神の使いやゆうことで鹿が保護されてる。」 「奈良みたいやな。 俺も金華山は行ったことないけど、奈良には行ったことある。 奈良はたいへんや、神の使いやゆうて保護されてるもんで、町中に鹿がおる。 夜、奈良公園あたりを運転してたら急に鹿が飛び出してきて危うくはねるとこやった。 鹿せんべい持ってる外人さんがようさんの鹿に囲まれて悲鳴あげてることもあったなあ~。 前に言うてたな、鹿は謀反で殺された人の喩やって。 えーと、日本書紀の『トガノの鹿』やったけか。 雄鹿が雌鹿に『全身に霜が降る夢を見た』ゆうたら、雌鹿が『それは霜ではなく塩で、あなたは殺されて塩を振られているのです』と答えた。 んで、昔、謀反の罪で殺された人は塩を振られることがあったとか。」 「そう、鹿の夏毛に斑点があるやん、あの斑点を塩に喩えたんじゃないかと思うねん。」 「黄金山神社の神様ゆうのは、謀反で殺された人の霊なんかなあ?」 「そうやね~。 ほんで、ジンベエザメにも斑点があるやん。」 「そうか、鹿と同じくジンベエザメも謀反で殺された人の霊やと昔の人は考えたんやろな。」 東大寺 大仏殿 鹿「ジンベエザメやクジラのことを『えびす』という地域があるけど、ほかにも『えびす』と呼ばれてるものがあるねん。』 「何?」 「水死体。 水死体のことを『えびす』とゆうて、水死体があがると大漁になるとかいう信仰がある地域もあった。」 「つまり、葦舟に乗せて流された蛭子がたどりついた竜宮とは死の国のことで、地上に戻され、西宮戎神社で祀られてる蛭子とは水死体ちゅうことやな!」 さてさて、金華山に祀られている神様とはどのような神なのでしょうか? それについてはこれから考えてみます。(汗~) ウツボ アザラシ
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[2018/02/19 13:23]
大阪府 |
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大阪市中央区 大阪城 大阪城イルミナージュ・・・2018年2月25日まで
大阪城に隈取メイクの歌舞伎役者が登場!
①おおざっぱすぎる(笑)歌舞伎の歴史歌舞伎の祖は「お国」という女性だとされます。 『当代記』によると、お国の踊りの1シーンに、傾き者が茶屋の女と戯れるシーンがあったということです。 傾き者とは、派手な衣装を好んだり、常軌を逸脱した行動に走ったりするような人物のことです。
今でいえばこの方々みたいな人のことかな?かっこいいよね❤ ↓
茶屋とは色茶屋、茶屋の女とは遊女のことですね。
ですが、安土桃山時代の武将で、蒲生氏・森氏の家臣だった名古屋(那古野) 山三郎(なごや さんさぶろう)が歌舞伎の祖だともいわれていますね。
名古屋 山三郎はとんでもない美少年でしたが、森忠政に井戸宇右衛門殺害を命じられ、井戸宇右衛門に斬りかかるも逆に井戸宇右衛門にやられて死亡しています。 その後、井戸宇右衛門もその場に居合わせた森家の人間に殺されてしまうのですが~。 享年28、または32と伝わります。 名古屋 山三郎の妻、もしくは恋人がお国だったともいわれますが、さて?
お国が始めたかぶき踊は大流行し、遊女屋で行われるようになり、遊女歌舞伎と呼ばれました。 また12歳から17,8歳の少年が演じる若衆歌舞伎なども行われましたが、こちらもエロチックな内容であったと考えられています。 日本では衆道と申しまして、男色はたしなみとされていましたので、若衆歌舞伎はそれは流行ったことでしょうね❤
ところが遊女や若衆をめぐる喧嘩が頻発。幕府は遊女歌舞伎や若衆歌舞伎を禁止してしまうのです。 一説によれば、そうしたことから、女性や若衆ではなく、野郎(成年男子)が演じる野郎歌舞伎が登場したともいわれます。
②芸能は神事だった?
芸能はもともとは神事だった。私、佳音はそう考えます。
記紀神話に山幸彦・海幸彦の話がありますね。
山幸彦はうっかり海幸彦の釣り針をなくしてしまい、この釣り針を探して竜宮城にやってきました。 釣り針は赤鯛ののどにひっかかっているのが見つかって海幸彦は元の世界に戻ります。 そして海神より授かった塩盈珠で満ち潮にして海幸彦を溺れさせ、海幸彦が助けてくれ、というとやはり海神から塩乾珠で引き潮にして助けました。 九州地方に住んでいた隼人はこの海幸彦の子孫で、海幸彦がおぼれる様子を表現したのが隼人舞になったとされます。
隼人たちは自分たちの祖先である海幸彦が溺れる様子を舞で表現することで、海幸彦の霊に溺れた苦しい経験を思い出させようとしているのではないかと思います。
また奈良豆比古神社で行われている翁舞は、皇位継承権があったのに暗殺された志貴皇子が、ハンセン病をもたらす疫神から、人々にご利益をもたらす文殊菩薩へと化身するようすを描いたものだと思います。
その理由については長くなるので、別ブログのこちらのシリーズをお読みください。→ 翁の謎① 八坂神社 初能奉納 「翁」 『序』
①~⑲まであります。長いよ~、という方はこちらを読んでね。→ 百毫寺 萩 『志貴皇子 暗殺説』 奈良豆比古神社 翁舞 『道鏡の父親は志貴皇子だった?』
③芸能のルーツはアメノウズメのストリップダンス?
記紀神話に記されたことが事実であると想定すると、そもそも芸能のルーツは天岩戸の前でアメノウズメが躍ったストリップダンスではないでしょうか。
アメノウズメのストリップダンスを見ていた八百万の神々はどっと笑い、天岩戸に籠っていた天照大神は「私がいないのにみんななぜ笑っているのだろう」と不思議に思い、天岩戸を少しあけて外を伺い見たところを外に引っ張り出されました。

④天照大神は男神だった?
天照大神はアメノウズメのストリップに興味を持って天岩戸から出てきたともいえますね。 女神のストリップに興味を持つのは男だ、よって天照大神は男神だとする説があります。
また各地に天照大神は男神であると伝わっているそうです。 曾根崎心中にも「照る日の神も男神。よけて日負けはよもあらじ。」と書いてあります。 照る日の神とは天照大神のことでしょう。 参照/お初天神 節分祭 『曾根崎心中・大阪三十三所観音巡りの言葉遊びがオモシロイ!』

笑撃武踊団のみなさん
⑤男神=荒魂、女神=和魂、御霊=男女双体?
神はその表れ方で、荒魂(神の荒々しい側面)、和魂(神の和やかな側面)、御霊(神の本質)に分けられるといいます。 そして男神は荒魂を、女神は和魂をあらわすとする説があります。 とすれば神の本質である御霊は男女双体となるのではないでしょうか。
御霊 | 神の本質 | 男女双体 | 荒魂 | 神の荒々しい側面 | 男神 | 和魂 | 神の和やかな側面 | 女神 |
とすれば、男神と女神を和合させることは、荒魂と和魂を和合させることであり、和合によって神は御霊になると そういう呪術なのではないでしょうか?
⑥和合は呪術だった?
歌舞伎の元祖・お国がエロチックな踊りをしたり、遊女のようなことをしていたのは、そういう呪術的な意味があったからかも。
また陰陽道で男は陽で女は陰、奇数は陽で偶数は陰とされます。 一けたの数字で最も大きい奇数の9がふたつ重なる9月9日は重陽の節句とされ、大変おめでたい日だとされていました。 男と男が和合する衆道はまさしく重陽、ということで衆道歌舞伎はもてはやされたのではないかと思います。 日本で衆道がたしなみとされていたのも、重陽からくるのではないかと思ったりします。
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[2018/02/16 00:00]
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京都市左京区 下鴨神社 節分祭・・・ 2月3日
比良木社①なんでも柊ドラえもんは『どこでもドア~♪』ですが、下鴨神社の摂社・雲井於神社(いずもいのへのじんじゃ)には『なんでも柊』があります。 そのためでしょうか、雲井於神社は通称名を『比良木社』といいます。 古来、比良木社は厄除けの神として信仰が厚く、祈願が叶うと何らかの木を献上するならわしがありました。 ところが、何の木を植えてもヒイラギの木に変わってしまうというのです! さらに、献木が柊になるかどうかで、祈願の成就を占ったそうです。 何を植えてもヒイラギに変わってしまうというのはびっくりです。 もし本当なら京都七不思議のひとつに加えたい~。 そういうわけで比良木社を参拝しました。 下鴨神社 古神符焼納神事
②なんでも柊の種明かし瑞垣の前の木を見てみると、葉がギザギザになっているものと、なっていないものがありました。 私は植物の種類はよくわからないんですが、ヒイラギではなく、ヒイラギモクセイかも?。 ヒイラギモクセイはヒイラギとモクセイの雑種だと考えられています。 園芸をされている方に教えていただいたのですが、ヒイラギモクセイの剪定を強くすると、いつの間にかヒイラギになってしまうのだそうです。 またヒイラギモクセイの木を剪定をしなかったり、老木になると鋸歯がなくなってモクセイの葉のように丸くなるのだとか。 誰かがお礼参りにヒイラギモクセイの木を献木してここに植えたところ、剪定を強く行ったためにヒイラギのように葉がギザギザになってしまった、というのがどうやら謎の真相のようです。  ヒイラギ https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AOsmanthus_heterophyllus_(leaf_s3).jpg https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6f/Osmanthus_heterophyllus_%28leaf_s3%29.jpg よりお借りしました。 作者 Alpsdake (投稿者自身による作品) [CC BY-SA 4.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0)], ウィキメディア・コモンズ経由で

ヒイラギモクセイ https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AOsmanthus_%C3%97_fortunei_6.JPG https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/66/Osmanthus_%C3%97_fortunei_6.JPG よりお借りしました。 作者 Qwert1234 (Qwert1234's file) [CC BY-SA 3.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)], ウィキメディア・コモンズ経由で④節分って何?江戸時代まで日本では太陽太陰暦を用いていました。 月の周期は約29.5日なので、 1年=29.5日×12ヶ月=354日となります。 ところが、地球が太陽の回りを一周するのに要するのは365日なので、太陽太陰暦は実際の季節とは1年で約11日もずれてしまいます。 そのため、4年に一度閏月を設けて修正する必要がありました。 太陽太陰暦では月齢がそのまま何日であるかを示します。 これは月がカレンダーがわりになるということで、紙が貴重品だった時代には大変便利でした。 けれど太陽の運行によって生じる季節とは、最大で一ヶ月もずれてしまい、農作業などに不便が生じます。 そこで1太陽年(太陽が黄道上の分点(春分・秋分 )と至点(夏至・冬至)から出て再び各点に戻ってくるまでの周期。約365.2424日)を24に分割した二十四節気を太陽太陰暦と併用していました。 そのため、かつては二十四節季の正月と、太陽太陰暦の正月の2回の正月があったのです。 節分とはもともとは二十四節気の立春・立夏・立秋・立冬の前日を意味する言葉でした。 中でも立春は1年の切り替わりでもあったため、重用視され、しだいに節分は立春の前日を意味する言葉となりました。 二十四節気では立春を1年の始まりとします。 つまり、節分とは二十四節気における大晦日なのです。 また、旧暦では1月、2月、3月を春、4月、5月、6月を夏、7月、8月、9月を秋、10月、11月、12月を冬としていました。 ざっくりと新暦換算すると約1か月遅れの2月、3月、4月が春、5月、6月、7月が夏、8月、9月、10月が秋、11月、12月1月が冬となります。 二十四節気では立春(2月4日)から立夏の前日(5月4日)が春、立夏(5月5日)から立秋の前日(8月6日)を夏、立秋(8月7日)から立冬の前日(11月6日)が秋、立冬(11月7日)から立春の前日(2月3日/節分)が冬でした。 ※( )の日付は新暦 現在では1月はまだまだ冬、3月になるとようやく春となりますが 昔は新年とともに春がくると考えられていたのですね。 太陽太陰暦(旧暦)の1月は太陽暦(新暦)の2月なので、1年で最も寒い季節に春がやってきていたわけです。 下鴨神社 追儺弓神事 下鴨神社 追儺弓神事 『ヤタガラスを射る?』 ⑤ヒイラギは冬の木?
ヒイラギは葉に鋭い鋸歯(きょし)があります。 これに刺さると疼ぐ(ひいらぐ=痛む)ことから、『疼木』と名付けられたとされます。 ヒイラギを漢字で書くと柊ですが、この漢字は日本で創作された国字です。 そういったところから、冬の木=柊という漢字がつくられたのかも? 節分祭は立春の前日に行われる行事で、冬の気を祓う行事だといっていいでしょう。 節分にはヒイラギの枝に鰯の頭をさしたものを玄関口に飾る習慣がありますね。 また『比良木社』では節分の日にヒイラギの小枝をさしたお札を授与しています。 節分と柊はこのように大変関係が深いです。 下鴨神社 光琳の梅⑥柊鰯は柊なよしで、節分ではなく正月の習慣だった。
土佐日記には正月の注連飾りに、『柊の枝となよし(ボラ)の頭を刺してあった』とあります。 現在、節分の日に柊にイワシの頭を刺したものを門に飾る柊鰯(ひいらぎいわし)の習慣がありますが、もともとは正月の行事で、柊にはイワシではなくボラの頭をさしていたのですね。 京都花見小路の注連飾り⑦クリスマスのルーツはミトラ教の冬至祭だった。
クリスマスには柊の葉で作ったリースをドアに飾る習慣がありますね。 クリスマスはキリストの誕生日とされますが、実は聖書にキリストの誕生日がいつなのかは記されていないんですね。 クリスマスはミトラ教の冬至祭をキリスト教がとりいれたものだと考えられています。 冬至は1年で太陽の南中高度が最も低くなる日で、グレゴリオ暦の12月22日です。 その3日後の25日ごろより太陽は再び南中高度をあげていきます。 それでミトラ教では12月25日に冬至祭を行っていたのでしょう。 北野異人館街 洋館長屋
 京都駅ビル クリスマスイルミネーション⑧キリストは太陽を擬人化したものだった?太陽は冬至の12月22日に最も南中高度が低くなり、その3日後の25日から再び南中高度を上げていくと書きました。 で、キリストは十字架に磔になって死亡し、3日後に生き返っていますね。 地球の自転軸は歳差運動によってコマがふれるように回転しています。 そのため、かつて北半球でも南十字星が見えていたといいます。 とはいえ南十字星が見えていたのは空のたいへん低い位置だったことでしょう。 そして冬至の太陽の南中高度はこの南十字星の南中高度に近づきます。 そのため、キリストは太陽を擬人化したもの、キリストが十字架に磔になったというのは冬至の太陽が南十字星の南中高度に近づくという意味ではないかとする説があります。 京都イルミエール⑨冬至正月と節分「冬至正月」という言葉があり、かつて冬至(12月22日)を1年の始点とする考え方があったとされます。 そして④で説明したように節分とは二十四節気の大晦日で、翌日の2月4日は立春で二十四節気の正月です。 さらにミトラ教の冬至祭ルーツとするクリスマスに飾るヒイラギのクリスマスリースと、日本の節分の柊鰯。 クリスマス・・・冬至祭(冬至正月)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ヒイラギのクリスマスリース 節分・・・・・・二十四節気の大晦日(翌日の立春は二十四節気の正月)・・・柊鰯 同志社彰栄館⑩古代日本に原始キリスト教が伝わっていた?キリスト教の伝来は一般的には1549年、フランシスコザビエルによってもたらされたとされていますが、それ以前の日本にキリスト教が伝わっていたという説もあります。 佐伯好郎氏は次のように主張されました。 ・中国ではローマを大秦、景教(ネストリウス派キリスト教)の寺院のことを大秦寺と言った。 渡来人であった秦氏は京都市右京区の太秦を本拠地としていたが太秦と大秦は点ひとつの違いである。 ・広隆寺は別名太秦寺とも呼ばれていた。 ・広隆寺の弥勒菩薩半迦思惟像の手の印は、壁画に描かれた景教徒の手の印と全く同じである。 ・秦氏は秦の始皇帝の子孫を称しており、日本書紀は秦氏は百済より渡来したと記しているが、秦氏のルーツを中央アジアのバルバシ湖の南にあったキリスト教国・弓月王国ではないかとしている。(秦氏の祖は弓月君という名前である。) しかし、時代考証が合わないということで氏の説は学会から抹消されました。 ネストリウス派キリスト教は431年エフェソ公会議で異端として排斥され、布教の矛先を東洋に向けています。 秦氏が帰化したと思われる4世紀後半から5世紀前半では、まだネストリウス派は東洋に進出していない、というのがその理由でした。 佐伯氏は後年秦氏=景教徒説を捨て、秦氏=原始キリスト教徒説に訂正ししましたが、学会が氏の説を認めることはついになく、現在に至っています。 ですが、古くより東西はシルクロードを通じて繋がっていました。 ギリシャのパルテノン神殿にあるのと同じエンタシスの柱が奈良の唐招提寺や法隆寺にも伝わっています。 建築様式だけ伝わって宗教が伝わらないというのは不自然じゃないかなあ? 柊鰯のルーツはクリスマスリースだったりして? 比良木社
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[2018/02/11 15:10]
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