神戸市中央区 南京町(チャイナタウン) ランターンフェア 2017年12月7日~25日パソコン治りました! 神戸ルミナリエを見たあと、神戸の街をうろうろしていると不思議の入り口を発見。 長安門をくぐるとそこはチャイナタウンです。 活気とパワーにあふれる町でした。 ①纏足かつて中国には纏足(てんそく)の風習がありましたね。 骨が柔らかい3~4歳のころ、足の親指以外の指を足の裏側へ折り曲げて布を巻き、7~8歳のころ、足の裏を内側に曲げて足が大きくならないようにするのです。 https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ABound_feet_(X-ray).jpg https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/14/Bound_feet_%28X-ray%29.jpg よりお借りしました。 作者 unknown; Frank and Frances Carpenter Collection. [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ADie_verkruppeltenFusse_einer_vornehmenChinesin.jpg https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/92/Die_verkruppeltenFusse_einer_vornehmenChinesin.jpg よりお借りしました。 作者 Albert Friedenthal (Das Weib im leben der Völker; page 427) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で指の骨は折れちゃうみたいですね。うう~、痛そう~。 大きな足はエレガントでないと考えられており、纏足をしていない女性は結婚できないと考えられていたみたいですね。 ②世界中で行われていた身体改造このような身体改造は世界中で行われていました。 ミャンマーの首長族には今でも首に輪をはめて首を長くする風習がありますし、 ムルシ族は下唇を伸ばして皿をはめる風習があります。 また世界中に頭蓋変形の習慣があったようで、中央アジア、イギリス、スイス、ドイツ、オーストリア、ハンガリーなどで紀元前の時代の変形された頭蓋骨が発見されています。 日本でも鹿児島県南種子島町の広田遺跡で、3世紀ごろの変形された頭蓋骨が発見されています。 ③日本に纏足の習慣が伝わらなかったのはなぜ?纏足の習慣は台湾にも伝わり、近年まで行われていたそうです。 なぜ、日本に纏足の習慣が伝わらなかったのでしょうか? 纏足の習慣が始まったのは、斉(479年~502年)の時代とする説、南唐(937年~975年)の時代とする説があります。 そして北宋(960年~1127年)以降、普及し始めたようで、 1366年に記された『輟耕録』(てっこうろく)には、次のように記されています。 「熙寧(きねい。年号。1068年~1077年)、元豊(げんぽう。年号。1078年~1085年)以前は少なかったが 近年は人々が互いに纏足をまねしあうようになった。」 で、日本では遣隋使・遣唐使を派遣するなどして中国文化を取り入れていましたが 894年に菅原道真が遣唐使を廃止としています。 その後、朝廷は「渡海制」をだし、許可なく海外を訪れることを禁じ 「年紀制」で唐や宋の商船の来航制限を行っています。 10世紀ごろには「渡海制」「年紀制」はかなりくずれ、日宋貿易が行われるようになったようですが 遣唐使廃止後に国風文化が発達したと考えられています。 平安時代の貴族の女性は十二単で身をまとっていましたが、これは中国のファッションとは異なります。 http://blog.livedoor.jp/drazuli/archives/7051903.html ← 中国のファッションについては、この方の記事がわかりやすいです。 京都御所 十二単をまとう平安時代の女性つまり、遣唐使を廃止したとき、まだ纏足の習慣は生じていなかったか、生じていたとしてもまだそんなに普及しておらず その後、中国との交流が活発に行われなくなったため、日本に纏足の習慣が伝わらなかったのではないかと思ったりするんですが どうでしょうか? まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
 にほんブログ村
[2017/12/29 23:39]
兵庫県 |
トラックバック(-) |
コメント(-)
パソコンが潰れて画像編集ができなくなってしまったので(泣)、しばらくブログ休みます~。  法輪寺  法輪寺  渡月橋  同志社彰栄館  同志社女子大  京都駅ビル  京都駅ビル 京都イルミエール 京都イルミエール 京都イルミエール  中の島図書館  中の島図書館  中の島図書館  中の島レトロビル  中の島薔薇園  中央公会堂 中央公会堂  日本銀行大阪支店  大丸 心斎橋店  大阪高島屋  御堂筋イルミネーション  イルミナイト万博  イルミナイト万博 神戸ルミナリエ 早くパソコン治るといいな~。 まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
 にほんブログ村
[2017/12/18 08:54]
まとめ |
トラックバック(-) |
コメント(-)
大阪府池田市 久安寺 撮影 2011年12月4日

①猪早太の意の猪は干支の戌亥(いぬい/乾)を、早太は隼人をあらわす? 久安寺 躑躅 『妖怪・鵺と猪早太』 ↑ こちらの記事にこんなことを書きました。 a.久安寺は平安時代に賢実上人が鳥羽天皇の皇后の安産祈願を行ったところだと伝えられる。 その結果、皇后は近衛天皇をお産みになられた。 b.この近衛天皇が鵺(ぬえ)に怯えたという話が平家物語に記されている。 鵺とは頭が猿、胴が狸、手足が虎、尾が蛇という鵺と呼ばれる怪物で、源頼政は弓で鵺を射、郎党・猪早太(いのはやた)が太刀で仕留めた。 その後、頼政は仕留めた鵺の体をバラバラに切り刻み、それぞれ笹の小船に乗せて海に流した。 c.鵺伝説で鵺を太刀でしとめた郎党の名前は猪早太だった。 、早太は隼人(古代、九州に住んでいた民。畿内に強制移住させられ、犬の鳴き声をまねて宮廷の警備の仕事をさせられていた。)を表すとする説がある。 この中のc、「猪は干支の戌亥(いぬい/乾)を、早太は隼人(古代、九州に住んでいた民。畿内に強制移住させられ、犬の鳴き声をまねて宮廷の警備の仕事をさせられていた。)を表すとする説」が私はすごく気になっていました。 ②乾は北西、隼人が住んでいた九州は南西乾(戌亥)は方角では北西をあらわします。 しかし隼人が住んでいた九州は京からみて南西です。 九州は京から見て南西(未申/ひつじさる)の方角にあるのに、なぜ九州に住んでいる民が犬(=戌=北西)の鳴きまねをするの? 猪早太(戌亥=乾)とは、鵺(未申=坤)が陽に転じたものなのか、などとも考えてみたり 昔の日本列島は混一疆理歴代国都之 図のように南北が逆転していたのか、などとも考えてみました。 混一疆理歴代国都之 図
https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AKangnidoMap.jpg https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/75/KangnidoMap.jpg よりお借りしました。 作者 Kim Sahyung, Lee Moo, Lee Hui (...) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で③太陽は曲線を描いて南西→北西へ動く。乾=戌亥は犬と猪ですね。 で、猪は摩利支天の神使とされています。 摩利支天は陽炎を神格化した神とされますが、原語の Marīcīは太陽や月の光線を意味する言葉なので、 摩利支天とは太陽の光を神格化した神だと考えていいと思います。 そこで太陽の動きについて調べていて、下の動画を見つけました。 動画、お借りしました。 動画主さん、ありがとうございます。 私は理数系が苦手なもので(恥~)、太陽は東から西へ直線運動で進むと思っていたんです! でもそうじゃなかったんですね。 東から出た太陽は弧を描いて、いったん南西(未申)に進み、それから北西(戌亥)に進んでいくのですねー。 それで南西にある九州は太陽が向かう方角ということで、畿内につれてこられた隼人たちは犬の鳴き声をまねて警備の仕事をしたのかも。 まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
 にほんブログ村
[2017/12/13 00:00]
大阪府 |
トラックバック(-) |
コメント(-)
大阪市天王寺区 一心寺 2013年11月下旬 撮影
一心寺①法然、四天王寺西門近くに草庵を結ぶ。浄土宗の開祖は法然(1133年ー1212年)ですね。 1185年、この法然が四天王寺別当・慈円の要請を受けて四天王寺の西門の近くに源空庵という草庵を結びました。 これが一心寺のルーツです。もちろん一心寺は浄土宗ですよ。 その後、後白河法皇’(1127年~1192年)がここを訪れて、法然とともに日想観を修したと伝えられています。 日想観とは、 西に沈む太陽を見て、その丸い形を心に留める修行法だということです。 淀川や大和川が運んでくる大量の土砂によって平地が増え、現在の海岸線ははるか遠くになってしまったのですが かつて四天王寺の西門から海が眺められたといわれます。 そして四天王寺周辺ではこの日想観がさかんに行われていたようです。 極楽浄土は西方にあると考えられており、日想観はその極楽浄土を拝むという意味合いがあったのでしょう。 法然が結んだ源空庵とは日想観を行うための草庵であったのかもしれませんね。 法然は「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば、人は誰でも極楽浄土に行くことができると説きました。 そんな法然の浄土教の思想にぴったりマッチする土地が四天王寺付近だったということなのかなあと思います。 一心寺②藤原家隆、四天王寺西門近くに草庵を結ぶ。
法然だけでなく、歌人の藤原家隆も1236年に病を患って石像寺(釘抜き地蔵)で出家し、その後四天王寺近くの夕日庵に移って日想観を修したといわれます。 現在、その夕日庵跡には家隆塚がありますよ。 家隆塚 ③家隆山石像寺藤原家隆が出家したという石像寺は京都西陣にあります。 もとは真言宗だったそうですが、重源(1121~1206)によって浄土宗に改められています。 家隆が出家したのは1236年なので、そのときはすでに浄土宗だったんですね。 で、家隆がここで出家したため石像寺は山号を家隆山といいます。 家隆は浄土宗だった石像寺で出家したのち、四天王寺近くの夕日庵に移って日想観を行っていますし それ以前には浄土宗の開祖・法然が四天王寺近くに源空庵を結び、やはり日想観を行っています。 どうも日想観というのは浄土宗と関係が深いように思われますね。 四天王寺は現在は和宗、かつて天台宗だったこともあるようですが、浄土宗であったことはないと思います。 それでも法然が源空庵を結んだのは四天王寺別当の慈円の要請を受けてのことでしたし 四天王寺と浄土宗は関係が深いといえるかもしれません。 日本の仏教は簡単に宗派を変えるなど、もともと宗派に大してこだわりがなかったのかもしれません。 石像寺④石像には聖徳太子信仰があった?四天王寺は聖徳太子が建立した寺ですが 家隆が出家した石像寺にも聖徳太子信仰があったと思われるふしがあります。 石像寺は「釘抜き地蔵」と呼ばれており、次のような伝説が伝えられています。 a.遣唐使として唐に渡った弘法大師は、日本へ石を持ち帰り、地蔵菩薩を彫った。 そして「人々の諸悪・諸苦・諸病を救い助けん」と祈願した。 いろいろな苦しみを抜きとってくださるお地蔵様「苦抜(くぬき)地蔵」と呼ばれるようになり、その後「くぬき」がなまって「くぎぬき」になった。
b.室町時代、両手の痛みに悩む大商人・紀伊国屋道林がこのお地蔵さまに七日間願掛けすると、7日目の夜の夢の中にお地蔵様が現れた。 お地蔵さまは「手の痛みは、あなたが前世でわら人形に釘を打ち人をのろった報いである。」と言い、釘を抜いた。 商人が目覚めると手の痛みは治っていた。
この伝説にちなみ、石像寺境内にはくぎ抜きと5寸釘をモチーフとした絵馬がたくさん奉納され、お堂の壁一面にかけらています。 石像寺聖徳太子は建築の神としても信仰されており、四天王寺近くにある金剛組のは578年、聖徳太子が四天王寺を建立するため百済よりま招いた宮大工・金剛重光が創業したとされています。 もちろん金剛組は世界最古の企業ですよ。 金剛組では今も朝礼の際、厨子をあけ、聖徳太子像を拝んでいます。 紀伊国屋道林の手のひらから釘を抜いてくれた地蔵菩薩とは聖徳太子なのではないでしょうか。そして石像寺で出家し夕日庵で日想観を行った藤原家隆もまた聖徳太子を信仰していたのではないかと思ったりします。 一心寺 一心寺 本多忠朝の墓 まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
 にほんブログ村
[2017/12/12 00:00]
大阪府 |
トラックバック(-) |
コメント(-)
大阪市天王寺区 四天王寺 2013年11月下旬 撮影
①長持形石棺蓋四天王寺の宝物館の横になにか置いてありますよ。 手前の細長いのは西門石鳥居の笠石(1294年造)で、鳥居の最上部に使用されていたものだそう。 奥にあるのは石棺の蓋です。 説明板には次のように記されていました。 荒陵(あらはか/現在の茶臼山付近)から出土したものとされる。 いつのころからか四天王寺境内に移されて亀井堂東の小溝に架けられ、 江戸時代にはその橋を渡ると安産になると評判になり、四天王寺の七不思議の一つとして言い伝えられてきたが、 明治時代になって古墳時代の石棺の蓋であることが判明してからは移転し、保管されている。長持型石棺とは主に古墳時代中期に作られたと考えられている石棺です。 古墳時代とは3世紀中頃から7世紀頃をさします。 古墳時代中期は5世紀ぐらいですね。 大阪府堺市の仁徳天皇陵もこのころ作られたと考えられています。 ②茶臼山古墳長持型石棺が出土したという茶臼山古墳は前方後円墳とされていますが、「古墳ではない」とする説もあります。 「茶臼山古墳は古墳ではない」とする説の論拠は、1986年に発掘調査で埴輪や葺石が出土しなかったということにあります。 しかし2009年の発掘調査では水銀朱が塗られた石室のようなものが発掘されたと発表されています。 四天王寺にある長持型石棺も茶臼山古墳から出土したと伝わっていますし、やはりこれは古墳なのではないでしょうか。 とすれば、なぜ埴輪や葺石が出土しなかったのでしょうか? ③暴かれた古墳梅原猛さんは中国では謀反人の墓は暴かれることがあり、奈良県明日香村にある石舞台古墳も暴かれた墓ではないかとおっしゃっています。 石舞台古墳は蘇我馬子の墓とされていますが、馬子の孫の蘇我入鹿は自分の屋敷を宮門(みかど)と呼ばせるなど天皇のように振る舞っているのがけしからんとして、645年に中大兄皇子に斬殺されています。 翌日、入鹿の父親の蝦夷は自宅に火をつけて自殺しました。 馬子の墓は謀反人・入鹿の祖父の墓だとして暴かれ、盛り土が取り除かれて石室がむき出しの状態にされたのかも。  石舞台古墳④茶臼山古墳は暴かれた古墳?587年、崇仏派の蘇我氏vs排仏派の物部氏の戦いがありました。 結果、物部氏が負け、蘇我氏側についていた聖徳太子は物部氏から没収した土地と奴婢を用いて四天王寺を建立しました。 四天王寺付近は物部氏の土地だったのですね。 茶臼山古墳は四天王寺西南にある石鳥居から西南に360mほどのところにあります。 茶臼山古墳は物部氏を葬った古墳だったのではないでしょうか。 物部氏は謀反人であり、茶臼山古墳は謀反人を葬った墓であるとして葺石ははがされ、埴輪も撤去されたのではないでしょうか。 さらに石室から石棺も持ちだされ、石棺の中の遺体はどこかに捨てられたのかもしれません。 そして石棺は橋として用いることで、人々に踏みつけられることになっててしまったのでは? まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
 にほんブログ村
[2017/12/10 18:40]
大阪府 |
トラックバック(-) |
コメント(-)
大阪府枚方市 水面回廊 淀川 2017年12月初旬 撮影①水面回廊
水面回廊は昭和初期に作られた農業用水路を、平成8年に出口雨水幹線として整備したものです。 淀川の南の水色の線状に見えるのが水面回廊で寝屋川まで2.8kmの遊歩道が続いています。 三十石舟が浮かんでいますね。 ②『くらわんか舟』のルーツは関ヶ原の戦いまで遡る?かつて淀川は大阪と京都を結ぶ重要な交通路で舟が盛んに往来していました。 淀川夕景に安藤広重が描いた「くらわんか舟」(説明版より)を合成してみた。その舟の乗客たちに「食らわんか 食らわんか(「食べへんのか、食べる銭もないんか~」というニュアンス)」と言って飲食物を売る小舟があり、「くらわんか舟」と呼ばれていたのです。 すごいもの言いですね~。 東海道中膝栗毛にも出てくるそうです。 「飯食はんかい。酒飲まんかい。サアサア、みな起きくされ。よう臥さる奴らぢゃな」 と『くらわんか舟』の主ががなりたて、 弥次が「イヤ、こいつらア、云はせておきゃア、途方もねえ奴らだ。横面張り飛ばすぞ」と返すシーンがあるのだとか。 そのルーツは戦国時代、関が原の戦いにまで遡るとされます。 このとき、徳川軍の物資補給に協力したので、徳川幕府より営業特権を与えられたというのです。 ③ 関ヶ原の合戦は農民が住んでいるところで行われた。そういうわけでかなり強引ですが、関ヶ原合戦の話です。(汗~) 関ヶ原の写真に堺祭に登場した堺火縄銃保存会の方々を合成。 ときどき、こんなことを言う人がいます。 「日本の戦は関ヶ原のようななにもないところで行った。したがって農民に迷惑をかけていない。」 これはまちがいだと思います。 友人が歴史秘話ヒストリアというテレビ番組を録画したビデオを貸してくれたのですが、それによれば 当時の検地帳が残っており、当時の関ケ原には8つの村があって2000人ほどの人が住んでいたことがわかっているというのです。 また野上町に観音堂跡があり、合戦の際、この場所に住民たちが避難したと言い伝わっているといいます。 戦後、家康が発布した禁制も残っています。 その禁制には、関ヶ原の領民に乱暴したり、放火してはならないと記されています。 つまり関ヶ原は何もないところだったというのはまちがいで、農民たちが住んでおり、戦によって農民たちが被害を受けたと考えられます。 ※追記 関ヶ原の領主・竹中重門は始め西軍でしたが関ヶ原合戦のときは東軍に寝返っていました。 もし関ヶ原の領主が西軍だったら家康は禁制を出さず、領民は奴隷にされていたかもしれません。 関ヶ原
関ヶ原に置かれていた関ヶ原合戦陣形図
④見物人が集まったのは関ヶ原合戦ではなく大津城攻防戦だった。こんなことを言う人もいます。 「関ヶ原の戦いでは手弁当を持った見物人が集まったり、屋台が出たりした。 戦において農民が攻撃されることはなかったためである。」 これは関ヶ原合戦ではなく、その前に起こった大津城の戦いのことのようです。 当初西軍だった京極高次は、突如東軍につくことを宣言し、本拠地の大津城に籠りました。 西軍はこれを平定するため毛利元康・ 立花宗茂・小早川秀包、 筑紫広門らの大軍で責めさせました。 京極高次は降伏して高野山に出家しましたが、大津城を開城した日が関ヶ原合戦の当日で、西軍の戦力が分散されて東軍有利をもたらしました。 そのため東軍の総大将・徳川家康は高次を呼び戻して若狭一国・8万5000石を与えています。
大津城は京より山ひとつ超えた場所にあります。 山から合戦を見るのであれば安全だし、大津城には秀吉の側室や淀殿の妹など有名人がいたということで見物人が集まったんでしょうね。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9f/Sekigaharascreen.jpg/1280px-Sekigaharascreen.jpg?uselang=ja よりお借りしました。
上の図は関ヶ原合戦屏風図です。 ちょうど高台から見下ろしたように描かれていますね。 こんな感じで見れるんだったら怖がりの私でも見に行きたくなってしまうかも。
まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
 にほんブログ村
[2017/12/09 00:12]
大阪府 |
トラックバック(-) |
コメント(-)
大阪府交野氏 交野山(こうのざん) 2017年12月初旬 撮影①交野山観音岩に登る。↓ 交野山の上に巨岩が! 山を登ってみることにしましょう~! 交野カントリークラブ近くの駐車場に車を止めて登ればすぐ山頂につきました。15分くらいかな~。 これが下から見えていた岩ですね!でっかい! 岩の反対側にはこんな梵字が刻まれていました。↓ ↑ 岩に登って大阪方面を望むとこんな感じです。 岩が絶壁になってるので怖くて足がすくむよ~。 ↑ これは上の巨岩とは別の石です。 ②機物神社は織女、中山観音寺は牽牛交野山のふもとには機物(はたもの)神社があります。 機物神社(2017年7月7日撮影)
ここから1kmほど西に天野川(天の川)と呼ばれる川があり、機物神社は天野川の向うにある中山観音寺跡(観音山公園)と天野川をはさんで対面しています。 といっても、観音山公園と機物神社はかなり距離が離れていますが~
上の地図の東側、第二京阪道路とJR片町線が交差するあたりに機物神社が、西側香里ヶ丘中央公園の南あたりに中山観音寺跡があります。 5kmほど離れているかな? 郡津駅の西側を南北に流れる川は天野川です。
天野川は天上の天の川を、中山観音寺はアルタイル(牽牛星)を、機物神社はベガ(織女星)を表すものとされ 天野川には牽牛と織姫が年に一度逢瀬を楽しむという合逢橋もあります。

中山観音寺跡 2017年7月7日撮影
参照/観音山公園 機物神社 七夕祭 『山上憶良と山之上』
この中山観音寺跡に牽牛石という石があります。
牽牛石
③観音岩は織女石?
7月7日に機物神社へ参拝したとき、神社の関係者の方に聞いてみました。 「中山観音寺には牽牛石がありますが、機物神社には織女石はないんですか」と。 「そういうものがあると聞いたことはないですねえ~」とお答えいただきました。 境内を探してみても、それらしいものは見つかりません。 でも、牽牛石があるなら織女石もあってしかるべきじゃないでしょうか。
もしかして、交野山の観音岩が織女石なんだったりして?
1枚目の写真とは違う場所から交野山を撮影。ちょっとわかりにくいけど、山頂に観音岩が見えています。
④大きな女神と小さな男神
ずいぶん大きさが違うやんって?
でも二月堂には大観音と小観音があって、かなり大きさが異なりますが、一対のものとされています。
え、なになに? 女の織女石のほうが男の牽牛石より大きいのっておかしいやんって?
少彦名神と大穴持命(大国主の別名)がきょうだいの契りをかわしてともに国造りをしたという神話があります。 少彦名神はががいもの実をふたつ割りにした船にのり、みそささいという小鳥の皮を着ていた小さな神様です。 神名に彦とあるので男神なのでしょう。
それに対して大穴持命はその神名から巨人のように思われますが、大穴持命・・・大きな穴を持つ神とは女神だと思います。
大穴持命は大国主神の別名です。 大国主神は男神ですが、日本の神は性別がルーズです。
能「三輪」では三輪明神は女神として登場しますし(記紀神話では男神)、聖徳太子が親鸞の夢の中に現れて「私が女に生まれ変わってあなたの妻になりましょう」と言ったという話もあります。
男神は荒魂(神の荒々しい側面)を、女神は和魂(神の和やかな側面)をあらわすとする説があります。
和魂である女神を大きく、荒魂である男神を小さくすることで、疫病や天災などを鎮めようとしたのではないでしょうか。
まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
 にほんブログ村
[2017/12/07 15:00]
大阪府 |
トラックバック(-) |
コメント(-)
京都市左京区 妙満寺 2017年12月初旬撮影
①安珍・清姫の鐘
平安時代の「大日本国法華験記」や「今昔物語集」に安珍・清姫の物語が記されています。
醍醐天皇の御代の928年、奥州白河より僧侶の安珍が熊野詣でにやってきて紀伊国牟婁郡真砂の庄司・清次に宿を借りました。 清次の娘・清姫はイケメンの安珍に一目ぼれし、夜這いしてしまいます。 「おやめくだされ。私は修行中の身。しかし帰りには必ずここへ立ち寄りましょう。」 安珍はそういって出て行きましたが、熊野詣をしたあと、立ち寄らないまま行ってしまいました。 怒った清姫は安珍を追いかけていき、上野の郷で安珍に追いつきました。 しかし安珍は熊野権現の力を得て清姫を金縛りにし、逃げ出してしまいます。 怒り狂う清姫は蛇に姿を変え、口から火を噴きながら安珍を追いかけます。 道成寺に逃げ込んだ安珍は寺の者に梵鐘をおろしてもらいその中に隠れました。 清姫は鐘に巻き付き、安珍は鐘の中で焼き殺されてしまいました。 清姫は蛇の姿のまま入水しました。
この物語から400年ほどたった1359年、道成寺は鐘を再興しました。 しかし白拍子があらわれて鐘供養を妨害しました。 そのせいかこの鐘は音が悪く、また災害や疫病をもたらしたため、山に捨てられました。 さらに200年ほど後、豊臣秀吉が根来攻めを行い、秀吉の家臣・仙石秀久が山でこの鐘をみつけ、戦利品として京都へ持ち帰りました。 そして清姫の怨念をとくため、法華宗総本山の妙満寺に鐘を奉納したといわれます。 また秀久は重くて持ち帰ることができず捨てたのを、誰かが拾って妙満寺に奉納したともつたわります。
安珍・清姫の鐘の写真はこちら→ http://myomanji.jp/midokoro02.htm

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ASekienDojoji-no-kane.jpg https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b8/SekienDojoji-no-kane.jpg よりお借りしました。 作者 Toriyama Sekien (鳥山石燕, Japanese, *1712, †1788) (scanned from ISBN 4-336-03386-2.) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
②怒ったイザナミがイザナギを追いかける。
怒る女が男を追いかけるという話は、イザナギとイザナミの神話を思い出させます。
イザナギは死んだイザナミを迎えに黄泉の国へ行きます。 イザナミは「黄泉の大王に相談してくるので、その間決して振り返って私の姿を見ないでください」といいました。 しかしイザナギは我慢できなくなってイザナミの姿を見てしまいます。 イザナミの体は腐り、蛆がわいていました。 おそろしくなったイザナギは逃げ、イザナミが追いかけますが、なんとかイザナギは逃げ切りました。
真砂の里では「安珍は清姫と結婚の約束をしていたが、清姫の蛇の姿を見て恐れて逃げた」とも伝えられているそうです。 これは「イザナギが、イザナミの腐って蛆がわいた姿を見て怖くなって逃げた」というのと似ていますね。
③熊野の国は根の国だった?
古事記によれば、イザナミが葬られた土地は出雲であり、あの世とこの世の境である黄泉平坂は出雲国の伊賦夜坂だとされています。 日本書紀では黄泉の国は「根の国」となっており、イザナミの墓は熊野有馬村の花の窟(花窟神社)としています。 根の国もまた熊野にあると考えられていたのではないでしょうか?
とすれば、熊野を逃げ回っていた安珍は根の国を逃げ回っていたということになり、ますますイザナギのイメージと重なります。
ただ結末は、イザナギが逃げ切ったのに対し、安珍は逃げ場のない鐘の中に自ら逃げ込んだために焼き殺されてしまっています。
逃げ切ったイザナギを陽、逃げきれなかった安珍の物語は、イザナギの話を陰に転じたものではないかと思います。
このようにある物語を陽から陰、または陰から陽へと転じた物語はたくさんあります。
例えば、イザナギ・イザナミは兄妹で契り国つくりをし、国つくりの途中でイザナミが死んで黄泉の国へ行ってしまいますが 大国主と少彦名神はきょうだいの契りを交わして国つくりをしますが、国つくりの途中で少彦名神は常世の国へ行ってしまいます。
陰 | イザナギ・イザナミは兄妹で契って国造りをする。国造りの途中でイザナミが死ぬ。イザナミは黄泉の国(地獄)へ行く。 | 陽 | 大国主と少彦名神はきょうだいの契りを川市て国造りをする。国造りの途中で少彦名神が死ぬ。少彦名神は常世の国(天国)へ行く。 |
陽 | イザナギはイザナミの姿を見ておそろしくなって逃げる。なんとか逃げ切った。 | 陰 | 安珍は清姫の姿を見ておそろしくなって逃げる。つかまって殺された。 |
まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
 にほんブログ村
[2017/12/05 14:52]
京都府 |
トラックバック(-) |
コメント(-)
京都市東山区 妙法院 法住寺 後白河天皇陵 智積院 方向寺 豊国神社 耳塚 2017年 11月28日 撮影  妙法院 ①後白河法皇院政の地妙法院は後白河法皇の院御所・法住寺殿の跡地にあります。 後白河法皇はここで院政をとっていたのですね。 付近には法住寺というお寺もあり、その裏手には後白河天皇陵があります。 法住寺
後白河天皇陵法住寺の西には三十三間堂がありますが、三十三間堂は法住寺の中の一堂でした。 三十三間堂 通し矢(撮影は10年以上前の1月)近くにある新日吉神社は法住寺殿の鎮守だったんですよ。もともとは現在地よりもう少し南にあったようですが。 新日吉神社②豊臣秀吉ゆかりの地のちに豊臣秀吉がここに方広寺を建立し、大仏を安置しました。19mもある巨大な像だったそうです。 方広寺ところが大仏が完成した翌年、慶長伏見地震がおこって大仏は倒壊していまいました。 近くには秀吉を祀る豊国神社や豊国廟もあります。 豊国神社
豊国廟参道豊国神社の西には耳塚があります。 豊臣秀吉が朝鮮出兵した際、討ち取った朝鮮や民の兵士の耳や鼻をそぎ取ったものが日本に持ち帰られました。 そしてそれらはここに葬られたのです。 耳塚妙法院の隣は現在は智積院ですが、もとは3歳でなくなった秀吉の子・鶴松の菩提を弔うために建てられた祥雲寺というお寺でした。 豊臣家を滅亡させた徳川家康が、この土地を玄宥という僧侶に与え、玄宥はもと紀州・根来にあった智積院をここに復興させたのです。 智積院 梅 『家康はなぜ玄宥に土地を与えたのか』 智積院家康はよほど秀吉が憎かったらしく、秀吉の神格化を塞ぐため、豊国廟の前に新日吉神社を置いて参道を塞いだりしています。(大人げない~) http://www5a.biglobe.ne.jp/~kazu_san/hyaku_taiko.htmこちらのサイトに図入りで説明があります。 また上のサイトによると、「妙法院は豊国廟の参道を封鎖するために新日吉神社を建てる。」とあります。 しかし新日吉神社はさきほども述べたように、法住寺の鎮守で現在地より南にあったのを、移転させたと聞いたことがあります。 たぶん、こちらの方が正しいと思います。 それはそうとして、ここに妙法院の名前があるのが気になりますね。 妙法院が新日吉神社を移転させたのかもしれませんね。 妙法院は皇皇族が住職を務める門跡です。 その妙法院が徳川家康と手を組んで、秀吉の神格化を潰したということなのかも? ③6本の牙がある象えー、ここからが本題です。(汗) 妙法院の本尊は象に乗った普賢菩薩像です。 普賢菩薩は女人成仏を説く法華経に登場するため、女性から厚く信仰されました。 普賢菩薩が乗っている象には牙が6本あります。 この象を見ていると、お釈迦様のお母さま・摩耶夫人の伝説を思い出します。 摩耶夫人はヴァイシャーカ月に6本の牙がある白い象が胎内に入る夢を見て、お釈迦様を身ごもったというのです。 そしてルンビニーの園でアショーカ樹(沙羅双樹とも伝わります)を摘もうとして手を伸ばしたところ、右脇からお釈迦様が生まれたと。 子供は両脚の間から生まれてくるものですが、余りにリアルに表現するのもアレだよな、ってことで腕と腕の間・・・といっても腕と腕の間には胴体があるので、脇(腕の付け根)から生まれたと表現したのかな? 普賢菩薩は金剛手菩薩とも呼ばれますが、名前に「金剛手」とあるのは、お釈迦様が摩耶夫人の腕(手)の間〈脇)から生まれたこと関係があったりして? 象に6本の牙がある点も、摩耶夫人を思わせますね。
妙法院
まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
 にほんブログ村
[2017/12/03 20:58]
京都府 |
トラックバック(-) |
コメント(-)
| HOME |
次ページ≫
|