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平等院 紅葉 『紫式部がめぐりあった幼友達は誰?』 

京都府宇治市 平等院
2017年11月28日 撮影


平等院 門2 

①藤原道長の宇治殿


平等院はもとは貴族の別荘で、持ち主は次のように変わっていきました。

源融→宇多天皇→源重信→藤原道長

藤原道長の別荘は宇治殿と呼ばれていましたが、1027年に道長が没したあと、道長の子・藤原頼通が宇治殿を寺院としました。

平等院 門

②一家立三后

藤原 道長(?~1028年)は藤原兼家の5男として生まれましたが、兄・道隆は大酒、道兼が伝染病で相次いで亡くなり、道隆の嫡男・伊周をおさえて左大臣となりました。

道長には6人の娘があったようですが、そのうち長女・彰子は一条天皇の皇后となり、二女・妍子は三条天皇の中宮、四女の威子は後一条天皇の中宮となりました。
藤原実資は『小右記』に、「一家立三后、未曾有なり(一家で3人の后を出すのは前代未聞)」と記しています。
参照/石山寺 雪 『親指を隠すおまじない』 

また六女の嬉子は敦良親王に入侍し、のちに敦良親王はご朱雀天皇となりました。

平等院 鳳凰堂 

③望月の 欠けたることも なしと思へば

威子の立后の日、道長は邸宅に大勢公卿を招いて祝宴を開き、こんな歌を詠みました。

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
(この世は 私のためにある 満月のように、足りないものはなにもないのだから。)

すごい自信ですね。
なかなかこんな歌は詠めるものではありません。
それだけ道長の権力が強力なものだったということでしょう。

平等院 鳳凰堂2


④藤原道長と紫式部は愛人関係だった?

藤原道真は紫式部に要請して、一条天皇の中宮・彰子(道長の長女)に仕えさせています。
ふたりは知り合いだったんですね。

また紫式部日記1009年のところには、夜半に道長が紫式部の局をたずねて来たと記されています。
紫式部は戸をあげなかったそうですが。
また道長は「源氏物語の作者ならば【すきもの】にちがいない」と言ったりもしているようです。

それで藤原道長と紫式部は愛人関係だったなんて説もあるみたいですね。

 平等院 鳳凰堂

⑤めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに


百人一首に紫式部のこの歌が採られていますね。

めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲隠れにし 夜半()の月かげ/紫式部

(めぐり逢って、見定めることもできないうちに、雲隠れしてしまった夜半の月よ。)

詞書には次のようにありますよ。

早うより、童友だちなしり人に、年ごろ経て行きあひたるが、ほのかにて、七月十日のほど、月にきほひて帰りにければ。

早くから幼友達であった人に(この人は地方にいたのだがこのほど帰京したので)、
数年を経てめぐり逢ったのが、その友とはっきり確かめられなかった。
ときは初秋七月十日のころ、友は早くに沈む月と競うように慌ただしく帰ってしまったので

現代語訳はこちらのサイトから引用させていただきました。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~heian/kenkyu/murasaki-sikibu/kashu/1-19/1-2.htm

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/musikibu.html
上のサイト(千人万首 紫式部》も読みましたが、紫式部がいつこの歌を詠んだのかは明記されていないようです。

平等院 鳳凰堂 

⑥十日盆

詞書に「七月十日のほど、月にきほひて帰りにければ」とありますが、7月10日は旧暦の十日盆です。


①『四国の民間信仰」(k3851/I1)
113頁 「孟蘭盆」言葉はあるが、意味・内容が違う。
「七月十日ころは墓の壮司をする。西讃地方では、「十日盆」といい、伊吹島では「十日の墓詣り」といっている。」



④『香川県三豊郡三野町民俗誌』(K3827/K1)
51頁~「盆の行事」
「七月十日までに墓掃除をしたり墓へ行く途中の草を刈る。七月十日はトオカボンと言った。
十日には団子を作るが、その団子は両側は凹ませてある。
サラボトケのある家へは親類から扇子と手拭いを持って行く。
サラボトケの家であオモテにショウロダナを作る。そしてショウロダナへは綱をわたして手拭をつるし・・・」
52頁~「盆の十日からが仏さんの盆であるが・・・」
79頁「ハツセガケとミノヒ」
「初盆には・・・旧七月十日に灯篭つり、座敷のクチにセガケダナを設ける。・・・」→新仏と同じ旧暦7月10日。

⑤『三野町の民俗』(K3827/M2)
164頁「ハッセカゲとイノヒ」④と同じ内容。
185頁~「盆の行事」→186頁「トポカボン(初盆)」の項あり。
内容的には④と同じだが詳しい。
「特に真言宗の家ではサラボトケ新仏のある家は・・・」風習について詳しく記述。

⑥『伊吹島の民俗』(K3827/T1)
154頁「七月十日の墓参り」
「市誌によると、今では8月10日になっているが、ふだん忙しくて墓参りできない人もこの日お墓詣りするとご利益があるといわれる。」
174頁



⑩『泉湧く里 四国讃州仲多度郡』(K3826/M2)
152頁「十日盆(八月十日)」

西讃岐地方特に三野、高瀬町を中心に旧暦の7月10日あるいはその日までに墓掃除をし、新仏のある真言宗の家ではショウロウダナを創るなどニイボンとして特別にお参りした。現在では8月10日に行っているよう。
⑤が最も詳しい。

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000137010 より引用

平等院 鳳凰堂3

⑦紫式部の幼友達は初盆で戻ってきた道長の霊だった?

もしかして、紫式部の幼友達はすでに亡くなっていて、初盆で7月10日にその霊がこの世へ戻ってきたが、月のように雲隠れしてしまったという意味だったりして?

そして雲隠れしてしまった月と比喩される紫式部の幼友達とは「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠んだ道長では?

道長は万寿4年12月4日(1028年1月3日)に亡くなっています。
紫式部の生没年は不明ですが、1014年、1016年、1017年、1019年、1025年、1031年の6つの説があります。

1031年説は、角田文衛さんによるもので、『続後撰集』に1030年に詠んだ紫式部の歌が確認できることを根拠としています。
もしも紫式部の前におぼろに姿を著した月が藤原道長の霊であるならば、道長の初盆(十日盆)は1028年となり、このとき紫式部は生きていたと考えられるので紫式部の没年は1031年説が有力?

平等院 

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[2017/11/30 10:23] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)