Author:佳音
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京都市右京区 天龍寺2017年11月18日 撮影
①庭園を上から見ると?庭園って、上から見たらどんな形になっているのかが気になります。龍安寺石庭の石のレイアウトはカシオペア座を左右逆転した形になっています。(参照/龍安寺 石庭 枝垂れ桜 『龍安寺石庭はカシオペアを模したものだった?』 )奈良・大乗院庭園の池は東北地方の形になっています。(参照/旧大乗院庭園 百日紅 『大乗院庭園は東北を模して作られている?』 ) ②梵字池奈良県には、秦楽寺(田原本町)のア字池、与楽寺(広陵町)のウン字池、本光明寺にはバン字池があるそうです。ア、ウン、バンというのは梵字です。秦楽寺 ア字池 ↓ ↑ ヘタクソですが書いてみました。なるほど、秦楽寺のア字池は梵字の「ア」を象ったものだというのがよくわかります。与楽寺のウン字池 ↓ ウン字池は南を上にしてみるのが正しいようです。梵字のウンを逆さまにすると、池の形が、それっぽい形にみえますね。③曹源池はバザラのザラ?天龍寺の曹源池を見てみましょう。 https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9505574.html↑ こちらのページに「オン バ ザラ アラ タンノーオンタラク ソワ カ」という真言の梵字表記が掲載されていました。この「バ ザラ」の部分を書いてみました。 なんとなく、ザラに似ているような気がしますが、こじつけっぽいですか? ④バサラの流行室町時代初期(南北朝時代)に『ばさら』というスタイルが流行していました。この『ばさら』の語源が真言の『バサラ(バ ザラ)』なのかどうかわからないんですが~(汗)身分秩序を無視して実力主義的であり、公家や天皇といった名ばかりの時の権威を軽んじて嘲笑・反撥し、奢侈で派手な振る舞いや、粋で華美な服装を好む美意識であり、室町時代初期(南北朝時代)に流行し、後の戦国時代における下剋上の風潮の萌芽ともなった。~略~語源は、梵語(サンスクリット語)で「vajra (伐折羅、バジャラ)= 金剛石(ダイヤモンド)」を意味する。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B0%E3%81%95%E3%82%89 より引用 ⑤バサラ大名そしてこの時代、バサラ大名と呼ばれる人々がいました。高師直(源氏足利将軍執事、守護大名)佐々木道誉(近江国守護大名)土岐頼遠(美濃国守護大名)などです。 ⑥土岐頼遠、光厳上皇の牛車を蹴倒す1342年、土岐頼遠が光厳上皇の牛車に会い、「院と言うか。犬というか。犬ならば射ておけ」と罵って牛車を蹴倒す(矢を射たとも)という事件を起こしました。足利尊氏の弟・足利直義が土岐頼遠の逮捕を命じました。室町幕府はバサラを禁じていたのですね。土岐頼遠は臨川寺に逃れ、僧の夢窓疎石に助命を請いました。また、あちこちから「土岐頼遠を許してやってほしい」という声があがったようです。それを受けて足利直義は「国師(夢窓)の口添えならば頼遠は厳罰とするが土岐子孫は許す」と言い、土岐頼遠は斬首となりました。 ⑦後醍醐天皇の怨霊をバサラ大名で封じる?天龍寺の開基は足利尊氏、開山は夢窓疎石で、南朝を開いた後醍醐天皇を弔うために建てた寺でした。後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒して建武の親政を行ったのですが、足利尊氏が離反して後醍醐天皇がいるにもかかわらず光明天皇を擁立してしまったのです。(北朝)これに対して後醍醐天皇は南朝を開き、南北の朝廷が対立するようになっていきました。おそらく足利尊氏は、後醍醐天皇の怨霊を怖れて天龍寺を建てたのだと思います。そして天龍寺の庭は夢窓疎石が作ったものです。土岐頼遠が助命嘆願した僧侶がこの人でしたね。後醍醐天皇の怨霊をバサラ大名をイメージする梵字「ザラ」で封じる。夢窓疎石はそういう呪術的な意味合いから、曹源池を作ったんだったりして? まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!にほんブログ村
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