京都市東山区 今熊野観音寺
2017年11月19日 撮影
①後白河上皇は頭痛持ちだった1160年、後白河上皇がこの地に熊野権現を勧請し、今熊野観音寺のご本尊・十一面観音を熊野権現の本地仏としたと伝わります。
(本地垂迹説。日本古来の神々は、仏教の神々が衆上を救うために仮にこの世にあらわれたものであるとする考え方のこと。
神のもともとの正体であるみほとけのことを本地仏、みほとけが仮の姿をとって現れた日本古来の神々のことを垂迹といいます。)
そして今熊野観音寺にはこんな伝説が伝えられていますよ。
後白河上皇は頭痛持ちでしたが、今熊野観音寺の観音様の夢のお告げによって頭痛が治りました。
②後白河にお告げをした観音様あれ?どっかで聞いたような話ですね?
そうそう、三十三間堂にこんな伝説があるんでしたね。
後白河法皇は観音様より次のような夢のお告げを受けました。
『あなたの前世は熊野にあった蓮華坊という僧侶でした。
その蓮華坊の髑髏が岩田川の底に沈んでおり、髑髏を貫いて柳の木が生えていて、風が吹くと柳の木が揺れて髑髏にあたるので上皇の頭が痛むのだ』と。
早速川を調べさせたところ、髑髏が見つかりました。
上皇はその髑髏を三十三間堂の千手観音の1体の尊像に塗り込め、さらにその柳の木を伐って、京へ運び、三十三間堂の梁としました。
そうしたところ、上皇の頭痛は平癒しました。
参照/
三十三間堂 通し矢 『牛黄と柳の薬効』
三十三間堂 通し矢ということは三十三間堂の伝説に出てくる後白河上皇にお告げをした観音様とは、今熊野観音寺の十一面観音だということになりますね。
③34回に及ぶ熊野御幸907年に宇多法皇が熊野御幸を行って以来、歴代の上皇が熊野御幸を行うようになりました。
白河上皇は9回、鳥羽上皇は21回、後鳥羽上皇は28回の熊野御幸を行っています。
最多は後白河上皇の34回です。
三十三間堂の1002体の千手観音像といい、34回に及ぶ熊野御幸といい、後白河上皇はなにごとも徹底してやる人だったようですね。
④後白河、二条が即位するまでの中継ぎで即位する。後白河上皇についてもう少し詳しくみてみましょう。
1127年、後白河は鳥羽上皇と中宮・藤原璋子の第四皇子として生まれました。
このときの天皇は後白河の同母兄の崇徳でしたが、実際の政治は祖父の白河法皇がとってました。
後白河は大変な遊び人だったようで、『愚管抄』によれば、鳥羽上皇は後白河を『即位の器量ではない』と言ったとあります。
崇徳天皇は名目上は鳥羽天皇の第一皇子で母は藤原公実女の中宮璋子(待賢門院)とされています。
しかし『古事談』によれば、崇徳天皇は鳥羽天皇の実子でなく、鳥羽天皇の祖父・白河法皇と待賢門院との間にできた子であったと記されてます。
白河は自分の女である待賢門院を孫の鳥羽に与えたのですが、そのとき待賢門院は白河の子を身籠っていたというのです。
鳥羽は崇徳を『父の弟にして子』と言う意味で『叔父子(おじご)』と呼んでいたといいます。
1129年、祖父・白川法皇が崩御して、鳥羽上皇が院政を行うようになりました。
1142年、鳥羽上皇は崇徳に退位を強要し、崇徳は異母弟の近衛天皇に譲位しました。
近衛は崇徳の養子として即位する予定でしたが、鳥羽によって発布された宣命には皇太弟と明記されていました。
さらに、崇徳から将来の治天の君の資格を剥奪するとも書かれていました。
そして崇徳が上皇となってからも、政治の実権は鳥羽が握っていました。
1155年、近衛天皇は17歳で崩御しました。
このとき、崇徳と左大臣藤原頼長(悪左府)が愛宕権現に祈願し近衛を呪詛したという噂がたちました。
崇徳は自分か、息子・重仁の即位を願っていましたが、鳥羽は後白河を即位させました。
実は鳥羽上皇は後白河の長子・二条を即位させたかったのですが、まだ幼かったため、中継ぎとして後白河を即位させたのです。
後白河の長子である二条は幼くして母親をなくしたために美福門院(得子)の養子となっていました。
それで二条は父親の後白河よりも美福門院との結びつきの方が強かったみたいなんですね。
鳥羽は美福門院を寵愛していましたし、美福門院がかわいがっている二条を即位させたいと考えたのでしょう。
「叔父子の崇徳め、呪詛するなんて許さん!放蕩息子の後白河を皇位につけるのも嫌だが、二条がまだ幼いので仕方ない。
後白河を中継ぎで即位させよう。」
と鳥羽が言ったかどうかしらないけど~。
105⑤保元の乱崇徳はついにブチ切れ、1156年、左大臣藤原頼長や平忠正、源為義らの武士を率いてクーデターを起こしました。(保元の乱)。
しかし、後白河側についた平清盛・源義朝らによって鎮圧され、崇徳は讃岐に流罪となってしまいます。
崇徳は讃岐で五部大乗経を写本し、反省の証に朝廷に差し出すが、後白河は受け取りを拒否し、写本を送り返してきました。
崇徳、またしてもブチ切れ!
自分の舌を噛み切り、その血で写本に次のように書き込んだと伝えられます。
『日本国の大魔縁となり、この経を魔道に回向(えこう)す。』
『皇を取って民とし民を皇となさん』と。
そして爪や髪を伸ばし続け、夜叉のような姿になったといわれます。
『保元物語』によれば、状況調査のために派遣された平康頼は『院は生きながら天狗となられた』と報告したと記されています。
⑥平治の乱保元の乱から2年後の1158年、後白河は予定通り二条に譲位しましたが、この後、後白河院政派と二条親政派が対立するようになります。
そして1159年、平治の乱がおこります。
『保元の乱』において平清盛と同様に活躍したのに、清盛の出世に比べて自分が冷遇されているのを不満に思っていた源義朝が起こしたクーデターですが、これに後白河院政派と二条親政派の対立がからみました。
乱は平清盛によって鎮圧され、こののち後白河院政派と二条親政派による二頭政治となっていきます。
1161年、平滋子は後白河の第七皇子、のちの高倉天皇を出産します。
後白河は高倉立太子を企てたがこれが発覚して、今度は後白河が政治の表舞台から排除されてしまいます。
ところが、1165年に二条天皇が崩御したことで、後白河院政派は息を吹き返しました。
摂関家と平氏は後白河院政派に鞍替えし、二条親政派は壊滅してしまいます。
⑦後白河の頭痛のタネこのように見てみると、後白河が頭痛持ちだったというのは、実は後白河には頭の痛い問題があった、それはわが子・二条天皇との対立だった、という意味じゃないかと思えてきます。
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[2017/11/21 13:18]
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