滋賀県湖南市 長寿寺
2017年11月中旬 撮影
白山神社
①白山信仰前回ご紹介した長寿寺の隣というか?境内?に白山神社があります。長寿寺の鎮守です。
長寿寺白山神社については結構たくさん記事を書いています。すごく気になる神社なんですね~♪
http://kntryk.blog.fc2.com/?q=%E7%99%BD%E5%B1%B1&charset=utf-8石川県白山市と岐阜県大野郡白川村にまたがって、標高2702mの白山があります。
白河郷からみた白山(向かって右の雪を被った山が白山)
②ククリヒメは括り姫?潜り姫?この白山に対する信仰を白山信仰といい、白山神社にはたいてい菊理姫(ククリヒメ)が祀られています。
イザナギは死んだイザナミを迎えに黄泉平坂に行きますが、腐って蛆がたかったイザナミの姿を見て恐ろしくなり、逃げ帰ってしまいます。
イザナミはこれに腹を立ててイザナギを追いかけますが、イザナギは黄泉平坂まで戻り、大きな石をおいてあの世とこの世の出入り口である黄泉平坂を塞ぎます。
そしてイザナギは「私がはじめ悲しみ、慕ったのは私が弱かったからだ」といいました。
すると泉守道者(よもつちもりびと)がイザナギにイザナミの言葉を伝えました。
「私はあなたと、すでに国を生みました。これ以上生む必要はないでしょう。私は黄泉の国にとどまります。あなたとは一緒に帰りません。
このとき菊理媛神が何か言いました。イザナギはこれをほめ、その場を去りました。(『日本書紀』の一書 第十)ククリヒメは何を言ったんですかね?気になりますが、発言の内容は記されていません。
ククリヒメは「ククリ」は「括る」で縁結びの神、「潜る」で水神とする説などあります。
白山神社
③ククリヒメは皇位継承の神?
ククリヒメから私は在原業平の有名な歌を思い出します。ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは(在原業平)
龍田川「ちはやぶる」・・・「神」にかかる枕詞です。
「神代も聞かず」・・・「神代にも聞いたことがない」
「竜田川」・・・奈良県生駒郡斑鳩町竜田あたりを流れる川。
「から」・・・「韓の国」や「唐土(もろこし)」
「くれなゐ」・・・「紅色」
ここまでは難しいところはありませんね。
問題は「水くくる」です。
「水くくる」には2つの解釈があります。
a.水を「括り染め」にした。→「神代にも聞いたことがない。竜田川が韓や唐土の衣の鮮やかな紅のように水を括り染めにするとは。」
b.水を潜った。→「神代にも聞いたことがない。韓や唐土の衣の鮮やかな紅に染まった紅葉の下を竜田川の水が流れていくとは。」
この在原業平の歌は在原業平の祖父・平城天皇の次の歌と対応していると思います。
龍田河 もみぢみだれて 流るめり 渡らば錦 なかや絶えなむ(平城上皇)(龍田川の上を紅葉が乱れて流れている。私が渡ると紅葉の錦がちぎれてしまうだろう。)
平城上皇は嵯峨天皇と対立して敗れ出家しています。(薬子の変)
これに連座したとして阿保親王は大宰府に流罪となりました。
10年以上たち、ようやく阿保親王は許されて京に戻りました。
そして阿保親王は自分の子供(在原行平・業平ら)の臣籍降下を願い出て許されています。
阿保親王は自分の子供たちを臣籍降下させることによって、反逆する気持ちがないことを示そうとしたのではないかと思います。
そして藤原高子が清和天皇の皇子として産んだ陽成天皇は在原業平の子であると言う説があります。
というのは伊勢物語に在原業平と藤原高子が駆け落ちするというシーンがあるからです。
龍田川のもみじは皇位継承の血筋の比喩だと思います。
「龍田川を渡る」とは「平城天皇が薬子の変をおこす」ことの比喩で「薬子の変をおこすと皇位継承の血筋が途切れてしまうだろう(私の子孫は皇位につけないだろう)」というのが歌の意味ではないでしょうか。
そして在原業平は、自分の祖父・平城上皇が薬子の変をおこして途切れた皇位継承の血筋が、陽成天皇即位によって括られると詠んだのだと思うのです。
詳しくはこちらの記事をお読みください→
龍田川 紅葉 『陽成天皇の父親は在原業平だった?』 ククリヒメは括り姫で皇位継承を括る(結びつける)神なのではないでしょうか?
④称徳天皇は天智系天皇にとっての皇位継承を括る神?長寿寺は聖武天皇の皇女誕生の際に七堂伽藍が整備されたといいます。
聖武天皇の皇女は3人いますが、そのうち阿倍内親王が即位して孝謙天皇(重祚して称徳天皇)となっています。
おそらく阿倍内親王誕生の際に長寿寺の七堂伽藍が整備されたのでしょう。
称徳天皇で天武系天皇の血筋が絶え、天智系天皇に変わったことは、こちらの記事に書いたとおりです。
長寿寺 紅葉 『長寿寺は孝謙(称徳)天皇誕生に伴って建立された?』 なるほど!称徳天皇は天智系天皇が皇位継承するきっかけになった神=括り姫だといえる。
それで長寿寺の鎮守に白山神社が勧請されたのだろうって?
白山神社⑤称徳天皇は阿倍仲麻呂と藤原光明子の子?うーん、そういうこともあるかもしれないけど
私は称徳天皇って阿倍仲麻呂と藤原光明子の間に生まれた娘ではないかと思ってるんです。
四つの船 早帰り来と しらかつく 我が裳の裾に 鎮ひて待たむ/孝謙天皇(のちの称徳天皇)
(四隻の船よ、早く帰ってくるように。しらかをつけたこの我が裳の裾に祈りをこめて待っています。)
大船に 真楫しじ貫き この吾子を 唐国へ遣る 斎へ神たち/光明皇后〈藤原光明子)
(大きな船にたくさんの櫂を取り付けて、わが子を唐へ遣わします。神々よ、護り給え。)
この二つの歌は、第12次遣唐使を送る際に詠んだもので、この遣唐使船が帰国する際、阿倍仲麻呂が乗船して日本に帰る予定になっていました。
帰国まぎわに阿倍仲麻呂は次のような歌を詠んでいます。
あまの原 ふりさけ見れば 春日なる みかさの山に いでし月かも/阿倍仲麻呂(夜空を仰ぎ見ると月が出ていた。奈良の都で三笠の山から上る月と同じ月なのだなあ。)
仲麻呂が乗った船は暴風雨にあい、結局仲麻呂は日本には戻れず唐でなくなるのですが~。
なら瑠璃絵で展示されていた遣唐使船
光明皇后の「光明」とは「暗闇を照らす光」のことをいいます。
暗闇を照らす光とは月のことではないでしょうか。
そして三笠山は春日大社の背後にあって春日大社とは関係が深そうに思えますが、春日大社は藤原氏の氏神、
光明皇后は藤原不比等の娘です。
「みかさの山に いでし月」とは光明皇后のことだと思えて仕方がないんですね~。
向かって右の濃い緑色に見える山が三笠山
そして孝謙天皇は聖武天皇と光明皇后の娘とされていますが、本当の父親は阿倍仲麻呂では?
孝謙天皇は阿倍内親王といい、阿部氏と関係がある女性のように思えるんですよね~。
⑥称徳天皇は蝦夷だった?
『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』には、称徳天皇は蝦夷の安倍一族の出身であると記されています。
当時、日本の東国には蝦夷と呼ばれるまつろわぬ民が住んでおり、朝廷はたびたび蝦夷征伐の軍を送っていましたが、あるとき、朝廷軍は蝦夷軍に大敗し、それによって蝦夷の安倍氏の血を引く彼女が次期天皇になると取り決められたというのです。
また東大寺の大仏建立に用いられた黄金は、彼女の縁で奥州から送られた、とも記されています。
東日流外三郡誌は後世の偽書とされており、その内容をそのまま信じることはできないんですが、気になる記述です。
白山神社 神殿
阿倍仲麻呂は蝦夷の安倍(阿倍)氏なのか?
そして私は称徳天皇(孝謙天皇/阿倍内親王)は阿倍仲麻呂の娘ではないかと考えているのですが、阿部仲麻呂が蝦夷だとすれば、称徳天皇もまた蝦夷だといえます。
これが正しければ、蝦夷の女性が皇位についたということになり、女性とはいえ、万世一系の建前が崩壊してしまいます。
ところが称徳天皇は急死して天智天皇の孫の光仁天皇が即位しました。
そのため称徳天皇は皇位継承を天皇家に戻した神、皇位継承を正しく括った神(阿倍氏が皇位継承せず、天皇家が皇位継承する)として信仰され、
その結果白山神社がここに勧請されたんだったりして?
詳しくはこちらの記事をお読みください→海龍王寺 雪柳 『光明皇后と阿倍仲麻呂のスキャンダル?』
白山神社 拝殿(向かって右)と 長寿寺本堂(向かって左)まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

にほんブログ村
[2017/11/17 00:00]
滋賀県 |
トラックバック(-) |
コメント(-)