京都市西京区 十輪寺
2010年10月下旬撮影
①藤原良房が明子の世継ぎ誕生を祈願した寺十輪寺の栞には次のような内容が記されています。
a.850年、文徳天皇の御后・藤原明子の世継ぎ誕生を祈願したところ、めでたく清和天皇が生まれたので、文徳天皇勅願所となった。
b.その後藤原北家の菩提所となった。
aの文章には「藤原明子の世継ぎ誕生を祈願した」のは誰なのか、主語がありません。
「文徳天皇勅願所」となったとあるので、「藤原明子の世継ぎ誕生を祈願した」のは文徳天皇であるとも読めます。
でも文徳天皇は清和天皇を皇太子にしたいとは思っていませんでした。
文徳天皇には紀静子とのあいだに惟喬親王(これたかしんのう)をもうけており、惟喬親王を皇太子にしたいと考えていたのです。
このことは源信の日記にはっきりと記されています。
しかし源信は藤原明子の父・藤原良房を憚って天皇をいさめ、その結果惟仁親王(清和天皇)が皇太子となったのです。
bに「その後藤原北家の菩提寺となった」とありますが、もともと十輪寺は藤原北家の菩提寺であり、藤原良房が藤原明子の世継ぎ誕生を祈願したと考えたほうが筋が通ると思います。
②在原業平が藤原北家の菩提寺に隠棲する?十輪寺は在原業平が隠棲したところであるとも伝わっていますが、これもちょっと信用しがたいです。
というのは在原業平は惟喬親王の寵臣であり、また紀有常(惟喬親王の母・紀静子の兄)の娘を妻としており、紀氏側の人間だったのです。
平家物語などに、藤原良房(藤原明子の父。清和天皇の祖父)と紀名虎(紀有常・紀静子の父。惟喬親王の祖父)がどちらの孫を皇太子にするかで壮絶なバトルを売り返したという話が記されています。
清和天皇が生まれたとき、紀名虎はすでに亡くなっていたので、この話は事実ではないんですが、藤原氏と紀氏が敵対していたことは事実でしょう。
紀氏側の在原業平が藤原北家の菩提寺に隠棲するとはちょっと考えづらいです。
十輪寺にはなりひら楓と呼ばれる楓があるんですが、この楓を擬人化して「業平が隠棲した」などと言っているのではないでしょうか?
(なりひら楓の写真を撮り忘れました~。すすすすいません!)
③塩竈清め祭
境内には業平が塩焼を楽しんだという塩釜があり、11月23日には塩竈清め祭が行われています。
私が十輪寺を訪れたのは11月23日だったんですが、残念ながら塩竈清め祭は終わったあとでした~(まぬけ)
塩釜清め祭では参拝者にもみじのてんぷらが授与されるとのことです。
なりひら楓の葉もてんぷらにするんでしょうか。
正月に飲むお屠蘇は「蘇という鬼を屠る」という意味だそうですが、なりひら紅葉のてんぷらを食うことで、なりひらの怨霊に打ち勝つという意味があるのではないかと思ったりします。
食うという言葉には「食物を摂取する」という意味のほかに、「相手を圧倒する」というような意味もありますね。
たとえば、「脇役に食われる」などと言ったりします。
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[2017/11/11 12:09]
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