①注意事項はプラカードなどに書いておけばそれでいいのでは?
毎年、秋になると京都の紅葉を見にいきたくなります。 観光客が多くて写真撮りにくいけど、「古都の美しい風景を見たい」というのは誰しも同じなんですね。 早朝から出かければ人気のない風景を撮れるんですが、早起きがどうしてもできないので仕方がない。(汗) でも大勢の観光客を見て「日本人は美しいものが好きな民俗なんだな」とちょっと嬉しくなったり このごろは外国の方も大勢おられるので「美しい日本の秋」を誇らしく思ったりもします。 写真の撮りにくさは、構図やアングルを工夫して、できるだけ人物が写らないようにしたり、レタッチで消したりするのもまた楽しいかなと。 ただ、どうしてもなじめないことがひとつあります。 それはお寺などの観光施設の人が大声で注意喚起することです。 こないだもあるお寺に行きますと、参拝するために入場制限しているんですね。 入場制限するのはいいと思います。 ただ、係の人が、列を作って待っている人たちに大声で怒鳴り続けるというのはどうかと。 携帯電話は絶対使えません。マナーモードにしておいてください。 撮影は禁止です。カメラはバッグの中にしまってください。 展示物には触らないでください。壁や柱にもたれかからないでください!言っていることは間違いではないです。 また言っている人は怒鳴っているつもりはないと思います。 でも、よく聞こえるようにと大声を張り上げるので怒鳴ってるように聞こえちゃうんですよ。 で、次から次へと人がやってきては列に並んでいくので、同じことを何度も繰り返します。 10分も聞き続けると、うんざりしてしまうだろうとは、お考えにならないのでしょうか? 待っている間中怒鳴り続けられる人の身になって、注意喚起の方法を考えたほうがいいのではないかと思うのです。 それに日本語だけだったので、外国の方には伝わっていないでしょうね。 日本人にだけ注意をして、外国の方には注意しなくていいということなのか。差別だなあ~。(笑) 天皇陛下やアメリカの大統領が参拝にやってきたとしても、こんな風に怒鳴るんですかね? たぶん怒鳴らないと思います。 一般人だから少々荒っぽく注意しても構わないと思って、怒鳴るのではないでしょうか。差別だなあ~。(笑) 注意事項はプラカードなどに、日本語・英語・中国語・韓国語で書いておくか、記号で示しておけば(カメラや携帯電話の絵に✕をしておくなど)それでいいのではないでしょうか。 そして待っている間は、お寺の縁起や見どころなどの説明でもしていただけると、待ち時間も退屈しないですみますね。 実際、そういうお寺もありますよ。 そういえば、あるイベントで「あと30分で消灯です」と連呼し続ける係員がいてうんざりしたこともありました。 たぶん「そうしろ」と言われてやってるんでしょうが、素敵な雰囲気にひたりたくてやってきたのにこれでは台無しです。 「まもなく消灯です」と書いた紙でも持って立っていてくれればそれでいいのにと思いました。 ②ちょっとうっかりしたからといって、そんなに怒らなくてもいいのでは?またうっかり携帯電話が鳴ったり、写真を撮る人がいたからといって激しく叱責することもないと思います。 ↓ こちらの記事に書いたようにカメラのフラッシュ(ストロボ)が美術品を劣化させるというのはどうやら迷信のようですし 東大寺大仏殿 仏像 夕景 『フラッシュが美術品を劣化させるというのは迷信だった?』 仏像や美術品などを撮影した写真をネット上にあげても、そんなに問題はないと思うのですが。 というか、むしろ仏像や美術品などの写真撮影は許可してどんどんネット上にあげたほうが、よい写真作品などが登場するなどの効果があっていいのではないかというのが私の考えです。 もちろん、撮影禁止とあるものをあえて撮影しようとは思わないですが。 それと携帯電話についてですが、あるときバスに乗っていたら、誰かの携帯電話が鳴って会話を始めたんですね。 バスの乗客は3人だけで、それぞれ離れて座っていたし、別に迷惑だとも思いませんでした。 ところがバスの運転手さんがものすごい剣幕で「電話するなら降りてください!」とおっしゃったので、 運転手さんの怒鳴り声のほうにびっくりして気分が悪くなってしまったということがありました。 「降りてください」とまで言わなくとも「電話はご遠慮ください」くらいでいいのではないかと思いました。 ③一般人のマナーを問う前になんか日本って一般人のマナーにやたらうるさすぎるような気がするんです。 ちょっと前にも運送会社の配達員さんのオーバーワークが問題になって、まるで利用者が指定時間に受け取らないのが悪いように報道されていましたね。 あるとき友人から電話があって「トウモロコシ送ったから食べてね。明日着くように送ったから。」と言ってくれたんです。 ところが私はその日から1週間旅行に行く予定で翌日に受け取ることができませんでした。 それで近所に住んでる親戚に受け取ってもらおうと思って運送会社に電話したんです。 だけど何度電話してもつながらない。 ようやくつながったのは翌日でした。 で、旅行から家に戻ってみると不在通知票が2枚も入っていました。 これって運送会社の連絡が不十分だということだと思います。 利用者のせいで配達員さんの仕事が増えてるんじゃないと思いましたね。 一般人のマナーをどうのこうのいう前に、運送会社のほうが、「自分たちのサービスの在り方は本当もこれでいいのか」と問うべきだと思いました。 観光施設も同じです。 仮にも参拝料とってるわけですから、参拝者を気持ちよくお迎えするということに気を配るべきではないのかなと思います。 携帯電話も写真撮影もokにしろ、と言っているわけではありません。 たとえば最近コンビニに行くと、トイレに「美しくご使用いただきありがとうございます」と張り紙がしてあるところが増えました。 ちょっと前だと「トイレは美しくご使用ください。」と張り紙がしてありましたね。 同じ意味なんですが、もちろん前者のほうが感じがいい。 そういう工夫をした方がいいんじゃないですか、と言っています。 なんか最近、お寺よりもコンビニの接客のほうが心があるなあ、と思ったりすることがありますよ。 ④状況を判断して融通することができない日本人あと日本人って状況を判断して融通することができないなあ~、と思うことがあります。 あるお祭りに行ったときのことなんですが、大勢の人が見物につめかけていて、前のほうに進むことができませんでした。 それで「終電に乗り遅れてもたいへんだし、もう帰ろう」と思って駅のほうに向かおうとしたら、警察の人がロープを張っていて駅のほうにいけない。 それで「駅に行きたいので、ここを通してください」と言ったのですが、「できません」と言われてしまいました。 「じゃあ、どうすればいいんですか」と聞くと「人込みをかき分けて祭会場付近まで行くと、右手にう回路がある」というのです。 はあ?人込みをかきわけて?? だけど、すごい人ですよ? そんなことしたら危ないじゃないですか? あっちの警察官は「押し合わないようにお進みください」って言ってますが、人を押しのけて前に行っちゃっていいんですか? ロープの向うにはう回路を回って駅に向かう人々が歩いていますが、別に込み合っているわけではありません。 ここから駅に歩いていったほうが、危なくなくていいと思うのですが? っていうか、なんでここ規制してるの? 規制計画の失敗でしょうね。 で、状況考えたら誰でもこの規制に意味がないことはわかると思う。 だけど、「規制する」と決めたから、絶対ここを通さない、というのです。 ⑤ローザンヌバレエコンクールは観客に注意しない。山岸凉子さんの漫画・テレプシコーラにこんな事が書いてありました。 日本のバレエコンクールでは拍手は禁止されているそうです。 拍手が禁止されている理由は、「身内などが大げさに拍手をすることが審査に影響してはいけない」ということらしいです。 それでもいい演技を見ると、思わず拍手してしまう人がいます。 それに対して係の人が「拍手はしないでください」とマイクで何度も連呼します。 ローザンヌバレエコンクールでも拍手は禁止されているそうですが、やはり拍手をしてしまう人がいます。 でもローザンヌでは日本のように「拍手はしないでください」と連呼せず、「観客が恥じて拍手をやめるのを待つ」というのです。 ローザンヌは 「禁止、禁止」と大声を張り上げても効果がないこと、 素晴らしい演技には拍手したくなるのが人情であること、 拍手したからといって叱責するほどのことでもないということ などがわかっているのではないでしょうか。 日本の観光施設は、やみくもに声をはりあげればいいというものではないという点を、ローザンヌに学んでほしいです。 ↑ すごいーー!これはたまらず拍手したくなっちゃう! ⑥本当はこんなこと言いたくないけど、言わないと伝わらないから。私は本当はこんなこと言いたくないんです。 歴史や民俗学の謎、トンデモ説について語っているほうがよほど楽しいです。 だけど、日本のテレビや新聞は、一般人のマナーについてはうるさすぎるほど報道しても、観光施設のマナーについてはほとんど語らないでしょう。 批判したりすると、取材させてもらえないですもんね。 なので、あえてここで語らせていただきました。 参拝者に心をつくしてもてなしてくださっている観光施設も数多く存じあげています。 そういった観光施設には、もしも気を悪くされたのであればお詫び申し上げます。 まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2017/11/27 16:55]
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大阪府島本町 水無瀬神宮 2017年11月23日 撮影
①政治的に不幸な死を迎えた天皇を祀る神社水無瀬神宮は1230年に創建された神社で、後鳥羽天皇・順徳天皇・土御門天皇を祀っていますよ。 石清水八幡宮 紅葉 『応神天皇は物部王朝の天皇だった?』 ↑ こちらの記事で次のように書きました。 武田邦彦さんが、「天皇は神として祀られているケースが多い」とおっしゃっていましたが その多くは明治以降の国家神道重視の政策の中で創建されたもので、(神武天皇を祀る橿原神宮・天智天皇を祀る近江神宮・桓武天皇を祀る平安神宮など) 古より神として祀られていた天皇はそんなに多くないと思います。
応神天皇は例外で、古くから八幡神として祀られていましたが、それは応神天皇が物部王朝の天皇であり、政治的に不幸な死を迎えた天皇(ニセモノの応神天皇に政権を奪われた)だからではないかと私は考えています。水無瀬神宮に祀られている後鳥羽天皇・順徳天皇・土御門天皇も政治的に不幸な死を迎えた天皇です。 それゆえ、古くから神として祀られていたのでしょう。 ②承久の乱
1221年、後鳥羽上皇は鎌倉幕府に対して承久の乱をおこしますが、敗れ、隠岐島に流罪とされました。 後鳥羽上皇の子・順徳上皇も佐渡島へ流罪。 やはり後鳥羽上皇の子である土御門上皇は承久の乱に関与していませんでしたが、自ら望んで土佐国へ遷りました。 ③ももしきや 古き軒端の しのぶにも順徳天皇が詠んだ歌が百人一首に採られています。 ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり
(宮の古い軒端の忍草のように、偲んでも偲びつくせない昔であることよ。)
※「ももしき」はもともとは、「大宮(神社・皇居)」にかかる枕詞でしたが、ここから転じて大宮そのものをさす言葉となりました。 この歌は1216年ごろに詠まれた歌です。 この5年後に承久の乱がおこっています。 ④藤原定家は言霊の力のある歌を百人一首に選んだ?御存知のように、百人一首は藤原定家が撰んだ百首の和歌です。 定家は言霊としての力がある歌を、いくつか百人一首に選んでいると思います。 言霊とは「口から発する言葉にはものごとを実現させる力がある」とする考え方のことです。 例えば持統天皇の次の歌を見てみましょう。 春すぎて 夏きにけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香久山 (春がすぎて夏がやってきたらしい。白い衣が天の香久山に干してあるそうなので。)
陰陽五行説では世の中全てのものは、木火土金水の5つの組み合わせで成り立つと考えます。 季節では、春=木、夏=火、秋=金、冬=水と考えられていました。 季節は4つなので、木火土金水のうち土が余ってしまいますね。 土は季節の交代をスムーズにするものと考えられ、各季節の最後の18~19日間を『土用』として均等に割り振られました。 そして持統天皇は天皇として初めて火葬された方です。 持統天皇の歌には表の意味のほかに、「春の土用が過ぎて、火性の夏になってしまったようです。私は天香久山に干されている揃い死に装束をまとい、夏の火性と同じように火葬されてしまうのですね。」 という裏の意味が隠されていると思います。 つまり生前に「春過ぎて 夏きにけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香久山」という歌を詠んだため、言霊の作用が働いて持統天皇は火葬されてしまった、と定家は考えたのではないでしょうか。 参照/ 藤原京跡 コスモス 蓮 『持統天皇が火葬されたわが身を嘆く歌』 よかったら下記の記事も読んでみてください♡ 大阪府咲洲庁舎展望台より 『元良親王と京極御息所の不倫の真相?』 龍田川 紅葉 『陽成天皇の父親は在原業平だった?』 近江神宮 かるた祭 かるた開きの儀 『秋の田の・・・は埋葬されないわが身を嘆く歌だった?』 東五反田 目黒川 イルミネーション 『ジョージ・マイケルと言霊』 ⑤順徳天の歌には言霊があった?順徳天皇の歌にも言霊があったといえます。 というのは、「ももしきや」の歌を詠んだのが承久の乱の5年前だからです。 順徳天皇はうっかり「 なほあまりある 昔なりけり(偲んでも偲びつくせない昔であることよ)」と歌を詠んでしまったために、流罪となって佐渡島に住むことになり、宮に住んでいたのは遠い昔になってしまったのです。 その後、順徳天皇は絶食し、自殺したと伝わります。 水無瀬神宮付近 まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2017/11/26 21:23]
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京都府八幡市 石清水八幡宮 2017年11月19日 撮影
①神武=崇神=応神?石清水八幡宮の御祭神の一、誉田別尊(ほんだわけのみこと)とは、第15代応神天皇のことです。 初代神武天皇、第10代崇神天皇、第15代応神天皇は同一人物だとする説がありますよ。 a.神武と崇神はどちらも和風諡号が「ハツクニシラス」といいます。 ハツクニシラスがふたりいるのはおかしい。よって、 神武=崇神。 b.応神天皇は神功皇后が三韓出兵した際、神功皇后のお腹の中にいました。 神宮皇后は朝鮮から九州の宇美に戻って応神天皇を出産します。 そして九州から畿内へ戻るのですが、そのルートが神武東征のルートと重なるので、 神武=応神。 c. 神武=崇神(a)かつ 神武=応神(b) ∴神武=崇神=応神神武・崇神・応神と諡号に神が付く天皇は3人だけです。 諡号に同じ神という漢字をもちいているのは、3人が同一人物であることを示す暗号なのかも? ②名前を交換することは政権交代を意味している?古事記にこんな話があります。 武内宿禰は応神天皇に禊をさせるため海岸に連れていきました。 その夜、武内宿禰の夢の中に伊奢沙和気大神が現れ、「御子と私の名前を交換してほしい」と言ったので、武内宿禰はこれを承知しました。 翌朝、海岸に行ってみると、たくさんの鼻を傷つけられたイルカがいました。 御子は「神様が御饌を下さった」と大喜びしました。 イルカの血で臭かったので、血浦となり、これが訛って角鹿(ツヌガ/現在の敦賀)となりました。うーん、これってもしかして政権交代を意味してないですかね? 伊奢沙和気大神とは福井県敦賀市の気比神宮に鎮座する神です。 応神天皇は伊奢沙和気大神となって気比神宮に祀られ、神饌として大漁のイルカがお供えされたという話なのでは? そして伊奢沙和気大神は応神天皇となり、ちゃっかり皇位についたということではないでしょうか? ③天皇家は伽耶出身?
角鹿(現在の敦賀)の地名の由来に関して、日本書紀は②とは別の話を記しています。 崇神天皇代、額に角の生えた意富加羅国(大加耶/大加羅)の王子・ツヌガアラシト(都怒我阿羅斯等)が船で笥飯浦にやってきました。 これが「角鹿(つぬが)」の語源です。 垂仁天皇代、ツヌガアラシトが帰国しようとした際、天皇はツヌガアラシトに「国名を御間城(崇神天皇の諱)」とするようにと言いました。 これが任那(弥摩那)の語源です。 そしてそのとき、天皇はツヌガアラシトに赤絹を与えましたが、これを新羅が奪いました。 これが新羅と任那の争いの始まりです。もしかして天皇家は加羅出身? これについてはもう少しじっくり考えてみたいと思います。 四天王寺ワッソに登場したツヌガアラシト④神武天皇以前、畿内には物部王朝があった?応神天皇と同一人物と思われる神武天皇は九州から東征して畿内入りするのですが、畿内には神武天皇よりはやくニギハヤヒという神が天下っていました。 ニギハヤヒは物部氏の祖神なので、神武天皇以前、畿内には物部王朝があったという説があります。 ニギハヤヒを神と奉じるナガスネヒコは神武と対峙しますが、ニギハヤヒはナガスネヒコをうらぎって神武につき、ナガスネヒコは神武に殺されたと記紀は記しています。 ここから神武天皇以前、畿内には物部王朝があったとする説があります。 余談となりますが、天皇制支持の方で、このニギハヤヒの存在について語られた方を、私は一人も存じ上げません。 ⑤卑弥呼は日女命=倭迹迹日百襲姫命でニギハヤヒの孫籠神社の系図によれば、始祖ニギハヤヒの9代目の孫に日女命(ひめのみこと)とあり、「またの名を倭迹迹日百襲姫命」とあります。 この日女命が魏志倭人伝に登場する卑弥呼ではないかといわれています。 また倭迹迹日百襲姫命の墓とされる箸墓は大きさが魏志倭人伝に記された卑弥呼の墓と同じぐらいです。 箸墓は前方後円墳ですが、魏志倭人伝は、卑弥呼の墓が前方後円墳だとは記していません。 しかし近年の研究でもともと円墳であったものを、前方後円墳に作り直した可能性が浮上しています。 ⑤神功皇后=卑弥呼
日本書紀の「神功皇后紀」39年条と40年条、43年条には魏志倭人伝から引用された箇所があります。 39年条「魏志によると、明帝の景初3年(239年)6月に倭の女王が大夫の難斗米などを派遣して、郡(朝鮮半島の帯方郡)に行き、天子に会いたいと朝献(朝廷に詣でる)した。太守の鄧夏は吏を派遣して、京都(洛陽)に詣でた」
40年条「魏志によると、正始元年(240年)に建忠校尉(文官)の梯携たちを派遣して詔書印綬を奉じ、倭国にもたらした」
43年条「魏志によると、正始4年(243年)に倭王はまた使者の大夫の伊聲者掖耶約たち8人を派遣して献上した」
http://fushigi-chikara.jp/sonota/6883/ より引用(ありがとうございます!)
我々の先祖は魏志倭人伝を読んでおり、魏志倭人伝に登場する卑弥呼とは神功皇后のことであると考えていたのですね!
私は神宮皇后とは卑弥呼をモデルに創作された人物で、実在していなかったのではないかと思います。 そして10代崇神天皇の叔母で箸墓に葬られた倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼だと思うので 卑弥呼=日女命(ニギハヤヒの9代目の孫)=倭迹迹日百襲姫命(籠神社の系図に日女命の別名と記されている)=神功皇后 ということになると思います。

⑥応神天皇は二人いた?
すると神功皇后とはニギハヤヒの9代目の孫・日女命のことであり、ニギハヤヒは物部氏の祖なので、神功皇后は物部王朝の女王ということになります。 そして神功皇后の御子である応神天皇もまた物部王朝の王であったということになりますが、イザサワケと名前を交換して(政権交代して)しまった?
もともとのイザサワケとは天皇家の人間だったのではないでしょうか。 ところが物部王朝の応神天皇がイザサワケとなり、天皇家のイザサワケが応神天皇とすり替わってしまったのでは?
言い換えれば、物部王朝の応神天皇と、天皇家の応神天皇、ふたりの応神天皇がいたのではないかということです。
⑦八幡神は物部王朝の応神天皇?
八幡神は天皇家の応神天皇ではなく、物部王朝の応神天皇だと思います。 八幡宮にはたいてい神功皇后も祀られていますが、彼女も物部王朝の女性だと考えられますので。
また、日本には怨霊信仰がありました。 怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、疫病や天災は怨霊の祟りで引き起こされると考えられていました。 そこで怨霊が祟らぬように神として祭ったのです。 そのため、「古には神と怨霊は同義語だった」などとも言われますよ。
戦国時代には「神とは立派な人物である」と考え方が変化してきたようで、豊臣秀吉や徳川家康は自ら死後、神として祀られることを望みました。
しかしそれよりも昔、神として祀られた人物は、 藤原広嗣(藤原広嗣の乱をおこして処刑される)、 伊予親王(クーデターを企てたとして幽閉され、毒を飲んで死亡)、 早良親王(クーデターを企てたとして幽閉され、ハンガーストライキを行って死亡)、 菅原道真(藤原時平の讒言によって大宰府に左遷され死亡)、 平将門(平将門の乱を起こし朝廷軍と戦って死亡)、 藤原純友(藤原純友の乱を起こし朝廷軍と戦って死亡)など政治的に不遇だった人物ばかりです。
武田邦彦さんが、「天皇は神として祀られているケースが多い」とおっしゃっていましたが その多くは明治以降の国家神道重視の政策の中で創建されたもので、(神武天皇を祀る橿原神宮・天智天皇を祀る近江神宮・桓武天皇を祀る平安神宮など) 古より神として祀られていた天皇はそんなに多くないと思います。
応神天皇は例外で、古くから八幡神として祀られていましたが、それは応神天皇が物部王朝の天皇であり、政治的に不幸な死を迎えた天皇(ニセモノの応神天皇に政権を奪われた)だからではないかと私は考えています。
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[2017/11/22 17:56]
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京都市東山区 今熊野観音寺 2017年11月19日 撮影
①後白河上皇は頭痛持ちだった1160年、後白河上皇がこの地に熊野権現を勧請し、今熊野観音寺のご本尊・十一面観音を熊野権現の本地仏としたと伝わります。 (本地垂迹説。日本古来の神々は、仏教の神々が衆上を救うために仮にこの世にあらわれたものであるとする考え方のこと。 神のもともとの正体であるみほとけのことを本地仏、みほとけが仮の姿をとって現れた日本古来の神々のことを垂迹といいます。) そして今熊野観音寺にはこんな伝説が伝えられていますよ。 後白河上皇は頭痛持ちでしたが、今熊野観音寺の観音様の夢のお告げによって頭痛が治りました。 ②後白河にお告げをした観音様あれ?どっかで聞いたような話ですね? そうそう、三十三間堂にこんな伝説があるんでしたね。 後白河法皇は観音様より次のような夢のお告げを受けました。 『あなたの前世は熊野にあった蓮華坊という僧侶でした。 その蓮華坊の髑髏が岩田川の底に沈んでおり、髑髏を貫いて柳の木が生えていて、風が吹くと柳の木が揺れて髑髏にあたるので上皇の頭が痛むのだ』と。 早速川を調べさせたところ、髑髏が見つかりました。 上皇はその髑髏を三十三間堂の千手観音の1体の尊像に塗り込め、さらにその柳の木を伐って、京へ運び、三十三間堂の梁としました。 そうしたところ、上皇の頭痛は平癒しました。
参照/ 三十三間堂 通し矢 『牛黄と柳の薬効』 三十三間堂 通し矢ということは三十三間堂の伝説に出てくる後白河上皇にお告げをした観音様とは、今熊野観音寺の十一面観音だということになりますね。 ③34回に及ぶ熊野御幸907年に宇多法皇が熊野御幸を行って以来、歴代の上皇が熊野御幸を行うようになりました。 白河上皇は9回、鳥羽上皇は21回、後鳥羽上皇は28回の熊野御幸を行っています。 最多は後白河上皇の34回です。 三十三間堂の1002体の千手観音像といい、34回に及ぶ熊野御幸といい、後白河上皇はなにごとも徹底してやる人だったようですね。 ④後白河、二条が即位するまでの中継ぎで即位する。後白河上皇についてもう少し詳しくみてみましょう。 1127年、後白河は鳥羽上皇と中宮・藤原璋子の第四皇子として生まれました。 このときの天皇は後白河の同母兄の崇徳でしたが、実際の政治は祖父の白河法皇がとってました。 後白河は大変な遊び人だったようで、『愚管抄』によれば、鳥羽上皇は後白河を『即位の器量ではない』と言ったとあります。 崇徳天皇は名目上は鳥羽天皇の第一皇子で母は藤原公実女の中宮璋子(待賢門院)とされています。 しかし『古事談』によれば、崇徳天皇は鳥羽天皇の実子でなく、鳥羽天皇の祖父・白河法皇と待賢門院との間にできた子であったと記されてます。 白河は自分の女である待賢門院を孫の鳥羽に与えたのですが、そのとき待賢門院は白河の子を身籠っていたというのです。 鳥羽は崇徳を『父の弟にして子』と言う意味で『叔父子(おじご)』と呼んでいたといいます。 1129年、祖父・白川法皇が崩御して、鳥羽上皇が院政を行うようになりました。 1142年、鳥羽上皇は崇徳に退位を強要し、崇徳は異母弟の近衛天皇に譲位しました。 近衛は崇徳の養子として即位する予定でしたが、鳥羽によって発布された宣命には皇太弟と明記されていました。 さらに、崇徳から将来の治天の君の資格を剥奪するとも書かれていました。 そして崇徳が上皇となってからも、政治の実権は鳥羽が握っていました。 1155年、近衛天皇は17歳で崩御しました。 このとき、崇徳と左大臣藤原頼長(悪左府)が愛宕権現に祈願し近衛を呪詛したという噂がたちました。 崇徳は自分か、息子・重仁の即位を願っていましたが、鳥羽は後白河を即位させました。 実は鳥羽上皇は後白河の長子・二条を即位させたかったのですが、まだ幼かったため、中継ぎとして後白河を即位させたのです。 後白河の長子である二条は幼くして母親をなくしたために美福門院(得子)の養子となっていました。 それで二条は父親の後白河よりも美福門院との結びつきの方が強かったみたいなんですね。 鳥羽は美福門院を寵愛していましたし、美福門院がかわいがっている二条を即位させたいと考えたのでしょう。 「叔父子の崇徳め、呪詛するなんて許さん!放蕩息子の後白河を皇位につけるのも嫌だが、二条がまだ幼いので仕方ない。 後白河を中継ぎで即位させよう。」 と鳥羽が言ったかどうかしらないけど~。 105⑤保元の乱崇徳はついにブチ切れ、1156年、左大臣藤原頼長や平忠正、源為義らの武士を率いてクーデターを起こしました。(保元の乱)。 しかし、後白河側についた平清盛・源義朝らによって鎮圧され、崇徳は讃岐に流罪となってしまいます。 崇徳は讃岐で五部大乗経を写本し、反省の証に朝廷に差し出すが、後白河は受け取りを拒否し、写本を送り返してきました。 崇徳、またしてもブチ切れ! 自分の舌を噛み切り、その血で写本に次のように書き込んだと伝えられます。 『日本国の大魔縁となり、この経を魔道に回向(えこう)す。』 『皇を取って民とし民を皇となさん』と。 そして爪や髪を伸ばし続け、夜叉のような姿になったといわれます。 『保元物語』によれば、状況調査のために派遣された平康頼は『院は生きながら天狗となられた』と報告したと記されています。 ⑥平治の乱保元の乱から2年後の1158年、後白河は予定通り二条に譲位しましたが、この後、後白河院政派と二条親政派が対立するようになります。 そして1159年、平治の乱がおこります。 『保元の乱』において平清盛と同様に活躍したのに、清盛の出世に比べて自分が冷遇されているのを不満に思っていた源義朝が起こしたクーデターですが、これに後白河院政派と二条親政派の対立がからみました。 乱は平清盛によって鎮圧され、こののち後白河院政派と二条親政派による二頭政治となっていきます。 1161年、平滋子は後白河の第七皇子、のちの高倉天皇を出産します。 後白河は高倉立太子を企てたがこれが発覚して、今度は後白河が政治の表舞台から排除されてしまいます。 ところが、1165年に二条天皇が崩御したことで、後白河院政派は息を吹き返しました。 摂関家と平氏は後白河院政派に鞍替えし、二条親政派は壊滅してしまいます。 ⑦後白河の頭痛のタネこのように見てみると、後白河が頭痛持ちだったというのは、実は後白河には頭の痛い問題があった、それはわが子・二条天皇との対立だった、という意味じゃないかと思えてきます。 まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2017/11/21 13:18]
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大阪市中央区 大阪城(大坂城) 2009年 11月下旬 撮影
大阪城
①豊臣大坂城の周囲は約約7.8km、江戸城の周囲は約15.8km大阪城はすごく広いです。 外周3kmぐらいあると思います。 レンタル自転車とかあったら移動が楽でいいのになあ~、と思うことがあります。 グーグルマップをみると堀がめぐらされている様子がわかりますね。 現在この堀がめぐらされている一帯は大阪城公園として整備されています。 大阪城は太閤さん(豊臣秀吉)の城といわれますが、現存する遺構は徳川氏によって作られたものがほとんどです。 徳川氏は豊臣秀吉がつくった大坂城を破壊し、盛り土をした上に新しい大坂城をつくったのです。 http://www.toyotomi-ishigaki.com/hideyoshi/index.html↑ こちらのサイトには、もともとの大阪城の規模は現在よりも広く、2km四方にもおよぶ大城郭だったと書いてあります。 城郭とは城、または城と郭(くるわ/城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域)の総称です。 江戸城はもっと大きかったんですよね。 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1291227312?__ysp=5rGf5oi45Z%2BOIOWkp%2BmYquWfjiDlpKfjgY3jgZU%3D↑ こちらのサイトには秀吉の築いた大坂城の総構えは周囲約7.8km、家光の寛永期で完成をした江戸城は内郭で約7.8km、外郭では約15.8kmで大阪城の2倍と書いてあります。 江戸城(皇居) ②城郭都市
江戸城、大坂城は城郭都市だといえるでしょう。 城郭都市とは、城壁・土塁・堀などで周囲を囲んだ都市のことです。  上の写真はスペイン・アビラの町です。 ウィキペディアよりお借りしました。https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Murallas_de_%C3%81vila.jpg?uselang=jaありがとうございます。 城壁で囲まれた中に民家がたくさんありますね。 このアビラも城郭都市です。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%8E%E9%83%AD%E9%83%BD%E5%B8%82上記ウィキペディアには城郭都市の説明の中に日本の「総構え」があり、 その例として江戸城・大坂城・名古屋城・姫路城・郡山城・広島城・彦根城・福岡城・長浜城・甲府城・金沢城・犬山城・伏見城・米沢城・長岡城・松江城・高知城があげられています。 大阪城③城下町を戦乱から防護する城郭都市ウィキペディアに次の様に記されています。 世界各国の大半の城郭都市は、城壁に囲まれた中に城と街が存在する。 それに対し、日本では堺や寺内町のような堀と土塁で囲まれた都市や町は早くから存在していたものの、初期の城下町では領主の居城のみが堀と城壁に囲まれ、街自体は城壁には囲まれていなかった。 しかし、日本においても城下町が発展すると、経済的および政治的価値が上昇し、それにともない城下町を戦乱から防護する必要性が生じた。 そのため町を堀と塁壁で囲む総構えの構築が増加してゆき、次第に城郭都市化していく傾向をみせた。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%8E%E4%B8%8B%E7%94%BAより引用 ※塁壁とはとりでを囲む壁のことです。 そういえば、豊臣秀吉は京都の町をお土居で囲みましたね。京都の町も聚楽第を中心とした城郭都市であったといえるかもしれません。 北野天満宮に残るお土居④外国の城には市民が住んでいたが、日本のお城には殿様一家しか住んでいなかった?武田邦彦さんが次のように書いておられます。 日本のお城は実に奇妙である。なにしろ城がとても小さく、どんなに大きな名古屋城、熊本城なども1000人も住めないぐらいの大きさだ。そ れに対して、外国の城というとまったく規模が違う。中国では北京城、南京城、トルコのイスタンブールの城、フランスのパリの城壁・・・ どれもこれも威風堂々として、城の中に数万人から数10万人の市民を全部、収容できる。
なんで日本の城は世界でももっとも小さいのだろうか?
外国の城には市民が住んでいたが、日本のお城には不思議なことに殿様一家しか住んでいなかった?!
簡単に言うと、外国の戦争は「領土獲得より、奴隷獲得」であり、日本の戦争は「領土獲得だけ」だったからだ。http://takedanet.com/archives/1013802913.html より引用 うう~ん、申し訳ないですが、武田さんは勘違いされていないでしょうか。 a.外国の城には市民が住んでいたが
これは外国の城と、城壁で囲まれた城郭都市について語っておられるのだと思います。 b.日本のお城には不思議なことに殿様一家しか住んでいなかった?! ①~③で私たちは、堀や土塁などで囲まれた日本の城郭都市には城下町があり領民が住んでいたということを見てきました。 もしも、ウィキペディア等の記述に間違いがありましたら、ぜひ教えて下さい。 「殿様一家しか住んでいなかった」とおっしゃっているので、これは城郭都市の中の天守閣について語っておられるのでしょう。 外国の城郭都市と、日本の城郭都市の中の一部分である天守閣を比較しても意味がないと思うんですが。 「外国の城郭都市には市民が住んでいた. 初期の日本の城は居城だけしかなかったが、城下町が発達すると日本でも市民が住む町を堀や塁壁で囲む城郭都市が形成された。」 というのが正しいのではないかと思えます。 武田さんがあげておられる名古屋城も、ウィキペディアは城郭都市の例としてあげています。 上に掲載したスペインのアビラの城壁が作られたのは、1085年、イスラム教徒に占領されていた町をカスティーリャ=レオン王・アルフォンゾ6世が奪還したあと、アルフォンソ6世の娘婿ラモン・デ・ボルゴーニャによってとされます。 今も城壁がよく保存されていますね。 ところが日本では空襲を受けて多くの建物が破壊されたり、町が近代化する中で、城郭都市が古の姿をとどめているケースが少ないということだと思います。 武田さんの他にも、同じようなことを言う人がいますが、それは現代の城の姿を頭に思い浮かべるためではないでしょうか。 ⑤乱取り武田さんは次のようにもおっしゃっています。 c.外国の戦争は「領土獲得より、奴隷獲得」であり、日本の戦争は「領土獲得だけ」だったからだ。しかしながら、ウィキペディアには次のような記述があります。 戦国時代から安土桃山時代にかけて、戦いの後で兵士が人や物を掠奪した行為。一般には、これを略して乱取り(らんどり・乱取)と呼称された。 当時の軍隊における兵士は農民が多く、食料の配給や戦地での掠奪目的の自主的参加が見られた。人狩りの戦利品が戦後、市に出され、大名もそれら乱暴狼藉を黙過したり、褒美として付近を自由に乱取りさせた。それら狼藉は悪事ではないとされた。 凶作・水害・疫病が起こると、大名は食料獲得のため隣国へ戦争をした。 その結果として領土を獲得し、家臣団に与えて下剋上の芽を摘み取った。 その上で、戦場付近の村を襲い、農作物を根こそぎ奪い、女・子供をさらい売り払うか奴隷にするかした。 女性奴隷の一部は、交易を行うポルトガルによって欧州やタイ、カンボジアに性奴隷として売られた。 人身売買の相場は、通常2貫文(約30万円)であったが、大量に乱取りが行われる戦の直後は25文(約4千円)に急落した。 女性を強姦し、抵抗する者は殺した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%B1%E5%A6%A8%E5%8F%96%E3%82%8A より引用
日本でも戦争に負けると領民が奴隷にされることがあったようですね。
※追記
下の動画を見ると、江戸時代、名古屋城天守閣の周囲に民家があり、民家の外側に堀がめぐらされているのが確認できます。 城壁の有無はわかりませんが、堀も防御システムのひとつだと考えられます。 1870年(明治3年)に徳川慶勝が新政府に名古屋城の破却を申し出ていますので、それまで名古屋城には尾張徳川氏が住んでいたのではないかと思います。 名古屋城は城郭都市だったのです。 そして古の名古屋城は現在よりももっと広大な城であったのです。
動画お借りしました。 動画主さん、ありがとうございます。
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[2017/11/20 00:00]
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滋賀県湖南市 常楽寺 2017年11月中旬 撮影 常楽寺 本堂 三重塔 104①阿星寺と長寿寺・常楽寺先日、長寿寺と長寿寺の鎮守・白山神社の記事を書きました。 長寿寺 紅葉 『長寿寺は孝謙(称徳)天皇誕生に伴って建立された?』 白山神社(長寿寺) 紅葉 称徳天皇はククリヒメ? その長寿寺・白山神社から約1kmほど行ったところに常楽寺があります。 どちらも山号は阿星山といいます。 かつてこのあたりに阿星寺(阿星山寺)があったようで、次のように記されているサイトがありました。 元明天皇の和同年中(708~715)、金粛菩薩が甲賀郡の大岳(阿星山)の霊地を開き、初めて仏門弘道の精舎(寺院)を建て、数字の殿堂を構え、僧坊が甍を並べ、阿星寺と号したが、魔風のため火災にかかり、本尊の千手千眼観音像は常楽寺に飛んで来たという(『常楽寺文書』「近江国常楽寺勧進帳」)。
今日、山腹にある「堂立遺跡」や「阿星寺跡」と名づける寺院遺跡は、往時の阿星寺の一部であろう。
~略~
阿星寺の由緒をひく石部町東寺の長寿寺と西寺の常楽寺が、「もと聖武帝信楽宮に遷都の時、鬼門守護の寺なり」といわれるのは(『東海道名所図会』)、阿星寺の存在を抜きにしては考えられない。http://www.edu-konan.jp/ishibeminami-el/kyoudorekishi/202030100.htm より引用 常楽寺 鐘楼 ②長寿寺・常楽寺は鬼門守護の寺?上記リンク先に 長寿寺と西寺の常楽寺が、「もと聖武帝信楽宮に遷都の時、鬼門守護の寺なり」といわれるのはhttp://www.edu-konan.jp/ishibeminami-el/kyoudorekishi/202030100.htm より引用 とありますね。 ウィキペディアにもそう記されています。 【常楽寺】 寺伝では、奈良時代に聖武天皇の勅願により、良弁が紫香楽宮の鬼門を封じるために創建したという。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E6%A5%BD%E5%AF%BA_(%E6%B9%96%E5%8D%97%E5%B8%82)より引用 【長寿寺】 寺伝では、奈良時代に聖武天皇の勅願により、良弁が紫香楽宮の鬼門を封じるために創建し、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AF%BF%E5%AF%BA_(%E6%B9%96%E5%8D%97%E5%B8%82) より引用 常楽寺 本堂 三重塔③鬼門は北東次に鬼門について調べてみましょう。 鬼門(きもん)とは、北東(艮=うしとら:丑と寅の間)の方位のことである。 陰陽道では、鬼が出入りする方角であるとして、万事に忌むべき方角としている。 他の方位神とは異なり、鬼門は常に艮の方角にある。 鬼門とは反対の、南西(坤、ひつじさる)の方角を裏鬼門(うらきもん)と言い、この方角も鬼門同様、忌み嫌われる。 南東(巽)を「風門」、北東(艮)を「鬼門」とした。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E9%96%80より引用 常楽寺 三重塔④比叡山延暦寺は平安京鬼門封じの寺比叡山延暦寺は平安京鬼門封じの寺といわれます。 延暦寺https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E4%BA%AC#/media/File:Heiankyo_landsat.jpg平安京の位置は、上記リンク先で確認してください。 地図上に京阪鴨東線と表示のある西あたりが平安京です。 延暦寺は平安京の北東の位置にありますね。 すなわち、平安京の北東に延暦寺をおくことで、鬼門より鬼がやってくるのを防ぐという呪術的な意味あいがあるのでしょう。 常楽寺 三重塔 ⑤常楽寺や長寿寺は紫香楽宮跡の北北西では?次に常楽寺・長寿寺と紫香楽宮跡の位置関係を見てみましょう。 常楽寺は阿星山の北、長寿寺は常楽寺の東1kmほどの場所です。 あれ?常楽寺は紫香楽宮跡の鬼門(北東)ではなく、北北西あたりにありますね? ウィキペディアをよく読んでみると、次のように書いてあります。 聖武天皇が天平17年(745年)に遷都した紫香楽宮(しがらきのみや)の跡に比定され、1926年(大正15年)に史跡として約33000平方メートルが指定された。 しかし、その後の発掘調査の進展により、当遺跡の北2キロメートルにある甲賀市信楽町宮町宮町遺跡が実際の紫香楽宮跡とみなされるようになり、黄瀬・牧にある遺跡は東大寺に先駆けて紫香楽宮で大仏建立を行った甲賀寺の跡、または近江国国分寺の跡である可能性が高くなった。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%AB%E9%A6%99%E6%A5%BD%E5%AE%AE%E8%B7%A1 より引用 滋賀県甲賀市信楽町宮町641−1の甲賀市紫香楽宮跡関連遺跡群発掘調査事務所 遺構展示室にピンを立ててみました。 宮町遺跡はたぶんこのあたりだと思います。 うーん、でもやっぱり常楽寺・長寿寺は鬼門の方角にはありません。 常楽寺・長寿寺は信楽の宮の鬼門封じの寺ではないということではないでしょうか。 ⑥阿星山は玄武の山?710年から794年までの間に何度も遷都が繰り返されています。
平城京(710)→恭仁京(740)→紫香楽宮(74?)→難波宮(744)→平城京(745)→長岡京(784)→平安京(794) 常楽寺・長寿寺はこのうちの難波宮の鬼門にあるとはいえそうです。 また紫香楽宮は四神相応の地に作られたともいいます。 北方守護の神・玄武は丘陵に、南方守護の神・朱雀は湖沼に、東方守護の神・青龍は清流に、西方守護の神・白虎は大道に棲むといわれ、北に丘陵、南に湖沼、東に清流(川)、西に大道のある土地は指針相応の地であり大変縁起がいいといわれていました。 阿星山(常楽寺・長寿寺)はほとんど紫香楽宮の北にあると言ってもいいので、阿星山は玄武の丘陵なのでしょうか? でも、南に湖沼、東の清流が見当たりません~。  常楽寺 本堂
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[2017/11/19 00:00]
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滋賀県湖南市 長寿寺 2017年11月中旬 撮影 白山神社 ①白山信仰前回ご紹介した長寿寺の隣というか?境内?に白山神社があります。長寿寺の鎮守です。 長寿寺白山神社については結構たくさん記事を書いています。すごく気になる神社なんですね~♪ http://kntryk.blog.fc2.com/?q=%E7%99%BD%E5%B1%B1&charset=utf-8石川県白山市と岐阜県大野郡白川村にまたがって、標高2702mの白山があります。 白河郷からみた白山(向かって右の雪を被った山が白山) ②ククリヒメは括り姫?潜り姫?この白山に対する信仰を白山信仰といい、白山神社にはたいてい菊理姫(ククリヒメ)が祀られています。 イザナギは死んだイザナミを迎えに黄泉平坂に行きますが、腐って蛆がたかったイザナミの姿を見て恐ろしくなり、逃げ帰ってしまいます。 イザナミはこれに腹を立ててイザナギを追いかけますが、イザナギは黄泉平坂まで戻り、大きな石をおいてあの世とこの世の出入り口である黄泉平坂を塞ぎます。 そしてイザナギは「私がはじめ悲しみ、慕ったのは私が弱かったからだ」といいました。 すると泉守道者(よもつちもりびと)がイザナギにイザナミの言葉を伝えました。 「私はあなたと、すでに国を生みました。これ以上生む必要はないでしょう。私は黄泉の国にとどまります。あなたとは一緒に帰りません。 このとき菊理媛神が何か言いました。イザナギはこれをほめ、その場を去りました。(『日本書紀』の一書 第十)ククリヒメは何を言ったんですかね?気になりますが、発言の内容は記されていません。 ククリヒメは「ククリ」は「括る」で縁結びの神、「潜る」で水神とする説などあります。 白山神社 ③ククリヒメは皇位継承の神?
ククリヒメから私は在原業平の有名な歌を思い出します。ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは(在原業平)
龍田川「ちはやぶる」・・・「神」にかかる枕詞です。 「神代も聞かず」・・・「神代にも聞いたことがない」 「竜田川」・・・奈良県生駒郡斑鳩町竜田あたりを流れる川。 「から」・・・「韓の国」や「唐土(もろこし)」 「くれなゐ」・・・「紅色」 ここまでは難しいところはありませんね。
問題は「水くくる」です。 「水くくる」には2つの解釈があります。 a.水を「括り染め」にした。→「神代にも聞いたことがない。竜田川が韓や唐土の衣の鮮やかな紅のように水を括り染めにするとは。」 b.水を潜った。→「神代にも聞いたことがない。韓や唐土の衣の鮮やかな紅に染まった紅葉の下を竜田川の水が流れていくとは。」 この在原業平の歌は在原業平の祖父・平城天皇の次の歌と対応していると思います。 龍田河 もみぢみだれて 流るめり 渡らば錦 なかや絶えなむ(平城上皇)(龍田川の上を紅葉が乱れて流れている。私が渡ると紅葉の錦がちぎれてしまうだろう。) 平城上皇は嵯峨天皇と対立して敗れ出家しています。(薬子の変) これに連座したとして阿保親王は大宰府に流罪となりました。 10年以上たち、ようやく阿保親王は許されて京に戻りました。 そして阿保親王は自分の子供(在原行平・業平ら)の臣籍降下を願い出て許されています。 阿保親王は自分の子供たちを臣籍降下させることによって、反逆する気持ちがないことを示そうとしたのではないかと思います。 そして藤原高子が清和天皇の皇子として産んだ陽成天皇は在原業平の子であると言う説があります。 というのは伊勢物語に在原業平と藤原高子が駆け落ちするというシーンがあるからです。 龍田川のもみじは皇位継承の血筋の比喩だと思います。 「龍田川を渡る」とは「平城天皇が薬子の変をおこす」ことの比喩で「薬子の変をおこすと皇位継承の血筋が途切れてしまうだろう(私の子孫は皇位につけないだろう)」というのが歌の意味ではないでしょうか。 そして在原業平は、自分の祖父・平城上皇が薬子の変をおこして途切れた皇位継承の血筋が、陽成天皇即位によって括られると詠んだのだと思うのです。 詳しくはこちらの記事をお読みください→ 龍田川 紅葉 『陽成天皇の父親は在原業平だった?』 ククリヒメは括り姫で皇位継承を括る(結びつける)神なのではないでしょうか? ④称徳天皇は天智系天皇にとっての皇位継承を括る神?長寿寺は聖武天皇の皇女誕生の際に七堂伽藍が整備されたといいます。 聖武天皇の皇女は3人いますが、そのうち阿倍内親王が即位して孝謙天皇(重祚して称徳天皇)となっています。 おそらく阿倍内親王誕生の際に長寿寺の七堂伽藍が整備されたのでしょう。 称徳天皇で天武系天皇の血筋が絶え、天智系天皇に変わったことは、こちらの記事に書いたとおりです。 長寿寺 紅葉 『長寿寺は孝謙(称徳)天皇誕生に伴って建立された?』 なるほど!称徳天皇は天智系天皇が皇位継承するきっかけになった神=括り姫だといえる。 それで長寿寺の鎮守に白山神社が勧請されたのだろうって? 白山神社⑤称徳天皇は阿倍仲麻呂と藤原光明子の子?うーん、そういうこともあるかもしれないけど 私は称徳天皇って阿倍仲麻呂と藤原光明子の間に生まれた娘ではないかと思ってるんです。 四つの船 早帰り来と しらかつく 我が裳の裾に 鎮ひて待たむ/孝謙天皇(のちの称徳天皇) (四隻の船よ、早く帰ってくるように。しらかをつけたこの我が裳の裾に祈りをこめて待っています。) 大船に 真楫しじ貫き この吾子を 唐国へ遣る 斎へ神たち/光明皇后〈藤原光明子) (大きな船にたくさんの櫂を取り付けて、わが子を唐へ遣わします。神々よ、護り給え。)
この二つの歌は、第12次遣唐使を送る際に詠んだもので、この遣唐使船が帰国する際、阿倍仲麻呂が乗船して日本に帰る予定になっていました。 帰国まぎわに阿倍仲麻呂は次のような歌を詠んでいます。 あまの原 ふりさけ見れば 春日なる みかさの山に いでし月かも/阿倍仲麻呂(夜空を仰ぎ見ると月が出ていた。奈良の都で三笠の山から上る月と同じ月なのだなあ。)
仲麻呂が乗った船は暴風雨にあい、結局仲麻呂は日本には戻れず唐でなくなるのですが~。
なら瑠璃絵で展示されていた遣唐使船
光明皇后の「光明」とは「暗闇を照らす光」のことをいいます。 暗闇を照らす光とは月のことではないでしょうか。 そして三笠山は春日大社の背後にあって春日大社とは関係が深そうに思えますが、春日大社は藤原氏の氏神、 光明皇后は藤原不比等の娘です。 「みかさの山に いでし月」とは光明皇后のことだと思えて仕方がないんですね~。
向かって右の濃い緑色に見える山が三笠山
そして孝謙天皇は聖武天皇と光明皇后の娘とされていますが、本当の父親は阿倍仲麻呂では? 孝謙天皇は阿倍内親王といい、阿部氏と関係がある女性のように思えるんですよね~。
⑥称徳天皇は蝦夷だった?
『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』には、称徳天皇は蝦夷の安倍一族の出身であると記されています。
当時、日本の東国には蝦夷と呼ばれるまつろわぬ民が住んでおり、朝廷はたびたび蝦夷征伐の軍を送っていましたが、あるとき、朝廷軍は蝦夷軍に大敗し、それによって蝦夷の安倍氏の血を引く彼女が次期天皇になると取り決められたというのです。
また東大寺の大仏建立に用いられた黄金は、彼女の縁で奥州から送られた、とも記されています。
東日流外三郡誌は後世の偽書とされており、その内容をそのまま信じることはできないんですが、気になる記述です。
白山神社 神殿
阿倍仲麻呂は蝦夷の安倍(阿倍)氏なのか? そして私は称徳天皇(孝謙天皇/阿倍内親王)は阿倍仲麻呂の娘ではないかと考えているのですが、阿部仲麻呂が蝦夷だとすれば、称徳天皇もまた蝦夷だといえます。
これが正しければ、蝦夷の女性が皇位についたということになり、女性とはいえ、万世一系の建前が崩壊してしまいます。
ところが称徳天皇は急死して天智天皇の孫の光仁天皇が即位しました。 そのため称徳天皇は皇位継承を天皇家に戻した神、皇位継承を正しく括った神(阿倍氏が皇位継承せず、天皇家が皇位継承する)として信仰され、 その結果白山神社がここに勧請されたんだったりして?
詳しくはこちらの記事をお読みください→海龍王寺 雪柳 『光明皇后と阿倍仲麻呂のスキャンダル?』
白山神社 拝殿(向かって右)と 長寿寺本堂(向かって左)まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2017/11/17 00:00]
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滋賀県湖南市 長寿寺 2017年11月中旬 撮影
①長寿寺は阿倍内親王誕生に感謝して創建された寺?長寿寺は奈良時代、聖武天皇の勅願によって良弁が紫香楽宮の鬼門封じとして創建したと伝わります。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AF%BF%E5%AF%BA_(%E6%B9%96%E5%8D%97%E5%B8%82)上記ウィキペディアには、聖武天皇の皇女誕生の際、七堂伽藍を建立して長寿寺と名付けたとあります。 皇女誕生の際に七堂伽藍を建立したという話は、私は初めて聞きました。 (皆さんはこういう話を聞いたことがありますか?もしあればぜひ教えてくださいね!) のちに天皇に即位した皇子誕生が、みほとけの御加護を受けたものであるとして、寺院が建立されたり伽藍整備されたという話はあります。 岩船寺 紅葉 『長屋王、皇位継承の神となる?』 ↑ こちらの記事では 813年、嵯峨天皇が第二皇子・仁明天皇の誕生を感謝して岩船寺の堂塔伽藍の整備を行ったことなどを書きました。 聖武天皇の皇女としては、光明皇后との間に阿倍内親王、県犬養広刀自との間に井上内親王、不破内親王がいます。 聖武天皇の3人の皇女のうち、阿倍内親王は史上初にして史上唯一の女性皇太子となり、孝謙天皇となっています。 長寿寺の伽藍整備は阿倍内親王誕生に伴って行われたものではないかと思います。 ②今の帝は常の祀りと小事を行え、国家の大事と賞罰は朕が行う!孝謙天皇は淳仁天皇に譲位しますが、淳仁天皇・藤原仲麻呂との関係が悪化。 ついには「今の帝は常の祀りと小事を行え、国家の大事と賞罰は朕が行う!」と宣告しています。(かっこええ~) そして藤原仲麻呂の乱を制圧し、淳仁天皇は廃されます。 こうして孝謙天皇は再び皇位について称徳天皇となりました。 ③女性天皇はいたが天皇家は男系継承最近、女性天皇を認めるか認めないか、というような議論があります。 女性天皇賛成派は古代に女性天皇がいたことなどを賛成の理由としてあげたりしますね。 しかし、御存知のように日本の女性天皇はすべて中継ぎであり、天皇家は男系で継承されています。 持統天皇から光仁天皇までを表にまとめました。↓ (女性天皇は飛鳥時代に推古天皇・皇極(斉明)天皇、江戸時代に明正天皇、後桜町天皇もいます。) 代 | 天皇 | 性別 | 父 | 母 | その他 | 41 | 持統 | 女 | 天智天皇 | 蘇我遠智娘 | 天武の皇后。草壁皇子を設けるが草壁は早世。孫の文武を即位させるため中継ぎで即位 | 42 | 文武 | 男 | 草壁皇子 | 元明天皇 | | 43 | 元明 | 女 | 天智天皇 | 蘇我姪娘 | 草壁皇子の皇后。文武の母。文武が早世したとき、孫の聖武がまだ幼かったため中継ぎとして即位 | 44 | 元正 | 女 | 草壁皇子 | 元明天皇 | 文武の姉。文武の子(元正の甥)聖武がまさ幼かったため中継ぎとして即位。生涯独身。 | 45 | 聖武 | 男 | 文武天皇 | 藤原宮子 | | 46
| 孝謙
| 女 | 聖武天皇 | 光明皇后 | 聖武天皇には県犬養広刀自との間に安積親王があったが、女性の孝謙が即位。 安積親王の母親が藤原氏でないためか?生涯独身。 | 47 | 淳仁 | 男 | 舎人親王 | 当麻山背 | 父親の舎人親王は天武天皇の皇子。 | 48 | 称徳 | 女 | 聖武天皇 | 光明皇后 | 孝謙と同一人物。天武系天皇ここで絶える。 | 49 | 光仁 | 男 | 志貴皇子 | 紀 橡姫 | 志貴皇子の父親は天智天皇。 |
現在の皇太子徳仁親王の子供は敬宮 愛子内親王だけですね。 そこで敬宮 愛子内親王が女性天皇となり、さらに敬宮 愛子内親王が結婚されて親王をお産みになられたとしましょう。 敬宮 愛子内親王がお産みになられた親王が仮に皇位についたとすると、男系継承だった皇位継承の伝統が大きく変わってしまいます。 あくまでも、天皇家の血筋の男性の子孫が皇位継承するというのが日本の伝統なのです。 また、敬宮 愛子内親王の配偶者に権力が生じることにもなります。 それゆえ、女性天皇に反対する人々がいるのでしょう。 私?私は天皇制そのものが反対なので、女性天皇に賛成だとか反対だとかいうような意見はありません(笑) これについてはまた書く機会があるかもしれません。 ④天武系天皇の血筋絶え、天智系天皇に。たぶん、そういう皇位継承のゴタゴタを避けるためだと思いますが、独身で即位したふたりの女性天皇、元正・孝謙(称徳)は生涯独身でした。 (のちの明正・後桜町も生涯独身。) そして天武系の天皇は称徳で絶えてしまい、49代天皇には天智天皇の皇子・志貴皇子を父親に持つ光仁天皇が即位します。 ⑤天智系天皇への転換は藤原氏の策略?天武系天皇の血筋が絶え、天武系天皇へ転換したのは、藤原氏の策略だったのではないかと思ったりします。 というのは大鏡・公卿補任・尊卑分脈などの史料に、藤原不比等は天智天皇の後胤だと記されているのです。 天智天皇は藤原鎌足に中臣鎌足は天智天皇の后であった鏡王女を妻としてもらいうけていますが、 その時鏡王女はすでに天智天皇の子供である不比等を身ごもっていたと記した史料があるのです。 真偽はともあれ、藤原氏は自分たちは天智天皇の血をひいていると考えていたことでしょう。 とすれば、天皇を天智系に戻したいと考えるのは当然のことと思われます。 実際、称徳天皇の次代の天皇に天智天皇の孫にあたる光仁天皇を押したのは、中臣鎌足の孫で藤原不比等の子である藤原百川や藤原永手でした。 まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2017/11/15 15:43]
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