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わら天神 紅葉 『わら天神は藁人形と関係ある?ない?』 

京都市北区 敷地神社(わら天神)
2016年10月下旬 撮影

わら天神 紅葉

①わらの安産お守り

敷地神社はわら天神と呼ばれて親しまれています。
わらの安産お守りを授与しており、妊婦さんたちに人気の神社です。
藁に節があると男の子が、節がないと女の子を授かるなどと言われていますよ。

わら天神 紅葉2

②加賀国・菅生石部神社を勧請

もともとここには「北山の神」が祀られていました。
1200年ほど前、ここに氷室が設けられるようになりました。
氷室とは氷を貯蔵しておく設備、小屋のことです。

このとき、加賀国から氷室の夫役として移住してきた人々がいました。
彼らは加賀国(石川県加賀市)の菅生石部神社(すごういそべじんじゃ/通称・敷地神社)をこの地に勧請しました。
この菅生石部神社の現在の御祭神は菅生石部神です。

しかし菅生石部神社は585年疫病が流行った際に宮中で祀られていた菅生石部神を勧請したのに始まるといい、もともとは宮中の神のようですね。

菅生石部神とはアマツヒコヒコホホデミノミコト・トヨタマヒメ・ウガヤフキアエズの三柱の神様の総称としています。
アマツヒコヒコホホデミノミコトとは山幸彦のことです。
トヨタマヒメは山幸彦の妻、その間に生まれた皇子がウガヤフキアエズで、ウガヤフキアエズは初代神武天皇の父親です。
で、山幸彦の父親がニニギ、母親がコノハナサクヤヒメです。
京都の敷地神社は加賀国の菅生石部神社(敷地神社)の御祭神の一、アマツヒコヒコホホデミノミコトの母神・コノハナサクヤヒメを祀っています。

ニニギがコノハナサクヤヒメがお腹に宿した子を「国津神の子ではないか」と疑ったので、コノハナサクヤヒメは疑いを晴らすために産屋に火をつけてホデリ(海幸彦)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦)の三柱の御子を産みました。
そういったところからコノハナサクヤヒメは安産の神として信仰されるようになったのでしょう。

敷地神社がわら天神と呼ばれるようになったのは、当時供物を稲わらの籠に入れて収めており、その籠から抜けた藁を妊婦さんがお守りに持ち帰るようになったためだと言われています。

③北野天満宮との関係


中世、加賀の菅生石部神社は北野天満宮の社領でした。
そして京都の敷地神社の近くにはその北野天満宮があります。
もしかしたら京都の敷地神社もかつては北野天満宮の社領だったのかもしれませんね。


北野天満宮 参道  
北野天満宮 参道

④像を作って呪詛した中臣勝海と菅生氏

大阪府堺市に菅生神社があり、中臣氏の祖神・天児屋根命を御祭神としています。
この菅生神社のあたりには中臣氏が多く住んでおり、彼らはその地名から菅生氏を名乗るようになったということです。

加賀の菅生石部神社は中臣氏の神を祀っている可能性が大ですね。

菅生石部神社が創建されたのは585年ということですが、これは用明天皇の御代です。
587年、用明天皇は病を患い、三宝(仏法)にすがって病を回復させたいとお考えになりました。
そして群臣にこれを協議するようにとおっしゃられました。
崇仏派の蘇我馬子は天皇に賛成しましたが、廃仏派の物部守屋と中臣勝海は「国神に背いて他神を敬うなど、聞いたことがない」と大反対。
中臣勝海は馬子派の皇子である彦人皇子と竹田皇子の像を作って呪詛しました。

中臣氏は像を作って呪詛する氏族だったんですね。
その中臣氏の一派である菅生氏も像を作って呪詛するという伝統を引き継いでいたかも。

⑤このあたりには丑の刻詣の習慣があった?

えー、今から書くことは妄想によるところが多い事柄なので、むやみに信じないようにしてください。
またトンデモかよ~、と笑って読んでいただくというスタンスが望ましいかと思われます。


中臣勝海は像を作って呪詛しましたが、藁人形を作って呪詛するという習慣がありましたね。
妊婦さんたちがお守りに持ち帰ったのは、もしかして藁人形の藁では?

石像寺 本堂 
石像寺 本堂


わら天神から15分ほど歩いたところにある石像寺は釘抜地蔵と呼ばれ、次のような伝説が残されています。

室町時代、両手の痛みに悩む大商人・紀伊国屋道林がこのお地蔵さまに七日間願掛けすると、7日目の夜の夢の中にお地蔵様が現れた。
お地蔵さまは「手の痛みは、あなたが前世で藁人形に釘を打ち人をのろった報いである。」と言い、釘を抜いた。
商人が目覚めると手の痛みは治っていた。


こうした伝説があることから、どうもこのあたりには藁人形を五寸釘で打ち付ける丑の刻詣の習慣があったようにも思われるんですよね。

石像寺 絵馬2 
石像寺 絵馬




そういえば、北野天満宮には牛の像がたくさんあるではありませんか。

なんでも北野天満宮の御祭神の菅原道真は丑年の生まれであり、丑の日に亡くなったといい、北野天満宮の牛の像は菅原道真が丑に関係の深い神であることにちなむものだと考えられます。

北野天満宮 立牛 と 紋

また平家物語に「橋媛」の物語がありますね。

公卿の娘が貴船神社を詣で、「恨む女を採り殺したいので、自分を鬼女に変えてほしい。」と祈った。
貴船大明神は「姿を変えて21日間宇治川に浸るように」と告げた。
女は髪を5本の角に結い、顔に朱をさし、体には丹を塗り、鉄輪(かなわ/鉄の輪に三本脚が付いた台)を逆さに頭に載せ、3本の脚に松明を燃やし、両端を燃やした松明を口にくわえた。
そして恨む女や女の関係者を次々に殺した。


この橋媛の姿は丑の刻詣そのものの姿ですね。

鬼と化した橋媛は源綱によって腕を斬られ、その際、源綱は北野の社におちたといい、北野天満宮には源綱が橋媛を斬った刀「髭切」は北野天満宮にあり、国の重要文化財に指定されているとのととです。

丑の刻詣をした橋媛を斬った刀が北野天満宮にあることなどから考えても、北野天満宮と丑の刻詣の関連性がうかがえるような気がするんですが~。

SekienUshi-no-tokimairi

鳥山石燕今昔画図続百鬼
https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ASekienUshi-no-tokimairi.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/09/SekienUshi-no-tokimairi.jpg
よりお借りしました。
作者 Toriyama Sekien (鳥山石燕, Japanese, *1712, †1788) (scanned from ISBN 4-336-03386-2.) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


⑥地主神社の「いのり杉」とわら天神の「綾杉明神」

丑の刻詣のメッカといえば、貴船神社と清水寺の鎮守の地主神社ですよね。
随分前に地主神社を参拝したことを思い出します。

地主神社 大国主と素兎 

地主神社

写真がないんですが(すいません!)、地主神社には「いのり杉」とか「のろい杉」とか呼ばれている御神木があって、丑の刻詣で五寸釘を打ち付けた跡が多数ついているんですよね~。

http://www.jishujinja.or.jp/history/monogatari/summer.html

あっ、そういえばわら天神には綾杉明神と呼ばれている御神木がありましたよ。

わら天神 綾杉明神2

写真を大きくしてみると、ところどころ穴があいているように見えます。
これはもしかして藁人形を打ち付けた五寸釘のあと? 単に木の皮が剥がれているだけ?
皆さんはどう思いますか?

わら天神 綾杉明神




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[2017/10/31 17:04] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)