京都氏上京区 大聖寺
2017年10月初旬撮影
もう紫の萩は散ってしまって、白萩のみ満開でした。
同じ日、梨木神社は満開だったんですけどね~。
梨木神社 萩 『浮穴媛のこどもたち』 萩を撮るタイミングって難しい~。
①花の御所跡
大聖寺は足利義光の花の御所内にあった岡松殿を、寺にあらためたものです。
開基は光厳天皇の后の日野宣子で、日野宣子は光厳天皇崩御後、花の御所の岡松殿に住んでいました。
大聖寺と言う寺名は、日野宣子の法名・「大聖寺殿無相定円禅定尼」からつけられたとのことです。
花の御所は、足利義光が邸宅として用いていたところで、東は烏丸通、南は今出川通、西は室町通、北は上立売通に囲まれた東西1町、南北2町に及ぶ広大な屋敷でした。
今出川町の文字のある東西の通りが今出川町、同志社大学の西の南北の通りが烏丸通、裏築地町の文字のある南北の通りが室町通、京菓子資料館の南の東西の通りが上立売通です。
1476年に戦火で焼失したのち、なんどか再建されましたが、1559年に廃止されました。
大聖寺は、、長谷(ながたに、現・左京区岩倉長谷町)、毘沙門町(現・上京区上立売通寺町西入る)に移転したのち、1673年に焼失しましたが、1697年、花の御所跡である現在地に移転したということです。
つまり、大聖寺は花の御所を偲ぶ唯一の建物、ということになるかと思います。
②足利義満は天皇になろうとした?花の御所に住んでいた足利義満は天皇になろうとしていた、とする説がありますね。
例えば金閣寺。
3階建ての金閣寺の建物の、1階は公家好みの寝殿造り、2階は武家造り、3階は禅宗仏前造りと異なる様式になっています。
金閣寺を建てたとき、義光は出家していました。
金閣寺の階ごとに異なる様式とその並びは、義満の下に武家が、さらにその下に公家がくるという身分のありかたを示しているのではないか。
そう井沢元彦さんはおっしゃています。
また、義満の次男吉嗣を宮中で、皇子と同じ形で元服させてもいます。
義満は日明貿易を望み、「日本国征夷将軍源義満」名義で明に使者を送っています。
このとき、明は南朝の懐良親王を「日本国王良懐」として正規な通交相手として認めていました。
そして義満は臣下であるということで通行相手として認められませんでした。
そこで義満は太政大臣を辞し、出家しました。
こうすることで、義満は臣下の身分ではなくなり、再び明に通交を申し入れたところ、明より「日本国王源道義(にほんこくおうげんどうぎ)」の符号を得、また通交の許可を得ることに成功しています。
これはつまり、対外的には日本のトップは後小松天皇ではなく、足利義満であると認識されていたということ?
③義満は暗殺された?
義満は頭痛を訴えて倒れ、その9日後に死亡しています。
井沢元彦さんは『義満は毒殺されたのではないか』とし、死後朝廷が「鹿苑院太上法皇」の諡号を送っているのは怨霊鎮魂が目的であったのではないかとおっしゃっています。
一方、若林利光氏はの病状は「クモ膜下出血」ではないかとおっしゃっていますが。
④「鹿苑院太上法皇」ってスゲー!
それにしても「鹿苑院太上法皇」ってすごい諡号ですね。
太上天皇とは、譲位して更衣を後継者に譲った天皇の尊号、太上法皇とは、出家した太上天皇のことです。
第四代将軍の足利義持はこれを辞退していますが。
皇族でない人で、死後このような諡号を与えられた人ってほかにいますか?(いれば教えてください!)
皇族で天皇になれなかった人なんかには結構○○天皇のような諡号が贈られていますが。
義満の母親の紀良子の母・智泉尼聖通は順徳天皇の皇子・四辻宮善統親王の孫であるとかいわれており、義満は皇胤であるとする説があるそうですが
天皇家は代々男系継承だからなあ~。
天皇家でない男性と皇女の間にうまれた男子が天皇になったというケースはないはずだし(天皇と皇女の間に生まれた皇子が天皇になったケースはあるけど)
ましてや親王の女孫の娘の子が天皇になったなんてケースはないと思います。(だよね?)
実は義満の父親は第2代将軍・足利義詮の子ではなく、皇族だったりして?
もうちょっと調べてみることにします~。
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毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

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[2017/10/19 11:37]
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