京都市北区 敷地神社(わら天神) 2016年10月下旬 撮影
①わらの安産お守り敷地神社はわら天神と呼ばれて親しまれています。 わらの安産お守りを授与しており、妊婦さんたちに人気の神社です。 藁に節があると男の子が、節がないと女の子を授かるなどと言われていますよ。 ②加賀国・菅生石部神社を勧請もともとここには「北山の神」が祀られていました。 1200年ほど前、ここに氷室が設けられるようになりました。 氷室とは氷を貯蔵しておく設備、小屋のことです。 このとき、加賀国から氷室の夫役として移住してきた人々がいました。 彼らは加賀国(石川県加賀市)の菅生石部神社(すごういそべじんじゃ/通称・敷地神社)をこの地に勧請しました。 この菅生石部神社の現在の御祭神は菅生石部神です。 しかし菅生石部神社は585年疫病が流行った際に宮中で祀られていた菅生石部神を勧請したのに始まるといい、もともとは宮中の神のようですね。 菅生石部神とはアマツヒコヒコホホデミノミコト・トヨタマヒメ・ウガヤフキアエズの三柱の神様の総称としています。 アマツヒコヒコホホデミノミコトとは山幸彦のことです。 トヨタマヒメは山幸彦の妻、その間に生まれた皇子がウガヤフキアエズで、ウガヤフキアエズは初代神武天皇の父親です。 で、山幸彦の父親がニニギ、母親がコノハナサクヤヒメです。 京都の敷地神社は加賀国の菅生石部神社(敷地神社)の御祭神の一、アマツヒコヒコホホデミノミコトの母神・コノハナサクヤヒメを祀っています。 ニニギがコノハナサクヤヒメがお腹に宿した子を「国津神の子ではないか」と疑ったので、コノハナサクヤヒメは疑いを晴らすために産屋に火をつけてホデリ(海幸彦)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦)の三柱の御子を産みました。 そういったところからコノハナサクヤヒメは安産の神として信仰されるようになったのでしょう。 敷地神社がわら天神と呼ばれるようになったのは、当時供物を稲わらの籠に入れて収めており、その籠から抜けた藁を妊婦さんがお守りに持ち帰るようになったためだと言われています。
③北野天満宮との関係中世、加賀の菅生石部神社は北野天満宮の社領でした。 そして京都の敷地神社の近くにはその北野天満宮があります。 もしかしたら京都の敷地神社もかつては北野天満宮の社領だったのかもしれませんね。 北野天満宮 参道④像を作って呪詛した中臣勝海と菅生氏大阪府堺市に菅生神社があり、中臣氏の祖神・天児屋根命を御祭神としています。 この菅生神社のあたりには中臣氏が多く住んでおり、彼らはその地名から菅生氏を名乗るようになったということです。 加賀の菅生石部神社は中臣氏の神を祀っている可能性が大ですね。 菅生石部神社が創建されたのは585年ということですが、これは用明天皇の御代です。 587年、用明天皇は病を患い、三宝(仏法)にすがって病を回復させたいとお考えになりました。 そして群臣にこれを協議するようにとおっしゃられました。 崇仏派の蘇我馬子は天皇に賛成しましたが、廃仏派の物部守屋と中臣勝海は「国神に背いて他神を敬うなど、聞いたことがない」と大反対。 中臣勝海は馬子派の皇子である彦人皇子と竹田皇子の像を作って呪詛しました。 中臣氏は像を作って呪詛する氏族だったんですね。 その中臣氏の一派である菅生氏も像を作って呪詛するという伝統を引き継いでいたかも。 ⑤このあたりには丑の刻詣の習慣があった?えー、今から書くことは妄想によるところが多い事柄なので、むやみに信じないようにしてください。 またトンデモかよ~、と笑って読んでいただくというスタンスが望ましいかと思われます。中臣勝海は像を作って呪詛しましたが、藁人形を作って呪詛するという習慣がありましたね。 妊婦さんたちがお守りに持ち帰ったのは、もしかして藁人形の藁では? 石像寺 本堂わら天神から15分ほど歩いたところにある石像寺は釘抜地蔵と呼ばれ、次のような伝説が残されています。 室町時代、両手の痛みに悩む大商人・紀伊国屋道林がこのお地蔵さまに七日間願掛けすると、7日目の夜の夢の中にお地蔵様が現れた。 お地蔵さまは「手の痛みは、あなたが前世で藁人形に釘を打ち人をのろった報いである。」と言い、釘を抜いた。 商人が目覚めると手の痛みは治っていた。こうした伝説があることから、どうもこのあたりには藁人形を五寸釘で打ち付ける丑の刻詣の習慣があったようにも思われるんですよね。 石像寺 絵馬そういえば、北野天満宮には牛の像がたくさんあるではありませんか。 なんでも北野天満宮の御祭神の菅原道真は丑年の生まれであり、丑の日に亡くなったといい、北野天満宮の牛の像は菅原道真が丑に関係の深い神であることにちなむものだと考えられます。 また平家物語に「橋媛」の物語がありますね。 公卿の娘が貴船神社を詣で、「恨む女を採り殺したいので、自分を鬼女に変えてほしい。」と祈った。 貴船大明神は「姿を変えて21日間宇治川に浸るように」と告げた。 女は髪を5本の角に結い、顔に朱をさし、体には丹を塗り、鉄輪(かなわ/鉄の輪に三本脚が付いた台)を逆さに頭に載せ、3本の脚に松明を燃やし、両端を燃やした松明を口にくわえた。 そして恨む女や女の関係者を次々に殺した。この橋媛の姿は丑の刻詣そのものの姿ですね。 鬼と化した橋媛は源綱によって腕を斬られ、その際、源綱は北野の社におちたといい、北野天満宮には源綱が橋媛を斬った刀「髭切」は北野天満宮にあり、国の重要文化財に指定されているとのととです。 丑の刻詣をした橋媛を斬った刀が北野天満宮にあることなどから考えても、北野天満宮と丑の刻詣の関連性がうかがえるような気がするんですが~。  鳥山石燕『今昔画図続百鬼』 https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ASekienUshi-no-tokimairi.jpg https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/09/SekienUshi-no-tokimairi.jpg よりお借りしました。 作者 Toriyama Sekien (鳥山石燕, Japanese, *1712, †1788) (scanned from ISBN 4-336-03386-2.) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で⑥地主神社の「いのり杉」とわら天神の「綾杉明神」丑の刻詣のメッカといえば、貴船神社と清水寺の鎮守の地主神社ですよね。 随分前に地主神社を参拝したことを思い出します。
地主神社
写真がないんですが(すいません!)、地主神社には「いのり杉」とか「のろい杉」とか呼ばれている御神木があって、丑の刻詣で五寸釘を打ち付けた跡が多数ついているんですよね~。
http://www.jishujinja.or.jp/history/monogatari/summer.html
あっ、そういえばわら天神には綾杉明神と呼ばれている御神木がありましたよ。
写真を大きくしてみると、ところどころ穴があいているように見えます。 これはもしかして藁人形を打ち付けた五寸釘のあと? 単に木の皮が剥がれているだけ? 皆さんはどう思いますか?
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[2017/10/31 17:04]
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京都市上京区 大将軍商店街 妖怪ストリート①百鬼夜行絵巻と妖怪ストリート京都といえば歴史ある神社仏閣、四季折々の美しい風景・・・・だけではございません! 京都には数多くの幽霊・妖怪・お化け・怨霊伝説が伝わっており、オカルトマニアを京都へと誘います。 そんなオカルトスポットのひとつが妖怪ストリートです♪♪ 『百鬼夜行絵巻』に次のように記されています。
付喪神(つくもがみ)が変化大明神を祀り、祭礼と称して夜更けに徒党を組んで西から東へと練り歩いた。付喪神とは古くなった道具などに神や霊魂などが宿ったもののことです。 器物は100年を経ると精霊が宿って付喪神になると考えられており、そのため99年目で器物を破棄する習慣があったそうです。 そのためでしょうか、付喪神は九十九神とも記されますね。 北野天満宮の南200mほどのところにある一条通はこの百鬼夜行があった通りだとされています。 これにちなんで一条通の大将軍商店街は妖怪ストリートと称し、店先などに妖怪の人形を展示していますよ。 ②煤払いと終い天神かつて年末に煤払いを行い、その際に不要になった古道具や器などを廃棄していたそうです。 廃棄された古道具や器を北野天満宮の境内で売るようになったのが、北野天満宮の古道具市のルーツとされています。 特に年末の古道具市は煤払いを行うこともあって多くの物品が売買されたことでしょうね。 現在でも年末の12月25日に北野天満宮で行われる古道具市は『終い天神』と呼ばれ、多くの人で賑わいます。 動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。 ③市は斎で、交換することで浄められる?①で、「器物は100年を経ると精霊が宿って付喪神になると信じられ、99年目で廃棄する習慣があった。」と書きました。 『終い天神』では付喪神が憑いているような古い器物も売買されたんでしょうか? もしそうだとすると、「いやーん、このお皿、古そう~。付喪神がついてそうで気持ち悪い~」とか思わなかったんでしょうか? 私は付喪神が憑いていそうな古い器物も終い天神で売買されていたんじゃないかと思います。 現在、市とは単に物品を売買することをいいます。 でも、古には市は神事的な意味を持っていたのではないかと思うんです。  市とは斎(いつき)である、とする説を聞いたことがあります。 斎とは『 飲食をつつしむ、禊をするなどして心身を清めて神に仕える』ことをいいます。 また古には虹はまがまがしいものと考えられており、虹の出たところに市をたてる、というような話を聞いたこともあります。 とすれば、市とは穢れたものを清めるための神事であったと考えられると思います。 市に出され、売買されることで付喪神は清められて悪さをしなくなるというような信仰があったのではないでしょうか? ③鷽替え神事に見る市の意味北野天満宮では行われていないんですが、全国の多くの天満宮で『鷽替え神事』という神事が行われています。 動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。『鷽替え神事』ではまず大勢の参拝者に小さなポチ袋が配られます。 そして『替えましょう、替えましょう』と唱えながら近隣の人とポチ袋を何度も交換しあいます。 ポチ袋の中には紙製や木彫りの鷽鳥の人形が入っていますが、その中に当たりの人形が混ざっていて、当たりの人形をひいた人は様々な商品がもらえるという神事です。 大阪天満宮や道明寺天満宮の鷽替神事に何度か行ったことがありますが、くじ運の悪い私は一度もあたったことがありません~。 『鷽替え神事』は何度も交換することで、穢れが浄められるとする神事だと考えられませんか。 そして何度も交換するというのは市に似ていますね。

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[2017/10/22 18:09]
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京都市左京区 真如堂 2017年10月初旬撮影
法伝寺①稲荷神と荼枳尼天の習合上の写真ではわかりにくいかもしれませんが(すいませんー)真如堂の門前に鳥居があります。 神社のようですが、法伝寺という真如堂の塔頭寺院で、荼枳尼天をお祀りしています。 江戸時代には「門前稲荷社」と呼ばれていたようです。 明治の神仏分離令で稲荷神を仏教の神・荼枳尼天に改めたのではないでしょうか。 といっても、神仏を習合して信仰していた時代には稲荷神と荼枳尼天は習合されていましたから、全く関係のない仏教の神を祀るようになったというわけではありません。 稲荷神に対する信仰は、荼枳尼天に対する信仰と同じものであると、そう考えられていたのだと思います。 真如堂
②女人の守護神荼枳尼天のルーツは、ヒンズー教またはベンガル地方で信仰されていた女神で、のちに仏教にとりこまれたと考えられています。 荼枳尼天は裸身で虚空を駆け、人肉を食べる魔女とされます。 裸体でドクロを持つ女神の姿で表されることもあったということです。 日本では稲荷神と習合され、白狐に乗る天女ので表されることが多いです。 えっ、裸体の魔女なら逢ってみたいって? 心臓食べられても知りませんよ~。(笑) 荼枳尼天は6か月前に人の死を知り、死ぬまではその人を守りますが、死の直前に心臓を食べるとか 大日如来の化身である大黒天によって調伏され、死者の心臓なら食べることを許されたという伝説もあります。 真如堂は藤原詮子の邸宅跡にあり、御本尊は女人救済の阿弥陀如来とされます。 それで、女の神様である荼枳尼天=稲荷神を祀っているのではないでしょうか。(※稲荷神は男神の姿で現されることもあります。) 真如堂
②狐とドクロの関係①で、荼枳尼天は裸体で髑髏を持つ女神の姿で表されることもあると書きましたが、狐はどうもドクロに関係が深い動物のようで、中国にこんな伝説があります。 志玄という僧侶が墓場で野宿をしていると、一匹の狐が髑髏を頭にかぶり、草の葉を摘んで、体中に貼りつけた。 すると狐の姿は白衣をまとった娘と化した。 狐が化けた娘が道端で泣いていると、馬に乗った軍人が通りかかり、娘に泣いている理由を尋ねた。 「去年、夫に先立たれ、家業もうまくゆかなくなりました。実家に苦境を知らせたいと思いましたが、道もよくわかりません」 軍人は「私の馬に乗せて連れて行ってあげましょう」と言った。 それを見ていた志玄は叫んだ。 「その娘は人間ではありません、狐が化けているのです。」 志玄は錫杖を振り上げ「速やかにもとの形に戻れ!」と叫ぶと娘は身もだえして倒れた。 そこに娘の姿はなく、年老いた狐が血を吐いて死んでいた。 その頭には髑髏をかぶり、体中が草の葉で覆われていた。(六朝『捜神記』) 中国の『酉陽雑俎』には、狐が人に化けるのに必要な手順として北斗踏みという道教の儀式が描かれています。 北斗踏みとは北斗七星の形をなぞって歩く事をいうそうです。 北斗七星は人の死を司るとされています。 江戸時代に記された 『和漢三才図会』には「狐は化けようとするときは、必ず髑髏を頭に載せ、北斗を拝して人に化ける」とあります。 中国の伝説が日本に伝わっていたのですね。 東寺に伝わる稲荷大明神の頭には髑髏と、逆向きの北斗七星が描かれています。 こちらが日本の荼枳尼天です。↓ https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ADakini.png https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Dakini.png よりお借りしました。 作者 Hidenobu Tosa, 土佐秀信 (http://www.lib.ehime-u.ac.jp/SUZUKA/316/index.html) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
③荼枳尼天の袋の中にはドクロが入っている?荼枳尼天は手に袋を持っていますね。 真言立川流では荼枳尼天を祀り、ドクロに漆や和合水を塗り重ねて作った髑髏本尊の前で性行為を繰り返したあと、髑髏本尊を袋に入れ7年間抱いて寝ると8年目に髑髏本尊が語りだすとしていました。 荼枳尼天の袋の中にはドクロが入っているのではないかと思います。 よかったらこちらの記事もよんでね~↓ 清凉寺 お松明式 『摩耶夫人が投じた薬袋には何が入っている?』 真如堂 ④狐は北斗七星を表している?
上の絵の、荼枳尼天が乗る狐をよく見てください。 なんか、北斗七星に似てるような気がするんですが、どうでしょうか? 狐の前脚、頭、胴体の部分が柄杓、後脚が持ち手です。
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[2017/10/20 11:45]
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京都氏上京区 大聖寺 2017年10月初旬撮影
もう紫の萩は散ってしまって、白萩のみ満開でした。 同じ日、梨木神社は満開だったんですけどね~。 梨木神社 萩 『浮穴媛のこどもたち』 萩を撮るタイミングって難しい~。
①花の御所跡
大聖寺は足利義光の花の御所内にあった岡松殿を、寺にあらためたものです。 開基は光厳天皇の后の日野宣子で、日野宣子は光厳天皇崩御後、花の御所の岡松殿に住んでいました。 大聖寺と言う寺名は、日野宣子の法名・「大聖寺殿無相定円禅定尼」からつけられたとのことです。 花の御所は、足利義光が邸宅として用いていたところで、東は烏丸通、南は今出川通、西は室町通、北は上立売通に囲まれた東西1町、南北2町に及ぶ広大な屋敷でした。 今出川町の文字のある東西の通りが今出川町、同志社大学の西の南北の通りが烏丸通、裏築地町の文字のある南北の通りが室町通、京菓子資料館の南の東西の通りが上立売通です。 1476年に戦火で焼失したのち、なんどか再建されましたが、1559年に廃止されました。 大聖寺は、、長谷(ながたに、現・左京区岩倉長谷町)、毘沙門町(現・上京区上立売通寺町西入る)に移転したのち、1673年に焼失しましたが、1697年、花の御所跡である現在地に移転したということです。 つまり、大聖寺は花の御所を偲ぶ唯一の建物、ということになるかと思います。 ②足利義満は天皇になろうとした?花の御所に住んでいた足利義満は天皇になろうとしていた、とする説がありますね。 例えば金閣寺。 3階建ての金閣寺の建物の、1階は公家好みの寝殿造り、2階は武家造り、3階は禅宗仏前造りと異なる様式になっています。 金閣寺を建てたとき、義光は出家していました。 金閣寺の階ごとに異なる様式とその並びは、義満の下に武家が、さらにその下に公家がくるという身分のありかたを示しているのではないか。 そう井沢元彦さんはおっしゃています。 また、義満の次男吉嗣を宮中で、皇子と同じ形で元服させてもいます。 義満は日明貿易を望み、「日本国征夷将軍源義満」名義で明に使者を送っています。 このとき、明は南朝の懐良親王を「日本国王良懐」として正規な通交相手として認めていました。 そして義満は臣下であるということで通行相手として認められませんでした。
そこで義満は太政大臣を辞し、出家しました。 こうすることで、義満は臣下の身分ではなくなり、再び明に通交を申し入れたところ、明より「日本国王源道義(にほんこくおうげんどうぎ)」の符号を得、また通交の許可を得ることに成功しています。
これはつまり、対外的には日本のトップは後小松天皇ではなく、足利義満であると認識されていたということ?
③義満は暗殺された?
義満は頭痛を訴えて倒れ、その9日後に死亡しています。 井沢元彦さんは『義満は毒殺されたのではないか』とし、死後朝廷が「鹿苑院太上法皇」の諡号を送っているのは怨霊鎮魂が目的であったのではないかとおっしゃっています。
一方、若林利光氏はの病状は「クモ膜下出血」ではないかとおっしゃっていますが。
④「鹿苑院太上法皇」ってスゲー!
それにしても「鹿苑院太上法皇」ってすごい諡号ですね。 太上天皇とは、譲位して更衣を後継者に譲った天皇の尊号、太上法皇とは、出家した太上天皇のことです。 第四代将軍の足利義持はこれを辞退していますが。
皇族でない人で、死後このような諡号を与えられた人ってほかにいますか?(いれば教えてください!) 皇族で天皇になれなかった人なんかには結構○○天皇のような諡号が贈られていますが。
義満の母親の紀良子の母・智泉尼聖通は順徳天皇の皇子・四辻宮善統親王の孫であるとかいわれており、義満は皇胤であるとする説があるそうですが 天皇家は代々男系継承だからなあ~。 天皇家でない男性と皇女の間にうまれた男子が天皇になったというケースはないはずだし(天皇と皇女の間に生まれた皇子が天皇になったケースはあるけど) ましてや親王の女孫の娘の子が天皇になったなんてケースはないと思います。(だよね?)
実は義満の父親は第2代将軍・足利義詮の子ではなく、皇族だったりして? もうちょっと調べてみることにします~。
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[2017/10/19 11:37]
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京都市東山区 粟田神社 粟田祭 神幸祭 体育の日
①粟田神社のふたつの創建説話粟田神社にはふたつの創建説話が伝えられています。 a.876年、神祇官と陰陽寮が「今年、兵災があり、秋には疫病が流行るでしょう」と占ったため、清和天皇は全国の神社に祈祷を命じました。 この際、出羽守・藤原興世は感神院祇園社(現在の八坂神社)に祈願しました。 満願の夜、興世の枕元に大己貴神(大国主命の別名)があらわれ「祇園の東北に我を祀れば、国家と民は安全になるだろう。」と告げました。 こうして粟田神社が創建されました。b.粟田氏が氏神として粟田神社を創建した。 ②皇別氏族・粟田氏粟田氏は第5代孝昭天皇の皇子・天押帯日子(あめのおしたらしひこ)命を始祖とし、大和の添上郡(奈良市東部)や,山城の愛宕郡粟田郷(京都市東山区)などに住んでいたそうです。 粟田神社は京都市東山区粟田口鍛冶町にあり、粟田氏はこの粟田神社付近に住んでいたと考えられます。 皇別氏族ぐらいになると氏神(祖神)を祀るくらいのことはしそうです。 だけど、aの創建説話では粟田神社は藤原興世が創建したということになっていますね。 ③藤原氏の土地乗っ取り伝説藤原氏には土地を乗っ取ったというような伝説がいくつかあります
c.武甕槌命は春日野の地主である榎本の神に『この土地を地尺だけ譲ってほしい』と言いました。 榎本の神は『三尺くらいなら』と承諾しました。 ところが武甕槌命は広大な土地に囲いをしたので、榎本の神は『話が違う』と抗議しました。 武甕槌命は『私は地下三尺と言ったのに、あなたが聞き取れなかったのです。』といっいました。 しかし榎本の神が住むところがないと困るので、春日大社本殿のすぐそばに社を作りました。
藤原氏の氏神は春日大社で、タケミカヅチ・フツヌシ・アメノコヤネノミコト・ヒメガミを祀っています。 タケミカヅチ・フツヌシ・アメノコヤネノミコト・ヒメガミの四柱の神は総称して春日明神と呼ばれています。
つまり、春日大社の神=藤原氏の神が榎本の神の土地を奪ったということになると思います。
d.氷室の神さまの土地に、春日の神さまが若宮祭のお旅所を作ったため、相撲をとって決着をつけた。
④鞍馬寺は紀氏の寺だったのを藤原氏が奪った?鞍馬寺にはこんな創建説話が伝えられています。 e.藤原伊勢人の夢の中に貴船の神が現れ、鞍馬寺をつくるようにと言った。貴船神社は平安時代に上賀茂神社の第2摂社となっています。 賀茂神社の御祭神・賀茂別雷大神の母神は玉依姫で、下鴨神社に祀られています。 そして貴船神社奥の院にある船形石が玉依姫の乗った船であるという伝説があるので、 貴船神社は上賀茂神社と関係がある神社だということで、上賀茂神社の摂社とされたのではないかと思います。 ところが兵庫県尼崎市の長洲貴布禰神社には次のように伝わっています。 平安京遷都の際、調度の運搬を命ぜられた紀伊の紀氏が「任務が無事遂行できますように」と自身の守り神に祈願したところ、事がうまく運び、そのお礼にこの社を建てました。
紀氏の神が、藤原氏に寺を作れ、なんて言うもんですかね? どうやら貴船神社は紀氏の神を祀る神社だというのが真実のようです。 どうも鞍馬寺ももともと紀氏の寺だったのを、のちに藤原氏に奪われたように思えます。 ⑤八坂神社は牛頭天皇の総本社ではなかった?粟田神社の南にある八坂神社は牛頭天皇の総本宮を称していますが、兵庫県姫路市の広峰神社(兵庫県姫路市広嶺山52)もまた牛頭天皇の総本宮を称しています。。 広峰神社側の資料には次のようにあります。 ①869年疫病が流行り、藤原基経が播磨国の牛頭天皇を都に勧請した。 ②京都四条にある元祇園梛神社(京都市中京区壬生梛ノ宮町18-2)は、この時、牛頭天王の乗る御輿を梛の林中に置いて祭ったことが始まりである。 ③京都に着いた牛頭天王は北白川の東光寺に祭られた。 ④その後、藤原基経が八坂にあった邸宅を寄進して感神院祇園社を建立し、牛頭天王を遷座した。 ⑤しかし疫病はおさまらず、広峯神社の社人を都に招いて白幣祭を行わせたところ疫病はおさまった。 ⑥この白幣祭が祇園御霊会のルーツである。 また神戸の祇園神社、大阪の難波八阪神社、京都の岡崎神社などは、神様を廣峯神社から八坂神社へ移した際に神様が休憩された所と伝わっています。  八坂神社は鎌倉時代に入ってから広峯神社が言い出したことだとしているようですが、神様が休憩された所まで残っているので 廣峯神社の言い分のほうが筋が通っているように思えます。 こんなに藤原氏が土地や神を奪ったというような伝説があるところをみると、粟田神社は粟田氏の氏神を祀る神社だったのに、あとから藤原氏が土地と神様を奪ったんじゃないかなあ、と疑ってしまいます。 まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2017/10/13 11:12]
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大阪府枚方市 枚方宿 2017年10月8日 撮影
①枚方宿江戸時代、江戸の日本橋から三条大橋にいたる東海道に設置された53の宿場を東海道五十三次といいます。 その後1619年に東海道の延長線の、摂津国高麗橋にいたる京街道(大坂街道)に四つの宿場が設置されました。 東海道五十三次に四つの宿場を足して、東海道五十七次と呼ばれました。 その東海道五十七次の56番目の宿が枚方宿です。 今も江戸時代の面影を残す枚方宿の町並に、「べーらべーら べらさっさ」というお囃子が聴こえてきましたよ。 意賀美(おがみ)神社の氏子さんたちがふとん太鼓を担いでやってきました! ②伊香色男・伊香色女の邸宅内にあった意賀美神社現在の意賀美神社は万年寺山にありますが、もともとは現在地より100mほど南にあった伊香色男・伊香色女の邸宅内にあったとされます。 そして万年寺山には須賀神社があったそうです。 須賀神社は流行していた疫病退散祈願を目的として872年に創建されたとされます。 御祭神は牛頭天皇でした。 須賀神社のある万年寺山には万年寺というお寺があったそうです。 江戸時代まで神仏は習合して信仰されており、神宮寺(神社に付属した寺)が建てられることがありました。 万年寺は須賀神社の神宮寺だったのかもしれません。 しかし明治3年、万年寺は廃寺となりました。 また岡村に日吉大社があり、明治42年〈1909年)、須賀神社と日吉大社は意賀美神社に合祀されました。 そしてその翌年、意賀美神社は万年寺山に遷座したということです。 意賀美神社 春に撮影したものです。③意賀美は龗?それとも伊香?意賀美神社の主祭神は高龗神(たかおかみのかみ)という水神です。 意賀美神社の近くには淀川が流れているので、水神を祀っているのでしょうか。 また意賀美神社という神社名はこの高龗神の「おかみ」からとったのかもしれませんね。 あるいは意賀美神社の「意賀美」は「いがみ」と読むことができ、もともと意賀美神社があったのは伊香色男・伊香色女の邸宅なので、伊香から意賀美神社となったのかもしれません。 (伊香色男は伊香色雄命でイカガシコオ、伊香色女は伊香色謎命でイカガシコメと読むのだと思います。まちがってたら教えて!) ③ニギハヤヒの子孫と欠史八代の一・開化天皇ウィキペディア「意賀美神社(枚方)」によると、伊香色男は開化天皇の時代の人で、ニギハヤヒの5世の子孫で物部氏の遠祖とあります。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%8F%E8%B3%80%E7%BE%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E6%9E%9A%E6%96%B9%E5%B8%82)#.E6.AD.B4.E5.8F.B2またウィキペディア「伊香色謎命」には、孝元天皇の妃、開化天皇の皇后、父は 大綜麻杵命で、母は高屋阿波良姫、同母兄に伊香色雄命がいると書いてあります。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%A6%99%E8%89%B2%E8%AC%8E%E5%91%BDまず孝元天皇の妃となり、孝元天皇が亡くなった後、開化天皇の皇后となっていますね。 開化天皇の父親は孝元天皇、母親は伊香色謎命の叔母の欝色謎命です。 つまり、元ダンナと叔母の間に生まれた子と再婚したというわけで、いまでは考えられないような結婚です。 ですが、古には血の純潔を守るため、近親婚は当たり前だったとする説もあります。 それよりも興味深いと思うのは、伊香色女(伊香色謎命)・伊香色男(伊香色謎命)姉弟がニギハヤヒの子孫だということ、 そして開化天皇が欠史八代といって、実在しなかったのではないかと考えられている八代の天皇の一人だということです。 ④欠史八代欠史八代とは第2代綏靖天皇から第9代開化天皇の8代の天皇のことを言います。 なぜこの8代の天皇が実在しなかったと考えられているのかといえば、 これらの天皇にはほとんど事跡らしいものが記されていないこと、 第10代崇神天皇の和風諡号が初代神武天皇と同じ「ハツクニシラス」であるため、同一人物ではないかと考えられていることなどがあげられます。 ⑤初代神武天皇以前、畿内には物部王朝があった?記紀によるとニギハヤヒは初代神武天皇より早く畿内に天下っていたとあります。 またニギハヤヒを神と奉じるナガスネヒコは、神武にこんなことを言っています。 「昔、天つ神の子・ニギハヤヒが天の磐船に乗って降臨した。天つ神の子がどうして二人いるのか。」 これを聞いた神武は自分が天つ神の子であることを証明するため、天の羽羽矢と歩靱を見せました。 ニギハヤヒは天孫(天照大神の子孫)だったんですね。 ニギハヤヒが天の磐船に乗って降臨したとされるところには磐船神社(大阪府交野市)がありますが、「天孫降臨の地」と書いたのぼりが建てられていましたね。 磐船神社 御神体 天磐船
ついでに言っておきますと、意賀美神社のある大阪府枚方市と、磐船神社のある大阪府交野市は隣接しており、古には交野ケ原と呼ばれたところです。 このあたりは肩野物部氏の本拠地だったところとされています。 それで物部氏の神を祀る神社が多いのでしょう。 ⑥物部氏の血の濃い天皇初代神武天皇と10代崇神天皇が同一人物だとすると、9代開化天皇は実在していなかった可能性があります。 そこで、 ③ニギハヤヒの子孫と欠史八代の一・開化天皇 のところで書いたことを思い出してほしいのです。 開化天皇の母親は伊香色謎命の叔母の欝色謎命で、皇后は伊香色謎命でしたね。 欝色謎命は物部氏の女性なので、開化天皇の母親は物部氏なのです。 そして開化天皇と伊香色謎命の間に生まれたのが、初代神武と同一人物とも考えられている10代崇神天皇で、崇神天皇の母親と祖母は物部氏だということになります。 崇神天皇は物部氏の血の濃い天皇だといえるでしょう。 ただし、父系の先祖はずべて天皇家で、母系が物部氏です。 ⑦入り婿王朝10代崇神天皇の和風諡号ハミマキイリヒコイニエで、11代垂仁天皇の和風諡号はイクメイリヒコイサチといいます。 どちらも諡号に「イリ」とあるところから「イリ王朝」と呼ばれています。 この「イリ王朝」の「イリ」とは「入り婿」のことではないかとする説があります。 そういえば、記紀神話には入り婿になる話が多いですね。 ニニギは葦原中国に天下って葦原中国のオオヤマツミの娘・コノハナサクヤヒメと結婚していますし ニニギの子のホオリ(山幸彦)は龍宮にいき、竜宮の王・ワダツミの娘のトヨタマヒメと結婚しています。 すると、伊香色女と伊香色男は物部王朝の皇女・皇子をモデルとして創作された人物なのかな、と考えたりもします。  ⑧伊香色女は卑弥呼で、伊香色男は卑弥呼の男弟のイメージ?私は邪馬台国とは物部王朝のことであり、卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命、卑弥呼の男弟は倭大国魂神=大物主神のことではないかと考えています。 その理由については説明すると長くなるので、こちらの記事を読んでください。↓ 崇神天皇陵 夕日 『卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命、男弟は大物主、狗奴国の男王は崇神天皇?』 姉・伊香色女は卑弥呼のイメージで、伊香色男は卑弥呼の男弟のイメージで創作されたのかも?
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[2017/10/11 15:06]
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奈良県斑鳩町 法起寺
①中秋の名月って何?2017年は10月4日が中秋の名月でしたね。 旧暦(太陽太陰暦)では、7月8月9月が秋でした。 秋の真ん中の8月15日を中秋といいました。 『中秋の名月』とは旧暦8月15日の月のことなんです。 旧暦は月の周期をベースとした暦で、だいたい、新月の日が1日、新月から15日目の十五夜が満月でした。 旧暦はカレンダーを見なくても、月を見れば日にちがわかったのです。 ②月は東に、日は西に  あるとき、奈良の法起寺で夕日の写真を撮っていたのですが、ふと後ろを振り向くと山の端に美しい満月が! あわてて法起寺の西へ走って月を撮影したという記憶があります。 「菜の花や 月は東に 日は西に」と与謝蕪村が俳句を詠んでいます。 季節は違いますがまさしくその状態だったわけです。 ③太陽ー地球―月が一直線に並んでいることを実感!私は空間認識能力にかけ、理数系が苦手です。 なので、天体の動きとか月の満ち欠けのメカニズムなど、あんまりよくわからないんですが この「月は東に 日は西に」の状態は、太陽ー地球ー月がほぼ一直線に並んでいるのが実感できて、なかなか感動的でした。 この日の月はほぼ満月でした。 なるほど、太陽がほぼ真正面にあるから、満月なんだなあ~と納得したしだいです。 ④太陽・地球・月が一直線に並んでいるのに月食にならないのはなぜ?太陽・地球・月が一直線に並んだ状態のとき、月は満月です。 一直線に並んでいると、太陽の光が地球に遮られて月食になるように思えます。 だけど滅多に月食になりません。 地球から見上げると空はお椀を伏せたような半球状に見えます。 これを天球といいます。 太陽は1年間でこの天球を1周するように動きます。 この1年間の太陽の動きを天球上に示したものを黄道といいます。 黄道は天の赤道に対して23度26分傾いています。 月の動きを天球上に示したものを白道といいます。 白道は黄道に対して5度8分7秒傾いています。  そのため、太陽と月が地球を挟んで反対側にある場合でも、月食にならないことが多いということです。 ⑤月食と日食上の図を見ると黄道と白道が交わる点が2か所あります。 この点付近で満月のとき(太陽ー地球―月の並びになっているとき)月が地球の影に入って月食となります。 この点付近で新月のとき(太陽ー月―地球の並びになっているとき)月が太陽を遮って日食となります。 月食(合成) 金環日食まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2017/10/09 18:09]
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奈良市五条町 唐招提寺 観月讃仏会 中秋の日
①毘盧遮那仏、薬師如来、千手観音は天下三戒壇を表す?毘盧遮那仏、薬師如来、千手観音の三尊を祀っているのはここ唐招提寺だけです。 三尊は東大寺(本尊は毘盧遮那仏)、下野薬師寺、筑紫観世音寺の「天下三戒壇」を表すといわれています。 ②毘盧遮那仏は長屋王、薬師如来は道鏡、千手観音は玄昉のイメージ?私には、毘盧遮那仏は長屋王、薬師如来は道鏡、千手観音は玄昉のイメージと重なって見えてしまいます。 詳しくはこちらの記事をお読みいただけると嬉しいです。 → 唐招提寺 蓮 と 頭塔 長屋王、道鏡、玄昉はいずれも奈良時代に政治的に不幸な死を迎えた人物です。 長屋王は謀反を企てたとして長屋王邸(現在のイトーヨーカ堂奈良店)で自殺に追い込まれました。 道鏡は失脚して下野薬師寺に、玄昉は筑紫観世音寺に左遷となっています。 ③怨霊を和魂に転じて仏にする?彼らは死後、怨霊になったと考えられたのではないかと思います。 そして唐招提寺の三尊は、長屋王、道鏡、玄昉の怨霊を和魂に転じて仏にしたものではないでしょうか? 日本では古より神仏は習合されて信仰されてきました。 そのベースになったのが本地垂迹説です。 本地垂迹説とは『日本古来の神々は仏教の神々(みほとけ)が衆上を救うために仮にこの世に姿を現したものである』とする考え方のことで 日本古来の神々のことを権現、日本古来の神々のもともとの正体である仏教の神々のことを本地仏といいます。 たとえば、日本古来の神である菅原道真の本地仏は十一面観音である、などとされています。 唐招提寺の場合は次のような関係になっているのではないかと思います。 毘盧遮那仏・・・長屋王の本地仏 薬師如来・・・・道教の本地仏 千手観音・・・・玄昉の本地仏 神は御霊・和魂・荒魂の三つに分けられ、女神は和魂を、男神は荒神を表すとする説があります。 御霊・・・神の本質 和魂・・・神の和やかな側面・・・女神 荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神女神・男神と書きましたが、日本の神様って、性別が曖昧なんですよ。 古事記や日本書紀では三輪明神(大神神社の御祭神・大物主神)は男神として登場しますが、謡曲・三輪に登場する三輪明神は女神です。 一般に稲荷明神は女神とされていますが、亀岡祭曳山の御神体の稲荷明神は男神でした。 これに本地垂迹説をからめると、次のようになるのではないかと思います。 御霊・・・神の本質 和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・みほとけ・・・・・・毘盧遮那仏/薬師如来/千手観音 荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・日本古来の神・・・・長屋王/道鏡/玄昉
 ④太陽は陽、月は陰。陰陽道では太陽は陽、月は陰です。 すると、次のようになります。 御霊・・・神の本質 和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・みほとけ・・・・・・毘盧遮那仏/薬師如来/千手観音・・・月 荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・日本古来の神・・・・長屋王/道鏡/玄昉・・・・・・・・・太陽つまり、唐招提寺の毘盧遮那仏・薬師如来・千手観音は長屋王・道教・玄昉の和魂であり、 観月讃仏会は彼らの和魂が月となって闇夜を照らす光明になったということを表す行事であるように、私には思えるのです。 まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2017/10/07 14:00]
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大阪市住吉区 住吉大社 2017年10月4日 撮影 ちょっと早めに行ったら能を見る事ができました。ラッキー♪
①和歌三神反橋の上で和歌・俳句の入選作品を朗詠したあと、住吉踊・舞楽の奉納がありました。 ここ住吉大社は海の神様として信仰されていますが、和歌の神様でもあるのです。 柿本人麻呂・玉津島姫・住吉明神の三神は和歌三神といい、和歌を守護する神として古くから信仰されてきたのですね~。 ②和歌三神は怨霊だった?古には神と怨霊は同義語であったなどといわれます。 陰陽道では荒ぶる怨霊は慰霊すればご利益を与えて下さる神に転じると考えるそうです。 怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、疫病の流行や天災は怨霊のしわざだと考えられていたのです。 住吉踊そして僧正遍照・在原業平・文屋泰秀・喜撰法師・大友黒主・小野小町のことを六歌仙といいますが、高田祟史さんは「六歌仙とは怨霊である」とおっしゃっています。 その理由は、この6人はいずれも藤原氏と敵対関係にあった人物だと考えられるからです。 詳しいことはコチラの記事を読んでくださいませ~。→ 松尾寺 百合 『七福神の正体は六歌仙+惟喬親王だった?』 六歌仙が怨霊ならば、和歌三神も怨霊なのではないでしょうか? ③「小野小町は衣通姫の流なり」とは「小野小町は美人」という意味ではない?古今和歌集仮名序には「小野小町は衣通姫の流なり」と記されています。 この衣通姫と和歌三神の一、玉津島姫は同一視されています。 和歌山県和歌の浦に玉津島神社がありますが、ここの御祭神は稚日女命・息長足姫命(神功皇后)・衣通姫命なんですね。 玉津島姫とは、稚日女命・息長足姫命(神功皇后)・衣通姫命の総称ではないかと思えます。  そしてこの「衣通姫の流」である小野小町が、高田祟史さんがおっしゃるように怨霊であるとすれば、 衣通姫=玉津島=小野小町=怨霊となり、玉津島姫は怨霊なのではないかと思えます。 衣通姫はたいへんな美人であったと記紀には記されています。 それで「衣通姫の流」とは「美人」ということで、「衣通姫の流」である小野小町は美人、と一般的には解釈されています。 ですが、それは間違いだと思います。 「小野小町は衣通姫の流なり」とは、「小野小町は衣通姫と同じ怨霊である」という意味ではないかと思います。 ④柿本人麻呂水死説次に、和歌三神の柿本人麻呂について見てみましょう。 梅原猛さんが著書「皆底の歌」の中で、「柿本人麻呂は刑死させられた。柿本人麻呂は水死させられた。」という説を説いておられます。 柿本人麻呂像はお雛様のように首が抜けるようになっているそうです。 梅原猛さんは、「これは柿本人麻呂が怨霊であるので、像より魂を抜く呪術的なしかけではないか」というようなことを書いておられました。  なるほど、柿本人麻呂は刑死させられたのかもしれません。 ただ、水死ではないと思います。 梅原猛さんが柿本人麻呂が水死したとされるのは、柿本人麻呂の妻が次のような歌を詠んでいるためです。 今日今日と 吾(あ)が待つ君は 石川の 貝に交りて ありといはずやも (今日か、今日かと私が帰りを待っているあなたは、石川の貝に交ざってしまったというではありませんか。
柿本人麻呂が貝に交ざって死んだということは、水死したということだ、というのです。 gifアニメにすると画質が悪くなちゃいますね。何かいい方法ない?⑤柿本人麻呂は遊女ととエッチして死んじゃった?これに対して私はこう考えます。 万葉集には石川女郎という歌人がいて、たいてい男と色恋の歌を贈答しあっています。 一般には古代豪族の石川氏出身の女性だと考えられていますが、江戸時代の国学者の橘守部は「石川とは遊女のことではないか」としておっしゃっています。 私は橘守部の説を支持しますね~。 そして柿本人麻呂の妻が歌に詠んだ「石川の貝に交じりて」の「貝」とは女性器の喩えではないでしょうか。 えっ?柿本人麻呂は石川という遊女ととエッチして死んじゃった? いえいえ、そういう意味ではないんです。 これを理解するためには聖天さんの伝説を知らねばいけません。 ⑥聖天さんと道祖神は習合されている?聖天さんとは鬼王ビナヤキャと十一面観音の化身であるビナヤキャ女神の男女双体のみほとけで、ビナヤキャ女神が鬼王ビナヤキャの足を踏みつけるお姿をされています。 鬼王ビナヤキャは疫病をもたらしたり人に祟る神でした。 そこで十一面観音がビナヤキャ女神に姿をかえ、その性的魅力で、鬼王ビナヤキャの祟神としての力を押さえつけているの図なのだと思います。 動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます!道祖神はこの聖天さんと習合されていると思います。 道祖神はもともとは中国の道教の神ですが、日本ではサルタヒコとアメノウズメの男女双体の神とされています。 ただし、ビナヤキャ女神は鬼王ビナヤキャの足を踏みつけていますが、サルタヒコとアメノウズメは手をつなぎあっています。 でもこれ、手をつなぎあっているんじゃなくて、アメノウズメがサルタヒコの手をつかんで押さえつけているの図だと思います。 というのは、古事記にこんな記述があるんです。 a.ニニギはアメノウズメに「サルタヒコを故郷の伊勢に送り、彼の名を伝えて仕え祀れ」といった。 b.サルタヒコは比羅夫貝に手をはさまれて死んだ。 aについて、ニニギはアメノウズメに「サルタヒコに性的に仕えよ」と言ったのだと思います。 bについては、貝は女性器の喩えで、サルタヒコはアメノウズメの女性器に手を挟まれて死んだ、ということだと思います。 サルタヒコはアメノウズメとエッチして死んだとまあそういうことだと思います。 つまり道祖神とはアメノウズメがその性的魅力でサルタヒコの祟る力を抑えこんでいる、そういう神だと思います。 聖天さんは女神が男神の足を踏みつけているのに対し、道祖神は女神が男神の手を押さえつけているというわけです。 柿本人麻呂が「石川の貝に交ざって死んだ」というのも、女神の性的魅力によって人麻呂の祟る力が抑えられ、道祖神のように男女双体の神になったというような意味ではないでしょうか。 まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2017/10/06 13:57]
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