京都市左京区 東北院
2017年9月初旬撮影
東北院
①東北院
東北院は藤原道真の没後に、道真の娘・上東門院が法成寺境内に常行三昧堂として建てました。
東北院と呼ばれるのは道長が建立した法成寺境内の東北に建てられていたためです。
室町時代には桓武天皇代に最澄が作ったと伝わる弁財天が厚く信仰されました。
門前の石碑に「大弁財天女」とありますね。
しかし寺は応仁の乱によって建物は焼失してしまいました。
その後、1559年に時宗の僧・弥阿が残された弁財天を本尊とし、時宗に改めたそうです。
②能・東北 東北院は能・東北の舞台です。
動画お借りしました。 動画主さん、ありがとうございます。
能『東北』は次のような筋です。
木曽の僧の一行が、梅の花が満開となった東北院へやってきました。
そこへ梅の精が現れ、和泉式部が植えた梅で「軒端の梅」と名付けたこと、東北院の方丈は式部の寝所であったことなどを語ります。 僧が読経すると、和泉式部の霊が現れて、こんな話をしました。
昔、関白藤原道長が法華経を唱えながら門前を通るのを聞いて、「門の外 法の車の 音聞けば 我も火宅を 出でにけるかな」と歌を詠み
その功徳により死後、歌舞の菩薩となったと。
火宅とは、仏教用語で「人々がこの世が苦しみの世界であることを悟らず、享楽にふける」ことを言います。
つまり歌は「藤原道長が法華経を唱えつつ門前を行き過ぎるのを聞いたので、自分も享楽にふけるのをやめた」という意味だと思います。
③和泉式部は弁才天の化身だった?
東北院の本尊は弁財天ですが、弁財天像には2つのタイプあります。
ひとつは、8臂(腕が8本)の弁財天像です。
8本の腕に、弓・矢・刀・矛・斧・長杵・鉄輪(外円部が刃になった輪。投げて敵を斬る為の武器。)羂索(投げ縄状の武器)を持ちます。
もうひとつは2臂(腕が2本)で、琵琶を弾く姿で現されるものです。
琵琶を弾く弁財天は歌舞の神だといえるでしょう。
能「東北」では、和泉式部は歌舞の菩薩になったとしていますが、これは和泉式部が東北院の弁財天になったという意味ではないでしょうか。
和泉式部は弁財天の化身だと考えられたのではないかと思います。

大覚寺狂言 十王堂 弁財天(向かって左)と琵琶法師(向かって右)
③為尊親王と和泉式部のw不倫
和泉式部〈978?~?)は平安時代の女性で、恋多き女性として知られています。
995年ごろ、19歳で和泉守(いずみのかみ)橘道貞と結婚。
ふたりの間には、娘・小式部内侍が生まれるも、夫婦仲が悪くなり、1004年ごろに離縁しています。
離縁の原因は和泉式部と為尊親王(冷泉天皇第三皇子)が恋愛関係に陥ったためだとも言われています。
為尊親王は藤原伊尹の娘・九の御方と結婚していましたから、w不倫ですね。
ただし、当時の男性は複数の妻を持つのが当たり前でした。
しかし結婚している女性が別の男性と契るというのは、当たり前のことではなかったはずです。
1001年、為尊親王は病を患い、1002年に26歳で亡くなってしまいました。
世の人々は「伝染病が蔓延する平安京を毎日のように夜歩きをして和泉式部のもとへ通ったため病気になった」と噂したそうです。
その後、和泉式部は為尊親王の同母弟の敦道(あつみち)親王と恋に陥ります。
敦道親王は藤原道隆三女を妻としますが、離縁。
次に藤原済時の娘を妻としまししたが、またしても離縁。
藤原済時の娘と離縁したのは、和泉式部との関係が原因だったと言われています。
④橘は昔の人を意味する
敦道親王と和泉式部のなれそめはこんな感じでした。
敦道親王は和泉式部のもとに童をやって橘の花を送りました。
古今集にこんな歌があります。
五月待つ 花橘の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする/よみ人しらず
(五月に咲く花橘の香をかぐと、昔の人の袖の香がするようだ)
別れた奥さんと再会したときに詠んだ歌なのだそうです。
別れた奥さんは柑橘系の香水がお好きだったんですかね。
橘は「五月待つ 花橘の 香をかげば~」の歌を意味し、さらに「昔の人」という意味があったのですね。
つまり敦道親王は和泉式部に対して「まだ亡くなった兄・為尊親王のことを考えているのですか」という意味で橘をおくったのです。
和泉式部はこう歌を詠んで敦道親王に送りました。
薫る香に よそふるよりは ほととぎす 聞かばや 同じ声やしたると
(香り立つ橘を送って私の様子を窺うあなた。それより私はあなたの声が聴きたいわ。兄上と同じ声をされているのかしら。)
いやー、情熱的ですねー。
それに対して敦道親王はこう歌を返しました。
同じ枝に 泣きつつおりし ほととぎす 声はかわらぬ ものとしらなむ
(同じ枝にとまって泣いていたほととぎすの様に私と兄は同じ声をしています。)
とまあ、こんな感じで二人の恋愛は始まりました。
⑤和泉式部は不吉な女性
しかし1007年に敦道親王も亡くなってしまいました。
26歳か、27歳くらいでした。
和泉式部と恋愛をした兄弟はどちらも早世してしまったのです。
和泉式部とつきあった二人の親王の相次ぐ死を、当時の人々はたいへん恐ろしいことだと受け取ったことでしょう。
そして二人の兄弟がつきあっていた女性・和泉式部は不吉な女性であると考えられたのではないかと思います。
⑤東北院は法成寺の鬼門封じだった?
東北は鬼が出入りする方角、鬼門として忌まれていました。
京都御所 猿が辻
京都御所の東北の隅は東北の角をつくらないよう、わざわざ内側に凹ませてあるぐらいです。
石清水八幡宮 本殿 鬼門封じ
石清水八幡宮では東北の角をつくらないよう、石垣の角を斜めに切り取ったような形にしてありました。
また平安京の東北には鬼門封じとして延暦寺が置かれていました。
東北院は法成寺の鬼門封じとしてつくられたのでしょう。

金熊寺 梅
東北院の境内には和泉式部ゆかりの梅があるそうです。春に見に行ってみたいけど、境内立ち入り禁止となっていたので無理かな?
⑥梅は鬼を表している?
そして和泉式部が東北院に梅を植えたと言いますが、梅は鬼をあらわしていると思います。
その理由を説明します。
梅は1月1日と2月3日の誕生花だそうです。
1月1日は新暦ではなく、旧暦だと思います。
新暦の1月1日にはまだ梅の花は咲きませんが、旧暦の1月1日(新暦の2月ごろ)になると梅の花が咲き始めます。
2月3日のほうは新暦だと思います。
2月3日は二十四節気の立春の前日で節分です。
立春は旧暦の新年と同時期で、暦法・二十四節気の新年でした。
ということは、立春の前日の節分(新暦2月3日)は暦法・二十四節気の大晦日なわけです。
干支では12月は丑月、1月は寅月で、丑寅は1年の変わり目となります。
二十四節気の場合は小寒(1月6日ごろ)~立春(2月4日ごろ)までが丑月、立春(2月4日ごろ)~啓蟄(3月6日ごろ)までが寅月です。
つまり、旧暦1月1日は寅、新暦2月3日=節分(二十四節気の大晦日)は丑となり、
梅が1月1日(寅)または2月3日(丑)の誕生花だということは、梅は丑寅をあらわす花だということになります。
そして方角を干支で表すと鬼門の東北は丑寅となります。
梅=1月1日(寅)または2月3日(丑)の誕生花=丑寅=東北=鬼門
ということで、梅は丑寅であり、鬼をあらわす植物となると思うのです。
二人の親王を死に陥れた魔性の女・和泉式部は鬼であると、古の人々は考えたことでしょう。
和泉式部が梅を植えたといいますが、梅は鬼であり、和泉式部その人のシンボルとして植えられているのではないでしょうか?

東北院の近くにある迎称寺は萩で有名ですが、全然咲いていませんでした~。
写真は以前に撮影したものです。
真如堂ではすでに紅葉が始まっていました。
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[2017/09/14 15:05]
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