京都市右京区 梅宮大社 嵯峨天皇祭・・・8月最後の日曜日嵯峨天皇祭の目玉はなんといっても梅津六斎会による六斎念仏~♪ ①越後さらし
六斎念仏の演目のひとつ、『越後さらし』。 細長い白い布を両手で持ち、激しく振り回すと、布は様々な形に変化します。 あるときは波のように、あるときは龍のようにも見えます。 新潟県新潟市南区(旧西蒲原郡月潟村)を発祥とする大道芸に『越後獅子』があります。 越後獅子を六斎の演目としている六斎会もあります。 『越後さらし』は『越後獅子』のフィナーレとして最後に行われていました。 六斎念仏の『越後さらし』はこの『越後獅子』から独立させたものだと思います。 ②雪さらしの漂泊効果越後の伝統工芸・越後上布を作るのにかかせない作業として雪さらしがあります。 雪は溶けて水となり、さらに水は気化して水蒸気となります。 そこへ直射日光が照りつけ、また雪が日光を反射して、水蒸気が強い紫外線を受けると、水蒸気(H2O)の一部が水素(H)と酸素(O)に解離します。 この酸素(O)はオゾン(O3)または酸素ガス(O2)となりますが、オゾンには漂白作用があり、雪さらしをすることによって布が漂白されるのです。 先人たちのすばらしい知恵ですね! 動画お借りしました。 動画主さん、ありがとございます。 長い布の端を二人で持って雪の上で振っていますね。 越後さらしとはこれをモチーフにしたものではないかと思います。 ③振ることは浄めの儀式だった?
 ↑ 祗園祭の綾傘鉾の棒振りです。 大昔にネガで撮影したものを安物のスキャナーで読み取ったものなので画質が悪くてすいません。 棒振りとは赤熊の髪形をした者がバトントワラーのように棒を振るパフォーマンスのことで、こうすることで道を浄めることができるとされています。 どうやら振るということにはその場を浄めるという意味があるようです。 ↑ こちらは松尾大社で行われた嵯峨野六斎会「祇園囃子」の棒振り。 雪さらしをして布を真っ白にする様子を表現していると思われる「越後さらし」の演目には浄めの神事という意味合いがあるのではないでしょうか。 梅津六斎会にも「祇園囃子」の演目はありますが、棒振りはなかったと思います。(京都にはいくつかの六斎会があり、六斎会によって行う演目が異なります。また同じ演目でも内容が少しづつ違っています。) ↑ 祇園囃子のひょっとことおかめ ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
 にほんブログ村
[2017/08/31 16:08]
京都の祭 |
トラックバック(-) |
コメント(-)
京都市右京区京北小塩町 上げ松・・・8月23日に近い土曜日

百日紅が咲く静かな里・小塩 ①小塩の上げ松前回の記事 広河原 松上げ 『松上げはなぜ地蔵盆に行われているの?』 で『松上げ』の行事についてご紹介しましたが、 同様の行事を『上げ松』と言う地域もあります。 美山町の盛郷・川合・殿、そして京北小塩町では『上げ松』と言っています。 綱をひっぱって燈篭木(とうろぎ)を立てます。 ↑ 松明。これに火をつけ、くるくる回して燈篭木のてっぺんに取り付けた「もじ(逆円錐形に杉葉等を詰めたもの)」をめがけて放り投げるんですね~。 田んぼの周囲にはたくさんの空き缶を利用したランタンがぶら下げられていて手作り感があふれています。 夕日に照らされて山が赤く染まり 谷間には鮮やかな夕焼雲が。 午後8時ごろより、上げ松の行事が始まります。 空き缶ランタンに火がともると空き缶とは思えない美しさ~!(写真下部の点状の光が空き缶ランタン) ②お盆とペルセウス座流星群8月1日は釜蓋朔日といい、地獄の釜が開く日とされます。 そしてご先祖さまの霊が地獄からこの世に戻ってくると信じられていました。 お盆(旧暦7月1日~15日ごろ、新暦では8月1日~15日ごろ)の時期はペルセウス座流星群(新暦7月20日ごろから8月20日ごろ。8月13日がピーク)が観測される時期と重なっています。 古の人々は星を死んだ人の霊、たくさんの流星がふる様子を死んだ人の霊がこの世に戻ってくると考えて、お盆の習慣が生じたのではないかと私は考えています。 https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ALeonidas_sigloXIX.jpghttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/84/Leonidas_sigloXIX.jpgよりお借りしました。 作者 不明 [Public domain または Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で 上はしし座流星群を描いた絵ですが、写真の松上げの様子に似ていませんか。 ただし、流星が上から下に流れるのに対して、松上げは下から上に放り投げられます。 松上げはお盆(8月1日~8月15日ごろ)に流星になって戻ってきた死者の霊を、地蔵盆である8月24日に天に戻す行事ではないかと私は考えました。 ④地獄が天上にあるのは変?うーん、でも地獄や黄泉の世界は地下にあるんですよね。 地獄の釜が開いて死んだ人の霊が空から流星になって戻ってくるって変かも? もしかして私の考えは間違ってる? それがずっと心にひっかかっていました。 地獄は鍾乳洞のイメージ? 詳しくはこちらの記事を読んでね。↓ 洞川温泉 面不動鍾乳洞 『鍾乳洞は黄泉の国?』 ⑤「読」は「黄泉」と同音月の神の名前は月読命といいます。 太陰暦は月齢をベースにした暦で、月を見れば今日が何日かわかります。 月が三日月なら3日、半月なら7日、満月なら15日というふうに。 月読命の「読」とは、このように月を読んで日にちを知るところからくる言葉ではないかと思います。 しかし、同時に「読」は「黄泉」と同音で、月は黄泉の国を表しているようにも思えます。 北野天満宮 三光門 月とうさぎ
⑥根の国の王・スサノオは星の神?
天照大神・月読命・スサノオはいずれもイザナギの子として生まれました。 イザナギは「天照大神は高天原を、月読命は夜の食国を、スサノオは大海原をおさめよ」と言っています。 ところが記紀神話にはスサノオが大海原をおさめたという記述がありません。 スサノオは海の神ではなく、根の国の王として登場します。 記紀神話には海の神として海神が登場し、スサノオと海神は同一神と考えられたりもしていますが。
船場俊昭さんは次のようにおっしゃています。 スサノオを漢字で書くと素戔鳴尊となりますが、これは輝ける(素)ものを失って(戔)ああ(鳴)と嘆き悲しむ神(尊)という意味で、スサノオはもともとは星の神だったのが、のちに星の神という神格を奪われたのてはないかと。 根の国とは黄泉の国と同様のものと考えられています。 ということは、根の国の王=黄泉の国の王=星の神であると考えられると思います。 ⑦スサノオは星の神から黄泉の神へと神格を変えられた?またイザナギに「夜の食国をおさめよ」と命じられた月読命は、記紀神話の中にあまり登場しません。 日本書紀では月読命は天照大神に命じられて保食神のもとへ行きますが、保食神が口から出したもので月読命をもてなそうとしたため、「けがらわしい」と怒って保食神を殺してしまったとあります。 古事記では食物の神・オオゲツヒメが口や尻から出したものでスサノオをもてなそうとしたので、怒ったスサノオがオオゲツヒメを殺したと言う話があります。 もともと夜の食国=黄泉の国=根の国をおさめていたのは月読命だったのではないでしょうか。 それをのちに、星の神であるスサノオを夜の食国=黄泉の国=根の国の神へと神格を変えたのが古事記の物語のように思えます。 ⑧古の人々は空は地球の周囲を回転していると考えていた?もしかして、古代の中国や日本では空は地球の周囲を回転していると考えられていたのではないでしょうか。 空が地球の周囲を回転していると考えないと、西に沈んだ太陽が、翌日東から昇ってくるのはなぜなのか、納得できないと思うんですよね。 そして、地獄=黄泉の国=根の国は日中は地下(地球の下)にあるが、夜になると天上に昇ってくると考えられていたのかも? ⑨地獄の釜とは月のことだった?だとすれば、釜蓋朔日(旧暦7月1日)に開く地獄の釜とは月のことではないでしょうか。 朔日とは新月のことで月齢は0です。 このときほとんど月は見えませんが、この日からどんどん月は膨らんでいくので、朔日は地獄の釜が開く日だといってもよさそうです。 そして旧暦7月15日は満月で、地獄の釜が最大に開く日です。 ペルセウス座流星群はこの開いた月の釜の中から、地上に向けて飛んでくると考えられたのではないでしょうか。 燈篭木は15メートルもあるので、燈篭木の先端の『もじ』に松明を乗せるのはたいへんです~。 やっと『もじ』に松明が届きましたよ。 大きな炎が上がってすごい迫力でした!
※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
 にほんブログ村
[2017/08/30 17:19]
京都の祭 |
トラックバック(-) |
コメント(-)
京都市左京区広河原 広河原松上げ・・・8月24日
①広河原 松上げお盆のころ、松上げという行事を行う地域があります。 以前、花背や雲ヶ畑の松上げをご紹介しました。 花背 松上げ 『お盆と人形流しとペルセウス座流星群』 雲ヶ畑 松上げ 『あちこちにある惟喬親王の隠棲地』 今回は広河原の松上げの写真をご紹介しま~す。 河原に立てられた無数の竹に松明を取り付けていきます。(地松)①愛宕信仰にちなむ行事松上げは京都市右京区の愛宕神社の信仰にちなむ行事だといわれています。 松上げの行事は主に京都~丹波~若狭にかけて行われていますが、それはこれらの地域が愛宕信仰の厚い地域だったということではないかと思います。 また山間部に多いところから、山火事を防ぐため、火伏の神である愛宕の神に祈願するという目的があったと考えられています。 太鼓と鉦が鳴り響く中、 保存会の方々が手に持った松明をくるくる回し燈籠木をまがけて松明を放り投げます。②愛宕の神は勝軍地蔵と習合されていた。花背の松上げは8月15日ですが、多くの松上げは8月24日に行われます。 雲ヶ畑や広河原の松上げも8月24日です。 8月24日は地蔵盆ですね。 なぜ松上げは地蔵盆に行う地域が多いのでしょうか? 愛宕の神(愛宕権現)は勝軍地蔵と習合して信仰されていました。 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/cd/Atago_Gongen.png よりお借りしました。 作者 Hidenobu Tosa, 土佐秀信 ( http://www.lib.ehime-u.ac.jp/SUZUKA/316/index.html) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で 勝軍地蔵とは、役小角が泰澄と京都の愛宕山に上った際に現れたとされる地蔵菩薩です。 勝軍地蔵は龍樹菩薩・富楼那尊者・毘沙門天・愛染明王を伴って大雷鳴とともに現れたそうですよ。 清水寺の延鎮が勝軍地蔵と勝敵毘沙門天に坂上田村麻呂の戦勝祈願を行ったとも伝えられます。 どうも勝軍地蔵とは戦勝祈願にご利益があると信仰された地蔵のようですね。
愛宕の神はこの勝軍地蔵と習合されているため、地蔵盆に松上げを行うのではないでしょうか。
松明が燈籠木の上に乗って燃え始めました。
③地蔵菩薩は閻魔大王と同体
さらに地蔵菩薩は閻魔大王と同体だと言われます。
閻魔大王は死者を裁く地獄の裁判官です。 一方、地蔵菩薩は地獄で亡者の身代わりとなって地獄の責め苦を受けて下さるみほとけとされます。
なんで閻魔大王と地蔵菩薩が同体? 正反対やん?
閻魔大王は亡者を裁いた分だけ、自らも同じ地獄の責め苦を受けると言われています。 ということは、閻魔大王も地蔵菩薩も、どちらも地獄の責め苦を受けるわけで、なるほど両者は同体なのだと納得です。
鬼来迎の閻魔大王(広済寺)
④松上げはなぜ地蔵盆(8月24日)に行われることが多いの?
8月1日は釜蓋朔日といい、地獄の釜が開く日とされます。 そしてご先祖さまの霊が地獄からこの世に戻ってくると信じられていました。
お盆(旧暦7月1日~15日ごろ、新暦では8月1日~15日ごろ)の時期はペルセウス座流星群(新暦7月20日ごろから8月20日ごろ。8月13日がピーク)が観測される時期と重なっています。 古の人々は星を死んだ人の霊、たくさんの流星がふる様子を死んだ人の霊がこの世に戻ってくると考えてお盆の習慣が生じたのではないかと私は考えています。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ALeonidas_sigloXIX.jpg https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/84/Leonidas_sigloXIX.jpg よりお借りしました。 作者 不明 [Public domain または Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
上はしし座流星群を描いた絵ですが、写真の松上げの様子に似ていませんか。 ただし、流星が上から下に流れるのに対して、松上げは下から上に放り投げられます。 松上げは流星になって戻ってきたご先祖様の霊を天に戻す行事のように思えるのです。
詳しくはこちらの記事をお読みください。↓ 花背 松上げ 『お盆と人形流しとペルセウス座流星群』
さらに地獄の裁判官・閻魔大王と地蔵菩薩は同体とされるので、地蔵菩薩の縁日である8月24日に死んだ人の霊を地獄に戻す行事として松上げは行われているのかも?

最後は保存会の方々が綱で燈籠木をひっぱって倒します。
 松上げが終わると観音堂で盆踊りが始まります。 腰をまげて踊るしぐさが色っぽい~。 殿方も行列を作って観音堂にやってきます。 まだまだ盆踊りは続きます。※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
 にほんブログ村
[2017/08/28 14:38]
京都の祭 |
トラックバック(-) |
コメント(-)
奈良県天川村 洞川温泉 洞川温泉 行者祭連日暑くてたまらないので、洞川温泉の面不動鍾乳洞に行ってきました。 鍾乳洞の中は涼しいと聞いたので。 洞川温泉は行者祭で有名なところですよ。 切り株をデザインしたトロッコ列車で山の中腹にある面不動鍾乳洞へと向かいます。 ①洞川の地名の由来は鍾乳洞?鍾乳洞は石灰岩が地表水や地下水などによって浸食されてできた洞窟のことです。 洞川という地名は鍾乳洞があるところからつけられたのかも? 洞川温泉 行者祭②鍾乳洞ができるメカニズム珊瑚礁が発達する温暖な海に、石灰質の殻・動物の骨などが海底に厚く堆積して石灰岩ができます。 この海底の石灰岩が地殻変動によって地上に隆起すると、石灰岩の主成分である炭酸カルシウムが弱酸性の雨水や地下水に浸食されて洞窟ができます。 つまり、この付近は今は山地ですが、かつて海底であったということですね? 権現さん ③鍾乳石鍾乳洞の中は、石灰岩を浸食する地下水で湿っぽいです。 気をつけないと頭の上から水が落ちてきますよ。カメラはタオルでくるんでおきましょう~。 この地下水は熔解した多量の炭酸カルシウムを含んでおり、洞窟内の空気に触れると方解石(石灰石の主成分鉱物)の晶出(液体から結晶が別れて生成されること。結晶とは原子・分子、イオンが規則正しく配列している個体)がおこります。 ↓ つららのような形に成長した鍾乳石。 ④石筍地面に滴った雫が固まって石筍ができます。 左下が石筍 ⑤石柱上から成長した鍾乳石と石筍が繫がって石柱ができます。 ↓ これは石柱になる前の状態。 ⑥ケイブパール面不動鍾乳洞では見られませんでしたが、ケイブパールと呼ばれる丸い鍾乳石ができることもあります。 水たまりの中の砂粒の周囲に鍾乳石がくっついて小石状になったものが、落下する雫などによって動き、表面が削られて丸くなるのです。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB⑦鍾乳洞は黄泉の国?
洞窟前の不動明王を結露フィルターで撮影(笑)記紀神話に次のような物語があります。 イザナギは妻・イザナミに会うため、黄泉の国へ行きました。 そしてイザナギはイザナミに「愛しい妻よ、帰ってきておくれ」と訴えます。 イザナミは「黄泉の大王に相談してくるので、その間決して私の姿を見ないでくださいね」と言いました。 しかし、イザナギは我慢できなくなって振り返り、イザナミの姿を見てしまいます。 イザナミの体は腐り、ウジが湧いていました。 恐ろしくなったイザナギは慌てて逃げ帰ろうとしました。(サイテー!) イザナミは怒り(当たり前やん~)黄泉醜女(よもつしこめ)に追いかけさせました。 イザナギが髪につけていた黒いカズラ(蔓=ツル植物)を取って投げると、みるみるうちに成長して山ブドウの実がなりました。 黄泉醜女たちは山ぶどうを食べはじめ、その間にイザナギは逃げました。 しかしまたしても黄泉醜女たちが追いかけてきたので、イザナギが右のミズラ(角髪)に挿していた櫛の歯を折って投げると、筍が生えてきました。黄泉醜女たちは筍を食べ始め、イザナギは黄泉平坂まで逃げました。
私は山ぶどうとはケイブパール、筍とは石筍のことではないかと考えています。 昔の人は、黄泉の国とは鍾乳洞のような場所だと考えていたのではないかと思うのです。 六地蔵はよく見ますが、七地蔵は始めて見た~。
※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
 にほんブログ村
[2017/08/24 10:45]
奈良県 |
トラックバック(-) |
コメント(-)
奈良県東吉野村 円覚寺 薬師堂 薬師堂念仏踊り 8月18日①薬師堂念仏踊り午後7時半ごろより、法要が始まりました。 見学者はカメラマン5名、民俗学愛好家の方2名のみ。 檀家さんたちは皆さん気さくで優しくて、親戚の家の法事に行ったみたいな気分に。ありがとうございました! 僧侶の方が木魚を打っていますね。 ぽくぽくぽく・・・・・ 途中から、檀家さんが木魚を打ちました。 午後9時ごろより念仏踊りが始まります。 ♪ヨォ なーあんぶつ なーあぶーつな ソレ なんと木魚をたたいていますよ。 ②念仏踊りで木魚をたたくのは珍しい念仏踊りは各地で行われていますが、木魚をたたくのは珍しいと思います。  上は京都・玄武神社のやすらい祭です。 昔の人は桜の花びらに乗って疫神が散っていく、と考えました。 そこで疫神を慰霊するため、奈良の大神大社で『鎮花祭』を行うようになりました。 京都のやすらい祭はこの『鎮花祭』をルーツとし、念仏踊りを加えたものです。 手には太鼓と鉦を持っていますね。  ↑ こちらは京都空也堂で行われた空也踊躍念仏です。 やはり手には太鼓と鉦を持っていますが、木魚は持っていません。 ③木魚は念仏のためのドラムだった木魚は読経をする際にリズムをとるためのものでした。 読経用のスリットドラムですね。 そのルーツは禅寺で用いられていた魚梆(ぎょほう)であるとされます。 魚には瞼がなく、目を閉じないので、古の人々は魚は寝ないと考えていたとか。 そのため「眠る間も惜しんで修行せよ」という意味で魚のデザインになったそうです。 正明寺 魚梆④円覚寺念仏踊りは浄土宗の影響を受けている?木魚は禅宗・天台宗・浄土宗で用いられます。 円覚寺は禅宗の曹洞宗です。 浄土宗では念仏を唱えるときに使用するそうです。 日本の仏教寺院は宗派を変えたり、他宗派の影響を受けることも多いです。 円覚寺の念仏踊で木魚を用いるのは、曹洞宗だということもあるでしょうが 浄土宗で念仏を唱える際に木魚を用いることに影響を受けたものなのかも? それにしても、薬師如来の御前で、「なーあんぶつ」と唱えるのはなぜなんでしょうか? 「なーあんぶつ」とは「南無阿弥陀仏」が訛ったものだと思います。 阿弥陀仏の御前で唱えるべきものだと思えるのですが? 皆さんはなぜだと思われますか?
※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
 にほんブログ村
[2017/08/23 08:05]
奈良の祭 |
トラックバック(-) |
コメント(-)
京都市下京区 梅小路公園 2017年8月中旬撮影 ①梅小路公園はなぜ4月29日に開園したのか?「鳴くよ〈794年) 鶯 平安京」と年号を覚えた方も多いと思います。 1995年4月29日、平安京遷都1200年を記念して梅小路公園が開園しました。 4月29日は現在では「昭和の日」ですが、1998年までは「天皇誕生日」でした。 昭和天皇の誕生日は1901年4月29日だったのですね。 崩御されたのは1989年1月7日で、1989年4月29日より「天皇誕生日」から「みどりの日」に変わりました。 さらに2007年に「昭和の日」となりました。 梅小路公園が開園したとき、4月29日は「みどりの日」でした。 公園なので「みどりの日」に開園するのがふさわしいと考えられたのではないでしょうか。 さらに、平安京遷都1200年を記念する公園なので、天皇とゆかりの深い日が選ばれたということもあると思います。 ②ちんちん電車梅小路公園はJR貨物・梅小路駅の跡地に作られています。 公園内には、京都市電(ちんちん電車)の車両を利用したカフェもありますよ。 京都市電は1895年に開業、1978年9月30日まで運行されていました。 私も学校をさぼって美術館に絵を見にいくのに(え?)何度か利用しました~。 ③京都鉄道博物館・京都水族館
近くには京都鉄道博物館や京都水族館もあります。 0系新幹線 c62 クハ86形  京都水族館 ④京の七夕日が暮れると梅小路公園にイルミネーションが輝き、幻想的な雰囲気に。 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
 にほんブログ村
[2017/08/21 23:24]
京都府 |
トラックバック(-) |
コメント(-)
春日神社 八幡神社 奈良県橿原市坊城 ほうらんや火祭・・・8月15日
①ほうらんや火祭「ほうらんや火祭」はめらめらと燃える大松明を担いで境内を練り歩くというもので、まず13時より春日神社で行われ、終了したのち15時より八幡神社で行われます。 春日神社 春日神社 春日神社②曽我川=天の川、春日神社=織女星、八幡神社=牽牛星へたくそな図で申し訳ないですが、下の図を見てください。 曽我川が描く曲線は天の川の曲線によく似ています。 そして春日神社はベガ(織女星)の位置に、八幡神社はアルタイル(牽牛星)の位置にあります。 八幡神社③ほうらんや火祭りは七夕行事だった?お盆は旧暦では7月15日を中心とした行事で、7月7日の七夕はお盆の行事のひとつでした。 旧暦は新暦よりも約一ヶ月遅れるので、もともと旧暦7月15日ごろ行っていた『ほうらんや火祭』を、同じ時期に行えるようにと新暦の8月15日に行うようになったのだと思います。 このように、日本の年中行事の日程を旧暦の日付から新暦上で1か月遅らせて行うことを「月遅れ」といいます。 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
 にほんブログ村
[2017/08/17 00:00]
奈良の祭 |
トラックバック(-) |
コメント(-)
千葉県浦安市 浦安市郷土博物館(撮影可) 2017年7月下旬撮影
浦安市郷土博物館では古い建物を移築して、昭和レトロな町並を再現しています。 ①船宿 船宿とは屋形船や釣舟を操業する店のことです。 浦安には現在でも数件の船宿がありますよ。 ②魚屋 ↑ 魚屋。 ものすごく急な階段。 ②煙草屋 中は住居になっています。 レトロな瓶、ラジオ、ちゃぶ台などがいい雰囲気。 ③寿司屋・料理屋
スビヱルービ(笑)
④漁師の小屋
漁業の道具を入れておく小屋。 手前の黒い部分には木材や木などを収納してありました。 小屋の中。一見乱雑にみえるけど、取り出しやすいように収納が工夫されていますね。 よしずの日よけ ⑤台所、トイレなど。 ↑ 屋外に設置された流し台。「やんめ」って何だろう? へっついさん 薪をくべて使うレンジ。洗濯板。 物干し台  トイレ。 昔はトイレットペーパーなんてなくて、落とし紙を使っていたんですよね。 ⑥銭湯 ディズニーランドもいいけど、郷土博物館もいいよっ。 入場料タダだし。 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。
 にほんブログ村
[2017/08/16 12:00]
千葉県 |
トラックバック(-) |
コメント(-)
千葉県浦安市 浦安市郷土博物館(撮影可) 2017年7月下旬撮影
説明的な写真ばかりですが、おつきあいくださると嬉しいです。
①海苔の養殖
かつて浦安では海苔の養殖、アサリや蛤の養殖、漁業が盛んに行われていました。 ↑ 海苔ペット。 網についた海苔を、回転するカッターで刈り取り、掃除機のように吸い込む機械のようです。 ↑ 海苔下駄。 花魁も真っ青な高い下駄ですね。 海中で海苔を成長させる道具のことをヒビといい、竹ヒビ・木ヒビ・網ヒビなどの種類がありました。 ヒビの図は下記サイトをごらんください。 https://www.city.edogawa.tokyo.jp/e_bunkazai/shiryoshitsu/hakken_sheet/agriculture.files/5-01.pdf#search=%27%E6%B5%B7%E8%8B%94%E9%A4%8A%E6%AE%96+%E7%B6%B2+%E8%88%9F%27ヒビを建てる際、まず底におもりをつけた海苔下駄をはいて水中に立ち、二股になったまた棒を体の正面に立てます。 ↑ 中央にある二股の棒が「また棒」です。 そして片足をまた棒のマタに移し、体重をかけて海底に突き刺し、穴をあげます。 こうしてあけた穴に竹ヒビをさしこみます。 ↑ 浦安市郷土博物館に展示されていた写真。いい写真だなあ~。 向かって右の男性は海苔ペットを使って作業していますね。 向かって左の3人の男性は海苔下駄をはき、また棒を使って穴をあげる作業をされているのだと思います。 昭和20年ごろより船上からポンプを使ってヒビを建てるようになり、海苔下駄は使われなくなったそうです。 ②刺網
魚の種類によって生態が異なるので、網の目の大きさ・太さ・向き・深さなどの異なる様々な刺網を用いていました。 ↑ 浦安市郷土博物館に展示されていた写真。 何の作業をされているのでしょうか?わかる方、教えて! ③貝漁 ↑ 腰タブ籠。 これを使って砂ごと貝を採ります。 砂は籠の目から落ち、籠の中には貝が残ります。 ↑ ガタ。貝をふるいにかける道具です。 ガタに残った貝のみを収穫し、小さな貝は戻します。 収穫量が減らないようにするための工夫ですね。 ④行商と浦安橋魚市場 ↑ 浦安市郷土博物館に移築されていた魚屋。 採れたての新鮮な魚を売っていたのでしょうね。 自転車にトロ箱を積んで、行商にも出かけていました。 ↑ 浦安市郷土博物館に展示されていた浦安橋魚市場の写真。昭和初期に作られました。 ↑ 現在は浦安魚市場となっています。 昭和48年、浦安市の漁師たちは漁業権を全面放棄し、ディズニーランド誘致に合意しました。 ↑ 東京ディズニーランド 今はもう見ることができない風景が、浦安市郷土博物館にはありました。 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。
 にほんブログ村
[2017/08/15 12:57]
千葉県 |
トラックバック(-) |
コメント(-)
2017年7月下旬 撮影①浦安の屋形船 ここは千葉県浦安市の境川。舟が浮かんでいますね。 上は案内板にあった昭和39年ごろの境川の写真です。 いい写真だなあ~。 かつての境川の周辺には民家が立ち並び、小舟がたくさん浮かんでいたのですね。 浦安市郷土博物館に昔の境川の町並が再現されていましたよ。 船宿も再現されていました。 船宿とは屋形船を釣舟を運行させる店のことで、江戸時代の江戸・大阪などにつくられました。 東京メトロ東西線浦安駅から西へ徒歩5分くらいのところに、現在も数件の船宿があります。 ②龍頭鷁首舟平安時代には貴族が池に龍頭鷁首舟を浮かべて宴を行ったという記録があります。 大覚寺 龍頭鷁首舟③屋形船は恐ろしいものだった?しかし屋形船のルーツはさらに古く、万葉集にも屋形船を詠ったものがあります。 沖つ国 うしはく君が 塗り屋形 丹塗りの屋形 神が門渡るこの歌は、「怕(おそ)ろしき物の歌三首」のなかの1首です。 つまり、「屋形船とは恐ろしいものだ」という意味にもとれるのですが、なぜ屋形船は恐ろしいものなのでしょうか? 「沖」は「奥」と同根で、「遠い奥のほうにある場所」を意味します。 「沖つ国」は、「海の彼方にある死者の国」のことで、「常世の国」ともいいます。 「常世の国」と言われるのは、その国へ行った死者は不老不死になるとの信仰からきます。 「うしはく」は漢字では「領く」と書き、「領地としておさめる」「支配する」という意味です。 つまりこの歌は「死者が住む沖つ国(常世の国)を支配する神の丹塗りの屋形船が、神の海峡を渡っていく」という意味になります。 ④沖つ国をうしはく神とはスサノオだった?「沖つ国」は、「海の彼方にある死者の国。」 ということは、海神の住む竜宮が沖つ国だということでしょうか? イザナギはこう言っています。 「天照大神は高天原を、月読命は夜の食国を、スサノオは大海原をおさめよ」 そのため、海神とはスサノオと同一神だと考えられています。 沖つ国をうしはく神とはスサノオのことなのかも。 スサノオは牛頭天王と習合され、八坂神社などで疫神として祀られています。 つまりスサノオは死者が住む国を支配する王であり、また疫病を流行らせる神でもあります。 古にもっとも恐れられたのは天然痘で、多くの人が天然痘にかかって亡くなっています。 奈良時代には藤原四兄弟がつぎつぎに天然痘にかかって亡くなっていますね。 そのスサノオが海峡を渡って沖つ国からこの世にあらわれ、疫病を流行らせるという意味なのかもしれませんね。 それで、「怕(おそ)ろしき物の歌三首」のなかに入れられているのかも? ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
 にほんブログ村
[2017/08/12 14:58]
千葉県 |
トラックバック(-) |
コメント(-)
| HOME |
次ページ≫
|