JR京都駅に降り立つと祇園囃子が聞こえてきました。
↓ お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。
大階段では張子の犬がお出迎え。
あれっ、長刀鉾が現れましたよ。
山鉾巡幸が始まりました!
こんなところで山鉾巡幸が見れるとは思いませんでした。上の動画の祇園囃子を聞きながら見ていただくといいかも。
①祇園祭山鉾巡行はノアの箱舟がアララト山に漂着した日?祇園祭・山鉾のタペストリーは西洋的なものが多くてびっくりします。
霰天神山
白楽天山
鶏鉾
鯉山
函谷鉾ここほんとに日本なの?って思っちゃいますよね。
で、山鉾巡行が行われる7月17日はノアの方舟がアララト山に漂着した日で、祇園祭ははそれを祝う行事だとする説があります。
祇園祭の山鉾に船の形をしたものがあるのも、それを裏付けるというのです。
船鉾②日ユ道祖論いわゆる日ユ同祖論(日本人とユダヤ人は共通の先祖を持つという説)といわれるものですね。
共通の先祖を持っているかどうかはわかりませんが、日本神道とユダヤ教は似ているところがあります。
たとえば修験道では額に兜巾ときん)をつけますね。
宝山寺ユダヤの人々は祈るとき額に
ヒラクティリー(テフリン)なるものをつけるのですが、
うむむ~、似ている~
佐伯好郎さんは渡来人の秦氏はバルバシ湖の近くにあったキリスト教国・弓月王国出身でクリスチャンだったのではないかと説かれました。
応神天皇の御代、百済より弓月君(ゆづきのきみ)が大勢の民を率いて日本に帰化したとされます。
秦氏は京都の太秦を本拠地とし、太秦寺(広隆寺)を氏寺としていましたが
唐におけるネストリウス派キリスト教の寺院のことを大秦寺と言いました。
太秦と大秦は点があるかないかの違いしかありません。
そこで佐伯氏は太秦寺とはネストリウス派キリスト教寺院であったのではないかとされました。
しかしネストリウス派キリスト教が唐に伝わるのは431年のエフェソス公会議以降のことで
秦氏が日本へ渡来したのはそれ以前と考えられ、時代考証があわないとされています。
その後、佐伯氏は秦氏はネストリウス派キリスト教徒ではなく、原始キリスト教徒だったと自説を訂正しましたが
彼の説は認められることなく、現在に至っています。
私は佐伯氏の説を支持していますが~。
③祇園祭山鉾巡幸はノアの箱舟とは関係ない。私は秦氏はキリスト教徒だったと考えますが、祇園祭山鉾巡幸はノアの方舟とは関係ないかも?と思います。
日本では明治から新暦が用いられるようになり、それに伴って祭りの日にちが替えられたケースが多いのです。
山鉾巡幸はかつては旧暦6月17日に行っていたのを、新暦を用いるようになってから7月17日に改めたそうです。
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毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

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