京都市東山区 天得院・方広寺
天得院
①天得院が取り壊される原因となった法広寺鐘銘天得院は東福寺の塔頭で正平年間(1346~1370年)に創建されました。
その後、豊臣氏より厚く崇敬され、1614年には豊臣秀頼(豊臣秀吉の子)が天得院の文英清韓(ぶんえいせいかん)に「方広寺の鐘銘を作ってほしい。」と依頼しています。
ところがこの鐘銘が原因で天得院は取り壊されることになってしまうのです。
天得院鐘銘には「国家安康君臣豊楽」とあり、これに徳川家康が激怒したのです。
方広寺鐘銘
方広寺 鐘楼「国家安康」は家康の名前を切っているじゃないか。
「君臣豊楽、子孫殷昌」は「豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむ」という意味ではないか。
けしからんーーーー!と。
②家康の二枚舌豊臣氏は弁明のため、家康のもとに片桐且元と大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)を派遣しました。
大蔵卿局は淀殿(豊臣秀頼の母)や秀頼の乳母だった人です。
家康は片桐且元には会わず、側近を通じて豊臣氏に対してメッセージを託しました。
そのメッセージとは、次のようなものでした。
①淀殿(秀頼の母)を人質として江戸へ送る。
②秀頼が江戸に参勤する。
③大坂城を出て他国に移る。
①~③のいずれかを選べ。
しかし家康は大蔵卿局には会い、こう言ったのです。
「秀頼は将軍・秀忠の娘婿だし、鐘銘のことなんて全然気にしてないよーん。」
大阪へ戻った且元は秀頼と淀殿にメッセージを伝えます。
↓大阪城3Ⅾマッピングで大阪城に映し出された女性。淀殿かな?
しかし秀頼や淀殿は大蔵卿局の報告を信じ、且元は嘘をついている、と考えました。
且元は大坂城を退去させられました。
家康は「且元に託したメッセージを無視するとは、やはり豊臣氏は幕府に反抗しているのだーっ。」と、大坂城攻撃を始めました。
これが大阪の役で、1615年、秀頼は淀殿とともに自害し、豊臣家は滅びました。
↓ これはたぶん豊臣秀吉
大蔵卿局も子の治長と共に自害しました。
天得院もこの前後に潰されたのでしょう。
その後、天得院は1789年に再建されました。
③「国家安康」「君臣豊楽、子孫殷昌」には呪術がこめられていた?蘆山寺 桔梗 『物語は呪術の道具だった?』 に、私は次のようなことを書きました。
①和歌や物語は呪術の道具だった。
②和歌が呪術の道具として用いられたのは、言霊信仰・・・言葉には実現させる力があるとする信仰からくるのではないか。
③掛詞やもののななどの和歌のテクニックは、呪う相手に悟られないようにするために発達したのではないか。
方広寺鐘銘事件はこれらを裏付ける事件のように思えます。
一般的には家康が秀頼にいちゃもんをつけたと言われていますが、秀頼や、天得院の文英清韓は鐘銘の言葉によって本当に家康を呪おうとしていたのかも?
だとすると見破られはしましたが、「国家安康」「君臣豊楽、子孫殷昌」とはなかなかうまいこと言ったものです。
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[2017/07/14 11:23]
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