大阪府枚方市 久修園院
2015年7月 撮影
京阪電車の車窓から見える久修園院の風景をいつも楽しみにしていました。
ところが、あるとき久修園院の前にユンボなどの機械が置かれていました。
何か建物でも建てるんでしょうか?
建物が建ってしまうと、もう京阪電車の車窓から久修園院を見ることができません。
建物が建つ前にカメラにおさめておかねば!
そう考えて写真を撮りに行ったのですが・・・
ははは~。
なんともすごい写真~。
工事が始まる前に写真を撮っておいたらよかった~。 ↓
仕方ないので合成してみた。(汗) ↓
①1680年ごろに作られた天球儀と地球儀
久修園院は725年に行基が開いたとされる古刹です。
1614年、大阪夏の陣で多くの堂塔が焼けましたが、1680年に石清水八幡宮大乗院の僧・宗覚律師が復興しました。
お寺には宗覚律師が作られた天球儀と地球儀があります。
1680年ごろ、すでに日本人は地球は球状であると認識していたのですね。
裏側から撮影。
建物が建ったら、空が見えなくなってこの風景も見ることができなくなってしまいますね。 ②地球球体説は南蛮貿易とともに日本に伝わった?織田信長(1534年~1582年) が宣教師に地球が球体であることを教えられて納得したという逸話も残っており、地球球体説は南蛮貿易とともに日本に伝わったと考えられています。
③紀元前6世紀ごろよりあった地球球体説地球球体説は紀元前6世紀ごろよりあり、アリストテレス (BC 384 年~BC 322 年) クラウディオス・プトレマイオス ( 90 年 ~ 168 年) ほか、大勢の科学者が地球は球体であると説いています。
その理由は次のようなものでした。
①海上から陸を眺めると、低い土地より高い山のほうが先に見える。
②陸から航海する船を眺めると、まず船のマストが見え、そのあと 船体が見える。
③北の方に移動すれば、 太陽は低くなり、北極星は高くなる。
④月食の際、地球が月に丸い影を落とす。

④地球が球体であると考えていた日本人は昔からいたのでは?うーん、とすれば織田信長よりもっと昔の時代から、地球が球体をしていると考えていた日本人がいたのではないかと思えます。
船乗りは星を航海の指標としていましたから、①~④のような現象が起こることはよく知っていたと思われます。
また流罪などで遠方へ旅をした経験のある人物なども地球が丸いことに気が付いていたかも?
↑ 2017年1月撮影。この時点では建物は建っていなかったのですが、今年の6月ごろまた工事をしていました。
今はどうなっているのかな? ※追記
最近、京阪電車に乗ったところ、スーパーができていました。
残念ながらもう京阪電車の車窓から久修園院を見ることはできません。
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[2017/07/31 00:58]
大阪府 |
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①黒主山7月24日は祇園祭後祭の山鉾巡行がありますね。
後祭で巡行する山鉾のひとつに黒主山があります。

17日の前祭山鉾巡行と24日の後祭山鉾巡行は逆回りで巡行するんですね。
写真は数年前に撮影したもので、このとき後祭山鉾巡行は行われていませんでした。
24日、黒主山は写真とは逆向きで巡行することになります。
上の写真ではわかりにくいのですが、桜の木の下には花を見上げる老人の人形が置かれています。
下の写真は後祭宵山で撮影した黒主山の御神体・大友黒主です。
②謡曲志賀と古今和歌集仮名序・真名序
黒主山は謡曲・志賀をテーマにした山です。
今上天皇に仕える臣下が桜を見ようと江州志賀の山桜を見ようと山道を急いでいたところ、薪に花を添え花の陰に休む大友黒主に出会います。
黒主は和歌の徳を語って消え去ります。(志賀) 古今和歌集仮名序は大友黒主について次のように記しています。
大友黒主は そのさまいやし いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし
(大友黒主はその様子が賎しい。 薪を背負う山人が花の影に休んでいるかのようだ。)謡曲「志賀」は古今和歌集仮名序の文章からインスピレーションを得て創作されたものなのでしょう。
それにしても、「そのさまいやし」とか「薪追へる山びとの花のかげにやすめるがごとし」とはどいう意味なのでしょうね?
さて古今和歌集にはかなで記された「仮名序」のほかに漢文で記された「真名序」があります。
真名序は仮名序とだいたい同じ内容ですが、微妙に表現が異なっている部分もあります。
たとえば大友黒主については次のようになっています。
大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり。頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。田夫の 花の前に息めるがごとし。(読み下し文)
③百人一首では猿丸大夫は5番、6番は?ここに『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり』 とあります。
『大友黒主の歌は猿丸大夫に次いで優れている。』というような意味なんでしょうか?よくわかりません。
でも鎌倉時代の天才歌人である藤原定家はその意味を知っていたにちがいありません。
というのは、古今和歌集仮名序は紀貫之、真名序は紀淑望(きのよしもち)が書いたとされているのですが
紀貫之は古今伝授の創始者です。
古今伝授とは紀貫之より代々伝えられた和歌の極意のことです。
伝授する人物は和歌の第一人者に限られ、主に口伝で行われました。
藤原定家は父親であり師匠であった藤原俊家から古今伝授を受けています。
定家は和歌の極意を知っていたのです。
大友黒主は六歌仙(遍照・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町・大友黒主)の一です。
藤原定家が撰んだ秀歌集・百人一首には遍照・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町の歌は採られていますが、大友黒主の歌は採られていません。
もしかすると大友黒主とはニックネームのようなもので、本名は別にあるんじゃないか。
定家は本名で黒主の歌を百人一首に採用しているのではないか。
そう私は考えました。
百人一首のそれぞれの歌には1から100までの番号が振られています。
もしかしたら定家は真名序の『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり』 という文章を受けて、猿丸大夫の歌の次に大友黒主の歌をもってきているのではないでしょうか?
さっそくは百人一首を調べてみました。
百人一首では猿丸大夫は5番でした。
その次・・・6番は大伴家持でした!
大友黒主は大伴黒主とも記されます。
また大友黒主と大伴家持はよく似た、というよりもほとんど同じといってもいい歌を詠んでます。
白浪のよするいそまをこぐ舟のかぢとりあへぬ恋もするかな/大友黒主
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないように、自分を抑えることのできない恋をすることだよ。)
白浪の寄する磯廻を榜ぐ船の楫とる間なく思ほえし君/大伴家持
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないようにあなたのことを思っています。) 古歌の語句・発想・趣向などを取り入れて新しく作歌する手法のことを『本歌取り』といいます。
本歌取りで大切なのは、古い歌をベースにしながら、あくまでもオリジナリティのある歌を詠むことです。
大伴黒主の歌は大伴家持の歌とほとんど同じ意味なので、本歌取りとはいえないと思います。
このことからも、大友(大伴)黒主と大伴家持は同一人物ではないかと思うのです。
大伴氏は武力で天皇家に仕える家柄でした。
仮名序にある『薪負へる山びと』とは、矢を負う姿を喩えたものではないでしょうか。
須賀神社 角豆(ささげ)祭 行列
また大伴家持は藤原種継暗殺事件に連座したとして、死後、墓から死体が掘り出されて子孫とともに流罪となっています。
大伴家持の死体は腐敗し、蛆がたかったような状態であったと推測されます。
仮名序の 『大友黒主は そのさまいやし』というのは墓から掘り出された死体の様子を言っているのではないでしょうか。
真名序には『頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。』とありますが、逸興とは死体が掘り出されたことを言っているのだと思います。
『鄙し』の『鄙』は①田舎 ② いなかっぽい。ひなびている。つまらなく卑しい、という意味です。
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[2017/07/23 00:00]
京都の祭 |
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奈良県大和郡山市 松尾寺2014年7月20日①七福神の正体は六歌仙+惟喬親王だった?
↑ 松尾寺の七福神堂です。
七福神とはご存知のように、大黒天・恵比寿天・布袋尊・毘沙門天・弁財天・福禄寿・寿老人の七人の神様のことをいいます。
高田祟史さんは「QED六歌仙の暗号」という小説の中で、七福神の正体は六歌仙(遍照・在原業平・小野小町・喜撰法師・大友黒主・文屋康秀)に惟喬親王を加えた七柱の神様のことだとおっしゃっています。
②六歌仙は怨霊だった。六歌仙とは古今和歌集仮名序に名前があげられた6人の歌人のことです。
ただし、古今和歌集仮名序の中に六歌仙という言葉は登場しません。
後の世になって6人の歌人のことを六歌仙と言うようになったと考えられています。
古今和歌集仮名序は抽象的で意味がよくわからないのですが、私にはこんな風に読めます。
(読んでみたい方はこちらを参照してください。→
http://bluewind.oops.jp/kokin/kana1.htm遍照はリアリティがない。
在原業平は言葉が足りない。
文屋康秀はいい着物を着た商人のようだ。
喜撰法師ははじめとおわりがはっきりしていない。
小野小町は強くない。
大友黒主は賎しい。抽象的で意味がわかりにくいですが、決してほめているようには思えませんよね。
歌仙とは「怨霊である」と高田祟史さんはおっしゃっています。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことです。
なるほど、六歌仙は全員藤原氏と敵対関係にあった人物で政治的に不幸だったといえます。
喜撰法師は紀名虎またはその息子の有常だという説があります。
紀名虎の娘の静子は文徳天皇に入内して惟喬親王を生みました。
文徳天皇は惟喬親王の立太子を望んでいましたが、藤原良房の娘・明子が生んだ惟仁親王が生まれたばかりで皇太子となりました。
在原業平は紀有常の娘を妻としており紀氏よりの人間だったため藤原氏から敵対視されていました。
遍照は藤原良房に出家をすすめられたとされます。
文屋康秀と同族と思われる文室(文屋と記すこともある。)宮田麻呂は謀反の罪で流罪となりましたが死後ちに無実であったとして神泉苑の御霊会で慰霊されています。
大友黒主は大伴黒主と記されることがあります。
私は大伴黒主とは大伴家持のことだと思います。(理由については次回説明します。)
大伴家持は藤原種継暗殺事件に関与したとして、すでに死亡していたにも関わらず死体が掘り出されて流刑とされています。
小野小町については、私は小野宮と呼ばれた小野小町のことだと考えています。
詳しくはこちらをお読みください。
髄心院 八重桜 石楠花 『男神は井戸に姿を映して女神になった?」
③六歌仙と七福神の関係高田さんの本は図書館で借りて読んだので手元にありません。
なので記憶違いがあるかもしれませんが、六歌仙と七福神の関係を次のように解いておられたと思います。
(間違いがあれば指摘をお願いします。)
弁財天 | 小野小町 | 紅一点 |
大黒天 | 大友黒主 | 大と黒が共通する |
布袋尊 | 喜撰法師 | 喜撰法師は「わが庵は 都のたつみ しかぞ住む 世をうぢ山と人の言うなり」という歌を詠んでいますが 宇治の満福寺には布袋尊が祀られている。 |
恵比寿天 | 文屋康秀 | 古今集仮名序に「いはば商人のよき衣着たらんがごとし」とあるが 恵比寿天は足が不自由で、「お足がでない」の語呂あわせから商売の神として信仰されている。 |
福禄寿 | 遍照 | |
寿老人 | 在原業平 | 福禄寿と寿老人はどちらもカノープスという星の神だとされる。 遍照は桓武天皇の孫、在原業平は桓武天皇の曾孫でどちらも臣籍降下している。 在原業平は呪老人(和歌によって呪術をしかける老人)=寿老人、福禄寿は遍照。 |
毘沙門天 | 惟喬親王 | 仮名序には六歌仙を語る前に「つかさ位高き人をばたやすきやうなれば入れず」とある。 この「つかさ位高き人」とは惟喬親王のことだと考えるのが妥当 |
↑ この高田祟史さんの推理は「なるほど~」と思えます。
私の考えでは、小野小町=小野宮(惟喬親王)なので
七福神のうち弁才天(小野小町)も毘沙門天(惟喬親王)も惟喬親王だということになります。
神はその現れ方によって、御霊(神の本質)・荒魂(神の荒々しい側面)・和魂(神の和やかな側面)の3つに分けられるという説、さらに男神は荒魂・女神は和魂を表すとする説があります。
惟喬親王は御霊として玄武神社などに祀られていますが、この惟喬親王の御霊を荒魂と和魂にわけ、和魂を小野小町としたのではないかと思います。
御霊 | 神の本質 | | | |
荒魂 | 神の荒々しい側面 | 男神 | 小野宮(惟喬親王) | 毘沙門天 |
和魂 | 神の和やかな側面 | 女神 | 小野小町 | 弁才天 |
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[2017/07/22 00:00]
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奈良県橿原市 藤原宮跡
2014年7月27日 撮影①藤原京と天香久山藤原京跡に立つと畝傍山や
天香久山が見えます。
藤原京は飛鳥時代に造られた都で大和三山(畝傍山・天香久山・耳成山)に囲まれていたのです。
藤原京には持統天皇の藤原宮がありました。
百人一首に持統天皇が詠んだこんな歌があります。
春すぎて 夏きにけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香久山
(春がすぎて夏がやってきたらしい。白い衣が天の香久山に干してあるそうなので。
持統天皇は藤原宮から天香久山を見てこの歌を詠んだのかもしれませんね。
旧暦では春は1月2月3月、夏は4月5月6月でした。
旧暦は新暦よりおよそ1か月遅れとなりますので、新暦に換算すると5月ごろに詠んだ歌だと考えられます。
②『土用の丑』から閃いたー!ところで蓮って土用の丑のころに咲くんですよね。
陰陽五行説では世の中全てのものは、木火土金水の5つの組み合わせで成り立つと考えます。
季節では、春=木、夏=火、秋=金、冬=水と考えられていました。
季節は4つなので、木火土金水のうち土が余ってしまいますね。
土は季節の交代をスムーズにするものと考えられ、各季節の最後の18~19日間を『土用』として均等に割り振られました。
本来、土用は夏だけではなく、すべての季節にあるのです。
ん?んむむむ?
持統天皇の「春すぎて 夏きにけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香久山」という歌には、もうひとつ裏の意味がかくされていることを発見しました!
ヒント・・・持統天皇は天皇としては初めて火葬された方です。
もうおわかりですね~。
③春の土用が過ぎて、火性の夏になってしまった。「春過ぎて」は「春の土用が過ぎて」という意味でしょう。
「夏」は五行説では「火」です。
そして「白妙の衣」とは「死に装束」のことだと思います。
↓ 下の写真は千本閻魔堂狂言に登場する鬼と幽霊ですが、幽霊は白い死に装束を着ています。
持統天皇の歌には表の意味のほかに、「春の土用が過ぎて、火性の夏になってしまったようです。私は天香久山に干されている衣をまとい、夏の火性と同じように火葬されてしまうのですね。」
という裏の意味が隠されているのではないでしょうか。
もちろん、死後に歌を詠むことはできません。
持統天皇の死後、誰かが持統天皇の身になって詠んだか
あるいは持統天皇が生前に軽い気持ちでこの歌を詠み
「この歌を詠んだため、言霊が作用して持統天皇は火葬されてしまった」のだと世の人々は考えたのか
どちらかだと思います。
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[2017/07/20 13:19]
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①百鬼夜行は陰、それを陽に転じたのが山鉾巡幸?祇園祭 山鉾巡行 『山鉾巡行と百鬼夜行』 ↑ こちらの記事にこんなことを書きました。
①山鉾のうち、太子山の聖徳太子、占出山の神宮皇后、黒主山の大友黒主、菊水鉾の菊慈童は怨霊ではないか。
②怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、古には疫病の流行や天災は怨霊のしわざで引き起こされると考えられていた。
③怨霊が祟らないように慰霊し、神として祀ったもののことを御霊という。
④百鬼夜行は陰で、それを陽に転じたのが山鉾巡行だったりして?
聖徳太子が怨霊であるとする梅原武さんの説については上の記事をお読みください。
②菊の葉の露を飲んで700歳の長寿を得た菊滋童今日は菊水鉾の菊慈童についてお話ししたいと思います。
上の写真の山鉾に乗せられている人形が菊慈童です。
菊慈童とは700歳の長寿であったという中国の伝説に登場する少年です。能の演目にもなっていますよ~。
鉾の前懸は皆川月華作の「飛鶴図」です。
魏の文帝 はレッケン山に不老長寿の薬が流れているという噂をきき、「様子を見てまいれ」と臣下を山に行かせました。
山には不思議な少年がおり「私は周の穆王に仕えていました。」と言いました。
周は700年も前の時代です。
少年はさらに穆王より賜ったという枕を見せました。
その枕に記された経文を菊の葉に書くと、その葉より滴る露は不老長寿の薬となりました。
少年はその露を飲んで700歳の長寿をえていたのでした。京都の法輪寺では9月9日に重陽神事を行っており、菊慈童の舞が奉納されます。
③惟喬親王、法輪寺に籠って虚空蔵菩薩より漆の製法を授かる。平安時代、この法輪寺に惟喬親王が籠り、虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説があります。
大皇器地祖神社大皇器地祖神社では惟喬親王を木地師の祖として祀っています。
惟喬親王は巻物が転がるのを見て木地師が用いるろくろを発明したというのです。
木地師資料館の惟喬親王像
下の女性と男性が轆轤を使って器を作っています。
上の写真は木地師資料館に安置されていた惟喬親王像です。
惟喬親王は大きな茶椀を持っています。
木地師がろくろを用い作った茶碗には漆を塗りますね。
それで法輪寺には惟喬親王が虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったなどという伝説が伝えられているのかもしれません。
法輪寺③漆と即身仏しかし、それだけではなく、漆は不老長寿にも関係していそうです。
昔、即身仏になることを目指した人が大勢いました。
今でもいくつかのお寺で即身仏が祀られていますね。
即身仏になる目的は、56億7000万年後に弥勒菩薩が現れたとき、生き返ってその聖業に参加するためだといいます。
ひからびた即身仏が生き返ったという物語も残されています。
おそらく生き返るためには魂の入れ物である肉体が必要だと考えられていたのではないでしょうか。
即身仏となるためには木食といって、五穀を絶ち、木の皮や実だけを食べるという修行を行いました。
その後、漆を飲んで入定したと言われます。
漆には防腐作用があり、死後腐りにくくするために漆を飲んだと言われます。
法輪寺 重陽神事④漆と髑髏(どくろ)本尊また真言立川流ではドクロに漆を塗って髑髏本尊を作りますが、これを袋に入れて7年間抱いて寝ると8年目にドクロは命を持って語りだすとされています。
ドクロは生き返るということでやはり不老長寿と関係がありそうです。
法輪寺 重陽神事⑤重なる菊滋童と惟喬親王のイメージうむむ~、すると菊慈童が飲んでいた露とは漆ではないか。
惟喬親王が法輪寺に籠り、虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説が残されているのは、惟喬親王が即身仏やドクロ本尊と関係があるからではないか。
法輪寺で重陽の節句に菊慈童の舞が奉納されるのは、菊慈童と惟喬親王のイメージが重ねられているからではないか。
などと思えてくるのです。
惟喬親王は世継ぎ争いに敗れた政治的に不幸な身の上で、御霊として玄武神社や惟喬神社に祭られています。
つまり惟喬親王は怨霊だったのです。
菊水鉾にはそんな惟喬親王の霊が乗っているようにも思えるのです。

玄武神社 やすらい祭※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2017/07/19 00:00]
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埼玉県行田市 成就院 古代蓮の里
2017年7月初旬 撮影
①葉衣観音成就院の三重塔は一辺2.24m、高さは10m。
とても小さくてかわいい塔です。
塔には葉衣(ようえ)観音がお祭りされています。
この葉衣観音は忍城(おしじょう)城主の阿部忠秋の帰依仏だったと伝わっています。
葉衣観音の葉衣とは「パラーシャ樹の葉をまとうシャバラ族の女性」を意味します。
パラーシャは花没薬樹(ハナモツヤクノキ)のことだと思います。
http://tplant.web.fc2.com/3mame_hanamotu.html
成就院の近くには『古代蓮の里』があります。
②シャバラ族は不可触民だった
そのパラーシャをまとう女性なので、シャバラ族はさぞかし神聖視された民族だったかのようですが、そうではないのです。
ヒンズー教では、人々をバラモン(司祭)・クシャトリヤ(王族・武人)・ヴァイシャ(庶民)・シュードラ(隷属民)の四つに分類していました。
これをヴァルナ制度といいます。
そして共同体の単位のことをジャーティといい、ヴァルナ制度とジャーティを併せてカースト制(ヴァルナ・ジャーティ制)と言っています。
さらにこのカースト制の枠外に属する人がおり、不可触民と呼ばれ、差別されていました。
古代蓮の里③ヒンズー教において否定的な意味を持つものを仏教がとりいれた?この差別されていた不可触民のシャバラ族の女性が観音様だというのですから、びっくりですが
これについて次のように記されたサイトがありました。
「仏教ではヒンドゥー正統派やそれを取り巻く社会において否定的な意味をもつものを取り入れ,それに肯定的な意味を新たに付与することがしばしば見られ」
http://nbra.jp/publications/68/pdf/68_20.pdf より引用
④聖木・パラーシャ
①で葉衣観音の葉衣とは「パラーシャ樹の葉をまとうシャバラ族の女性」の意味であること、パラーシャとは花没薬樹(ハナモツヤクノキ)のことであることをお話ししました。
パラーシャ(ハナモツヤクノキ)はヒンズー教では聖僕とされているそうです。
この樹は3出複葉なのですが
http://www.asahi-net.or.jp/~zh7k-knk/study/leaf/fukuyou.html(単葉・複葉についてはこちらの記事がわかりやすいです。)
ヒンズー教では左の小葉をブラフマー(創造神)、中央をビシュヌ(世界維持神)、右をヘーシュバラ(破壊と再生の神シバ)とみなすとのことです。
仏教は不可触民・シャバラ族に、ヒンズー教の聖なる樹・パラーシャの葉をまとわせることで、神聖化して仏教の中にとりこもうとしたのでしょうか?
そういえば、インドの神・ビナヤキャも仏教にとりこまれ、ビナヤキャ女神と抱きあう男女双体の神=仏法守護の神=大聖歓喜天として信仰されていますね。
このビナヤキャはもともとはマラケツレツ王といい、人肉を食らう恐ろしい魔物だったのです。
マラケツレツ王に対して人々が挙兵したところ、マラケツレツ王はビナヤキャとなって飛び去り、祟りで疫病を流行らせたという伝説があります。
動画お借りしました。ありがとうございます。
⑤仏教はヒンズー教に対抗する力をつけるため、あえてヒンズー教の嫌う神を仏教にとりこんだ?
「ヒンドゥー正統派が否定的対象として蔑視し,嫌悪し,また恐れるものを敢えて取り込むことにより,ヒンドゥーとの違いを際立たせ,かつヒンドゥー側に衝撃を与えてそれに対抗する力をつけるという,したたかな意図があったように思える。」
http://nbra.jp/publications/68/pdf/68_20.pdf より引用
↑ この方がおっしゃるように、仏教に異教の神をとりいれた人はヒンズー教に対抗しようという、したたかな意図があったのでしょうか?
私はもしかしたら、それは違うかも?と思います。(すいません~)

古代蓮の里に咲いていたオニバス。
大きな葉っぱの中から花がにょきっと突き出ていました。
⑤日本の仏教は怨霊を鎮魂する宗教だった。
日本の仏教は怨霊を鎮魂するための宗教だったといえるかもしれません。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことをいい、このような怨霊を慰霊して神として祀ったケースがたくさんあります。
井上内親王・惟喬親王・藤原純友・平将門などなど。
中でも有名なのが菅原道真ですね。
道真は藤原時平の讒言によって大宰府に流罪とされ、失意のうちになくなりました。
その後、天変地異や疫病の流行などが次々とおこり、これらは菅原道真の怨霊のしわざと考えられたのです。
そして道真を慰霊するために、各地に道真を祀る天満宮がつくられました。
さらに、日本では神仏は習合して信仰されていました。
そのベースとなったのが本地垂迹説という考え方です。
本地垂迹説とは、日本古来の神々(天照大神・菅原道真・井上内親王など)は仏教のみほとけが仮に衆上を救うために仮に姿を著したものであるとする考え方のことです。
そして日本古来の神々のことを権現、仏教のみほとけのことを本地仏といいました。
道真を祀る北野天満宮には神宮寺として東向観音寺があり、その門前には「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」と記された石碑が建てられています。
天満宮とは菅原道真のことで、「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」とは「菅原道真のもともとの正体は十一面観音である」というような意味です。
東向観音寺
菅原道真は成仏した結果、十一面観音となったというわけです。
日本の仏教は怨霊を鎮魂し、成仏させるのが目的だったといえるのではないでしょうか。
⑥島国には古い形態が残りやすい
島国には古い形態が残りやすいと言われますね。
たとえば蹴鞠は中国で発生し日本に伝えられたものですが、現在では中国に蹴鞠の伝統は残っておらず、日本には残っています。
白峯神宮 蹴鞠
案外、もともとの仏教とは日本の仏教のように怨霊を慰霊するものだったとは考えられないでしょうか。
ヒンズー教で嫌う神を仏教がとりこんだのは、それらの神々を慰霊し、成仏させるためだったのではないかとも考えられるのではないでしょうか。
成就院
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[2017/07/16 15:52]
埼玉県 |
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大阪市平野区 杭全神社
平野郷夏まつり だんぢり宮入り・・・7月13日
①日本で唯一連歌所が残る神社このあたりにはかつて上田村麻呂の孫・坂上当道の荘園があったそうです。
杭全神社はその坂上当道が862年に創建したと伝えられます。
日本で唯一連歌所が残る神社として有名です。
お祭りのため、境内にはたくさんの出店がでていて、連歌所の写真を撮るどころではありませんでした~。
今度参拝したときに連歌所の写真を撮ってきます。(すいません~。)
②連歌とは!
和歌は上の句(五七五)と下の句(七七)からなる日本の伝統的な詩歌のスタイルですね。
ここから、短連歌という形式が発生します。
短連歌とは、ある人が和歌の上の句を詠み、続く下の句を別の人が詠むというもので、院政期(1086年ー1185年ごろ)にはこうした短連歌の形式が確立していました。
その後、平安末期から鎌倉時代にかけて連歌という形式が発生し、流行しました。
複数の歌人たちが、五七五→七七→五七五→七七・・・と続けて歌を詠んでいくというもので
百句を一作品としたようです。
室町時代には千句や万句を一作品とするようなものもあったみたいです。
③百人一首とは!百人一首といえば藤原定家が撰んだ小倉百人一首を思い浮かべますが
正確には百人一首というのも、詩歌のスタイルのようですね。
一般には、優れた百人の歌人の歌を一首づつ集めたもの、と解釈され、小倉百人一首以外の作品もあるようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E4%BA%BA%E4%B8%80%E9%A6%96#.E7.95.B0.E7.A8.AE.E7.99.BE.E4.BA.BA.E4.B8.80.E9.A6.96
④小倉百人一首はキーワードでつながる。しかし、織田正吉さんは、「小倉百人一首は単に優れた歌を百首集めたものではなく、キーワードでつながっている。」とおっしゃっています。
たしかに小倉百人一首は同様の語句が用いられた歌が多いです。
江戸時代になって小倉百人一首がかるたになったのも、同様の語句が多くてお手つきを誘いやすい点にゲーム性があるためであると。
子供のころ、我が家では正月に百人一首をやるのが恒例でした。
父は「わが衣手は露に濡れつつ~」と読み上げながら、「わがころもでにゆきはふりつつ」のカードをとる真似をします。
純情だった私は、父より先にそのカードを取って、はい、お手つきです。
⑤小倉百人一首は10次魔法陣だった。さらに織田正吉さんは「小倉百人一首はクロスワードパズルである」とされ、その後太田明さんが織田正吉さんの説をうけて小倉百人一首が10次魔法陣であることを解明されました。
10次魔法陣とは、縦10×横10の升目に1から100までの数字を入れ、縦横斜め、いずれの和も同じになるように配置したもののことを言います。
小倉百人一首の格歌には1~100までの数字がふられています。
同様の語句で繫がる歌を、縦10×横10の升目に配置していくと、なんとこの10次魔法陣になるのです~!
⑥魔法陣とドーマン
上は伊勢の海女が魔除けとして用いるセーマン・ドーマンです。図は友人に書いてもらいました。(ありがとう~)
このうち、ドーマンは碁盤の目のような形をしていて、魔法陣のマスのようにも見えますね。
魔法陣とはドーマンのような魔除けなのではないでしょうか?
とすれば、藤原定家は百人一首で10次魔法陣を作ることで、魔除けを行おうとしていたのではないでしょうか。
上賀茂神社 笠懸神事 『藤原家隆、後鳥羽院の笠懸を思い出して歌を詠む?』※追記あり 説明すると長くなるので、上の記事を読んでいただきたいのですが、藤原定家は承久の乱をおこして隠岐へ配流となった後鳥羽院の生霊を怖れていたように思えます。
百人一首には後鳥羽院の歌もとられていますし、後鳥羽院の流罪先である隠岐に通じる「おき」という言葉を用いた歌も4首あります。
定家は後鳥羽院の生霊から身を護るために百首の歌を10次魔法陣に並べたのではないでしょうか?
⑥連歌と百人一首連歌は100句で1作品とするものが多く、百人一首は百首で1作品とします。
連歌は直前に詠まれた句につなげて句を詠んでいき、百人一首は同様の語句で歌と歌がつながります。
連歌と百人一首は似ているように思えます。
すると百人一首が魔除けの意味を持っているように、連歌も魔除けを目的として行われたものなのかも?
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[2017/07/15 11:15]
大阪の祭 |
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京都市東山区 天得院・方広寺
天得院
①天得院が取り壊される原因となった法広寺鐘銘天得院は東福寺の塔頭で正平年間(1346~1370年)に創建されました。
その後、豊臣氏より厚く崇敬され、1614年には豊臣秀頼(豊臣秀吉の子)が天得院の文英清韓(ぶんえいせいかん)に「方広寺の鐘銘を作ってほしい。」と依頼しています。
ところがこの鐘銘が原因で天得院は取り壊されることになってしまうのです。
天得院鐘銘には「国家安康君臣豊楽」とあり、これに徳川家康が激怒したのです。
方広寺鐘銘
方広寺 鐘楼「国家安康」は家康の名前を切っているじゃないか。
「君臣豊楽、子孫殷昌」は「豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむ」という意味ではないか。
けしからんーーーー!と。
②家康の二枚舌豊臣氏は弁明のため、家康のもとに片桐且元と大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)を派遣しました。
大蔵卿局は淀殿(豊臣秀頼の母)や秀頼の乳母だった人です。
家康は片桐且元には会わず、側近を通じて豊臣氏に対してメッセージを託しました。
そのメッセージとは、次のようなものでした。
①淀殿(秀頼の母)を人質として江戸へ送る。
②秀頼が江戸に参勤する。
③大坂城を出て他国に移る。
①~③のいずれかを選べ。
しかし家康は大蔵卿局には会い、こう言ったのです。
「秀頼は将軍・秀忠の娘婿だし、鐘銘のことなんて全然気にしてないよーん。」
大阪へ戻った且元は秀頼と淀殿にメッセージを伝えます。
↓大阪城3Ⅾマッピングで大阪城に映し出された女性。淀殿かな?
しかし秀頼や淀殿は大蔵卿局の報告を信じ、且元は嘘をついている、と考えました。
且元は大坂城を退去させられました。
家康は「且元に託したメッセージを無視するとは、やはり豊臣氏は幕府に反抗しているのだーっ。」と、大坂城攻撃を始めました。
これが大阪の役で、1615年、秀頼は淀殿とともに自害し、豊臣家は滅びました。
↓ これはたぶん豊臣秀吉
大蔵卿局も子の治長と共に自害しました。
天得院もこの前後に潰されたのでしょう。
その後、天得院は1789年に再建されました。
③「国家安康」「君臣豊楽、子孫殷昌」には呪術がこめられていた?蘆山寺 桔梗 『物語は呪術の道具だった?』 に、私は次のようなことを書きました。
①和歌や物語は呪術の道具だった。
②和歌が呪術の道具として用いられたのは、言霊信仰・・・言葉には実現させる力があるとする信仰からくるのではないか。
③掛詞やもののななどの和歌のテクニックは、呪う相手に悟られないようにするために発達したのではないか。
方広寺鐘銘事件はこれらを裏付ける事件のように思えます。
一般的には家康が秀頼にいちゃもんをつけたと言われていますが、秀頼や、天得院の文英清韓は鐘銘の言葉によって本当に家康を呪おうとしていたのかも?
だとすると見破られはしましたが、「国家安康」「君臣豊楽、子孫殷昌」とはなかなかうまいこと言ったものです。
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[2017/07/14 11:23]
京都府 |
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京都市上京区 蘆山寺
2009年7月中旬 撮影
①朝廷の衰退は源氏物語が原因?蘆山寺は紫式部の邸宅跡と伝わります。
大蓮寺 蓮 雨 『仏教嫌いの後光明天皇がお寺に安産祈願?』 で後光明天皇についてお話ししましたが、
その後光明天皇がこんなことを言っています。
「朝廷が衰微したのは、和歌と源氏物語が原因だ!」
御存じのように源氏物語は紫式部が著した恋愛小説です。
まだ読んだことはないんですが、源氏物語のあらすじを記した書物は読んだことがあります。
義理の母親と契って身ごもらせたり、美少女を養女にして成長すると自分の妻にしたり
好きな女のもとに通ったが逃げられ、そこにいた別の女性と契ったり
いや~、現代人からするととんでもなく乱れているんですが、平安時代にはそういうことは当たり前だったんでしょうか?
②和歌は呪術だった?さて、和歌と源氏物語が朝廷を衰微させたというのはどういうことなんでしょうか?
高田祟史さんは和歌とは文学ではなく呪術であるとおっしゃっています。
たとえば在原業平がこんな歌を詠んでいます。
桜花 散りかひくもれ 老いらくの 来むといふなる 道まがふがに
(桜の花よ、散り乱れてあたりを霞ませておくれ。『老い』がやって来るという道が、花に紛れてしまうように。)
この歌は在原業平が四十歳になった藤原基経に贈った歌です。
表面上は基経を気遣う歌のように見せかけて、実は基経を呪った歌だと高田祟史さんはおっしゃっています。
五七五七七の冒頭の漢字をつなぐと「桜散り老い来る道」となるというのです。
古今和歌集を編纂した紀貫之は藤原良房と対立していた紀名虎と同じ紀氏です。
古今和歌集には藤原氏への呪いが込められているのではないでしょうか。
和歌が呪術の道具として用いられたのは、言霊信仰・・・言葉には実現させる力があるとする信仰からくるものだと思います。
掛詞やもののななどの和歌のテクニックは、呪う相手に悟られないようにするために発達したのではないでしょうか。
③臣籍降下したものが太上天皇になるという呪術?和歌と同じく、物語もまた呪術の道具であったのではないでしょうか。
物語はフィクションですが、やはり言霊信仰によってフィクションは実現すると考えられたのかも。
紫式部が著した源氏物語の主人公・光源氏は天皇の皇子として生まれましたが臣籍降下しています。
源氏とは臣籍降下した天皇の皇子に対して与えられた姓のひとつです。
光源氏は冷泉帝より准太上天皇の待遇を受けますが、これは紫式部がしかけた呪術であったのかもしれません。
臣籍降下したものが太上天皇になるという。
紫式部役をしていただいたのは護王神社の亥子祭に登場された方です。(合成)
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[2017/07/11 20:05]
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