奈良市中院町 元興寺 極楽坊 塔跡
2008年6月中旬 撮影
元興寺 極楽坊 ハルシャ菊
①蛇の目と蛇目草ハルシャ菊は別名を蛇目草といいます。
蛇目とは二重丸の中を塗りつぶした図形のことをいいます。(ʘ←これね)
なるほど、ハルシャ菊って模様がʘですね!
ヘビの目は丸く、ʘ←この図形のような形をしていますね。
それでʘのことを蛇の目というのかも?
元興寺 極楽坊 ハルシャ菊
②頭に蛇を巻いた童子
元興寺には頭に蛇を巻いた童子の伝説が伝えられています。
敏達天皇(在位572-585)の頃、尾張国阿育知郡片輪里(現・愛知県名古屋市中区古渡町付近)の農家に、雷神が落ちてきました。
雷神は『命を助けてくれるならば雷神のように力強い子供を授けよう。』と言ったので、農夫は雷神を殺さずに、空へ返しました。
しばらくして農夫の妻が子供を産みました。
その子供の頭には蛇が巻きついていました。
成長した子供は元興寺の童子になりました。
元興寺では童子たちが鬼に殺される事件が頻繁におきていました。
頭に蛇が巻き付いた童子は鐘楼で待ちぶせていると鬼が現れました。
童子は鬼の髪の毛を掴んで引きずり回しました。
鬼は髪をむしりとられ、あたふたと逃げていきました。
童子は追いかけましたが、鐘楼の北東の辻子の辺りで鬼を見失いました。
童子は鬼が急に姿を消したことを不審に思ったことから、この辻子は『不審ヶ辻子』と呼ばれるようになりました。
(元興寺の北東に不審ヶ辻子町という町名が残っています。)
しかし血痕が残っていたので、童子はそれを辿って行きました。
すると不審ヶ辻子の北東の鬼棲山の墓にたどりつきました。(現在の奈良ホテルのあたり)
それは昔元興寺で働いていた下男の墓でした。
鬼の正体はこの下男の怨霊だったのです。
鬼は『がこぜ(元興寺という漢字があてられる)』『がごじ』『ぐわごぜ」などと呼ばれる妖怪です。(日本霊異記)
案外、この伝説にちなんで蛇目草が植えられているのかも?
元興寺 極楽坊 ハルシャ菊
③元興寺では守屋の霊が信仰されていた?
587年、崇仏派・蘇我馬子vsは廃仏派・物部守屋の戦いがおきます。(丁未の乱)
勝利した蘇我馬子は「勝利したのはみほとけの御加護のおかげ」であるとして法興寺(飛鳥寺)を建てました。
そして710年の平城京遷都に伴って法興寺も移転し元興寺と称したのです。
四天王寺
丁未の乱では蘇我馬子側に聖徳太子も参戦しており、聖徳太子も「勝利はみほとけの御加護のおかげ」であるとして四天王寺を建立しました。
この四天王寺には物部守屋を祀る守屋祠があります。

四天王寺が完成したのは、これを守屋の霊が許し、また助けたためであるとされ、願いが成就できたとして、守屋を祀ったといわれています。
守屋祠が願成就宮と呼ばれているのはそのためです。
四天王寺では守屋の霊が厚く信仰されていたのです。
ということは、四天王寺同様、丁未の乱に勝利したことをみほとけに感謝して創建された元興寺でも守屋の霊が信仰されていたのではないでしょうか?
元興寺 極楽坊 ハルシャ菊
④物部氏に蛇のイメージ
物部氏の祖神であるニギハヤヒは先代旧事本紀によれば天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと) となっています。
奈良の大神神社の御祭神・大物主神は別名を倭大物主櫛甕魂命といいます。
天火明櫛玉饒速日天照国照彦尊倭大物主櫛甕魂命とは『櫛』『魂(玉)』が同じなので、同一神ではないか、という説があります。
とすれば、大物主神とは物部氏の神だということになりますね。
そして大物主神は蛇神だとされており、大物主を祀る奈良県桜井市の大神神社には蛇の好物の玉子が供えられています。
鬼を退治した頭に蛇を巻いた童子もまた物部氏の神(霊)、物部守屋の霊なのではないでしょうか。
参照/元興寺 節分会 『福は内、鬼は内』
元興寺 塔跡 仏足石 ハルシャ菊
⑤蛇を頭に巻いた童子は八部衆の沙羯羅?
元興寺の北に興福寺がありますが、興福寺の有名な八部衆像の一、
沙羯羅像(さからぞう)は頭に蛇を巻いています。
写真はこちら→http://www.kohfukuji.com/property/cultural/033.html
おまけに少年の顔をしています。少年=童子です。
元興寺の伝説に登場する「蛇を頭に巻いた童子」とは興福寺の沙羯羅像だったりして?
⑥阿修羅のモデルは称徳天皇、沙羯羅のモデルは道鏡?
興福寺の八部衆像といえば、もっとも有名なのが阿修羅像ですよね!

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/67/ASURA_Kohfukuji.jpg よりお借りしました。
作者 日本語: 小川晴暘 English: OGAWA SEIYOU [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:ASURA_detail_Kohfukuji.JPG?uselang=ja よりお借りしました。
作者 日本語: 小川晴暘(1894-1960) 仏像写真家 飛鳥園創業者) English: Ogawa Seiyou (1894-1960), a famous photographer in Japan [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
阿修羅をはじめとする八部衆像はもともとは西金堂(現存せず)に安置されていました。
西金堂が建立された734年、聖武天皇と光明皇后の間に生まれた阿部内親王(のちの孝謙天皇/重祚して称徳天皇)は16歳であり、阿修羅像は阿部内親王16歳の姿をうつした像ではないか、という説があります。
この阿倍内親王=称徳天皇は僧の弓削道鏡を寵愛し、道鏡を時期天皇にしようとした人です。
弓削氏は物部氏の傍系とされています。
阿修羅のモデルが称徳天皇なら、
沙羯羅のモデルは道鏡だったりして? ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2017/06/08 00:15]
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