母親は 「今、あの木のところで、サツキとメイが笑ったような気がした」と言ったのは、サツキとメイが死んで霊になっているため。

8.母親の入院していた七国山病院は、東京都の八国山緑地に隣接する東京白十字病院と新山手病院がモデル。
どちらも元結核療養所で、母親もまもなく死んだのだろう。

9.エンドロールに登場する両親の顔が若返っている。サツキとメイが生きていたころの過去の回想シーンである。

金戒光明寺 栄摂院 さつき4

②サツキとメイは死んでいなかった。

多くの方が検証されていますが、上記1~9の説明にはいくつか間違いがあります。

1.川で見つかったサンダルとメイが履いていたサンダルはデザインが違う。

5.サツキはメイを背負ってバス停にいたところでトトロに出会っている。

9.エンドロールでサツキとメイはトトロの膝あてのついた服を着ていたり、メイが猫バスの絵を描いていたりします。
これはサツキとメイがトトロに出会ったり、猫バスに乗った経験があったということを示すものでしょう。
つまり、過去の回想シーンではなく、物語のその後を描いたものだと考えられます。
トトロの膝あては退院したお母さんにつけてもらったのでしょうね。
また、サツキとメイには妹か弟もできたようで、赤ちゃんが登場してきますね。

2、3はビデオが手元にないので確認ができませんでした。

金戒光明寺 栄摂院 さつき2

③狭山事件

また「となりのトトロ」1963年5月に埼玉県狭山市でおきた「狭山事件」の影響を受けていると言われます。

子供のころ、近所に「狭山事件 石川さんは無罪だ!」などと記された張り紙を見た記憶があります。
といっても、この張り紙を見たのは事件から10年以上たったころだったような気がしますが。

1963年5月1日、埼玉県県狭山市の16歳の少女が行方不明となり、自宅に脅迫状が置かれていました。
「子供の命が惜しければ20万円持ってこい。友人に車で行かせるので渡せ。警察に知らせたら子供は殺す。友人が帰ってこなかったら子供は西武園の池の中で死んでいるだろう。」みたいな内容でした。

5月3日、誘拐された少女の兄が警察に届を出し、少女の姉(23歳)が偽造紙幣をもって指定された場所に行きました。
犯人が現れましたが、警察の張り込みに気付いて逃走しました。
そして翌日、少女の遺体が発見されたのです。

5月23日、石川一雄が犯人として逮捕されました。

石川は一審では全面的に罪を認めました。
しかし死刑判決が出ると冤罪であると主張するようになります。
そして無期懲役刑が確定しました。

石川は被差別部落の出身であったため、部落差別であるとして、「石川一雄さんを守る会」が結成されました。
それで「「狭山事件 石川さんは無罪だ!」というような張り紙が貼られていたのですね。

『解放新聞』主筆の土方鉄は「部落民にとって不利なことは全て差別である」とする朝田理論を持ちだして石川を擁護したとされます。

そして石川のアリバイは家族の証言以外の裏付けがとれておらず、石川の自供によって被害者のカバンや腕時計が発見されています。

腕時計について警察は当初シチズン・コニーと発表していましたが、発見されたのはシチズン・ペットでした。
ここから、発見された腕時計は被害者のものではないとする意見がありましたが、シチズン・コニーとしたのは、警察の誤りだったとされます。

また脅迫状と石川の筆跡をみると接続詞の「で」を「出」と記す癖があるところなどが同じです。

もっと調べてみないと断定はできないですが、冤罪というよりは、部落差別だといいがかりをつけているようにも思えます。
一度、冤罪説を主張する人の書物などを読んでみたいです。

金戒光明寺 栄摂院 さつき3 

④陰を陽に転じた物語

さて「となりのトトロ」が「狭山事件」の影響を受けていると言われるのは、次のような理由からです。

1.となりのトトロの舞台となった埼玉県所沢市の 「となりの」市の狭山市で狭山事件は起きた。

2.事件の翌年の1964年、「となりのトトロ」の監督・宮崎駿(22歳)は東映動画に入社してアニメーションの世界に入っている。

3.サツキ・メイという名前は狭山事件の起こった5月からくる。

ジブリは「サツキとメイが死んでいる」ことも「狭山事件の影響を受けている」ことも否定していますが、私は「狭山事件」の影響を受けて作られたものである可能性はあると思います。

狭山事件が起こったのは宮崎駿氏が22歳で若く、多感だったころです。
彼にとって狭山事件は強く記憶に残っていることでしょう。(宮崎さん、左巻だしな~)
また、1970年に狭山市の隣の所沢氏に移転したときも、狭山事件を思い出したことでしょう。

狭山事件の姉妹の妹は帰らぬ人となってしまったのですが、それを気の毒に思った宮崎駿氏はそれをハッピーエンドの物語に変えたいと考えたのではないでしょうか。

そういう例は昔からあります。

たとえば、「信貴山縁起」。

命蓮という僧が加持祈祷を行い、醍醐天皇の病が治り、剣の護法童子が清涼殿に表れるという物語が記されています。

醍醐天皇は菅原道真を左遷した人です。

道真の死後、疫病が流行り、醍醐天皇の皇太子が相次いでなくなるなどしました。
また風水害も相次ぎ、清涼殿で干ばつ対策会議を開いていたところ、落雷があり、清涼殿は炎上します。
そしてこの事件で道真左遷に関わった大勢の人が亡くなったり、怪我をしたりしました。
醍醐天皇はノイローゼとなり、この3か月後に崩御されてしまいます。

どうでしょう?清涼殿落雷事件を陰とすると、信貴山縁起はこの清涼殿落雷事件を陽に転じたかのような物語ではありませんか。

勝尾寺の縁起でも880年、勝尾寺の住職が清和天皇の病気平癒の祈祷を行ったところ快癒したとしていますが、翌881年に清和天皇は崩御されています。
これも、実際には祈祷しても治らなかった清和天皇の病を陰とし、これを陽に転じた物語のように思えます。

宮崎駿氏も狭山事件で行方不明となってのち死体が発見されたかわいそうな少女の物語を、陽に転じさせようとしたのかも?

金戒光明寺 西雲院 卯の花 

西雲院 卯の花


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