大阪府枚方市 山田池公園 2017年6月18日 撮影
①アイリスは虹の女神の名前だった。
ギリシャ神話にこんな話があります。 イーリスは太陽神ゼウスの妻・ヘラの侍女として仕えていました。 ところがイーリスを気に入ったゼウスは、何度もイーリスに求婚します。 困ったイーリスはヘラに「遠くへ行かせて下さい」と頼みました。 ヘラは七色に輝く首飾りを与え、イーリスに「使者となりなさい」と命じ、神の酒三滴をイ―リスの頭にふりかけ、虹の女神に変えました。 そのとき酒のしずくが地上に落ちてアイリスの花が咲きました。 イーリスは虹を架け橋として天上と地上を行き来しました。アイリス(あやめ)という名前はこの虹の女神・イーリスからつけられたと言われます。 ②アイリスはなぜ虹と結び付けられたのか?なぜ、アイリスは虹の女神の名前がつけられたのでしょうか? それはもちろん、①のギリシャ神話によるものですが、 そもそもギリシャ神話はなぜ虹の女神とアイリスを結び付けているのでしょうか? どんな花でもよくて適当にアイリスを虹の女神と結び付けたというわけではなく、アイリスが虹にふさわしい特徴を持っているためではないかと思うわけです。 ③アイリスは虹のように様々な色がある?調べてみたところ、アイリスの花の色が虹のように様々な色があるから、と説明されたサイトがありました。 ウィキペディアに様々なアイリス属の写真がありました。↓ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A4%E3%83%A1%E5%B1%9E#.E3.82.AE.E3.83.A3.E3.83.A9.E3.83.AA.E3.83.BC虹のように様々な色があるかな? 全ての種類のアイリスの写真が掲載されているわけではないと思いますが、 少なくともここの写真を見る限り、虹のように様々な色があるということはないように思えます。 ほとんど紫か黄色ですね。 ③虹彩のこともアイリスという。虹彩(目の色のついた部分)のこともアイリスといいます。 なぜ虹彩のことをアイリスというのでしょうか? 知恵袋の回答に次のようにありました。 Irisといえばギリシャ神話の虹の女神。 光の量を調節して網膜に届けるこの器官を、虹の女神から借用した名前で呼んだのです。 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1115950486 より引用 ④杉田玄白は虹彩を島晴と呼んだ。また、次のようにも記されています。 日本で最初の精密な解剖学書として知られる杉田玄白・著の「解体新書」では、黒目の部分を海に浮かぶ島になぞらえて「島晴」として訳しているそうです。 しかし、解体新書の元となったのオランダ語の書"Ontleedkundige Tafelen(日本語通称:ターヘル・アナトミア)"では、上記のとおりirisと表記されています。 これを踏まえて、杉田玄白の弟子、大槻玄沢は自著の「重訂解体新書」にて、黒目の名称を「虹彩」と改めています。https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1115950486 より引用 この回答者さん、博識ですね! ⑤アイリスは水中の架け橋?杉田玄白が虹彩を水に浮かぶ島になぞらえて「島晴」と訳しているのが興味深いです。 アイリスは水中や湿地に育つものが多いです。 山田池公園の花菖蒲も池の中で栽培されています。 日本神話・因幡の白兎では、サメが並んで作った橋の上をうさぎが渡るという話がありますね。 古代ギリシャ人は、水中に咲くアイリスを架け橋(虹)とみなしたのかも?  山田池コピースタンプで鉄塔を消したかったけど、うまく消せなかった~。 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 歴史ブログ・ 旅 free style もよろしくお願いします~。 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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[2017/06/29 13:20]
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京都市右京区 宝泉寺 2017年6月18日 撮影

①虹の女神・イーリス
花菖蒲はアイリス(アヤメ)属の植物なんですね。 アイリスとはギリシャ神話に登場する虹の女神・イーリスが語源だといわれます。
イーリスは太陽神ゼウスの妻・ヘラの侍女として仕えていました。 ところがイーリスを気に入ったゼウスは、何度もイーリスに求婚をせまります。
つまりダンナさんが奥さんの付き人に求婚したというわけで、イーリスはそれは困ったことでしょうね! だいたい、ゼウスってどうしようもない好色なんですよ~。 日本の大物主神なんかも好色ですけど、ゼウスの好色はスケールが違う~。
困ったイーリスはヘラに「遠くへ行かせて下さい」と頼みました。 ヘラは七色に輝く首飾りを与え、イーリスに「使者となりなさい」と命じ、神の酒三滴をイ―リスの頭にふりかけ、虹の女神に変えました。 そのとき酒のしずくが地上に落ちてアイリスの花が咲きました。
イーリスは虹を架け橋として天上と地上を行き来しました。

宝泉寺の極楽橋が、イーリスが渡る架け橋(虹)に見える~。
②洗礼と灌頂
「神の酒三滴をイーリスの頭にふりかけ」とあるのが興味深いです。
キリスト教の洗礼の灌水(頭部に水を注ぐ)や滴礼(頭部に手で水滴をつける)に似ていますね。
また密教では灌頂(かんじょう)といって頭頂に水を濯ぐ儀式があります。
灌頂について、ウィキペディアには次のように説明されています。
菩薩が仏になる時、その頭に諸仏が水を注ぎ、仏の位(くらい)に達したことを証明すること。密教においては、頭頂に水灌いで諸仏や曼荼羅と縁を結び、正しくは種々の戒律や資格を授けて正統な継承者とするための儀式のことをいう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%8C%E9%A0%82 より引用
http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/kyodokenkyu/research26.htm(リンク先に灌頂の写真が掲載されています。)
ギリシャ神話とキリスト教や仏教は繫がっているのかも?
そういえばギリシャ建築に用いられたエンタシスの柱が、法隆寺や唐招提寺にもありますね。 建築様式が伝わっているなら、神話が伝わっていてもおかしくはないですね?
唐招提寺 金堂
③目隠しをして華を投げる結縁灌頂
ウィキペディアには次のような内容も記されています。
結縁灌頂(けちえん かんじょう) 出家や在家、あるいはその対象を問わず、どの仏に守り本尊となってもらうかを決める儀式。投華得仏(とうけ とくぶつ)といい、目隠しをして曼荼羅の上に華(はな)を投げ、華の落ちた所の仏と縁を結ぶところから結縁灌頂の名がある。投華灌頂(とうか かんじょう)ともいう 。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%8C%E9%A0%82#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.AF.86.E6.95.99.E3.81.AE.E7.81.8C.E9.A0.82 より引用 富山県立山町では目隠しをした女人が橋を渡る『布橋灌頂会』が行われているそうです。 動画お借りしました。(動画主さん、ありがとうございます。) この布橋灌頂は、目隠しをして華を投げる結縁灌頂をルーツとしているのかも? 女人たちが渡る橋はあの世とこの世を繋ぐ橋・・・・虹をイメージしたものではありませんか! ということは布橋灌頂で橋を渡る女人たちは、イーリス?  ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 歴史ブログ・ 旅 free style もよろしくお願いします~。 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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[2017/06/27 15:16]
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京都市右京区 法金剛院 2017年6月18日 撮影
[2017/06/25 14:12]
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大阪市天王寺区 四天王寺 2017年6月13日 撮影
①四天王寺は物部守屋の土地と奴婢をもちいて建立された。
587年、廃仏派の物部守屋vs崇仏派の蘇我馬子の戦争がありました。(丁末の乱) 聖徳太子は蘇我馬子側に参戦していました。 戦争は蘇我馬子が勝利し、聖徳太子は物部守屋の土地と奴婢をもちいて四天王寺を建立したのです。  四天王寺の境内には守屋祠があり、物部守屋が祀られています。 ②聖徳太子が中に隠れた木はなぜ椋の木なの?聖徳太子は弓矢で射られそうになったとき、椋の木の中に隠れて難を逃れたという伝説があります。 大聖将軍寺 神妙椋樹上の写真は大聖将軍寺(大阪府八尾市)の神妙椋樹です。 聖徳太子が椋の樹の中に隠れたという伝説をあらわしたものですね。 昔の人は現代人とはくらべものにならないくらい鋭い自然観察眼を持っていたと思います。 現代人は例えば「ひまわり」だったら、夏休みをイメージしたり、その黄色い色から元気のよさをイメージしたりするぐらいが限界です。 でも昔の人は違います。 なぜ、聖徳太子が椋の木に隠れたという伝説を作ったのか。 それは椋の木は樹洞ができやすいという性質があることを、知っていたからだと思います。 ②守屋はなぜ樹洞に隠れることができなかったのか。一方、物部守屋は榎の木に登り指揮をしていたところを弓で射られて死亡したとされます。 http://www.jugemusha.com/jumoku-zz-enoki.htm(榎の写真が掲載されています。) 聖徳太子が中に隠れたという椋は榎に似ているので、椋榎とも呼ばれます。 姿形は似ていても、榎は樹洞ができにくいのではないかと思います。 (ウィキペディアには「椋は樹洞ができやすい」と説明がありますが、榎についてはそのような説明はありませんので) そういうわけで、同じように弓矢で射られても、聖徳太子は近くにあったのが椋の木だったため樹洞の中に隠れることができ、守屋は榎に上っていたので樹洞がなく、中に隠れることができず死んでしまったという話が作られたのではないでしょうか。 ③迹見赤檮(とみのいちい)とは弓を擬人化したもの?榎の木の上にいる守屋を弓で射たのは迹見赤檮(とみのいちい)だとされます。 迹見赤檮は彦人皇子または聖徳太子の舎人とされます。 でも、この迹見赤檮(とみのいちい)という名前は偽名っぽいなあ、と思います。 イチイという樹がありますね。 イチイは学名をtaxus cuspidataといいますが、taxusはギリシャ語で「弓」、 cuspidataは「急に尖った」という意味だそうです。 ヨーロッパではロングボウという弓をイチイの木で作るそうです。 イチイの木を用いると、張力がある強力な弓が作れるそうです。 日本では竹と木を組み合わせた複合弓のほか、丸木弓も用いられていたようです。 もしかしたら、イチイを用いた弓が作られていたのかもしれません。 迹見赤檮(とみのいちい)とは弓を擬人化したものなのかも? ④アイヌのイチイの弓アイヌではイチイを使って弓を作っていたようです。 アイヌとは北海道・樺太・千島列島・カムチャッカ半島に住んでいた民族で、蝦夷(かつて関東・東北・北海道に住んでいた大和朝廷に従わない民)と関係があるのではないかとする説もあります。 また、物部氏の祖神・ニギハヤヒを神として奉じていたナガスネヒコ(別名トミヒコ)は、日向からやってきた神武に敗れ、 トミヒコの兄のアビヒコが東北に逃れたのが、蝦夷の安倍氏だともいわれます。 アイヌとは蝦夷であり、また神武や蘇我氏に敗れた物部氏だと考えるのは、あまりにトンデモかなあ? 迹見赤檮(とみのいちい)の迹見(とみ)とはナガスネヒコの別名・トミヒコからくるもので アイヌであり、蝦夷であり、物部氏であるトミヒコの弓矢で、物部守屋は射られたということだったりして? ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 歴史ブログ・ 旅 free style もよろしくお願いします~。 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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[2017/06/22 10:56]
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京都市綾部市 東光院 2017年6月18日 撮影 ①東光院由来 東光院には下の説明板があったのですが、意味がよくわからない~(汗) 673年、理趣仙人が鳳凰に乗って百済国に向かう途中、山谷より光明を放って光り輝いているのが見えました。 そこで仙人は山上に降りてみると、谷一面に茅が繁殖しており、そこで神童に会いました。 仙人は神童に礼拝しました。 次、「其の頌に曰く」とあります。 頌とは「ほめる」とか「たたえる」という意味ですね。 「神童が理趣仙人をほめて言った」という意味でしょうか? その次、「桧木医薬師仏 一歩一見 諸群生 現世安穏得長寿 後生 無量寿仏国と」とは? 桧木 | ひのき | 医薬師仏 | 薬師如来は医薬の仏なので、薬師如来のこと? | 一歩一見 | あとの文章に刀々三礼と出てくるので、刀々三礼という意味でしょうか? 一刀三礼というのは、一彫りごとに三回礼拝して仏像をつくることを言いますが、刀々三礼も一刀三礼と同じような意味なんでしょうか? | 諸群生 | 一切衆生? | 現世安穏得長寿 | 現世は安穏とし、長寿を得る? | 後生 | あの世 | 無量寿仏国 | 無量寿仏は阿弥陀仏の別名なので、阿弥陀仏の国? |
つまり、神童が「一刀三礼し、桧で薬師如来を刻めば、衆生の現世は安穏としたものになり、長寿を得る。また死後は阿弥陀仏の国に行けるだろう」と言ったということでいいですか? 間違っていたら教えて下さいねーーー!(すいません!) ②法隆寺について 東光院には上のような説明版もありました。 法隆寺奈良法隆寺も東光院もどちらも薬師如来を本尊としている。 法隆寺の地名は斑鳩(いかるが)で東光院の地名は旧何鹿(いかるが)。 法隆寺には西院伽藍・東院伽藍があり、東光院には西の伽藍(東光院)と東の伽藍(旦寺)がある。 法隆寺近くには富雄川があり、東光院の境内には富緒川が流れている。 ③日本では漢字の意味よりも音を重要視していた?日本では漢字の意味よりも音を重要視していたのか、同じものを異なる漢字であらわすことがよくあります。 たとえば、イザナギという神様の名前を、古事記は伊邪那岐命、日本書紀は伊弉諾神と書いています。 奈良東大寺に転害門がありますが、転害門は手貝門、天貝門、手蓋門などとも呼ばれ、転害門前のバス停は「手貝町」となっています。 ④みずらを結った童子法隆寺は聖徳太子が建てたといわれ、夢殿の本尊・救世観音は聖徳太子等身大の像だと言い伝わっています。 また聖徳太子像はみづらを結った童子の姿であらわされることが多いです。 大聖将軍寺 神妙椋樹上の写真は大聖将軍寺(大阪府八尾市 )の神妙椋樹です。 聖徳太子は矢を射られそうになったとき、椋の樹の中に隠れたという伝説があり、それをあらわしたものですね。 山岸涼子先生の「日出づる処の天子」では聖徳太子が超能力を使って蘇我蝦夷とともに椋の樹の中に隠れるというシーンがありましたね。 椋の樹は中が空洞になりやすい性質があるのです。 昔の人はそういう椋の樹の性質をよく知っていて、聖徳太子が椋の樹の中に隠れたという話を脚色したのだと思います。 うむむ? すると理趣仙人が出会った神童とは聖徳太子なのではないでしょうか? ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 歴史ブログ・ 旅 free style もよろしくお願いします~。 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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[2017/06/20 18:55]
京都府 |
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茨木県潮来市 水郷潮来あやめ園 2017年 6月中旬 撮影
①潮来花嫁さん潮来は霞ヶ浦・北浦・常盤利根川などに面する水郷とのこと。 潮来花嫁さんという歌がありましたね。 シンガーの花村菊江さん、かわいくて歌超うまい~。 水郷地帯なので、花嫁さんは舟で嫁ぎ先に向かう習慣があったのでしょうか。 ②ジューンブライド水郷潮来あやめ園では花菖蒲が満開となるころ、嫁入り舟のイベントを行っています。 ジューンブライドにちなむ行事なのかな。 ヨーロッパでは6月に結婚すると幸福になれるといい、ジューンブライドといいますね。 ③ヨーロッパの6月は気候がいいなんで6月に結婚すると幸福になれるというのでしょうか? 一説には6月は気候がよいため、そう言われるようになったと言われます。 日本では6月は梅雨ですが、ヨーロッパの6月はからっとしており、気温は日本の4月~5月くらいで気持ちがよい気候なのだそうです。 行ったことはないのですが~。 太陽暦の6月は陰暦では5月ですね。 理由はわかりませんが、中国では5月は悪月だと言われていました。 ヨーロッパとはえらい違いですね。 ④ヨーロッパの3月~5月は農作業が忙しくて結婚どころではなかった?ヨーロッパの3月~5月は農作業が忙しくて結婚どころではなく、6月に結婚する人が多かったところから、ジューンブライドという言葉が生まれたとする説もあります。 ヨーロッパでは6月は農作業がひまなんですかね? 6月は気候がいいなら農作業が忙しくなりそうですが。 このあたり、ヨーロッパの農作業事情がよくわからないので、なんともいえません。 日本では6月は田植の季節で大忙しです。 ⑤6月は結婚の神・ユノからくるローマ神話の結婚の神をユノ(ジュノー)といい、6月をjune(※ジュネと読んではいけないよん 笑)というのは、ユノからくると言われます。 そしてユノは結婚の守護神ともされているので、6月に結婚するのは縁起がいいとして、ジューンブライドなる言葉が生まれたともいわれます。 ⑥6月のヨーロッパは薔薇が満開かつてルーマニアなどでは吸血鬼の発生を抑えるため、墓の周囲に薔薇をうえていたといいます。 死んだ人が吸血鬼として復活しても、薔薇のトゲが吸血鬼を捕らえると考えられていたのではないかと思います。 足利フラワーパーク 薔薇6月のヨーロッパは薔薇が満開だとか? それで6月は魔物が少なく、結婚に適した月だと考えられたのかも? お幸せに~。 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 歴史ブログ・ 旅 free style もよろしくお願いします~。 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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[2017/06/19 18:57]
茨城県 |
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大阪市天王寺区 一心寺 2017年6月13日 撮影
一心寺
①源空庵は日想観を修する草庵だった?1185年春、浄土宗の開祖・法然は四天王寺西門の坂に源空庵という草庵を結びました。 法然がここに草庵を結んだのは、四天王寺別当・慈円の要請を受けたためで、これが一心寺の始まりだといいます。 その後、後白河法皇’(1127~1192)がここを訪れて法然とともに日想観を修したといいます。 一心寺日想観とは、 西に沈む太陽を見て、その丸い形を心に留める修行法だということです。 極楽浄土は西方にあると考えられており、日想観はその極楽浄土を拝むという意味合いがあったのでしょう。 歌人の藤原家隆も1236年に病を患って出家し、このあたりに夕日庵を結んで日想観を行ったと伝えられます。 現在、夕日庵の跡地には家隆塚があります。 家隆塚ここから考えて、法然が結んだ源空庵は、日想観を修するための草庵であったと考えられます。 ②かつて上町台地から海に沈む夕日が見えていた。このあたりは上町台地と呼ばれる高台で、逢坂・愛染坂・口縄坂など多くの坂があります。 口縄坂今これらの坂の上にたって西の方角を望むと、林立するビル群が見えるばかりで、海は全く見えません。 ですが、かつては林立するビル群のあたりは海であり、海に沈みゆく夕日が見えたというのですね。 上の写真は淡路島慶野松原の夕景ですが、かつて一心寺付近の坂の上に立つとこんな感じの風景が見えていたのではないかなあと想像します。 それが長い年月を経る間に大和川や淀川などの川が運ぶ土砂が堆積し、海が陸に変わってしまったそうです。 一心寺 ③西方極楽浄土へ旅立った安徳天皇と平家さて、なぜ法然は日想観を修するためと考えられる源心庵をここに作ったのでしょうか。 源心庵を設けた1185年、壇ノ浦の戦いで平家は源氏に敗れ、滅亡しています。 もはやこれまでと悟った平家の人々は次々に海に飛び込んで自殺してしまったのです。 平家物語には次のように記されています。 安徳天皇「どこへ行くの?」 平時子「弥陀の浄土へまいりましょう。波の下にも都があるのですよ。」
こうして安徳天皇(父・高倉天皇、母・平徳子)は祖母の平時子に抱かれて入水しました。安徳天皇と平家は西方極楽浄土へ向かったのです。 上の地図を見てください。 源空庵(現在の一心寺)があったのは【大阪】の文字があるあたりです。 壇ノ浦古戦場跡は源空庵から見て、少し南にずれますが、ほぼ西の方角にあたります。 つまり、源空庵は壇ノ浦の戦いで入水した平家の霊を日想観を修することによって慰霊するために作られたのではないかと思うわけです。 源空庵で後白河法皇と法然は、壇ノ浦の波の下にある都=弥陀の浄土に沈んだ平家の霊と、安徳天皇の霊を慰霊するために 日想観を行ったのではないかと。 壇ノ浦の戦いで平家が滅んだあと、後白河法皇は源氏の指揮官だった源義経を院御厩司に任じています。 平家滅亡には後白河法皇もからんでいたわけです。 耳無し芳一の説話は、平家の怨霊が信仰されていたことを物語るものでしょう。 後白河は相当平家の霊を怖れたことでしょうね。 一心寺 開眼されたばかりの第14期骨仏(平成19年から28年までに納骨された骨で作られた仏さまです。)④半日で完成した鴨長明の庵源空庵が作られたのは1185年春とウィキペディアは記しています。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%BF%83%E5%AF%BA#.E6.B2.BF.E9.9D.A9「1185年春」の出典は記されておらず、また春が旧暦なのか新暦なのかわかりません。 壇ノ浦の戦いがあったのは、1185年4月25日ということです。 4月25日は新暦では春ですね。 旧暦では3月24日となります。 旧暦では1月・2月・3月が春、4月・5月・6月が夏、7月・8月・9月が秋、10月・11月・12月が冬でした。 旧暦3月24日はぎりぎりで春、あと1週間足らずで夏になります。 壇ノ浦の戦いからわずか1週間しかないやん! その間に庵を結ぶなんて無理、無理! と思うかもしれませんが、これがそうでもないんですよ~。 方丈記で有名な鴨長明(1155~1216)が住んでいた庵は組み立て式で車二輌で運搬可能だったそうです。 この庵は2~3人の大工さんがいれば半日で組み立て可能だったとか。 河合神社にある復元された鴨長明の方丈 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 歴史ブログ・ 旅 free style もよろしくお願いします~。 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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[2017/06/14 20:05]
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京都府宇治市莵道 三室戸寺 2009年6月中旬 撮影
①大神神社名物『みむろ』初めて三室戸寺という寺の名前を聞いたとき、『みむろ』という最中を思い出しました。 はい、甘いもの大好きです♡ 『みむろ』は大神神社(奈良県桜井市)の大鳥居の横にある店で売っている名物のお菓子です。 大神神社のご神体である三輪山の別名を御諸山といいます。 この御諸山にちなんでお菓子の名前を『みむろ』としたのでしょう。 ②十八神社は御室神社?三室戸寺の本堂の向かって左手に十八神社があります。 十八神社は三輪山山麓にある大神神社の神を勧請したもので、当初は三室神社と言っていたそうです。 大神神社の神を勧請したということは、三室神社の三室は御室山(三輪山)の御諸に別の字を当てたのでしょう。 三室戸寺は、もともとは御室戸寺と称していたのを、光仁、花山、白河三帝の離宮になったために【御】の字を【三】に替えたと伝わっていますが 十八神社(三室神社)は三室戸寺が創建される以前からここにあったといいます。 もしかしたら、三室神社はもともとは御室神社で、御室戸寺を三室戸寺と変えたときに三室神社と名前を変えたのかも? それはともかく、最中の『みむろ』と『三室戸寺』には関係があったんですね~。 ③宇賀神境内に宇賀神(うがじん)の石像が置かれていました。 宇賀神は人頭蛇身のおすがたをしておられますが、大神神社の御祭神・大物主神は蛇神と信仰されていて、大神神社の境内には蛇の好物である玉子がお供えされています。 宇賀神の石像が三室戸寺の境内に置かれているのは、蛇神である大物主神に対する信仰と関係があるのかもしれませんね。 ④宇賀神とろくろ首
宇賀神を見て、私は「ろくろ首だあーー」と思いました。 それでひらめいたんですが、昔の人は蛇とは頭部に長い首のついた動物だと考えていたのではないでしょうか? ⑤太陽神はドクロの神?御室山(三輪山)は蛇がとぐろを巻く姿をしているといわれます。 そして、御室山は奈良の東にあって太陽が昇る山です。 上の写真は三輪山より昇る朝日を合成で作ったものです。(曇っていて朝日が出なかった~) 上の宇賀神の写真とくらべて見てみましょうー。 蛇のとぐろが三輪山だとすると、宇賀神の頭部は太陽のようです。 世界中で蛇を太陽神とする信仰がありますね。 それは脱皮を繰り返す蛇には再生のイメージがあるためであると一般的には説明されます。 そして⑤でお話ししたように、昔の人は蛇を頭部に長い首がついた動物だと考えていたと思います。 すると、太陽神とはドクロの神なのかも? ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 歴史ブログ・ 旅 free style もよろしくお願いします~。 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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[2017/06/12 00:00]
京都府 |
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千葉県君津市 濃溝の滝 2017年6月初旬 撮影
①ジブリの世界と話題350年ほど前、笹川から水田に水を引き込むために、洞窟が掘られました。 「亀岩の洞窟」と呼ばれています。 3月と9月、午前中に訪れると洞窟から差し込む光がハート型に見えるそうです。 今度は3月か9月に来たいです♪ ジブリの世界のよう、と話題です。 ②ニギハヤヒとニギハヤミ
ジブリ作品『千と千尋の神隠し』に登場する美少年ハク。 ハクの正しい名前は『ニギハヤミコハクヌシ』でしたね。 これは完全に物部氏の祖神・ニギハヤヒからとっていますね。 そう、初代神武天皇よりも早く天の磐船を操って哮峯(いかるがのみね)に天下り、そののち大和の鳥見の白庭山に移ったとされる神様です。 この神話から、初代神武天皇以前、畿内には物部王朝があったとする説がありますね。 ニギハヤヒをニギハヤミとしたのは、『紫の薔薇の人』・速水真澄から・・・・ なんてことはないと思うけど、速水からとったのではないかなあ。 http://dic.pixiv.net/a/%E9%80%9F%E6%B0%B4上記サイトには速水とは「水のあるところ」という意味だと記されています。 ニギハヤヒは、『日本書紀』では饒 速日命 、『古事記』では邇藝 速日命となっていて、日の神だと考えられます。 先代旧事本紀では照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)となっており ニギハヤヒが本当の天照大神だとする説もあります。 しかし、ハクは川の神なので速日を速水に変えたのではないでしょうか? ③コハク=琥珀=小白ニギハヤミコヤクヌシの『コハク』は『琥珀』という意味なのかな? しかしネットで調べてみると、饒速水小白主という表記が出てきます。 もしかして、アニメの中で饒速水小白主という文字が出てきたのでしょうか? ハクは白い龍に変身しますし、饒速水小白主という表記はありだと思います。 また日本では漢字の意味よりも漢字の音を重んじることが多いです。 万葉仮名は漢字の意味を無視して漢字の音を重要視することから作られたものですし ニギハヤヒを饒速日命・邇藝速日命のように、複数の表記をすることも珍しくありません。 日本のファジーな感覚では、饒速水琥珀主でも、饒速水小白主でもどっちでもいい、ということになりそうです。 ④おまえ百まで、わしゃ九十九まで
謡曲・高砂ではおじいさんが熊手を持ち、おばあさんが箒をもって海岸の掃除をしています。 これは単に掃除をしているということではなく、浄めの儀式として行っているのでしょうね。 なんでおじいさんが熊手、おばあさんが箒を持っているのかといえば 熊手は「九十 九まで」、箒は「掃く(はく)= 百」という意味で長寿を表すとされます。 俗謡で「おまえ百まで、わしゃ九十九まで。共に白髪の生えるまで」と謡うものがありますが、これは謡曲・高砂からくるといわれています。 ウン?するとニギハヤミコハクヌシ=ハクは『掃く=百』なのかも? 主人公の千尋が『千』で、ハクが『百』。 数が多いことを『千百』といいますね。 それにかけて『千』と『ハク(掃く=百)としたのかも? またハクは白と表記するのかもしれませんが、白髪のことを、九十九髪(つくもがみ)といいます。 これは伊勢物語に出てくるのですが 100-1=99 ですが、百-一=白になるという謎々なのです。 うーん、するとハクは『掃く=百』でもあり、『白=百-一=九十九』でもあるということになりますね。 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 歴史ブログ・ 旅 free style もよろしくお願いします~。 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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[2017/06/11 00:00]
千葉県 |
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京都市東山区 戒光寺 2017年6月7日 撮影
①爪が長いのは夜叉や天狗の特徴即成院 戒光寺 雲龍院 (泉涌寺塔頭)皐月 『爪の長いみほとけ』 ↑ こちらの記事で、戒光寺の爪の長い丈六の釈迦如来についてお話ししました。 「平安時代の貴族は爪を長く伸ばしており、それを反映して爪の長いみほとけが作られた」という説があります。 しかし、私は次のように考えました。 平安時代の貴族は爪を伸ばしていなかったのではないか? 爪が長いのは夜叉や天狗の特徴であり、戒光寺の釈迦如来は夜叉や天狗の特徴を備えたみほとけではないか? そう考えたのは、崇徳上皇に次のような話があるためです。 保元の乱〈1156年)で後白河天皇に敗れた崇徳上皇は讃岐へ流罪となり、反省の意味をこめて五部大乗経の写本を作り、それを朝廷に送りました。 ところが後白河は「呪詛がこめられているんじゃない?こんなの受け取れっかよーー。」と写本を送り返してきました。 崇徳上皇は舌を噛みきり、その血で写本に次のように書いたと言われます。 「日本国の大魔禄となって、皇を取って民とし民を皇にしてやる!」「この経を魔道に回向してやる!」 そして髪や爪を伸ばし続けて夜叉のような姿となり、生きながら天狗になったといわれます。  『美勇水滸傳』木曽駒若丸義仲に鼻を摑まれた天狗(一魁斎芳年筆) https://commons.wikimedia.org/wiki/File:YoshitoshiGrabTenguNose.jpg?uselang=ja よりお借りしました。 上の絵は明治時代の画家・一魁斎芳年が描いたものですが、天狗の爪が長いように見えます。
②爪の長いみほとけは後堀河天皇が畏れていた人物をイメージしている?だとすると、なぜ夜叉や天狗のように爪の長いみほとけが作られたのでしょうか? 戒光寺は1228年、浄業(曇照律師)が猪熊八条の地に開山したお寺で、後堀河天皇の勅願所とされました。 猪熊八条とは南北に伸びる猪熊通が、東西に延びる八条通と交差するあたり(東寺の東北付近)のことでしょうか。 後堀河天皇の勅願所だということは、後堀河天皇が畏れ敬っている人物をイメージしたみほとけなのかもしれませんね。 ③魔縁(魔物)となることがあれば、この世に災いをなすだろう1221年、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時を倒すべく挙兵しますが、敗れました。(承久の乱) 鎌倉幕府は後鳥羽上皇を隠岐島へ、土御門上皇(後鳥羽上皇の子)を土佐、順徳上皇(後鳥羽上皇の子)を佐渡へ配流としました。 また仲恭天皇(後鳥羽上皇の孫、淳徳天皇の子。当時4歳)は退位させられました。 そして後鳥羽上皇の兄・守貞親王の三男・茂仁王を即位させました。 これが後堀河天皇です。 1237年、後鳥羽上皇は次のような文章を書いています。 「万一にもこの世の妄念にひかれて魔縁(魔物)となることがあれば、この世に災いをなすだろう。 我が子孫が世を取ることがあれば、それは全て我が力によるものである。 もし我が子孫が世を取ることあれば、我が菩提を弔うように」 後鳥羽上皇は相当後堀河天皇を恨んでいたはずで、後堀河天皇は後鳥羽上皇の恨みを怖れていたと思います。 ③死後怨霊となった後鳥羽上皇後鳥羽上皇は1239年3月28日に隠岐島で崩御されますが、 平常高の日記『平戸記』には「三浦義村(1239年12月31日死亡)や北条時房〈1240年2月18日死亡)の死は後鳥羽上皇の怨霊のしわざである」と書いてあります。 後鳥羽上皇は死後、怨霊になったと考えられたようです。 ④藤原家隆は後鳥羽上皇の生霊を怖れていた?上賀茂神社 笠懸神事 『藤原家隆、後鳥羽院の笠懸を思い出して歌を詠む?』※追記あり 説明すると長くなるので、上の記事を読んでいただきたいのですが、藤原定家や藤原家隆は後鳥羽上皇の生霊を怖れていたように思えます。 生霊というより、後鳥羽上皇が後堀河天皇に対して行っている呪詛を怖れたといったほうがいいかもしれませんが。 それで後鳥羽上皇をイメージした御仏を作って戒光寺の御本尊とし、勅願所としたのかも? 後鳥羽上皇は生霊なので、みほとけの爪を長くしたのかもしれないですね。  戒光寺と同じく泉涌寺塔頭の雲龍院 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 歴史ブログ・ 旅 free style もよろしくお願いします~。 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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[2017/06/09 10:13]
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