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勝尾寺 桜 『勝尾寺は鰹寺?』 

大阪府箕面市 勝尾寺
撮影 2017年4月24日

勝尾寺 多宝塔 しだれ桜

①王に勝った寺

727年、双子の兄弟、善仲と善算(年藤原致房の子)がここに草庵を築き、765年開成(光仁天皇の皇子・桓武天皇の異母兄)が善仲、善算に弟子入りしました。 
777年、開成は大般若経600巻の書写をやり遂げ、この場所に弥勒寺を創建しました。
780年、妙観が十一面千手観世音菩薩立像を刻み、本尊として安置しました。
880年、行巡が清和天皇の病気平癒の祈祷を行って効験があったため、「王に勝った寺」の意で「勝王寺」 の寺号を帝より賜りました。
しかし、「王に勝った寺」とはあまりに畏れ多いとして、「王」を「尾」として勝尾寺と号したそうです。

勝尾寺 多宝塔 石楠花

②勝尾寺での祈祷もむなしく、清和天皇は881年に崩御されていた!

いやー、この話はおかしいですね!
というのは、「880年、行巡が清和天皇の病気平癒の祈祷を行って効験があった」というのですが、翌年の881年、清和天皇は崩御されているんですよね~。

清和天皇は858年、9歳で即位しました。
平家物語には惟仁親王(清和天皇)と惟喬親王のどちらを皇太子にするかでもめたことが記されています。
876年、第一皇子の陽成天皇に譲位し、879年に出家して畿内巡幸の旅をしました。
880年、丹波国水尾の地で絶食を行うなど厳しい苦行を行っています。
その後左大臣源融の別邸棲霞観で発病し、881年、粟田の円覚寺で崩御されました。

880年、清和天皇は苦行を行ったせいで病となり、そのため行巡が清和天皇の病気平癒の祈祷を行ったのでしょう。
ですが清和天皇は崩御されてしまったので、行巡の祈祷は効験があったとはいえなくはないですか?

勝尾寺 多宝塔 桜

③「王に勝った寺」は日本語的におかしい。


また清和天皇の病気平癒の祈祷を行って効験があったため、「王に勝った寺」の意で「勝王寺」 の寺号を帝より賜ったというのもおかしいですね。

もしも本当に行巡の祈祷の効験があったのなら、「王に勝った寺」というのは日本語的におかしいです。
「王の病に勝った寺」と言うべきで、勝尾寺という寺名の由来を「勝王寺からくる」とするのは、ちょっとこじつけっぽく思えてしまう~。

また、実際には清和天皇はそのまま崩御されたので、行巡の祈祷の効験はなかったといいうことになります。

行巡が「清和天皇、死ね!」と祈祷していたと考えると「王(天皇)に勝った寺」というのは筋が通りそうに思えますが~(笑)

正確に言うと清和天皇は天皇であって王でもありませんしね。

王とはもともとは君主を意味する言葉でしたが、日本では国の君主には天皇と言う称号が使われていますね。
天皇の子の男子で、親王宣下を受けた者は親王と呼ばれました。
王とは天皇の子の男子ではあっても親王宣下をうけていない者のことを言いました。

勝尾寺-二階堂 しだれ桜

④勝尾寺は鰹寺?

勝尾寺という寺名は勝王寺からくるのではなく、もともとは鰹寺でそれが転じて勝尾寺になったのではないかと想ったりもします。

えーーっ、勝尾寺があるのは山の中やん、それなのになんで鰹なのって?

⑤ハンセン病にかかった皇子

①で765年開成(光仁天皇の皇子・桓武天皇の異母兄)が善仲、善算に弟子入りしたと書きましたね。
開成は「かいじょう」と読み、静岡県磐田市の白山神社の創建説話に登場する海上皇子(戒成皇子/桓武天皇の第四皇子)と関係があるのではないかと前田速男さんが指摘されています。

また愛知県新城市の白山神社の創建説話には後醍醐天皇の第3皇子・開成皇子が登場します。
こちらの開成皇子は勝尾寺の開成と同じ字ですね。
勝尾寺大阪府箕面市開成光仁天皇の皇子・桓武天皇の異母兄
白山神社静岡県磐田市海上皇子(戒成皇子)桓武天皇の第四皇子
白山神社愛知県新城市開成皇子後醍醐天皇の第3皇子
で、海人皇子と開成皇子はどちらも「裸足で大地を踏んだので鬼神の怒りにふれ、病になった」と伝えられています。
開成皇子は何の病になったのかわかりませんが海人皇子についてはハンセン病になったとされています。

3人の父親は異なりますが、ハンセン病にかかった伝説のある皇子のことを、開成・海上・戒成と呼んでいるのではないでしょうか。

勝尾寺 山門  

⑥実際にハンセン病にかかったわけではない、と思う。


日本書紀にトガノの鹿という話が記されています。

雄鹿が「全身に霜が降る夢を見た」というと、雌鹿は「霜だと思ったのは塩で、あなたは殺されて全身に塩を振られているのです。」と答えました。
翌朝、雌鹿の占いのとおり雄島は漁師に撃たれて死にました。(トガノの鹿)

鹿の夏毛には白い斑点があります。
その白い斑点が霜や塩に喩えられたのでしょう。

そして謀反の罪で殺された人には塩が振られることがあり、鹿とは謀反人の比喩だとする説があります。

また日本書紀は次のような話もあります。


612年、百済から渡来したものの中に体に白斑を持つ者がおり、海中の島に置き去りにしようとした。
白斑の男はこう言って抵抗した。
「白斑が悪いというのなら、私と同じように白斑のある牛馬は飼えないではないか。
私は築山を作るのが得意で、この国のお役にたつことができます。私を海中の島に捨てるのは日本のためになりません。」
そこでこの男に須弥山の形と呉風の橋を御所の庭に築かせた。

ハンセン病患者の症状はさまざまですが、白い斑点ができるものがあります。
鹿はこの百済から渡来した者がいうように、白斑があります。

つまり、次のような発想で謀反人と鹿やハンセン病患者は結び付けられたのではないかと思います。

謀反人→死体に塩を振る→鹿の白斑を思わせる→ハンセン病患者を思わせる。

⑦ハンセン病の古名のひとつ、カタヰ。


ハンセン病は古にはらい病、ナリンボ、ドス、カタヰ(カタイ)などとも言ったそうです。
海上皇子という名前は海の魚を想起させますし、魚偏に堅いと書けば鰹となりますね。

そういうわけで、鰹寺から勝尾寺になったのではないかと思ったりするんですが、あまりにトンデモですかね?

 勝尾寺 鐘楼 桜


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[2017/04/25 16:36] 大阪府 | トラックバック(-) | コメント(-)