金熊寺 梅 『神のお告げの税金対策?』 


大阪府泉南市 金熊寺 信達神社
2012年3月中旬 撮影


金熊寺 梅

①金峯・熊野の神を祀る寺

金熊寺は、役の行者(634?ー701?)が創建したと伝えられています。
隣にある信達神社は古くは金熊寺大権現宮といい、金熊寺の鎮守でした。

信達神社 
信達神社

昔、海岸にたどりついた神武天皇の像を祀ったのが始まりで、
682年に役小角が金峯・熊野の神を勧請して本殿に合祀したと伝わります。

②金熊寺は金峯山と熊野三山からとった?

金峯とは吉野にある金峯山のことだと思います。
金峯山寺は役行者を開基とする神仏習合の寺院です。

 金峯山寺 蔵王堂 桜

金峯山寺 蔵王堂

熊野には熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)があり、やはり修験道が盛んでした。

おそらく金熊寺という寺名は金峯・熊野からとったのでしょう。
そういえば、熊野三山はお詣りしたことがないなあ~。
近いうちに行ってみたいです。

金熊寺 梅林 

③なぜ梅が植えられたの?


300年ほど前、信達神社の神主・矢野氏に「この地に梅樹を植えると神領益々隆盛となる」のお告げがあり、矢野氏一族によって白梅をメインに2000本の梅が植えられたといいます。

ここに梅が植えられたのは、熊野が紀州(和歌山県)にあることと関係がないでしょうか。
紀州といえば南高梅が有名ですね。

紀州で梅が栽培されるようになったのは、江戸時代とされます。
紀州藩田辺領の農民がやせ地は免租地(租税の一部または全部を免除する土地)となるということで、梅の栽培を始めたといいます。

金熊寺周辺で梅が栽培されるようになったのは300年ほど前ということですから、江戸時代ですね。
紀州藩田辺領と同じく、租税の免除を狙ったのではないでしょうか。

それを神様のお告げがあったなんぞと表現したのでは?

金熊寺 梅林


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[2017/03/23 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

大阪城 梅 『豊臣秀吉は重瞳だった?(閲覧注意!)』 


大阪市中央区 大阪城
2011年3月撮影

大坂城 梅 
太閤さん(豊臣秀吉)の城と親しまれている大阪城

①豊臣秀吉は重瞳だった?


大阪城 花水木 『六本指の秀吉が指を切断しなかった理由』  

↑ こちらの記事で、豊臣秀吉は六本指であったと書きました。

それだけでなく、豊臣秀吉は重瞳だったという話もあります。

重瞳とは目の中に複数の瞳があることをいいます。

多瞳孔症とか多瞳孔というそうです。
ケースによってはものが二重に見えたりすることがあり、そういう場合は手術をする必要があるということです。
だけど下の動画を見ると美しいです♡



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

②瞳孔膜遺残

上の動画の4:10あたりでミケランジェロのダビデ像のアップが登場します。
ダビデの瞳、とてもキュートなハート形です。
瞳孔膜遺残と説明されています。

http://blog.sannoudaiganka.jp/?eid=140621
こちらのブログによると
胎児が眼球を形成していく過程では瞳孔は膜でおおわれており、だんだん萎縮して消失するが、ときどきこの瞳孔膜が残ってしまうことがあるということです。

また、世の中でもっとも多い先天異常だとあります。

大坂城 梅2

③貴人の相


古代の中国では重瞳は貴人の相とされていたみたいですね。
豊臣秀吉のほか、平清盛、源義経も重瞳だったと記した書物があるそうです。
中国で重瞳は貴人の相とされているのをうけて、事実ではないが、豊臣秀吉・平清盛・源義経らを重瞳であるという設定で物語を描いたと考えられています。

それとも、ダビデのように瞳孔膜遺残だったのかも?

大坂城 梅3

④蒼頡(そうけつ)と方相氏

中国の重瞳の貴人のひとり、 倉頡(そうけつ)の肖像画を見てみましょうー。

File:Cangjie.png

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/34/Cangjie.png よりお借りしました。
作者のページを見る [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

倉頡(そうけつ)は漢字を発明したとされる伝説上の人物で、 重瞳四目といわれます。
帝舜・項羽も四つの目で描かれるそうです。

これ ↓ に似ていますね!

吉田神社 節分祭 鬼と方相氏

吉田神社の鬼やらい神事に登場する方相氏です。
吉田神社では方相氏は赤鬼・青鬼・黄鬼と闘いますが、平安時代の節分に鬼は登場しません。
平安時代の節分の日には、方相氏がシン子を従えて『鬼やらい」といいながら宮中を練り歩いていたようです。

③方相氏は体内に冬の気をすいこんだあと矢で射られた。


大江匡房の『江家次第』には『殿上人長橋の内に於いて方相を射る』と記されています。
方相氏の恐ろし気な風貌が鬼と混同されたなどといわれますが、そうではないと私は考えます。

竹田恒泰さんが「雛人形は厄を吸い込むものだった」とおっしゃっていましたが、その通りだと思います。
方相氏も雛人形と同じように厄と言うか、冬の気、鬼の気のようなものを吸い取る役割を担っていたのでしょう。
そして、体いっぱいに冬の気、鬼の気を吸い込ませたあと、方相氏ごと矢で射て冬の気・鬼の気を退治してしまうということだったのではないかと想像します。
方相氏はみがわり人形のようなものだったのだと思います。

大坂城 ひよどり

④方相氏は2体の牛が合体している?


さて、方相氏はなぜ四ツ目なのでしょうか。

以前、ネットで以下のような内容の記事をよみました。今、ぐぐっても見つからないのですが~。(すいません!)

(い)方相氏は中国の天神、蚩蚘(シュウ)ではないか。
(ろ)蚩蚘は炎帝神農氏の子孫であり、兵器を発明し、霧をあやつる力を持つ神。
(は)『帰蔵』は蚩蚘の姿を『八肱(八つの肘)、八趾(八つの足)、疏首(別れた首)』と記す。
(に)『疏首』というのは、首が二つあるということだ。
(ほ)蚩蚘とは二頭の獣が合体した神ではないか。
(へ)そう考えると蚩蚘が『八肱(八つの肘)、八趾(八つの足)』をもっていることの説明もがつく。
(と)『述異記』には『銅の頭に鉄の額、鉄石を食し、人の身体、牛の蹄、四つの目、六つの手を持つ』とある。
(ち)『四つの目』とあるのも二頭が合体しているのだろう。
(り)二頭を合わせると足は8本だが、人の体をしているので、8本の足のうち2本が脚で、残りの6本が手(腕)ということだろう。

すばらしい!
『述異記』に『牛の蹄』とあるので、蚩蚘や方相氏は2頭の獣が合体しているのでしょう。

⑤蚩蚘や方相氏は聖天さんと習合されている?

私は蚩蚘や方相氏は聖天さんと習合されていると思います。


待乳山聖天では聖天さん(大聖歓喜天)をお祀りしています。
聖天さんとは像頭をした男女双体のみほとけです。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます!

聖天さんには次のような伝説があります。

インドのマラケラレツ王は大根と牛肉が大好物でした。
牛を食べつくすと死人の肉を食べるようになり、死人の肉を食べつくすと生きた人間を食べるようになりました。 
群臣や人民が王に反旗を翻すと、王は鬼王ビナヤキャとなって飛び去ってしまいました。
の後ビナヤキャの祟りで国中に不幸なできごとが蔓延しました。
そこで十一面観音はビナヤキャ女神に姿を変え、ビナヤキャの前に現われました。
女神は『仏法を守護することを誓うならおまえのものになろう』と言い、ビナヤキャは仏法守護を誓いました。 

つまり、聖天さんとは鬼王ビナヤキャ(=マラケラレツ王)とビナヤキャ女神(十一面観音の化身)の男女双体のみほとけなのです。

上の動画をもう一度見てください。
相手の足を踏みつけているほうが、十一面観音の化身ビナヤキャ女紳です。

⑥御霊・和霊・荒霊と男神・女神

神はその表れ方によって御霊・和霊・荒霊に分けられるといいます。

御魂・・・神の本質
和魂・・・神の和やかな側面
荒魂・・・神の荒々しい側面


そして和霊は女神、荒霊は男神だとする説があります。
とすれば御霊は男女双体ということになると思います。

御霊・・・神の本質・・・男女双体
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神


⑤にあげた聖天さんの伝説は、この御霊・和魂・荒魂をあらわしたもののように思えます。

御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体(聖天)
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神(ビナヤキャ女神)
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神(ビナヤキャ)

蚩蚘や方相氏、中国の倉頡・帝舜・項羽、日本の豊臣秀吉・平清盛・源頼朝らが重瞳とされるのは、
彼らがもともとは荒魂であったが、女神(和魂)と結合して御霊となったと考えられたためではないでしょうか。
そして彼らが貴人と考えられるのは、彼らが御霊であるからではないかと思います。

大坂城 夕景


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[2017/03/21 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

雲龍院 河津桜 『BL掛軸?』 (18禁 笑) 

京都市東山区 雲龍院
2016年3月3日 撮影


雲龍院 河津桜3

①謎々掛軸

泉涌寺の塔頭・雲龍院にはこんな ↓ 掛け軸があります。
この二点の掛け軸はいずれも謎々なのだそうです。

雲龍院 掛軸 

②謎々その1

まずは向かって右側の掛け軸の謎解きから。

「ち」が五つ→ちご(稚児)
「も」が五つ→いつも
「の」が三つ→のみ(飲み)
「た」が八つ→たや

つなげて読むと、「ちごのさけいつものみたや(稚児の酒いつも飲みたや)」となります。

 雲龍院 河津桜4

③謎々その2

次に向かって左側の掛け軸を考えてみましょう~。

a.「林下祖師半身」は「林の下に祖師が半身を現す」と読みますが、林の下の漢字は「祖」です。
「祖」は分解すると「示」と「且」に分かれます。
この「祖」が半身を表すので「示」のみをとります。
すると、「林」+「示」で「禁」となります。

b.「水辺尊者頭脚隠」は「水辺で尊者が頭と脚を隠す」と読みます。
「水辺」はさんずい(氵)、「尊」の頭は「2つの点」、脚は「寸」なので、尊からこれらをとると「酉」です。
「氵」と「酉」を合わせると、「酒」になります。

a=禁、b=酒で「禁酒」となります。

 雲龍院 河津桜2

③稚児灌頂♡


これね~、単に酒を飲むなという意味ではないと思うんですよ。
BLのことばっかり考えてるスケベ―だからそう思うのかもですが~(汗)

稚児というのはもともとは子供という意味ですが、寺院で稚児といえば少年修行僧のことをいいました。

少年修行僧は、僧侶の男色の相手も務めていました。(汗)

天台宗でははじめて僧侶の相手をする稚児に対し、初夜の直前に稚児灌頂(ちごかんじょう)という儀式が行われていました。
この儀式を受けた稚児は観音菩薩の化身であるとされ、僧侶はこの稚児灌頂を受けた稚児とならば交わることが許されていたのです。

「稚児の酒いつも飲みたや」とは「稚児を抱きたい」と言う意味で、「禁酒」は「稚児を抱いてはならない」という意味だったりして?

雲龍院 河津桜 
④僧侶はなぜBLに走ったのか?

僧侶は女性との性交が禁じられていたため、稚児との男色に走ったのではないかといわれますが
私は僧侶の男色は呪術的なものであったのではないかと考えています。

9月9日は重陽の節句ですが、700歳の長寿を得た菊滋童の伝説にちなみ、菊酒を飲んだりする習慣があります。

の穆王が寵愛していた少年・菊慈童は、あるとき誤って帝の枕の上を超えてしまい、レッケン山に流刑となりました。
穆王は菊滋童に観世音菩薩 普門品というお経にある「具一切功徳慈眼視衆生、福聚海無量是故応頂禮」を毎日唱えるようにと言いいました。
菊慈童がこれを菊の下葉に書きつけたところ、菊の下葉の露が不老長寿の薬となりました。
そしてそれを飲んだ菊滋童は700歳の長寿を得ました。

菊滋童が穆王の枕を超えた、という点に注意してください。
穆王は菊滋童を寵愛していたとありますが、これは単に「かわいがっていた」という意味ではなく、「BLの関係にあった」ということでしょう。(きゃー♡)

で、陰陽では男は陽、女は陰です。
♂と♂が重なることはまさしく重陽だといえるのではないでしょうか?
つまりBLは長寿の妙薬ということだと思います。
僧侶たちがBLに走ったのはそのためではないでしょうか?

 法輪寺 重陽神事2 

法輪寺 菊滋童の舞


⑤菊はBLの象徴だった?

薔薇族という言葉は1971年に創刊されたそっち系の雑誌の名前が薔薇族とかいうところからくるみたいですね。
古には菊がBLのシンボルだったと思います。菊門とかいう言葉もあるしな~。
と思ったら庭の砂で菊が描かれていました!

雲龍院 灯篭  
そういえば、雲龍院は皇室と関係の深い泉涌寺の塔頭でした。
皇室の紋といえば菊ですね。
あれれ?皇室の象徴ってBLなの?




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[2017/03/19 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

長岡天満宮 梅  『長岡天満宮は長岡京の裏鬼門封じの神社?』 

京都府長岡京市 長岡天満宮
2017年3月中旬撮影

長岡天満宮 梅 
長岡天満宮

①長岡京遷都と藤原種継暗殺事件


784年、桓武天皇は平城京から長岡京に遷都しました。
785年、長岡京で造宮使の藤原種継が暗殺されるという事件がおきました。

取り調べの結果、大伴継人、佐伯高成らが事件に関与したとされ、斬首されました。
万葉集の編者として知られる大伴家持はこの事件の首謀者であるとされました。
大伴家持は藤原種継暗殺事件がおこる約一か月前に亡くなっていたのですが、墓を掘り返して死体を流罪としています。
えげつない~。
また桓武天皇の同母弟の早良親王もこれに関与したとされ、長岡京の乙訓寺で幽閉されました。
早良親王は無実を主張してハンガーストライキを決行し、淡路に流罪となる途中の船上で憤死したと伝わります。

乙訓寺 牡丹 

乙訓寺

②早良親王、怨霊になる!


早良親王の死後、桓武天皇の后・藤原旅子・藤原乙牟漏・坂上又子、桓武天皇の母親(早良天皇の母親でもあります。)がら相次いで病死。
また桓武天皇が皇太子とした安殿親王が発病しました。
これらは早良親王の怨霊の祟りであるとされました。

錦水亭 紅梅2 
長岡天満宮前にある八条ヶ池

③桓武天皇、わずか10年で長岡京を棄て、平安京へ遷都。


桓武天皇は早良親王の霊を慰霊するため、何度か儀式を行いました。
しかしその効果なく、大雨で川が氾濫する事件がおきます。

桓武天皇「弟よ、これだけ慰霊してもまだ祟るのか!」
和気清麻呂「天皇、もうこれ以上長岡京にいることはムリです。長岡京は怨霊の住み着く都になってしまったのです。遷都いたしましょう!」
桓武天皇「でも、まだ遷都して10年だし~、お金もないし~」
和気清麻呂「お金なら秦氏が出すと言っておりますので」
桓武天皇「するする!遷都する!今すぐする!」

てなことで、桓武天皇はわずか10年で長岡京を棄て、平安京へ遷都したのでした。ベンベン。

八条池 紅白の梅 
長岡天満宮前にある八条ヶ池

④菅原道真、怨霊になる。


時は流れて901年、右大臣だった菅原道真は藤原時平の讒言によって大宰府に流罪となり、903年に大宰府でなくなりました。
その後、都では疫病が流行し、醍醐天皇の皇太子が次々に亡くなるなどしました。
そしてこれらは菅原道真の怨霊の仕業だと考えられ、道真を慰霊するため、各地に天満宮が作られました。
長岡天満宮もそうした天満宮のひとつです。

菅原道真は現在では学問の神として受験生から厚く信仰されていますが、もともとは怨霊だったのですね。
怨霊は神として祀り上げるとご利益を与えて下さる神に転じるという信仰があったようで、それで道真は怨霊から学問の神へと転身したのだと思います。

八条池 夕景 
八条が池 トランペットの練習をしている方がいて「ムーンリバー」や葉加瀬太郎さんの「ひまわり」などを演奏してくれたので
とてもすてきな撮影タイムになりました♪ ありがとう~。






⑤長岡天満宮は長岡京の裏鬼門封じの神社だった?

長岡天満宮は長岡京の南西のはずれに位置していたとされます
東北は鬼門、南西は裏鬼門です。

鬼門とは鬼が出入りする方角です。裏鬼門も鬼門同様縁起の悪い方角とされていました。

平安京から見て東北には蝦夷、南西には隼人というまつろわぬ民が住んでいました。
それで鬼門と裏鬼門は忌まれたのではないかと思ったりします。

また、道真が亡くなった大宰府や、早良親王が流刑になった淡路島も平安京の南西にありますね。
(早良親王は淡路へ向かう船上でなくなりましたが、そのまま淡路島に運ばれ葬られたようで、淡路島に早良親王の墓があります。)

長岡天満宮は長岡京の裏鬼門封じの神社として作られたのではないでしょうか。



長岡天満宮は長岡天神の文字の西、緑色の部分です。


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[2017/03/18 00:54] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

下呂温泉 花火 『源義平の狒々退治伝説』 

岐阜県下呂市 下呂温泉 
2017年2月下旬 撮影


下呂温泉 花火


①下呂温泉の白鷺伝説

下呂温泉は天歴年中(947~957年)に温泉が湧き出たとされますが、1265年、温泉が出来なくなってしまいました。
翌年、飛騨川の河原に白鷺が舞い降りると、再び温泉が湧き出るようになりました。


下呂温泉 飛騨街道 道祖神?


②源義平の狒々退治伝説

下呂温泉近くの金山町祖師野には源義平の伝説も残されています。

昔、祖師野村(岐阜県下呂市金山町祖師野)に狒々が現れては村の若い娘を食べてしまっていました。
1159年、源義朝の嫡男、源義平(頼朝・義経の兄)が集兵のため祖師野村を通りかかり、村人たちを可哀想に思って狒々を退治しました。
村人たちは源義平が狒々を倒して残していった太刀を「祖師野丸」と名づけ祖師野八幡宮で大切に保管していました。
200年ほどのちに、隣村の代官がその太刀を持ち出すと、村に天変地異がおき、神社に戻すとおさまりました。

下呂温泉 花火2 
③岩見重太郎の狒々退治伝説

どこかで聞いた話だなあ?
そうそう、大阪の野里住吉神社では岩見重太郎(薄田兼相)が狒々退治をしたという伝説があるんでしたね!
参照/野里住吉神社 一夜官女祭 『岩見重太郎の狒狒退治伝説』 

野里住吉神社 一夜官女祭 

野里住吉神社 一夜官女祭 (少女たちは狒々にささげられる人身御供です。)

④日本の伝説には似たような話が多い


日本の伝説・民話には似たような話で、登場人物が入れ替わっているケースがよくあります。

たとえば琵琶湖の瀬田の唐橋で藤原秀郷が大百足を退治したという話がありますが
男体山には猿丸が大百足を退治したという話があります。

源義平の生没年は1141年~1160年、岩見重太郎の生没年は?年~1615年です。
しかし言うまでもないことですが、どちらの伝説が先にできたのかはわかりません。
岩見重太郎の伝説ができたのちに、この伝説をベースにして源義平の伝説が作られた可能性もあります。

下呂温泉 花火3 
この河川敷に噴泉池(露天風呂)がありました。
オールヌードで入浴されている方がたくさんおられたので写真は撮らなかったんですが(笑)


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Gero_Spa_Kawararoten.JPG
↑ こちらに写真がありました。

⑤親の仇討ちと狒々

岩見重太郎と源義平には共通点があります。

【岩見重太郎】
岩見重太郎の父親・岩見重左衛門(小早川隆景の剣術指南役)が広瀬軍蔵に殺されため、重太郎は仇討ちをするため各地を旅しました。
旅の途中、狒々退治をするなどし、1590年、天橋立で広瀬軍蔵を討ちました。
その後、叔父の薄田七左衛門の養子になりました。


【源義平】
源義平の父親・源義朝は1160年に長田忠致に殺されています。
このとき源義平は飛騨で兵を集めていましたが、義朝が殺されたことが伝えられると、その多くは逃げ去ってしまいました。
源義平は自害しようと考えましたが、自害するくらいなら平清盛か平重盛と相討ちしようと京へ向かいました。
石山寺に潜んでいたところ、難波経房の郎党に生け捕られ、六波羅で清盛の尋問を受けます。
源義平は難波経房に「上手く斬れ。まずく斬ったら喰らいついてやる」と言いました。
難波経房が「首を斬られた者がどうして喰らいつけるのか」と問うと、「雷になって蹴り殺してやる」といいました。
こうして義平は20歳で斬首されました。
8年後、難波経房は清盛のお伴をして摂津の布引の滝を訪れたとき、雷に打たれて死にました。


岩見重太郎と源義平はどちらも親の仇討ちをしようとしていますね。
岩見重太郎が仇討ちを果たしたのに対し、源義平は仇討ちを果たせず亡くなってはいますが。

どうやら、親の仇討ちをする際には、まず狒々を倒さなければいけなかったようですね。

下呂温泉 花火4 
⑥岩見重太郎は陽、源義平は陰

また、岩見重太郎と源義平には刀という共通点もありそうに思えます。

岩見重太郎は刀で親の仇を討ち取っています。

そして①の伝説では、源義平は「祖師野丸」という太刀を祖師野八幡宮に残していったとありますね。
④の【源義平】では義平は飛騨で兵を集めていたと書きましたが、飛騨とは現在の岐阜県あたりで、下呂市も飛騨に含まれます。

つまり、源義平は祖師野村(岐阜県下呂市金山町祖師野)で狒々退治をしたあと、仇討ちをするため京に向かったと思われますので、太刀をもたずに京へ向かったということだと思います。
実際には刀は持っていったでしょう。
あくまで伝説に基づいて考えるとそうなる、ということです。

岩見重太郎は刀を持っていたので親の仇討ちをすることができた。(陽)
一方、源義平は刀を置いていったので親の仇討ちをすることができなかった。(陰)
ということなんじゃないかと思います。

 下呂温泉 地蔵菩薩


⑦源義平はヤマトタケルのイメージと重ねられた?

私は源義平はヤマトタケルのイメージと重ねられていると思います。
ヤマトタケルは草薙の剣を持たずに伊吹山に行き、素手で白い大猪と闘ったと記紀には記されています。

白い大猪は伊吹山の神で、大氷雨を降らせました。
そのためヤマトタケルは病を患って伊吹山を降り、大和に戻ろうとしましたが力尽き、能煩野(三重県亀山市)で亡くなってしまいました。
その地にヤマトタケルのための陵が作られましたが、ヤマトタケルは白鳥となり大和をめざして飛び去りました。
白鳥とはスワンのことではなく、白い鳥の意味だと言われます。
白鷺も白鳥だということになります。

あれ?
①下呂温泉の白鷺伝説をもう一度読んでみてください。
この伝説に登場する白鷺って、ヤマトタケルとイメージが重ねられた源義平のことでは?

下呂温泉 縄文橋

縄文橋
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[2017/03/16 00:00] 岐阜県 富山県 | トラックバック(-) | コメント(-)

雑誌「発見上手」に写真を掲載していただきました。 

「発見上手」という雑誌に写真を掲載していただきました。
声をかけてくださったNさん、そのうえ、ケーキまでごちそうになっちゃって、お土産にお菓子までもらっちゃって
ありがとうございました!

(「発見上手」という雑誌は三井住友信託銀行さんが顧客の方に配布されている雑誌で、一般書店などには置かれていません。)


ブログ記事・若狭神宮寺 お水送り 『お香水とは水銀のことだった?』 の、この写真 ↓ を見て、声をかけてくださいました。

お水送り 
下に観光客の頭やスマホのあかりが写っていたので、うるさいかなと思って、横長のトリミングにしていたんですが

お水送り お松明  
トリミングしない状態で掲載していただきました。
見開きだったので嬉しかったです。

う~ん、トリミングしないほうがよかったですね。
Nさんのおかげで勉強になったーーー。ありがとうございました。

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[2017/03/15 00:01] 未分類 | トラックバック(-) | コメント(-)

金沢 長町武家屋敷 薦掛け 『金沢版ジャックと豆の木伝説』 

石川県金沢市 金沢城・兼六園・長町武家屋敷
2017年2月下旬 撮影


金沢城 
金沢城

兼六園 梅 
兼六園

金沢武家屋敷  
長町武家屋敷

長町武家屋敷の土塀には薦掛けがされていました。
雪から土塀を守るために、薦をかけるんですね。
あいにく雪はありませんでしたが、その情緒ある町並にうっとり!

金沢武家屋敷 説明板

①頓智の弥七

薦といえば、金沢には弥七が薦を作る伝説があります。

大野の大地主にやとわれていた弥七は、ほかの人の倍ほども畑を耕しました。
そして主人に『少しはほめたらどうか」と言ったところ、主人は「お前が働いているのではない。お前に食べさせたママ(食べ物)が働いているのだ」といいました。
次の日、弥七は寝転んでいつまでも昼食のママを見ていました。
主人が「何をしているのか」と尋ねると弥七は「ママが畑を耕すのを見ている」と答えました。


弥七はなかなか頓智のある人物だったようですね。

またあるとき主人が弥七にいいました。
「お前はよく働くが、わしの言うことを聞かん。わしが『しろ』と言ったらして『やめろ』と言ったらやめろ。」
数日して主人は弥七に「薦を編んでくれ」と頼みました。
しかしいくら待っても弥七が薦を持ってこないので見にいってみると10mもありそうな長い薦を編み続けていました。
主人が「こんな長い薦編んでどうするんや」というと弥七は「ご主人様が『やめろ』と言わないから編んでいるのだ」と答えました。


でも、10m以上もある薦なら武家屋敷の土塀にかけるのにちょうどよさそう~。

金沢武家屋敷3

長町武家屋敷
 
②弥七と豆の木

弥七の物語にはまだ続きがあります。

あるとき弥七は一本の豆の木で五石一斗採ってみせるといい、
ざる一杯の豆を畑に撒き、水をかけて肥しをまきました。
一月たって、豆が一本だけ芽を出し、空に届くほどの高さになってたくさんの豆のさやをつけました。
弥七が豆の木を斧で伐り倒して収穫し、升ではかると五石一斗ありました。


金沢版「ジャックと豆の木」ですよね。

この豆の木の幹で作った太鼓が本町の西福寺の御堂の脇に吊ってあるそうです。

弥七の伝説は金沢の旅から戻ったあとネットでググって知りまして、西福寺はたまたま前を通りかかって下の写真のみ撮影したんですが御堂の中には入りませんでした。
残念! 太鼓と弥七像、見たかったです~。

http://kanazawa-burari.blogspot.jp/2014/09/blog-post.html
↑ こちらのサイトに写真がありました。

金沢-西福寺 
西福寺

③琵琶湖版「ジャックと豆の木」


琵琶湖版「ジャックと豆の木」もあります。

源五郎が植えたナスビの苗は翌日には天まで届き、茄子(ナスビ)が鈴なりになっていました。
源五郎はつるを登って雲の上にいき、雷神の仕事を手伝って雲の上から水をまいて雨を降らせました。
ところがうっかり水が入った瓶をひっくりかえし、水は全部下界に落ちて琵琶湖になりました。
源五郎は湖で溺れている人を見て笑っていましたが、雲から落ちて湖にはまってしまいました。
源五郎は湖でもがいているうちに鮒になってしまいました。
これが琵琶湖の固有種の源五郎鮒です。


比叡山より琵琶湖花火大会を望む

比叡山より琵琶湖を望む

④茄子は銅の隠語?

比叡山延暦寺 法灯花 琵琶湖花火大会 『茄子は銅の隠語?』  
↑ こちらの記事で、次のようなことを書きました。

a.銅山川(愛媛県~徳島県)流域の愛媛県新居浜市には別子銅山があり、また近くに「なすび平」と言う地名がある。
b.栃木県の足尾銅山の近くには「那須高原」がある。
c.茄子とは銅の隠語ではないか。 
d.銅は新しい10円玉のように赤紫色をしている。その色を茄子に喩えたのではないか。
e.坑道は百足の足のようにたくさん伸びていることから百足穴といわれる。
   鈴なりになった茄子もまた坑道の比喩ではないか。

金沢武家屋敷2 

長町武家屋敷

⑤藤は金、鷹は辰砂(丹)、茄子は銅?

玉雲宮 百日紅 『一富士・二鷹・三茄子の謎、そして殺生石はなぜ高田の地に飛散したのか』 

↑ こちらの記事には次のようなことを書きました。

い.初夢で見ると縁起がいいとされるものとして、一富士・二鷹・三茄子という。
ろ.私は、一富士・二鷹・三茄子とは鉱山または鉱物の隠語ではないかと考えている。
は.栃木県那須町の近くには足尾銅山がある。愛媛県新居浜市のなすび平の近くには銅山川が流れ、別子銅山がある。
       銅は茄子色をしている。そして茄子が鈴なりになっている状態を坑道に見立てたのではないか。
に.鷹は鷹の爪ではないか。
       鷹の爪の赤い色は辰砂(丹/水銀)を、また鷹の爪の実が鈴なりになるようすを坑道に見立てたのではないか。
ほ.富士は不死の意味で、輝きを失わない金を意味しているのではないか。
       富士はまた藤をも意味し、藤の花が房になって咲くようすが坑道に喩えられたのではないか。

興福寺 藤 

興福寺 藤

⑥豆は藤で金を表す?


すると、弥七が育てた豆は何を表しているのでしょうか。
藤はマメ科の植物です。

そして金沢には「いもほり藤五郎」という民話もあります。
藤五郎が掘る自然薯には砂金がたくさんついていたが、藤五郎はそれが価値があるものとは知らず、大和からやってきた嫁に教えられて初めて価値があるものと知り、大金持ちになるというような話です。

イモは富鉱の隠語のようです。
富鉱をぐぐってみると、
有用鉱物を豊富に含んだ鉱石。また、産出量の多い鉱床や鉱山
https://kotobank.jp/word/%E5%AF%8C%E9%89%B1-617772より引用
とあります。

藤五郎の「藤」は金の隠語だと私は考えています。

⑦五郎は御霊?

また「五郎」は「御霊(怨霊が祟らないように慰霊したもの)」をあらわすとする説があります。
京都の上御霊神社や下御霊神社では御霊を神として祭っていますので、御霊は神といってもいいでしょう。
「藤五郎」とは「金をもたらす神様」という意味を持っているのではないでしょうか。

下御霊神社

下御霊神社


⑧弥七が育てていた豆は金だった?

弥七が育てた豆とは金であり(藤はマメ科なので)、豆の木にぎっしり豆のさやがついている様子は坑道を表しているのだと思います。

金沢にはかつて倉谷鉱山で金を産出していましたし、犀川では砂金がとれるといいます。

金沢武家屋敷4 
長町武家屋敷

⑦弥七は雷神だった?

それではなぜ西福寺に太鼓があるのでしょうか。
③琵琶湖版「ジャックと豆の木」では、源五郎は雷神の仕事を手伝って雲の上から水をまいて雨を降らせています。
源五郎自身が雷神なんですね。

浅草寺 雷門



上は東京の浅草寺・雷門です。
向かって右に風神、向かって左に雷神の像が置かれています。
雷神は7つの太鼓を背負っています。
雷のドーンという音を、古の人々は雷神が太鼓を鳴らしていると考えたのでしょう。

金沢の弥七も、琵琶湖の源五郎と同様、雷神であると考えられたのではないでしょうか。
それで弥七が育てた豆の木の幹で作った太鼓といわれるものが西福寺にあるのだと思います。

⑧弥七は菅原道真だった?


http://kanazawa-burari.blogspot.jp/2014/09/blog-post.html
↑ こちらのサイトによれば、西福寺の8代目は菅原氏で、梅鉢紋を用いているとありますね。

菅原道真は現在では学問の神として信仰されていますが、もともとは怨霊でした。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、疫病の流行や天災は怨霊の仕業で引き起こされると考えられていたのです。

菅原道真は藤原時平の讒言で大宰府に流罪となり、数年後に失意のまま亡くなりました。
その後、都では疫病が流行し、清涼殿に落雷が落ちるなど天災が相次ぎ、これらは菅原道真の怨霊の仕業であると考えられました。

北野天神絵巻には清涼殿で暴れる雷神が描かれていますが、これは菅原道真の化身だと考えられます。
菅原道真は雷神だったのです。

その怨霊であり雷神とおそれられた菅原道真が現在学問の神として崇められているのは
祟り神は神として祀り上げると、ご利益を与えてくださる神に転じるという信仰があったためです。

弥七とは菅原道真の化身なのではないでしょうか。
そして金沢の金は、菅原道真の御神徳によって得られたものであると、金沢の人々は考えていたのではないでしょうか?
 
大阪天満宮 人形 

大阪天満宮に展示されている菅原道真の人形



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毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!




[2017/03/13 01:06] 石川 | トラックバック(-) | コメント(-)

白川郷 雪 『帰雲城の埋蔵金伝説』 


岐阜県 白川郷
2017年2月下旬 撮影

白川郷 雪2

①陸の孤島

トンネルを抜けると白川郷でした~。
シャトルバスで萩町城跡展望台へ向かい、見下ろすと合掌造の集落が見えます。
写真を見ていただくとおわかりのように、白川郷は山に囲まれています。
車で抜けてきたトンネルも昔はなかっただろうし、冬はどかっと雪が降るし、陸の孤島といった状態だったのではないかと想像します。

木曾義仲と闘って敗れた平家の落人が住み着いたという伝説があり、またかつて流刑地だったともいわれますが
それはこうした地形や気候によるところが大きいと思います。

以前の記事で、五箇山では煙硝(火薬原料)を生産して加賀藩に納めていたと書きましたが
参照/白川郷・五箇山 合掌造り集落 『流刑地だった五箇山 と ささら踊り』 
かつて白川郷でも煙硝が生産されており、「加賀藩の火薬庫」と呼ばれていました。

白川郷では合掌造の屋根裏で養蚕を行っており、その蚕のフンが煙硝の原料になったのです。
白川郷の人々は蚕のフンという産廃をうまく利用して、煙硝の生産を行っていたわけです。

また陸の孤島ともいうべき地形が軍事機密を保つのにちょうどよかったとも言われています。

白川郷 雪 
②白川郷の煙硝生産はなぜ始まったの?

白川郷から近い五箇山上梨の村上家住宅には煙硝厩(えんしょうまや)がありました。
参照/白川郷・五箇山 合掌造り集落 『流刑地だった五箇山 と ささら踊り』 

白川郷にも見学することのできる民家はあるのですが、時間の関係で見学することができませんでした。
なので村上家住宅にあるような煙硝厩があるのかどうかわかりません。

http://eikojuku.seesaa.net/article/252136295.html
上のサイトでは囲炉裏の両脇に穴を掘り、ヒエ殻、蚕のフンを入れ、ヨモギや麻土で埋め戻し、5~6年放置して発酵させたと記してあります。

また、織田信長と抗争を続けていた石山本願寺(浄土真宗)が、白川郷で密かに火薬を作らせていた、とも書いてあります。

 白川郷 明善寺 
明善寺 白川郷ではお寺も茅葺でした。

③内ヶ島氏の支配


室町時代、白川郷は内ヶ島氏が支配していました。
内ヶ島氏は鉱山開発技術に長けており、それで足利義満に白川郷にいくよう命じられたようです。
白川郷付近に鉱山があったということでしょうね。
ぐぐってみても、内ヶ島氏が開発を行った鉱山がどこにあったのかわからなかったんですが~。

戦国時代には内ヶ島氏は鉱山経営を行って莫大な富をたくわえ、帰雲城(推定地は白川村保木脇)を居城としていました。




※地図をクリックすると左上の枠が消え、白川村の文字があります。
そのあたりが白川郷萩町地区(写真は萩町地区)です。


また向牧戸城・萩町城・新淵城など多くの支城を築いています。

1枚目の写真は萩町城跡展望台から撮影したもので、かつてこのあたりに萩町城があったとされます。

小牧・長久手の戦いでは、内ヶ島氏理が佐々成政に属して越中に出陣しました。
しかし留守中、豊臣秀吉の命で金森長近が白川郷に侵攻してきたのです。
白川郷の人々は金森軍に寝返り、帰雲城は金森軍に占拠されました。

内ヶ島氏理はやむなく秀吉に降伏しました。
しかし、秀吉は内ヶ島氏の所領を少し減らしただけで、内ヶ島氏の領地経営を許しています。
これは、秀吉が内ヶ島氏の鉱山経営の技術を重要視したためだとされます。

白川郷 鬼の面を飾った民家


④内ヶ島氏、天正地震で一瞬にして滅ぶ!


内ヶ島氏理はこれを大いに喜んで宴会を計画し、その準備を進めていました。
一族も帰雲城に集まってきました。
そして明日はいよいよ宴会という日・・・
天正地震が起こり、帰雲城とその城下町の300軒の家は一瞬にして生き埋めになってしまったのです!
こうして内ヶ島氏は滅んでしまったのです。

帰雲城には内ヶ島氏が鉱山開発で蓄えた埋蔵金が眠っているといわれています。

白川郷 夜景 雪 

⑤金閣寺と内ヶ島氏

③で内ヶ島氏は鉱山開発に長けており、そのため足利義満に白川郷へ行くよう命じられた、と書きました。
足利義満は京都に金閣寺を建てていますが、金閣寺は大量の金箔が用いられていたことで知られています。
これらの金箔の中には内ヶ島氏が開発した金山の金を用いたものがあるかも?

金閣寺 雪 


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ありがとうございました!




[2017/03/12 00:00] 岐阜県 富山県 | トラックバック(-) | コメント(-)

城南宮 梅 『城南宮と方違』 


京都市伏見区 城南宮
2017年3月初旬 撮影


城南遇 神苑 しだれ梅 
城南宮といえばしだれ梅が有名なんだけど、どうやって撮ったらいいのか、いつも悩む~。
 
①藤森神社、伏見稲荷大社に土地を奪われて移転する。

伏見稲荷大社 千本鳥居 雪 
伏見稲荷大社

現在伏見稲荷大社のある場所には古くは紀氏の神を祀る藤森神社がありました。
ところが平安時代に伏見稲荷大社がその地に鎮座することになったため、藤森神社は現在地に移転しました。

伏見稲荷大社鎮座にともなう藤森神社の移転はスムーズに行われたのではなく、伏見稲荷大社側がかなり強引な手法を用いて行われたようです。
そのため、今でも伏見稲荷大社近辺の住民は藤森神社の氏子だといいますし

藤森神社の祭礼では氏子さんたちは神輿を担いで伏見稲荷神社に乗り込み、その境内にある藤尾社の前で「土地返しや、土地返しや」と叫び
稲荷神社側の人々は「神さん、今お留守、今お留守」と言い返すそうです。

藤森神社 蹴鞠3 
藤森神社

氏子さん方にはこんな話が伝わっているそうです。

稲荷山はが藤森神の土地だったが、稲荷神が俵1つ分の土地を貸してほしいと言った。
俵一つ分くらいならと許可すると、稲荷神は、持っていた俵を解いて長い縄にし、その縄で囲んだ土地を借りた。
しかし期限が来ても返さないので、祭礼の際に「土地返せ」と言っている。

すごいお祭りだなあ~。 


城南宮 梅2 
城南宮 唐渡天満宮

②天皇家・藤原氏・空海が藤森神社の土地を奪った?


伏見稲荷大社は東寺の鎮守とされています。
東寺は鎮護国家のため、嵯峨天皇によって建設が始まったのち、空海に下賜された寺です。
つまり、藤森神社は天皇家や空海に土地を奪われたということでしょう。
当時の天皇家は藤原氏と密接な関係がありましたので、天皇家・藤原氏・空海が藤森神社の土地を奪ったといったほうが適切でしょうか。

空海は東寺五重塔に用いる木材を稲荷山から伐りだしています。
東寺の五重塔は日本最大の仏塔で高さは54.8mもあります。
その五重塔に用いる心柱に適切な木材が稲荷山以外にはなかったため、稲荷山を手に入れる必要があったのではないかと想像します。

東寺 桜 ライトアップ 
東寺

③藤森神社の移転によって真幡寸神社も移転する。

そういうわけで藤森神社は伏見稲荷大社に土地を奪われて現在地に移転することになったわけですが、そこには真幡寸(まはたき)神社がありました。
真幡寸神社は藤森神社に土地を譲って移転しました。
これが城南宮です。

④城南宮も藤森神社同様、紀氏の神社だった?


藤森神社と城南宮の間に土地の貸借にまつわるトラブルなどの伝説は残されていません。

そして藤森神社と城南宮には同様の伝説が伝えられています。

a.神功皇后が新羅を攻略する折りの旗を御神体として奉納した。
b.平安京遷都の際,王城鎮護のため国常立尊を合祀した。

同様の伝説が残されているということは、城南宮も紀氏の神社だったのかな?

城南宮 梅 
城南宮 神楽殿

⑤城南宮、鳥羽離宮に取り込まれる。


平安末期の院政期には城南宮の周囲に鳥羽離宮が造営されました。
鳥羽離宮は白河上皇・鳥羽上皇らが院政を行った場所です。
城南宮は鳥羽離宮の一部となり、鳥羽離宮は城南離宮とも呼ばれたといいます。

もし、城南宮が紀氏の神社だったとしたら、院政期には天皇家にその土地や神々が奪われていたということになりますね。

⑥方違

白河上皇は9回に及ぶ熊野御幸を行っており、その後、鳥羽上皇が21回、後白河上皇が33回(34回とも)、後鳥羽上皇が28回熊野御幸を行っています。
そのほか、崇徳上皇・後嵯峨上皇も熊野御幸を行っています。
上皇だけでなく、貴族たちも熊野詣を行ったようです。

そして熊野詣をする際には城南離宮で潔斎し、またここに泊まってから熊野へ向かっていたようです。
城南離宮に泊まったのは、方違(かたたがえ)を目的としていたとされます。

城南宮 神輿殿 梅 
城南宮 神輿殿 

⑥方違って何?

古の人々は、目的地に天一神・太白・大将軍・金神・王相の方位神がいる場合、いったん別の方角にいって一泊し
翌日、そこから目的地を向かうという面倒なことをしていました。
これは陰陽道の占いによるものです。

さらに天一神・太白・大将軍・金神・王相は定まった方角にいるのではなく、周期的に方角を変えるとされていました。

えっ?
神様が定まった位置にいるのではないということは、城南宮の位置が熊野に対して吉の方角ではなく、凶の方角になることもあったということなんじゃないの?

⑦方忌呪術の簡略化?

コトバンクは世界大百科事典内の城南宮の言及として、次のように記しています。

「…庶民社会では方違神社参詣の俗信が興り,禁忌の方向に対して舎宅を構えたり,窓や垣を開いたり塞いだり,あるいは旅行・回船の門出などをなすものは,この神社に参れば方違の意味が生ずるとするもので,大阪府堺市の方違神社は有名である。

京都では洛南鳥羽の城南宮(真幡寸(まはたき)神社)が有名で,禁忌の方向に造作したり,転宅したりするとき,境内の土を持ち帰ってまけば,祟りを避けられるという。

かくて方忌呪術の簡略化の結果は方違本来の意味をまったく一変させてしまったのである。…」

https://kotobank.jp/word/%E5%9F%8E%E5%8D%97%E5%AE%AE-1339966

⑧熊野詣の際、城南宮に立ち寄っていた理由

古の人々は熊野詣の方違を目的にしていたというよりは、熊野へ出立するにあたり潔斎の目的でここに立ち寄っていたのではないでしょうか。

なんでかって?

④で、城南宮は紀氏の神だったのではないか、と書きました。
紀氏は紀州を本拠地としていました。

そして熊野もまた紀州にあり、熊野の神も紀氏の神である可能性が大です。

つまり、人々は紀氏の神がすむ熊野へ詣でるにあたり、紀氏の神・城南宮にお詣りをしていたのではないか。

そんな風に私は考えているわけです。

城南宮 絵馬殿 梅 
城南宮 絵馬殿



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ありがとうございました!




[2017/03/10 01:40] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

高山陣屋跡 雪 『アメリカで拷問復活?』 


岐阜県高山市 高山陣屋
2017年2月下旬 撮影


高山陣屋 門

高山は江戸幕府の天領で、代官所・飛騨郡代役所として高山陣屋がおかれました。

御役所

高山陣屋 御役所 
御用場 今でいう事務所みたいなものか。

高山陣屋 御用場 
寒い土地のためか、囲炉裏がたくさんありましたよ。

高山陣屋 囲炉裏
 
かまど
 
高山陣屋 かまど


高山陣屋 トイレ 

トイレは2種類~ 

高山陣屋 トイレ2 

呂場は床から一段下げてありました。 甕からお湯を救ってかけるのかな?

高山陣屋 風呂場 
御白洲は今でいう法廷ですね。

高山陣屋 お白洲 
御白洲には拷問の道具がずらーり。

①江戸時代の拷問


日本では古くから自白させるために拷問を行っていました。
「自白させるため」というけど、無実なのに、ありもしないことを自白させられた人もいただろうな~。かわいそ。

あまりに残酷な拷問はよくないとして、1742年の公事方御定書で、拷問はむちうち、石抱き、エビ責め、釣り責めの4種類に限定されました。

高山陣屋 箒尻  

むちうちには上の箒尻のような道具を用いたのでしょう。

高山陣屋 責台 

石抱はの責台 ↑ に座らせて

高山陣屋 抱石

膝の上に↑ 抱石を載せます。

海老責は屈伸した状態で、あごと足首が密着したように縛りあげます。うっ血して危険とのこと。

釣り責は手を後ろでにしばって吊るすものです。

あまりに残酷な拷問はやめたみたいですが、むちうち・石抱・海老責・釣り責って十分残酷やん~。

http://scary.jp/supot/syokei/goumon/ ← こちらのサイトにイラストがあります。

②現代でも拷問は行われている?


1870年(明治3年)の新律綱領では。杖による拷問が規定されました。
1879年の太政官布告で、ようやく拷問制度は廃止されました。

しかし、その後も警察の取り調べで拷問は行われました。
昭和初期には蟹工船の著者・小林多喜二や、野呂 榮太郎、岩田義道ら日本共産党に関係する人などが特高の拷問によって死亡しています。

何年か前、元警察官だったという人が「取り調べで殴る蹴るは当たり前」と言っているのを聞いたこともあります。

③アメリカではオバマ政権になるまで拷問は合法だった。

今回、記事を書くために調べていて、もっともびっくりしたのは、アメリカではオバマ大統領が水責めなどの拷問を禁止したということです。
ということは、それまで禁止ではなかったということですね・・・。
トランプ大統領は「イスラム国を毒をもって毒を制す」必要があるので、水責拷問を復活させると言っているようです。

高山陣屋 

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[2017/03/08 00:00] 岐阜県 富山県 | トラックバック(-) | コメント(-)