京都市右京区 渡月橋 京都市西京区 法輪寺 2010年4月初旬 撮影
渡月橋
①十三詣関西では旧暦の3月13日ごろ、数え年13歳になった男の子・女の子が虚空蔵菩薩にお詣りする『十三詣』の習慣があります。 京都の『十三詣』は嵐山の虚空蔵法輪寺に参拝します。 というか、法輪寺が『十三詣』発祥の地なんじゃないかと思ったりするんですが、どうなんでしょう?2 渡月橋
②知恵もらい十三詣は別名を『知恵もらい』といいます。 虚空蔵菩薩は知恵を授けてくれる神として信仰されていました。 空海が虚空蔵求聞持法を行ってすげー記憶力を手に入れたという話は有名ですね。 また惟喬親王が法輪寺に籠って虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説もあります。 法輪寺③決して後ろを振り返ってはいけない!十三詣を終えて渡月橋を渡る際、「決して後ろを振り返って見てはいけない。」と言われています。 うしろを振り返って見ると、せっかく虚空蔵菩薩より授かった知恵を失ってしまうというのです。 渡月橋
④法輪寺はあの世有名な記紀神話を思い出しますね。 イザナギは死んだイザナミを迎えに黄泉の国へ行き「愛しい妻よ、もどってきておくれ」と嘆願します。 イザナミは「黄泉の大王に相談してきます。その間、決して振り返って私の姿を見ないでね。」と言いました。 しかしイザナギは我慢できなくなって振り返ってイザナミの姿を見てしまいます。(ダメな男だなあ~) イザナミの体は腐り、蛆がわいていました。 それを見たイザナギは恐ろしくなって逃げだしました。(ほんっっっっとうにダメな男だなあ~) イザナミは「よくも私の姿を見たな!」と言って追いかけてきましたが、イザナギはなんとか逃げ切って黄泉平坂に大きな石を置いてあの世とこの世の境を塞ぎました。古の人々は法輪寺はあの世、桂川を隔てた対岸をこの世に見立てていたのではないでしょうか。 それで渡月橋を渡る際、「決して後ろを振り返って見てはいけない。」と言われているのではないでしょうか。 すると渡月橋はあの世とこの世を繋ぐ橋で、渡月橋の下を流れる桂川は三途の川? 渡月小橋 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2017/03/31 00:16]
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京都市伏見区 伏見稲荷大社 2014年4月1日 撮影 京都市南区 東寺 2015年4月2日 撮影
伏見稲荷大社
①伏見稲荷大社は秦氏の氏神?
『山城国風土記』に次のように記されています。 711年、秦伊侶具が餅を的にして矢を射ると、餅が白鳥に代わって飛び立ちました。 そして白鳥は稲荷山に降りてきましたが、降り立った場所に稲が生えてきたので、秦伊侶具はここに社殿を建てました。 のちに子孫は伊侶具が白鳥を射たことを悔い、社の木を抜き、家に植えて祀りました。 木を植えて根付けば福が来、根付かなければ福が来ないといわれます。
伏見稲荷大社で2月の初午の日に授与されている「しるしの杉」はこの伝説にちなむものです。
伏見稲荷大社
②紀氏の土地を奪った伏見稲荷大社
伏見稲荷大社の南に紀氏の神を祀る藤森神社がありますが、もともと藤森神社は伏見稲荷大社の場所にあったとされています。 その場所に伏見稲荷大社が建てられることになったので、藤森神社は移転したというのです。
そのため、伏見稲荷大社付近の人々は今でも藤森神社の氏子だといいます。 藤森神社の祭礼では氏子さんたちは神輿を担いで伏見稲荷神社に乗り込み、その境内にある藤尾社の前で「土地返しや、土地返しや」と叫び 稲荷神社側の人々は「神さん、今お留守、今お留守」と言い返すそうです。
氏子さん方にはこんな話が伝わっています。
稲荷山はが藤森神の土地だったが、稲荷神が俵1つ分の土地を貸してほしいと言いました。 俵一つ分くらいならと許可すると、稲荷神は、持っていた俵を解いて長い縄にし、その縄で囲んだ土地を借りました。 しかし期限が来ても返さないので、祭礼の際に「土地返せ」と言っています。
伏見稲荷大社があるあたりは山城国紀伊郡といい、紀氏の土地であったのが、藤原氏や秦氏が権力を持つようになって紀氏は土地を奪われたと考えられていますが 秦氏や藤原氏は強引な方法で紀氏より土地を奪ったのではないかと思えます。
藤森神社 藤森祭
③空海のもとにやってきた紀州の神。
『稲荷大明神流記』には次のように記されています。 816年、紀州国熊野で空海は神に出会いました。 神は空海に『弟子になれ』と言いました。 空海はこう答えました。 『私は密教を広めたいと思っているので、仏法で守ってくださるとうれしいです。 東寺であなたをお待ちしています。』 823年、紀州の神が約束通り東寺にやってきたので、空海は大喜びで神をもてなし、17日間祈祷して神に鎮まっていただきました。
空海が紀州で出会った神とは紀氏の神ではないでしょうか。
東寺 ⑤伏見稲荷大社は紀氏の神までも奪っていた?伏見稲荷大社では宇迦之御魂大神、佐田彦大神、大宮能賣大神、田中大神、四大神を祭っていますが 柴田實氏によると、四大神とは、五十猛命(いそたけるのみこと)、大屋姫(おおやつひめ)、抓津姫(つまつひめ)、事八十神の四柱の神神々のことだということです。(式内社調査報告) 五十猛命(イソタケル)は、スサノオの子で、林業の神です。 記紀の記述によれば五十猛神は紀伊国に祀られている神とあります。紀伊国とは紀州のことです。 また記紀の記述によれば、大屋都姫命(大屋姫)はスサノオの娘で、五十猛命は兄、抓津姫は妹としており 大屋都姫命と抓津姫はスサノオに命じられて五十猛命と共に全国の山々に木種を撒いたあと紀伊国に戻ったとあります。 そして、和歌山市宇田森の大屋都姫神社では大屋都姫命を、和歌山市伊太祈の伊太祁曽神社では五十猛命を主祭神としています。 都麻都姫命(抓津姫/は都麻都比売神社の主祭神とされていると古い文献には記されていますが、この都麻都比売神社が現在のどの神社のことであるのかは不明です。 紀州は古より林業が盛んだったので、紀州の人々は林業の神・五十猛神や、木種をまいた大屋都姫命・抓津姫を信仰していたのでしょう。 そして紀州は紀氏の本拠地でした。 五十猛神・大屋都姫命・抓津姫は紀氏の神だと考えられるでしょう。 伏見稲荷大社は紀氏の土地を奪っただけでなく、紀氏の神まで奪っていたのでは? 和歌山県有田氏の糸我稲荷神社が最古の稲荷社だともいわれています。 参照/ 藤森神社 紫陽花 『紀氏の祖神を祀る寺』 伏見稲荷大社 田植祭 『伏見稲荷大社に紀氏の神が鎮座していた!』 東寺⑥秦伊侶具とは空海をモデルとして創作した人物?空海は東寺建設のために稲荷山から木を伐りだしています。 高さ54.8mの東寺の五重塔。 その心柱とするのに適切な木材が稲荷山にしかなかったので、空海は稲荷山を欲したのではないでしょうか。 ②の創建説話では紀州の神に鎮まってもらったのは823年となっています。 それ以前には紀氏の神を祀る神社があったはずです。 ①の創建説話では秦伊侶具は711年に矢を射たとありますが、これはウソっぽいです。
空海の俗名は佐伯真魚といいます。 そして①の創建説話に登場する秦伊侶具は「はたのいろぐ」と読みますが、「はたのうろこ」とルビをふってある文書もあります。 さらに空海は秦氏だとする説もあります。
私は秦伊侶具とは空海をモデルとして創作した人物ではないかと思います。
空海は佐伯真魚で『魚』なので、そこからイメージして伊侶具(うろこ)という名前にしたんだったりして?
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[2017/03/29 00:00]
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京都市 大豊神社 2015年3月下旬 撮影
しだれ梅としだれ桜の競演に出会ったー。 ①大国主に「穴に隠れろ」と教えたネズミ大豊神社境の大国社には狛ネズミさんがいます。 記紀に大国主とネズミのこんな話があります。 大国主は兄たちにいじめられて二度死にましたが二度とも生き返りました。 大国主の母は「ここにいたらまた兄たちに殺されてしまう」と大国主を木国のオオヤビコのもとにいかせました。 兄たちはオオヤビコのところまで大国主を探してやってきたので、オオヤビコは木の股から大国主を逃がしました。 そして大国主に「根の国のスサノオのところへ行くように」と言いました。 根の国でスサノオは大国主にいくつかの試練を与えました。 蛇がいる室に寝させたり、百足と蜂のいる部屋に寝かせたり。 いずれもスサノオの娘・スセリヒメが大国主を助けてくれました。 次にスサノオは野原に落ちている鳴鏑を拾ってくるようにと大国主に命じました。 そして大国主が野原に入ると野に火を放ちました。 大国主のもとにネズミが現れて「内はほらほら、外はすぶすぶ」(穴の内側は広い、穴の入り口はすぼまって狭い)といいました。 大国主がその場を踏むと穴の中に落ち、火に焼かれずにすみました。大国社に狛ネズミが置かれているのは、この物語にちなむものなのでしょう。 ②ネズミの落とし穴?東京都北区七社神社裏貝塚の縄文後期ごろの土坑の中から大量のネズミの骨が出土しています。 土坑とは発掘調査をした際に見つかった人為的に掘られた穴のことで、目的がはっきりしないもののことをこう呼んでいます。 その土坑からは魚の骨や貝殻なども廃棄されています。 ということは、ネズミの骨は、食べたのち捨てられたネズミなのでしょうか? それにしては、全身の部位が残っているものが多く、焼いた形跡もありません。 まさか、縄文時代の人々はネズミを生でかぶりついていた? この土坑はネズミの落とし穴だったのではないかとも考えられています。 昔からネズミは田畑や家の中に出没しては食料品を食べたり、柱をかじったりするので嫌われており、駆除されていた可能性が大です。 古にはこのようなネズミの落とし穴を作る習慣があり、それでネズミが大国主に穴に隠れろと教えたという話が作られたのではないでしょうか? ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2017/03/27 00:00]
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大阪府泉南市 金熊寺 信達神社 2012年3月中旬 撮影
①金峯・熊野の神を祀る寺
金熊寺は、役の行者(634?ー701?)が創建したと伝えられています。 隣にある信達神社は古くは金熊寺大権現宮といい、金熊寺の鎮守でした。 信達神社昔、海岸にたどりついた神武天皇の像を祀ったのが始まりで、 682年に役小角が金峯・熊野の神を勧請して本殿に合祀したと伝わります。 ②金熊寺は金峯山と熊野三山からとった?金峯とは吉野にある金峯山のことだと思います。 金峯山寺は役行者を開基とする神仏習合の寺院です。 金峯山寺 蔵王堂熊野には熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)があり、やはり修験道が盛んでした。 おそらく金熊寺という寺名は金峯・熊野からとったのでしょう。 そういえば、熊野三山はお詣りしたことがないなあ~。 近いうちに行ってみたいです。 ③なぜ梅が植えられたの?300年ほど前、信達神社の神主・矢野氏に「この地に梅樹を植えると神領益々隆盛となる」のお告げがあり、矢野氏一族によって白梅をメインに2000本の梅が植えられたといいます。 ここに梅が植えられたのは、熊野が紀州(和歌山県)にあることと関係がないでしょうか。 紀州といえば南高梅が有名ですね。 紀州で梅が栽培されるようになったのは、江戸時代とされます。 紀州藩田辺領の農民がやせ地は免租地(租税の一部または全部を免除する土地)となるということで、梅の栽培を始めたといいます。 金熊寺周辺で梅が栽培されるようになったのは300年ほど前ということですから、江戸時代ですね。 紀州藩田辺領と同じく、租税の免除を狙ったのではないでしょうか。 それを神様のお告げがあったなんぞと表現したのでは? ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2017/03/23 00:00]
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大阪市中央区 大阪城 2011年3月撮影
太閤さん(豊臣秀吉)の城と親しまれている大阪城
①豊臣秀吉は重瞳だった?大阪城 花水木 『六本指の秀吉が指を切断しなかった理由』 ↑ こちらの記事で、豊臣秀吉は六本指であったと書きました。 それだけでなく、豊臣秀吉は重瞳だったという話もあります。 重瞳とは目の中に複数の瞳があることをいいます。 多瞳孔症とか多瞳孔というそうです。 ケースによってはものが二重に見えたりすることがあり、そういう場合は手術をする必要があるということです。 だけど下の動画を見ると美しいです♡ 動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。 ②瞳孔膜遺残上の動画の4:10あたりでミケランジェロのダビデ像のアップが登場します。 ダビデの瞳、とてもキュートなハート形です。 瞳孔膜遺残と説明されています。 http://blog.sannoudaiganka.jp/?eid=140621こちらのブログによると 胎児が眼球を形成していく過程では瞳孔は膜でおおわれており、だんだん萎縮して消失するが、ときどきこの瞳孔膜が残ってしまうことがあるということです。 また、世の中でもっとも多い先天異常だとあります。 ③貴人の相古代の中国では重瞳は貴人の相とされていたみたいですね。 豊臣秀吉のほか、平清盛、源義経も重瞳だったと記した書物があるそうです。 中国で重瞳は貴人の相とされているのをうけて、事実ではないが、豊臣秀吉・平清盛・源義経らを重瞳であるという設定で物語を描いたと考えられています。 それとも、ダビデのように瞳孔膜遺残だったのかも? ④蒼頡(そうけつ)と方相氏中国の重瞳の貴人のひとり、 倉頡(そうけつ)の肖像画を見てみましょうー。 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/34/Cangjie.png よりお借りしました。 作者のページを見る [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で 倉頡(そうけつ)は漢字を発明したとされる伝説上の人物で、 重瞳四目といわれます。 帝舜・項羽も四つの目で描かれるそうです。 これ ↓ に似ていますね!  吉田神社の鬼やらい神事に登場する方相氏です。 吉田神社では方相氏は赤鬼・青鬼・黄鬼と闘いますが、平安時代の節分に鬼は登場しません。 平安時代の節分の日には、方相氏がシン子を従えて『鬼やらい」といいながら宮中を練り歩いていたようです。 ③方相氏は体内に冬の気をすいこんだあと矢で射られた。大江匡房の『江家次第』には『殿上人長橋の内に於いて方相を射る』と記されています。 方相氏の恐ろし気な風貌が鬼と混同されたなどといわれますが、そうではないと私は考えます。 竹田恒泰さんが「雛人形は厄を吸い込むものだった」とおっしゃっていましたが、その通りだと思います。 方相氏も雛人形と同じように厄と言うか、冬の気、鬼の気のようなものを吸い取る役割を担っていたのでしょう。 そして、体いっぱいに冬の気、鬼の気を吸い込ませたあと、方相氏ごと矢で射て冬の気・鬼の気を退治してしまうということだったのではないかと想像します。 方相氏はみがわり人形のようなものだったのだと思います。 ④方相氏は2体の牛が合体している?さて、方相氏はなぜ四ツ目なのでしょうか。 以前、ネットで以下のような内容の記事をよみました。今、ぐぐっても見つからないのですが~。(すいません!) (い)方相氏は中国の天神、蚩蚘(シュウ)ではないか。 (ろ)蚩蚘は炎帝神農氏の子孫であり、兵器を発明し、霧をあやつる力を持つ神。 (は)『帰蔵』は蚩蚘の姿を『八肱(八つの肘)、八趾(八つの足)、疏首(別れた首)』と記す。 (に)『疏首』というのは、首が二つあるということだ。 (ほ)蚩蚘とは二頭の獣が合体した神ではないか。 (へ)そう考えると蚩蚘が『八肱(八つの肘)、八趾(八つの足)』をもっていることの説明もがつく。 (と)『述異記』には『銅の頭に鉄の額、鉄石を食し、人の身体、牛の蹄、四つの目、六つの手を持つ』とある。 (ち)『四つの目』とあるのも二頭が合体しているのだろう。 (り)二頭を合わせると足は8本だが、人の体をしているので、8本の足のうち2本が脚で、残りの6本が手(腕)ということだろう。 すばらしい! 『述異記』に『牛の蹄』とあるので、蚩蚘や方相氏は2頭の獣が合体しているのでしょう。 ⑤蚩蚘や方相氏は聖天さんと習合されている?私は蚩蚘や方相氏は聖天さんと習合されていると思います。 待乳山聖天では聖天さん(大聖歓喜天)をお祀りしています。 聖天さんとは像頭をした男女双体のみほとけです。 動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます! 聖天さんには次のような伝説があります。
インドのマラケラレツ王は大根と牛肉が大好物でした。 牛を食べつくすと死人の肉を食べるようになり、死人の肉を食べつくすと生きた人間を食べるようになりました。 群臣や人民が王に反旗を翻すと、王は鬼王ビナヤキャとなって飛び去ってしまいました。 その後ビナヤキャの祟りで国中に不幸なできごとが蔓延しました。そこで十一面観音はビナヤキャ女神に姿を変え、ビナヤキャの前に現われました。女神は『仏法を守護することを誓うならおまえのものになろう』と言い、ビナヤキャは仏法守護を誓いました。 つまり、聖天さんとは鬼王ビナヤキャ(=マラケラレツ王)とビナヤキャ女神(十一面観音の化身)の男女双体のみほとけなのです。 上の動画をもう一度見てください。 相手の足を踏みつけているほうが、十一面観音の化身ビナヤキャ女紳です。 ⑥御霊・和霊・荒霊と男神・女神
神はその表れ方によって御霊・和霊・荒霊に分けられるといいます。 御魂・・・神の本質 和魂・・・神の和やかな側面 荒魂・・・神の荒々しい側面そして和霊は女神、荒霊は男神だとする説があります。 とすれば御霊は男女双体ということになると思います。 御霊・・・神の本質・・・男女双体 和魂・・・神の和やかな側面・・・女神 荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神⑤にあげた聖天さんの伝説は、この御霊・和魂・荒魂をあらわしたもののように思えます。 御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体(聖天) 和魂・・・神の和やかな側面・・・女神(ビナヤキャ女神) 荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神(ビナヤキャ)
蚩蚘や方相氏、中国の倉頡・帝舜・項羽、日本の豊臣秀吉・平清盛・源頼朝らが重瞳とされるのは、 彼らがもともとは荒魂であったが、女神(和魂)と結合して御霊となったと考えられたためではないでしょうか。 そして彼らが貴人と考えられるのは、彼らが御霊であるからではないかと思います。 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 にほんブログ村 にほんブログ村
[2017/03/21 00:00]
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京都市東山区 雲龍院 2016年3月3日 撮影
 ①謎々掛軸
泉涌寺の塔頭・雲龍院にはこんな ↓ 掛け軸があります。 この二点の掛け軸はいずれも謎々なのだそうです。
②謎々その1
まずは向かって右側の掛け軸の謎解きから。 「ち」が五つ→ちご(稚児) 「も」が五つ→いつも 「の」が三つ→のみ(飲み) 「た」が八つ→たや つなげて読むと、「ちごのさけいつものみたや(稚児の酒いつも飲みたや)」となります。
③謎々その2 次に向かって左側の掛け軸を考えてみましょう~。
a.「林下祖師半身」は「林の下に祖師が半身を現す」と読みますが、林の下の漢字は「祖」です。 「祖」は分解すると「示」と「且」に分かれます。 この「祖」が半身を表すので「示」のみをとります。 すると、「林」+「示」で「禁」となります。
b.「水辺尊者頭脚隠」は「水辺で尊者が頭と脚を隠す」と読みます。 「水辺」はさんずい(氵)、「尊」の頭は「2つの点」、脚は「寸」なので、尊からこれらをとると「酉」です。 「氵」と「酉」を合わせると、「酒」になります。
a=禁、b=酒で「禁酒」となります。
③稚児灌頂♡
これね~、単に酒を飲むなという意味ではないと思うんですよ。 BLのことばっかり考えてるスケベ―だからそう思うのかもですが~(汗)
稚児というのはもともとは子供という意味ですが、寺院で稚児といえば少年修行僧のことをいいました。
少年修行僧は、僧侶の男色の相手も務めていました。(汗)
天台宗でははじめて僧侶の相手をする稚児に対し、初夜の直前に稚児灌頂(ちごかんじょう)という儀式が行われていました。 この儀式を受けた稚児は観音菩薩の化身であるとされ、僧侶はこの稚児灌頂を受けた稚児とならば交わることが許されていたのです。
「稚児の酒いつも飲みたや」とは「稚児を抱きたい」と言う意味で、「禁酒」は「稚児を抱いてはならない」という意味だったりして?
④僧侶はなぜBLに走ったのか?
僧侶は女性との性交が禁じられていたため、稚児との男色に走ったのではないかといわれますが 私は僧侶の男色は呪術的なものであったのではないかと考えています。
9月9日は重陽の節句ですが、700歳の長寿を得た菊滋童の伝説にちなみ、菊酒を飲んだりする習慣があります。
周の穆王が寵愛していた少年・菊慈童は、あるとき誤って帝の枕の上を超えてしまい、レッケン山に流刑となりました。 穆王は菊滋童に観世音菩薩 普門品というお経にある「具一切功徳慈眼視衆生、福聚海無量是故応頂禮」を毎日唱えるようにと言いいました。 菊慈童がこれを菊の下葉に書きつけたところ、菊の下葉の露が不老長寿の薬となりました。 そしてそれを飲んだ菊滋童は700歳の長寿を得ました。
菊滋童が穆王の枕を超えた、という点に注意してください。 穆王は菊滋童を寵愛していたとありますが、これは単に「かわいがっていた」という意味ではなく、「BLの関係にあった」ということでしょう。(きゃー♡)
で、陰陽では男は陽、女は陰です。 ♂と♂が重なることはまさしく重陽だといえるのではないでしょうか? つまりBLは長寿の妙薬ということだと思います。 僧侶たちがBLに走ったのはそのためではないでしょうか?
法輪寺 菊滋童の舞
⑤菊はBLの象徴だった?
薔薇族という言葉は1971年に創刊されたそっち系の雑誌の名前が薔薇族とかいうところからくるみたいですね。 古には菊がBLのシンボルだったと思います。菊門とかいう言葉もあるしな~。 と思ったら庭の砂で菊が描かれていました!
そういえば、雲龍院は皇室と関係の深い泉涌寺の塔頭でした。 皇室の紋といえば菊ですね。 あれれ?皇室の象徴ってBLなの?
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[2017/03/19 00:00]
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京都府長岡京市 長岡天満宮 2017年3月中旬撮影
長岡天満宮
①長岡京遷都と藤原種継暗殺事件784年、桓武天皇は平城京から長岡京に遷都しました。 785年、長岡京で造宮使の藤原種継が暗殺されるという事件がおきました。 取り調べの結果、大伴継人、佐伯高成らが事件に関与したとされ、斬首されました。 万葉集の編者として知られる大伴家持はこの事件の首謀者であるとされました。 大伴家持は藤原種継暗殺事件がおこる約一か月前に亡くなっていたのですが、墓を掘り返して死体を流罪としています。 えげつない~。 また桓武天皇の同母弟の早良親王もこれに関与したとされ、長岡京の乙訓寺で幽閉されました。 早良親王は無実を主張してハンガーストライキを決行し、淡路に流罪となる途中の船上で憤死したと伝わります。
乙訓寺
②早良親王、怨霊になる!早良親王の死後、桓武天皇の后・藤原旅子・藤原乙牟漏・坂上又子、桓武天皇の母親(早良天皇の母親でもあります。)がら相次いで病死。 また桓武天皇が皇太子とした安殿親王が発病しました。 これらは早良親王の怨霊の祟りであるとされました。 長岡天満宮前にある八条ヶ池 ③桓武天皇、わずか10年で長岡京を棄て、平安京へ遷都。桓武天皇は早良親王の霊を慰霊するため、何度か儀式を行いました。 しかしその効果なく、大雨で川が氾濫する事件がおきます。 桓武天皇「弟よ、これだけ慰霊してもまだ祟るのか!」 和気清麻呂「天皇、もうこれ以上長岡京にいることはムリです。長岡京は怨霊の住み着く都になってしまったのです。遷都いたしましょう!」 桓武天皇「でも、まだ遷都して10年だし~、お金もないし~」 和気清麻呂「お金なら秦氏が出すと言っておりますので」 桓武天皇「するする!遷都する!今すぐする!」 てなことで、桓武天皇はわずか10年で長岡京を棄て、平安京へ遷都したのでした。ベンベン。 長岡天満宮前にある八条ヶ池 ④菅原道真、怨霊になる。時は流れて901年、右大臣だった菅原道真は藤原時平の讒言によって大宰府に流罪となり、903年に大宰府でなくなりました。 その後、都では疫病が流行し、醍醐天皇の皇太子が次々に亡くなるなどしました。 そしてこれらは菅原道真の怨霊の仕業だと考えられ、道真を慰霊するため、各地に天満宮が作られました。 長岡天満宮もそうした天満宮のひとつです。 菅原道真は現在では学問の神として受験生から厚く信仰されていますが、もともとは怨霊だったのですね。 怨霊は神として祀り上げるとご利益を与えて下さる神に転じるという信仰があったようで、それで道真は怨霊から学問の神へと転身したのだと思います。 八条が池 トランペットの練習をしている方がいて「ムーンリバー」や葉加瀬太郎さんの「ひまわり」などを演奏してくれたので とてもすてきな撮影タイムになりました♪ ありがとう~。⑤長岡天満宮は長岡京の裏鬼門封じの神社だった?
長岡天満宮は長岡京の南西のはずれに位置していたとされます 。
東北は鬼門、南西は裏鬼門です。 鬼門とは鬼が出入りする方角です。裏鬼門も鬼門同様縁起の悪い方角とされていました。 平安京から見て東北には蝦夷、南西には隼人というまつろわぬ民が住んでいました。 それで鬼門と裏鬼門は忌まれたのではないかと思ったりします。 また、道真が亡くなった大宰府や、早良親王が流刑になった淡路島も平安京の南西にありますね。 (早良親王は淡路へ向かう船上でなくなりましたが、そのまま淡路島に運ばれ葬られたようで、淡路島に早良親王の墓があります。) 長岡天満宮は長岡京の裏鬼門封じの神社として作られたのではないでしょうか。 長岡天満宮は長岡天神の文字の西、緑色の部分です。 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2017/03/18 00:54]
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岐阜県下呂市 下呂温泉 2017年2月下旬 撮影 ①下呂温泉の白鷺伝説
下呂温泉は天歴年中(947~957年)に温泉が湧き出たとされますが、1265年、温泉が出来なくなってしまいました。 翌年、飛騨川の河原に白鷺が舞い降りると、再び温泉が湧き出るようになりました。 ②源義平の狒々退治伝説
下呂温泉近くの金山町祖師野には源義平の伝説も残されています。
昔、祖師野村(岐阜県下呂市金山町祖師野)に狒々が現れては村の若い娘を食べてしまっていました。 1159年、源義朝の嫡男、源義平(頼朝・義経の兄)が集兵のため祖師野村を通りかかり、村人たちを可哀想に思って狒々を退治しました。 村人たちは源義平が狒々を倒して残していった太刀を「祖師野丸」と名づけ祖師野八幡宮で大切に保管していました。 200年ほどのちに、隣村の代官がその太刀を持ち出すと、村に天変地異がおき、神社に戻すとおさまりました。
③岩見重太郎の狒々退治伝説どこかで聞いた話だなあ? そうそう、大阪の野里住吉神社では岩見重太郎(薄田兼相)が狒々退治をしたという伝説があるんでしたね! 参照/ 野里住吉神社 一夜官女祭 『岩見重太郎の狒狒退治伝説』 野里住吉神社 一夜官女祭 (少女たちは狒々にささげられる人身御供です。) ④日本の伝説には似たような話が多い日本の伝説・民話には似たような話で、登場人物が入れ替わっているケースがよくあります。 たとえば琵琶湖の瀬田の唐橋で藤原秀郷が大百足を退治したという話がありますが 男体山には猿丸が大百足を退治したという話があります。 源義平の生没年は1141年~1160年、岩見重太郎の生没年は?年~1615年です。 しかし言うまでもないことですが、どちらの伝説が先にできたのかはわかりません。 岩見重太郎の伝説ができたのちに、この伝説をベースにして源義平の伝説が作られた可能性もあります。 この河川敷に噴泉池(露天風呂)がありました。 オールヌードで入浴されている方がたくさんおられたので写真は撮らなかったんですが(笑)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Gero_Spa_Kawararoten.JPG
↑ こちらに写真がありました。
⑤親の仇討ちと狒々
岩見重太郎と源義平には共通点があります。 【岩見重太郎】 岩見重太郎の父親・岩見重左衛門(小早川隆景の剣術指南役)が広瀬軍蔵に殺されため、重太郎は仇討ちをするため各地を旅しました。 旅の途中、狒々退治をするなどし、1590年、天橋立で広瀬軍蔵を討ちました。 その後、叔父の薄田七左衛門の養子になりました。 【源義平】 源義平の父親・源義朝は1160年に長田忠致に殺されています。 このとき源義平は飛騨で兵を集めていましたが、義朝が殺されたことが伝えられると、その多くは逃げ去ってしまいました。 源義平は自害しようと考えましたが、自害するくらいなら平清盛か平重盛と相討ちしようと京へ向かいました。 石山寺に潜んでいたところ、難波経房の郎党に生け捕られ、六波羅で清盛の尋問を受けます。 源義平は難波経房に「上手く斬れ。まずく斬ったら喰らいついてやる」と言いました。 難波経房が「首を斬られた者がどうして喰らいつけるのか」と問うと、「雷になって蹴り殺してやる」といいました。 こうして義平は20歳で斬首されました。 8年後、難波経房は清盛のお伴をして摂津の布引の滝を訪れたとき、雷に打たれて死にました。岩見重太郎と源義平はどちらも親の仇討ちをしようとしていますね。 岩見重太郎が仇討ちを果たしたのに対し、源義平は仇討ちを果たせず亡くなってはいますが。 どうやら、親の仇討ちをする際には、まず狒々を倒さなければいけなかったようですね。 ⑥岩見重太郎は陽、源義平は陰また、岩見重太郎と源義平には刀という共通点もありそうに思えます。 岩見重太郎は刀で親の仇を討ち取っています。 そして①の伝説では、源義平は「祖師野丸」という太刀を祖師野八幡宮に残していったとありますね。 ④の 【源義平】では義平は飛騨で兵を集めていたと書きましたが、飛騨とは現在の岐阜県あたりで、下呂市も飛騨に含まれます。 つまり、源義平は祖師野村(岐阜県下呂市金山町祖師野)で狒々退治をしたあと、仇討ちをするため京に向かったと思われますので、太刀をもたずに京へ向かったということだと思います。 実際には刀は持っていったでしょう。 あくまで伝説に基づいて考えるとそうなる、ということです。 岩見重太郎は刀を持っていたので親の仇討ちをすることができた。(陽) 一方、源義平は刀を置いていったので親の仇討ちをすることができなかった。(陰) ということなんじゃないかと思います。 ⑦源義平はヤマトタケルのイメージと重ねられた?私は源義平はヤマトタケルのイメージと重ねられていると思います。 ヤマトタケルは草薙の剣を持たずに伊吹山に行き、素手で白い大猪と闘ったと記紀には記されています。 白い大猪は伊吹山の神で、大氷雨を降らせました。 そのためヤマトタケルは病を患って伊吹山を降り、大和に戻ろうとしましたが力尽き、能煩野(三重県亀山市)で亡くなってしまいました。 その地にヤマトタケルのための陵が作られましたが、ヤマトタケルは白鳥となり大和をめざして飛び去りました。
白鳥とはスワンのことではなく、白い鳥の意味だと言われます。 白鷺も白鳥だということになります。 あれ? ①下呂温泉の白鷺伝説をもう一度読んでみてください。 この伝説に登場する白鷺って、ヤマトタケルとイメージが重ねられた源義平のことでは? 縄文橋※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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ありがとうございました!
[2017/03/16 00:00]
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「発見上手」という雑誌に写真を掲載していただきました。 声をかけてくださったNさん、そのうえ、ケーキまでごちそうになっちゃって、お土産にお菓子までもらっちゃって ありがとうございました! (「発見上手」という雑誌は三井住友信託銀行さんが顧客の方に配布されている雑誌で、一般書店などには置かれていません。) ブログ記事・ 若狭神宮寺 お水送り 『お香水とは水銀のことだった?』 の、この写真 ↓ を見て、声をかけてくださいました。 下に観光客の頭やスマホのあかりが写っていたので、うるさいかなと思って、横長のトリミングにしていたんですが トリミングしない状態で掲載していただきました。 見開きだったので嬉しかったです。 う~ん、トリミングしないほうがよかったですね。 Nさんのおかげで勉強になったーーー。ありがとうございました。 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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ありがとうございました!
[2017/03/15 00:01]
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