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法隆寺 追儺式 夢殿のお水取り 『法隆寺追儺式とお水取りは一連の行事?』 


奈良県斑鳩町 法隆寺
追儺式・・・2月3日


法隆寺 夕景 

①法隆寺追儺式の撮影は難しい!


法隆寺の追儺式は西円堂の周囲に金網をめぐらせて行われます。
なぜ金網をめぐらせるのかというと、法隆寺の追儺式では鬼が手に持った松明を投げるのです。
投げた松明が参拝者に当たると危ないので、お寺が配慮して金網を設けてくださっているのだと思います。

安全が第一なので文句を言うつもりはないんですが、金網がはってあると、ストロボが使えません。
ストロボたくと、金網が真っ白に写ってしまい、金網の向う側で行われている追儺式のようすが写らないんです。

また人が多いので当然三脚は禁止です。
その上、鬼の動きが速いので感度をISO12800まであげてもブレブレに~。

ですが、撮影するのが難しい被写体ほどリベンジに燃えるよね~。

そんなわけであんまりいい写真はないけど、掲載させていただきます。(汗) 

法隆寺 追儺式 青鬼

金網を消す方法ないかなあ?(いい方法があったら教えて~)

②毘沙門天が登場する追儺式


興福寺 追儺会 『大黒天は日本版サンタクロース?』 
↑ こちらの記事に、毘沙門天が登場する奈良の追儺式は修二会の行事ではないかと書きました。

法隆寺の追儺式にも毘沙門天が登場します。

法隆寺 追儺式 毘沙門天   
毘沙門天

③修二会にルーツを持つ追儺式


修二会といえば、東大寺二月堂のものが有名ですね。

二月堂 お松明 
東大寺 二月堂 修二会 お松明

修二会の松明は童子と呼ばれる人によって振り回されますが、童子と鬼は関係が深そうに思われます。
というのは、酒呑童子・茨木童子などの鬼が童子と呼ばれているからです。
また「鬼の子孫」を称する八瀬の人々も「八瀬童子」と呼ばれています。

そして法隆寺の修二会の行事のひとつ、追儺式では鬼が荒々しく松明を振り回して放り投げます。
これは東大寺二月堂修二会で童子が行うお松明行事と同様のものではないでしょうか?

法隆寺 追儺式 緑鬼 

③法隆寺の七不思議


法隆寺には七つの謎があるとされ、法隆寺七不思議といわれています。

①五重の塔の大鎌。
②大湯屋表門前、金堂内陣、経蔵内の三箇所に伏蔵がある。
③鯛石
④法隆寺の夢殿の礼盤の下は、いつも汗をかいている。
⑤雨だれの穴がない。
⑥蜘蛛の巣を作らない。雀が糞をしない。
⑦因可の池の蛙がうるさいので、聖徳太子が筆の先で片目をついたところ、すべての池の蛙が片目になった。
 
 
⑥については法隆寺 夕景 『法隆寺の七不思議 雀が糞をしない』 
⑦については法隆寺 夕景と柿 『法隆寺の七不思議② 因可の池の蛙とは』 
で私流の謎解きをしましたので、一読いただけると嬉しいです。

法隆寺 追儺式 赤鬼2

④法隆寺のお水取り

えー、法隆寺七不思議の④に「夢殿の礼盤(らいばん)の裏は汗をかいている。」というのがありますね。

これに関連する行事が、法隆寺追儺式から8日目の2月11日に行われています。
朝の8時くらいから始まるそうですが、早起きが苦手なので、見学したことがありません。(またしても汗)

礼盤とはお坊さんが座る台のことです。
夢殿の礼盤が置かれた畳の下に正方形の板があり、これを日光に当てると、板の裏に水分があふれ出るというのです。
そしてこの水分によってその年が豊作か凶作なのかを占うのだとか。

この行事は「お水取り」と言われています。

 法隆寺 追儺式 赤鬼

⑤法隆寺お水取りは修二会の行事?

私は法隆寺のお水取りは2月3日の追儺式に続く修二会の行事ではないかと思います。

というのは、東大寺二月堂の修二会の行事の中にもお水取りの行事があるからです。

3月2日、福井の鵜の瀬で「お水送り」といって、お香水を流す行事が行われます。
鵜の瀬と二月堂若狭井は地下でつながっているといわれ、鵜の瀬で流したお香水は10日で二月堂若狭井に届くと言われています。
そして3月13日の午前1時半ごろ、二月堂の閼伽井屋で、鵜の瀬から送られたお香水をとる『お水取り」の行事が行われます。

お水送り 鵜の瀬

鵜の瀬 お水送り

⑥法隆寺の「お水取り」はいつ始まったの?

東大寺二月堂の修二会がはじめておこなわれたのは751年(『二月堂縁起絵巻』1545年による)ですが、法隆寺の修二会がはじめられたのは1261年とされています。

ですがこのとき、夢殿は開扉されていなかったはずなんです。
夢殿の御本尊・救世観音は長年絶対秘仏とされており、夢殿の扉を開くと大地震がくると言い伝えられていて、長年扉があけられていなかったのです。
その夢殿の扉が開かれたのは、1884年、岡倉天心とフェノロサによってです。

法隆寺の「お水取り」は夢殿の救世観音像の前にある礼盤にたまった水を取る行事なので、実際にこの行事がはじめられたのは、夢殿を開扉した1884年以降(明治17年)以降なのではないでしょうか。

しかし法隆寺七不思議は江戸時代からあるといわれています。
これが正しければ、法隆寺の夢殿の礼盤の下は、いつも汗をかいている。」という伝説そのものは夢殿開扉前よりあり
この伝説に基づいて「お水取り」行事は1884年以降に行われるようになったと考えることができるかもしれません。

また、法隆寺七不思議のひとつ
法隆寺の夢殿の礼盤の下は、いつも汗をかいている。」 
は、1884年以降に付け加えられたとか、法隆寺七不思議そのものの成立が1884年以降であるとも考えられます。

あるいは、夢殿が開扉する以前には、別の場所でお水取り行事を行っていた可能性もありますね。

法隆寺 追儺式 青鬼 




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[2017/02/09 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)