奈良市中院町 元興寺
節分会・・・2月3日
①妖怪・元興寺(がこぜ)
『日本霊異記(822年ごろに成立)』に元興寺を舞台とする次のような話が記されています。
敏達天皇(在位572-585)の頃、尾張国阿育知郡片輪里(現・愛知県名古屋市中区古渡町付近)の農家に、雷神が落ちてきました。
雷神は『命を助けてくれるならば雷神のように力強い子供を授けよう。』と言ったので、農夫は雷神を殺さずに、空へ返しました。
しばらくして農夫の妻が子供を産みました。
その子供の頭には蛇が巻きついていました。
成長した子供は元興寺の童子になりました。
元興寺では童子たちが鬼に殺される事件が頻繁におきていました。
頭に蛇が巻き付いた童子は鐘楼で待ちぶせていると鬼が現れました。
童子は鬼の髪の毛を掴んで引きずり回しました。
鬼は髪をむしりとられ、あたふたと逃げていきました。
童子は追いかけましたが、鐘楼の北東の辻子の辺りで鬼を見失いました。
童子は鬼が急に姿を消したことを不審に思ったことから、この辻子は『不審ヶ辻子』と呼ばれるようになりました。
(元興寺の北東に不審ヶ辻子町という町名が残っています。)
しかし血痕が残っていたので、童子はそれを辿って行きました。
すると不審ヶ辻子の北東の鬼棲山の墓にたどりつきました。(現在の奈良ホテルのあたり)
それは昔元興寺で働いていた下男の墓でした。
鬼の正体はこの下男の怨霊だったのです。
鬼は『がこぜ(元興寺という漢字があてられる)』『がごじ』『ぐわごぜ」などと呼ばれる妖怪です。

②物語の矛盾点
この物語には矛盾点があります。
元興寺が飛鳥から奈良へ移転したのは718年。
またその前身である法興寺が建立されたのは587年の丁未の乱(蘇我馬子vs物部守屋の戦い)以降のことです。
ところが敏達天皇の在位は572年-585年なんですね。
伝説では敏達天皇の頃の話だとしていますが、そのころ奈良に元興寺はなかったのです。
あえて寺の創建年と時代の合わない天皇の御世の話だとしたのは、妖怪・元興寺の正体が、敏達天皇代の人物の怨霊であることを示唆しているのではないでしょうか?
③物部守屋
敏達天皇に仕えた人物に蘇我馬子がいます。
587年、蘇我馬子は廃仏派の物部守屋との戦いに勝利し、飛鳥に法興寺(飛鳥寺)を建てました。
さきほどお話ししたように、この法興寺が718年に奈良に移転して元興寺となったわけです。
また、馬子とともに戦った厩戸皇子(のちの聖徳太子)は『守屋との戦いに勝利したのは、四天王のご加護のおかげである。』として摂津国難波(大阪市天王寺区)に四天王寺を建立しました。
その四天王寺の境内、絵堂の横には、聖徳太子や蘇我馬子と戦って戦死した物部守屋を祀る社があり、守屋祠・願成就宮と呼ばれています。
四天王寺は聖徳太子が物部氏の土地を没収し、物部氏の部民を使役して建てられました。
そして四天王寺が完成したのは、これを守屋の霊が許し、また助けたためであるとされ、願いが成就できたとして、守屋を祀ったといわれています。
守屋祠が願成就宮と呼ばれているのはそのためです。
守屋祠は、人々が物部守屋の怨霊を大変怖れていたということを示すものだといえるでしょう。
人々が守屋を神として祀ったのは、人々が守屋の怨霊の祟りを畏れたためだと考えられるからです。
そして四天王寺と法興寺(飛鳥寺/のちの元興寺)はどちらも物部守屋との闘いに勝利したことをみほとけに感謝して建てられたお寺です。
●大物主神は物部氏の神?
現在の飛鳥寺(法興寺)には守屋を祀る神社は見当たりませんが、近所に飛鳥坐神社があって、ここに守屋の霊が祀られているのではないか、と私は考えています。
飛鳥坐神社の御祭神の一に大物主神がいます。
大物主神は正式名称を倭大物主櫛甕魂命といい、大神神社の御祭神でもあります。
そして物部氏の祖神であるニギハヤヒは先代旧事本紀によれば天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと) となっており、倭大物主櫛甕魂命と天火明櫛玉饒速日天照国照彦尊は『櫛』『魂(玉)』が同じなので、同一神ではないか、という説があります。
とすれば、大物主神とは物部氏の神だということになりますね。
そして大物主神は蛇神だとされており、大物主を祀る奈良県桜井市の大神神社には蛇の好物の玉子が供えられています。
鬼を退治した頭に蛇を巻いた童子もまた物部氏の神(霊)、物部守屋の霊なのではないでしょうか。

●妖怪がこぜの正体
神はその現れ方によって三つに分類されるといわれます。
頭に蛇を巻いた童子が和魂で、がこぜは荒魂、その本性である御魂は物部守屋なのではないでしょうか。
御魂・・・神の本質・・・・・・・物部守屋
和魂・・・神の和やかな側面・・・道場法師(頭に蛇を巻いた童子)
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・がこぜ
つまり守屋は自分で自分を退治したのではないか、ということです。
もちろん、『自分で自分を殺す』なんてことは普通はできません。
また物部守屋は自ら死を選んだのではなく、蘇我馬子や聖徳太子によって殺されたのです。(実際に守屋を矢で射たのは迹見赤檮)
『守屋が自ら死を選んだ』などというのは怨霊を畏れる人の自分勝手な考え方です。

火渡りは10年以上前にフィルムで撮影したものです。
最近はもっと炎を鎮めて火渡りを行っています。
②福は内 鬼は内
火渡り修行が終わると豆まきです。
豆まきではふつう「福は内、鬼は外」とかけ声をかけますね。
元興寺はちがいます。
「福は内、鬼は内」とかけ声をかけます。
元興寺のように「福は内、鬼は内」とかけ声をかける豆まきを行う寺社は他にも結構あります。
なぜ「鬼は内」とかけ声をかけるのでしょうか?
その理由はそれぞれの寺社によって異なるようですが、次のような理由があるみたいですね。
a.「鬼塚さん」のように、鬼の字のつく姓の人が近所に住んでいる。
b.鬼を祭神または神の使いとしている。
元興寺はbだと思います。
元興寺は妖怪・元興寺(がこぜ)を慰霊するための寺だと考えられるからです。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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